今日の三限は駒場で山本先生の「社会学理論演習」のガイダンスを受けてきた。
そこでの印象的な場面について少し。
受講生の中に、芸大を出てデザイナーとなり、大学院に入ってきた女性がいた。山本先生が社会学を学部生のときにどれくらい勉強したかをほかの院生に聞いているときに、彼女が口を開く。
「自殺についてのポスターをデザインしてくれと頼まれたときに、どのようにデザインすればいいかについて、社会学者は有益な答えを一度もくれない」
要旨としては、そういうことだったと思う。自殺を止めるべきなのか、止めるとしたらどのような層に訴えればいいのか。そうした疑問について、社会学者は何も答えてくれない。
こうした専門家への懐疑は、少なくない学生が感じたことがあるのではないだろうか。そして、時間が経つにつれて、社会科学者は解決策を提示するためにいるのではない、そう自分に言い聞かせてはいないだろうか。
自分はその口で、大学に入ったはじめの頃から社会学を志していたが、その理由は「いろんな領域をカバーしているから」であり、「社会問題について解決策を提示できるから」だった。
現在、社会学を専門とする学生になったけれど、このような気持ちを失わずにいるかと言われると、正直自信がない。むしろ、社会学とは(というか、おおよその社会科学は)「どうしてそうなったか」は説明できても「どうすればそうなるか」は説明することができない、そう思っている。当たり前だが、自然科学と異なって、社会科学が対象とする領域はことごとく前提条件が異なるからだ。
しかし、彼女の主張には「そんなのできないのが当たり前」とは言えない。それは、彼女の「学者は社会が直面する問題を解決するべき」という考えは、(大学生として)若いときに自分が感じていた疑問と全く同じだったからである。
自分はなぜ彼女を主張を退けようとしているのか、自分で思ったことに疑問を感じる不思議な時間だった。
話は変わるが、最近、本郷での文学部生としての生活が始まり、駒場とは異なり先生が積極的に僕らに専門性を植え付けようとしていると感じることがある。専門性それ自体は必要なものであるし、ぜひとも身につけたい。(というか、そのために大学に来た)
けれども、不思議なことに、自分の欲しかった専門性を身につければ身につけるほど、社会学を志した動機から離れていく自分がいる。「いろんな領域をカバーしている」という魅力は「社会学概念の拡散」というマイナスなイメージに移り変わり、「社会問題を解決できる」という夢は、社会問題とは利害関係者によって構築された虚構にすぎないと主張により幻となる。
しかし、果たしてそれでいいのだろうか。(社説みたいで、なんか嫌だな)
手に垢のついた議論はさけたいが、関心を持つ領域の当事者には、彼女のように社会学に解決策を求める人もいる。自分も社会学にそのような役割を期待していた。しかし、相対主義的な立場に立つ社会学者にとっては、そのような主張はただのクレームになりかねない。つまり、社会学が社会的に要請されている役割は社会学者の問題意識とすれ違う場面があるのだ。
答えが簡単に出る訳ではないが、ひとまず社会学の役割は学者が考えるような側面に限らないと考えてみたい。やはり、当事者抜きの社会学はバベルの塔であり、「社会」の学にはなれない。かといって、それに浸るつもりもない。相対的な考え方は手法として有益なのだ。
自分がどちらにたつ、これは問題ではない。必要なのは、彼女のように社会学者に期待する人がいるということ、そうした期待を裏切らない範囲で、自分たちができることをうまく伝えていくこと。この両方にたった視点が必要なのだろう。
大学院を視野に社会学を勉強するものとして、「理論」を学ぶ前に冷や水を浴びせられたような気がしてよかった。目が覚めて、来週から演習に望む。
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