今日は院生自治会の年次大会がありました。
組織の名前はSociology Graduate Student Associationで、SGSAとします。特に加入手続きはありませんが、一応社会学部にいる院生が全員メンバーということになっています。Chairを頂点として各学年に1人cohort representativeが選出され、彼らが月に一回ミーティングを行っています。私も、少し積極的になってみようかと思い、1年生のcohort repになりました。
ミーティングと並行して、いくつかのsub-commiteeがあり、各グループが院生の研究生活向上のためにいくつかの活動をしています。今日は年に一回の年次大会で、一年の活動報告と、次の一年に向けてのディスカッションでした。
報告は主に2つ。1つ目がひとつ目がプレリム委員会の報告です。うちの学部のプレリムは2つあり、伝統的な分野のAグループから(社会階層や歴史社会学)1つ選び、さらにAグループかサブフィールド色が強いBグループ(家族社会学や文化)からもう1つ選ぶことになります。多くはclosed-book(持ち込み不可の試験)で、ごく一部がtake homeになっています。あらかじめ決められた分野の試験を選んで、それを受ける形になります。
プレリプ委員会がアンケート及びアメリカのトップ25プログラムのプレリムを参照して、いくつかの提案を行うことになり、その議論になりました。
例えば、うちの学部では個人にtailorされた形のプレリムはありません。多くの学生が、プレリムを理想的には自分の博論の1章にしたいと考え、できるだけ学生が主体的に作ったリストをもとに問題を出してほしいという要望です。あるいは、今までのプレリムは暗記に重点が置かれすぎていて、広い知識よりも、サブフィールドのさらにサブな領域の深い知識を問うた方がいいという考えもあるようで、以上をもとにより個人に特化したプレリムにする要望を持っていくということです。
柔軟化にはclosed book形式をやめて、試験形式であっても持ち込み可にするべきという提案や、そもそもA/B群の分け方が恣意的なので、この分類をやめて1つ目は知識の広さ、2つ目は知識の深さを問うような形式にすることも議論されました。最後に、教員が具体的なプレリムの基準を設ける、例えばreadingリストを公開するとか、期待する勉強時間を明記することが提案されました。プレリムに寄って生じるストレスの多くは、その不透明さによるものであるという意見が多かったからです。
2つ目の議題は、この春(したがって1年生は対象外)に実施したclimate surveyの結果をもとに、学部との交渉をする前に議論が行われました。日本でも研究室によってはセクハラ講習会などをするかもしれませんが、そういう意味でのclimateです。つまり、各学生だけではなく、教員やスタッフが気持ちよく学部と携われるような環境の改善を目指しています。調査の結果、たとえば教員から不快な扱いを受けたとか、そういう場面を見た、あるいは逆に学生から教員に対してリスペクトを欠いた行動があったかどうかなど、学生と教員、スタッフ全員が対象となりました。
報告をもとに議論が行われましたが、お国柄というか、やはり議論の国なのだなと思う場面が多かったです。報告に対する質問をとって議決、みたいな雰囲気はなく、こうした方がより良い提案になる、こういった側面は考えなくていいのか、具体的な罰則としてはどのようなものを想定しているのかといった提案型の議論が多かったように思います。もちろん、全員が積極的に発言するわけではありませんが、議論の雰囲気は本当に院生が一体となっている感じがして、これが民主主義なのかと思いました。日本でも院生自治会の総会の場面で議論することはありましたが、発言する人は今回よりは少なかった印象がありますし、僕らもスタッフ(教員)が提案を受け入れてくれるとは半分あきらめていた節があった気がします。しかしこっちのミーティングでは、教員と学生が対等な立場に立ってより良い学部を作っていこうとする雰囲気を感じました。
October 31, 2018
人口学セミナー第10回文献レビュー(低出生)
Lesthaeghe, Ron. (2010). ”The Unfolding Story of the Second Demographic Transition.” Population and Development Review 36(2):211-51.
Bloom, David E., David Canning, Gnther Fink and Jocelyn E. Finlay. 2010. ”The Cost of Low Fertility in Europe.” European Journal of Population Revue europenne de Dmographie 26(2):141-58.
Boling, Patricia. (2008) Demography, Culture, and Policy: Understanding Japan’s Low Fertility. Population Development and Review 34(2):307-26.
King, Leslie. (2018) Gender in the Investigation and Politics of “Low” Fertility. International Handbook on Gender and Demographic Processes. Springer, Dordrecht, 2018. 55-69.
Bloom, David E., David Canning, Gnther Fink and Jocelyn E. Finlay. 2010. ”The Cost of Low Fertility in Europe.” European Journal of Population Revue europenne de Dmographie 26(2):141-58.
Boling, Patricia. (2008) Demography, Culture, and Policy: Understanding Japan’s Low Fertility. Population Development and Review 34(2):307-26.
King, Leslie. (2018) Gender in the Investigation and Politics of “Low” Fertility. International Handbook on Gender and Demographic Processes. Springer, Dordrecht, 2018. 55-69.
10月30日の記録
ここ数週間は日記(というか行動記録)を書かずに1週間の予定を評価する形になってましたが、やっぱり文章に残して置くことも必要かなと思い、1日をまとめます。1週間色々ありすぎて、時間が経つとすぐ忘れちゃうのがもったいないなと。
7時に起床。8時半から指導教員と学会アブストのミーティングが入っていたので、朝食は取らずにすぐ着替えてバスに乗る。メールをチェックすると再現性論文が公開されたという連絡を共著者の先生からもらい、早速ツイッターで宣伝させていただきました。
同類婚の論文とかも掲載されたら一応呟くようにはしていたのですが、再現性論文の方がキャッチーというか、improssionの数も多くて、やはりみなさん関心があるのかなと思いました。marginalには関心がある分野なので、これからも要求があれば仕事として考えたいかなと思います。
バスに乗って大学へ7時40分。8時半までの間アブストの微修正。結果的に、夜にコメントを再びもらって無事提出できたのですが、PAAの時よりも焦りがあったというか、ちょっと見切り発車気味だったかもしれません。アイデアは指導教員の先生のものなので、私も最初何がやりたいのか核心まで掴めないところがあり、最後の数週間になってなんとなく腑に落ちてきた印象があります。あとは、先行研究を引用する過程で発達心理学のliteratureをかなり探す必要が出てきて、これには苦労しました。その部分はボスには評価してもらって気がしますが、なんというか、ゲノムと似ているのかもしれませんが、使っているタームを知らないので、そのタームにどういう意味が内包されていて、似ているタームでも状況によって区別して使用する(classとstratificationみたいな)ことがあるのかないのか、よくわからないまま読むと余計にわからなくなるという。一度、家族・教育・発達心理学周りの文献を読んでみたいなと思いました。家族社会学の雑誌にもたまに心理系の文献は載ったり、社会学者でもElderやAmatoさんは心理の文献にも登場したりするのですが、一般に社会学部ではこうしたトレーニングは受けられない気がします。
そのあと2時間ほど個人作業をして(論文読んだりアブスト修正したり課題進めたり)、12時15分から人口学研究所のDemSemでした。Visit dayの時には、夢の地に降り立った気分で興奮しながら参加していたのですが、さすがに渡米してから2ヶ月以上も経つと中だるみっぽい雰囲気も出てきます。サボったりはしませんが(1回サボったかも)、たまに内職したりしちゃいます。今日の話は社会ゲノミクスの先生だったので最初から関心を持って聞きました。環境との相互作用によって遺伝子の発現が変わることをエピジェネティクスといって、社会ゲノミクスの中でもadvancedな分野に入る気がしているのですが(この辺りの位置付けがまだわからない)、今日はその話。具体的には、子どもの9歳児のバイオマーカーをとってきて、母親の貧困や収監によってどれくらいエピジェネティクスが発生し、その結果anti socialな行動を起こしやすいのかどうか。貧困とantisocialな行動の間にも関連があるので、いってしまえば、エピジェネティクスによって媒介効果があるのか、という話ですね。因果の話になるので、複雑というか、過程も必要です。チャレンジングなことをしているなというのが第一印象で、それはご本人も認めておられました(分析結果が間違っている可能性も含めて)。
社会ゲノミクスは日進月歩で進んでいる感があり、先月聞いた報告よりも今日の報告はかなり新しいことをしていた印象。聞こえはいいけれど、先行きが見えにくい分野でもあり、非社会学系のジャーナルに論文が掲載されても就職・テニュアにつながる保証はなく、若手の間では判断は分かれそう。そういえば、今日のセミナー報告者の先生が、来年6月にミシガン大で社会科学者のためのゲノム分析のワークショップを開くみたいなので、専門的にトレーニングを受けたい方は検討してみると良いかもしれません。11月になったら告知されるようです。
社会ゲノミクスは日進月歩で進んでいる感があり、先月聞いた報告よりも今日の報告はかなり新しいことをしていた印象。聞こえはいいけれど、先行きが見えにくい分野でもあり、非社会学系のジャーナルに論文が掲載されても就職・テニュアにつながる保証はなく、若手の間では判断は分かれそう。そういえば、今日のセミナー報告者の先生が、来年6月にミシガン大で社会科学者のためのゲノム分析のワークショップを開くみたいなので、専門的にトレーニングを受けたい方は検討してみると良いかもしれません。11月になったら告知されるようです。
そのあと、会議室でランチ。院生は学期に二回、学外から来た縁者の先生とランチする権利があります。なぜ2回かというと、ランチの定員が1回3人までで、なぜ3人かというと、まあインフォーマルな側面を重視していることもあるでしょうが、予算の関係もありそうです(お弁当頼んでくれる)。ケチなのでいつも結構高めのサラダを頼んでしまいますw
研究関係の話も伺いましたが、私が社会ゲノミクスに関心を持つのは、substantiveな側面が一つと、もう一つは新しい分野横断的な領域の研究をしている人のマインドと、彼らのキャリアについて関心があるからです。前回社会ゲノミクスの先生と話した時には、既存の学問分野は学部(department)と対応していて、そこが新しい分野の研究をするときのゲートキーパーになっているという話があり、率直にいって社会ゲノミクスで博論とったとしても、次のステップが難しそうだなと思っていました。今回の演者の先生の期間は業績評価にも非社会学系のジャーナルを考慮してくれるということでしたが、彼の所属はサーベイセンターなので、その辺りも考慮しなくてはいけないかもしれないなとは思いました(教育負担がない)。
そのあと統計の授業、いつもマージナルに役に立つ授業ですが、今回はコントラストコーディングを習って少し勉強になりました。同類婚の分析に使えるかもしれません。
プロセミナー、コースワークをどうやりくりするかという話で、3人の先生が登場。印象的だったのは因果推論で有名な先生が、何人かの質的な研究をメインにしている(していた)人の例を持ち出して、院生時代に量のトレーニングをすることが自分の研究を強靭にするための方法だと言っていたことでした。これは量の人にも当てはなって、質の方法論を学ぶことで自分の方法の弱み強みにセンシティブになれということなのかなと思います。あとはdata is blind without theoryという言葉も印象的で、理論の授業を取ることの大切さを計量分析の先生がしていました。先生たちがコースワークを真面目にやれというのは、まあ分かり切った言明ではあるのですが、先生たちも講義から研究につなげてほしいというマインドは持っていたので、そこは確認できてよかったなと思います。
終了後、統計の課題を片付けて帰宅。途中で修正アブストがボスから送られて来たので提出。忙しい1日でした。日頃からノートはとってるけど見返さないのはもったいないから、今日のプロセミナーの話とかはちゃんと見える形で残しておこうかなと思いました。帰宅した後に1日を振り返られる時間的、精神的余裕と体力を残して置くことが大切ですね。
October 29, 2018
人口学セミナー第9回文献レビュー(低所得国の出生)
Sinding, Steven W. (2008). ”Overview and Perspective.” Pp. 1-12 in The Global Family Planning Revolution, edited by W. C. Robinson and J. A. Ross. Washington, DC: The World Bank.
1960年代の家族計画には二つの思想があった。一つ目はbirth control、当初は女性の権利が意識されていた。望まない妊娠を下げるため。個人の女性に焦点。もう一つがマルサス的な考えで、戦後の急速な人口増加に対する懸念があり、焦点は女性個人の権利よりも食糧不足などだった。
この出生制限と人口制限の運動が一緒になるまでの道は平坦ではなかった。前者からすれば、後者の政策は個人の権利に国家が介入するものと考えられた。それでも、二つの運動はともに(女性による)自発性を強調する形で統合していく。1962年になると、スウェーデン政府によって南アジア地域に対する家族計画プログラムが実施される。これらの統合の起源は人口学や公衆衛生ではなく、開発経済学者の手によっていたとする。
これらの動きによって家族計画プログラムはアジア地域をはじめとして進んでいったが、最初のインドやパキスタンの例では出生率が減少せず、プログラムに対する疑義が呈された。同様の疑問は他の学問分野の側からも提出され、人口学ではDaivsを中心として、出生力の減少のためには価値観の変化が重要であり、家族計画のみで出生力が低下することはないとした。これに対して、公衆衛生ではプログラム自体に問題があったことに原因を求めた。
こうした人口プログラムに対する懸念や対立は、1974年のブカレストで開かれた世界人口会議で収束することになる。インド派遣団の代表によって、避妊の最も有効な方法は発展(development)という声明が出され、インド政府によって20年間取り組まれてきた政策が否定されるともに、世界全体が避妊プログラムではなく、高出生の背景にある貧困と欠乏に取り組む必要があるという合意が形成される。途上国の出生抑制を強硬に主張していたアメリカは孤立することになる。
1960年代から90年台中盤にかけて、途上国の出生率は大きく減少するとともに避妊法も広まった。先進国が1世紀かけて達成したような急激な出生力の変化を説明するためにはなんらかの政策的な介入があったからだろうとする筆者は、実際に強力な人口プログラムを導入した国では出生力の減少幅が大きいとする。したがって、1974年から94年にかけて、ブカレストでの宣言の一方で多くの国が家族計画を導入し、出生力が低下していった。
1984年の世界人口会議では、ブカレストで決まった原則が確認される一方で、家族計画運動に対して長く影響を与える暗雲が立ち込めた。長く人口計画に投資をしてきたアメリカが中立的な立場を取り始めたことである。1994年になる頃には多くの国で出生力が再生産レベルを下回るようになり人口爆発が課題とは認識されなくなる。さらに女性運動が活発化し、家族計画に対して反対する声が大きくなる。
この結果、カイロ会議において世界の人口政策は再構築されることになった。その意味で、カイロは分水嶺だったという。
Thornton, Arland. (2001) The Developmental Paradigm, Reading History Sideways, and Family Change. Demography 38 (4): 449-65. doi:10.2307/3088311
この会長講演では、社会科学においていかに発展パラダイム、歴史を横に読む(reading history sideways)、及びcross cultural dataが世界における家族の変化を理解するのに使われ、結果としてそれが発展的理想主義という概念を形成し、家族の変化に対してどれほど影響を与えてきたかについて論じている。発展パラダイムの考えでは、人間が成長するのと同様に、社会も他の社会と同様な経路で発展していくという見方である。ただし、人間において個体差が見られるように社会においてもバリエーションが生じることは認めている。そのため、世界には発展が遅れた社会と早い社会があるが、同じレールの上に乗っていることになる。典型的なのは近代化論かもしれない。
加えて、ヨーロッパ人の他の世界への進出によって、文化間を比較するデータが集められるようになり、ヨーロッパ社会における世界の見方に対して多くの課題が突きつけられる。
草創期の社会科学者は歴史的なデータを用いて社会の変化を記述しようとしたが、歴史的なデータを手に入れるには限界があった。そこで彼らは、歴史を横に読む、つまり現在の社会における違いをもっと歴史的な変化に代替しようとした。ヨーロッパ世界が歴史の先端にあり、ヨーロッパと最も異なる社会が一番遅れているとした。
以降で、筆者は家族の変化を事例にしてこの発展パラダイムを検討する。このパラダイムに乗った研究では非発展の北西ヨーロッパ以外の国では家族は集団的で、親の権威が強く、arranged marriageが多いとする。一方で、発展の北西ヨーロッパでは、家族のシステムはより個人主義的であると考えている。変化の説明としては産業化や教育の拡大などがあげられた。家族システムの変化は原因としても考えられ、社会経済的な発展に伴って家族システムが変化し、結果として出生力が減少すると考えられた。
その後20世紀後半になって実際に信頼できる歴史資料を使って、北西ヨーロッパの歴史分析が行われた。この結果、20世紀初頭の説明とは大きく変わらないが、変化の程度はそこまでではないことが明らかにされる。加えて、新たな知見、すなわち1800年以前では結婚タイミングが今よりも遅く、独身期間が長いといったことがわかった。これらの結果は以前の世代が唱えてきた家族変動の議論に対して異議を唱えることになる。近代化によって現代的な家族ができたわけではなく、現代の家族が現代の出生の原因ではない。実際には、大規模な家族の変化は19世紀の前ではなく、そのあとに生じていた。
合わせて筆者は発展史観によって実際に未来がどのように影響を受けたのかについて論じている。ここでは発展史観によって裏付けられた考えを発展理想主義(developmental idealism)としている。この考えの命題は以下のようになる。第1に、現代社会は善きもので達成可能なものであるという。第2に、現代家族は善きもので達成可能なものである。現代家族を構成するものはthe existence of many nonfamily institutions, individualism, nuclear households, marriages arranged by mature couples, youthful autonomy, courtship preceding marriage, and a high valuation of womenである。第3に、現代家族は現代社会の原因でもあり結果でもあるという。第4に、個人は自由で平等であり、社会関係が契約に基づくという考えである。これらの命題からも明らかなように、発展的理想主義の考えは栄養社会の歴史的文化的遺産に由来している。
筆者はこれらの命題をテストすることはしないといい、代わりにこれらを規範的な命題として取り扱ってその影響力について論じている。つまり、ここでは正しいかはともかくとして人々がこれらの命題を信じるかどうかが重要になる。筆者は、この考えが広がった影響について、ヨーロッパと非ヨーロッパ諸国を事例にとって検討している。
Johnson-Hanks, J. (2002). On the modernity of traditional contraception: Time and the social context of fertility. Population and Development Review, 28(2), 229-249.
家族計画研究ではbiomedicalな避妊方法が推奨されてきた。こうした「科学的」な手法は「減退的」な手法というラベルを貼られる傾向にあり、「伝統的」な方法と対比されることが多かった。こうしたハイテクな避妊手法への移行は人口転換のモデルとも考えられて来た。例えば、Alan Guttemacher Instituteでは伝統的方法を取っている人を「避妊が必要な人」と認識していた。この論文ではこうした「伝統的」な避妊方法について批判的に検討している。
結論から言ってしまうと、カメルーンの一部の集団では「伝統的」とされる方法に対して肯定的な意味合いが与えられており、高学歴層が進んで取り入れている。さらに、「伝統的」とされる方法を取る人たちの方が出生力が低い。
この主張にたどり着くために、筆者は一人のカメルーン人女性の例を引用する。Ebeneはカメルーンの首都ヤウンデに住んでおり、大卒の公務員の男性と結婚し3人の子供を産んだ。4人目は(経済的な)資源の制約から諦めることになった。彼らが取っていた避妊方法はperiodic abstinenceだった。しかし、彼女は4人目の子供を妊娠することになった。もっとも、彼女は他にbiomedicalな避妊方法があることを知った上で、いわゆる「伝統的」とされる避妊方法を選んでいた。それは、達成すべき社会的な目標を満たしているからだという。
これは彼女に限ったことではなく、カメルーンでは多くの人がperiodic abstinenceを選んでおり、高学歴の人でも選択する方法だという。ある論者は社会によって避妊方法の構成が異なることを経路依存や不完全情報から説明しようとしているが、筆者はカメルーンの場合にはsocial repertoireがあるという。特に南カメルーンのBetiと呼ばれるエスニック集団では、periodic abstinenceが効果的であると考えられているばかりではなく、規律的で現代亭なアイデンティティを得ることを可能にするという。このBetiというグループはカメルーンに300万人ほどおり(20世紀の終わり頃の値)、この集団では植民地化の過程を経て、自律性と自己の規律に対する名誉を与えるようなシステムができているという。当初、このBetiの地位は男性に限られていたが、徐々に女性にも付与されるようになった。また、名誉の中身も教会や公的教育が中心的な制度になるにつれて変化していった。また、名誉の中身も冷静であること(self-possession)に自己を律すること(discipline)が加わるようになった。このdisciplineはBetiの間ではカソリックであり、学歴が高く、「現代的」であるというラベリングがされるようになる。特に学校ではperiodic abstinenceが教えられることもあり、学歴を身につけていることとperiodic abstinenceを実践していることには共通に意味が付与されるようになる。
筆者はこの可能性を検証するために、184人の女性へのインタビューと、Demographic and Health Surveyを使用している。この結果によると、periodic abstinenceを使っている女性の方が出生力が低い傾向にある。periodic abstinenceを使用している人が高齢であるというわけではなく、むしろ若い傾向にある。また、periodic abstinenceを実行している女性はmistimedな出生を開けようとするために使用しており、また他の利用可能な手法も知っている。
したがって、「伝統的」な方法を使用していることを説明しようにも、彼らは有効な避妊をしようとしているし、さらに他の方法も知っているので、説明にならない。筆者によれば、Betiの女性にとっての社会的なモチベーションを理解することが重要だという。理由は大きく二つあり、第一にperiodic abstinenceのほうがそれ以外の方法よりもネガティブな副作用(再生産、性、社会的な意味で)が少ない。第二に、periodic abstinenceは現代的で名誉のある方法だと理解されている。他の方法と比較してこの方法はcomplementaryな方法だと認識されており、認識されているコストは自己を律することだけであり、これ自体が社会の中で評価されるため、積極的に利用されるという。さらに、学校教育で正式に教えられる他、カトリック教会がこの方法を認めているため、9割の子供が洗礼を受けるというカメルーンでは避妊方法の中で支持を受けているという。
Yount, Kathryn M., Sarah Zureick-Brown, Nafisa Halim, and Kayla LaVilla. (2014) Fertility Decline, Girls’ Well-Being, and Gender Gaps in Childrens Well-Being in Poor Countries. Demography 51 (2): 535-61.
