December 28, 2010

家族

 帰省して、まずまず余裕が出てきたので久しぶりに何か書いてみようと思う。
 最近まで何かものを書きたいと思っていても、どこかでその気持ちを遮るものがあった。つまりは時間がもったいないと言うことなのだが、余裕が出てきたこと、タイピングスピードが向上したことが誘因となってこのコラムに行き着くことになった。

と今さっきメールを確認したら論考のグループ班長から痛烈なコメントを頂いたので気持ちは萎えるばかりです。気を取り直して。

 先ほどまで実家にあるテレビでNHKの今年のニュース特集が放送されていたのだが、「はやぶさ」の次に大きなニュースとしてチリの鉱山労働者救出があげられていた。4月からほとんどテレビを見ていなかった身としては、正直このニュースがどれくらいの価値を持っていたのかについてはよく分からないでいた。しかし視聴者からのコメントを見る限り、どうやらこのニュースの本質は「家族の絆」らしい。映像でも夫を待つ妻の姿や、事件の最中に生まれた子供に「エスペランサ(希望)」と名付ける親の姿などが見られており、救出シーンでは家族が抱き合う場面が盛んに映し出されていた。

 このニュースから何が導き出せるか。

 テレビのストレートニュースでは、海外ニュースは一般的に言ってセンセーショナルな者が多い(事故、火災、その土地特有なお祭りなど)。センセーショナルなものは、総じて継続的に報道されない。
 分類から言えば、今回の落盤事故もその手のものになるのだろうが、そうするとここまで継続的に包蔵される意味が見出せない。確かに救出まで長い時間がかかったのは事実だが、それならば自己と救出、この2つのみを取り上げればよいはずだ。チリの落盤事故で特徴的なポイントは「海外」の事件で「センセーショナル」なものなのにもかかわらず「継続的に」報道されたことである。何故だろうか。

 それは冒頭にも述べたように、「家族の絆」が視聴者の関心を引いたからに外ならない。チリという自分たちの生活とは何も関わらないように一見思える土地の事件をここまで注目させたのは「家族」という一種普遍的なものだったのだろうと推察される。

 話は変わるが、大学に合格し、水戸から上京してきた一年を振り返ると「家族」の意味について考えさせられた経験が何度もあった。帰省するからには、帰る先に家族がいるのは当たり前だ。しかし、どうして家族のもとに帰らなければいけないのだろう。逆に、どうして家族は自分のことを扶養してくれているのだろう。一件隣に住む子供には何も与えず、私ばかりに与えてくれるのは何故なのだろう。

 そう考えると、親が子に、子が親に何かを働きかけることは何ら必然性をもたないのではないか。それはひとえに、相手が家族だからだとしか説明できないのではないか。映画「家族」を監督した山田洋次でさえも同じことをインタビューで言っていた。

 最近、朝日新聞の連載で「孤族の国」が始まった。一面と三面を使った大々的なものである。内容としては、今年和田になった老人の孤独死に代表されるように、日本人は(特に戦後初期には男性が)個人主義を求め、家族から離れていき、都市部で核家族を形成したものは良い方で、少なからず「孤独」や「孤立」に陥っている人がいる。その傾向はとどまることを知らず、女性にも見られはじめ、若者はより顕著になっている。「個を求め、孤に生きる」そういう社会が日本を動揺させていることは間違えない。孤に生きるようになったこと自体は一つの価値観が生まれた証拠であり、血縁や地縁に縛られず、自己実現のための選択肢を広げようとした動きとして評価できる。問題は日本における社会制度がそうした価値観に対応していないことだ。未だに社会保障は家族が単位になっており、そのことは必然的に女性の社会進出の妨げになっている。まず個を求める動きに応えていない。次に孤にならないような制度を作っていない。

 うまくまとまっていないが、今回のチリ落盤事故は日本において揺らいでいる「家族」の価値観への反動の一つとして捉えることはできないだろうか。(個人的には孤に生きる人にとって今回のようなニュースはまま罹患新を呼ばなかったような気がする、むしろ世帯持ちで、家族が離れていくような親の世代の関心が高かったのではないか)
 個を求める価値観を重視していくならば、日本社会は必然的に「家族」に対する考え方を改めなくてはなるまい。つまり、別に血がつながっていることが家族であるための絶対的な理由にはならないのではないだろうか。

 今回の「孤族の国」連載で日本人が孤に陥った社会的な理由としては、日本の企業社会が挙げられていた。個を求める動きは、企業がそう要請したからである、しかし企業が弱体化するにつれ、企業の求めに応じてきた(主に男性の)労働者は、周りに企業以外の社会的接点を見つけられず、家族はもちろん、話し相手もいないような孤に陥ってしまっているのではないか、そういう裏切りの世界に生きているのではないか。

 個を求め家族という価値が揺らいでいる。しかしその子を求めてきた企業社会も揺らいでいる。その中で人を孤に陥らせないためにはどのような方策が必要なのか。

 Associationと言う言葉がある。組合とか、連帯とかそういう意味になる。この言葉に家族と企業との接点が見つけられる気がする。企業に家族的な連帯を、と言うフレーズは使い古されているのかも知れないが、今後孤に陥る日本人を助け出すための策にはならないだろうか。家族的な付き合いをベースとして、退職した後もつながりを維持できるような企業形態は果たして不可能だろうか。

 まあ、最後の辺りはほんと思いつきなので無視してくれて構いません。

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