March 4, 2025

アカデミアは無償労働の玉手箱

 アカデミアは無償労働の玉手箱みたいなところがあり、サービスという名の下、金銭的対価のない仕事が大量に降ってくる業界です。私の元指導教員は、いつも誰かのテニュアレターを書いていました。シニアではない私もいっぱしの「サービス」はしていて、その最たる例は査読です。業界で定評のあるジャーナルであれば、投稿したことがなくとも基本的に断らずに査読するようにしていますが、最近は負担が増えてきたので、そろそろ断ろうかと思っています。

目に見える対価が発生しない業界なので、ビジネスライクになることが難しく、代わりにウェットな人間関係の中で互酬性の規範が発生しやすくなります。要するに、X先生には昔お世話になったので、その周りにいるYさんからのお願いは断らない、みたいな世界観です。

私も最低限は社会化されているので、村の掟には従います。したがって、知り合いの紹介によって生じる「仕事」は基本的に断らないようにしています(サービスはこの業界では仕事なので、知り合いの研究者からの依頼は「仕事」の一つです)。

人からの紹介に社会的な統制機能があることを知ってかはわかりませんが、先生の紹介で日本から学部生の方がわざわざボストンまで私を訪ねに来てくれる機会に、最近何度か恵まれました(正確には、私を訪ねにボストンまで来たわけは全くなく、ボストンまで来たついでに現地にいる人間として私に会いに来たという表現が適切)。

ご足労いただいたので、こちらも時間を作って会いますが、蓋を開けてみると聞かれるのは「どうやって英語を勉強されたのですか」「アメリカの博士課程に入るのは難しいですか」「そもそもなんで留学されたんですか」などです。

口が開いたまま答えに窮してしまうのは、私の心が狭いからなのでしょうか。やはり、ここは威勢の良い留学一年目の私に気分だけでも戻って、なにか気の利いたことを言えばよいのでしょうか。あるいはこれはアイスブレーク的な質問で、本質めいた質問はあとから来るのでしょうか。

個人的には、こういった質問は、大学を卒業してしばらく経った人に「大学に入るためにどうやって勉強したのですか」と聞くようなものだと思います。私もまだ若く見られていることに感謝すべきなのかもしれません。きっと私も若いときにはされた側からすれば「なんで今の私にそんなこと聞くの」と思われるような質問を数え切れないほどしたと思うので、因果応報なのかもしれませんが、これから一見して目的がわからない面会の連絡は断ったほうがいいのかもしれないなと思い始めました。

とはいっても、向こうからしたら特にメリットのないインタビューをたくさんしているわけでもあるので、こういうのも何かしらの還元だと思って引き受けたほうがいいのかもしれません。年を取れば自然とこうした連絡はなくなると思いますが。

February 3, 2025

近況

 先週の話になりますが、所属するHarvard Academyにて自分の研究を報告してきました。

私のポストは、2年間好きなように研究していればいいだけの福祉みたいなポスドクなのですが、唯一仕事があり、それが在任期間中に一度、自分の研究についてプレゼンするというものです。

普通のプレゼンであれば別に困らないのですが、Harvard Academyの伝統で、なぜか報告ではスライドは使用不可、配っていいのは5ページまでのハンドアウトのみ。これは通称「サロンスタイル」と呼ばれていて、Harvard Academyの伝統になっています。サロンスタイルなので、本当にサロンのように、周りが私の話に耳を傾ける、というスタイルなのです。

この時点で学歴エリート気取りが過ぎますが、その前後もちょっと普通の研究報告とは異なります。まず、会場はハーバードの懇親会が開かれるような、高級なホール。さらにトークは6時から始まるのですが、5時半から受付が始まり、その間は「レセプション」があります。お酒や軽食をつまみながら、参加者が世間話をするんですね。

6時から30分話して、30分質疑応答なので、トーク自体はそこまでの量にはなりません。ただ、スライドなしは不安で、アメリカに戻ってから2週間、ろくに英語を話してなかったこともあり、ノンネイティブにはちときつかったのですが、なんとか終えました。

これで終了、と思いきや、その後に待っているのは「ディナー」。約30名弱の人が招待されているのですが、7−8人が一つのテーブルにアサインされて、フレンチっぽいコースメニューを食べます。学歴貴族、ここに極まれり。ネットワーキングの機会ですね。