20世紀の後半では低所得国の出生が減少している。先行研究では女性の機会の変化に着目した分析を行ってきたが、実際には出生の減少によって女性のライフコースにも影響があるだろう。
そこで本論文では24年間における低所得国における出生力の減少と結婚年齢の上昇が子どものウェルビーインングに与えた影響を検討している。本研究では、ウェルビーイングをchanges in girls’ basic needs for survival and nutritionと changing aggregate investments in girls’ intermediate needs for vaccination coverage、及びその男女格差に求めている。出生力の低下によって妊婦の死亡リスクが減少すると、母が健康な状態で生存することによって子どもにもメリットがあると考える。また、子ども数が減少することによって子ども一人が受ける資源も増えるだろう。先行研究によれば、79の低所得国においてTFRは母親の死亡比と正の相関があったとされる。後者についても、19の低所得と高所得の国で、TFRは子供一人当たりの人的資本と負の相関があったことが指摘される。そして、
ここまでの議論は、子どもの性別を区別しなかった場合の想定に基づくが、論文では影響が男女で異なる可能性を検討している。Das Gupta and Bhat (1997) では合計出生力の減少は男児が選好される社会におけるジェンダーギャップを縮小させると考える。特に、high parityの女児は不利を受けやすいとされ、この場合出生力が減少することによってジェンダーバイアスが生じるパリティの子供が減るので男女の格差は減るとする。
Das Gupta and Bhat (1997) はTFRが減少することによって男女格差がどのように減少するかを理論化しているが、論文では母親の第一子出生年齢についても検討している。以下の四つのシナリオがあるという。シナリオ1では、男女の格差は維持されたまま、全体のウェルビーイングが増加すると考える。シナリオ2では、パリティによらない男女格差が存在すると、あるいは出生規範とジェンダー規範の間にギャップが生じると、各パリティでより男児に投資しようとする傾向が高まるため、男女格差は増加すると考える。シナリオ3ではパリティによるジェンダー格差が減少するので、女性の方が男性にキャッチアップすると考える。シナリオ4は2と3の組み合わせで、最初は男児規範が変わらずラグが生じるが、規範が変わることで女児のメリットが上昇すると考える。
したがって、出生力の減少と出産年齢の高齢化によって女児のウェルビーイングには絶対的に上昇すると考えられる(仮説1)。次に、ジェンダー平等規範は低出生規範の後に登場すると考えられるので、男児選好が強い社会では低出生によって男児の相対的ウェルビーングが上昇する(仮説2)。最後に、出産年齢の高齢化自体はジェンダー平等のサインとして考えられるため、男児選好が弱い国では、出産年齢の上昇によって女児の方が相対的ウェルビーイングを高める。
分析では、60-75カ国における152-185のDemographic and Health Surveysを使用している。女児のウェルビーイングでは1-4歳の1000人の女児あたりの死亡数が10年前の調査から改善したかを指標にしている。また、0-36ヶ月の年齢別の身長体重のデータも栄養状態の指標として用いる。また12-23ヶ月の子供が推奨されるワクチンを全て摂取したかも用いている。独立変数としてはTFRと第一子出産年齢の平均を用いる。その他国と時間の固定効果、100人あたりの携帯契約数、都市人口、GDP、ODAなどを共変量として投入している。
ランダム効果と固定効果モデルの分析の結果、出生力と出生年齢の変化と女児のウェルビーングは仮説の通りの関係を示していた。具体的には、出生力の低下と年齢の高齢化によって女児の絶対的なウェルビーングは上昇していた(仮説1を支持)、出生力の低下は仮説2で予想したような男女のギャップの増加を示していた。最後に、出産年齢の高齢化によって女児の相対的ウェルビーイングが高まっていた(仮説3を支持)。
1960年代の家族計画には二つの思想があった。一つ目はbirth control、当初は女性の権利が意識されていた。望まない妊娠を下げるため。個人の女性に焦点。もう一つがマルサス的な考えで、戦後の急速な人口増加に対する懸念があり、焦点は女性個人の権利よりも食糧不足などだった。
この出生制限と人口制限の運動が一緒になるまでの道は平坦ではなかった。前者からすれば、後者の政策は個人の権利に国家が介入するものと考えられた。それでも、二つの運動はともに(女性による)自発性を強調する形で統合していく。1962年になると、スウェーデン政府によって南アジア地域に対する家族計画プログラムが実施される。これらの統合の起源は人口学や公衆衛生ではなく、開発経済学者の手によっていたとする。
これらの動きによって家族計画プログラムはアジア地域をはじめとして進んでいったが、最初のインドやパキスタンの例では出生率が減少せず、プログラムに対する疑義が呈された。同様の疑問は他の学問分野の側からも提出され、人口学ではDaivsを中心として、出生力の減少のためには価値観の変化が重要であり、家族計画のみで出生力が低下することはないとした。これに対して、公衆衛生ではプログラム自体に問題があったことに原因を求めた。
こうした人口プログラムに対する懸念や対立は、1974年のブカレストで開かれた世界人口会議で収束することになる。インド派遣団の代表によって、避妊の最も有効な方法は発展(development)という声明が出され、インド政府によって20年間取り組まれてきた政策が否定されるともに、世界全体が避妊プログラムではなく、高出生の背景にある貧困と欠乏に取り組む必要があるという合意が形成される。途上国の出生抑制を強硬に主張していたアメリカは孤立することになる。
1960年代から90年台中盤にかけて、途上国の出生率は大きく減少するとともに避妊法も広まった。先進国が1世紀かけて達成したような急激な出生力の変化を説明するためにはなんらかの政策的な介入があったからだろうとする筆者は、実際に強力な人口プログラムを導入した国では出生力の減少幅が大きいとする。したがって、1974年から94年にかけて、ブカレストでの宣言の一方で多くの国が家族計画を導入し、出生力が低下していった。
1984年の世界人口会議では、ブカレストで決まった原則が確認される一方で、家族計画運動に対して長く影響を与える暗雲が立ち込めた。長く人口計画に投資をしてきたアメリカが中立的な立場を取り始めたことである。1994年になる頃には多くの国で出生力が再生産レベルを下回るようになり人口爆発が課題とは認識されなくなる。さらに女性運動が活発化し、家族計画に対して反対する声が大きくなる。
この結果、カイロ会議において世界の人口政策は再構築されることになった。その意味で、カイロは分水嶺だったという。
Thornton, Arland. (2001) The Developmental Paradigm, Reading History Sideways, and Family Change. Demography 38 (4): 449-65. doi:10.2307/3088311
この会長講演では、社会科学においていかに発展パラダイム、歴史を横に読む(reading history sideways)、及びcross cultural dataが世界における家族の変化を理解するのに使われ、結果としてそれが発展的理想主義という概念を形成し、家族の変化に対してどれほど影響を与えてきたかについて論じている。発展パラダイムの考えでは、人間が成長するのと同様に、社会も他の社会と同様な経路で発展していくという見方である。ただし、人間において個体差が見られるように社会においてもバリエーションが生じることは認めている。そのため、世界には発展が遅れた社会と早い社会があるが、同じレールの上に乗っていることになる。典型的なのは近代化論かもしれない。
加えて、ヨーロッパ人の他の世界への進出によって、文化間を比較するデータが集められるようになり、ヨーロッパ社会における世界の見方に対して多くの課題が突きつけられる。
草創期の社会科学者は歴史的なデータを用いて社会の変化を記述しようとしたが、歴史的なデータを手に入れるには限界があった。そこで彼らは、歴史を横に読む、つまり現在の社会における違いをもっと歴史的な変化に代替しようとした。ヨーロッパ世界が歴史の先端にあり、ヨーロッパと最も異なる社会が一番遅れているとした。
以降で、筆者は家族の変化を事例にしてこの発展パラダイムを検討する。このパラダイムに乗った研究では非発展の北西ヨーロッパ以外の国では家族は集団的で、親の権威が強く、arranged marriageが多いとする。一方で、発展の北西ヨーロッパでは、家族のシステムはより個人主義的であると考えている。変化の説明としては産業化や教育の拡大などがあげられた。家族システムの変化は原因としても考えられ、社会経済的な発展に伴って家族システムが変化し、結果として出生力が減少すると考えられた。
その後20世紀後半になって実際に信頼できる歴史資料を使って、北西ヨーロッパの歴史分析が行われた。この結果、20世紀初頭の説明とは大きく変わらないが、変化の程度はそこまでではないことが明らかにされる。加えて、新たな知見、すなわち1800年以前では結婚タイミングが今よりも遅く、独身期間が長いといったことがわかった。これらの結果は以前の世代が唱えてきた家族変動の議論に対して異議を唱えることになる。近代化によって現代的な家族ができたわけではなく、現代の家族が現代の出生の原因ではない。実際には、大規模な家族の変化は19世紀の前ではなく、そのあとに生じていた。
合わせて筆者は発展史観によって実際に未来がどのように影響を受けたのかについて論じている。ここでは発展史観によって裏付けられた考えを発展理想主義(developmental idealism)としている。この考えの命題は以下のようになる。第1に、現代社会は善きもので達成可能なものであるという。第2に、現代家族は善きもので達成可能なものである。現代家族を構成するものはthe existence of many nonfamily institutions, individualism, nuclear households, marriages arranged by mature couples, youthful autonomy, courtship preceding marriage, and a high valuation of womenである。第3に、現代家族は現代社会の原因でもあり結果でもあるという。第4に、個人は自由で平等であり、社会関係が契約に基づくという考えである。これらの命題からも明らかなように、発展的理想主義の考えは栄養社会の歴史的文化的遺産に由来している。
筆者はこれらの命題をテストすることはしないといい、代わりにこれらを規範的な命題として取り扱ってその影響力について論じている。つまり、ここでは正しいかはともかくとして人々がこれらの命題を信じるかどうかが重要になる。筆者は、この考えが広がった影響について、ヨーロッパと非ヨーロッパ諸国を事例にとって検討している。
Johnson-Hanks, J. (2002). On the modernity of traditional contraception: Time and the social context of fertility. Population and Development Review, 28(2), 229-249.
家族計画研究ではbiomedicalな避妊方法が推奨されてきた。こうした「科学的」な手法は「減退的」な手法というラベルを貼られる傾向にあり、「伝統的」な方法と対比されることが多かった。こうしたハイテクな避妊手法への移行は人口転換のモデルとも考えられて来た。例えば、Alan Guttemacher Instituteでは伝統的方法を取っている人を「避妊が必要な人」と認識していた。この論文ではこうした「伝統的」な避妊方法について批判的に検討している。
結論から言ってしまうと、カメルーンの一部の集団では「伝統的」とされる方法に対して肯定的な意味合いが与えられており、高学歴層が進んで取り入れている。さらに、「伝統的」とされる方法を取る人たちの方が出生力が低い。
この主張にたどり着くために、筆者は一人のカメルーン人女性の例を引用する。Ebeneはカメルーンの首都ヤウンデに住んでおり、大卒の公務員の男性と結婚し3人の子供を産んだ。4人目は(経済的な)資源の制約から諦めることになった。彼らが取っていた避妊方法はperiodic abstinenceだった。しかし、彼女は4人目の子供を妊娠することになった。もっとも、彼女は他にbiomedicalな避妊方法があることを知った上で、いわゆる「伝統的」とされる避妊方法を選んでいた。それは、達成すべき社会的な目標を満たしているからだという。
これは彼女に限ったことではなく、カメルーンでは多くの人がperiodic abstinenceを選んでおり、高学歴の人でも選択する方法だという。ある論者は社会によって避妊方法の構成が異なることを経路依存や不完全情報から説明しようとしているが、筆者はカメルーンの場合にはsocial repertoireがあるという。特に南カメルーンのBetiと呼ばれるエスニック集団では、periodic abstinenceが効果的であると考えられているばかりではなく、規律的で現代亭なアイデンティティを得ることを可能にするという。このBetiというグループはカメルーンに300万人ほどおり(20世紀の終わり頃の値)、この集団では植民地化の過程を経て、自律性と自己の規律に対する名誉を与えるようなシステムができているという。当初、このBetiの地位は男性に限られていたが、徐々に女性にも付与されるようになった。また、名誉の中身も教会や公的教育が中心的な制度になるにつれて変化していった。また、名誉の中身も冷静であること(self-possession)に自己を律すること(discipline)が加わるようになった。このdisciplineはBetiの間ではカソリックであり、学歴が高く、「現代的」であるというラベリングがされるようになる。特に学校ではperiodic abstinenceが教えられることもあり、学歴を身につけていることとperiodic abstinenceを実践していることには共通に意味が付与されるようになる。
筆者はこの可能性を検証するために、184人の女性へのインタビューと、Demographic and Health Surveyを使用している。この結果によると、periodic abstinenceを使っている女性の方が出生力が低い傾向にある。periodic abstinenceを使用している人が高齢であるというわけではなく、むしろ若い傾向にある。また、periodic abstinenceを実行している女性はmistimedな出生を開けようとするために使用しており、また他の利用可能な手法も知っている。
したがって、「伝統的」な方法を使用していることを説明しようにも、彼らは有効な避妊をしようとしているし、さらに他の方法も知っているので、説明にならない。筆者によれば、Betiの女性にとっての社会的なモチベーションを理解することが重要だという。理由は大きく二つあり、第一にperiodic abstinenceのほうがそれ以外の方法よりもネガティブな副作用(再生産、性、社会的な意味で)が少ない。第二に、periodic abstinenceは現代的で名誉のある方法だと理解されている。他の方法と比較してこの方法はcomplementaryな方法だと認識されており、認識されているコストは自己を律することだけであり、これ自体が社会の中で評価されるため、積極的に利用されるという。さらに、学校教育で正式に教えられる他、カトリック教会がこの方法を認めているため、9割の子供が洗礼を受けるというカメルーンでは避妊方法の中で支持を受けているという。
Yount, Kathryn M., Sarah Zureick-Brown, Nafisa Halim, and Kayla LaVilla. (2014) Fertility Decline, Girls’ Well-Being, and Gender Gaps in Childrens Well-Being in Poor Countries. Demography 51 (2): 535-61.
20世紀の後半では低所得国の出生が減少している。先行研究では女性の機会の変化に着目した分析を行ってきたが、実際には出生の減少によって女性のライフコースにも影響があるだろう。
そこで本論文では24年間における低所得国における出生力の減少と結婚年齢の上昇が子どものウェルビーインングに与えた影響を検討している。本研究では、ウェルビーイングをchanges in girls’ basic needs for survival and nutritionと changing aggregate investments in girls’ intermediate needs for vaccination coverage、及びその男女格差に求めている。出生力の低下によって妊婦の死亡リスクが減少すると、母が健康な状態で生存することによって子どもにもメリットがあると考える。また、子ども数が減少することによって子ども一人が受ける資源も増えるだろう。先行研究によれば、79の低所得国においてTFRは母親の死亡比と正の相関があったとされる。後者についても、19の低所得と高所得の国で、TFRは子供一人当たりの人的資本と負の相関があったことが指摘される。そして、
ここまでの議論は、子どもの性別を区別しなかった場合の想定に基づくが、論文では影響が男女で異なる可能性を検討している。Das Gupta and Bhat (1997) では合計出生力の減少は男児が選好される社会におけるジェンダーギャップを縮小させると考える。特に、high parityの女児は不利を受けやすいとされ、この場合出生力が減少することによってジェンダーバイアスが生じるパリティの子供が減るので男女の格差は減るとする。
Das Gupta and Bhat (1997) はTFRが減少することによって男女格差がどのように減少するかを理論化しているが、論文では母親の第一子出生年齢についても検討している。以下の四つのシナリオがあるという。シナリオ1では、男女の格差は維持されたまま、全体のウェルビーイングが増加すると考える。シナリオ2では、パリティによらない男女格差が存在すると、あるいは出生規範とジェンダー規範の間にギャップが生じると、各パリティでより男児に投資しようとする傾向が高まるため、男女格差は増加すると考える。シナリオ3ではパリティによるジェンダー格差が減少するので、女性の方が男性にキャッチアップすると考える。シナリオ4は2と3の組み合わせで、最初は男児規範が変わらずラグが生じるが、規範が変わることで女児のメリットが上昇すると考える。
したがって、出生力の減少と出産年齢の高齢化によって女児のウェルビーイングには絶対的に上昇すると考えられる(仮説1)。次に、ジェンダー平等規範は低出生規範の後に登場すると考えられるので、男児選好が強い社会では低出生によって男児の相対的ウェルビーングが上昇する(仮説2)。最後に、出産年齢の高齢化自体はジェンダー平等のサインとして考えられるため、男児選好が弱い国では、出産年齢の上昇によって女児の方が相対的ウェルビーイングを高める。
分析では、60-75カ国における152-185のDemographic and Health Surveysを使用している。女児のウェルビーイングでは1-4歳の1000人の女児あたりの死亡数が10年前の調査から改善したかを指標にしている。また、0-36ヶ月の年齢別の身長体重のデータも栄養状態の指標として用いる。また12-23ヶ月の子供が推奨されるワクチンを全て摂取したかも用いている。独立変数としてはTFRと第一子出産年齢の平均を用いる。その他国と時間の固定効果、100人あたりの携帯契約数、都市人口、GDP、ODAなどを共変量として投入している。
ランダム効果と固定効果モデルの分析の結果、出生力と出生年齢の変化と女児のウェルビーングは仮説の通りの関係を示していた。具体的には、出生力の低下と年齢の高齢化によって女児の絶対的なウェルビーングは上昇していた(仮説1を支持)、出生力の低下は仮説2で予想したような男女のギャップの増加を示していた。最後に、出産年齢の高齢化によって女児の相対的ウェルビーイングが高まっていた(仮説3を支持)。
October 28, 2018
ポスト産業化4カ国における希望出生、出生意図、ジェンダー不平等
Mary C. Brinton Xiana Bueno Livia Oláh Merete Hellum. 2018. Postindustrial Fertility Ideals, Intentions, and Gender Inequality: A Comparative Qualitative Analysis. PDR
BrintonさんがNSFとライシャワー研究所のグラントをとって進めているプロジェクトの成果論文。2017年のPAJ(日本人口学会)で途中経過を報告していたのを覚えている。その時は大学院出願で色々ストレスもあり、出願先の先生にどうしても挨拶することができなかった思い出がある。
この論文は日西米瑞20-30代の高学歴のカップルを対象に、理想子ども数と出生意図の差がどのように生じるのかを検討。日本ではフルタイム就労の女性の夫は、妻の就労継続に理解があり、家事にも貢献したいと考えているが、自身は長時間労働のためそれができない。妻も夫の貢献を想定していない。
パートタイム就労の女性の場合には、夫一人の収入がメインのため子育てのコストを考えて理想と意図の間に差が生じる。日本と同じ超低出生のスペインは、将来の経済的不安のために共稼ぎが必要と認識。日本では性別分業が暗黙のうちに前提とされている。超低出生国の間でも文脈の違いが認識の違いを生む。
日本のフルタイム夫婦の場合に理想と意図の差が生じるのが、夫は妻のキャリア志向を尊重しつつも、長時間労働のために家事に貢献できないと考え、それを妻も共有していて、結果として暗黙のうちに性別分業が前提とされている、という説明は腑に落ちるところが多い。
Goldscheiderのgender revolutionの議論だと、日本の高学歴フルタイム夫婦の男性でジェンダー平等的な意識が持たれている点では、日本も革命の第2段階に来ているのかもしれないが、意識の上で夫婦が対等になりつつも、長時間労働により暗黙の性別分業が維持される限り、日本はこの理論の逸脱例だろう。あるいは、妻が働くのをサポートしたいというself-fulfillment(自己実現?)側に立ちながらも、実際には女性が男性並みに働く(ただし男性は家庭で家事負担はしない)ことで男女平等が達成されようとしているのであれば、Goldscheiderの枠組みでは、まだ日本は革命の第1段階だろう。
BrintonさんがNSFとライシャワー研究所のグラントをとって進めているプロジェクトの成果論文。2017年のPAJ(日本人口学会)で途中経過を報告していたのを覚えている。その時は大学院出願で色々ストレスもあり、出願先の先生にどうしても挨拶することができなかった思い出がある。
