December 30, 2020

来年の目標10個

 1. 健康に過ごす

今年30になった。まだ30なのにと言われるかもしれないが、20代の時に比べて身体的・精神的な変化を感じることも増えた。その変化の一つは、レジリエンスの低下かもしれないと思っている。フィジカル的にみると、疲れが取れずらい、食事後にすぐ眠くなるといったもの、メンタル的にみると集中力が続かないといったものまで、「疲れ・ストレスから回復して高いパフォーマンスを常に維持する」ことを妨げる要因が、様々含まれる。加齢による変化には抗えないところもあるので、食事の仕方を工夫したり、適度に運動したりして、できる限りパフォーマンスの高い状態をキープしたい。

2. 週に3-4回走る

家の周りがコンクリートばかりで毎日走るのがなかなかきついという事情もあって、隔日のペースで運動することを心がける。

3. 隔週に1冊日本語の小説を読む

今年から新しく始めた取り組みの一つが小説を読むことだった。日本語の小説を読むのは、単純に楽しいからという理由もあるが、久しぶりに日本語を書こうとした時にうまく言葉が出てこない、文章は書けるけれどもこなれた感じに見えないことが引っ掛かったからというのもある。小説を読んでいるとストーリーの展開に感情が動かされることもあるが、こんな表現もあったのかと嬉しい発見をする機会が留学後になって増えた。今年も日本語力の低下を防ぐため、できるだけ多くの小説を読みたい。

4. 隔週に1冊英語の小説を読む

英語の小説も読み始めた。個人的にベストだったのがPachinkoで、それからアジア系アメリカ人の書いた小説を読むようにしている。アメリカにおけるアジア系の位置付けを知りたいというのもあるが、彼らの描く自らの経験を反映した物語は、背景が文化的に近いこともあって英語で読んでいても文脈が浮かびやすいと感じる。これが習慣を続ける際の助けになることを期待している。

5. 本を出版する

100ページくらいの薄い英語の本を書いている。一応年末に提出だったのだが、遅れて1月終わりを目指している。いつ出版かは全く読めないが、個人的には来年の出版を希望中。

6. 論文を掲載する

溜まりに溜まった原稿が査読に落とされたりまだ査読中だったりした今年、リベンジを期すべく来年は複数、できれば3本以上掲載したい。

7. 博論プロポーザルをディフェンスする

アカデミック的に一番重要なマイルストーン。最近は他の共著が忙しくて考える時間が取れていないけど、2月くらいからは真剣に考え始めないといけない。

8. 博論のコミティを確定する

博論提出までの歩を進めるためにもう一つ必要な作業。現在までアドバイザー含め二人入ってくれる人は決まっているが、もう一人確実にお願いしようと思っている人がいるがまだ連絡はしていない。もう一人学外から追加することをアドバイザーから促されているので、意中の先生に連絡をする必要がある。

9. 日記をつける

もともとこのブログにも作業ログみたいなものから長文の日記までいろいろ書いていたが、某そのまま発音すると放送禁止用語になる雑誌の編集の人から1日数行を5年分かける本をもらったので、短い記録はそこに書いていこうと思う。

10. 新しい趣味を見つける

趣味というか研究以外の習慣なのかもしれない(そういう意味では定期的な運動も含まれる)。まだしばらくパンデミックは続くので、研究上のストレスで倒れないためにも息抜きの作法を身に付けたい。

古畑任三郎

突然、古畑任三郎を見たくなる。昨日からfodに入って2週間の無料体験期間中に全シーズン見ようと考えている。

このドラマ、尺が決まっている連続ドラマとしては非常にクオリティが高い。序盤の方はトリックに難があったり、時間の制約で人物像の深掘りができない(または視聴者の想像に任せるため意図的に触れない)点は残念だが、最初に犯人を見せてから古畑の推理が始まる(そして推理を視聴者に追体験させる)、これを毎回繰り返すのはよい中毒性がある。

ネットフリックスのような配信で放送すればエピソードによって尺にばらつきをもたらすこともできるので、また一段面白くなっただろうと思う。事件発生から解決まで一直線で犯人とメインキャラクター以外の登場人物が極端に少ないのは、舞台を見ている気にもなる。古畑役の田村正和は本当にこの役が似合っていると改めて思った。最近、ストーリーが面白いドラマはいくつもあるが、古畑のようなねっとりした、それでいて笑わずにはいられない、アクの強いキャラクターをあまり見ることはない。

December 28, 2020

仕事納め

という言葉には、実は少し憧れている。というのも、研究者は自営業者のようなもので、大学や指導教員が今日が仕事納めですよと促してくれるわけではない。自分で今日が納めと決めてそれから働かない確固たる意志を持つ人じゃない限り、容易に今日が仕事納めということはできないのである。パソコンを開けばメールは来てるし、メールを開くとなんとなく返さないといけない気分になってしまう。今年に限っては12月31日締め切りの原稿が3つある(うち1つしか終わっておらず、うち1つは確実に終わらないので延長のお願いをします)。

とは言いつつ、周りの仕事納めムードを一種のエクスキューズにして、今日はかなりスローペースだった。明日明後日は締め切りの原稿を終わらせるべくやや頑張らねばいけないと思っている。数日前から弟の学校が冬休みに入ったこともあり、別の部屋でカチカチ仕事しているのもなんだか時間の使い方としていいのだろうかと気に揉むことも仕事に集中できなかった一因かもしれない。

WFHで寝る場所と仕事をする場所が一緒になってしまった今年、もともとこういう四六時中働こうと思えば働ける職業の人間のみなさんは、workとlifeをどうbalanceさせるかではなく、balanceできない二つをせめてどうseparateさせるかに悩まれているのではないでしょうか(私はまだ試行錯誤中です)。


December 21, 2020

今年の論文10選

日本に帰国するとしょうもない深夜番組を見ることが一つの楽しみなのですが、関ジャムというジャニーズが司会をしている音楽?番組で毎年音楽プロデューサーや作詞家が今年注目の曲ベスト10みたいなのを紹介してて、例えばそれを見てzutomayo(ずっと真夜中でいいのに)の存在を知ったりして役に立った記憶があります。

私の選評が役に立つとは思いませんが、少なくとも自分が当時何を考えてたのかの振り返りにはなると思い、今年も簡単に今年初めて読んで面白かった論文をジャンル別に合計10本、紹介しています。

教育

Bol, Thijs, and Herman G. van de Werfhorst. 2013. “Educational Systems and the Trade-Off between Labor Market Allocation and Equality of Educational Opportunity.” Comparative Education Review 57(2):285–308. doi: 10.1086/669122.

今年は教育のトラッキングの文献もいくつか読んでいました。アメリカの文献を読むと、多くの研究がアメリカの中等教育が格差の維持拡大に寄与しているという主張をしています。確かに、アメリカの公立学校は住んでる地域の所得水準によって予算が決まるところがあり、学校の質と居住地域があからさまに関連しているので人種や所得による居住の分離が問題になっているくらいなので、そういった主張になるのもうなづけます。

しかし、比較教育の視点で見ると、アメリカはいわゆるcomprehensive型、つまり早期に選抜をせずに遅くまで一般教育をする制度になっています。これに対して、早期に専門を決めるタイプの制度はドイツ語圏で典型的に見られるもので、こうした早期選抜の方が親の影響が強く出るため結果的に教育制度が世代間の格差の連鎖に与える影響が強くなります。一方で、こうした早期の選抜によるメリットもあり、具体的には労働市場に特定のスキルを持った人材供給をしやすくなる点が挙げられます。

したがって、早期選抜の教育システムの方が、学校から労働市場への移行がスムーズになり、若年失業率なども小さくなると考えられます。この論文では国レベルの分析で上記のトレードオフを実証しているという意味では非常にシンプルですが、単一事例だと見逃されがちな教育制度に違いの重要性を綺麗に示している点が印象的で、国際比較研究に限らず、重要な文献だと思います。

Park, Hyunjoon, Jere R. Behrman, and Jaesung Choi. 2013. “Causal Effects of Single-Sex Schools on College Entrance Exams and College Attendance: Random Assignment in Seoul High Schools.” Demography 50(2):447–69. doi: 10.1007/s13524-012-0157-1.

高校別東大への入学者数のランキングを見ると、軒並み有名中高一貫私立の男子校が占め、中学受験時には同じ偏差値だった女子校からの入学者がそこまで多くない話の延長で、男女の共学、別学はどういうインパクトがあるのか気になっていたら、この論文を見つけました。研究では、ソウルの高校で起こった高校の生徒をランダムに別学か共学かに割り当てた自然実験を利用し、共学/別学が教育アウトカムに与える影響を分析しています。

結果は、男女とも別学の方が大学進学率にはポジティブな効果を持つことがわかりました。ただし、著者らの別の論文では、同様のデータを用いてSTEM科目への関心を検討したところ、男子校の場合には共学に比べて男子がSTEMにより興味を持つ一方で、そうした効果は女子校ではみられなかった。専攻の選択まで踏まえると、男女別学が教育的なアウトカムでみてベターなのかは議論がある気がします。リサーチデザインとしても秀逸で、かつアクチュアルな問題に対しても示唆があるので好きな論文です。

Ryan, R. M., A. Kalil, K. M. Ziol-Guest, and C. Padilla. 2016. “Socioeconomic Gaps in Parents Discipline Strategies From 1988 to 2011.” Pediatrics 138(6):e20160720–e20160720. doi: 10.1542/peds.2016-0720.

アメリカではdiverging destiniesの議論に代表されるように、親学歴でみたachievement gapが拡大しているという話が非常にホットです(もっとも、格差の拡大はアメリカに限ったことではなく世界的に見られるトレンドではあります、Chmielewski 2019)。その一つのメカニズムとして親の学歴による育児時間の格差が拡大している点が指摘されています(Kalil and Ryan 2020)。ロジックとしては、学歴によるリターンの差が拡大すると、中産階級の親たちは子どもへの投資へのインセンティブが強まる、という説明が経済学者から提起されています(Doepke and Zilibotti 2019)。

育児時間の格差は拡大していますが、子どもに対する親の関与は量(時間)だけではなく質(育児スタイル)も異なり、それが格差の維持、拡大に寄与しているという点は重要です。アネット・ラローの階級間で異なるparenting styleの研究を嚆矢として、多くの研究が育児スタイルとその後の認知的アウトカム、教育達成への影響を検討しています(e.g. Chan and Koo 2011)。

これまでの先行研究では、この育児の質的側面と親階層の関連も、時代とともに変化しているのかが明らかではありませんでした。この論文では、子どもが誤った行動をしたときに叩くといったしつけをするのか、それともなぜそれが誤っているのかを説明するのか、育児方針の階層差およびアメリカにおけるトレンドを検討しています。

前者は典型的にはauthoritarianという身体的なしつけを伴う古いタイプの育児ですが、後者は子どもの自律的な思考を養わせるauthoritativeな育児とされます(毎回この用語が超ややこしい)。分析の結果、前者のような身体的なしつけは減少しているが、所得階層による差は維持されたままということで、育児時間とは異なる結果になっているようです。

育児時間に比べると、質的な育児の側面は時間的・空間的に比較が難しいのがネックですが、親が子育てにどのように関与し、それが格差の維持、拡大につながっているかを検討する際には見逃せない点でもあり、引き続き注目していきたいと思います。

Fishman, Samuel H. forthcoming. “Educational Mobility among the Children of Asian American Immigrants.” American Journal of Sociology 58.

アジア系アメリカ人、特に1.5から2世の教育達成は非常に高く、親階層の影響を受けない点がこれまで一つのパラドックスとして知られてきました。近年のアジア系移民の親子を対象にした質的研究から、親の出身国における文化的な要因(東アジア系の子どもに顕著な高学歴志向、および親のプレッシャー)の存在が指摘されてきました。この文化要因については分析がまだ十分ではなく、この研究では人種・エスニシティごとに親階層の効果がどれくらい異なるのか、およびその関連(のなさ)は文化的要因によってどれくらい説明されるのかを検討しています。

分析の結果、白人2.5世代に比べ、アジア系1.5-2世は親階層の影響をほとんど受けないことがわかりました。つまり、親の学歴が高くても低くても、その子どもは同じような教育達成をする傾向にあります。このメカニズムとして論文では、親からのプレッシャーおよび本人の教育期待の効果を検証しており、アジア系は出身階層に限らず両者が高く、これが他の人種・エスニシティとの差を一部説明するとしています。

この知見は、アジア系アメリカ人研究としてももちろん重要ですが、アメリカにいる1.5世のアジア系という非常に限られた集団ではありながらも、親階層がほとんど全く子どもの教育達成に影響しないという現象は、地位達成理論ではなかなか説明できません。教育期待などの社会心理学的な要因の重要性を指摘したSewellらの研究も、そうした期待が親学歴によって異なると考えるため、親階層に関わらずに期待が高いアジア系の存在は、理論的にも非常に重要だと思います。


ゲノム

Rimfeld, Kaili, Eva Krapohl, Maciej Trzaskowski, Jonathan R. I. Coleman, Saskia Selzam, Philip S. Dale, Tonu Esko, Andres Metspalu, and Robert Plomin. 2018. “Genetic Influence on Social Outcomes during and after the Soviet Era in Estonia.” Nature Human Behaviour 2(4):269–75. doi: 10.1038/s41562-018-0332-5.

論争は尽きないところはありますが、差し当たり集団間の遺伝子の分散から教育年数を予測して求めるPGSは、教育年数を予測する遺伝的要因(それが知能なのかIQなのかはたまた遺伝に見えて遺伝ではない要因なのか)を部分的に含んでいるという主張はそこまで過激ではないと思います。この論文ではエストニアの事例を持ち出し、共産主義レジーム前後で教育年数を予測する遺伝要因の予測力が上昇したことを明らかにしています。解釈としては、共産主義下では縁故による雇用などが盛んで、学歴の相対的重要性が低かった一方で、共産主義が崩壊すると労働市場における学歴の重要性が増したから、という説明になります。この研究は遺伝要因が教育達成に与える影響を検証するために、共産主義体制の崩壊を外生的なイベントに持ってきている点が非常にクールだと思いました。

ちなみに、最近出た研究では国ごとのeducation PGSでみた親子のheritabilityとeducation mobilityの相関を検討しており、その結果は正、つまり社会移動のチャンスに開かれている開放的な社会ほど教育年数を予測する遺伝的特徴の親子の相関は高くなります。観察される学歴で見た移動が大きくなると、非遺伝要因であるsocial inheritanceが少なくなるため、社会が近代化すると遺伝子の相関が高くなるという解釈のようです。エストニアの事例と似た結論だと思います。

Silventoinen, Karri, Aline Jelenkovic, Reijo Sund, Antti Latvala, Chika Honda, Fujio Inui, Rie Tomizawa, Mikio Watanabe, Norio Sakai, Esther Rebato, Andreas Busjahn, Jessica Tyler, John L. Hopper, Juan R. Ordoñana, Juan F. Sánchez-Romera, Lucia Colodro-Conde, Lucas Calais-Ferreira, Vinicius C. Oliveira, Paulo H. Ferreira, Emanuela Medda, Lorenza Nisticò, Virgilia Toccaceli, Catherine A. Derom, Robert F. Vlietinck, Ruth J. F. Loos, Sisira H. Siribaddana, Matthew Hotopf, Athula Sumathipala, Fruhling Rijsdijk, Glen E. Duncan, Dedra Buchwald, Per Tynelius, Finn Rasmussen, Qihua Tan, Dongfeng Zhang, Zengchang Pang, Patrik K. E. Magnusson, Nancy L. Pedersen, Anna K. Dahl Aslan, Amie E. Hwang, Thomas M. Mack, Robert F. Krueger, Matt McGue, Shandell Pahlen, Ingunn Brandt, Thomas S. Nilsen, Jennifer R. Harris, Nicholas G. Martin, Sarah E. Medland, Grant W. Montgomery, Gonneke Willemsen, Meike Bartels, Catharina E. M. van Beijsterveldt, Carol E. Franz, William S. Kremen, Michael J. Lyons, Judy L. Silberg, Hermine H. Maes, Christian Kandler, Tracy L. Nelson, Keith E. Whitfield, Robin P. Corley, Brooke M. Huibregtse, Margaret Gatz, David A. Butler, Adam D. Tarnoki, David L. Tarnoki, Hang A. Park, Jooyeon Lee, Soo Ji Lee, Joohon Sung, Yoshie Yokoyama, Thorkild I. A. Sørensen, Dorret I. Boomsma, and Jaakko Kaprio. 2020. “Genetic and Environmental Variation in Educational Attainment: An Individual-Based Analysis of 28 Twin Cohorts.” Scientific Reports 10(1). doi: 10.1038/s41598-020-69526-6.

