June 5, 2024

遺伝と社会階層

 引越と並行して、遺伝と社会階層に関するレビュー論文みたいなものを書いています。

最初に依頼があったのは4年以上前でした。もちろん私になんぞ依頼が来るわけではなく、社会ゲノミクスで一緒に論文を書いていたプリンストンのファカルティに依頼が来ました。当時、彼と進めていた論文の一つで、アイデアの部分をレビュー論文のコアの主張にしてみると面白いかも、ということで、当初はsecond authorとして加わりました。まあ、こういうファカルティとの共著のsecond authorというのは、実質的にfirst authorみたいなもので、ドラフトを一から書いたのは私です。最終的には、私がfirstになりました。

ちなみにこれは論文というよりは、社会階層に関するハンドブックの1章といったほうが正確です。当初はエディターの先生から、刊行記念に執筆者を読んでドイツでワークショップでもやりたいね、という威勢のいい話まで出ていたのですが、コロナでおじゃんになり、企画も長いこと停滞気味でした。しかし去年くらいからエディターたちがやる気を出し始めたのか?、ちらほらチャプターがonline firstで刊行されるに至っています。

The Oxford Handbook of Social Stratification

しかし私はというとジョブマーケットや博論もろもろで火の車で、目立った業績にはならない今回のチャプターについては、かなり怠けていました。そんな中、先月にエディターから「結局出すの、出さないの?」というメールが来て、もうやるしかないなと思い、現在に至ります。

このチャプターの主張は割とシンプルで、遺伝という概念を社会階層の研究に持ち込もうとすると、この研究分野で当たり前とされてきた二項対立が、曖昧になるというものです。

この二項対立とは何かというと、ascriptionとachievementです。社会階層の中でも、特に社会移動研究では、社会が産業化すると、生まれもった性質(親の職業や人種)ではなく、自分で獲得した地位(学歴など)が個人の人生を形成する際により重要になると考えてきました。この産業化命題が正しいかは諸説あるのですが、理論的にはascriptionとachievementという区分は、社会階層の古典的な概念といっていいと思います。

遺伝という概念が、この二項対立においてどのように厄介かというと、つまるところ両方の側面を含んでいるからです。遺伝というのは親から継承するものなので、その意味ではascriptionです。一方で、遺伝的に教育年数が高くなりやすい人はいます。そういう遺伝の因果効果的な部分は、どちらかというとachievementを予測する要因として考えたほうが適切です。

直感的には、遺伝もascriptionなんじゃない?と思う人は多いかもしれません。それが直感だと思います。その直感に従うとしましょう。

その場合、遺伝は他のascriptionと同等の地位を得ます。例えば出身階層、social originとgeneticsをともにascriptionと考えます。両方とも、親から継承している性質という意味では、同じです。

しかしsocial originと同じ地位を得ると、社会階層研究における概念に照らし合わせた時に、遺伝は奇妙な位置づけになります。社会階層、というよりどちらかというとそうした研究が依拠しているメリトクラシーの理想郷では、出身階層の影響が全く無く、個人の能力のみで学歴が決まる社会を一種のベンチマークにします。もちろん、そんな社会は実現しませんので、あくまで一つの理想です。たしかに、親が医者だから大学に行ける、という社会より、個人が勉強を頑張ったから大学に行ける、そういう社会のほうが「いい」気がします。

社会階層研究で、教育達成における出身階層による格差を研究している分野を、特にinequality of educational opportunityといったりもしますが、この分野では、暗黙のうちにsocial originによってある教育段階に進学する機会が決まってしまうのは望ましくないという想定を持っています。

さて、そうしたsocial originと同様に地位を獲得した遺伝を、この想定に照らし合わせて考えてみると、同じascriptionという意味で「遺伝的な理由によって教育機会が制限されない社会の方が理想」という主張が導かれると考えられます。この主張は、一見すると正しいように聞こえます、ある遺伝的な特徴を持っている人が大学に行けなかったとすると、それは正義に反する気がします(冗長になるので割愛しますが、この点は「遺伝的に赤い髪になる人が大学に行けない社会」という、行動遺伝学でよく用いられる比喩を知っていると、より理解度が増すと思います)。

厄介なのは、行動遺伝学の知見に依拠すると(詳細なメカニズムはまだ十分わかってはいませんが)、教育年数を予測する遺伝的な因子は存在し、それが我々が常日頃考える「テストができる」「勉強を頑張れる」人の特徴と、全く関係がないわけではないという点です。

これはある種の思考実験なので、例えば実際に「学力」や「努力」の何割が遺伝によるものなのか、という議論には突っ込みませんが、遺伝による影響がまったくない、という主張は、個人的には非科学的だと思います。

遺伝と教育年数の関係を認めたうえで、ascriptionとして遺伝を考えてしまうと、以上のような矛盾が生じてしまいます。少し穿った見方を示すと、ascriptionによって教育機会が異なるのは良くないという考えは、政策的な介入とも親和的です。例えば、親の所得によって教育機会が異なるのは良くないので、貧困家庭には奨学金を給付する、といったように。それでは、遺伝によって教育機会が異なるのは良くないと考えて、遺伝に介入するのはどうでしょう。こうすると、急に優生学的な考えに聞こえてきます。

なお、こうした考えは(遺伝とsocial originを同列に置くという意味で)strong formと呼ばれます。これに対して我々のチャプターでは、遺伝とsocial originは異なると考えるweak formを取っています。そのうえで、遺伝を(実現した)教育年数の「ポテンシャル」として位置づけています。つまり、潜在的には、誰しも教育年数が高くなりやすい遺伝子を持っているわけですが、それが実現するかどうか、という観点で遺伝と教育年数の関係を捉え直しています。

さらに、このようなフレームワークにおいては、social originは遺伝と教育年数に代表されるアウトカムの関係を変えうるmodifierとしての役割を持つと主張しています。このように考えることで、社会階層におけるinequality of educaitonal opportunityの基本的な想定とも矛盾せず(ポテンシャルの開花を阻害するsocial originの影響を最小化すべき)、社会階層研究に、矛盾なく遺伝を取り込めると議論しています。

ちなみに、遺伝といっても、少なくとも2種類のレイヤーがあり、私個人としては、この区分は社会階層と遺伝の関係を考えるうえで、決定的に重要だと考えています。その区分はbetween-familyとwithin-familyの違いです。

between-familyから始めましょう。実は、遺伝の分布は社会階層間で異なります。要するに、教育年数の高い人のほうが、教育年数が高くなりやすい遺伝子をもっている傾向にあります。したがって、高学歴の親のもとに生まれた人は、そうではない親のもとに生まれた人よりも、平均的に教育年数が高くなりやすい遺伝子を持つ確率が高いわけです。これをbetween-familyによる遺伝的な影響と考えます。これは、実質的には「生まれる親は選べない」またはchoose your parents wiselyと呼ばれる現象で、実質的には「出身階層」と同じだと考えています。

これに対して、within-familyによる遺伝的な影響というのは、ある親のもとに生まれたという条件のもとで、その親のどの遺伝子を継承するか、というものです。私は、これがsocial originと異なる地位にある遺伝だと考えています。

行動遺伝学では、betweenとwithinによるgenetic effectというのは、全体の遺伝効果を分解するときに用いる便宜的な区分の趣が強いのですが、社会階層研究に照らし合わせると、両者は全く異なる質的な意味を持つことになります。こうした点もチャプターでは議論しています。