July 31, 2013

雑記


本論文の問題意識は,家庭という場面において,家族重視の規範の実践たる子どもへの教育と近代家族規範のもう一つの要素である性役割との関係を考察することにあった.そして,分析の結果と知見は,性役割規範のうち「男女違った子育て」が子どもの学校外教育支出を規定する要因であると示したことにある.しかし,問題意識に関心を持たず,性役割意識と家庭教育の実践の関係を検証するだけでも議論を組み立てることは可能である.さらに言えば,分析の結果が,当初の問題意識を充たすものか厳しいと映るかもしれない.これは二つ目の難点に関係する.本論文の主張である近代家族規範の中の構成要素同士が関係していることを示すのに,性役割意識のうちの一つ,すなわち「男女違った子育て」しか統計的に有意でなかったことは,ともすると仮説を棄却する根拠にもなり得るのではないかという指摘は大いに考えられる.家庭教育に対し,性役割規範の一つ「が」関係していたのか,一つ「しか」関係していなかったのか.どちらの解釈が妥当かどうか,ここでは判断できない.仮に,「しか」をとるとすれば,近代家族論の構成要素同士は独立に捉えることができる(つまり,関係がない場合も多々ある)と考えられるだろう.しかし,一つのデータの提示により関係がないことを示すのは,近代家族規範の構成要素同士に関係があるという仮説を棄却することに等しい.個人的には,これは近代家族論にはやや分が悪いと思う.なぜなら,常に構成要素同士が関係し合うことを想定する方の無理が大きいからだ.

(筆が止まったので以下はレポートには書いていない)
しかし,逆の解釈もまた難しい.つまり,関係があることをポジティブに捉える見方である.というのも,3節で述べたように家族重視の規範は具体的に何を指すのかは明らかになっていないからだ.厳密に考えると,性役割は行為を伴う規範(例えば,女性の性役割には,女性は家事育児が向いているなどのような行為が付随している)であるのに対して,家族重視の規範は行為を伴っておらず,そこにあるのは「動機」だけである.すなわち,なぜその行為が勧められるのかに対する理由付け(情緒的な家族を維持するためなど)があるにもかかわらず,近代家族の議論では,実際の行為に関してはブラックボックスになっていたのではないか.


【雑感】
社会学の理論で言われていることを仮説として実証しようとすると、往々にして否定される(ような気がする)。ただ、否定されるだけでは理論に分が悪い。理論を仮説として考えると,一回でも反証されたらお終い,ということになってしまうからだ.理論を仮説として提示して,それに対してデータで応答するという作業には,単なる仮説検証型の批判以外にも,もう一つの方法があるような気がする.上記の話を例えにするなら,関係があること(近代家族論自体は構成要素同士に関係があると明言はしていないが,逆に独立だとも言っていない.おそらく,相互に補い合っていると考えていたのだろうと思うが,分からない.ひとまず,関係があるという前提で議論を進めていたと考える)を評価しようとしても,片方の構成要素は動機だけにすぎず,具体的にどのような行為が近代家族規範と関わるのかについて分からなくなる.さらに,そもそも家庭教育と関係するところの男女違った子育てという意識が近代家族規範の構成要素なのかも怪しい.男女違った子育てだけならば,それは性役割意識の一つとして解釈ができるが,それは近代家族の維持という動機など持っているとは考えにくく,教育との関連では,単に「男らしさ」「女らしさ」を半ば無意識に実践していることに近いのではないか.
(若干無理があるが)このように考えると,データの分析は抽象的な理論の概念的再構成を促すことも可能なはずだ.理論を仮説として反証することも大切だが,理論への積極的なフィードバックも必要だろう.もちろん,反証が結果的にフィードバックになることも多々あるだろうけど.

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