December 10, 2017

プロ倫と自殺論の読後感

17時開始だったおかげで、20時前にはさっぱり解散した忘年会後に、モスでプロ倫を読む。

自殺論とプロ倫読んで、何が社会学的な視点なのだろうと考えた結果、ごくごく平凡に「個人と社会の接点を探る学問」なのかなと思った。それは例えば、一見個人的な事象に見える自殺が社会的なものであったり、資本主義社会の発展に、プロテスタント的な信念形成がどのように影響したかであったり。二つに共通する論点としては、やはり単位としての社会をどのように設定するのかが論証の出来を左右するような気がしている。

翻って自分の研究に落とし込んだ時、一見個人的な現象に見える結婚や出生を通じて、いかに、どのような社会が見えてくるのかが腕の見せ所なのかなと思った。

学部生みたいな感想だが、普段の研究からはこういう学部生みたいな感想が生まれる余地もないほど、「ちっさい」研究をしている(もちろん、それは経験的な知見を積み上げる際に必要な作業である)。

例えば、○○の規定要因系の論文を書くときに、例えば日本は男性稼ぎ主モデルで北欧は違うのでAのBに対する効果は異なるだろう、みたいな常識的な社会像を設定してしまうことがあり(それが楽といえば楽なのだが)、論文が書けることはあってもそのあとが続くのかはよくわからない。

ぼやっとした社会像を論文の中で巧く砕いてみせるのが、ウェーバーもデュルケムもうまいなという学部生並みの感想だが、あまり学部生からの同意はもらえないかもしれない。

「個人と社会の接点を探る」であったり、「社会を砕いてみせる」であったり、ある意味で個人と社会の間に関係性があることは常識的には自明だと思われるのだが、その自明性をひと枠飛び越えることで、それまで明示的にされてこなかった両者の関係が分かるのが良い研究なのだと思った次第である。

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