この論文は日西米瑞20-30代の高学歴のカップルを対象に、理想子ども数と出生意図の差がどのように生じるのかを検討。日本ではフルタイム就労の女性の夫は、妻の就労継続に理解があり、家事にも貢献したいと考えているが、自身は長時間労働のためそれができない。妻も夫の貢献を想定していない。
パートタイム就労の女性の場合には、夫一人の収入がメインのため子育てのコストを考えて理想と意図の間に差が生じる。日本と同じ超低出生のスペインは、将来の経済的不安のために共稼ぎが必要と認識。日本では性別分業が暗黙のうちに前提とされている。超低出生国の間でも文脈の違いが認識の違いを生む。
日本のフルタイム夫婦の場合に理想と意図の差が生じるのが、夫は妻のキャリア志向を尊重しつつも、長時間労働のために家事に貢献できないと考え、それを妻も共有していて、結果として暗黙のうちに性別分業が前提とされている、という説明は腑に落ちるところが多い。
Goldscheiderのgender revolutionの議論だと、日本の高学歴フルタイム夫婦の男性でジェンダー平等的な意識が持たれている点では、日本も革命の第2段階に来ているのかもしれないが、意識の上で夫婦が対等になりつつも、長時間労働により暗黙の性別分業が維持される限り、日本はこの理論の逸脱例だろう。あるいは、妻が働くのをサポートしたいというself-fulfillment(自己実現?)側に立ちながらも、実際には女性が男性並みに働く(ただし男性は家庭で家事負担はしない)ことで男女平等が達成されようとしているのであれば、Goldscheiderの枠組みでは、まだ日本は革命の第1段階だろう。
October 26, 2018
Week9の予定
土日
×Farmers marketで買い物→料理
→二日酔いで断念
×申請書執筆
×地熱
×査読修正への対応(英語)
×査読修正への対応(日本語)
×家族への電話
×RC28アブストの改稿
+余裕があれば:投稿予定の共著論文のチェック
月曜
×DemTechの予習
×統計の課題(回帰分析)
×DemTech
×人口学セミナーの文献購読
×指導教員とのミーティング
火曜
×RC28アブストの提出
×統計の課題(回帰分析)提出
×統計
×プロセミナー
×CDEセミナー
×CDEセミナーの演者とランチ
水曜
×SGSA annual meeting
×CDHAセミナー
×人口学セミナーの文献まとめ
×修正原稿の提出
木曜
×人口学セミナーの文献まとめ
×統計の授業
×Farmers marketで買い物→料理
→二日酔いで断念
×申請書執筆
×地熱
×査読修正への対応(英語)
×査読修正への対応(日本語)
×家族への電話
×RC28アブストの改稿
+余裕があれば:投稿予定の共著論文のチェック
月曜
×DemTechの予習
×統計の課題(回帰分析)
×DemTech
×人口学セミナーの文献購読
×指導教員とのミーティング
火曜
×RC28アブストの提出
×統計の課題(回帰分析)提出
×統計
×プロセミナー
×CDEセミナー
×CDEセミナーの演者とランチ
水曜
×SGSA annual meeting
×CDHAセミナー
×人口学セミナーの文献まとめ
×修正原稿の提出
木曜
×人口学セミナーの文献まとめ
×統計の授業
×新教員のレセプション
×SSNの確認
×人口学セミナーのコメントをポスト
×今月の収支確認
×溜まったメールへの返信
×人口学セミナーのコメントをポスト
×今月の収支確認
×溜まったメールへの返信
金曜
・人口学セミナー
・Family & Inequalityミーティング
October 25, 2018
Three Worlds of Social Stratification Research
Definition of Demography - American approach
“the study of the size, territorial distribution, and composition of population, changes therein, and the components of such changes” (Hauser and Duncan 1959)
アメリカの人口学の古典とされる本の著者の一人が、社会階層論なら誰でも読むO. D. Duncanなのは、アメリカにおける社会階層論の位置付けを考える意味でも興味深い(ちなみにもう一人のPhilip Hauserも社会階層論の大家であるRobert Hauserの叔父さん)。
このcomposition of population, changes thereinというのは、人口の異質性とその変化のことを指している。具体的には、職業や学歴といった社会階層や、あるいはそれらの世代間・世代内での社会移動につながる。アメリカの人口学の規模が大きいのは、社会学を中心として社会経済的なsubpopulationに着目した研究者が多いからでもある。
社会階層論は社会学のメジャーなサブフィールドの割に(だから?)、国によって参照される文献や研究関心が異なる印象が強い。アメリカに来て、人口学と社会学の近さを肌感覚として感じる中で、社会階層に関心がある研究者の多くが人口学関係の研究センターにも所属していることが、他の国では考えにくいことに改めて気づく。この傾向は特にUW-MadisonやMichigan, UCLAといった州立大学で顕著である(たとえばコロンビアやシカゴにも人口学センターはあるが、前者では社会階層論は経済社会学の色が強く、後者ではGeneral social surveyを実施しているNORCとの関係が深い)。
こうした異質性に対してに何かしら名前をつけられないかと考えて、American approach, European approach, Comparative approachの三つにさしあたり分類した。ちなみに、社会階層論の研究群を分類する試みはすでに大小様々あり、有名なのは比較社会階層研究を時系列的に第1,2世代とまとめていくもの(現在は第4世代ということになっている)(http://sk.sagepub.com/reference/hdbk_intlsociology/n6.xml)。
アメリカ的な社会階層論では、基本的にアメリカ社会を前提として、人口の異質性に着目して地位の達成過程や移動を比較する印象。Gruskyのリーダーのサブタイトルのように、Class, Race, and Genderがわかりやすい例。たとえば、アメリカではraceによる社会移動の格差という研究群が非常に多い。しかし、raceと言うのは一部の国を除けばethnicityに移り変わってしまったことや、アメリカほどraceによる分断が強調されていないこともあるからか、これらの研究はアメリカ内で流通し、アメリカ内で消化されることがもっぱらなのではないかと思う。個人的な関心でいえば、人口学との距離が近いので、assortative mating(階層結合)の研究が多いのも特徴の一つなのではないかなと思う。階層結合の研究は社会階層の一部の研究者がコツコツやってきた分野の印象が強いが、最近では女性の高等教育への進学が男性を上回りはじめ非典型的な「下降婚」のカップルが増加したり、あるいは夫婦ともにフルタイムで働くパワーカップルの存在が格差を拡大させているのではないかという研究が盛り上がってきたため、アメリカ以外でも盛んに研究されるようになった印象がある。
ヨーロッパ的な社会階層論では、各国の制度に着目した分析が多い。ドイツのトラッキングシステムによる教育移動の研究や、欧州内の労働市場や福祉制度の違いに着目した地位達成の研究など。また、アメリカのようなsubpopulation(raceやgenderといった集団レベルの特徴)ではなく、制度以外にも文化といった個人の行動やアイデンティティからは距離のある概念を有効に使う。最近の例では、ブルデューの文化と階層の議論を引き継いだSavageらのGBCSの研究などが有名。
最後の比較社会的なアプローチでは、これら欧米の国以外の研究や、社会移動の国際比較に関心を持つ研究群を指す。なぜ欧米の国以外の研究が比較社会的なのかというと、参照する議論が基本的に欧米の先行研究によっているので、直接比較することはなくても「〜〜とは異なり〜〜では」という発想で研究をスタートすることが多いという共通点があるため。実際に社会移動の国際比較になると、メッカはイギリスのNuffieldになる。
“the study of the size, territorial distribution, and composition of population, changes therein, and the components of such changes” (Hauser and Duncan 1959)
アメリカの人口学の古典とされる本の著者の一人が、社会階層論なら誰でも読むO. D. Duncanなのは、アメリカにおける社会階層論の位置付けを考える意味でも興味深い(ちなみにもう一人のPhilip Hauserも社会階層論の大家であるRobert Hauserの叔父さん)。
このcomposition of population, changes thereinというのは、人口の異質性とその変化のことを指している。具体的には、職業や学歴といった社会階層や、あるいはそれらの世代間・世代内での社会移動につながる。アメリカの人口学の規模が大きいのは、社会学を中心として社会経済的なsubpopulationに着目した研究者が多いからでもある。
社会階層論は社会学のメジャーなサブフィールドの割に(だから?)、国によって参照される文献や研究関心が異なる印象が強い。アメリカに来て、人口学と社会学の近さを肌感覚として感じる中で、社会階層に関心がある研究者の多くが人口学関係の研究センターにも所属していることが、他の国では考えにくいことに改めて気づく。この傾向は特にUW-MadisonやMichigan, UCLAといった州立大学で顕著である(たとえばコロンビアやシカゴにも人口学センターはあるが、前者では社会階層論は経済社会学の色が強く、後者ではGeneral social surveyを実施しているNORCとの関係が深い)。
こうした異質性に対してに何かしら名前をつけられないかと考えて、American approach, European approach, Comparative approachの三つにさしあたり分類した。ちなみに、社会階層論の研究群を分類する試みはすでに大小様々あり、有名なのは比較社会階層研究を時系列的に第1,2世代とまとめていくもの(現在は第4世代ということになっている)(http://sk.sagepub.com/reference/hdbk_intlsociology/n6.xml)。
アメリカ的な社会階層論では、基本的にアメリカ社会を前提として、人口の異質性に着目して地位の達成過程や移動を比較する印象。Gruskyのリーダーのサブタイトルのように、Class, Race, and Genderがわかりやすい例。たとえば、アメリカではraceによる社会移動の格差という研究群が非常に多い。しかし、raceと言うのは一部の国を除けばethnicityに移り変わってしまったことや、アメリカほどraceによる分断が強調されていないこともあるからか、これらの研究はアメリカ内で流通し、アメリカ内で消化されることがもっぱらなのではないかと思う。個人的な関心でいえば、人口学との距離が近いので、assortative mating(階層結合)の研究が多いのも特徴の一つなのではないかなと思う。階層結合の研究は社会階層の一部の研究者がコツコツやってきた分野の印象が強いが、最近では女性の高等教育への進学が男性を上回りはじめ非典型的な「下降婚」のカップルが増加したり、あるいは夫婦ともにフルタイムで働くパワーカップルの存在が格差を拡大させているのではないかという研究が盛り上がってきたため、アメリカ以外でも盛んに研究されるようになった印象がある。
ヨーロッパ的な社会階層論では、各国の制度に着目した分析が多い。ドイツのトラッキングシステムによる教育移動の研究や、欧州内の労働市場や福祉制度の違いに着目した地位達成の研究など。また、アメリカのようなsubpopulation(raceやgenderといった集団レベルの特徴)ではなく、制度以外にも文化といった個人の行動やアイデンティティからは距離のある概念を有効に使う。最近の例では、ブルデューの文化と階層の議論を引き継いだSavageらのGBCSの研究などが有名。
最後の比較社会的なアプローチでは、これら欧米の国以外の研究や、社会移動の国際比較に関心を持つ研究群を指す。なぜ欧米の国以外の研究が比較社会的なのかというと、参照する議論が基本的に欧米の先行研究によっているので、直接比較することはなくても「〜〜とは異なり〜〜では」という発想で研究をスタートすることが多いという共通点があるため。実際に社会移動の国際比較になると、メッカはイギリスのNuffieldになる。
October 19, 2018
Week8の予定
土日
☑︎アブストの編集
☑︎中間テスト×2の用意
☑︎地熱
平日
☑︎中間テスト(DemTech)
☑︎中間テスト(統計)
☑︎統計の宿題
☑︎RC28アブスト
☑︎申請書の執筆
☑︎CDEセミナー
☑︎CDHAセミナー
☑︎プロセミナー
☑︎ミーティング
☑︎アブストの編集
☑︎中間テスト×2の用意
☑︎地熱
平日
☑︎中間テスト(DemTech)
☑︎中間テスト(統計)
☑︎統計の宿題
☑︎RC28アブスト
☑︎申請書の執筆
☑︎CDEセミナー
☑︎CDHAセミナー
☑︎プロセミナー
☑︎ミーティング
October 16, 2018
人口学セミナー第8回文献レビュー(ジェンダー)
Riley, N. (1999). Challenging demography: Contributions from Feminist theory. Sociological Forum 14, 369397.
人口学は主要な関心であるはずの人口変動の議論にジェンダーの概念を持ち込むことに及び腰だった。筆者の主張は見かけ上はシンプルで、人口学はフェミニズムの視点を持ち込むことで、3つの利益があると言う。具体的にはジェンダーは社会を組織づける原理であること、ジェンダーは社会的な構築であること、最後にジェンダー理論は不平等に関する政治的な視点をもたらすことである。
もっとも人口学では女性が等閑視されて来たわけではないとする。特に出生力の研究では女性の存在は意識されてきた。こうした女性に着目する人口学研究の多くは、フェミニズム経験主義的な立場に集約されると筆者は主張する。この視点では、aspects of women’s livesへの視点が十分ではないために分析の結果に何かしらのバイアスが生じていると考える。こうした分析では、理論に女性を「持ち込む」ことが当然視されており、理論自体を再検討しようとする動機には乏しいという。これに対して筆者は冒頭に挙げた三つの視点を生かしてジェンダーを再定式化するべきだとする。
たとえば、これまでの人口学では女性の役割(role of women)が検討されてきたが、この視点ではジェンダーは個人の所有物であり、あくまで個人レベルの議論に終始してしまう。そのためそうした役割の前提にあるような社会レベルでのジェンダーの文脈を軽視してしまう傾向にある。これに対して筆者はジェンダーは社会レベルで組織された制度であることを強調する。したがって、たとえば女性の移動を扱う際でも、女性自体に着目すれば、なぜ女性は移動するのかという問いしか立てられないが、ジェンダーに着目すれば、ジェンダーという制度的な側面がどのように移動の過程に対して影響しているのかと考えることができるという。
さらに、ジェンダーは社会的な構築である。そのため、ジェンダーに対する意味や解釈は社会によって異なる。したがって、ある社会のジェンダーの諸側面を切り取って、安易に他の社会と比較することは難しい。たとえば、欧米社会では女性にとっての教育とは家庭における自立や権力の獲得を意味するかもしれないが、他の社会では教育は良い地位の男性と結婚するための手段として理解されているかもしれない。最後に、フェミニスト的な視点では、社会における権力関係に対して言及することが重要になる。
こうした議論では、ジェンダーは複雑な社会的な過程を経ていると考えられるが、人口学ではもっぱら軽量的なデータを用いるため、こうした複雑性を検討することは難しいのではないかと筆者は指摘する。また、人口学ではあまり理論が重視されることはないが、それでも人口変動の理論が全ての社会が発展途上から先進国に移り変わる中で人口減少も変わりうるという直線的な考えを採用しがちである点が、ジェンダーは社会的な構築であるという観点とは対立するとする。
Krieger (2003). Genders, Sexes, and Health: What are the Connections – and Why Does It Matter? International Journal of Epidemiology 32: 652-657.
Goldscheider, Frances, Eva Bernhardt, and Trude Lappegard. (2015). The Gender Revolution: A Framework for Understanding Changing Family and Demographic Behavior. Population and Development Review 41 (2): 207.
女性の労働参加が上昇し始めた最初の局面では、結婚の遅延や結婚確率の減少、低出生、及び離婚の増加が同時に生じていた。しかし、徐々に女性の労働参加とこれら人口学的な行動の関係は弱くなるか、逆転しつつある、すなわち現在のヨーロッパでは、女性の労働参加が最も高い国では出生率も高い。こうした公私双方におけるジェンダー関係の変化を、本論文ではジェンダー革命(gender revolution)としている。
既存の人口学的な研究において、家族の長期的な変化を説明する枠組みとしては当初ideationalなものが流行し、そこにはジェンダーの側面は薄かった。しかしながら、その後McDonaldらの研究によってジェンダーの側面は出生力の逆転現象において非常に重要であることが明らかにされつつある。それらの研究では、家族を支援する国家の政策の重要性に重きが置かれているが、本研究では、こうした家族外のサポートの影響力を見限るわけではないが、出生以外に生じている家族の変化も考慮しており、これらは出生に比べれば政策の影響を受けにくい。こうした変化は本質的にジェンダー革命と結びついており、より具体的には男性の家庭への関与が重要であるとする。そして、この革命によって家族はより強くなっているとする。この研究では、出生以外に結婚と離婚も検討しながら、ジェンダー革命理論の妥当性を検証している。
第二次人口転換論(SDT)では、物質的な豊かさを手に入れると、家族形成はこうした高次の欲求よりも補助的なものになるため、より個人主義的な態度が顕出するという。ユニオン形成は不安定になり、出生力も低下する。筆者らによれば、SDTの理論が当初この理論が対象としたヨーロッパを超えるとすれば、それはジェンダー革命の影響だろうとしている。
筆者らにおけるジェンダー革命の定義には二つの側面がある。まず、最初の局面では男性が陳労働に従事するという前提の元で、需要の高まった女性が労働市場に出るようになるが、このことは家族を弱めることにつながった。この段階では、フルタイム労働をする女性の結婚が遅れるほか、離婚も増える。しかし、ジェンダー革命の後半では、男性が私的領域においてより家族にコミットするようになる。例えば、アメリカでは20世紀の終わりには、その20年前よりも週あたり5時間、父親が子供と触れ合う時間が伸びたという。
ジェンダー革命がSDTと異なる点は以下のようになる。SDTでは価値観の変化は構造の変化によって生じると考えるが、個人の行動を変えるのは価値観である。すなわち、ideationが直接の原因となる。これに対して筆者は、確かに選好によって個人の行動は規定されるが、それだけでは不適切だろうと考える。ジェンダー革命は完全に構造的であるとする。具体的には、女性の労働参加によって、最初はco-breadwinnerが登場したが、次第に夫婦はco-nurturersになるという。さらに、SDTが予想する同棲や婚外出生の増加についても、法的・宗教的な様式が変化して新たなカップルの地位が誕生したと考えればよく、研究でもアメリカやヨーロッパでは結婚も同棲と同程度に安定的ではないとする。
ただし、ジェンダー革命の第2の側面は停滞している。この点について、筆者は第一に男性の私的領域での役割に対するプレッシャーが出てきたのはここ最近であるという注釈をつける。女性の労働参加が増加した1960-70年代には、まだ女性の稼得能力は補完的なもので、男性稼ぎ主モデルが支持されていた。しかし、1980-1990年代になって、女性の稼得能力が単なるadd-onではなく中心的な役割と認識されるようになる。この背景には、グローバル化に伴って男性の労働市場における役割が不透明になったことも関係している。もちろん、まだ構造的な要因は男性の家庭への進出に対して制約を課していることも事実である。しかし、徐々に人々は新たなジェンダー構造に適応している。
この主張をサポートする証拠として、筆者は結婚、出生、及び離婚の三つを事例に議論を進めている。要約すると、かつては学歴が高く、フルタイム労働をしている人ほど結婚が遅く、出生力も低く、離婚もしやすかったが、この関係性が近年になって逆転しているというものである。さらに、男性の家庭における貢献(家事や育児)が妻の結婚満足度とポジティブに関連し、家族を安定的にするという知見も出ている。
加えて、女性の労働参加と高学歴化によって、こうしたジェンダー平等的な意識は強化されているし、それらは世代間でも伝達される。したがって、今後社会はますますジェンダー平等的になると考えられる。
Goldscheiderのジェンダー革命理論は二人親を前提としつつ強い/弱い家族という主張をしていたり、男性側のジェンダー役割意識が出生力回復の鍵で、先進国はみなスウェーデンのようになるのだという近代化論の亜種的な発想をしているのは気にくわないが、仮説自体はテストしやすいので、そこは評価。
Compton, D. L. R. (2015). LG (BT) Families and Counting. Sociology Compass 9(7), 597-608.
Peter McDonald. (2000) Gender Equity and Theories of Fertility Transition. Population and Development Review. 26(3): 427-439.
Read, Jennan Ghazal and Bridget K. Gorman. 2010. Gender and Health Inequality. Annual Review of Sociology 36: 371-86. doi:10.1146/annurev.soc.012809.102535
England, Paula. (2010). The Gender Revolution: Uneven and Stalled. Gender & Society 24(2):149-166.
Ferree, Myra Marx. (2010). Filling the Glass: Gender Perspectives on Families. Journal of Marriage and Family 72:420-439.
