October 12, 2018

社会学らしさー現実の世界から着想を得ることへの寛容さ

今日の人口学のセミナーは健康の社会的要因についてでした。文献の中で、ある社会における不平等と健康の関連を説明する枠組みとしてpsychosocialな説明が紹介されており、要約すると、この理論では自分が社会的に下位に位置すると認識することでストレスや否定的な感情が大きくなり、健康に悪影響があることに注目しています。議論の中で、私がその説明は、誰もが自分の階層的な位置を正しく把握できているという仮定に基づいていると思うが、それは経験的には正しくないのではないか、という旨の発言をしたところ、質的な研究もしている上級生が、実際に貧困家庭の人にインタビューした時の話をしてくれました。具体的には、客観的にはlow SESだと判断されるのに、自分たちは別に貧しくないという家庭もあった、というものです。

この自分の客観的な地位と主観的な地位が一致しないという話は、社会学らしいテーマだなと思っています。そして、社会学ではこの例のように、同じ命題らしきものに、演繹的な方法でも、実際の事例からでも、たどり着くことに対して寛容なのではないかと考えています。

盛山先生ワードの意味世界というのは、翻訳することが不可能な言葉ですが、指している事象自体は広く社会学の中で共有されているのではないでしょうか。やや雑にはなりますがまとめると、現実の世界において共有されている規範や言語の体系といったくらいの意味として考えていますが、こういった意味世界と同じで、現実の世界にある意味を対象化して説明するというのは、社会学らしいなと思っています。更に言えば、この意味世界に着目するというアプローチは、別に質的研究の人ばかりに限った話ではなく、計量分析をする人にも広く共有されており、彼らも規範や共有されている意味から、何かしらの問いを作ったりします。

こうした現実にある意味を対象化するためには、その意味がなぜ共有されてるのかに関する文脈に詳しくないといけません。と同時に、対象化、つまり他の事情と比較できるように拾える程度には、客観的に、外から事象を眺めることができるのが望ましいでしょう。佐藤俊樹先生の言葉を借りれば「常識をうまく手放す」ということになりますが、そのあたりが外国語で社会学をするときの難しさなのかもしれない、と思うことがあります。それは例えば、自分の世界で共有されている意味を翻訳しにくかったりすることもあるし、逆に相手の世界の意味が直感的には分かりにくかったりすることもあります。とある意味世界の中にいる社会学者の集団では、その意味自体は共有されているので、報告者は現実から距離をとって問いを立てれば良いですが、他の意味世界の人に問いを伝える際には、その社会における妥当とされているルールについてまず説明する必要があります。

例えば、「学歴社会」というのは日本では人口に膾炙した言葉だと思いますが、人々はこの言葉から学歴によって社会における成功が秩序づいていることを想像できると思いますし、現実にこうした言葉によって説明しうるような事態に直接・間接の形で触れているでしょう。さらにいえば、これが自分だけが持つ知識ではなく、(日本)社会において共有されているものであることも少なくない人が認めるでしょう。学歴社会論を否定することも含めて、日本が学歴を重視するとされている社会であることには合意が取れているはずです。学歴社会の話と、先のインタビューのような事例が全く同じ土台で語れるわけではありませんが、少なくとも、ある認識が自明なものとして機能している、つまり「自分は貧しいわけではない」と認識が当人の中で自明なものとして語られているという点では、両者は意味とまとめてよいだろうと考えられます。

社会学は現実の世界から拾ってきた意味をもとに理論を作ることに寛容な学問なので、それは外から見ると適当に思われるかもしれないし、社会学の内部でもそうした研究が科学的ではないという評価を下す人もいます。私個人としては、ロジカルな説明をすることとそれを科学的に検証することは段階としては違うことなので、さしあたり前者が満たされていれば、説明としては成立しうるので研究として参照されることもあるだろうと思います。

もちろん、我々が納得する説明の全てが検証できるわけではないし、もしかすると社会学に対する懐疑的な目は、納得はできるが、検証することができない話が少し多すぎるところからきているのかもしれません。したがって、私は意味世界から理論を作るにしても、それを仮説として検証したり、他の事例に応用することから逃げてはいけないなと考えています。

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