世界各国の双子データを用いて教育達成の遺伝率(heritability)を求めた研究。どの国もおよそ0.3から0.4の関連があることがわかりましたが、二つのコーホートで比べると減少傾向にある、つまり遺伝的には親子の教育の世代間連鎖は弱まっているようです。education PGSを知能などのプロキシとして見做せば、近代化論に従うと近年のコーホートほどheirtabilityが増し、同類婚も増えると予想するはずですが(マイケル・ヤングが描いたディストピアであり、ベルカーブ論争の主張)、実際にはそんなことはなく、教育の遺伝率は減少し、遺伝子レベルの同類婚は一定か、やや減少傾向です。

この研究は著者の数からもわかるように非常に大規模な双子の国際比較研究ですが、比較の部分で面白かったのは、有意ではないものの遺伝率は北米、ヨーロッパ(0.4)よりも東アジア(0.3)の方が低く、この結果自体はやや直感に反する気がしました。というのも、著者達も述べるように、メリトクラティックな社会ほど教育の遺伝率は高くなると予想され、東アジアの方が試験による選抜を考えるとメリトクラティックな社会だと思われるからです。学歴選抜のintensityが強い東アジア社会の方が社会階層によらず多くの子どもが学校で勉強する機会に恵まれているのかもしれませんが、本文では特になぜの説明はありません。

Harden, K. Paige, Benjamin W. Domingue, Daniel W. Belsky, Jason D. Boardman, Robert Crosnoe, Margherita Malanchini, Michel Nivard, Elliot M. Tucker-Drob, and Kathleen Mullan Harris. 2020. “Genetic Associations with Mathematics Tracking and Persistence in Secondary School.” Npj Science of Learning 5(1). doi: 10.1038/s41539-020-0060-2.

これまでのeducation PGSを用いた研究の関心は教育年数、専門的にいうとverticalな側面だけだったのですが、この研究ではアメリカのAdd Healthデータを使って中等教育段階の数学科目の選択に対するeducation PGSの効果を検討しています。さもありなんという話ではありますが、education PGSが高い子どもほどアドバンスドな数学科目を取る傾向にあり、逆に低い子どもはドロップアウトしやすいことがわかりました。アメリカの中等教育では、基本的にいつでもどのコースもとって良いのですが、難しいコース(大学入学程度、AP)をとったり、4 point scaleではなく5 point scaleのhonorsのコースを履修することでGPAが上がり、大学進学に有利に働くとされているため、中等教育段階においてもトラッキングを通じて遺伝的要因が教育達成に影響していることが示唆されます。ただし、学校に通う子どもの母親の教育年数で学校の質を指標化すると、母親の平均教育年数が高い学校に通う子どもほど、低いPGSによるドロップアウトのリスクが減ることがわかりました。一種のgene environment interactionの話です。

教育社会学では、verticalな教育年数に対比して同じ教育段階の質的な違い(専攻や学校の選抜度)はhorizontal stratificationと呼ばれるのですが、先述の通り後者に注目したゲノム関連の研究はまだまだ少ない印象です。自分もこの話で二本論文を書いていますが、来年中には掲載したいなと思っています。これに限らず、最近の研究ではeducation PGSと親の育児も関連するという知見もあり(Wertz et al. 2019)、徐々にどのようなメカニズムで遺伝要因が世代間の地位の連鎖に影響するのか、研究が進んでいます。まだ分野として成熟しきってないので、ややインディーズ感のある論文ですが今後ホットになると思います。


ジェンダー

Hook, Jennifer L., and Eunjeong Paek. 2020. “A Stalled Revolution? Change in Women’s Labor Force Participation during Child‐Rearing Years, Europe and the United States 1996–2016.” Population and Development Review. doi: 10.1111/padr.12364.

この論文では、欧米18カ国の過去20年の女性の就業参加の増加要因をKitagata-Blinder-Oaxaca分解を用いて検討しています。分析の結果、女性の就業率の上昇は、もともと就業参加しやすい高学歴女性が増加したという分布の変化によっておおよそ説明できることがまず分かりました。とだけいうと何がすごいのってなるかもしれませんが、データセットを作るまでに相当苦労するタイプの研究でしょう。

次に、学歴や結婚している人の分布の変化以外の部分、この論文では行動要因とされる部分、については、パートナー/子どもがいることによって就労しなくなる効果が減少していることがわかります。加えて、この傾向は学歴・国によって異なる点が強調されます。まず、学歴別に就業率の変化をみると、特にパートナーのいる非大卒層の母親の就業率が増加傾向であるとされ、今までの研究で見逃されてきた非大卒層女性の重要性(missing middle)を指摘しています。その一方で、このmissing middle層の就業参加率の変化は、国ごとによっても違いが特に大きいようで、例えばアメリカでは非大卒層の就労は逆に減少傾向で、これがアメリカにおける就業率上昇の停滞傾向を説明することが示唆されています。

人口学的な手法を用いた国際比較によって各国の女性就業率のトレンドを要因文化した点がユニークな点ですが、アメリカにおける非大卒層の就業が伸びていないという話は、国レベルのワークライフバランス政策がなく、そうした政策の恩恵を受けられるのは高学歴のミドルクラス層が主という点を考えると、なんとなくわかる気がします。


COVID-19

Dowd, Jennifer Beam, Liliana Andriano, David M. Brazel, Valentina Rotondi, Per Block, Xuejie Ding, Yan Liu, and Melinda C. Mills. 2020. “Demographic Science Aids in Understanding the Spread and Fatality Rates of COVID-19.” Proceedings of the National Academy of Sciences 117(18):9696–98. doi: 10.1073/pnas.2004911117.

今年は新型コロナウイルスの拡大で世界が思わぬ方向に左右された一年でしたが、研究者たちも自分たちの分野の強みを活かしたオリジナルな研究を出していきました。その中で私が専門にする人口学アプローチをうまく適用したのがDowdらの論文です。この論文が出版される前に、徐々にコロナウイルスによる死亡は年齢との相関が非常に強いことがわかり始めていたのですが、この研究ではその点に注目して、各国の死亡者数は年齢分布の違いによって容易に変わりうる点を人口学的な手法を用いて明らかにしています。政策的なインプリケーションとしては、年齢構造が高齢層にシフトしている国ではより強硬な手段を取るべきだという主張になるわけですが、コロナウイルスに関する研究に対して人口学がコミットする方向性を決定づけた論文の一つかと思います。


同類婚

Miller, Rhiannon N. 2020. “Educational Assortative Mating and Time Use in the Home.” Social Science Research 90:102440. doi: 10.1016/j.ssresearch.2020.102440.

自分のいちばんの専門である同類婚の研究については、今年はあまり「新しい」と思えるものがなかった印象です。その中でも、これはと思う論文を一つあげると、SSRに掲載された、この同類婚と家事分業の論文なるかなと思います。

ジェンダー研究では女性の所得が高くなると男性の家事時間が増えたり、逆に高くなりすぎるとそこで失ったジェンダー規範を埋めわせるために女性は家事をしがちというdoing genderの話がよく知られていますが、この手の論文は夫婦の相対所得の話をしており、地位の組み合わせの帰結を問う同類婚の研究と相性は悪くありませんでした。この論文では、アメリカのtime use surveyを使って、夫婦の学歴組み合わせによって夫婦の家事育児時間は変わるのかを検討しています。

下降婚の夫婦同類婚の夫に比べると1日10分程度育児時間が多い、という結論自体に別にそこまで驚きはなかったのですが、この論文では学歴組み合わせの反実仮想の話をメソッドのところでしていて、そこが個人的には一つ貴重なtake awayでした。

例えば最近の研究では下降婚のカップルの男性/女性が他の組み合わせのカップルよりも男女平等的だったり、離婚しやすかったり、そういったアウトカムを見ているのですが、この論文では女性視点で見ると最も学歴が低いグループは下降婚が理論上できないので、下降婚の効果を求める際には分析から除くべきと主張しています。逆に男性視点だと、一番高い学歴のグループは下降婚ができないことになります。

確かに言われてみると、個人にとって何が反実仮想のトリートメントになりうるのか、という話は、因果への関心も薄かった同類婚の分析ではほとんど検討されてこなかったと思います。もちろん、学歴における同類婚の反実仮想を考える際に、結婚時点の相手学歴との組み合わせのみを考えるので十分なのか、という論点はあるでしょう。つまり、この想定では本人の学歴が達成される過程については不問に付されていますが、個人がどのような教育達成をするかも反実仮想として考えられるからです。このように考えていると、同類婚のトリートメントは複数のconditionからなるもので、一体何がありうる選択肢なのか、わからなくなってきます。

December 20, 2020

12月21日

 午前中は地熱、ポッドキャストの編集、それと友達の論文へのコメントで終わる。

December 18, 2020

12月19日

およそ帰国して1ヶ月が経とうとしている。午前中はコロナの分析のアプデート、10時から会合。会合というか、アメリカの社会学博士課程にいる日本の人の集まり。アメリカ大統領選挙や、自粛期間のあれこれについて話していたら、その中にいたハワイ大の人の「外出たらハワイには海があるので(散歩してました)」に完敗したのが今日のハイライト。

その後お昼を食べ、所得格差の分析。のち地熱。本屋に行ったらやたら混んでいた、ので買おうとした2冊の本は断念。アマゾンで注文。パン屋で買い食いをする。

綿矢りさの小説を読んでいたら主人公が友人を訪ねてイタリアに旅行する場面があり、今年本当はイタリアに行く予定だったことを思い出した。ミラン、トゥルク、あと5年ぶりの北京、久しぶりの海外出張になるはずだった。また来年以降に。

December 17, 2020

12月18日

 午前7時半から9時すぎまでdemographic researchに掲載される原稿の校正。その後データの申請、および共著原稿へのコメントで11時半。その後数理社会学会の原稿執筆。その後に地熱のデータ構築。

親戚に聞かれて困った質問集

 「日本学術会議って実際どうなの?」2020年

ひたすら本の執筆

 徐々に終わりが見えてきた。今日は図表の整理と簡単な校正。そうしていくうちに理論パートで言及してた部分がデータで確認されていなかったので補足中。今週中には共著者のアドバイザーに送付したい。

December 16, 2020

まだまだ本の執筆

まだまだ執筆。気休めに深夜のバラエティやNHKを見るのが楽しみ。

昨日のプロフェッショナルに出てたイタリアンのシェフの人は凄くとんがってた。度々思うのは、周りの先輩研究者でもあの番組出れそうなくらいのプロフェッショナリズムを持つ人は少なくないこと。多分研究者の日々はあまり絵にならないので少ないだけだと思うが。

もう一つ。中国伝統武術の実用性に疑問を持って次々と武術家を道場破りしていく総合格闘家が、国威発揚と伝統武術が結びついた現代の中国で市民権剥奪に近いような仕打ちを受けているという話、衝撃的だった。

https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/77ZRMVPR5L/

December 15, 2020

引き続き本の執筆

 今日は体裁の確認と抜けている箇所の執筆。おおそよ目処は立ちつつあるので、明日以降はwifiを確定させて図表のファイルを作成後、コンパイルして文法チェックなどをしたい。実際に原稿をシェアするのは週末になるだろう。

December 13, 2020

本の執筆

帰国時には無理だと思ってた12月末締め切りとされる原稿がある。本と言えば聞こえはいいかもしれないが、100ページにもならないモノグラフ、とは言え一応本になる。

もともと8月に一時寄稿をして某研究所のデータを使った分析、という算段だったのだがコロナがあり帰国を諦めるとともに、本の企画についてもやや及び腰になっていた。やはり業績的なことを考えると、今は論文投稿が優先されるのは間違いないからだ。もちろんこれは真実ではあるが、バランスを取った上で博論の基礎になるような文献レビューと軽い分析をできれば、という手段的な目的もある。

そんなこんなで後ろめたさも残っていたこのプロジェクト、重い腰を上げてこの1週間学部生の卒論みたいな勢いで書き続けたら少し先が明るくなってきた、とは言っても実際には締め切り守れなさそうではある。

思わぬ収穫もあった。普段は論文読んだり発表聞いたりして着想を得るわけだが、ひたすらデータみ続けるとそれはそれで問いも生まれる。こういう時間も大切なのかもしれない。惜しむらくは今は今後の研究の問いを考えるよりも目の前の分析を終わらせることが先決である点。発想の典型例としては、メインの分析とは別にバックで確認しておこうと色々クロス表とかみてると触る前の予想とは反した分布になってることが割とあり、それはなんでだろうとしばらく考えるともしかしたらこういうことなのかもな、と思うことがある。

December 12, 2020

今年の10冊

今年の初めくらいから徐々にアメリカにおける日本・アジアを多面的にみることに関心を持ち始めました。一つには徐々にアメリカで働くことを念頭に将来を考え始め、そうすると自分の中で、育った日本とこれから住むアメリカの間でどうバランスをとろうかと考える機会が増えたことが深層にはあるのだろうと思います。

例えば自分はアメリカだとアジア系と分類されるわけですが、アジアと言っても国でだいぶバックグランド違うし…と思いつつも実際に日々生活しているとそうした違いよりも共通の経験の比重が大きくなっていきます。悩むよりとりあえずアメリカにおいて私が直面しなくてはいけない問題について知ろう、と思い日本生まれの作家がみたアメリカ(水村、村上、二人ともプレリムに縁があります)、アジア系アメリカ人が描くアメリカの中のアジア・日本(Otsuka, PBS)などをみていった気がします。

そんな中で一番印象に残ったのはMin Jin Leeのパチンコでした。これは日本が主たる舞台の小説ですが、作者は韓国系アメリカ人、日本への滞在を通じて在日朝鮮人の歴史に触れ長い構想期間を経て出版、まずアメリカで絶賛され日本語にも翻訳されるという、非常にユニークな作品です。

そうしていくうちに実は日本語の小説も翻訳されてアメリカで評価を受けていることを知り、日本にいた時は読んだことのなかった作家の本を読む機会も増えました(柳美里、小川洋子、川上未映子)。不思議と英語圏で評価を受ける最近の日本作家はほぼ女性です(他に村田沙耶香、多和田葉子など)。