人口学は主要な関心であるはずの人口変動の議論にジェンダーの概念を持ち込むことに及び腰だった。筆者の主張は見かけ上はシンプルで、人口学はフェミニズムの視点を持ち込むことで、3つの利益があると言う。具体的にはジェンダーは社会を組織づける原理であること、ジェンダーは社会的な構築であること、最後にジェンダー理論は不平等に関する政治的な視点をもたらすことである。
もっとも人口学では女性が等閑視されて来たわけではないとする。特に出生力の研究では女性の存在は意識されてきた。こうした女性に着目する人口学研究の多くは、フェミニズム経験主義的な立場に集約されると筆者は主張する。この視点では、aspects of women’s livesへの視点が十分ではないために分析の結果に何かしらのバイアスが生じていると考える。こうした分析では、理論に女性を「持ち込む」ことが当然視されており、理論自体を再検討しようとする動機には乏しいという。これに対して筆者は冒頭に挙げた三つの視点を生かしてジェンダーを再定式化するべきだとする。
たとえば、これまでの人口学では女性の役割(role of women)が検討されてきたが、この視点ではジェンダーは個人の所有物であり、あくまで個人レベルの議論に終始してしまう。そのためそうした役割の前提にあるような社会レベルでのジェンダーの文脈を軽視してしまう傾向にある。これに対して筆者はジェンダーは社会レベルで組織された制度であることを強調する。したがって、たとえば女性の移動を扱う際でも、女性自体に着目すれば、なぜ女性は移動するのかという問いしか立てられないが、ジェンダーに着目すれば、ジェンダーという制度的な側面がどのように移動の過程に対して影響しているのかと考えることができるという。
さらに、ジェンダーは社会的な構築である。そのため、ジェンダーに対する意味や解釈は社会によって異なる。したがって、ある社会のジェンダーの諸側面を切り取って、安易に他の社会と比較することは難しい。たとえば、欧米社会では女性にとっての教育とは家庭における自立や権力の獲得を意味するかもしれないが、他の社会では教育は良い地位の男性と結婚するための手段として理解されているかもしれない。最後に、フェミニスト的な視点では、社会における権力関係に対して言及することが重要になる。
こうした議論では、ジェンダーは複雑な社会的な過程を経ていると考えられるが、人口学ではもっぱら軽量的なデータを用いるため、こうした複雑性を検討することは難しいのではないかと筆者は指摘する。また、人口学ではあまり理論が重視されることはないが、それでも人口変動の理論が全ての社会が発展途上から先進国に移り変わる中で人口減少も変わりうるという直線的な考えを採用しがちである点が、ジェンダーは社会的な構築であるという観点とは対立するとする。
Krieger (2003). Genders, Sexes, and Health: What are the Connections – and Why Does It Matter? International Journal of Epidemiology 32: 652-657.
Goldscheider, Frances, Eva Bernhardt, and Trude Lappegard. (2015). The Gender Revolution: A Framework for Understanding Changing Family and Demographic Behavior. Population and Development Review 41 (2): 207.
女性の労働参加が上昇し始めた最初の局面では、結婚の遅延や結婚確率の減少、低出生、及び離婚の増加が同時に生じていた。しかし、徐々に女性の労働参加とこれら人口学的な行動の関係は弱くなるか、逆転しつつある、すなわち現在のヨーロッパでは、女性の労働参加が最も高い国では出生率も高い。こうした公私双方におけるジェンダー関係の変化を、本論文ではジェンダー革命(gender revolution)としている。
既存の人口学的な研究において、家族の長期的な変化を説明する枠組みとしては当初ideationalなものが流行し、そこにはジェンダーの側面は薄かった。しかしながら、その後McDonaldらの研究によってジェンダーの側面は出生力の逆転現象において非常に重要であることが明らかにされつつある。それらの研究では、家族を支援する国家の政策の重要性に重きが置かれているが、本研究では、こうした家族外のサポートの影響力を見限るわけではないが、出生以外に生じている家族の変化も考慮しており、これらは出生に比べれば政策の影響を受けにくい。こうした変化は本質的にジェンダー革命と結びついており、より具体的には男性の家庭への関与が重要であるとする。そして、この革命によって家族はより強くなっているとする。この研究では、出生以外に結婚と離婚も検討しながら、ジェンダー革命理論の妥当性を検証している。
第二次人口転換論(SDT)では、物質的な豊かさを手に入れると、家族形成はこうした高次の欲求よりも補助的なものになるため、より個人主義的な態度が顕出するという。ユニオン形成は不安定になり、出生力も低下する。筆者らによれば、SDTの理論が当初この理論が対象としたヨーロッパを超えるとすれば、それはジェンダー革命の影響だろうとしている。
筆者らにおけるジェンダー革命の定義には二つの側面がある。まず、最初の局面では男性が陳労働に従事するという前提の元で、需要の高まった女性が労働市場に出るようになるが、このことは家族を弱めることにつながった。この段階では、フルタイム労働をする女性の結婚が遅れるほか、離婚も増える。しかし、ジェンダー革命の後半では、男性が私的領域においてより家族にコミットするようになる。例えば、アメリカでは20世紀の終わりには、その20年前よりも週あたり5時間、父親が子供と触れ合う時間が伸びたという。
ジェンダー革命がSDTと異なる点は以下のようになる。SDTでは価値観の変化は構造の変化によって生じると考えるが、個人の行動を変えるのは価値観である。すなわち、ideationが直接の原因となる。これに対して筆者は、確かに選好によって個人の行動は規定されるが、それだけでは不適切だろうと考える。ジェンダー革命は完全に構造的であるとする。具体的には、女性の労働参加によって、最初はco-breadwinnerが登場したが、次第に夫婦はco-nurturersになるという。さらに、SDTが予想する同棲や婚外出生の増加についても、法的・宗教的な様式が変化して新たなカップルの地位が誕生したと考えればよく、研究でもアメリカやヨーロッパでは結婚も同棲と同程度に安定的ではないとする。
ただし、ジェンダー革命の第2の側面は停滞している。この点について、筆者は第一に男性の私的領域での役割に対するプレッシャーが出てきたのはここ最近であるという注釈をつける。女性の労働参加が増加した1960-70年代には、まだ女性の稼得能力は補完的なもので、男性稼ぎ主モデルが支持されていた。しかし、1980-1990年代になって、女性の稼得能力が単なるadd-onではなく中心的な役割と認識されるようになる。この背景には、グローバル化に伴って男性の労働市場における役割が不透明になったことも関係している。もちろん、まだ構造的な要因は男性の家庭への進出に対して制約を課していることも事実である。しかし、徐々に人々は新たなジェンダー構造に適応している。
この主張をサポートする証拠として、筆者は結婚、出生、及び離婚の三つを事例に議論を進めている。要約すると、かつては学歴が高く、フルタイム労働をしている人ほど結婚が遅く、出生力も低く、離婚もしやすかったが、この関係性が近年になって逆転しているというものである。さらに、男性の家庭における貢献(家事や育児)が妻の結婚満足度とポジティブに関連し、家族を安定的にするという知見も出ている。
加えて、女性の労働参加と高学歴化によって、こうしたジェンダー平等的な意識は強化されているし、それらは世代間でも伝達される。したがって、今後社会はますますジェンダー平等的になると考えられる。
Goldscheiderのジェンダー革命理論は二人親を前提としつつ強い/弱い家族という主張をしていたり、男性側のジェンダー役割意識が出生力回復の鍵で、先進国はみなスウェーデンのようになるのだという近代化論の亜種的な発想をしているのは気にくわないが、仮説自体はテストしやすいので、そこは評価。
Compton, D. L. R. (2015). LG (BT) Families and Counting. Sociology Compass 9(7), 597-608.
Peter McDonald. (2000) Gender Equity and Theories of Fertility Transition. Population and Development Review. 26(3): 427-439.
Read, Jennan Ghazal and Bridget K. Gorman. 2010. Gender and Health Inequality. Annual Review of Sociology 36: 371-86. doi:10.1146/annurev.soc.012809.102535
England, Paula. (2010). The Gender Revolution: Uneven and Stalled. Gender & Society 24(2):149-166.
Ferree, Myra Marx. (2010). Filling the Glass: Gender Perspectives on Families. Journal of Marriage and Family 72:420-439.
October 13, 2018
人口学セミナー第7回文献レビュー(人種)
Waters M. The Social Construction of Race and Ethnicity: Some Examples from Demography. In: Denton NA, Tolnay SE, editors. American Diversity: A Demographic Challenge for the Twenty-First Century. Albany, NY: State University of New York Press; 2002. pp. 25-49.
Raceとethnicityは社会的な構築物であるというのは自明のこととして扱われているが、本章ではその矛盾について、人口学的な視点から検討している。著者は自身の所属するハーバード大学の授業後に、ある一年生がオフィスを訪ねて来た時の話から議論を始める。この学生は自分がどのように自身のアイデンティティを決めればいいかについて相談しようとしていた。彼女は母からアメリカン・インディアンであることを伝えられていたが、同時に黒人の先祖もいた。さらに、アイリッシュとスコティッシュの先祖もいる。このような状況で、彼女は当てはまるアイデンティティにはすべてチェックを入れていたが、あるひ、ハーバード大学に入学した後に黒人学生協会からメールをもらう。一方で、彼女には一卵性双生児の姉妹がおり、彼女はネイティブアメリカンの学生協会からメールをもらっていた。
筆者は、このストーリー自体はrace/ethnicityが社会的に構築されているというストーリーと符合するところもあるとする一方で、その後になって大学当局からこの問題について訂正が必要であるというメッセージを受け取ったことも交えながら、この事例は構築主義の限界も示しているという。すなわち、社会的構築主義はアイデンティティは可変的であるとしながら、実際にはrace ethnicityは固定的なもので、個人は一つのアイデンティティしか持てず、我々は人のgenealogicalな情報から彼らのrace/ethnicityを客観的に同定できるという考えも並存しているという。この矛盾、つまりrace/ethnicityは社会的に構築されると想定する一方で、それらは客観的で安定的であるという点について、筆者はセンサスの事例を用いて検討している。
アメリカでは1978年からrace/ethnicityについての情報が集められるようになった。当時のraceカテゴリはamerican indian or alaska native, asian or pacific islander, black, hispanic, and whiteの5つだった。1997年には政府はいくつかの改定を行い、まずasian or pacific islanderがasianとnative hawaiian or other pacific islanderに分けられ、次にhispanicがhispanic or latinoになり、blackがblack or african americanになった。さらに、raceのカテゴリについて複数回答を認めるようになった。
センサスではより詳細にrace ethnicityについて尋ねており、現在ではおおまかにいえば(1)spanish origin question(2)race(3)ancestry questionの三つになる。2000年までのセンサスでは複数のraceを答えることができなかったが、2000年からは可能になった。2000年のデータが利用可能になると、race/ethnicityカテゴリに大きな変化が見られることがわかった。例えば、intermarriedしたカップルでは、彼らの子どものancestryを単純化する傾向が見られた。raceについても、american indianの人口は1960年から1990年の間に2.5倍になっている。この増加は人口学的にはありえない数であり、複数の人種について記入できるようになったことを反映しているという。
これらの事実は、センサスが測ろうとしている客観的なrace ethnicity指標が実際は変化と一貫しないパターンに基づいていることを示唆している。
一個人の中でもraceやethnicityのアイデンティティは変化しうる。このことが人口学に与える影響とはなんだろう。移動について考えてみよう。人口学は、どのethnicityのグループがどう移動するかに関心を持ってきた。この研究群では、ethnicityは独立変数として想定されている。しかし、移動場所とアイデンティティが逆の因果に影響することは容易に想定しうる。実際、pacific ilandersはハワイにいる場合には複数のエスニックバックグラウンドを答える傾向にあるが、このような背景を持った人がLAに移動すると一つのアイデンティティを選択するようになる。
おそらく、エスニシティの測定、及びその長期的な安定性と一貫性における最も大きな課題として筆者があげるのはintermarriageのカップルのもとに生まれた子どもであるとする。こうした子どもたちのエスニックバックグラウンドについての定義に影響する最も大きな要因の一つは制度的なシステムである。アメリカでは黒人の先祖が一人でもいると黒人と判断されるone drop ruleが歴史的に形成されてきた。しかし、1960年代から公民権運動が起こるなど、マイノリティに対する文脈が変わってくる。出生力はエスニック集団ごとに異なっていることが知られており、今後、mixed race/ethnicityの子どもたちが増えてくるなかで、どのように人口を予測するかが問題になるという。
Saperstein, A., Penner, A. M. (2012). Racial fluidity and inequality in the United States. American Journal of Sociology, 118(3), 676-727.
Watersの議論も踏まえ、raceが個人の中で本当に安定的なのかを定量的に検討した論文。アメリカの階層システムの中で、raceはメンバーシップを伴う制度の中に位置付けられる。すなわち、あるraceというメンバーシップに分類されることで、制度的な慣性、暗黙の偏見、蓄積された不平等、社会的な孤立などにおいて異なる扱いを受ける。したがって、アメリカではraceは社会の階層性を構成する重要な要素として考えられて来た。
こうした研究群では、raceはもっぱらinputとして扱われることになる。つまりどのようなraceかによって将来的なattainmentがどう異なるのか?といった問いに用いられる。したがって、raceは安定的なものとして想定される。社会的な構築物だと考えられてるにも関わらずだ。
しかし、この論文ではrace/ethnicity及び社会心理学の文献をもとに、逆の経路の可能性を検討する。すなわち、結果としての不平等がraceによる分断を強化するのではないか?
raceによる分断は、本人がどう自分のraceをidentifyするかという側面と、どのカテゴリに分類されるかというclassificationの二つの側面がある。前者の研究群においては、個人のracial identificationはネットワークや近隣、あるいは出身国によって変わりうることが報告されているという。これらの研究では、raceの揺れが表面的(単なる誤差)なのか、本質的(本人が意図的に変えている)のかで論争を呼んできた。
raceに関するもう一方の研究群、すなわち分類については,社会心理学などの知見から、アメリカでは「白人」には豊かさや知性というイメージが付与され、一方で「黒人」にはネガティブな特徴が付与されることが指摘される。こうした偏見に基づく関連付け(stereotypical associations)が分類自体にも適用される可能性を指摘する。例えば、lower classの黒人は人種によって語られるのに対して、middle classの黒人はそのclassによって語られるという。このような事例を踏まえると、一個人の中で地位が変わることによってracial identification/classificationは変わるのではないか?
この可能性を検討するため、筆者はNLSY79データの本人のraceのidentificationと調査員によるclassificationの二つを検討している。対象は最も最近のraceの情報がわかる2002年までとなっている(論文は2012年に出ているので、もう少しアップデートできないのか?)。identificationとして筆者は79年のorigin or descent、及び2002年のrace or racesを使用している。classificationとしては、調査者(interviewer)が毎回調査の終わりにraceを分類していたことに着目し、これをclassificationとしている。最後に聞いているのがポイントで、この論文の想定である、地位に基づいて人種が決まるというロジックにつながる。
いずれも、従属変数はwhite, black, otherの3つになっており、推定ではwhite or non-whiteないしblack or non-blackの二項ロジットになっている。これはinterviewerの分類がそれしかないことに起因していると思われるが、のちの批判論文で、この分類はwhiteがblackになったりblackがwhiteになったりすることを示唆するが、実際にraceが変わりうるのはヒスパニック系が多いことが指摘されている(さらにいえば、この論文では33%のサンプルが一回の地位の変化を起こしているとしているが、AlbaらはこれがNLYSがヒスパニックなどのマイノリティをオーバーサンプルしており、筆者たちがウェイティングをしていないことを暗に批判している)。
独立変数として用いているのは、長期の失業(4ヶ月以上)、貧困、収監、福祉手当の受給、学歴達成、婚姻上の地位と居住地である。これらの変数のうち、居住地以外はその「経験」が用いられており、要するに一度でもその地位についたことがあれば1になるように設定されている。この点も批判されることになったようだ。
分析の結果は、想定通り黒人と関連づけられやすい特徴をもつと、黒人と分類されたり、自分のことを黒人として分類したりする傾向にある。反対に、白人と関連づけられやすい特徴(わかりやすい例としては大卒)を持つと、白人に分類されやすくなるという。
Kaufman, J. S., Cooper, R. S. (2001). Commentary: considerations for use of racial/ethnic classification in etiologic research. American Journal of Epidemiology, 154(4), 291-298.
Williams, D. R., Sternthal, M. (2010). Understanding racial-ethnic disparities in health: Sociological contributions. Journal of Health and Social Behavior 51(1suppl), S15-S27.
Raceとethnicityは社会的な構築物であるというのは自明のこととして扱われているが、本章ではその矛盾について、人口学的な視点から検討している。著者は自身の所属するハーバード大学の授業後に、ある一年生がオフィスを訪ねて来た時の話から議論を始める。この学生は自分がどのように自身のアイデンティティを決めればいいかについて相談しようとしていた。彼女は母からアメリカン・インディアンであることを伝えられていたが、同時に黒人の先祖もいた。さらに、アイリッシュとスコティッシュの先祖もいる。このような状況で、彼女は当てはまるアイデンティティにはすべてチェックを入れていたが、あるひ、ハーバード大学に入学した後に黒人学生協会からメールをもらう。一方で、彼女には一卵性双生児の姉妹がおり、彼女はネイティブアメリカンの学生協会からメールをもらっていた。
筆者は、このストーリー自体はrace/ethnicityが社会的に構築されているというストーリーと符合するところもあるとする一方で、その後になって大学当局からこの問題について訂正が必要であるというメッセージを受け取ったことも交えながら、この事例は構築主義の限界も示しているという。すなわち、社会的構築主義はアイデンティティは可変的であるとしながら、実際にはrace ethnicityは固定的なもので、個人は一つのアイデンティティしか持てず、我々は人のgenealogicalな情報から彼らのrace/ethnicityを客観的に同定できるという考えも並存しているという。この矛盾、つまりrace/ethnicityは社会的に構築されると想定する一方で、それらは客観的で安定的であるという点について、筆者はセンサスの事例を用いて検討している。
アメリカでは1978年からrace/ethnicityについての情報が集められるようになった。当時のraceカテゴリはamerican indian or alaska native, asian or pacific islander, black, hispanic, and whiteの5つだった。1997年には政府はいくつかの改定を行い、まずasian or pacific islanderがasianとnative hawaiian or other pacific islanderに分けられ、次にhispanicがhispanic or latinoになり、blackがblack or african americanになった。さらに、raceのカテゴリについて複数回答を認めるようになった。
センサスではより詳細にrace ethnicityについて尋ねており、現在ではおおまかにいえば(1)spanish origin question(2)race(3)ancestry questionの三つになる。2000年までのセンサスでは複数のraceを答えることができなかったが、2000年からは可能になった。2000年のデータが利用可能になると、race/ethnicityカテゴリに大きな変化が見られることがわかった。例えば、intermarriedしたカップルでは、彼らの子どものancestryを単純化する傾向が見られた。raceについても、american indianの人口は1960年から1990年の間に2.5倍になっている。この増加は人口学的にはありえない数であり、複数の人種について記入できるようになったことを反映しているという。
これらの事実は、センサスが測ろうとしている客観的なrace ethnicity指標が実際は変化と一貫しないパターンに基づいていることを示唆している。
一個人の中でもraceやethnicityのアイデンティティは変化しうる。このことが人口学に与える影響とはなんだろう。移動について考えてみよう。人口学は、どのethnicityのグループがどう移動するかに関心を持ってきた。この研究群では、ethnicityは独立変数として想定されている。しかし、移動場所とアイデンティティが逆の因果に影響することは容易に想定しうる。実際、pacific ilandersはハワイにいる場合には複数のエスニックバックグラウンドを答える傾向にあるが、このような背景を持った人がLAに移動すると一つのアイデンティティを選択するようになる。
おそらく、エスニシティの測定、及びその長期的な安定性と一貫性における最も大きな課題として筆者があげるのはintermarriageのカップルのもとに生まれた子どもであるとする。こうした子どもたちのエスニックバックグラウンドについての定義に影響する最も大きな要因の一つは制度的なシステムである。アメリカでは黒人の先祖が一人でもいると黒人と判断されるone drop ruleが歴史的に形成されてきた。しかし、1960年代から公民権運動が起こるなど、マイノリティに対する文脈が変わってくる。出生力はエスニック集団ごとに異なっていることが知られており、今後、mixed race/ethnicityの子どもたちが増えてくるなかで、どのように人口を予測するかが問題になるという。
Saperstein, A., Penner, A. M. (2012). Racial fluidity and inequality in the United States. American Journal of Sociology, 118(3), 676-727.
Watersの議論も踏まえ、raceが個人の中で本当に安定的なのかを定量的に検討した論文。アメリカの階層システムの中で、raceはメンバーシップを伴う制度の中に位置付けられる。すなわち、あるraceというメンバーシップに分類されることで、制度的な慣性、暗黙の偏見、蓄積された不平等、社会的な孤立などにおいて異なる扱いを受ける。したがって、アメリカではraceは社会の階層性を構成する重要な要素として考えられて来た。
こうした研究群では、raceはもっぱらinputとして扱われることになる。つまりどのようなraceかによって将来的なattainmentがどう異なるのか?といった問いに用いられる。したがって、raceは安定的なものとして想定される。社会的な構築物だと考えられてるにも関わらずだ。
しかし、この論文ではrace/ethnicity及び社会心理学の文献をもとに、逆の経路の可能性を検討する。すなわち、結果としての不平等がraceによる分断を強化するのではないか?
raceによる分断は、本人がどう自分のraceをidentifyするかという側面と、どのカテゴリに分類されるかというclassificationの二つの側面がある。前者の研究群においては、個人のracial identificationはネットワークや近隣、あるいは出身国によって変わりうることが報告されているという。これらの研究では、raceの揺れが表面的(単なる誤差)なのか、本質的(本人が意図的に変えている)のかで論争を呼んできた。
raceに関するもう一方の研究群、すなわち分類については,社会心理学などの知見から、アメリカでは「白人」には豊かさや知性というイメージが付与され、一方で「黒人」にはネガティブな特徴が付与されることが指摘される。こうした偏見に基づく関連付け(stereotypical associations)が分類自体にも適用される可能性を指摘する。例えば、lower classの黒人は人種によって語られるのに対して、middle classの黒人はそのclassによって語られるという。このような事例を踏まえると、一個人の中で地位が変わることによってracial identification/classificationは変わるのではないか?