というわけで、個人的には報告だけでいいじゃん、と思うのですが、ひとまず無事終わりました。ジョブディスクリプション的には、このプレゼンだけで2年間の待遇が与えられるので、本当に貴重なポスドクの機会をいただけたと思います。

私の方で4人までゲストを招待できたので、ハーバードでお世話になっている人を誘いました。ダメ元でクラウディア・ゴールディンさんに招待状を送ったら本当にいらしてしまい、緊張度マックス(自業自得ですが)。ハーバードのポスドクが決まってから、知り合い経由で日本の難関大進学のジェンダー差について知りたいということで、メールをくれて、そこで一度やり取りをしていました。対面でしっかり話したのは初めてで、それも含めて良い機会になりました。


ディナーで一緒だった人と記念撮影

January 16, 2025

今年の抱負

今年の抱負を、と考えていたらいつの間にか今年の1/24終わってました。抱負というか目標ですが

1. 仕事を得る
選んだのは自分なので文句は言えませんが、ポスドクの任期が切れる来年には露頭に迷う可能性がリアルにあるので、時折そのことが頭によぎると、怖くなります。基本的にアメリカで就活をして、香港ほか英語圏を見ていくことになると思いますが、日本帰国を視野に入れるかが一つの問題で、先日日本に一時帰国をして、もう少し外から日本を見ていたい気になりました。

(冗談みたいに聞こえますが真剣に考えている話として)アメリカでアカデミアの仕事が取れなかったら、豆腐レストランを始めたいと考えています。豆腐はサラダにも使えるし、メインでもいいし、デザートにもなるし、下手したら麺にもなるので、万能です。ベジタリアン、ビーガンの人でも食べられるので、都市部の高学歴層には絶対ウケると思っています。味のいい豆腐を作るのがボトルネックだと思うのですが、それさえクリアできれば寿司、ラーメンに続く日本食第3の波を起こせる気がします、豆腐です、豆腐。結局アメリカといってもどこでもいいというわけではなく、東海岸あるいは中西部の都市、はっきり言えばボストンに住み続けたいので、そこに特化するのであれば豆腐レストランもアリじゃない?と真面目に考えています。豆腐作りを甘く見るな、というオチかもしれませんが。

2. 第二次人口転換の枠組みで東アジアの少子化を捉え直す
ここ最近は、もっぱら「日本の結婚」から「東アジアの少子化」に軸足を移しています。東アジアの少子化でもニッチなマーケットですが、人口学の大きな理論にチャレンジしようと思った時に、日本に当てはまることは東アジアにも当てはまるので、自分の研究の中では大風呂敷を広げることにしました。東アジアの少子化は、大きく分けて労働市場の変化と性別分業の二つが有力な説明だったのですが、どちらもstructuralな説明だということに昨年の後半くらいに気づきました。これに対して第二次人口転換は価値観変動に焦点を置いた説明で、東アジアの少子化を考える上ではフィットが悪いというのが定説なのですが、私の研究アジェンダでは、東アジアの少子化を理解する上で、価値観の役割を改めて俎上に上げることを目的にしています。このアジェンダに連なる論文がいくつかあり、そのうち一つはトップジャーナル向けです。関連して、少子化政策関連のサーベイ実験プロジェクトをいくつか走らせています。

夏以降には、「親密性」の概念に着目して、日英比較のインタビュー調査を始める予定です。ざっくりいうと、日本では友人のパートナーを知らなくても何も問題はないけど、欧米では友人のパートナーを知るのがノルム、そういった親密性をめぐる文化差があります。さらに都市部では日本や東アジアはシングルに対して非常に寛容なので、「一人で生きる」ことへのハードルが低いわけです。したがって、個人主義的な価値観が広まると、カップル文化が強い欧米ではパートナーはいるけど子どもを持たない人が増えるわけですが、カップル文化が強くない日本や東アジアでは、パートナーを持たないシングルが増えることで少子化になると考えています。この話はすでに山田昌弘先生が新書でエビデンスを出さずに長いこと議論されていましたので、私たちのプロジェクトはエビデンスを与える作業と言って差し支えないと思います。この「親密性をめぐる考えの日欧(米)比較」は、酒飲みトークとしては秀逸ですごく盛り上がるので、アカデミアの職が取れなかった豆腐レストランでこの話をすることにします。

もともとの関心だった「日本の結婚」の部分は、格差に焦点を置いて中公新書から「日本の家族格差」というタイトルで今年の出版を目指しています(5章構成で現在4章まで書きました)。