専門に関わるのは最後の2冊です。KarabelのThe Chosenはアメリカのエリート大学における選抜制度の歴史を丹念にみた労作ですが、直接扱ってはいないものの、この本も実は今日のアジア系アメリカ人の問題と関わる論点を議論しています。昨今、ハーバードなどで起こっているアジア系への入試における差別への訴えは、成績やテストの点数以外に卒業生の親を持つ子どもを優遇したりするレガシー制度によってアジア系は差別されているとするものですが、この本では、このアメリカ独特のレガシー制度などが非白人を排除しようとする過程でできた歴史的な産物であることを、丹念な記述とともに明らかにしています。

二人の経済学者によるLove, Money, and Parentingは社会学者も最近よく言及している本で、利他的な親がなぜ異なるタイプの子育てをするのかを経済学的な視点から解説しています。本の主張は、子育ての違いは社会の不平等の度合い(と教育制度)を反映しているというもので、要するに格差が大きい社会になると教育による経済的リターンの重要性が増すので、親は子育てに投資をするようになる、というものです。

一人の日本研究者として意外に感じたのは、日本は教育ママや受験競争言説にみられるように子育てに対する親の関与が非常に強い社会だと思っていたのですが、経済格差が比較的小さい日本は、この不平等と子育てのフレームの中ではアメリカや中国に比べると親の関与は少ない社会に位置付けられている点でした。筆者達も引用していますが、日本では上記の子育て言説以外にも「はじめてのお使い」にみられるように、子どもの自立を重視している社会であるとされ、確かに「可愛い子には旅をさせろ」ということわざもあるくらいなので、親の関与は比較の視点で見るとそこまで強くないのかもしれません。

もちろん、この「可愛い子には〜」ということわざには、あえて突き放すというニュアンスもあると思うので、単に時間がなくて子どもをほったらかしにする、といったネグレクトに近い育児とは違い、これはこれで一つの親の関与の仕方の強さが表れているのかなと思ったりして、各国の育児文化の違いをどうやって比較できるように論じるかは、なかなか難しいなと思いました。

以上、皆さんも面白いと思ってくださるような本を並べています。

水村美苗 『私小説―from left to right 』

村上春樹 『やがて哀しき外国語』

小川洋子『密やかな結晶』

前田健太郎 『女性のいない民主主義』

五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行『岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』

Xiaowei Wang, Blockchain Chicken Farm: And Other Stories of Tech in China's Countryside

Julie Otsuka, The Buddha in the Attic

Min Jin Lee, Pachinko

Jerome Karabel, The Chosen: The Hidden History of Admission and Exclusion at Harvard, Yale, and Princeton

Matthias Doepke and Fabrizio Zilibotti, Love, Money, and Parenting: How Economics Explains the Way We Raise Our Kids

番外編:PBS documentary series Asian Americans

December 10, 2020

12月10日

 柳美里『JR上野駅公園口』を読んだ。遅かれ早かれ翻訳されたのかもしれないけど、オリンピックという国際的イベントが開かれるはずだった年に翻訳が出たのは意味のあることだったのだろう。天皇とホームレスという対極的な存在を上野公園を通じて結びつける着想はすごい。万引き家族のようなリアクションを産むのかもしれない。この小説は、小説のようでいて上野のホームレスを通じて天皇や高度成長の影を鋭く批判するノンフィクションにも読めるし、著者のバックグラウンドも含めて、万引き家族よりも幅広い反応を呼ぶだろうか。

December 8, 2020

12月8日

 アラートに以下の本の書評が引っかかった。

昔東北大の佐藤嘉倫先生がAre Asian Sociologies Possible?という論考を書いてアジア社会において重要な概念(佐藤先生はそこでsocial capitalに対してenやguanxiが対概念として取り上げていた)が社会学の概念として成り得るか議論してたけど、こういう本が出るように中国におけるguanxiやhukouはアメリカでは注釈不要で議論できるくらいにはなってきたと思う。

まあもちろんこれらの概念を他の社会に応用するってところまではいってないけど、例えば階層論ではhukouが中国社会の社会階層を検討する際に根本的に重要な概念であるという了解は取られていると思うし、じきに他の社会の分析にも輸入されたりするのかもしれない。

購入してみようか悩み中。

December 6, 2020

12月7日

 先週はかなりストレスフルだったので、2つ用は久しぶりに研究はせず、のんびりとした1日を過ごした。月曜。午前中は原稿のチェック、ポッドキャストの依頼メール、先週のセミナーを踏まえた分析のアップデート、メールの返信など。

11時から市役所に行って行政手続き、長い、一番長かったのは書類の発行だった、本当にこのボトルネックが非効率だと思う。

2時間かかったので走るのは中止。紹介してもらった論文に目を通しコメント、次にpnas journal clubに紹介する論文を読む、その後covidのお手伝い。その頃には午後6時。

November 26, 2020

11月26日

 午前中にmarriage and health、午後にコロナ、夜にまた別のコロナ論文。

November 22, 2020

11月22日

 朝起きて結婚と健康の分析の用意。

11月22日

 一時帰国。


10年前に大学に入った時に流行ってたサンデルの熱血講義、内心思ってることを打ち明けずに和を保つ日本的なスタイルとは異なる新鮮さを感じた。その後入った東大・北京大で議論するサークルでも、お互い譲れないところまで理解し合うことの大切さを学んだ。

立場の相違を理解する、言うは易し行うは難し。それからの10年は、互いに合意できるベースが失われる流れが強くなり、ソーシャルメディアを始め、違う立場の人が議論し合わず、このままでは対立が深まるばかりなのではないかと、不安になることがある。エビデンスの正しさだけでは人は合意できない。

この不安を解決する手立ては見出せていないが、高等教育の大切さを痛感するには十分すぎる。リベラルアーツは専門教育の前に位置付けられるが、今後はむしろ専門教育を受けた後に異なる分野/立場の人と議論し、どこまで合理できる/ないのか、それはどのような根拠に基づくかを深める教育が必要かも

November 19, 2020

11月18日 共著の誘いをめぐる尽きない悩み

10時から授業、その後少し休憩を挟み卒業した先輩に来てもらって博論の経験シェア、午後2時から結婚と健康の関連に関する論文のミーティング、4時から別のミーティング、最後に9時からreadiと忙しい1日だった。

4時からのミーティングは急遽決まったものだった。先週の授業で高齢者の貧困に関心があるコーホートの友人の報告に対して、日本では(単身)高齢者の増加が格差拡大の要因だけどアメリカではどうなんだろう、と言ったら興味を持ってくれたようで、関連する話題でアメリカの事例を用いた共著の誘いだった。

最近、2nd authorではあるがアメリカのデータを用いた分析にも誘ってもらえる機会が増えてきて、嬉しい気持ち半分、お手伝いでおわってはいけないという危機感半分の二つが交雑することがある。今のところはとりあえず誘いには全て乗っておいて、面白くなりそうなものにはギアチェンジをするように心がけている。忙しいので今回はちょっと…という気持ちもなくはないが、自分の中でまだそんなに選べる地位でもないだろう、という変な卑下が混じることがある。悪い冗談の一種だが,昔のNIHはユダヤ人の頭脳と日本人の手で運営されているというジョークがあり、あながち私のコラボレーションも結果的にその体をとることは少なくない。

カタカナ英語だと自分のバリューをどうやって出すかという話だが、コラボレーションが盛んな研究環境だと、自分ができるユニークな貢献は何かを考えることは、とても大切だと考えている。

なぜか?一つには、そうやって自分の強みを把握することで新たなチャンスをもらえるかもしれないから、他人はいろんなところで見ている。もう一つは自分の研究時間を多少なりとも使うわけなので、他の人でも時間があればできることは今は避けておきたいという気持ちがある。皿洗いも大切なのだが、皿洗いだけで終わるとオリジナルの料理(=博論)を作ることはできない。

ただし、日本が専門という文句で自らを宣伝している身からすると、どこかでアメリカのデータでも分析し、論文を書くことはできるというポーズ(ポーズではダメなのだが)を取っておくことも「日本しか知らない人」という偏見を封じるという意味では無益ではないのかなと思っている(どれだけ益があるのかわからないし、そもそもそういう損得勘定で研究してはいけないとは思いつつも)。日本のスペシャリストという方向性で研究をうまく昇華しつつ、日本以外についても柔軟に検討できると、個人的には望ましい。

そういった他人からの目線(私が勝手に意識しているだけなのかもしれないが)とは関係なしに,アメリカのデータを分析することで自分自身の研究についてもフィードバックはもちろんある。アメリカのリッチなデータを触るたびに,別に日本でなくてもいいのでは?と思うことも増えるので、そう言った意味でも、共著をするたびに悩みは尽きない。日本のデータだといろいろ制約があることも多いので「できない中で何ができるか」と考えがちなのだが、アメリカのデータだとそのリッチな情報を使っていろんなことができるのではないかと思うことは少なくない。もちろんこれは程度の問題で、アメリカの人からすれば北欧のレジスターデータに対して私がアメリカのデータに抱いているような「なんでもできる」という思いを寄せているのかもしれない。

自分の研究が第一と思いつつも、コラボの大切さも感じるのでバランスは難しいところである。とはいえ、多少なりとも目につくことを言ったりしているから興味を持ってもらえると思うので、そこはポジティブに考えている。若干話を逸れると、基本アメリカの人は優しいので、私がどんなコメントをしてもappreciate してくれるのだが、そうしたお世辞を抜きにサブスタンティブな貢献を、私は本当にできているのか、私がそこにいて発言することによって参加者がベネフィットを得ているのか、半信半疑になることは少なくない。これはいわゆるインポスターの一種かもしれない。

November 17, 2020

11月17日

今日は昼に人口学セミナーがあった以外は特に用事がなかったはずだが、ルームメイトの引っ越しの手伝いなどをしている中でやや時間が消えていった。まだ3-4年あるはずなのだが、たまに気持ちが焦ってしまうことがある。

夜ご飯は感謝祭風のもの。アメリカに来て以来、これで3度目の感謝祭ディナーになる。1度目はマディソンの1個上の先輩の家、2度目はプリンストン の1個下のコーホートと一緒に、3度目はルームメイトとしっぽり。普段食べることのない味気ないターキーの上にクランベリーの乗せる時、ああこの季節が来たんだなと過去を振り返るとともに、来年はどこで感謝祭のディナーを食べているのかと考える。

November 16, 2020

11月15日

 今日も比較的のんびりしていた。朝に思いついたアイデアのイントロを書き、朝ごはんを食べコロナの分析と論文を読んで昼飯にして、その後PSIDのデータを作成しつつ、asian americanドキュメンタリーを見た後に、残り物を使って料理(浅漬けx2、味噌汁、かぼちゃの煮物、いなり)。夜ご飯は作った料理でルームメイトと一緒に。大麻などの話を通じてアメリカと日本の比較。部屋に戻って研究会に参加しつつコロナとPSID、その後本を読み、翌日の授業準備を軽くして午前1時ごろに寝る。

これ今に思ったことじゃないけど海外(自分の場合はアメリカ)にいる方が多少なりとも比較の視点で日本を捉えることができるようになると思うので、日本社会を対象に研究したい人には逆説的だけど留学を勧めたい

多分昔は一度海外に出ると資料やデータにアクセスできなくて困る(それは今でもなくはない)という制約があったと思うけれど、そういうのは減っているし、日本にいる人ともオンラインで議論もできるので、日本にいないことのデメリットは減っているから個人的には可能ならどんどん留学すればいいと思う

November 15, 2020

11月14日

今日はのんびりとした1日。昨日はルームメイトのコーホート向けのフェアウェルがあった。

午前中に生活時間関連の論文をいくつか読み、日本人の知人とのランチ。そこで博論構想をしているという話からアイデアを日本語で話したところ、帰宅後多少整理がつくようになった。国際比較は難しいがもう少し頑張っていこうと思う。

帰宅後は昼寝をして、ルームメイトとasian americanのドキュメンタリーを見た、1960年代のアメリカにおける「Asian American」の誕生、ベトナム戦争、および新しいアジア系移民の話。夕食はルームメイトに作ってもらい、その後に人口学会に参加。性・出生に関するもの。最初の報告は転勤が夫婦関係満足度と追加出生に与える影響。予想通り、転勤は満足度にも追加出生にもマイナスなのだが、満足度に関しては転勤の最初が最もネガティブで、その後回複する。こういった介入が難しい連続的な処置変数をどう対処するのかという疑問もあったが、個人的には転勤による因果的な効果がそこまで大きいかと言われると、わからないところもある。出生については、確かに物理的に共同生活していないと難しい部分はあるだろう。第2報告は生活時間、生活基礎調査A票だと6歳以上の末子の場合には育児時間が家事時間とカウントされるらしい。国際比較にはB票が向いてるとのこと。第3報告は無子の話。結婚意欲がある人の中でも無子希望の人が経年で増えているのは興味深かった。

その後小説を読みながらのんびりして終了。明日は多少研究するかも知れない。

November 12, 2020

11月11日

 前日は寝不足であまり記憶がない。人口学セミナーで初めてスピーカーの紹介をするのに緊張して寝れなかった(小心者)、その後スピーカーの先生と話したけどこちらも緊張して変な英語を話していたかも知れない。夜のセミナーの頃には多少起きてきたが、そのあとに午後10時からミーティングというやや非人間的な1日だった。

今日は比較的よく眠れ(パッキングをしてるルームメイトが早くに作業してたので少しだけ眠かったが)9時からのセミナーで博論の構想を報告した。前回よりは上滑り感はなかったが(それは自分が構想に対して持っている自信に依存するのかも知れない)、それでも課題は多いままという感じだった。やはり根本的には、国際比較をしたいという動機と、サブスタンティブな問題関心がまだうまくリンクできていない、ところに尽きるのかなと思う。もう少し粘ってみて、自分の中で自然に問いを提示した結果自然と比較的なアプローチになるとすればそれがいいかなと思う。

自分以外にも博論の構想を一人1時間、しっかり報告した。その雰囲気はさながら日本のゼミを思い出させるもので、言語は違えどやろうと思えば似たような場は作り出せるのだなと思った。サジェスティブにコメントしようとしても内容を踏まえると結果的に結構厳しい雰囲気になることは多々あり、それについて誰も気まずいとは言わないのだが、みんながその気まずさを共有している感じは、特に日本にいた時を思い出した。もちろん周りは気まずさなんて感じておらず、私が勝手にフラッシュバックさせてるだけなのかも知れない。

終了後昼食を食べ、雨の予報が出ていたので、その前に用事を済ませようと外に出る。郵便局はベテランズデイでしまっていた。魚屋でサメとhake(名称不明)を買って、図書館で本を借りる。いまいち眠気が取れなかったので(それでも仕事にならないほどではなかった)、グラフの作成やデータの申請など細々とした仕事をしつつ、午後5時に終了してサメを調理した。他の魚に比べるとお手頃だったので買ったのだが(それでも1ポンド16ドルだが)、味も値段相応という感じだった。ややボソボソした感じで、特に甘味などもない(味覚はある)、ステーキにしたら多少肉感が増して美味しかったが、積極的に食べたい魚ではなかった。

夜に少しきょうだい論文を進めて就寝。昨日の先生との面会、今日の報告で今学期の山場は超えたので、気持ち的に落ち着いている。とはいえ帰国までにやることは割とある。

November 9, 2020

11月9日

 生徒からの質問で「団地にエレベーターってあるの?」と聞かれた(高齢化で団地に住む独居老人の話の延長)。ひとまず基本的にはないと答えておいて(昔、叔母と祖母が住んでいた団地もエレベーターはなかった)住宅土地統計や関係文書を調べたところ、6階以上は法律でマストらしいことがわかった。