この可能性を検討するため、筆者はNLSY79データの本人のraceのidentificationと調査員によるclassificationの二つを検討している。対象は最も最近のraceの情報がわかる2002年までとなっている(論文は2012年に出ているので、もう少しアップデートできないのか?)。identificationとして筆者は79年のorigin or descent、及び2002年のrace or racesを使用している。classificationとしては、調査者(interviewer)が毎回調査の終わりにraceを分類していたことに着目し、これをclassificationとしている。最後に聞いているのがポイントで、この論文の想定である、地位に基づいて人種が決まるというロジックにつながる。
いずれも、従属変数はwhite, black, otherの3つになっており、推定ではwhite or non-whiteないしblack or non-blackの二項ロジットになっている。これはinterviewerの分類がそれしかないことに起因していると思われるが、のちの批判論文で、この分類はwhiteがblackになったりblackがwhiteになったりすることを示唆するが、実際にraceが変わりうるのはヒスパニック系が多いことが指摘されている(さらにいえば、この論文では33%のサンプルが一回の地位の変化を起こしているとしているが、AlbaらはこれがNLYSがヒスパニックなどのマイノリティをオーバーサンプルしており、筆者たちがウェイティングをしていないことを暗に批判している)。
独立変数として用いているのは、長期の失業(4ヶ月以上)、貧困、収監、福祉手当の受給、学歴達成、婚姻上の地位と居住地である。これらの変数のうち、居住地以外はその「経験」が用いられており、要するに一度でもその地位についたことがあれば1になるように設定されている。この点も批判されることになったようだ。
分析の結果は、想定通り黒人と関連づけられやすい特徴をもつと、黒人と分類されたり、自分のことを黒人として分類したりする傾向にある。反対に、白人と関連づけられやすい特徴(わかりやすい例としては大卒)を持つと、白人に分類されやすくなるという。
Kaufman, J. S., Cooper, R. S. (2001). Commentary: considerations for use of racial/ethnic classification in etiologic research. American Journal of Epidemiology, 154(4), 291-298.
Williams, D. R., Sternthal, M. (2010). Understanding racial-ethnic disparities in health: Sociological contributions. Journal of Health and Social Behavior 51(1suppl), S15-S27.
October 12, 2018
社会学らしさー現実の世界から着想を得ることへの寛容さ
今日の人口学のセミナーは健康の社会的要因についてでした。文献の中で、ある社会における不平等と健康の関連を説明する枠組みとしてpsychosocialな説明が紹介されており、要約すると、この理論では自分が社会的に下位に位置すると認識することでストレスや否定的な感情が大きくなり、健康に悪影響があることに注目しています。議論の中で、私がその説明は、誰もが自分の階層的な位置を正しく把握できているという仮定に基づいていると思うが、それは経験的には正しくないのではないか、という旨の発言をしたところ、質的な研究もしている上級生が、実際に貧困家庭の人にインタビューした時の話をしてくれました。具体的には、客観的にはlow SESだと判断されるのに、自分たちは別に貧しくないという家庭もあった、というものです。
この自分の客観的な地位と主観的な地位が一致しないという話は、社会学らしいテーマだなと思っています。そして、社会学ではこの例のように、同じ命題らしきものに、演繹的な方法でも、実際の事例からでも、たどり着くことに対して寛容なのではないかと考えています。
盛山先生ワードの意味世界というのは、翻訳することが不可能な言葉ですが、指している事象自体は広く社会学の中で共有されているのではないでしょうか。やや雑にはなりますがまとめると、現実の世界において共有されている規範や言語の体系といったくらいの意味として考えていますが、こういった意味世界と同じで、現実の世界にある意味を対象化して説明するというのは、社会学らしいなと思っています。更に言えば、この意味世界に着目するというアプローチは、別に質的研究の人ばかりに限った話ではなく、計量分析をする人にも広く共有されており、彼らも規範や共有されている意味から、何かしらの問いを作ったりします。
こうした現実にある意味を対象化するためには、その意味がなぜ共有されてるのかに関する文脈に詳しくないといけません。と同時に、対象化、つまり他の事情と比較できるように拾える程度には、客観的に、外から事象を眺めることができるのが望ましいでしょう。佐藤俊樹先生の言葉を借りれば「常識をうまく手放す」ということになりますが、そのあたりが外国語で社会学をするときの難しさなのかもしれない、と思うことがあります。それは例えば、自分の世界で共有されている意味を翻訳しにくかったりすることもあるし、逆に相手の世界の意味が直感的には分かりにくかったりすることもあります。とある意味世界の中にいる社会学者の集団では、その意味自体は共有されているので、報告者は現実から距離をとって問いを立てれば良いですが、他の意味世界の人に問いを伝える際には、その社会における妥当とされているルールについてまず説明する必要があります。
例えば、「学歴社会」というのは日本では人口に膾炙した言葉だと思いますが、人々はこの言葉から学歴によって社会における成功が秩序づいていることを想像できると思いますし、現実にこうした言葉によって説明しうるような事態に直接・間接の形で触れているでしょう。さらにいえば、これが自分だけが持つ知識ではなく、(日本)社会において共有されているものであることも少なくない人が認めるでしょう。学歴社会論を否定することも含めて、日本が学歴を重視するとされている社会であることには合意が取れているはずです。学歴社会の話と、先のインタビューのような事例が全く同じ土台で語れるわけではありませんが、少なくとも、ある認識が自明なものとして機能している、つまり「自分は貧しいわけではない」と認識が当人の中で自明なものとして語られているという点では、両者は意味とまとめてよいだろうと考えられます。
社会学は現実の世界から拾ってきた意味をもとに理論を作ることに寛容な学問なので、それは外から見ると適当に思われるかもしれないし、社会学の内部でもそうした研究が科学的ではないという評価を下す人もいます。私個人としては、ロジカルな説明をすることとそれを科学的に検証することは段階としては違うことなので、さしあたり前者が満たされていれば、説明としては成立しうるので研究として参照されることもあるだろうと思います。
もちろん、我々が納得する説明の全てが検証できるわけではないし、もしかすると社会学に対する懐疑的な目は、納得はできるが、検証することができない話が少し多すぎるところからきているのかもしれません。したがって、私は意味世界から理論を作るにしても、それを仮説として検証したり、他の事例に応用することから逃げてはいけないなと考えています。
この自分の客観的な地位と主観的な地位が一致しないという話は、社会学らしいテーマだなと思っています。そして、社会学ではこの例のように、同じ命題らしきものに、演繹的な方法でも、実際の事例からでも、たどり着くことに対して寛容なのではないかと考えています。
盛山先生ワードの意味世界というのは、翻訳することが不可能な言葉ですが、指している事象自体は広く社会学の中で共有されているのではないでしょうか。やや雑にはなりますがまとめると、現実の世界において共有されている規範や言語の体系といったくらいの意味として考えていますが、こういった意味世界と同じで、現実の世界にある意味を対象化して説明するというのは、社会学らしいなと思っています。更に言えば、この意味世界に着目するというアプローチは、別に質的研究の人ばかりに限った話ではなく、計量分析をする人にも広く共有されており、彼らも規範や共有されている意味から、何かしらの問いを作ったりします。
こうした現実にある意味を対象化するためには、その意味がなぜ共有されてるのかに関する文脈に詳しくないといけません。と同時に、対象化、つまり他の事情と比較できるように拾える程度には、客観的に、外から事象を眺めることができるのが望ましいでしょう。佐藤俊樹先生の言葉を借りれば「常識をうまく手放す」ということになりますが、そのあたりが外国語で社会学をするときの難しさなのかもしれない、と思うことがあります。それは例えば、自分の世界で共有されている意味を翻訳しにくかったりすることもあるし、逆に相手の世界の意味が直感的には分かりにくかったりすることもあります。とある意味世界の中にいる社会学者の集団では、その意味自体は共有されているので、報告者は現実から距離をとって問いを立てれば良いですが、他の意味世界の人に問いを伝える際には、その社会における妥当とされているルールについてまず説明する必要があります。
例えば、「学歴社会」というのは日本では人口に膾炙した言葉だと思いますが、人々はこの言葉から学歴によって社会における成功が秩序づいていることを想像できると思いますし、現実にこうした言葉によって説明しうるような事態に直接・間接の形で触れているでしょう。さらにいえば、これが自分だけが持つ知識ではなく、(日本)社会において共有されているものであることも少なくない人が認めるでしょう。学歴社会論を否定することも含めて、日本が学歴を重視するとされている社会であることには合意が取れているはずです。学歴社会の話と、先のインタビューのような事例が全く同じ土台で語れるわけではありませんが、少なくとも、ある認識が自明なものとして機能している、つまり「自分は貧しいわけではない」と認識が当人の中で自明なものとして語られているという点では、両者は意味とまとめてよいだろうと考えられます。
社会学は現実の世界から拾ってきた意味をもとに理論を作ることに寛容な学問なので、それは外から見ると適当に思われるかもしれないし、社会学の内部でもそうした研究が科学的ではないという評価を下す人もいます。私個人としては、ロジカルな説明をすることとそれを科学的に検証することは段階としては違うことなので、さしあたり前者が満たされていれば、説明としては成立しうるので研究として参照されることもあるだろうと思います。
もちろん、我々が納得する説明の全てが検証できるわけではないし、もしかすると社会学に対する懐疑的な目は、納得はできるが、検証することができない話が少し多すぎるところからきているのかもしれません。したがって、私は意味世界から理論を作るにしても、それを仮説として検証したり、他の事例に応用することから逃げてはいけないなと考えています。
Week6の振り返り
今週あまり日記書いてませんでしたね。今週は、予想以上に忙しくなかった気がします。水曜日にあるはずのトレーニングセミナーがゲストの都合で月曜になったので、月火はいつものように忙しかったですが、水曜日は一日空いて、久しぶりに研究関係の仕事をしました。毎回緊張する人口学セミナーも、social determinants of healthがテーマで、最初はそこまで面白くないなと思っていたのですが、議論する中で結構発言することになり、意外と思い入れあるのかもしれません。質問は、なぜか先週の金曜日、つまり1週間前に投げたのでそのプレッシャーがないことも疲れてない理由かもしれません。文献はいつも以上に丁寧にまとめた気がします。
健康の社会的要因の何が面白いかというと、意外とメカニズムが色々あるらしいところかもしれません。一人当たりGNPで世界のトップにあるアメリカで、なぜこんなにも健康における不平等があるのか?というのは、当たり前だろという人も多いかもしれませんが、なぜかをreasonableに説明するのは意外と難しいのではないかと考えました。例えば、個人の年収がそれ自体として重要であるとしても、それではなぜアメリカの黒人の収入はLatin America諸国の平均所得よりも大きく高いのに対して、黒人層の平均余命は短いのか、といわれたら、どう答えるでしょうか。一見すると個人年収は当たり前のように重要な変数のように考えてしまいますが、実は相対的なレベルの不平等が重要なのではないかということになります。さらに、カナダとアメリカのcountryを比較すると、同じ程度の貧困地区でも、カナダの死亡率はアメリカよりも低い。なぜだろう、多分制度とかインフラへのアクセスが関わって来そうですよね。このように結構色々考えられるのです。そこには、独立変数としての社会階層(SES)指標があり、社会階層論をやった後にSDHの議論を聞くと、本当にその想定でいいの?と思うところもあり、エキサイティングです。
人口学のセミナーは歴史、理論、最近の論文バランスよくカバーされてて予想よりだいぶキツいです。去年までは600番台の講義で学部生もいたけど、今年から900番台のセミナーになりました。先生はJHUの公衆衛生の出身で、健康とか寿命が専門だけど、とりあえず全部に詳しくて驚きます。若くて熱心で、セミナーから得るものは大きいです。もちろん、やろうと思えば2時間半ずっと話せるんでしょうけど(最初の2回はほぼ講義でした)、今は基本、学生のco-leadの人に任せて、先生は議論の整理や補足に回っています。教えることと議論させることのバランスを取るのは難しいと思うけど、絶妙です。若くて研究熱心な先生が多いのは弊学部の強みだと思います。
ほとんど振り返りになりませんでしたw 授業でも、段々力を抜く箇所はぬいた方が全体的に見れば効率いいなと思い始めたのも理由かもしれません。でも、そろそろ中間テストなので、またギアを入れる必要がありそうです。今週は、息切れせず「普通にこなせた」という意味では新しい一歩を踏み出せたのかなと思います。
健康の社会的要因の何が面白いかというと、意外とメカニズムが色々あるらしいところかもしれません。一人当たりGNPで世界のトップにあるアメリカで、なぜこんなにも健康における不平等があるのか?というのは、当たり前だろという人も多いかもしれませんが、なぜかをreasonableに説明するのは意外と難しいのではないかと考えました。例えば、個人の年収がそれ自体として重要であるとしても、それではなぜアメリカの黒人の収入はLatin America諸国の平均所得よりも大きく高いのに対して、黒人層の平均余命は短いのか、といわれたら、どう答えるでしょうか。一見すると個人年収は当たり前のように重要な変数のように考えてしまいますが、実は相対的なレベルの不平等が重要なのではないかということになります。さらに、カナダとアメリカのcountryを比較すると、同じ程度の貧困地区でも、カナダの死亡率はアメリカよりも低い。なぜだろう、多分制度とかインフラへのアクセスが関わって来そうですよね。このように結構色々考えられるのです。そこには、独立変数としての社会階層(SES)指標があり、社会階層論をやった後にSDHの議論を聞くと、本当にその想定でいいの?と思うところもあり、エキサイティングです。
人口学のセミナーは歴史、理論、最近の論文バランスよくカバーされてて予想よりだいぶキツいです。去年までは600番台の講義で学部生もいたけど、今年から900番台のセミナーになりました。先生はJHUの公衆衛生の出身で、健康とか寿命が専門だけど、とりあえず全部に詳しくて驚きます。若くて熱心で、セミナーから得るものは大きいです。もちろん、やろうと思えば2時間半ずっと話せるんでしょうけど(最初の2回はほぼ講義でした)、今は基本、学生のco-leadの人に任せて、先生は議論の整理や補足に回っています。教えることと議論させることのバランスを取るのは難しいと思うけど、絶妙です。若くて研究熱心な先生が多いのは弊学部の強みだと思います。
ほとんど振り返りになりませんでしたw 授業でも、段々力を抜く箇所はぬいた方が全体的に見れば効率いいなと思い始めたのも理由かもしれません。でも、そろそろ中間テストなので、またギアを入れる必要がありそうです。今週は、息切れせず「普通にこなせた」という意味では新しい一歩を踏み出せたのかなと思います。
Week7の予定
×人口学セミナーのタームペーパーのアイデア出し(due Fri)
×統計の宿題提出(due Tue)
×RC28アブスト
×形式人口学の課題を進める
×形式人口学の中間テストの用意
×形式人口学の中間テストの用意
×人口学セミナーの質問
×人口学セミナーのリーディング
・地熱の再分析
×人口学セミナーのリーディング
・地熱の再分析
×研究助成の執筆
×学振報告書の提出
×統計の中間テスト準備 (vif)
×統計の勉強会
×セミナーシリーズへの出席(DemSem)×セミナーシリーズへの出席(Training seminar)
×センサスについて調べる
・研究助成の改稿
×SGSA meeting
×人口学セミナーで10回以上発言
月曜:学振の報告書を出したのでちょっと開放感。コースワーク以外にはアブストと研究助成の執筆を進めた。念のため、火曜日の課題を確認する。DemSemは回避。タームペーパーのアイデアはもう送ってもいいかも?
水曜:午前中は自宅作業、JLPSデータのwave8を追加してサンプルサイズを増やした(結果はほぼ変わらず)。アブスト第一版を送り一安心。その後論文を読む予定。アブストを書きながら、この方向に行ったら面白いんじゃないかと思えることが見つかったのがポジティブな収穫だった。Drawing on insights from previous literatureが大事。予定通り文献レビューを半分終わらせたのでよしとする。明日はまた文献レビューを半分で、徐々にテスト勉強にシフト。
October 10, 2018
論文のイントロ
私は論文を書くときは、いつもイントロが一番難しいなと思っていて、メモも兼ねて、論文の最初のセクションに何が必要なのかをまとめておきます(前にも似たようなこと書いたかもしれません)。
1.問題(トピック)の設定
1文目はX scholars have long been interested in Y, Y has been X studies on X' have often focused on Yなどがテンプレ。あるいは、社会学であれば大きな社会変動から書くのも問いのスムーズな導出なので、Y has undergone a significant changes in Zみたいな文章もあり。
2文目からは、最初の文の具体化が基本。何がどこでどれくらいの期間で生じているのかや、既存研究は何に着目してきたかとかですね。
2.問題を本研究の関心に合わせて特定化する
1段落目は、どちらかというとそのトピックを知らない人でも、大きな変化があったり研究がされているということを広くアピールするもので、2段落目は、その中でも自分の論文で特に検討したい点について提起します。
先行研究を絞ることになるので、1文目はMost studies highlighted AやMuch research have focused on Aのように書くと、先行研究群XがAに着目していたことがわかります。2文目以降はその具体化に使います。
3.特定化した領域における先行研究の課題
あくまでイメージですが、この段階で仮想敵となる先行研究は数十くらいに絞れると議論がしやすくなる気がします。3段落目(あるいは2段落目の中盤)では、これら直接批判の対象とする先行研究の弱点や課題、例えば暗黙の想定や、理論的にはBも大事なのにAしか見てこなかったなどを指摘します。典型的な文章としては、Despite the scholar's attention to A、In contrast, prior studies paid less attention toなどのような「これまでの研究は〜〜に注目してこなかった」系の文章です。
3.5.先行研究の課題についての考察
単に先行研究で検討されてこなかっただけでは、読み手としては「んー、それで?」だったり「他にも見落としがあるんじゃないの(なんでその課題だけなの?)」と思うかもしれません。したがって、ここでは自分の研究の問いを表明するまでに、Aしか見ていない(Bを見ていない)と何がマズイのかを加えておくと、説得力が増します。典型的には、the absence of B limits Xであったり、testing the relationship between X and Y is important for several reasons.みたいな文章です。続いて、First, Secondと続きます。
あるいは、ここで自分の研究のウリと対応させて先行研究の課題について詳述することもできると思います。例えば、Aにしか着目してこなかった関する既存研究と異なり、自分の研究がBとCに着目するのであれば、なぜ先行研究がBとCにおいて限界があったからだと書きます。BとCに入るのは、方法上の課題でもいいし、別のコンテキストを見逃していたので気づかなかったでもいいと思います。
4.本研究の問い
ここでIn this study, we attempt to examineのように、本研究の問いを書きます。理想としては、4段落目がいきなりIn this studyで始まっても、違和感のないような構成にそれまでの段落で十分にこの問いを検討する必然性をアピールできれば十分だと思います。
1.問題(トピック)の設定
1文目はX scholars have long been interested in Y, Y has been X studies on X' have often focused on Yなどがテンプレ。あるいは、社会学であれば大きな社会変動から書くのも問いのスムーズな導出なので、Y has undergone a significant changes in Zみたいな文章もあり。
2文目からは、最初の文の具体化が基本。何がどこでどれくらいの期間で生じているのかや、既存研究は何に着目してきたかとかですね。
2.問題を本研究の関心に合わせて特定化する
1段落目は、どちらかというとそのトピックを知らない人でも、大きな変化があったり研究がされているということを広くアピールするもので、2段落目は、その中でも自分の論文で特に検討したい点について提起します。
先行研究を絞ることになるので、1文目はMost studies highlighted AやMuch research have focused on Aのように書くと、先行研究群XがAに着目していたことがわかります。2文目以降はその具体化に使います。
3.特定化した領域における先行研究の課題
あくまでイメージですが、この段階で仮想敵となる先行研究は数十くらいに絞れると議論がしやすくなる気がします。3段落目(あるいは2段落目の中盤)では、これら直接批判の対象とする先行研究の弱点や課題、例えば暗黙の想定や、理論的にはBも大事なのにAしか見てこなかったなどを指摘します。典型的な文章としては、Despite the scholar's attention to A、In contrast, prior studies paid less attention toなどのような「これまでの研究は〜〜に注目してこなかった」系の文章です。
3.5.先行研究の課題についての考察
単に先行研究で検討されてこなかっただけでは、読み手としては「んー、それで?」だったり「他にも見落としがあるんじゃないの(なんでその課題だけなの?)」と思うかもしれません。したがって、ここでは自分の研究の問いを表明するまでに、Aしか見ていない(Bを見ていない)と何がマズイのかを加えておくと、説得力が増します。典型的には、the absence of B limits Xであったり、testing the relationship between X and Y is important for several reasons.みたいな文章です。続いて、First, Secondと続きます。
あるいは、ここで自分の研究のウリと対応させて先行研究の課題について詳述することもできると思います。例えば、Aにしか着目してこなかった関する既存研究と異なり、自分の研究がBとCに着目するのであれば、なぜ先行研究がBとCにおいて限界があったからだと書きます。BとCに入るのは、方法上の課題でもいいし、別のコンテキストを見逃していたので気づかなかったでもいいと思います。
4.本研究の問い
ここでIn this study, we attempt to examineのように、本研究の問いを書きます。理想としては、4段落目がいきなりIn this studyで始まっても、違和感のないような構成にそれまでの段落で十分にこの問いを検討する必然性をアピールできれば十分だと思います。
October 9, 2018
人口学セミナー第6回文献レビュー(健康)
Link, B. and J. Phelan. 1995. Social conditions as fundamental causes of disease. Journal of Health and Social Behavior. 35:80-94.
