December 6, 2022

新しい景色?

 私は人並みにはサッカーの日本代表戦はみてきたと思います。アメリカに来てからはなかなか見る機会が少なくなり、選手の顔と名前が一致しないこともちらほら出てきましたが、どことなくヨーロッパのフットボールに挑戦する選手がキャリア上で抱える困難を、自分の研究キャリアと重ねることもしばしばで、そういう意味では試合の結果よりも選手個人の生き方の方に興味があるのかもしれません。

海外のチームでうまくいく人もいればそうでない人もいるし、どのチームを選ぶかは決定的に重要だと思います。せっかくユニークな個性を持っていても、チームの戦術上必要なければ使ってもらえません。エリートクラブの控えがいいのか、スモールクラブでもレギュラーで使ってもらえる方が成長につながるのではないか。日本に戻って「再チャレンジ」はできるけど、しかし一度日本に戻るとなかなか海外のチームに移籍することは難しいのではないか、そういう節々の点が、自分がこれまで経験してきた、あるいは経験するだろうキャリアと似ている気がします。

ところで、何人かの選手が言っていたベスト8という「新しい景色」が印象に残りました。現在の自分にとっての「新しい景色」は何かと聞かれれば、社会学のトップジャーナルに論文を掲載すること、と答えるでしょう。

人口学のトップジャーナルには論文を載せることができて、感覚的には(こういう表現が正しいかわかりませんが)日本代表におけるベスト16くらいの、頑張れば条件次第で達成可能な目標になってきました。しかし社会学のジャーナルは、トップジャーナルまでは壁がもう少し高く、しかし20年かかっても越えられない壁にも思えません。日本代表におけるベスト8くらいが穏当なのかなと思います。実際、まず社会学のトップジャーナルからチャレンジして、リジェクトされて人口学のそれに行き着くので、感覚としてはベスト8に進めずベスト16を繰り返す現在の日本代表の状況に近いかもしれません。

それじゃ仮に日本代表がベスト8に到達したとして、あるいは自分が社会学のトップジャーナルに載せたとして、その次の「新しい景色」は何なのでしょうか。サッカーであればベスト4でしょうが、まだ新しい景色を見ることができていない自分にとっては見当がつきません。

最後に、こういうある種のトップジャーナル至上主義的な考えをあまり良く思われない人もいるかもしれないので少し書いておくと、こういった考えは「上へ、上へ」みたいな上昇志向と同じで、研究する上で本質的ではない要素なのかと思われるかもしれません。

それは、おそらくそうだろうと思います。その上で、少々言い訳を書いておきます。

現在の私は、研究をそれ自体として楽しく取り組めていますし、特に現在進めている難関大進学のジェンダー差に関する研究は、私がその研究をしたいかどうかを考えるときの三つの基準(自分が面白いと思えるか、学問的に意義がある問いか、社会的にも意義がある問いか)を全て満たしているので、毎日時間を忘れて研究ができます。一方で、どこかでインセンティブというか、達成可能なゴールを設定しておくことで研究に対して意欲を継続できることもあります。トップジャーナルに掲載したいという目標は、自分にとってそれが3分の1というところです。あとは何かというと、同僚の研究者から評価される研究がしたいというピアプレッシャーとも互酬性ともはっきりとは言い難い気持ちが3分の1(これが一番素直なモチベーションかもしれません)、あとは単にアメリカで就職したいという、少々打算的な、しかし自分の人生を考える上では極めて重要な要因が残り3分の1です。そういうモチベーションがないと、色々なかなか難しいと思います。トップジャーナルを目指す過程で研究の質が上がることはありますが、理屈の上ではそれは過程の副産物であって本質ではありません。

日本代表の選手たちが「新しい景色」をみたいというのは、それは選手としての性なのか、日本という国を背負っている責任感なのか、あるいはそれ以外のモチベーションからなのか、少し気になるところではあります。登山家がいう「そこに山があるから」みたいな理由だったら少し困ってしまって、研究者はなかなか「そこにトップジャーナルがあるから」とは言えない職業なのです。

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