5階建ての非木造住宅に限定すると、2013年時点ではエレベーターを設置している団地は32%しかない一方、民間借家では68%に上るのは面白かった。確かに祖母たちが住んでいた団地も4階がマックスだった。

大学で社会学やるまであまり考えたことはなかったけど、自分の通ってた小中学校は県庁の役人の子どもと団地住みの子どもが同じくらいいて、社会経済的には割と多様だったかも知れない。


November 8, 2020

11月8日

 遅くまで小説を読んでしまってやや眠い。午前11時から友人に誘われてブランチ。インサイドだったけど、みんなテストを受けているので多分大丈夫だろう。帰宅後昼寝をして、博論第4章について考える。その後日本社会論の準備と少し論文を書く。夜ご飯はルームメイトに作ってもらう。

November 7, 2020

11月7日

久しぶりにのんびりした1日。朝起きて外でクレープブランチ、その後本屋、日本雑貨店、魚店で買い物。帰宅して昼寝。しばらくしてちょっと仕事。午後6時から買ってきたタラ(cod)を調理。

英語の夢を見る

留学をしてる友達から、たまに英語で夢を見るようになったという話を聞く。これは比較的「あるある」の留学経験の一つかも知れない。私も、いつか英語で夢を見るようになるのかと心待ちにしていたのだが、アメリカについても全然その気配がなかった。夢を見ても、登場人物は常に日本語を話していた。

やはり英語が苦手だから、耳に入ってこないからなのかと思ったこともあったのだが、ここ最近見る機会が増えている。一つには7月から引っ越した家では同じ学部のルームメイトとよく話していること、もう一つは逆にロックダウン以降、現地の日本の人と会う機会が減り、日本語を使う機会が明らかに減った(週に1度の家族との電話と、隔週のポッドキャストくらい)ことが影響しているのかも知れない。あるいは英語の小説も読み始めて、寝るまでずっと英語に脳が触れていることもあるのかもしれない。これは余談だが、こうやって定期的に日本語で文章は書いていても、話すというのはまた別の営みで、しばらく使わないと日本語でも言葉に詰まる時がある。

英語で夢を見るという時に、誰が英語を話しているのかという問題がある。自分の場合は、実際の経験と一致していて、日本語で話している知り合いは日本語で話すし、英語で話している人は英語で登場してくる。両者が一緒の場にいることもあるがその頻度は少ない。

したがって、英語で夢を見る機会が増えるにつれて日本語で話す知り合いの登場頻度は減っているのだが、不思議と舞台は日本のままであることが多い。今日は夢の中でこっちの社会学部にいる人たちと、なぜか日本の中学校の教室で給食を食べていた。高校では給食がなかったから、あれは中学校だと思う。教室の机を6つくらい集めて島みたいにして給食を食べるのが中学校の習慣だったが、一つ向こうの島には、学部の先生が一人と、博士課程の友人たちがいた。マディソンの友人とプリンストンの友人のミックスで、これも普段はありえない。そのテーブルにいるのは全員whiteだったのは少し印象に残った。

給食を食べながら、日本にいる先輩にお子さんができるのでみんなでお祝いしようという話が上がり(これは英語でも日本語でもなかった)、その後に日本語がわからないメンターの先生が大量のシュクダイ(そこだけ日本語だった)があるから忘れず提出するようにと言っていた。その先生は中学校時代の先生と重ね合わされているのだろうか。こういった現実には実現することはないが、ベースは現実の経験をもとにしている、そういう夢を見る機会がたまにある。

November 2, 2020

11月2日

6ポモ>日本社会論の準備、コメント、メール業務

2ポモ>プリセプト

1ポモ>コメント送付

1ポモ>博論プロポーザル修正

3ポモ>査読

1ポモ>査読レポート提出

11月1日

 11月になりました。つまりサマータイムの終了。のんびり小説を読みながら過ごしていたら、論文査読の依頼が来ました。今までも依頼はきたことはあり、指導教員と一緒にやったりしたのですが、今回初めて単独できた依頼を受けることにしました。査読は学界へのサービスなので極力協力したい(しなくてはいけない)と思いますが、あまり時間をかけすぎると自分の研究に差し障りもあるので、6ポモあたりが妥当かなと思っています(1ポモが通読、2ポモが前半コメント、1ポモが詳細に注意して再読、2ポモが後半コメント)。

その後2時からルームショウ。2カ月間の一時帰国のタイミングで部屋をサブレットしようかと思ってポストしてみたのですが、その期間ちょうど部屋を必要としているプリンストンの院生が見つかったので部屋を紹介しました。これで家賃を払わなくてもよくなったのでよかったです。

最近はルームメイトとよく夜ご飯を食べてます。今日は低温調理で焼肉を作り、先日作ったかぼちゃの煮物、残り物のサーモン、あとは買ってきた塩辛にワインでいっぱい。

October 30, 2020

10月30日

 この二日は博論のことを考えていた。今日も考えている。

今日の作業

10時からコミュニケーション(1)、共著依頼の論文へのコメント(データとモデルについて)(1.5)、covid(0.5)その後testing kitをとりに外へ。帰ってきて博論構想(5)4時15分。その後も博論構想。

October 27, 2020

10月27日

 水曜の授業の予習(6)、covid(3)、同類婚の分析(5)、現代日本社会論質問対応(1)

October 26, 2020

10月26日

 メール業務(1ポモ)、日本社会論および論文掲載のサイン(1ポモ)、日本社会論最終レポートへのコメント(1.5ポモ)メール業務(0.5ポモ)。日本社会論の授業準備、中間試験のレビュー(3ポモ)、プリセプト(2ポモ)、きょうだい論文の改稿(3ポモ)、ナオミスギエさんの博論3~6章購読(2.5ポモ)。職域分離論文改稿(1.5ポモ)

ナオミ・スギエさんの博論を読み終えた。スマートフォンを使った刑務所出所後の労働者の職探し研究。書いてゴールではなく、新しい研究の未来が見えるタイプの博論は、読んでてワクワクする。分野外の研究を読むことのメリットも多く、今後も先輩の博論購読は続けたい。

各言語に一定数の読者がいる英文誌は(掲載稿なのか投稿原稿なのかは分からないけど)翻訳サービスはありだと思う。一方でそういった強みがなく、年500本も投稿される一方で掲載率が数%のようなトップ誌になると、翻訳のメリットは少ないだろう。なので翻訳のようなサービスが増えると、結果的にそういう地域誌と一般誌の間で、出せる論文と出せない論文の差は広がると思う。

日本語の論文書きながら英語の論文書くのはやっぱり大変なので、どっちも高いレベルでできる人はすごいなと思う。英語の書き方、日本語の書き方というのはある。同じ野球でも日本とアメリカでは使うボールもマウンドの硬さも違うのと似ている。日本語の論文書きながら英語の論文書くのはやっぱり大変なので、どっちも高いレベルでできる人はすごいなと思う。英語の書き方、日本語の書き方というのはある。同じ野球でも日本とアメリカでは使うボールもマウンドの硬さも違うのと似ている。

ナオミスギエさんの博論を読み終えた。スマートフォンを使った刑務所出所後のなので翻訳のようなサービスが増えると、結果的にそういう地域誌と一般誌の間で、出せる論文と出せない論文の差は広がると思う労働者の職探し研究。書いてゴールではなく、新しい研究の未来が見えるタイプの博論は、読んでてワクワクする。分野外の研究を読むことのメリットも多く、今後も先輩の博論購読は続けたい。ナオミスギエさんの博論を読み終えた。スマートフォンを使った刑務所出所後の労働者の職探し研究。書いてゴールではなく、新しい研究の未来が見えるタイプの博論は、読んでてワクワクする。分野外の研究を読むことのメリットも多く、今後も先輩の博論購読は続けたい。

October 25, 2020

10月25日

現代日本社会論のリーディング(2ポモ)、水曜日のセミナーの文献(1ポモ)、女性の出生の文献探し(1ポモ)、メール返信。現代日本社会論のレフレクションを読みセッションについて考える(2ポモ)論文の改稿(4ポモ)。

October 24, 2020

10月24日

 今日は朝9時から近くの川の道を自転車で2時間ほどサイクリング。そのあと11時から別の友人も加えてワインを飲みながらのんびり。いい1日だった。論文へのコメント、ポッドキャストの編集などを済ませる。明日は羽田ラナ会といけない。

October 23, 2020

10月23日

 午前中にコロナの分析、そのあとsubletの用意。4時ごろまで掲載が決まった原稿のreplication fileの作成。

10月22日

 今日はやや眠かった。午前中にcovidの分析、午後に友人との共著のチェック、昼寝して同類婚の分析。夜に地熱のミーティング。その話をルームメイトにしたら盛り上がった。今日もビールを飲んで、一通り楽しくできたのでいい日々だった。もっとできたのではないかと思うこともないけど、ベターではあった。

October 22, 2020

10月21日

 午前9時から人口学のセミナー。間違いなく今回の博論が一番炎上したことは先週書いた。であるが故に?ジャーナルレビューの議論もあまり盛り上がらなかったというか、褒めモードには慣れなかったので、授業の雰囲気的に失敗から学ぶ、という感じになってしまいややしょっぱかった。

終了後スパッと昼食を食べて、12時から社会学のwork in progress seminarで友人の報告を聞く。自分は研究してないテーマなのに一家言あるタイプの話だったので、質問して、そのあともいくつかメールしてしまった。この辺りのappropriateな作法がまだよくわからない。個人的には質問が来るのは嬉しいので、悪い気はしないかなと思ってしているけど、アグレッシブに思われるかもしれない。

前日にルームメイトのビールを飲んだので、その代わりのビールを買いにリカーショップに行ったところ、ネストビールが置いてあり、値段を見ずに買ってしまった。1本6ドル、まあそれくらいはするか…地ビールなので懐かしく飲んだ。

その後日本社会論の講義に目を通し、博論に使えそうなデータを探して、夜ご飯を食べ、途中でMLBワールドシリーズを見て、readiセミナーに入る。今日は面白い報告いくつも聞けていい一日だった。同類婚の話だったので、ついつい話し込んでしまったけど、多少の延長も悪くないかもしれない。DRMの闇の話など。

帰国までの残り1ヶ月悔いなく研究しようと思った。24時間研究するという意味ではなく、無理なく、だけど一つ一つの時間に全力を注げるようにしたい。


今日が人生最後の1日でもよかったか?

−良かったと思う。

なぜか?

−授業はやや消化不良だったけど、面白い報告を二つも聞けたし、それにサジェスチョンもできたから、自分も楽しめ、多少は貢献できたかなと思うから。MLBのゲームをルームメイトとのんびり見たのも楽しかった。ネストビールを飲めたのは幸せだった。日本社会論の学生のプロポーザルにもすぐ返信できた。悔いはない、できることはやった。

October 21, 2020

10月20日

 今日は研究デー、といきたかったが午前中に二つオフィスアワーが入った。早起きしたので眠く、昼ごはんを食べながらセミナーを聞いた後眠る。その後、立て続けに論文を3本投稿。1本は某フィールドトップ誌に投稿してRRまでもらっていたが、2回目の査読で落とされた、査読者が論文の結果を誤読した上でのリジェクトだったので納得がいかなかったが、これならもっとインパクトのあるジャーナルに載せてやろうという気になっている。残り二本はゲノムの論文。1本は某雑誌にリジェクトをもらってからトップ誌へ再投稿。もう1本はスペシャルイシューへの投稿。夜ご飯にかぼちゃコロッケを作ったが、カボチャが熟して水っぽくなっていてあまり硬くならなかった。その後水曜の授業の予習。途中で宮崎駿と半藤一利の対談を見る。明日は授業に二つセミナーがあるので、研究デーにはならなさそう。

October 20, 2020

10月19日

 日曜に寝過ぎて眠れなかった月曜日。9時半に起きてすぐグロサリーへ。ロックダウン以降はついつい買いすぎてしまうが、残り1ヶ月しかプリンストン にいないのにまたもや買いすぎてしまった。帰宅後2時半からの現代日本論ティーチィングの用意。今回のテーマは結婚だったので、やや個人的に張り切ってしまった。ついつい自分の質問を話してしまいがちになるが、そういう時こそ対極的に物を見て解説する力が試されるのだなと思った。終了後すぐにcovidのミーティング。それでだいぶ疲れてしまったので5時過ぎに料理をして、ハツを使った簡単な炒め物。6時に食べてそのあと8時くらいまでだらだらする。その後に共著者から上がってきたアクセプト済み原稿に目を通しコメント、およびもう一つ違う共著が返ってきたのでそれも返答。そうしているうちに日付が変わり、最後に現代日本論の受講生のリフレクションへのコメント。明日はオフィスアワーが二つ入ったので、もう寝ないといけない。

October 19, 2020

日曜

 前日はNYCを歩き通したので非常によく寝れた。寝過ぎてNessになるくらい寝て、起きたのは11時過ぎ。メールを開くと論文のアクセプト、といっても2nd authorなので「やった」という感はほとんどない。やる気が出なかったので、髪を切り、洗濯をし、フレンチトーストを作り、お昼過ぎから論文の改稿。カレーを作り、日本社会論の用意。今週のトピックが結婚で、受講生のコメントを見てると、なぜ日本では大半の独身男女は将来結婚を希望しているのに半分以上に現在交際相手がいないのか、結婚率が減少しているのかという疑問があり、よくわかる。アクセプトされた論文ではこのパズルを解く仮説を提示して検証している。

October 18, 2020

ヌヨォーク日帰り旅行

学期も前半が終わり進級試験も無事パスできたので、週末の1日を使いヌヨォークに日帰り旅行をしてきた。旅行といっても、1時間ちょっとで行ける距離にあるところなので、そんな大それたものではないわけだが、とにもかくにもロックダウン以降(その前から数えれば2月に東大同窓会の行事でヌヨォークに行って以降)プリンストン の外から一歩も出ていなかったので、NJ transitの電車に乗るだけでもちょっとした冒険気分だった。

本当に久しぶりの外出だったので、全てが改めて新鮮に感じられ、その度にこのパンデミックの影響の大きさを感じさせられる。アメリカで最初にハードヒットを食らったのがヌヨォークだったのを覚えている人も多いだろう。BLMで大きなうねりが生まれ、もしかしたら一部暴徒化した人たちによる店舗の破壊の動画を見た人もいるかもしれない、私もその一人だった。久しぶりに降り立ったヌヨォークは、人がマスクをするようになった以外は、一見するといつもの街並みのままで、この8ヶ月間メディアを通じてしか見てこなかった「あのヌヨォーク」との落差を感じた。


プリンストン を出るときは気持ち肌寒かったが、気温が上がると踏んでシャツにセーターで出発した。ところがヌヨォークはビル風が強い上にビルに隠れて太陽の光が入らない通りが多いため、だいぶ寒く感じた。最初の予定まで時間があったので、その足でMujiに行き、ブルゾン(と靴下、ランドリーで多数紛失したため…)を買った。ほぼ全ての通行人がマスクを着用していて、そこはプリンストン と同じだが、何せすれ違う人の多さが比べ物にならない。その数はプリンストンで8ヶ月すれ違ってきた人よりも多かった気さえする。あちらこちらで工事が行われ、マリファナのきつい匂いに複数回巻き込まれ、時々訳のわからないことを叫んでいる人を見るのも、全てヌヨォークに来たことを教えてくれる。