近年の疫学研究では、病気の近接要因、すなわち病気を直接引き起こすもの(食事、コレステロール、高血圧など)に着目した研究が多くを占めている。しかし、その一方で病気を引き起こすより重要な要素である社会的要因には注目が集まっていない。もちろん、疫学の中でも社会的な要因に着目する研究はあるが、これらは社会的な条件が一つの因果的なパスを通じて一つの病に影響すると考えがちな点で、欠点を持つ。
筆者による社会的状況(social conditions)の定義は、他者との関係性から生じる要因であり、社会経済的な構造の中で生じる関係は全て社会的なものとする。これらには人種、社会経済的地位、ジェンダー、あるいはソーシャルなサポートも含まれている。
これらの中でも、SESと健康の関連については非常に多くの蓄積がある。これらはあくまで両者の相関に関するものであるが、近年になって因果の向きとメカニズムについて検討する研究が進展してきた。因果の向きについては準実験的なアプローチ、あるいは工場の閉鎖といった健康に寄って生じないような社会経済的状況の変化を検討するアプローチ、あるいは縦断データを用いた分析などが挙げられている。
このように、SESと健康について検討している研究は医療社会学や疫学においても多い。因果の向きに加えて、因果メカニズムについて検討する研究も増えてきた。例えば、Karasekらの研究ではLow SESとcoronary heart deseaseの関係について、低い地位の職業では高い仕事の欲求と自由な意思決定の低さによって特徴付けられるjob strainが両者の関連を説明するとしている。
こうした因果メカニズムの議論の落とし穴として、筆者らはますます病気に近い要因(先の例で言えばストレス)に関心が向いてしまう点を挙げている。さらに、筆者は医療社会学・社会疫学の研究者たちはこうした現代疫学の傾向について反論するべきと提起している。一つの方法として提案するのが、個人ベースのリスクファクターを文脈化(contextualizing)することだとしている。具体的には(1)なぜ人々がそうしたリスクに晒されるようになったのかに関する解釈的な枠組みを用意する、(2)こうしたリスクファクターが病気と関連するような社会的状況を特定することを挙げている。
続いて、筆者は病気の「根本的な」要因を特定する必要性を主張する。既存研究のレビューから、SESと健康の関連は変わっておらず、変わっているのは両者を介在するリスクファクターであるとする。なぜSESが持続的に健康に影響を及ぼすのか、筆者らはSESが病気が生じた時の帰結を最小化するようなリソースへのアクセスと関連しているからだとする。ここでいうリソースとは、お金や地位、権力、ネットワークなどに分類されているが、これらに加えて、病気を防いだり、生じた時にどのように対応するべきかに関する知識も含めている。SESはリソースへのアクセスと関連している限り、複数のリスクファクターと関連を持ち、複数の病気と関連するとしている。
Hamlin, C. (1995). Could you starve to death in England in 1839? The Chadwick-Farr controversy and the loss of the “social” in public health. American Journal of Public Health 85(6), 856-866.
イギリスの公衆衛生のパイオニアであり、1834年救貧法設立に関係したEdwin ChadwickとWilliam Farrの間で1838年から1840年の間に展開された論争を紹介した論文。Farrは当時死因統計を分類する仕事についており、Chadwickは上司だった。Farrは哲学的な意味ではどこまでが死因として適切なのか、実際上は飢餓は死因として適当なのかについて悩んでいた。新しい救貧法では貧民を懲治院(ワークハウス)に収容することにしており、この法律に携わっていたChadwickにとっては、貧民層における飢餓の問題は大きな関心だった。懲治院にはいれば飢餓はなくなるはずなのに、Farrは148,000件の死のうち、63件を「飢餓」によるものとした。このことにChadwickは強い懸念を表明し、論争が始まる。はじめに、Chadwickは63件の死亡のうち約半分の36件は幼児の死亡によるためで、これは母乳が足りなかったことによるものだから飢餓ではないとした。Farrは、幼児死亡の多くで、Chadwickが指摘したような母乳を十分に提供できないで死亡していることを認めつつ、36件の死亡は本当の意味での飢餓であるとした。これ以外にも、Farrは寒さによる死も、飢餓という枠組みで理解した方がよいとする。彼は分類に従って死因を分けていったが、分けていった死因の中には飢餓が要因で直接の死因が生じたと主張する。
このように議論の核心は、病因にしたがって死因を分類することの政治的・社会的なインプリケーションだった。現代において病因を適切に把握できるという想定は、病因が特定できる形で実際に存在するというontologicalな立場であるとする。しかし、この想定は論争が起こった時代には共有されていなかった。Farrが主張したように、病因によって死亡を分類することは、死亡を原因によって分類していることにはならないのである。Farrはむしろ、伝統的な病気のphysiologicalな定義によっていたとする。つまり、死亡は特定の死因ではなく複数の複雑な過程によって生じると考えた。こうしたconstitutional medicineの立場では、死因統計はあまり意味をなすものではない。Farrにはconstitutional medicineの立場を理解しつつも、死因を分類する必要があることへの葛藤があり、それがChadwickとの論争につながっていった。
M. Marmot. 2002. The influence of income on health: view of an epidemiologist. Health Affairs 21(2):31-46.
収入は健康に影響するのか?というシンプルな問いについてレビューしている。国家間のレベルが問題なのか、国家内の不平等が問題なのか、それとも貧困が問題なのかといった点を検討している。
筆者ははじめに低収入(貧困)の問題から入る。貧困について、筆者は「物質的貧困」と「社会参加」の二つをあげる。物質的貧困の例としては安全な水にありつけるかというものがあげられており、これはある域値を下回るまで収入と相関すると考えられるため、ある値の収入までは、物質的貧困によって収入と健康の関連が生じると考える。反対に、物質的貧困が変わらないレベルまで収入が上がった時には、社会参加の違いが健康に影響するという。
筆者は、貧困について考えるために、歴史的な事例を持ち出す。事例は幼児死亡(infant mortality)。Joseph Rowntreeの息子であるB. S. Rowntreeは、19世紀後半のイギリスにおける3つの労働者階級の幼児死亡率について調査を行なった。これらの三つの地区では幼児死亡率は1000人あたり173-247だったが、同時期のヨークにあるservant keeperの地区では94だった。
Rowntreeは幼児死亡率の高さを労働者階級の人の無知に見だしたが、筆者はこれに対し反対の立場をとりつつ、仮に無知が原因だったとしても、当時のイギリスで豊かと考えられた集団の1000人あたり94という幼児死亡率が現代イギリスにおけるもっとも脆弱な集団(シングルマザーなど)に比べて明らかに高いのはなぜかと提起する。筆者は、労働者階級の死亡率の高さは物質的な窮乏にあるだろうとした上で、豊かな層においても同じように現代からすれば栄養や医療的な技術が足りなかったのだろうとする。合わせて、Prestonの分析も踏まえながら、個人の収入の豊かさだけが問題なのではなく、彼らの住むコミュニティの豊かさも重要なのだとする。
続いて、Whitehallらによるイギリスの公務員を対象にした調査によると、死亡率に域値はなく、社会階層性に従って死亡率にも差が見られるようになっているとする。この事実から筆者は現代においては物質的な窮乏、つまり貧困ではなく不平等が重要なのだとする。
続いて、筆者は平均余命の国際比較データをもってくる。見なれた図であるが、ポイントは現在の先進国では豊かさと余命の国レベルの差は弱くなっている。いくつかの事例を弾きつつ、先進国では収入は健康における差を生み出すcondition of lifeを測る適切な指標ではなくなっているとする。この例として、筆者はコスタリカの一人当たりGNPは$2,800に過ぎなく、これはアメリカの黒人の平均年収($26,000)に比べれば低いことを指摘する。しかし、コスタリカの平均余命は74歳であるのに対して黒人の平均余命は66歳であるとする。
仮に絶対的な水準ではなく、不平等が重要であるとする場合、それは何によって説明できるのか。カナダの事例からは不平等と死亡率の間の関連がアメリカより弱く、これはカナダではアメリカに比べ貧困でも広範な医療サービスにアクセスできるといったインフラ的な文脈の違いがあることを指摘する。あるいは、イチロー・カワチの研究のように不平等と死亡の関連はソーシャルキャピタルによって媒介されているとする研究もある。
Lynch, J.W., Davey Smith G., Kaplan, G.A., House, J.S. 2000. Income inequality and mortality: importance to health of individual income, psychosocial environment, or material conditions. BMJ 320:1200-4.
収入の不平等と死亡を含めた健康との関連に対する解釈枠組みのレビューと少し珍しい論文。筆者らは三つの解釈をレビューしている。まず個人収入による解釈。一人当たりGDPと寿命の関連を見ると、曲線的、具体的には先進国ほど個人所得の平均の伸びと寿命の関連は無くなっていくが、これは平均を見ているからで、一社会内部における所得の分散によって多少は健康の分散も説明できるとする立場である。
次は心理社会的な要因。これは収入の不平等によって階層性があると、それを人々が認識することによって下位に位置する人の中では否定的な感情が生じ、反社会的な行動や社会関係資本の低さとなり、健康に分散が生じるとする考え。ちょっとよくわからないが、筆者らもこの考えには批判的である。まず、不平等をすべて主観的な要因に帰しているため、構造的な要因を過小評価している。あるいは、ソーシャルネットワークには健康に対してマイナスの効果もあるのに、それを過小評価している。
最後の新物質的な解釈では、収入の不平等によって得られるリソースに差が出るというもの。単に収入だけではなく、様々なリソースにアクセスできるかが重要というのがポイントかもしれない。筆者らはこの解釈を、飛行機のファーストクラスに乗るか、エコノミーに乗るかで健康への影響が異なってくる可能性の例を用いながら説明する。
Case, A., Deaton, A. (2015). Rising morbidity and mortality in midlife among white non-Hispanic Americans in the 21st century. Proceedings of the National Academy of Sciences, 112(49), 15078-15083.
アメリカでは1999年から2013年の間に、非ヒスパニック系白人の中年層における死亡率が、どの病因でも増加していることを指摘する。この死亡率の反転は先進国ではアメリカだけであるとする。特にドラッグとアルコール、自殺、慢性疾患による死亡が増加している。学歴別に見るとどの層でも死亡率は増加しているが特に低学歴層における死亡率の増加が顕著である。死亡率の増加は疾患率の増加とパラレルである。この背景にある経済的な要因として、筆者は経済的不確実性の増大との関連を指摘する。アメリカのベビーブーム世代は、1970年代初頭の経済不況を経て、中年期になって初めて自分の親よりも豊かになれないことを実感するに至ったとする。しかし、成長の鈍化はアメリカだけではない。これに加えて、defined contribution pensionを維持しているヨーロッパとは異なり、アメリカではdefined contributionとstock market riskを合わせた形に移行していることが背景であるとする。将来に対するリスクがより高まったという解釈だろうか。アメリカでは合わせて障害を持つ人も増加しており、病因の増加とともに、近年のアメリカにおける労働供給率の低下を説明するのではないかとしている。
Escherichia coli 大腸菌
Poultry 家禽(domestic fowl)
Vigilance 警戒
filth 汚らわしいもの
近年の疫学研究では、病気の近接要因、すなわち病気を直接引き起こすもの(食事、コレステロール、高血圧など)に着目した研究が多くを占めている。しかし、その一方で病気を引き起こすより重要な要素である社会的要因には注目が集まっていない。もちろん、疫学の中でも社会的な要因に着目する研究はあるが、これらは社会的な条件が一つの因果的なパスを通じて一つの病に影響すると考えがちな点で、欠点を持つ。
筆者による社会的状況(social conditions)の定義は、他者との関係性から生じる要因であり、社会経済的な構造の中で生じる関係は全て社会的なものとする。これらには人種、社会経済的地位、ジェンダー、あるいはソーシャルなサポートも含まれている。
これらの中でも、SESと健康の関連については非常に多くの蓄積がある。これらはあくまで両者の相関に関するものであるが、近年になって因果の向きとメカニズムについて検討する研究が進展してきた。因果の向きについては準実験的なアプローチ、あるいは工場の閉鎖といった健康に寄って生じないような社会経済的状況の変化を検討するアプローチ、あるいは縦断データを用いた分析などが挙げられている。
このように、SESと健康について検討している研究は医療社会学や疫学においても多い。因果の向きに加えて、因果メカニズムについて検討する研究も増えてきた。例えば、Karasekらの研究ではLow SESとcoronary heart deseaseの関係について、低い地位の職業では高い仕事の欲求と自由な意思決定の低さによって特徴付けられるjob strainが両者の関連を説明するとしている。
こうした因果メカニズムの議論の落とし穴として、筆者らはますます病気に近い要因(先の例で言えばストレス)に関心が向いてしまう点を挙げている。さらに、筆者は医療社会学・社会疫学の研究者たちはこうした現代疫学の傾向について反論するべきと提起している。一つの方法として提案するのが、個人ベースのリスクファクターを文脈化(contextualizing)することだとしている。具体的には(1)なぜ人々がそうしたリスクに晒されるようになったのかに関する解釈的な枠組みを用意する、(2)こうしたリスクファクターが病気と関連するような社会的状況を特定することを挙げている。
続いて、筆者は病気の「根本的な」要因を特定する必要性を主張する。既存研究のレビューから、SESと健康の関連は変わっておらず、変わっているのは両者を介在するリスクファクターであるとする。なぜSESが持続的に健康に影響を及ぼすのか、筆者らはSESが病気が生じた時の帰結を最小化するようなリソースへのアクセスと関連しているからだとする。ここでいうリソースとは、お金や地位、権力、ネットワークなどに分類されているが、これらに加えて、病気を防いだり、生じた時にどのように対応するべきかに関する知識も含めている。SESはリソースへのアクセスと関連している限り、複数のリスクファクターと関連を持ち、複数の病気と関連するとしている。
Hamlin, C. (1995). Could you starve to death in England in 1839? The Chadwick-Farr controversy and the loss of the “social” in public health. American Journal of Public Health 85(6), 856-866.
イギリスの公衆衛生のパイオニアであり、1834年救貧法設立に関係したEdwin ChadwickとWilliam Farrの間で1838年から1840年の間に展開された論争を紹介した論文。Farrは当時死因統計を分類する仕事についており、Chadwickは上司だった。Farrは哲学的な意味ではどこまでが死因として適切なのか、実際上は飢餓は死因として適当なのかについて悩んでいた。新しい救貧法では貧民を懲治院(ワークハウス)に収容することにしており、この法律に携わっていたChadwickにとっては、貧民層における飢餓の問題は大きな関心だった。懲治院にはいれば飢餓はなくなるはずなのに、Farrは148,000件の死のうち、63件を「飢餓」によるものとした。このことにChadwickは強い懸念を表明し、論争が始まる。はじめに、Chadwickは63件の死亡のうち約半分の36件は幼児の死亡によるためで、これは母乳が足りなかったことによるものだから飢餓ではないとした。Farrは、幼児死亡の多くで、Chadwickが指摘したような母乳を十分に提供できないで死亡していることを認めつつ、36件の死亡は本当の意味での飢餓であるとした。これ以外にも、Farrは寒さによる死も、飢餓という枠組みで理解した方がよいとする。彼は分類に従って死因を分けていったが、分けていった死因の中には飢餓が要因で直接の死因が生じたと主張する。
このように議論の核心は、病因にしたがって死因を分類することの政治的・社会的なインプリケーションだった。現代において病因を適切に把握できるという想定は、病因が特定できる形で実際に存在するというontologicalな立場であるとする。しかし、この想定は論争が起こった時代には共有されていなかった。Farrが主張したように、病因によって死亡を分類することは、死亡を原因によって分類していることにはならないのである。Farrはむしろ、伝統的な病気のphysiologicalな定義によっていたとする。つまり、死亡は特定の死因ではなく複数の複雑な過程によって生じると考えた。こうしたconstitutional medicineの立場では、死因統計はあまり意味をなすものではない。Farrにはconstitutional medicineの立場を理解しつつも、死因を分類する必要があることへの葛藤があり、それがChadwickとの論争につながっていった。
M. Marmot. 2002. The influence of income on health: view of an epidemiologist. Health Affairs 21(2):31-46.
収入は健康に影響するのか?というシンプルな問いについてレビューしている。国家間のレベルが問題なのか、国家内の不平等が問題なのか、それとも貧困が問題なのかといった点を検討している。
筆者ははじめに低収入(貧困)の問題から入る。貧困について、筆者は「物質的貧困」と「社会参加」の二つをあげる。物質的貧困の例としては安全な水にありつけるかというものがあげられており、これはある域値を下回るまで収入と相関すると考えられるため、ある値の収入までは、物質的貧困によって収入と健康の関連が生じると考える。反対に、物質的貧困が変わらないレベルまで収入が上がった時には、社会参加の違いが健康に影響するという。
筆者は、貧困について考えるために、歴史的な事例を持ち出す。事例は幼児死亡(infant mortality)。Joseph Rowntreeの息子であるB. S. Rowntreeは、19世紀後半のイギリスにおける3つの労働者階級の幼児死亡率について調査を行なった。これらの三つの地区では幼児死亡率は1000人あたり173-247だったが、同時期のヨークにあるservant keeperの地区では94だった。
Rowntreeは幼児死亡率の高さを労働者階級の人の無知に見だしたが、筆者はこれに対し反対の立場をとりつつ、仮に無知が原因だったとしても、当時のイギリスで豊かと考えられた集団の1000人あたり94という幼児死亡率が現代イギリスにおけるもっとも脆弱な集団(シングルマザーなど)に比べて明らかに高いのはなぜかと提起する。筆者は、労働者階級の死亡率の高さは物質的な窮乏にあるだろうとした上で、豊かな層においても同じように現代からすれば栄養や医療的な技術が足りなかったのだろうとする。合わせて、Prestonの分析も踏まえながら、個人の収入の豊かさだけが問題なのではなく、彼らの住むコミュニティの豊かさも重要なのだとする。
続いて、Whitehallらによるイギリスの公務員を対象にした調査によると、死亡率に域値はなく、社会階層性に従って死亡率にも差が見られるようになっているとする。この事実から筆者は現代においては物質的な窮乏、つまり貧困ではなく不平等が重要なのだとする。
続いて、筆者は平均余命の国際比較データをもってくる。見なれた図であるが、ポイントは現在の先進国では豊かさと余命の国レベルの差は弱くなっている。いくつかの事例を弾きつつ、先進国では収入は健康における差を生み出すcondition of lifeを測る適切な指標ではなくなっているとする。この例として、筆者はコスタリカの一人当たりGNPは$2,800に過ぎなく、これはアメリカの黒人の平均年収($26,000)に比べれば低いことを指摘する。しかし、コスタリカの平均余命は74歳であるのに対して黒人の平均余命は66歳であるとする。
仮に絶対的な水準ではなく、不平等が重要であるとする場合、それは何によって説明できるのか。カナダの事例からは不平等と死亡率の間の関連がアメリカより弱く、これはカナダではアメリカに比べ貧困でも広範な医療サービスにアクセスできるといったインフラ的な文脈の違いがあることを指摘する。あるいは、イチロー・カワチの研究のように不平等と死亡の関連はソーシャルキャピタルによって媒介されているとする研究もある。
Lynch, J.W., Davey Smith G., Kaplan, G.A., House, J.S. 2000. Income inequality and mortality: importance to health of individual income, psychosocial environment, or material conditions. BMJ 320:1200-4.
収入の不平等と死亡を含めた健康との関連に対する解釈枠組みのレビューと少し珍しい論文。筆者らは三つの解釈をレビューしている。まず個人収入による解釈。一人当たりGDPと寿命の関連を見ると、曲線的、具体的には先進国ほど個人所得の平均の伸びと寿命の関連は無くなっていくが、これは平均を見ているからで、一社会内部における所得の分散によって多少は健康の分散も説明できるとする立場である。
次は心理社会的な要因。これは収入の不平等によって階層性があると、それを人々が認識することによって下位に位置する人の中では否定的な感情が生じ、反社会的な行動や社会関係資本の低さとなり、健康に分散が生じるとする考え。ちょっとよくわからないが、筆者らもこの考えには批判的である。まず、不平等をすべて主観的な要因に帰しているため、構造的な要因を過小評価している。あるいは、ソーシャルネットワークには健康に対してマイナスの効果もあるのに、それを過小評価している。
最後の新物質的な解釈では、収入の不平等によって得られるリソースに差が出るというもの。単に収入だけではなく、様々なリソースにアクセスできるかが重要というのがポイントかもしれない。筆者らはこの解釈を、飛行機のファーストクラスに乗るか、エコノミーに乗るかで健康への影響が異なってくる可能性の例を用いながら説明する。
Case, A., Deaton, A. (2015). Rising morbidity and mortality in midlife among white non-Hispanic Americans in the 21st century. Proceedings of the National Academy of Sciences, 112(49), 15078-15083.
