February 4, 2020

2月4日

昨日から春学期が始まった。学期中のプリンストンでの毎日は楽しく刺激的なのだが、同じくらい疲れるしストレスがたまる。これはある種の代償なのかもしれない。下手な雑務に時間を費やされることはほとんどないが(かなり細かいが、文具は全て無料で手に入るし、図書館にない文献が欲しいと思ったら1日程度でスキャンしたものが届いたりするのは、東京で感じていた小さなstress-それは積み重なって大きなものになるのだが-がないので助かっている)、その分、研究やその周辺の仕事に時間を費やせる。これは一見聞こえがいいかもしれないが、気を抜ける瞬間が必然的に少なくなるので、それがまた別のストレスになるのではないか、と考えている。昔は疲れたら寝ていたが、最近はプールに行ってシャキっとすることにしている。当初、泳ぐと疲れてそのあと寝るのではないかと考えていたのだが、実際には目が覚めて活動的になる。運動や料理といった、研究をしなくてもいい、何も考えなくていい時間を強制的に作ることの大切さを感じている。

学期が始まるというのは、暦が変わるという形式的なもの以上の意味がある。具体的には、「ああ学期が始まったな」と感じる諸々の所作があるのだ。

(絶対伝わらないことを覚悟して書くが、)例えば、社会学部などのセミナーが開かれるカンファレンスルームはすこぶる小さい(それは、最近の学部の規模拡大で人が増えてしまったことが背景にあると思う)。小さいので、多くの場合いつも満席で立ち見が出る(本当にこの部屋は機能していない)。必然的にどこに座っても誰かと隣になるので、隣になった人がよく知らない人だったときにどう話すのか、あるいは(アメリカあるあるの)休暇はどうだった的な何気ない会話だったり、誰とアイコンタクトをするのかとか、小さな身振り手振りがすべからく可視化される空間で、あまり居心地がいいとは言えない。長方形のテーブルを囲んでいるので、ちょっとしたパノプティコン状態だ。これ以外にも、例えばトイレに入るときにファカルティの先生とすれ違ったらどうしようとか、本当にしょうもないかもしれないが学期が始まらないと思いつかないようなことが、当たり前だが学期中なので生じる。ウィスコンシンの時は、全体的にもっとだだっ広かったので、私が足を組もうが荷物を椅子の隣に置こうが特に問題にはならないし、セミナーの時もみんな報告者の方を向いているので相手を気にする必要はないのだが、社会学部のカンファレンスルームは、些細な気まずさの溜まり場になっている。その点、人口学セミナーが開かれる部屋はウィスコンシンのようにだだっ広く(かつ綺麗で)気持ちが楽になる。ただ、これはこれで暗黙の所作が複数あり、そのコードを守りながらお行儀よく報告を聞く作業は、いつもむず痒い。

多分伝わらない類のものだらけだと思うのですが、言いたいことは「ああ学期が始まったな」ということです。

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