お昼に大学時代の友人と蕎麦でランチを取るのが最初の予定だった。この旅行、特に目的らしい目的もなく(というより、ヌヨォークは目的を持ってわざわざ計画を立てる距離でもない)、とりあえずこの1年会ってなかった友人に会いたくなり、予定を合わせてもらった。コロナ前はこうやって、東京なりヌヨォークなりに行って昔の友人とお茶をするなんてことは当たり前にあったわけだが、その「普通」が8ヶ月ぶりに戻ってきた。プリンストン ではなかなか食べることができない蕎麦を友人が選んでくれたのは嬉しかった。日本に帰ればこれくらいの蕎麦を食べることは難しくないわけだけど、その「普通」の味にも、ずいぶん長い間待たされたものだ。


大学時代の友人と話すと、いつも大学時代の感覚にすぐ戻ることができる。今日あった友人とは、リアルであったのはいつか覚えていないくらい会っていなかったのだが、あまりそういった時間の長さは感じなかった。今はツイッターやzoomもあるので、会っていなくても近況を確認できるのが、それを助けてくれるのかもしれない。

最近あいつはどうしてるとか、これからどうするのかとか、そういう他愛もない話のするのだが、そうしたただの近況確認が、zoomのような一見便利なツールでは生まれにくく、時間を合わせて実際に会わないと出てこないものなのは、とても興味深い。逆説的かもしれないが、この類の話は、わざわざzoomをするまでのものではないのだが、しかしながら(だからこそ?)わざわざ会わないと出てこないらしい。

こういう目的のない他愛もない話が、時に気分転換になり、最近近況を見てなかった友人の存在を思い出させてくれることもあり、全く別の文脈で自分が疑問に思っていたことを喚起させてくれたり、実は生活のかけがえのない一部を構成していることに気づかされる。

途中で友人とは別れて、そのあとはMoMAでJudd展を見に行った。プリンストンの本屋で開催中の回顧展のカタログを見る機会があり、シンプルなデザインの中にも強いメッセージを感じて、しばらく気になっていた。前回MoMAに行こうとしたときは改修中だったので、念願の訪問になった。

本人は否定しているらしいが、Juddはミニマリストの走りとされている。おそらくミニマリストの考えとは違うところで彼はデザインをしていた気がするが、結果的に出てくるデザインは、確かに類似性は見つかるだろう。以下はいくつかあるStuckシリーズの作品の初期のもの。ただの金属製のボックスが縦に並んで壁から出ているだけではないかと思ってしまうが、解説を読むとJuddはこのボックスの間隔も詳細に決めていたらしい。つまりボックス同士の距離もデザインの一部といえるのだ。このボックスの距離感の演出は物理的には壁を通じて可能になるもので、その意味では壁、あるいはこの空間自体もデザインの一つの要素になっている。本人がどう考えていたのかはわからないが、そういう含意があるのかなと思った。絵画のように中で閉じて世界を表現するのではなく、空間とつながることによって世界を拡張した世界を表現しているのかなと思った。別にこの作品だけがそういう性格を持っているのではなく、デザインとは本来、世界と地続きにあるものだというメッセージもあるのかもしれない。


次に展覧会の広報にも最初に載る代表作。画面に入りきらないほどの長さだが、この位置から(実はどの位置からでも同じなのだが)、各列が5色に濃淡を交えた計10色あるように見えた。しかけ(なのかわからないが)としては、各ボックスは内側にくり抜いてできていて、それぞれの縁が飛び出している。そのため上から光が当たることによって影ができる仕組みになっている。広報で出てくる写真では、ここまで綺麗に半々に濃淡がわかれているわけではないのだが、もしかしたら今回の展示は意図的に半々に見えるように光の角度を調整しているのかもしれない。これも、私たちが通常考えるような作品が単位なのではなく、光の角度も踏まえた空間全体がデザインである、というメッセージなのかなと思った。


5時ごろになって会場を後にする。そろそろ帰ろうかと思ってPenn Stationに向かって歩き出したら、途中で紀伊國屋を偶然見つけた。今回行こうとも思っていなかったのだが、日本の小説でも買おうかと思って多少並んで中に入った。

ヌヨォークに紀伊國屋があることは知らなかった。私がアメリカで初めて入った(そしてこれまでは唯一の)紀伊國屋はサンフランシスコの日系人街にある店舗で、かなり大きかったのを覚えている。今回と同じように、前回も別に入ろうと思って入ったわけではなく、偶然見かけたので何気なく入ってみたのだった。しかし、一度入ると、そこは完全に外とは別世界、「日本の書店」になる。私には、書店はどの施設よりも、依拠する社会の様相を色濃く出しているような気がしている。日本語の本が陳列されているのは当たり前といえば当たり前なのだが、単に言語が違うだけではなく、扱っている内容も英語とは大きく異なる。ある雑誌は主婦向けの弁当のレシピを扱い、ある雑誌は北欧テイストの住居空間の作り方を紹介している。そうやって表紙を見るだけで、いい部分、嫌な部分ひっくるめて、日本のユニークさが喚起されて自分に向かってくる。

書店というのはいろんなジャンルの本を置いている。私は料理や家具にはあまり興味はなく、大体奥にある学術書や小説、新書のコーナーに行くわけだが、そこに至るまでにお目当てではない雑誌も否応なく、目に入ってしまう。その一つ一つが、自分にとっては日本の文化や流行を色濃く反映していて、日本にいた時の感覚がフラッシュバックしてくる。そういう意味で、紀伊國屋がアメリカで一番「日本」を感じさせ、擬似的に一時帰国したような気分にさせる施設といってしまうのは、やや大袈裟だろうか。

しばらく滞在して、Penn Stationから電車に乗り、午後8時半に帰宅した。半日程度の簡単な日帰り旅行だったが、喧騒に包まれ、マリファナの匂いがきついヌヨォークの空気は、あの大都会が私が8ヶ月過ごしてきた、五感を全く刺激させない完全な静けさとは真逆に位置していることを、懐かしく思い出させてくれた。

October 17, 2020

10月16日

 7時半からポッドキャスト,終了後covid, そのあと査読コメントで誤解があった部分をステートした物を送付、そのあとはずっとゲノムの論文。午前中にparentingに関する論文と本を読む。集中しすぎてミーティングを忘れる。

October 13, 2020

社会階層研究の第5世代?

たまには社会学をやってる仕草を見せたいと思います。

社会階層論(と家族社会学)の科目で進級試験を受けるので、最近は階層論とはなんぞやと考えていました。最初に所感を述べるので、本当に雑駁ですが口述試験では以下のようなことを話そうかと考えています。

社会学で格差や不平等を扱う社会階層論は2000年代中盤時点で第4世代まで形成されているという議論があります(Hout and DiPrete 2006; Treiman and Ganzeboom 2000)。第1-3世代は社会移動とその国際比較が中心、第4世代は制度によって格差や移動がどう異なるかの検討があり、そろそろ第5世代を作りたくなってくる頃です。

実は第5世代は何か、みたいな議論は全く起こっていないのですが、私だったら、不平等の源泉の定義を拡大したことに求めます。

社会階層論では、典型的には父職(origin)や学歴(educaction)が自分の達成(destination)に至るまでの、不平等の源泉とされてきました(自分で獲得した学歴がなぜ不平等なのかという話は疑問に思われるかもしれませんが、ある学歴を達成する際に無視できない出身階層の格差がある場合,および学歴によるリターンが異なる場合、教育は出身階層の効果を媒介すると考えます)。いわゆるOEDトライアングルの話です。

集団間の格差に関心を持つアメリカ的な階層論はジェンダー、人種、移民など源泉となる地位を拡大してきました(Gruskyのリーダーを参照)。経済格差が拡大するにつれ職業とは異なる所得(Mayer 1997)や富(Killewald et al. 2017)、スキル(SBTC)、組合の有無(Western and Rosenfeld 2011)が格差を形成するメカニズムについても研究が増えています。経済格差と社会移動の関連でいえば、グレートギャッツビー(Corak 2013)の話が社会学でも熱いテーマの一つです(でした?)。

これらがある世代(コホート)の格差の分布を形成するとして、次の問いはなぜそれが次の世代に継承されるのかです。世代間の移動を考える際に、子どもの幼少期の環境が重要だとわかってきました(近隣、親の離別)(Chetty and Henderen 2018; McLanahan and Percheski 2008)、これはアウトカムに曝露されるタイミングの重要性を示唆します(親子世代ともに)。個人の人生の中でどう格差が蓄積していくのかというテーマと合わせて、時間的な側面は非常に重要です(DiPrete and Eirich 2006)。

継承という点では、遺伝の影響も見過ごしてはいけません(Conley and Fletcher 2017)。親からの遺伝は子の教育年数と少なくない関連を見せています(Lee et al. 2018)。重要なのは古い遺伝決定論を展開しているのではなく、階層研究は行動遺伝学の知見も交え遺伝が環境とどう相互作用するのか(Conley and Fletcher 2017)、遺伝しない親の遺伝子がどう格差を形成するか(Kong et al. 2018)を検討しています。

第4世代までの階層論は、究極的には格差の源泉を職業に狭めることで理論的、方法論的なアップデートを図ってきました(Treiman and Ganzeboom 2000)。第5世代はこの遺産を生かしつつ、格差の源泉の定義を拡大し、経済学、公共政策、公衆衛生、行動遺伝学の研究者とコラボしながらメカニズムを明らかにしようとしている、と自分は思います。定義を拡大すること、他の分野の研究者とコラボすることで、アイデンティティを見失ってしまうかもしれませんが、実際にはコラボが盛んになる中で、階層論の中で培ってきた理論的・方法論的な基礎はより重要性を増しているものと思われます(e.g., Ridgeway 2014)。

10月12日

学者(という言葉は権威性を帯びてるので好きではないけど)は思いの外嫌われているなと思うこの頃。

誤りを指摘するにとどまらずに、自らの知識を露骨に見せてしまうのもまた権威性を強めているかもしれない。研究成果をパブリックに還元する試みは大切、そして成果の見せ方にも意識を配るべきだと思う。パブリックにアウトリーチする研究者に対してアカデミックなコミュニティがインセンティブを与えることも大切だなと思う(ルー大柴みたいだが)。

今日は一日中general examの勉強。明日が試験…思ったことは別の記事にする。

October 11, 2020

10月11日

試験勉強も疲れたので、博論案のためのデータ探しをしていた。その過程でIPUMSがヨーロッパのセンサスの統合も始めていることを知った。

10月9日10日

午前中は博論プロポーザルのプレのプレを書いていた。その後試験用の原稿を確認、途中で2時から2時間程度コロナのミーティング。深夜にゲノムの論文の改稿。査読結果が帰ってくるが、コメントがメインの結果を誤解釈どころか無視して書かれていてショック。対応するかもしれない。

土曜は午前中に博論プロポーザルのプレプレを指導教員に共有、その後ナッソーでランチ。この辺り全然詳しくないので、日本で歴史ある紡績企業だった東洋紡、最近(だいぶ昔からだけど)は紡績以外(バイオ、ヘルスケア)の方がメインになっているという話は技術の応用という意味でとても面白かった。バイオ系の留学支援もしているらしい。https://toyobo.co.jp/biofund/

帰宅後ゲノムの論文の改稿と試験用のレビュー。

浪人時代に通ってた予備校のアカウントを見つけた。浪人して初めてちゃんと勉強できたので、感謝している。昔いた先生は当たり前だけどもういない。昔は東大に現浪複数受かってたけど、そういう層は全て新しくできた河合塾にとられていったみたいだ。数学の先生はすごくお世話になって、大学入ってからも数年交流は続いた。どこかのタイミングで途切れて、その後亡くなられていることを知った。授業の延長が名物だった。

October 9, 2020

10月8日

今日は授業もなく、ゲノム論文の執筆と、それが終わってから来週の試験の勉強。

夜に論文を1本読み、その後先輩の博論の1章を読む。今学期は2週間に1本のペースで博論を読んでる、否が応でも博論について考えさせられるので、いいトレーニング。提出は3-4年後だけど年明けからプロジェクトは始める予定なので、悠長なことは言ってられない。

ちなみにその博論、一章で仮説16個検討してておったまげた、なぜ指導教員止めなかったんだろう…

仕事が終わった後、ストリートに出てイタリアングロサリで少し買い物をして、本屋に行き、日本雑貨店で散財し、アイスクリーム屋で季節限定のローストパンプキンを買った。アメリカ人の好きなもの1位はアイスクリーム、4位はパンプキンなので、もう横綱同士のマリアージュという感じ。



October 8, 2020

えっせい

年に一度村上春樹が話題になる時期である。私はなぜ村上が(読むけど)世界から評価されているのかわからないが、彼の「やがて哀しき外国語」は面白いと思うし、海外の人から見ても当時のアメリカがどのように日本を見ていたのか(そしてそれをどう一日本人である村上が感じているのか)は興味深いと思う。

一種の日本社会論としても読めるものを読むと、日々何が起こったのかを書き留めておくだけではなく、少しまとまったエッセイも残したおいた方がいいんだろうなと思う、なかなか当時の空気感を思い出すことは難しい。例えば、今年の3月がどういう雰囲気だったのかをありありと思い出すことは難しい。

といっても眠る間際に各日記にそういった意欲は湧くことはない。今日は午前中に博論を読むセミナーで、先輩たちを読んで博論プロポーザルの話。みんな当たり前のように最初はASRからチャレンジすることが確認できた。チェア以外の教員との付き合い方、JMPへの時間のかけ方など色々アドバイスをもらえた。その後ずっと論文を書き、目処が立ったので明日共有できるようにしたい。もっと批判的な考察は後になってからだろう。

October 6, 2020

teaching第5回反省

前回の反省を踏まえて、今回はブレークアウトで議論(前回は7分だったが生徒には足りないと思ったので10分にした)、その後に考えをシェアしてもらう構成にした。また、私は基本ファシリテート+細かい点の補足にして、シェアしてもらった考えに対するリプライを違うグループの人にお願いする、そうして発言機会の確保+重層的なインタラクションを目指した。

結果的に、ブレークアウトでまず自分たちの考えを共有し、その考えを他のグループに伝え、質問に対してリプライするという流れを自然に作ることができた。そこで最後に私がなぜこのようなディスカッション(今回は日本における女性にとっての学歴の意味)を用意したのか、伏線回収も含めて若干の解説。

これで40分は使ったので、残りの10分は予備で用意しておいた2つ目のディスカッション質問を、グループワークはしてもらわずに考えてもらった。発言のインテンシティはやや落ちるが、流しとして考えれば悪くはなかった。最初の導入で5分使うので、正味ブレークアウト10分、考えのシェアと議論25分という、タイトといえばタイトな時間になる。量だけ見ると1セット35分は短いように感じるが、何度かブレークアウトを試していくにつれ、問題は量ではなく短い時間でもどれだけ意味のある議論ができたかなのだなと思うようになった。

というわけで、今回はやや自己評価高め。5回のティーチング+2回ほかのセッションの代打を通じて、徐々にティーチングもできるようになってきたような気もする。しかし、うまくいってる気がするのは、上記のように自分でリードするより、まずzoomのブレークアウトルームで学生たちに話してもらって、その後に議論するスタイルに落ち着いたからかもしれない。