アメリカでは1999年から2013年の間に、非ヒスパニック系白人の中年層における死亡率が、どの病因でも増加していることを指摘する。この死亡率の反転は先進国ではアメリカだけであるとする。特にドラッグとアルコール、自殺、慢性疾患による死亡が増加している。学歴別に見るとどの層でも死亡率は増加しているが特に低学歴層における死亡率の増加が顕著である。死亡率の増加は疾患率の増加とパラレルである。この背景にある経済的な要因として、筆者は経済的不確実性の増大との関連を指摘する。アメリカのベビーブーム世代は、1970年代初頭の経済不況を経て、中年期になって初めて自分の親よりも豊かになれないことを実感するに至ったとする。しかし、成長の鈍化はアメリカだけではない。これに加えて、defined contribution pensionを維持しているヨーロッパとは異なり、アメリカではdefined contributionとstock market riskを合わせた形に移行していることが背景であるとする。将来に対するリスクがより高まったという解釈だろうか。アメリカでは合わせて障害を持つ人も増加しており、病因の増加とともに、近年のアメリカにおける労働供給率の低下を説明するのではないかとしている。
Escherichia coli 大腸菌
Poultry 家禽(domestic fowl)
Vigilance 警戒
filth 汚らわしいもの
第6週の予定
〜研究関係〜
×条件付き採択論文1の修正
×条件付き採択論文2の修正
×人口学セミナーの文献まとめ(木曜まで)
▲人口学セミナーのタームペーパーのアイデア出し
×RC28 abstractの用意
×RC28 abstractのミーティング
×統計の課題提出(木曜)
・統計の宿題提出(来週火曜)
▲形式人口学の課題を進める・中間テストの用意
・再婚DPの執筆
×地熱の追加分析
×セミナーシリーズへの出席(DemSem)
×セミナーシリーズへの出席(Training seminar)
×セミナーシリーズへの出席(IRP)
▲研究助成の執筆継続→ミーティング
×東大在籍時に申請していた二次分析用データについて使用の問い合わせ
×人口学セミナーで10回以上発言
〜非研究関係〜
×授業料引き落とし(10日)
・買い出しと献立
・服を買う
×小麦粉とパン、電池、歯磨き粉を買う
×farmers marketで買ったものを食べる
×できるだけ6時半のバスに乗る
・farmers marketで買い物
・土曜は火鍋パーティ!
・日曜はカタン
×条件付き採択論文1の修正
×条件付き採択論文2の修正
×人口学セミナーの文献まとめ(木曜まで)
▲人口学セミナーのタームペーパーのアイデア出し
×RC28 abstractの用意
×RC28 abstractのミーティング
×統計の課題提出(木曜)
・統計の宿題提出(来週火曜)
▲形式人口学の課題を進める・中間テストの用意
・再婚DPの執筆
×地熱の追加分析
×セミナーシリーズへの出席(DemSem)
×セミナーシリーズへの出席(Training seminar)
×セミナーシリーズへの出席(IRP)
▲研究助成の執筆継続→ミーティング
×東大在籍時に申請していた二次分析用データについて使用の問い合わせ
×人口学セミナーで10回以上発言
〜非研究関係〜
×授業料引き落とし(10日)
・買い出しと献立
・服を買う
×小麦粉とパン、電池、歯磨き粉を買う
×farmers marketで買ったものを食べる
×できるだけ6時半のバスに乗る
・farmers marketで買い物
・土曜は火鍋パーティ!
・日曜はカタン
10月8日(分野横断研究とゲートキーピング)
日曜はひたすらカタンをして時間が溶けていったので、月曜から再稼働。といっても、予定を月曜の終わりに考えている時点で終わってるのですが。まあ、土曜までに終わらせるので良いのです。
今週はオランダからsociogenomicsの先生が来てDemSemで報告してくれるのだけど、その人とのランチに登録し(人口学研究所のtraineeは学期中2回まで演者とランチする権利がある)、かつ今回はその人が院生とのインフォーマルなセッションを設けてくれたので、都合3回会うことになる。今日はその1回目のセッション。
まず、事前にGenome factorを読んでおいてよかったなと思った。SNPとかpolygenic scoreとか初見だと意味がわからないと思う。彼のバックグラウンドは計量経済学で、オランダでソリッドな計量分析の手法を身につけたあと、社会科学が関心を持つinheritabilityを明らかにするために、ゲノムに注目しない手はないのではないかと考えてこの分野に飛び込んだらしい。遺伝と聞いてbiological determinismを連想する人もいるかもしれないけど、彼の所属するsociogenomicsのコンソーシアムでは、遺伝子は基本的に環境によって発現したりしなかったりするので、あくまで間接的な影響しかないと表明しているらしい。そういう声明を出してはいけるけど、一部にblack sheepみたいな人はいるよう。
私を含め、院生が気になっていたことに対する返答で勉強になったのは、トレーニングと就職。前者については、彼は基本的に分業体制の中で統計的な検証を担当しているらしく、ラボなどで勉強した経験はなさそうだった。OxfordのFelixさんと話した時には、彼はオーストラリアのラボに2年間ポスドクでいたらしいと聞いて驚いたけど、人によるだろう。
就職については、(社会科学の)研究者の多くが就職しようとする大学においては、学部があり、その学部は既存のディシプリンに対応しており、その分野による評価方法をとっているので、若い時にどれだけ分野横断的な研究をすればいいかについては、いつも悩むといっていた。例えば、彼が所属する大学では、テニュアのための業績評価は単著を優先するらしく、共著者が増えるほど減点する仕組みらしい。それはそれで極端だと思ったが、ゲノムの研究は共著者100人越えとかは普通なので、ほとんど業績としてカウントされないよう。これ以外にも、分野横断的なジャーナルに出しても、経済学部で評価されるわけではないといっていた。
新しい領域にチャレンジすることは、当たった時にリターンも大きいが、就職の際にリスクもある。そのリスクの一部は、就職する学部がゲートキーピングの機能を担っているからなのかなと思った。ファカルティでは研究だけではなく教育もする必要があり、その教育の多くは分野の古典やその派生になるので、分野横断的な研究と合わせて、そうした古典的な分野も研究できたり教えられたりする必要がある、という示唆を得た。現実的に、何か新しいフィールドに首をつっこむのはポスドク期で、PhDはしっかりその分野の勉強に勤しんだ方がよさそう。逆に言えば、PhDをやっていた時の専門とあまり違わないのであれば、ポスドクのメリットも少し薄れる気もする。
個人的には社会階層論を含め、社会学が関心を持つ領域(特に個人や集団レベルの社会的な行為)に対してsociogenomicsが持つポテンシャルは大きいなと思う。もちろん、説明できる分散が格段に増えるわけではないけれど、先のinheritabilityにおいては、コントロール変数、あるいは環境とのインタラクションを見ることで、これまでわからなかった問いの一部は解決できるだろう(IVとして使うこともできるしアイデアはexplicitでわかりやすいらしいが、実際に分析する際には色々と困難があるらしい)。彼からは、まだ明らかになっていない問題があって、それに対してなんらかの形で回答を与えてくれるかもしれないものが手をつけずに眠っているのに、なぜそれを手に取らないんだという、研究者としての素直というか、正直なモチベーションを感じた。懐疑的な目を向けることもわからなくはないけど、その多くはゲノムが怪しいのではなくゲノムを研究している人の一部が怪しいことを言っているだけなので、分けて考えるべきだろう。
今週はオランダからsociogenomicsの先生が来てDemSemで報告してくれるのだけど、その人とのランチに登録し(人口学研究所のtraineeは学期中2回まで演者とランチする権利がある)、かつ今回はその人が院生とのインフォーマルなセッションを設けてくれたので、都合3回会うことになる。今日はその1回目のセッション。
まず、事前にGenome factorを読んでおいてよかったなと思った。SNPとかpolygenic scoreとか初見だと意味がわからないと思う。彼のバックグラウンドは計量経済学で、オランダでソリッドな計量分析の手法を身につけたあと、社会科学が関心を持つinheritabilityを明らかにするために、ゲノムに注目しない手はないのではないかと考えてこの分野に飛び込んだらしい。遺伝と聞いてbiological determinismを連想する人もいるかもしれないけど、彼の所属するsociogenomicsのコンソーシアムでは、遺伝子は基本的に環境によって発現したりしなかったりするので、あくまで間接的な影響しかないと表明しているらしい。そういう声明を出してはいけるけど、一部にblack sheepみたいな人はいるよう。
私を含め、院生が気になっていたことに対する返答で勉強になったのは、トレーニングと就職。前者については、彼は基本的に分業体制の中で統計的な検証を担当しているらしく、ラボなどで勉強した経験はなさそうだった。OxfordのFelixさんと話した時には、彼はオーストラリアのラボに2年間ポスドクでいたらしいと聞いて驚いたけど、人によるだろう。
就職については、(社会科学の)研究者の多くが就職しようとする大学においては、学部があり、その学部は既存のディシプリンに対応しており、その分野による評価方法をとっているので、若い時にどれだけ分野横断的な研究をすればいいかについては、いつも悩むといっていた。例えば、彼が所属する大学では、テニュアのための業績評価は単著を優先するらしく、共著者が増えるほど減点する仕組みらしい。それはそれで極端だと思ったが、ゲノムの研究は共著者100人越えとかは普通なので、ほとんど業績としてカウントされないよう。これ以外にも、分野横断的なジャーナルに出しても、経済学部で評価されるわけではないといっていた。
新しい領域にチャレンジすることは、当たった時にリターンも大きいが、就職の際にリスクもある。そのリスクの一部は、就職する学部がゲートキーピングの機能を担っているからなのかなと思った。ファカルティでは研究だけではなく教育もする必要があり、その教育の多くは分野の古典やその派生になるので、分野横断的な研究と合わせて、そうした古典的な分野も研究できたり教えられたりする必要がある、という示唆を得た。現実的に、何か新しいフィールドに首をつっこむのはポスドク期で、PhDはしっかりその分野の勉強に勤しんだ方がよさそう。逆に言えば、PhDをやっていた時の専門とあまり違わないのであれば、ポスドクのメリットも少し薄れる気もする。
個人的には社会階層論を含め、社会学が関心を持つ領域(特に個人や集団レベルの社会的な行為)に対してsociogenomicsが持つポテンシャルは大きいなと思う。もちろん、説明できる分散が格段に増えるわけではないけれど、先のinheritabilityにおいては、コントロール変数、あるいは環境とのインタラクションを見ることで、これまでわからなかった問いの一部は解決できるだろう(IVとして使うこともできるしアイデアはexplicitでわかりやすいらしいが、実際に分析する際には色々と困難があるらしい)。彼からは、まだ明らかになっていない問題があって、それに対してなんらかの形で回答を与えてくれるかもしれないものが手をつけずに眠っているのに、なぜそれを手に取らないんだという、研究者としての素直というか、正直なモチベーションを感じた。懐疑的な目を向けることもわからなくはないけど、その多くはゲノムが怪しいのではなくゲノムを研究している人の一部が怪しいことを言っているだけなので、分けて考えるべきだろう。
October 8, 2018
査読というシステムについて
先月に引き続き論文がconditional acceptになりました。日本の学歴同類婚について検討したもので、私は第二著者を務めております。
と言う話とは全然関係ないのですが、さしあたり私が抱く業績評価というか、査読のあり方について、色々ごちゃごちゃしていますが、書いておきます。こういうのに対する考えってコーホート差もあるし、自分も歳や経験を重ねるにつれ考えが変わるかもしれないので。
前提として、研究者というのは何をやっているかというと、既存研究をもとに、それぞれ関心のあるテーマについて、論理的な証明プロセスを経て、その主張を論証したり、新しい理論を提唱したり、分析結果から仮説を検証したりして知見を積み重ねていく、そういう世界に身を置いていると思っています。
いうなれば、研究とは1日にしてならないし、多くは単一のアカデミックコミュニティ(学界)に属しながら、巨人の肩の上に乗って研究しているわけです。アカデミックコミュニティは一つのディシプリンと対応していることが多く、例えば社会学であればアメリカ社会学会や日本社会学会でメインに活動することになります。なぜコミュニティに属する必要があるかというと、各分野によって蓄積されている研究や支持されている方法が異なるので、極端な話、考古学の論文を、考古学の論証プロセスで発表しても、社会学の人にはその価値がよくわからないからです。経済学の論文であれば多少は読めるでしょうが、なぜ経済学者が兎にも角にも内生性のことを指摘するのか、多くの社会学者はわからないでしょう(私もわかりません)。
ここまでは共通ルール。できれば研究に携わる全ての人が合意してほしい点。異なるのは、細則というか、実際にこのルールがどう運用されているかです。しかもややこしいことに、同じ分野でも国によって慣行が異なります。
例えば、日本の社会学では、査読付き論文はもっぱら日本語で、英語含めた外国で論文を書く人はまだ少ないと言っていいでしょう。最近知りましたが、査読論文よりも、依頼論文の方が格が上と考える世代もあるらしく、若手とは考えが違うのかなと思いますが、さしあたり慣行としてはまだ残っているようです。また、一般的に単行本を高く評価する傾向にあると聞きます。しかし、その単行本に査読があるかどうかは必要条件ではありません。
一方で、アメリカの社会学では基本的に英語の査読付き論文を出すことがテニュア(任期なし)教員への道になります。分野によっては、単行本を評価する傾向にある分野もありますが、英語の出版社は基本的に論文と同じような査読体制があります。
ということで、細則は分野によって異なるので、「勝手に自分の分野の常識を押し付けるな」ってことですね。わかる人にはこれでわかるでしょう。
私自身は、別に査読論文の方が内容的に優れているとは思いませんし、依頼論文には(特集を組んで雑誌の背表紙を残す以外の)機能があると思います。査読された論文も結局、読まれなければあまり意味はないのではないかと思うし(なので、私はポスト査読の賛同者です)、やはり査読を通すための「テクニック」みたいなのはあり、ゲームのように論文を書いてしまう人がいるかもしれません。査読は査読として弊害があるとは思いますが、それでも私は査読以外に論文の質を担保するベターな(ベストではなく)方法はないのかなと思います。
学界はコミュニティなので、大体誰がどんな研究をしているのかはわかります。本人がわからなくても、その人の指導教員と査読者が知り合いなんてことはままあるでしょう。そうなると、縁故が生じます。誰々の書いた論文だから通す、通さない、みたいな感じですね。そういう縁故を防ぐため、アカデミアでは基本的にdouble blindで査読が行われます。つまり、投稿者も査読者もお互いのことはわからないようになっているわけです。
実際には、double blindが機能しないことはままあります。例えば、査読に回って来た論文、よくよく読んでみると先日行った学会やセミナーの分析結果と同じだった、とか、このコメントできる人はこの人くらいしかない(とは行かないまでも数人に絞れる)なんてことはよくあります。ここで、「査読の弊害」を訴えることは簡単ですが、建前だけでも名前がわからないように査読することは縁故を防ぐためには必要だと思います。
もちろん、なおも粘って「査読なんて必要ない、もっと自由な議論を」と主張することは可能ですが、こういう主張をする人に対しては、私は研究論文の基礎に立ち戻ってもらいたいと思っています。つまり、論文とは論のある文なので、論理的なプロセスで主張を述べる必要があります。査読とは、編集者と筆者の間に第三者として入り、先行研究から問いの導出が論理的に行われているのか、使用するデータと方法は分析の問いを検討するのに妥当なものか、分析結果の解釈は論理的なのか、議論から示唆される今後の研究への示唆は妥当かといった点をチェックすることで、論文の質を高める役割を担っているわけです。一人で書いた論文より、建前上ではありながらも客観的な立場で判断する第三者がいた方が、いないよりは論文のクオリティチェックになると思いませんか?出版する前に知り合いにコメントをもらえばよい?確かにそれもできればいいですが、知り合いのコメントが、顔の見える関係だから批判的になれないことはありませんか?特に権力関係を伴っている場合は?依頼論文だって学会のシンポジウムがベースになっているので、事前査読の機能がある。確かに学会にそういう役割もあるかもしれませんが、シンポの参加者は誰も査読しようと思って報告を聞いているわけでもないし、分析の詳細を丹念に検討する余裕がありますか?査読しろと言うなら事務作業の量を減らせ。きっとテニュア教員の先生は学生の指導や学務、あるいは学会業務や審議会などでお忙しいとは思いますが、査読にかわる代替案はありますか?
細則が分野によって異なるのは仕方のないことだと思いますが(なぜ細則が違うかは長くなるので省略)、どのような細則を運用しているにしても、なんらかの形で査読を通した論文を公表することが望ましいと私は考えています。査読が嫌いな人にとっては査読は最悪のシステムかもしれません。私もその主張には賛同することはできます。しかし、それは査読以外のシステムを除いた場合に限ります。
と言う話とは全然関係ないのですが、さしあたり私が抱く業績評価というか、査読のあり方について、色々ごちゃごちゃしていますが、書いておきます。こういうのに対する考えってコーホート差もあるし、自分も歳や経験を重ねるにつれ考えが変わるかもしれないので。
前提として、研究者というのは何をやっているかというと、既存研究をもとに、それぞれ関心のあるテーマについて、論理的な証明プロセスを経て、その主張を論証したり、新しい理論を提唱したり、分析結果から仮説を検証したりして知見を積み重ねていく、そういう世界に身を置いていると思っています。
いうなれば、研究とは1日にしてならないし、多くは単一のアカデミックコミュニティ(学界)に属しながら、巨人の肩の上に乗って研究しているわけです。アカデミックコミュニティは一つのディシプリンと対応していることが多く、例えば社会学であればアメリカ社会学会や日本社会学会でメインに活動することになります。なぜコミュニティに属する必要があるかというと、各分野によって蓄積されている研究や支持されている方法が異なるので、極端な話、考古学の論文を、考古学の論証プロセスで発表しても、社会学の人にはその価値がよくわからないからです。経済学の論文であれば多少は読めるでしょうが、なぜ経済学者が兎にも角にも内生性のことを指摘するのか、多くの社会学者はわからないでしょう(私もわかりません)。
ここまでは共通ルール。できれば研究に携わる全ての人が合意してほしい点。異なるのは、細則というか、実際にこのルールがどう運用されているかです。しかもややこしいことに、同じ分野でも国によって慣行が異なります。
例えば、日本の社会学では、査読付き論文はもっぱら日本語で、英語含めた外国で論文を書く人はまだ少ないと言っていいでしょう。最近知りましたが、査読論文よりも、依頼論文の方が格が上と考える世代もあるらしく、若手とは考えが違うのかなと思いますが、さしあたり慣行としてはまだ残っているようです。また、一般的に単行本を高く評価する傾向にあると聞きます。しかし、その単行本に査読があるかどうかは必要条件ではありません。
一方で、アメリカの社会学では基本的に英語の査読付き論文を出すことがテニュア(任期なし)教員への道になります。分野によっては、単行本を評価する傾向にある分野もありますが、英語の出版社は基本的に論文と同じような査読体制があります。
ということで、細則は分野によって異なるので、「勝手に自分の分野の常識を押し付けるな」ってことですね。わかる人にはこれでわかるでしょう。
私自身は、別に査読論文の方が内容的に優れているとは思いませんし、依頼論文には(特集を組んで雑誌の背表紙を残す以外の)機能があると思います。査読された論文も結局、読まれなければあまり意味はないのではないかと思うし(なので、私はポスト査読の賛同者です)、やはり査読を通すための「テクニック」みたいなのはあり、ゲームのように論文を書いてしまう人がいるかもしれません。査読は査読として弊害があるとは思いますが、それでも私は査読以外に論文の質を担保するベターな(ベストではなく)方法はないのかなと思います。
学界はコミュニティなので、大体誰がどんな研究をしているのかはわかります。本人がわからなくても、その人の指導教員と査読者が知り合いなんてことはままあるでしょう。そうなると、縁故が生じます。誰々の書いた論文だから通す、通さない、みたいな感じですね。そういう縁故を防ぐため、アカデミアでは基本的にdouble blindで査読が行われます。つまり、投稿者も査読者もお互いのことはわからないようになっているわけです。
実際には、double blindが機能しないことはままあります。例えば、査読に回って来た論文、よくよく読んでみると先日行った学会やセミナーの分析結果と同じだった、とか、このコメントできる人はこの人くらいしかない(とは行かないまでも数人に絞れる)なんてことはよくあります。ここで、「査読の弊害」を訴えることは簡単ですが、建前だけでも名前がわからないように査読することは縁故を防ぐためには必要だと思います。
もちろん、なおも粘って「査読なんて必要ない、もっと自由な議論を」と主張することは可能ですが、こういう主張をする人に対しては、私は研究論文の基礎に立ち戻ってもらいたいと思っています。つまり、論文とは論のある文なので、論理的なプロセスで主張を述べる必要があります。査読とは、編集者と筆者の間に第三者として入り、先行研究から問いの導出が論理的に行われているのか、使用するデータと方法は分析の問いを検討するのに妥当なものか、分析結果の解釈は論理的なのか、議論から示唆される今後の研究への示唆は妥当かといった点をチェックすることで、論文の質を高める役割を担っているわけです。一人で書いた論文より、建前上ではありながらも客観的な立場で判断する第三者がいた方が、いないよりは論文のクオリティチェックになると思いませんか?出版する前に知り合いにコメントをもらえばよい?確かにそれもできればいいですが、知り合いのコメントが、顔の見える関係だから批判的になれないことはありませんか?特に権力関係を伴っている場合は?依頼論文だって学会のシンポジウムがベースになっているので、事前査読の機能がある。確かに学会にそういう役割もあるかもしれませんが、シンポの参加者は誰も査読しようと思って報告を聞いているわけでもないし、分析の詳細を丹念に検討する余裕がありますか?査読しろと言うなら事務作業の量を減らせ。きっとテニュア教員の先生は学生の指導や学務、あるいは学会業務や審議会などでお忙しいとは思いますが、査読にかわる代替案はありますか?
