アメリカの社会学において、日本という対象はニッチである。その中でも少子化に絞ると、さらにニッチになる。もちろん、人口学では、日本を含む東アジアの少子化はホットなトピックである。
アメリカで日本の少子化の専門家をしてる巨匠は、私の認識では2人いる。一人はハーバードにいて、最近リタイアした。もう一人はプリンストンにいて、私の師匠である。
いま、友人でもう一人の巨匠を指導教員に持った人と論文を書いている。特集論文で、彼が日韓比較をしたいということで、連絡してきてくれた。
彼との共著で学ぶことはたくさんあるのだが、その一つに、巨匠たちが注目してたポイントの違いを感じることができたということがある。
ざっくりいうと、私の指導教員は少子化を考える上で結婚の役割を強調する。日本を含む東アジアの少子化は、基本的に結婚の遅れと減少がカギになるというのが、彼の考えである。この主張は全くもって正しい。例外は中国だろうが、中国は最近発展してきた国であり、その他の東アジア(日本、韓国、台湾、および香港やシンガポールも広義の東アジアである)は、どれも経済的に高所得である。これらの国では、結婚が重要と考える。
一方で、もう一人の巨匠の方は、結婚よりも(追加)出生自体に注目する。具体的には、職場環境が夫婦の分業にどのように影響するのか、あるいは分業を通じて、労働市場の変数が夫婦の追加出生力にどのように影響するのか、そういったことに関心がある。
東アジアでは結婚せずに子どもを持つ人が少なく、結婚は出生の前提条件である。したがって、結婚を飛ばして出生に向かうのは必ずしも首肯しない時はある。その意味で、私も師匠の考えに影響されているのかもしれない。
ともあれ、ひとまず巨匠同士のニュアンスの違いはそこにあるのだと改めて思った。そういうニュアンスの違いは話してたりして感じていたことではあったけれど、今は共著の形で論文に違いが現れているのが面白いところである。
プリンストンの巨匠は、結婚を見れば少子化はだいたいわかると考える。これに対して、ハーバードの巨匠は結婚だけではわからない少子化の要因に着目している。両方間違っていない、見てるポイントの違いである。そうした視点の違いは、弟子に受け継がれている。
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