さらに言えば、こうした学生中心のオーガナイズは、学生の側がきちんと何を議論したいのか、明確である場合に機能する。東大とプリンストンという、私の限られた経験から由来する非常に奇妙な比較になるが、プリンストンの学生の方が自分の疑問をうまく言語化するスキルが高い気がする、さらにその質問を適切な場で共有する、一種の空気を読むスキルも高い。これはおそらく、受講生が2-3年生で、すでに他の授業を通じてディスカッションに慣れてるからというのは影響しているだろう。

とにもかくにも、学生たちに助けられて、自分の役目は交通整理でいいんだなと思った。変に先生ぶる必要はなく、彼らが考えていることはどれも素晴らしいポイントをついているので、セッションでは彼らのインタラクションから互いに新しい論点について気づきを得て欲しいし、私は彼らの気づきをサポートするアシスタント役が適切なのだと思っている。

これが大学院の3時間のセミナーになればまた役割も変わってくるのだろうが、50分のセッションは短く、文献のファクトやロジックを細かく確認する時間は取れないので、多少大雑把でも、大きな話から日本社会への理解を深めてくれればいいのではないかと考えている。

teaching第4回反省

今日の授業は、後半やや失敗した気がする。最初にブレークアウトで議論してもらった後、考えをシェアするところまでは良かったが、そこで扱った内容以外の質問に対する答えを考えていたので、全てこなそうと思って一つ一つの説明が不十分になってしまった。反省としては、次回からは、事前提出のリフレクションに書かれている質問を全てのせることはせず、こちらで議論した方がいいと思うものを選択した方がいいと考えた。変に平等的な思考が入ってしまって、どの学生の質問も等しく暑かった方がいいだろうと考えていた節があったが、おそらくセッションで目指すべきは平等なトリートメントではなく、議論したからこそ生まれる新しい示唆であって、その示唆を得るに適切な質問は何か、優先順位をつける必要がある。

ポジティブな点としては、ブレークアウト自体はうまくいった。やはり、ある程度議論してもらった後に答えや考えを提示するのがいいかもしれない。ただし、最初にブレークアウトは遅れてくる人もいるので難しいので、最初に事項の確認→ブレークアウトがいいのかもしれない。

October 2, 2020

10月1日

 この2週間はgeneral examsの用意でてんやわんやだった。火曜に提出したあと、水曜は朝から授業があり、疲労のピークという感じ。木曜の今日はよく眠れた。水曜にタイミングがよく?リジェクトのお知らせをもらったので、今日1日はコメントをもとに修正し、別のジャーナルへの投稿準備をしていた。4時半から人口学研究所のタウンホールミーティング。質問特にないのにcold callされて驚いてしまった。意外と長引いてしまい、疲れてその後の韓国セミナーには出れず。夜ご飯を食べてしまうと、本当に眠気がすごくなってしまうこの頃。

明日から心機一転走るのも再開しようかと思う。

October 1, 2020

これまでの10年・これからの10年

誕生日を気にしなくなって久しいが、今年はいよいよ30代に入ることが数日前に頭をよぎり、これまでの10年とこれからの10年に思いを馳せていた。

10年という数字で過去を振り返るのも恣意的かもしれないが、人口学をやっていると人の年齢や出生年を10年区切りにして考える癖がついてしまい、いよいよ自分も「20~29歳」ではなく「30-39歳」に丸をつける年になったのだと思うと、ずいぶん歳を取ったような気もしている。

この10年の自分は非常に我儘だった。自分が持っていないものを得ようとがむしゃらに、時に人に迷惑をかけながらも突き進んでいった気がする。東大に入り、与えてもらったチャンスは全て自分のものにしようと、興味が出たらすぐ手をあげ、新しい世界を見させてもらった。その結果、両立ができなくなって駒場に残りたかったにもかかわらず成績が足りずに文学部に進学することになった。駒場の後期教養学部に進学したかったのは、当時駒場生にのみ機会が開かれていたミシガン大学への交換留学を目指していたからだが、その願いは叶わず、文学部の協定で行けるマンチェスター大学へ留学をした。大学院に進んでからは、留学するか、国内に残るか悩みながらの日々が続いたが、既に自分で論文を書けることを示したくて、修士課程から投稿論文を出していった。そうすることで、アメリカに行ったら日本で就職できなくなるよとか、日本語で論文を書けないのになぜ海外に行くのかといった疑念を抑えたかったのかもしれない(そういうことを露骨にいう人はほとんどいなかったが、心の中に重圧はあった)。そして幸運なことに第一志望の大学に留学でき、指導教員の移籍に伴って偶然プリンストンに来てしまった。

このように、20歳からの10年は常に現状を変えたいという思いで、選択肢が与えられたら積極的にリスクをとってきたと言えるだろう。そういう意味では、あまり周りを顧みることはできなかったし、自分本位だったと思う。

それで失ったものも少なくないが、今の自分の視点から過去の自分を擁護すると、昔の自分には何もなかった。田舎から上京してきた学生で、親戚に大学に進学した人が1人を除きいないところで育った自分は、大学で何をすれば良いのか、アドバイスしてくれる人がいなかった。だから、自分で探すしかなかった。親は研究者ではもちろんないから、大学院に行くこと、留学することなんて選択肢にもなかった。だから、チャンスを生かして、そこから自分で考える他なかった。裏を返すと、東大で出会った友人や先生たちがこういう身勝手な自分にたくさんの機会を提供してくれ、それを享受するばかりの10年だったと言えるかもしれない。

この10年で年を取ったのと、今いる大学の恵まれた環境のおかげで、この10年の自分がいかに利己的だったか、世の中の流れに抗いながら生きていたかを振り返ることができている。これからの10年も、チャンスを得るためにチャレンジを続けることは必要だが、いい意味で無理をしない、現状を受け入れることも大切なのではないかという気がしている。この10年は無理をすることも多かった、それで得るものもあったが、失うものも、もちろんあった。それが原因で、身体的に、精神的に疲れることも増え、少しづつであるが無理が効かなくなってきた気もする。

体調が優れない日々を経験して学んだのは、無理をして体を、心を壊してしまってはできるものもできなくなってしまうことだ。短期的には、それが正解かもしれない。しかし、次の10年を考える時、20代の10年のように行き当たりばったりの無理ばかりをしていては、そもそも40歳になれるかわからない。計画的に、無理をせず、諦める勇気も持ちながら、これからの10年を生きていきたい。世の中の流れに抗せず、うまく身を委ねることで自分を目的地に運んでもらう気持ちも必要なのではないかと考えている。

これからの10年は、自分の人生の中盤、後半に対して非常に重要な期間になってくる。予定が狂うことがなければ、4年後に博士号をとり、35歳前後で職を得ているだろう。現在の第一希望はアメリカの研究大学だが、その場合7年間で業績を積み、テニュアを取らなくてはいけない。40歳になる頃はテニュア審査期間の後半に入ってるだろうから、おおよそ目処は立っているだろう。そこでアメリカに残るのか、日本に帰るのか、もちろんそれ以外の選択肢もあるだろうが、40歳になった時に、できるだけ自分が希望する次の10年を歩めるような状態になっていたいと思う。

並行して、自分が全力で研究できる、最後に10年になるかもしれない。この10年で基礎はできた。これからの10年で自分にしかできない研究を本当に世に出すことができるのか、試されることになる。これまでお世話になった先生は、これからの私の研究に投資をしてくれたと思う。期待に応えられるよう研究生活を歩んでいきたい。あまり日本的な道徳観は好きではないのだが、最近見たドラマの言ってることを真似すれば「恩返し」の10年にしたい。

September 26, 2020

9月26日

今日ランチした先生は大学院時代、私がお世話になってる先生の引っ越しを手伝ったらしい、狭い世界。彼らが大学院生の頃は日本からの留学生はたくさんいたが、減りましたねという話に。国内で再生産できるようになったのもあるかもしれないが、競争は激しくなり、プッシュ要因も減ったのかもしれない。もちろん、英語圏でなくとも社会学ではスウェーデン、オランダなどの大学は自国で博士課程の院生養成して、それでアメリカのジャーナルに載せてる人は珍しくない、やろうと思えば日本の大学もできるはず。ノウハウがないだけ。

その後、試験の論文作成。ひたすら。

9月25日

 今日はあっという間に過ぎていった。急遽指導教員のセクションのピンチヒッター(2回目)を務めることに。そのために前日早く寝て、7時に起きてレフレクションが締め切りの8時になってから質問を見て議論のオーガナイズをして、多少準備をしたのでひとまず無事に終わった。

その後すこし休んで、試験の論文を書き、午後3時から水曜の授業の受講生と一緒に先生の自宅の庭でお茶。学期中zoomで毎週のように顔を合わせていたコーホートの友人と実に半年ぶりの再会、不思議な気分だった。一時帰国までにもう一度会えればいいなと思う。

帰宅し、ハツを食べ、すこし論文を書き、第3回日本からアメリカ社会学博士課程に留学してる(た)人飲み

日本の格差貧困問題の根本要因は雇用の安定性だって分かってるのに、なぜ政府はそこを直接解決する政策を取らないのか?正しい。自民党は業界団体のエリートから支援されてると答えるが、一方で政権は世論の声にも敏感なはずと。正しい。特定の集団の世論により敏感なのか?多分正しい、高齢者だろう。

月曜の自分のセクションの生徒の提出したリフレクションにも目を通したが、ちゃんと授業で議論したことを踏まえて膨らませて書いてくれた人もいて嬉しかった。

第3回日本からアメリカ社会学博士課程に留学してる人飲み

 備忘録メモ

・日本研究をどうテイラーするか、及び雑誌の投稿先ストラテジー

・批判的人種理論と計量研究の可能性

・学生指導の難しさ

・指導教員とどうコンタクトするか

いつもながら楽しく勉強させていただきました。

September 24, 2020

9月23日

すっかり秋めいてきた。土日は近く迫った試験の用意、友人を招いた火鍋、月曜の授業の用意などをしていた。

月曜にティーチングを終え、博論を読み、paaのアブストを書き、数理社会学会に参加。ポスターセッションまで参加していたので、翌日は結構眠かった。日本にいる古い友人と久々に電話して互いに近況を伝える。

火曜はpaaの提出をし、博論を読みコメントを提出、月曜の授業のフィードバックを済ませる。人口学セミナーはウィスコンシンの先生で私を覚えてくれていて嬉しかった。今週からin home testingに変わったコロナ検査を提出。眠かったので9時過ぎに寝てしまう。

水曜日は午前中に博論セミナーに出た後、学部ミーティングに参加。終了後にランドリーを済ませ、ナッソーまで出て注文していたコーヒー豆、アイス、及び日本食器店で買い物。本もピックアップして戻り、covidの分析を進めてメンターに共有。

この間、ルームメイトが見ていたコブラ会というアクションコメディをみている。空手キッドという1980年代に流行った映画の後日譚なのだが、勝つために手段を厭わないコブラ会と呼ばれる道場を営む前作の悪役と、前作の空手大会でそのライバルを倒した後車会社で成功を収めた主人公がそれぞれ30年後に対照的な人生を歩む大人になり、自分たちの子ども、彼らの学校の生徒・友人たちとの交流を通じて、少年時代のように空手にのめり込んでいく話。

空手の中にやや変な日本文化の解釈が含まれているのは愛嬌というか、アメリカから見た一種の日本理解としてみれば途中苦笑いしながらも楽な気持ちで見れるコメディである。その一方で、親子の葛藤や学校でのいじめ、移民の親を持つ子供の経験など、アメリカのドラマらしい描写がその中にうまく入り込んでいる点がユニークと言えるかもしれない。前作で悪役だったライバルも、自分の道場の教え方に葛藤を抱き始め、善悪の区別が曖昧なのは現代らしい。

September 18, 2020

予測可能性寿命

 授業用の自習で読んでみたところ、日本は長寿化(それに伴う定年の延長)と労働市場の不安定化が同時に生じてるが、それらが組み合わさると、昔のコーホートよりも今の人の方が、不確かな人生を歩む年数が絶対的に増えていくことに気がついた。

Population Decline and Ageing in Japan - The Social Consequences

実際はどうであれ、平均余命が60歳と言われれば恐らく人は自分の寿命を60年あたりにして人生を考えるだろう。一億総中流、日本的雇用慣行が信じられてた時代には、一度大企業に入れば自分の人生はずっと安定と思えた。非正規が増えた今は、そうした考えを持てる人は減っているし、その中で長寿化が進む

9月17日

 午前中は特に予定がなかったので寝る。論文を少し書いて、午後にミーティング…それをもとに分析で1日が終わる。ACS 5 yearsの1%サンプルを使って分析をしているのだが、国勢調査1%相当なので、単純にアメリカの人口で割るとサンプルサイズが1500万程度になり、私のラップトップではまともに動かせないので人口学研究所のremote desktopを使うことにした。それ自体は問題ないのだが、windowsになるのでショートカットが異なり面倒くさい。ストレスが溜まるタイプの作業だったのでかなりアイスを食べてしまった。


直近の日程としては、来週にPAAの締め切りがあり、10月末には別の論文の締め切りがある。その合間に進級試験があり、論文を読んだりエッセイを書いたりしなくてはいけない。そうしているうちに、あっという間に11月になる。

September 16, 2020

9月16日

 今日は前日にかなり早く寝たので7時ごろ起きた。9時から2時間半程度の博論輪読セミナー。外でカレーを食べ、ランドリーを済ませ、メールに返信したりしつつ、午後は久しぶりに新しい論文を書いてた。学校トラッキングとスクールエフェクトに関するもので、自分にとっては未知の世界。夜ご飯を作り、ルームメイトとシェアして食べた。台湾の名前の付け方のカルチャーなどを教わる。夜にreadi。

博論輪読セミナー第2回

今日の授業は前回に引き続き、私が指名した卒業生の博論に触れる回だった。この授業ではまず博論を読み(先週)、その後に博論が元になった(あるいはlitになる前にすでに出版された)論文の査読過程をレビューする(今週)。卒業生が寛大にも自分が投稿したときの原稿、レビュアーからのコメント、改稿、改稿へのコメント、など出版に至るまでのドキュメントを全て共有してくれることで、この授業は成り立っている。

前回も述べたように、この卒業生の博論の一章はアメリカの社会学でトップジャーナルとされる雑誌に掲載されたもので、この雑誌への掲載率は4-5%と非常に狭き門である。そのような雑誌に掲載された論文なのだから、さぞかし最初の原稿から洗練されているのだろうと思っていた。

予想は若干異なった。

まず、レビュワーのコメントを読む前に、最初の提出原稿を2度ほどよみ、コメントをつけていく、イントロが長い、投入する共変量への説明がない、レビューが薄いところがある、色々とコメントはあった。その後にレビュワーのコメントを読むと、同じようなところに言及しており、やはり誰が読んでも物足りないと思うところは変わらないのだと思った。もちろん、レビュワーのコメントの方が非常にクリティカルで(とはいえそのレビューを経ても先週色々批判されたわけだが)、これらのコメントを踏まえて改稿した原稿は、ほぼ完成原稿に近かった。2度目のレビューで新しく査読者が入ったり、元々の査読者が突如として奇抜なことを言って結果のプレゼンテーションなどが変わっていたりしたが、コアな部分は最初の改稿でおおよそ済ませたことがよくわかった。

最初の原稿は私の目から見ても改善の余地が大きそうで、それは完成原稿を見ているからそういうコメントになるのかもしれないが、一方で完璧な原稿ではなくてもトップジャーナルからR&Rをもらえるのだと思うと、少し勇気づけられた気がする。