細則が分野によって異なるのは仕方のないことだと思いますが(なぜ細則が違うかは長くなるので省略)、どのような細則を運用しているにしても、なんらかの形で査読を通した論文を公表することが望ましいと私は考えています。査読が嫌いな人にとっては査読は最悪のシステムかもしれません。私もその主張には賛同することはできます。しかし、それは査読以外のシステムを除いた場合に限ります。
October 7, 2018
Playing with demography packages
I was looking for more basic one (such as standardization) but this package seems fancy.
https://github.com/robjhyndman/demography
Some application to PHG's Demography
http://data.princeton.edu/eco572/std.html
Institutions which receive funding via a Population Research Infrastructure grant from the Eunice Kennedy Shriver National Institute of Child Health & Human Development. These institutions are "real" pop-centers for coming five years.
1.Population Studies Center, Institute for Social Research, University of Michigan
2.Columbia Population Research Center, Columbia University
3.Population Research Institute, Duke University
4.Minnesota Population Center, University of Minnesota
5.Maryland Population Research Center, University of Maryland
6.California Center for Population Research, University of California, Los Angeles
7.Carolina Population Center, University of North Carolina at Chapel Hill
8.Institute for Population Research Ohio State University
9.Office of Population Research, Princeton University
10.Population Research Institute, Pennsylvania State University
11.Center for Demography and Ecology, University of Wisconsin-Madison
12.Center for Family and Demographic Research, Bowling Green State University
13.Population Research Center, University of Texas at Austin
14.Population Studies and Training Center, Brown University
15.Center for Studies in Demography and Ecology, University of Washington
16.Population Program at the Institute of Behavioral Science, University of Colorado at Boulder
https://www.icpsr.umich.edu/icpsrweb/content/DSDR/popcenters.html
https://github.com/robjhyndman/demography
Some application to PHG's Demography
http://data.princeton.edu/eco572/std.html
Institutions which receive funding via a Population Research Infrastructure grant from the Eunice Kennedy Shriver National Institute of Child Health & Human Development. These institutions are "real" pop-centers for coming five years.
1.Population Studies Center, Institute for Social Research, University of Michigan
2.Columbia Population Research Center, Columbia University
3.Population Research Institute, Duke University
4.Minnesota Population Center, University of Minnesota
5.Maryland Population Research Center, University of Maryland
6.California Center for Population Research, University of California, Los Angeles
7.Carolina Population Center, University of North Carolina at Chapel Hill
8.Institute for Population Research Ohio State University
9.Office of Population Research, Princeton University
10.Population Research Institute, Pennsylvania State University
11.Center for Demography and Ecology, University of Wisconsin-Madison
12.Center for Family and Demographic Research, Bowling Green State University
13.Population Research Center, University of Texas at Austin
14.Population Studies and Training Center, Brown University
15.Center for Studies in Demography and Ecology, University of Washington
16.Population Program at the Institute of Behavioral Science, University of Colorado at Boulder
https://www.icpsr.umich.edu/icpsrweb/content/DSDR/popcenters.html
October 6, 2018
10月6日
遅く起きる。ずっと寝てたいが。farmers marketがあるので起きてバスに乗る。寒くなってきたので最近はもっぱらバス通学。確かに野菜は安いなと思ったが(そして生産者の人の顔が見れてなかなか興味深かった。アジアからの移民の人が多い感じで)、他にもチーズやパン、ビーフジャーキー、あとは季節のかばちゃなどがあって多様だった。いくつか野菜やチーズを買って、大学へ。統計の課題を済ませ、学振の報告書を書く。実家に送金して、transferwiseでこっちに送金。その他、日本の人にメール書いたり、帰国後の予定を考えたり、移民多様化ビザに申請したり、家賃を払ったり、マイルの残高を確認したり。最後に申請書を進める。
今週の仕事リスト
×金曜日のミーティング資料(金曜日)
×金曜日のミーティングコメント(金曜日)
×形式人口学レポートの提出(木曜日)
×統計課題提出(木曜日)
×統計最終プロジェクトの分析
×人口学セミナーレスポンスペーパー提出(金曜日)
×人口学セミナー質問投稿(木曜日)
×学振報告書
×地熱
×送金
×統計授業復習(予測値の誤差)
×研究助成申請書の記入
・再婚DPの執筆
×人口学セミナー質問投稿(翌週)
(スキャナの購入)
今週の仕事リスト
×金曜日のミーティング資料(金曜日)
×金曜日のミーティングコメント(金曜日)
×形式人口学レポートの提出(木曜日)
×統計課題提出(木曜日)
×統計最終プロジェクトの分析
×人口学セミナーレスポンスペーパー提出(金曜日)
×人口学セミナー質問投稿(木曜日)
×学振報告書
×地熱
×送金
×統計授業復習(予測値の誤差)
×研究助成申請書の記入
・再婚DPの執筆
×人口学セミナー質問投稿(翌週)
(スキャナの購入)
October 5, 2018
10月5日
6時26分起床、6時33分のバスに乗る。7時に大学。12時半からのミーティングで3分(!)でPAAの報告をサマライズしなくてはいけなかったので、授業が始まるまで練習。3分じゃ終わらない。何度か練習して、なんとか3分に収める。ただ、実際には3分オーバーでもよかったぽい。
授業(人口学セミナー)は寿命。発言しようと思うたびに緊張して声が出なくなる。毎回ちゃんと発言しようと思っているのは、良い訓練。そのあとミーティング。終了後、疲れ果てて1時間半ばかりあたりを彷徨う。エネルギーを放出しきったあと戻り、論文を読む。セミナーが終わったあとだとスラスラ読める気がするのはなぜなのだろうか。昼寝をして元気を取り戻したので、一気に来週のセミナーの質問を投げる。
今週の仕事リスト
×金曜日のミーティング資料(金曜日)
×金曜日のミーティングコメント(金曜日)
×形式人口学レポートの提出(木曜日)
×統計課題提出(木曜日)
・統計最終プロジェクトの分析
×人口学セミナーレスポンスペーパー提出(金曜日)
×人口学セミナー質問投稿(木曜日)
・学振報告書
×地熱
×統計授業復習(予測値の誤差)
・研究助成申請書の記入
・再婚DPの執筆
×人口学セミナー質問投稿(翌週)
(スキャナの購入)
授業(人口学セミナー)は寿命。発言しようと思うたびに緊張して声が出なくなる。毎回ちゃんと発言しようと思っているのは、良い訓練。そのあとミーティング。終了後、疲れ果てて1時間半ばかりあたりを彷徨う。エネルギーを放出しきったあと戻り、論文を読む。セミナーが終わったあとだとスラスラ読める気がするのはなぜなのだろうか。昼寝をして元気を取り戻したので、一気に来週のセミナーの質問を投げる。
今週の仕事リスト
×金曜日のミーティング資料(金曜日)
×金曜日のミーティングコメント(金曜日)
×形式人口学レポートの提出(木曜日)
×統計課題提出(木曜日)
・統計最終プロジェクトの分析
×人口学セミナーレスポンスペーパー提出(金曜日)
×人口学セミナー質問投稿(木曜日)
・学振報告書
×地熱
×統計授業復習(予測値の誤差)
・研究助成申請書の記入
・再婚DPの執筆
×人口学セミナー質問投稿(翌週)
(スキャナの購入)
10月4日
5時に起床後、7時に大学へ。ミーティングの資料を作り、違う人のプロポーザルにコメントし、統計の授業に出て、リーディングのまとめをし、アブストを少し書いて1日終了。
今週の仕事リスト
×金曜日のミーティング資料(金曜日)
×金曜日のミーティングコメント(金曜日)
×形式人口学レポートの提出(木曜日)
×統計課題提出(木曜日)
・統計最終プロジェクトの分析
×人口学セミナーレスポンスペーパー提出(金曜日)
×人口学セミナー質問投稿(木曜日)
・学振報告書
・地熱
・スキャナの購入
・申請書の記入
・再婚DPの執筆
今週の仕事リスト
×金曜日のミーティング資料(金曜日)
×金曜日のミーティングコメント(金曜日)
×形式人口学レポートの提出(木曜日)
×統計課題提出(木曜日)
・統計最終プロジェクトの分析
×人口学セミナーレスポンスペーパー提出(金曜日)
×人口学セミナー質問投稿(木曜日)
・学振報告書
・地熱
・スキャナの購入
・申請書の記入
・再婚DPの執筆
October 4, 2018
人口学セミナー第5回文献レビュー(寿命)
文献の長さがまちまちなので、まとめてレビューします。
Friesによれば、diseaseモデルにおいては、死は病気を伴うものであり、病気にならなければ死ぬことはないという考えがある。しかし、Friesはこの考えを否定する。余命の伸長が確認されても、100歳以上まで生きる人の数に大きな変化はないからだ。寿命に限りがあるという理論的な根拠として、筆者は細胞レベルにおいては、細胞の分裂する回数には限りがあるという説、有機体レベルでは、人の器官は相互に依存しているホメオタシスであるという考えがあり、若い時には、人間の器官のfunctional capacityは生きていく水準の4-10倍ほどあるというが、こうした器官の「蓄え」は加齢とともに線形に減少し、次第にホメオタシスを維持できなくなるために、病気でなくとも自然死することはあるという。
平均寿命は伸びているが、それは主として新生児の死亡率の減少によって説明されており、40歳以降の平均余命の増加の寄与分は少ないという。したがって、0歳時の人口を母集団とみなして生存確率のカーブを描くと、筆者の想定では寿命は決まっているため、生存確率は徐々に長方形のようになるという。
こうした長寿化の中で、今後死因として増えていくのはchronic diseaseといったもので、acute diseaseは減少していることを筆者は指摘している。そのために、長寿化とともにchronic diseaseと関連するような障害や、quality of lifeの低下、あるいは治療(cure)から延命(postponement)などが問題になるとする。
Friesでは寿命がfixされていることが強調されているが、OeppenとVaupelの論文では、タイトルにあるように、平均余命のタガが外れていることが指摘されている。特に、1990年代になってから、80歳以降の死亡率が減少しており、今後も余命は伸びることが予想されている。
こうした余命の議論をする際には、病の治療が関わってくるが、これに関してRoseはSick individualsとsick populationsという言葉を対比させながら、二つのアプローチを紹介している。一つ目の個人アプローチの具体的としては、ケースコントロール法が挙げられている。この手法では、ある個人が病気になりやすいリスクファクターを持っているかを特定することに焦点が置かれる。またこの手法は、対象とする集団内において、リスクにされされているかに異質性があることが前提とされている(But to identify the causal agent by the traditional case-control and cohort methods will be unsuccessful if there are not sufficient differences in exposure within the study population at the time of the study)。
二つ目のpopulationアプローチでは、先の個人アプローチが「なぜこのケースが高血圧を持っているのか」ではなく「なぜこの集団において高血圧の人が多いのか」が問題になる。そのため、このアプローチでは集団間の比較がメインとなり、平均値の差が重要になる。
病因研究における二つのアプローチの対比は、予防の文脈においても同様に議論できる。前者の個人アプローチはハイリスクアプローチと言い換えられており、予防においてこの手法の持つ利点は
・介入が問題を持つ個人に行われる
・患者と医者の双方にとってモチベーションがある。
・リソースの使用に対するコストが少ない。
・ベネフィット対リスクの比が好ましい。
であるとする。反対に、この手法のデメリットとしては患者をスクリーニングすることが難しい点や、あくまで患者を治療するため原因自体に介入できるわけではないこと、個人や集団にとってのポテンシャルに弱いこと(将来起こる病気については予測できない、少ないリスクを持つ大多数の人が、大きなリスクを持つ少数の人よりも病因を生じさせてしまう)が挙げられる。
一方で、populationアプローチの利点として、根本的な介入ができる点(伝統的な公衆衛生的な方法では、ある集団にmass environmental controlを試みること、現代的には、あまり成功しないが、society's norm of behaviorを変えることだとする)、集団にとってのポテンシャルも大きい点、そして行動学的に適切である点(一旦処置が社会的に受け入れられれば、個人を説得する必要はない)が挙げられる。その一方で、デメリットとして、個人に対する便益が少ない、患者と医者のモチベーションが低い、そしてベネフィット対リスクの比が少ないことが挙げられる。
こうした疫学的な介入によって死亡率が減少していく減少を病因のパターンの変化に注目して説明するのがOmranのepidemiologic transitionであるとされる。この理論では、転換のスピードなどで各国にいくつかのバリエーションがあり、早期に転換を達成したclassical/western model, 急速に転換を達成をしたaccelarated model、及び遅れて転換を達成しつつあるdelayed modelの三つに分かれる。転換自体は、感染症の流行(pandemic of infections)が疾患の変性(degenerative)や人間自身によって生み出されるような病気が主因になっていく。また、こうした変化が顕著なのは子どもや女性であるとする。
Oeppen, J. and Vaupel, J. (2002) Broken limits to life expectancy? Science 296 : 1029-31.
Fries, J.F. (1980). Aging, natural death, and the compression of morbidity. New England Journal of Medicine 303: 130-135.
Rose, G. (1985) Sick individuals and sick populations. International journal of epidemiology, 30(3), 427-432. Reprinted in 2001.
Omran, A.R. (1971).The epidemiologic transition: A theory of the epidemiology of population change. Milbank Memorial Fund Quarterly 49:501-538. Reprinted 2005.
Friesによれば、diseaseモデルにおいては、死は病気を伴うものであり、病気にならなければ死ぬことはないという考えがある。しかし、Friesはこの考えを否定する。余命の伸長が確認されても、100歳以上まで生きる人の数に大きな変化はないからだ。寿命に限りがあるという理論的な根拠として、筆者は細胞レベルにおいては、細胞の分裂する回数には限りがあるという説、有機体レベルでは、人の器官は相互に依存しているホメオタシスであるという考えがあり、若い時には、人間の器官のfunctional capacityは生きていく水準の4-10倍ほどあるというが、こうした器官の「蓄え」は加齢とともに線形に減少し、次第にホメオタシスを維持できなくなるために、病気でなくとも自然死することはあるという。
平均寿命は伸びているが、それは主として新生児の死亡率の減少によって説明されており、40歳以降の平均余命の増加の寄与分は少ないという。したがって、0歳時の人口を母集団とみなして生存確率のカーブを描くと、筆者の想定では寿命は決まっているため、生存確率は徐々に長方形のようになるという。
こうした長寿化の中で、今後死因として増えていくのはchronic diseaseといったもので、acute diseaseは減少していることを筆者は指摘している。そのために、長寿化とともにchronic diseaseと関連するような障害や、quality of lifeの低下、あるいは治療(cure)から延命(postponement)などが問題になるとする。
Friesでは寿命がfixされていることが強調されているが、OeppenとVaupelの論文では、タイトルにあるように、平均余命のタガが外れていることが指摘されている。特に、1990年代になってから、80歳以降の死亡率が減少しており、今後も余命は伸びることが予想されている。
こうした余命の議論をする際には、病の治療が関わってくるが、これに関してRoseはSick individualsとsick populationsという言葉を対比させながら、二つのアプローチを紹介している。一つ目の個人アプローチの具体的としては、ケースコントロール法が挙げられている。この手法では、ある個人が病気になりやすいリスクファクターを持っているかを特定することに焦点が置かれる。またこの手法は、対象とする集団内において、リスクにされされているかに異質性があることが前提とされている(But to identify the causal agent by the traditional case-control and cohort methods will be unsuccessful if there are not sufficient differences in exposure within the study population at the time of the study)。
二つ目のpopulationアプローチでは、先の個人アプローチが「なぜこのケースが高血圧を持っているのか」ではなく「なぜこの集団において高血圧の人が多いのか」が問題になる。そのため、このアプローチでは集団間の比較がメインとなり、平均値の差が重要になる。
病因研究における二つのアプローチの対比は、予防の文脈においても同様に議論できる。前者の個人アプローチはハイリスクアプローチと言い換えられており、予防においてこの手法の持つ利点は
・介入が問題を持つ個人に行われる
・患者と医者の双方にとってモチベーションがある。
・リソースの使用に対するコストが少ない。
・ベネフィット対リスクの比が好ましい。
であるとする。反対に、この手法のデメリットとしては患者をスクリーニングすることが難しい点や、あくまで患者を治療するため原因自体に介入できるわけではないこと、個人や集団にとってのポテンシャルに弱いこと(将来起こる病気については予測できない、少ないリスクを持つ大多数の人が、大きなリスクを持つ少数の人よりも病因を生じさせてしまう)が挙げられる。
一方で、populationアプローチの利点として、根本的な介入ができる点(伝統的な公衆衛生的な方法では、ある集団にmass environmental controlを試みること、現代的には、あまり成功しないが、society's norm of behaviorを変えることだとする)、集団にとってのポテンシャルも大きい点、そして行動学的に適切である点(一旦処置が社会的に受け入れられれば、個人を説得する必要はない)が挙げられる。その一方で、デメリットとして、個人に対する便益が少ない、患者と医者のモチベーションが低い、そしてベネフィット対リスクの比が少ないことが挙げられる。
こうした疫学的な介入によって死亡率が減少していく減少を病因のパターンの変化に注目して説明するのがOmranのepidemiologic transitionであるとされる。この理論では、転換のスピードなどで各国にいくつかのバリエーションがあり、早期に転換を達成したclassical/western model, 急速に転換を達成をしたaccelarated model、及び遅れて転換を達成しつつあるdelayed modelの三つに分かれる。転換自体は、感染症の流行(pandemic of infections)が疾患の変性(degenerative)や人間自身によって生み出されるような病気が主因になっていく。また、こうした変化が顕著なのは子どもや女性であるとする。
Oeppen, J. and Vaupel, J. (2002) Broken limits to life expectancy? Science 296 : 1029-31.
Fries, J.F. (1980). Aging, natural death, and the compression of morbidity. New England Journal of Medicine 303: 130-135.
Rose, G. (1985) Sick individuals and sick populations. International journal of epidemiology, 30(3), 427-432. Reprinted in 2001.
Omran, A.R. (1971).The epidemiologic transition: A theory of the epidemiology of population change. Milbank Memorial Fund Quarterly 49:501-538. Reprinted 2005.
10月2-3日
誕生日。とかいう暇はなく、火曜はジョブトークのキャンディデートの人とのランチや統計の授業、プロセミナーで忙しかった。ドタバタしていてコーヒーを飲む隙がなく、セミナーが終了がすると疲れ果ててしまい、早々に帰宅。8時過ぎに寝たら、翌日は2時半に起きてしまった。途中二度寝もしつつ、8時過ぎに大学へ。若干頭痛気味だったが、形式人口学のレポートを済ませ、人口学セミナーの質問をポストし、レスポンスシートを終わらせ、統計の課題も終わらせたので生産的だったかもしれない。帰宅して再び8時過ぎに寝ると、夢に家族が出てきた。ここ最近、日本にいる人とのとても具体的な夢を見てしまう。早く帰りたいですな。
October 2, 2018
10月1日
朝から雨が降っていた。乗ろうと思っていたバスを1本逃し、オフィスには向かわず、直接9時半からの人口学の授業に。ようやく、先生は私のファーストネームを覚えてくれたようだった。先週は標準化を習ったが、今回は分解について習った。
授業は20分くらい早く終わる。というのも、正午からジョブトークがあったからだ。トーク自体は非常に面白かったし、ファカルティから院生から総動員で一人の報告に耳を傾けている様子には興奮した。分析では、Rank-rank correlationが用いられていたのだが、近年、このアプローチは社会移動研究で広く用いられるようになっている。assortative matingの研究に応用した事例があるのか、あとでクリスティンか誰かに聞いてみたい。今回勉強になったのは、Rank-rank correlationは収入に限らず、例えば学歴分布から推定した職業の地位のパーセンタイルなどを用いることもできるということだった。それにしても、すごいトークだった。集合的沸騰ってのを久しぶりに見た気がする。
今週の仕事リスト
・金曜日のミーティング資料(金曜日)
×形式人口学レポートの提出(木曜日)
×統計課題提出(木曜日)
・統計最終プロジェクトの分析
△人口学セミナーレスポンスペーパー提出(金曜日)
・人口学セミナー質問投稿(木曜日)
・学振報告書
・地熱
授業は20分くらい早く終わる。というのも、正午からジョブトークがあったからだ。トーク自体は非常に面白かったし、ファカルティから院生から総動員で一人の報告に耳を傾けている様子には興奮した。分析では、Rank-rank correlationが用いられていたのだが、近年、このアプローチは社会移動研究で広く用いられるようになっている。assortative matingの研究に応用した事例があるのか、あとでクリスティンか誰かに聞いてみたい。今回勉強になったのは、Rank-rank correlationは収入に限らず、例えば学歴分布から推定した職業の地位のパーセンタイルなどを用いることもできるということだった。それにしても、すごいトークだった。集合的沸騰ってのを久しぶりに見た気がする。
今週の仕事リスト
・金曜日のミーティング資料(金曜日)
×形式人口学レポートの提出(木曜日)
×統計課題提出(木曜日)
・統計最終プロジェクトの分析
△人口学セミナーレスポンスペーパー提出(金曜日)
・人口学セミナー質問投稿(木曜日)
・学振報告書
・地熱