並行して同類婚の分析も細々続けていて、香港の同僚と進めているペーパーはトップジャーナルを狙っています。関連して日本の子育てにおける格差についても、この2年研究会をオンラインで組織していて、成果本を勁草書房から今年の後半に出す予定です。

3. 高校生の進路選択とジェンダーに関する本の出版契約を取り付ける
この数年、進学校の高校生にインタビューをしていました。関心があるのは男女の進路選択がなぜ、どのように分かれるのかです。共同研究の成果は今夏に大月書店から編著本で出る予定です。個人の研究としては、アメリカの大学出版会から出版契約をもらえたらいいなと思っています。インタビューの分析から、男女の進路選択の違いが、よくわかりました。従来だと、女性の方が浪人しない、親のバイアスがある、女性は偏差値より手に職、みたいな説明がなされてきて、それらは個別に重要な説明ですが、実際に進路を選択するかたりを見ていると、男性の進路選択は「偏差値が高ければ高いほどいい、自分で決めていいと思っている」モデルで、女性の進路選択は「偏差値も大事だけど、やりたいこと、将来の仕事、大学の魅力、家から通えるか、全て大切、そして周りにその選択を納得してもらいたい」モデルだと思います。男性の場合は「行くべき大学」の基準が均質的で、均質的なので男子はみな似たようなロジックで偏差値の高い大学を希望しがちですが、女子の場合は「いくべき大学」の基準が複層的で、単一の基準がないので、その選択が正当なものであることを周りから認めてもらうプロセスが加わります。だから親は介入しやすくなるし、女子の友達からきいの目で見られるような選択はしたくないように見えます。

そうして高校生に話を聞くうちに、入試制度の話に首を突っ込むことになり、現在は入試制度とジェンダーの関係、あるいは入試制度それ自体により注目した研究をを走らせています。雑誌の世界に関連する話を書いたあと、岩波新書の編集者の方から連絡をもらって、入試制度と公平性に関する新書を書くことになり、それも来年以降に始めたいと思っています。

並行して、手に職希望で表されるような女性に典型的な進路選択の要因と帰結、男女の専攻や職域の分離の趨勢、あるいはそもそも職業希望ってどういう意味?みたいな論文を共著で進めています。

4. アメリカにおけるアジア系の社会人口学的分析を進める
ひょんなことからこの領域に足を踏み入れてしまったのですが、アジア系はアメリカでは非常に教育達成が高く、政治的なセンシティブさをはらみながらモデルマイノリティと呼ばれたりしています。私の関心は、その背景にある家族の安定性で、要するにアジア系の人はその他の人種エスニシティの人に比べて離婚しないのです。現在進めているプロジェクトは、それがなぜかを明らかにしたいと考えています。ポテンシャルには、これもトップジャーナルを狙えるものが一つあります。今年はその論文を投稿するのと、あとはもう少し移民のコンテクストでアメリカのアジア系を理解したいと考えていて、具体的にはアジアにいるアジア系とアメリカにいるアジア系の家族形成パターンを比較したいと思っています。

結局いろいろ進めているのですが、トップジャーナルを狙えそうな論文が3本あり、それを優先的に進めつつ共著の論文や日本語の新書と編著本2冊の執筆、あとは職探しをする予定です。

January 14, 2025

小さな世界の二人の巨匠

 アメリカの社会学において、日本という対象はニッチである。その中でも少子化に絞ると、さらにニッチになる。もちろん、人口学では、日本を含む東アジアの少子化はホットなトピックである。

アメリカで日本の少子化の専門家をしてる巨匠は、私の認識では2人いる。一人はハーバードにいて、最近リタイアした。もう一人はプリンストンにいて、私の師匠である。

いま、友人でもう一人の巨匠を指導教員に持った人と論文を書いている。特集論文で、彼が日韓比較をしたいということで、連絡してきてくれた。

彼との共著で学ぶことはたくさんあるのだが、その一つに、巨匠たちが注目してたポイントの違いを感じることができたということがある。

ざっくりいうと、私の指導教員は少子化を考える上で結婚の役割を強調する。日本を含む東アジアの少子化は、基本的に結婚の遅れと減少がカギになるというのが、彼の考えである。この主張は全くもって正しい。例外は中国だろうが、中国は最近発展してきた国であり、その他の東アジア(日本、韓国、台湾、および香港やシンガポールも広義の東アジアである)は、どれも経済的に高所得である。これらの国では、結婚が重要と考える。