レビュワーのコメントに私が個人的に首肯しないところがあったり、その人がレビュワーの従った結果、セミナーで先生に批判されたところもある。というわけで、一つの学びとしては、間違った指摘は間違っているとちゃんというべきなのだろうなと(当たり前に聞こえるかもしれないが)思った。ただ、レビュワーの指摘が間違っている場合は、きちんとその理由を示さないといけない(当たり前だが)。ただ、トップジャーナルでR&Rにもなって、しかもジョブマーケット前の学生という立場となると、面従腹背アプローチの方がセーフティに思えてしまうのも無理はないというコメントもあり、これは確かにそうだなと思った。この人は実際にジョブマーケット前にトップジャーナルへの掲載を実現し、トップスクールへの就職を成し遂げているので、色々論文へのコメントはあるが、結果としては成功しているのだろう。

論文を読みながら、いくつか行っている分析でサンプルサイズがありえない程度に違うところを見つけた、再度確認すると博論でも変わっていなかったので、おそらく最終的に出版されたものでもその怪しさは残ったままなのだろう。一瞬再現できるか試してみてコメンタリーでもかこうかと思ったが、労多し益少なしなので諦めた。その延長で、セミナーでは経済学のジャーナルなどでdata editor、あるいはハーバードのIQSSが論文提出前の分析結果のチェックを行ってくれるという話を取り上げた。大学間で格差が生じないようにするためには、威信の高いジャーナルはdata editorを用意して、アクセプトされた論文の再現性はチェックした方がいい気がする。もちろん、そうするとさらにコストがかかるわけで、投稿料や掲載料が上がるのかもしれない。それでも、分析結果の透明は非常に大切だと思う。

日本で細かく分析するカルチャーに育ったところがあり、話の大きさよりも分析の緻密さが大切だと思った時期にないとはいえない。しかし、アメリカの大学院に来て感じるのは、まず論文を評価する軸は、問いの大きさであり、その問いを明らかにすることで既存研究にどういう貢献ができたかというところがまず先に来る、それは手法に関係ない。

適切なデータを選ぶことも非常に重要だが、分析手法がベストではなくても、(アメリカの)トップジャーナルのR&Rは難しくない気はする、というより変にこだわりすぎる必要はないと思う。一つにはレビュワーがどの手法がベストかに関して異なる意見を持っているので、結局多かれ少なかれ指示に従っていじる必要があるから、という実際上の理由もある。もちろん、手法次第によってサブスタンティブな結果が変わったりすることもあり、その場合はレビュワーのコメントはかなりクリティカルになるだろう。

やや難しいのは、メソッドはコンテクストフリーなところがあるので、日本でトレーニングしていてもアップデートは難しくないとは思うのだが、既存研究で何が抜けていて、その中で何を今埋めるとレバレッジが相対的に大きいのか、というのはかなりコンテクストに依存する気がしている。こう言った部分を手っ取り早く、日常のインタラクションの範囲で把握するためには、アメリカの博士課程に進学するのが最も手早いことは、想像に難くない。

September 15, 2020

teaching第2回反省

 2回目といいつつ実際には指導教員が教えるはずだった一コマを代わりに教えたので、3回目だった。学生が一人抜け、一人加わり6人のままでスタート。先週の反省を踏まえて、レスポンスを読んでいたらいくつかの質問は関連づけられると思ったので、ひとつずつチャットボックスに書いてもらうよりも、私の方で指摘した方がいいかなと考えて今回は最初に簡単な振り返りをして、クイズをだし、その後にこちらから質問をレビューして行った。先週に比べると多少オーガナイズされて、効率的に議論できたと思う。その代わり、最後に時間が余ってしまってモゴモゴしてしまったのは反省点。時間が余った時にやるべきことを頭に入れておくべきかもしれない。あるいは、多少時間が足りないくらいに議論のネタを考えておくべきなのかもしれない。

いくつか反省点。こちらは全員の質問を見えているのだが、レスポンスを出した学生は自分の質問しかわからないので、コンテクストを共有してもらうためにもこちらでまとめるよりも学生に話してもらった方が発言機会の確保にもなると思った。

もうひとつ、構成的に一人の学生の質問だけ十分にカバーすることができなかった…自分の質問が触れられなかった学生の気持ちは痛いほどわかるので、どうするべきか、自習までに考えたいと思う。この手のことがあるので、やはり一人一つ上げてもらう方がいいのかもしれない。

September 14, 2020

9月14日

 午後3時過ぎまでティーチングの用意とプリセプト。終了後シャワーを浴び、worse のアップロード、ゲストへのメール。試験の日程調整、セミナーのリマインダ用意、水曜の授業の用意。実際にトップジャーナルに載るまでのレビューを先輩が共有してくれて、それに基づいて議論するのだが、かなりありがたい。普通に2年はかかるのだなと思った。その後学生のレスポンスへの返答。夕食を食べ、寝て、散歩。その後CCCのセミナーに参加。

中国の家族についての話で、mosaic modernityを応用して、個人主義と家族主義の両方が混濁して共存する家族モデルの理論を提示している。理論なのかどうかはよくわからなかったが、ひとつ面白かったのは一人っ子政策の結果、女子の一人っ子が増え、かつては異なる家に嫁ぐ父系的な家族規範が強かったのだが、最近の中国では双系化、つまり結婚後も女性は両方の家とつながりを持つようになっているという。つまり、嫁入りした女性も、将来的に嫁ぎ先だけではなく自分の親のケア役割も期待されているということだ。これを反映して、かつては嫁入りしてきた女性にケア期待をしていた義理の親たちも、その女性と本当の親子のように接しないといけなくなっていると論じる。面白いし、中国に限らず日本でも少子化とともに取り上げられ始めた問題のように思える。論点としては、福祉制度が整っていない、あるいは家族主義であることに言及した方が良いと思った。また、この手の話でいつも感じるが、こうした急激な家族の変化を経験しているのはどちらかというと都市部の家族だと思うので、地方で同じような変化が見られるのか、見られないのか、分岐するのか収斂するのかのシナリオも議論すべきだろう。

その後チケットの変更。予約はできたがエラーがあったとかで電話をしないといけない、面倒だ。

September 13, 2020

9月12日、隠れたカリキュラム、全米オープン、火鍋、家族社会学会

今日はオフで研究はせず、ゆっくりと1日を過ごした。朝起きて、リビングにカラルコさんが最近出した大学院における隠れたカリキュラムに関する新著があった。ルームメイトが買ったらしい、買うまではないかと思っていたが、そこにあるので読んでみたくなり、2章ほどさっと読んだ。第1章は大学院をどう選択するかという内容で、出願時には考えもしなかったが、実際に入ってみると重要だと思うところにも言及があり、これから出願を考えている留学生にもいい本だと思った。学部のホームページを見るとどの学生がいて、どういう関心を持っていると言った表面的な情報はわかるが、ホームページに書かれていない情報、例えば学部の「文化」などは実は重要だと思う。

例えば、ウィスコンシンは学生間の紐帯が強く(大都市から遠いこともあってみんなマディソンに住んでいる)、誕生日パーティーがあるときには学部の人を招くなどインフォーマルなイベントが多かったのだが、かたやプリンストンでは近郊に大都市があり、必ずしもキャンパス近くに住む必要のない学生が多いこともあって、こうしたイベントはない。カラルコさんのいるインディアナ大学社会学部ではソフトボールや室内サッカーのサークルがあるらしく、教員も混じってプレーしているのは微笑ましいなと思った。こういう仕事以外での人間味のある付き合いというのは、プリンストン では相対的に希薄だと思う。

もちろん、それがあるかないかが決定的に重要かというと、そうではないのだが、カラルコさんはそうした細かい部分の差(この差は実際には隠れたカリキュラムなのだが、学部の文化が書かれていないから重要じゃないかというと、そうではないという意味では、関係するだろう)が蓄積した結果、最終的に学生のメンタル面にきいてくるという主張をしているので、気になる人は出願時やビジットの時にクリアにしておくといいのかもしれない。第2章の、研究に際して人に求める役割を同じ人に求める必要がないという話は眼から鱗というか、この章を読んで自分は指導教員の多くの役割を求めすぎなんだと気づいた。

そのあと昼ごはんを食べて、論文を読む。4時から全米オープン。第1セットはこのテニスをやられたら誰も勝てないだろうというくらいにアザレンカの勢いがあったが、第2セットの途中から大坂も緊張が抜けてミスが少なくなっていったように思えた。毎回太ももを叩く仕草が気になり、怪我で棄権しないか心配でしかたなかった。

第3セットの途中で大坂がブレイクに成功したところで出発の時間になり、火鍋ディナーへ。ルームメイトの友達の集まり、5人でレストランの外で食べた。NJは25%収容率で室内飲食も認めているが、今回は安全を考慮して外にした、ただこのところ夜は少し寒い。社会学部の新しく入った一年生にも会えたのでよかった。

帰宅してその足で家族社会学会。アメリカからでも日本の学会に参加できるのはありがたいが、やはり現地会場に行くまでのワーケーション的要素も学会の醍醐味であることを再確認した。zoomの議論に慣れていないのか、質問が出るタイミングがいつもの学会より遅い気がして、沈黙を嫌ってしまった私は意味のない質問をしたりしてしまったが、興味深い報告も聞けてよかった。東大にいる時よりも、アメリカから参加していると「よそ者」のように思われていないか気になってしまうのですが、多分杞憂であることを願います。

学歴下降婚夫婦の男性はより育児に参加する

つぶやいた論文の追記

学歴同類婚の帰結に関しては所得格差などが多かったが、この論文では家事育児時間の分担について検討しており、先行研究が足りていないところを埋めてくれてありがたい。

家族人口学のジェンダー革命の理論では、高学歴の女性が新しい価値観の家族を形成し、それが他の階層にも伝播していくというモデルがある。この理論を家族間ではなく、家族内にも適用した研究と言えるだろう。

ただし、学歴に限らない夫婦の地位の組み合わせについては、これまで相対的に所得の高い妻の家事行動については検討がなされている。これによれば、ジェンダー研究者によってdoing genderと呼ばれる現象、つまり所得が夫よりも相対的に高いという意味で既存のジェンダー規範から逸脱している女性は、それを穴埋めするために余計家事をしてしまう、というパターンが見られる。ただし、これは家事についてで、育児については女性の所得が高くなるほど男性の育児負担は増え、平等になっていくという指摘がある。この説が正しければ、学歴でも下降婚の場合、男性は少なくとも育児をよりするようになると予想される。

これとは別の文脈で先ほど指摘したジェンダー革命の理論は家族形成におけるジェンダー革命に対する学歴の重要性を指摘してきた。この命題が正しければ「革命」は高学歴同類婚のカップルによってリードされると予想される。

この論文では仮説を明確には設定していないが、相対的資源仮説が正しければ、学歴下降婚カップルの夫はそうではない場合よりも家事ないし育児をする一方、ジェンダー革命の理論からは少なくとも高学歴同類婚カップル、あるいは女性の方が学歴の高い下降婚カップルでも夫の家事ないし育児時間は増えるのではないかと予想している。

アメリカのCPSからサブサンプルをとってきたATUSを使って分析をした結果、学歴下降婚カップルの男性の方が同類婚カップルよりも育児時間が多い傾向にあり、それは主として大卒女性と高卒男性のような女性の学歴が比較的高い場合に確認されることがわかった。

結果は記述的だが、高学歴の男性ほど育児をするという主張がある一方で、この論文の主張は学歴が高くない男性でも妻の地位が高い場合には育児をするのではないかという示唆を提示した点で興味深いと思った。

疑問だったのは、最終的にこの論文では全てのサンプルを用いた予測確率を用いているが、最初の分析は高卒ないしsome college(大学に通ったことがあるけど卒業はしていない)に限定している、根拠は彼らが唯一上昇婚も下降婚もできるからというもので、逆にいうと大卒は上昇婚ができないので反実仮想の状況が同じではないという理屈だった。

わからなくもない、条件付きロジットの発想に似ているが、個人は大卒を選択した時点で上昇婚の選択肢を失っている。ただし、この大卒グループでは同類婚か下降婚かが選択肢であり、その意味では最初の分析を高卒に限定するだけではなく、学歴別に分けた推定した結果を示せばよかったのではないかと思う。それ以外は(多分スティーブ・モーガンがコミティにいるからか)変に因果的な話に拘っていた点を除き、個人的には興味深い研究だと思った。

September 11, 2020

9月11日

 あっという間に金曜日。今日は休養ができた先生の代わりに、セクションを代わりに行った。1週間に2つセクションがあると、やはり多少疲れも出てくる。その前にはポッドキャスト。お昼を食べて寝て、コロナの検査、買い物、帰宅して自分のセクションの学生に対してフィードバック。

September 10, 2020

博論輪読セミナー第1回

人口学プログラムに在籍していると、三年生の必修として博論プロポーザルを仕上げるためのセミナーを履修する。以前書いた説明をそのまま持ってくると。

この水曜の授業は、人口学プログラムに所属している院生は必修の授業で主に博論プロポーザル(prospectus)を提出する人向けの授業になっている。目的はシンプルに過去に人口学プログラムを卒業した先輩の博論、および博論を基にした投稿論文でのレビュアー、エディターとのやりとりを読み、博論までの過程を脱神話化することが狙い。博論を書く作業は長く、孤独で悩むことも多いので、取り組み始める前に必要以上にハードルを上げないようにする試みと言えるだろう。

今週から実際に博論を読んで議論する回だった。運がいいのか、悪いのか、初回は私が指名した博論が担当だった。(余談:ティーチングもそうだが、いつの間にか授業で議論をリードする役目を自然に押し付けられる()学年になってしまった。渡米前ではとても考えられない、もっとも進行は拙いのでまだまだ勉強中)。

オーソドックスな家族人口学と社会階層論のミックスがきいた博論で、シンプルに「富」が結婚に与える影響を検討している。それだけだと当たり前のことを検討しているように聞こえるかもしれないが、単なる収入や学歴が結婚に与える影響と異なって、ストックである富自体が人口学的なアウトカムに与える影響は、最近の流行の一つである。富の蓄積過程は社会階層論におけるライフコースアプローチの古典とも言えるが(Spilerman 2000)、富の「効果」については、この10年くらいでいくつかの家族社会学の研究が「富の象徴的側面」の重要性を示唆する研究を出している(Edin and Kefalas 2005; Cherlin 2005)。

この背景にあるのは結婚と出生の関連が弱くなり、同棲パートナーシップを歩む人が増えたというアメリカ的な事情が背景にある。必ずしもする必要のなくなった結婚をなぜ人々はするのか、そしてなぜ結婚に至る割合に階層差があるのか(高学歴の人ほど結婚しやすく、SESが低い人ほど不安定な家族形成を歩みやすいというdiversing destiniesの話)、家族社会学者のCherlinによれば、それは結婚におけるシンボリックな価値が相対的に強まっており、結婚は人生における集大成(capstone)イベントになっているからであるという。結婚してから相手を見極めるのではなく、ある程度連れ添った相手と達成の意味を込めて結婚をする。そうした結果としての結婚、という意味合いが強くなると、結婚に至るまでに成し遂げておかねばならない事項があり、その一つが富の形成(資産や住宅の保有)であるというのだ。日本でいうと、ある程度会社で地位を築いてからプロポーズする感じだろうか。