一方で、もう一人の巨匠の方は、結婚よりも(追加)出生自体に注目する。具体的には、職場環境が夫婦の分業にどのように影響するのか、あるいは分業を通じて、労働市場の変数が夫婦の追加出生力にどのように影響するのか、そういったことに関心がある。

東アジアでは結婚せずに子どもを持つ人が少なく、結婚は出生の前提条件である。したがって、結婚を飛ばして出生に向かうのは必ずしも首肯しない時はある。その意味で、私も師匠の考えに影響されているのかもしれない。

ともあれ、ひとまず巨匠同士のニュアンスの違いはそこにあるのだと改めて思った。そういうニュアンスの違いは話してたりして感じていたことではあったけれど、今は共著の形で論文に違いが現れているのが面白いところである。

プリンストンの巨匠は、結婚を見れば少子化はだいたいわかると考える。これに対して、ハーバードの巨匠は結婚だけではわからない少子化の要因に着目している。両方間違っていない、見てるポイントの違いである。そうした視点の違いは、弟子に受け継がれている。

January 6, 2025

socialization as a colonizing process

 セミナートークで偶然香港に居合わせたところ、ホストの先生に声をかけられて某学会の国際化ワークショップに出席。いわゆる「国際」学会での経験をシェアするもので、最初は学会報告までの準備といった話からスタートしたのですが、どうしてか途中から学会発表云々の話を飛び越えて、なぜ権力関係を孕む共著ばかり書いているのかと問いただされる、スパイシーな経験をしました。

という話は置いておくとして、こういった「国際化」系イベント学会で念頭に置かれるのは、アメリカに基盤を置く学会と、各国のnational associationを束ねるような「世界」学会の二種類があるように思います。

私は個人的に学会はそれぞれ固有の楽しみ方があると思っています。それぞれの学会で、得られるものが微妙に違うので、そのあたりを意識しながら、参加する学会を選ぶことも大切なのではないかと考えています。もちろん、学会の雰囲気は行ってみないとわからないので、最初は味見気分で参加して、合う合わないを考えます。

そして、どうして楽しみ方に多様性が出るか考えると、各学会に固有の文化や規範があるからだと思うのです。例えばASAはセクション活動が盛んなので、ASAという傘の中に小さなミニ学会がたくさんあるイメージです。それぞれのセクションに文化があり、各参加者が複数のセクションに所属し、ネットワーキングをしながら、ASAという巨大な生態系を構成しています。これに対してセクション文化がないPAAには、ASAのような「ムラ社会」感はなく、よくも悪くもさっぱりしていてビジネスライクです。ムラで集まって会合をする時間の代わりに、クオリティの高い発表が並びます。

これに対して、私はいわゆる本物の国際学会、つまり「世界」系学会は、文化が薄いと思います。ISAの定期的な大会も、毎年開かれるものでもないので、参加者もレギュラーの人はどうしても少なくなり、様々なRCの寄せ集めみたいになりがちです。

「濃い」文化を持つ学会のほうが、合わないものも多いですが、合う学会に出会えることも多いです。これは言い換えると、自分にとってフィットの良い学会が、万人に好かれるわけではないということを意味していると思います。

そういう目線で、こういった国際化系イベントを見ると、結局言えるのは薄味の「国際学会出てみましょう」といった話になりがちです。それは極めて表層的なわけです。そして、その結果としてISAの年次イベントに行ったとしても、薄い文化の学会から得られるのは薄い経験になりがちだと思います。

であればもちろん、こういったイベントでも濃い文化の学会が持つ文化や規範について話してもいいわけです。そういったローカルルールを知っておくと、アブストだったりも通しやすくなるかもしれません。しかし、それは固有の話になりすぎるきらいがあるのと、中身について踏み込んでいくと、どうしても人間臭い話になり、それは時として植民地的でもあるわけです。

例えば、ASAについての「実情」を話すと、どうしてもアメリカ中心的な学会運営に触れざるを得なくなります。それを棚上げにして「ASAで口頭報告を通すにはどうすればいいか」という話をしても、薄口にならざるを得ません。ですが、実情を話すとアメリカ社会学会=国際学会というぼんやりとした想定が妄想であることに気づかざるを得ないわけです。

実際のところ、各国のXX社会学会は多かれ少なかれ自国を中心においた社会学が展開されていると思いますが、そういった点についてdebunking mythをしていくと、結局のところ何が「国際学会」なのか、そんなものは一体あるのかという問題にならざるを得ません。もちろん、ISAは「国際」学会ではありますが、ISAには学会をユニークにするような文化が弱いのです。

アメリカ社会学会のノルムを話しすぎると、相手をcolonizationの渦の中に取り込むことになってしまい、ノルムに全く触れないと表層的な「国際学会に行ってみよう」トークになり、中身がなくなると同時に、ある種の嘘を言ってしまうことになります。ASAは極端ですが、ASAと同種の問題はPAAにも当てはまります。そもそも、毎年アメリカとカナダでしか開かれない学会が国際学会であるわけがないのです。

January 5, 2025

今年の予定

 1年を振り返る余裕もないまま新年を迎えてしまいました。最近な世界各地を営業で回るマジシャンの気分です。

今年は1月(明日)に香港、2月にプロビデンスでトークと安倍フェローのワークショップでカリフォルニア州クレアモント、3月にピッツバーグでトーク、4月に学会でイギリス・マンチェスターとDC、7月に日本に一時帰国して上智と北大で授業をしつつ、オーストラリアの学会、8月にアメリカに戻ってシカゴとLAで学会出張です。

December 21, 2024

侵入性

 社会学は侵入性の低い学問だと思う。一方で、経済学は侵入性の高い学問だと思う。

今冬は経済学の研究所に滞在していることもあり、経済学者と話すことが多い。慶応と一橋のセミナーでも報告し、経済学者からフィードバックをもらった。

そこで感じたことだが、経済学では「事実の真実性」が重要になる(少なくとも私が接している応用ミクロの世界にいる人の間では)。

当たり前に聞こえるかもしれないが、例えば「学歴によって賃金に違いがあるのはなぜか」という問いが成立するためには、「学歴によって賃金に違いがある」という命題が正しくないといけない。しかし、賃金が「学歴によって」異なるのが本当に事実なのかは、必ずしも自明ではない。社会学に比べると、経済学では賃金の違いが本当に学歴によって引き起こされているのかを確かめる。それが「事実の真実性」がいわんとするところだ。

社会「科学」をやっているのであれば、そんな作業は当たり前ではないか、と思われるかもしれないが、社会学では「事実の真実性」よりも「事実に対する世界観の提示」の方が重要視される。これは、「事実の真実性」が蔑ろにされるという意味ではない。一応(経済学者ほどではないにしても)、社会学でも観察される事実に真実味があるかは俎上に上がるが、相対的には世界観を提示できる人のほうが高く評価されると思う。

それでは「世界観の提示」とは何かというと、「学歴によって賃金に違いがある」としたら、なぜ・どのようにその関係が生じているかに関する「モデル」の提示だといって差し支えない。それは、採用者が学歴によって人を「差別」するからかもしれないし、単に学歴の高い人のほうが生産性が高いのかもしれない。あるいは、他の理由によって学歴の高い人のほうが賃金の高い職業につきやすいのかもしれない(=マッチング)。もちろん、経済学でもこうした「なぜ・どのように」の部分は一般にメカニズムとして「事実の真実性」が担保されたあとに検証されるという理解でいるが、社会学ではどちらかというと「もしかしたらこういうことが起こっているかもしれない」「学歴と賃金の関係についてこういう見方もあるのではないか」といういったモデルの提示が好まれる。

モデルの提示は、言い換えれば「ストーリーテリング(物語り)」といってもいい。一流の社会学者にはいくつかの定義があるが、その一つはこのストーリーテリング力があるかどうかだと思う。学歴が賃金の違いを生む過程をすべて観察することはできない。できないからこそ、観察された事実の間を埋めるような「モデル=ストーリー」が必要になる。観察されていない以上、本当にそのストーリーが正しいのかはわからない。しかし、いくつかの仮定を置いたりして、事実をつなぎ合わせたりすれば、もっともらしいストーリーができる。

また、仮に学歴→賃金の関係があったとしても、「→」にあたるストーリーは複数たりえる。それは男女で異なるかもしれないし、移民とネイティブで異なるかもしれない。日本とアメリカでは「→」が異なるかもしれない。社会学の中でも、人口学に傾斜を置く者であれば、「→」を豊かにするためにジェンダーや人種、国籍といった社会人口学的な変数に着目するし、制度を重視するものであれば、社会ごとに異なる制度や規範に着目するかもしれない。社会学者は伝統的に世界を4象限で理解したがると言われるが、それも自分からすれば「世界観の提示」という社会学者の仕事の一つと言える。

社会学者はそんな怪しい商売をしているのですか、と思われるかもしれないが、正直に社会学者は世界観の提示をするのが仕事の一つです、と言ってしまってもいいのではないかと思う。エビデンスという言葉が称揚される時代、社会学も「事実の真実性」に誘惑されて経済学者の研究に近づいてしまっている。そうなると、何が社会学のユニークさなのか、忘れてしまいかねない。「本当かどうかわからないけれど、そういう可能性もありそうね」という世界観の提示も、社会現象の理解に重要な貢献をするはずだ。

「本当かどうかわからないけれど」というのは厄介な部分で、社会学のトークを聞いていると、「その事実は本当か?」と聞いてしまいたくなる時がある。それはデータがインタビューの場合でも、サーベイの場合でも(「本当か?」の意味は異なるが)同様に生じる。

そこで経済学は、事実の統計的な同定(identification)を通じて「真実性」を追求するが、社会学では「→」の穴埋めを通じて「世界観」を提示することで、もっともらしさを与えようとする。だからといっていいかわからないが、社会学のトークは、45分話すとしたら15分は「私の世界観」開陳コーナーと言っても差し支えない。要するに、バッググラウンドが長いのである。経済学は、少々のイントロスライドから、直接問いに入るが、社会学では主張のもっともらしさを支える「理論」や「コンテクスト」を話す時間が長い。

最初に書いた侵入性という言葉は、ここに関係してくる。経済学のセミナーでは、発表中から丁々発止の議論が始まる。それは事実の確認といった小さな点も含むが、因果関係の同定の部分では、発表者の分析に対して、どのような仮定を置いているのか、同定の仕方は適切なのか、推定の結果はどれだけ過大(過小)なのか、オーディエンスが「事実の真実性」を巡ってコンセンサスを得ようとする。もちろん、コンセンサスを得ようとするのではなく、自分の主張を押し通す人もいるが。こうした営みは、発表者の報告内容に対して、他者が侵入してくる程度が強い、ということができるだろう。

これに対して社会学は、言ってしまえば「みんな違ってみんないい」のカルチャーである。まず、発表者の報告中に対して、基本的に質問はしない。なぜかはわからないが、経済学に比べると社会学では、最後まで聞かないと相手の言おうとしていることはわからない、という暗黙の了解がある気がしている。これは要するに、社会学のトークは究極的には「世界観の提示」なので、話が終わるまではどのようなストーリーが展開されているのかわからないからだと思う。

発表が終わってから始まる質疑応答では、まず「素晴らしい発表をありがとう」とまずお礼を言う規範がある(なんと丁寧なことか)。そして「あなたの発表から云々をたくさん学んだ」と褒めちぎった後で「ただ、ほんの少しわからないことがあって」と、質問をおまけのように言う(もちろん、戯画化している)。「ほんの少し」が全くもって「少し」ではないことはよくある話だが、基本的に質問は、相手の世界観が真だとすると(こういう事実もあるんじゃないか?)、という仮定付きで進む。もちろん「私はあなたの世界観を買わない」と喧嘩を売ってもいい。実際には、喧嘩腰で質問する人は珍しく、質問者は「私の世界観」を提示しながら、「私の世界観に従うと、あなたの主張は現実的には見えない」と、世界観を通じてコミュニケーションをする。

経済学のセミナーでよくある「事実の真実性」と社会学の「世界観を通じたコミュニケーション」の間には、侵入性を巡って決定的な違いがある。「事実の真実性」の議論では基本的に「真実はいつも一つ」なので、質問者は発表者の想定に侵入してくる。これに対して、社会学でぶつけ合うのは「事実の真実性」よりは「事実の真実性の前提にある世界観」なので、疑問があったとしても「あなたの世界観は私と違うから仕方ないか」と諦められる。だから、社会学のセミナーでは、質問者は報告者の考えに侵入してこない。

繰り返すように、同じ現象を見ていても、経済学と社会学では重視される論点が異なる。どちらが正しいというわけではない。

それこそ世界観の違いだからだ。