前振りが長くなったが、こうした結婚における象徴的価値の重要性を指摘した研究は質的研究が最初で、量的なデータでより広い人口を対象に検討した研究は限られていた。私が指名した博論は、この問いを検討した初期の研究であると言えるだろう。

構成はアメリカでよくある、独立した経験的な問いを検証したチャプター3つ+イントロと結論。最初の章は博論提出時にすでにトップジャーナルであるAJSに掲載されていた。そうしたことが先入観に影響し、この博論を指名した時は、他のチャプターもきっと水準が高いのだろうと思っていたのだが、読んでいくうちに色々疑問も生まれていた。よく書かれているけど、笑かない部分もちらほら、と。

そうはいっても、アメリカの人ならとりあえずナイス、グレート、アメージング、ファビュラスなどと言って済ませるんだろうなと思ってセミナーに臨んでみたのだが、博論は予想以上にコテンパンにされた。アメリカでここまで人の論文がこき下ろされる機会は初めてで、日本にいた時を懐かしく思い出す、不思議な3時間だった。授業の最初で、主観的にこの博論が十点満点中何点かと先生が冗談めかして匿名のアンケートを取ったら、参加者はみな6-7点をつけて、まあ中の上くらいかなと(今思うと最初から結構厳しめだったと思うが)判断していたのだが、授業を受けた後に点数をつけ直すとすると、多分4-5点くらいになっていただろう。

もちろん、批判されて然るべき点があるから批判されるのだが、一応、プリンストン大学ってとっぷすくーると言われているし、博論を書いた本人も初職からトップ校に就職したりしてるので、間違いなく評価の高い博論であるはずなのだが(確かに、問いは非常に大切だと思った)、外面から予想される以上に論文は不完全なのだなと思った。特に、査読されていない後半の2章は、もう、すったもんだ、書くのが憚られるくらいのホラーだった。開けたての査読コメントを間違って開いてしまった気分。

日本だと、本人がいる前で焼畑農業が行われるので、コメントされる本人にとっては本当に辛いこともあるのだが、幸い(?)アメリカの焼畑農業は本人がいない場で行われるので、多少気配りが効いているのかもしれない。

いくつか、詳細に入らない範囲で、他の論文にも通じそうな論点をメモしておく。

・検討したい仮説のレビューがアンバランス

この博論では、上記のように富の象徴的側面をメインに検証したかったのだが、富が結婚み与える経路、メカニズムはそうした文化的なものに限られない。そこは当人も気づいており、レビューの上で他の仮説も検討しているのだが、その一部はメインに検証している仮説に比べると、レビューが弱く、何を根拠にして言っているのか、自明ではないところもあった。

・サンプル、変数の定義が不明瞭、結果の再現ができない

イベントヒストリーを行なっているのでリスクセットに入る人口の定義が重要になるが、どのような人は入って、入らないのか、必ずしも明瞭ではない。富などの変数の定義も、満足ではない。例えば、ミッシングは全体として何%あったとされているが、どのような特徴を持つ人に多かったのか、そうした記述統計はなかった。ミッシングがどれだけ深刻な問題を引き起こすのかも議論が薄かった。

・ある章では検討される仮説が別の章では検討されない

データの限界などでそうしたことは生じうるが、最初の章では2つの仮説のみが検討され、後半では3つ検討される理由が明確に書かれていなかった。

・変数操作化の議論が薄い

この博論では、上記で挙げた研究を念頭に車の保有や、預金額、家の所有が富の指標とされたのだが、博論はその定義をそのまま使っており、他にありうる富の指標は何なのか、この操作化に問題点はないのか(例えば車の保有は車が必要ではない富の指標なのか)、そうした議論はほとんどなく、ある意味で先行研究の定義を踏襲している。質→量の流れはクリアだが、本当にその操作化で良かったのか、もっと丹念に検討されるべきだった。

・因果ではないのに筆が走る/因果ではないと書きすぎると奇妙

これはバランスが難しいが、サーベイデータを使って共変量の調整などシンプルな回帰分析をしているので、因果(富が結婚を引き起こす)に言及するのは難しい、これは誰でもわかることである(ただし、富の象徴性仮説は、結婚しようと思った時に資産が必要だと思ったのである程度貯蓄して車を購入した、みたいな経路も含んだ理論だと思うので、内生的でも問題ない気はした、著者は気づいているような気もしたが、明確には書いていなかった)。ところが、因果ではない、ひたすら壮観ですよと言って書きすぎると、文章が非常にawkwardになる(富がない場合に比べてある場合の方が結婚タイミングが早い傾向にあることが示唆される…みたいな)。しかしクリアに書こうとして「富が結婚に正の効果を持つ」みたいに書いてしまうとイエローカードが出る。塩梅が難しい。

・モデリングの説明が間違っている

・なぜ分析に使用したデータがベストなのかの説明がない

・帰無仮説を対立仮説にしている。

・有意水準のみで議論していて、サイズに関する議論が少ない(まあ2012年の博論だが)

・仮説の少なくない部分が交互作用の結果に依拠していて、標準誤差が大きいために支持できていない可能性があるものが散見される、その議論もない。

その他、色々こき下ろされた。まさか自分が尊敬する研究者の博論がここまで批判されるとは思っていなかったので、本人ではない自分も冷や汗をかいてしまった。

先生は当初、この授業を受けると高めに設定していた博論へのハードルが下がるからとあっけらかんとしながら、言っていた。たしかに、トップ校に就職する人の博論もこれだけ弱点があると考えれば、ハードルは下がった気もする。その一方で、どんなに頑張っても将来授業でこれだけ叩かれると思うと、今設定しているハードルがさらに高くなった気もしている。

と、色々と新鮮な経験をさせてもらった3時間だった。こういう授業を受けられるのは幸運だと思うので、次からは外面に騙されずにもっとクリティカルに読んでいこうと思う。

September 9, 2020

9月9日

 午前中にセミナー、その後コロナ、および兄弟論文。洗濯、お昼はなめろう。野球を見る。その後現代日本社会論の用意。

September 8, 2020

9月8日

 寝過ぎてしまい予定が狂う。午前中は水曜の授業の用意をして、セミナー中にコロナの分析。その後テスティング、郵便、グロサリーで買い物、本の回収。帰宅して課題を提出。4時。夕食はなめろう。readi終了後シラバス作り。

September 7, 2020

teaching第1回反省

第1回目のティーチングが終わった、現代日本の授業。生徒は6人(次回から7人)。予想していたよりも何を言ってるのかわからないみたいなことはなかったと思う。自分の答えが相手の意図に沿ったものなのかわからないときはいくつかあった。これは普段の授業でもそうなので、起こりうることだと思って気にしない。3時間の大学院セミナーに慣れていると、50分のセクションは本当に短く感じる。

ちょっと話しすぎたかもしれないと、隣の部屋にいたルームメイトに言付けされる。たしかに、いわれてみると、こちらが質問しても基本一人の学生が答えて、他の学生が乗ってくる、みたいな状況がほとんどなかったので、会話が一方通行になりがちだった。反省。オンラインだと、なかなか3人以上になって議論するということが起こりにくい。

学生の中には日本に詳しい人もいるし、そうでない人もいる。どこにラインを設定するのかは少し難しい。今日はちょっと説明に重きを置きすぎたかもしれない。ルームメイトから、最初の1分でわかったところ、わからなかったところをチャットボックスに書いてもらうというテクニックを紹介してもらったので、それを実践しようと思う。レスポンスは提出されているので、二度手間なのかもしれないが、受講生も自分が提出したレスポンスを完全に覚えているわけではないと思うので、その場で気になったことを改めて上げてもらう方がいいのかもしれない。

10秒でも沈黙は結構辛い。この沈黙が、考えているために生じてる沈黙なのか、私の英語が分からなくて困ってることで生じてる沈黙なのか、両方の可能性があると考えると、ついつい口を挟んでしまう。次からは、10秒までの沈黙ならガマンした方がいいかもしれない。

内容面:現代日本の授業はバブル後の30年が舞台で、初回は全体の概観と、戦後からバブルまでの大まかな歴史のフォロー(朝鮮戦争、高度経済成長、都市化、オイルショック、バブルなど)。 第1週2回目は、人口問題。結婚の減少、それに伴う少子化、余命の伸長も相まった高齢化、独居老人の増加、社会保障、年金の問題、移民(これはのちに扱う)。教科書はKingstonのContemporary Japan、本当に悲観的な論調で日本社会を論じている本である。

NYTの孤独死の記事がアサインされた。常盤平団地の孤独死の問題。受講生はレクチャーや他のリーディングよりも、孤独死がかなり印象に残ったようだ(もう一つは、日本でよく見る、1人の老人を何人で支えているかの図)。もしレクチャーでわからないことがあったらと一応想定問答を用意していたのだが、プリンストンの学生はスマートなのか、内容は分かった上で質問していたので気苦労だった。教える側としては、同じことを繰り返さなくていいので、手がかからずありがたいと言えるかもしれない。

素朴かつクリティカルな質問、孤独死する人に家族はいないのか?

記事では夫と子どもに先立たれた女性が取り上げられているが、受講生の一人はそれは珍しいだろうと(確かに子どもに先立たれるのは珍しいかもしれない、ただ女性が夫に先立たれる例はままあるだろう)、しかし記事にあげられた団地に住む人の多くは一人暮らしで、似たような状況のように描写されている。何故そんなことが起こっているのか?

本当に家族が「いない」場合もあるだろう。記事では会社が倒産して家族と縁を切られた男性も紹介されていた。日本的な文脈だと、一度失敗した人が家族と縁を切られるというのは、確かにあることだと、悲しいことだが、理解できるだろうが、失業が珍しくないアメリカでは、これもストレートには入ってこなかったかもしれない。

家族はいるが、疎遠になる場合も珍しくない。孤独死に関する文献を調べていると、社人研の調査で独居の65歳以上の男性の2割近くが2週間以上誰とも話していないとする結果が引用されていた。2割を多いと見るか、少ないと見るか。いずれにしても、私はこういう独居の高齢者、特に男性は珍しくないと思う。特に都市部においては。今思い返すと、「孤独」の定義はなんなのか、議論してみても面白かったかもしれない。一人暮らしの人は孤独のリスクは高そうだが、独居だからと言って孤独であるとは限らない。何が孤独を構成するのか、社会学的には面白いだろう。

何故そこまで疎遠なのかと聞かれる、難しい。子どもの側が親世代を忌避しているのか?それはあるだろう、意識を見ても親に対するケアを当然視する考えは後退していて、自分の子どもの面倒を見てもらうために同居すると言ったような戦略的な家族も増えている。ただ、親の側で「子どもの面倒にはなりたくない」と考えている人が増えているのも、事実だろう。その意味では、日本で増えている孤独死の一部は、過剰だった親戚付き合いを自分で忌避した人々の選択の結果なのかもしれない。孤独死する人に家族はいるとも言えるし、いないとも言える、なかなか物事はすっぱりまとめることができない。

アメリカの社会学部で現代日本の授業が開講されるのは、実は意外と珍しいのではないかと思う。単純に需要がないとも言えるし、教えられる教員も(中韓に比べれば)少ない。ただ、なんだかんだ興味を持ってくれる人はいるので、この機会を自分も楽しみたい。日本から来た留学生が、アメリカの大学に在籍する学生に対して日本社会の授業をするというのは、ユニークな機会である(日本から社会学を学びに来る留学生が圧倒的に少ないし、日本に関する授業も少ない、レアオブレアである)。人口学の授業を教えるのとは、また違った難しさがあり、楽しみたい。

September 5, 2020

9月4日

 きょうだい論文、コロナ、博論購読など。きょうだい論文は本当は夏に終わらせるはずだったけど色々あってまた遅れ、正直モチベーションを失っている。本当は階層論のシラバスを作らないといけないのだが、他にやらなきゃいけないことに囚われてできていない。readiの調整など。昼にカレー、夜にナポリタン。

September 4, 2020

9月3日

ここ数日、ドラマ「愛の不時着」にハマってしまって、暇さえあればドラマを見てしまっていた。既に見た方はお分かりのように、絶対あり得ないストーリーなのだが、本当に起こっている、あるいは起こりうることのように見せてしまう俳優の生き生きとした演技がよかった。一人ひとりのキャラが濃いだけではなく、本当に彼らは時間と場所を共にして生きていたんだなと想像できるくらい、関係性が作り込まれていた。北朝鮮編のピクニックや、ソウル編の誕生日サプライズの下りなんかは、本当に心が暖かくなった。北朝鮮の村の様子がどれだけ事実に基づいているのかは分からないけど、日本の昔を見ている錯覚もあり、南北の分断という朝鮮半島独自のコンテクストもあり、いろいろな感情が交錯したいいドラマだった。

そんなこんなで今日はやや目覚めは良くない。朝にコロナのテストを受けに行き、その足で水曜の授業で読まなくてはいけない博論を4本、オフィスのプリンターで印刷した、600ページ程になる(そのことをzoomで先生に話したらやや飽きれられた…)。

この水曜の授業は、人口学プログラムに所属している院生は必修の授業で主に博論プロポーザル(prospectus)を提出する人向けの授業になっている。目的はシンプルに過去に人口学プログラムを卒業した先輩の博論、および博論を基にした投稿論文でのレビュアー、エディターとのやりとりを読み、博論までの過程を脱神話化することが狙い。博論を書く作業は長く、孤独で悩むことも多いので、取り組み始める前に必要以上にハードルを上げないようにする試みと言えるだろう。

履修者は4人と少人数(社会学から人口学プログラムに参加している私含めた2人+人口学博士課程の2人)。各自が一つ自分が担当したい博論を選ぶ。どの博論もその分野で一流の人によるものなので、多分博論の時点で既に完成されてるんだろうなと思っていたのだが(それはもちろん事実で、例えば私が担当する博論は、3章のうち1章が提出時点でAJSに掲載されていた)、いざ来週の私が担当する博論を読むと、イントロの部分は意外とlit reviewが弱い気がしたし、3章書いた後に軽くまとめました感があってやや拍子抜けした。もちろん問いに至るまでの流れはシャープなのだが、もっと時間をかければ厚くできただろうところを、あえて手を抜いている気がした。それはおそらく、この博論を出版するつもりもなく、論文に掲載されるのは分析をした3章分(典型的な3 chapter dissertation)なので、イントロの重要性は相対的に低いからかもしれない。来週以降、ジャーナルの査読プロセスについても実際のやりとりを共有してもらえるので、かなり実践的な側面もある。

日本でも、各自の研究室を卒業した人の博論はすぐに手に入るので、こういった授業が必修であってもいいかもしれない。ただ、日本の場合、大学間であまり競争がないので、私の母校みたいに学生に任せたスタイルが今後も続く気がする。競争があると、自分のところの学生をいいポジションの大学に就職させようというモチベーションが働くので、こうした学生目線で有益なコースも増えるのだろう。

その後コロナのミーティング、夜ご飯にたこ焼きを作った。だんだんコツをつかめてきたみたいで、うまく焼けると楽しい。鉄板の前でずっと作業してるので、1日でかく以上の汗をかいてしまう。

政治。安倍さんの8年間は、派閥単位で政治が決まるのを忘れられたという意味ではよかったかもしれない。実際には派閥は無くなったわけではなく、安倍一強だったので見えにくくなってただけだった。8年ぶり、あるいは民主党政権を入れれば10数年ぶりに旧弊を見せられると、見てる側の落胆も大きそう。

August 31, 2020

半沢直樹的世界観

 今日は半沢直樹を見て、論文の改稿をして、たこ焼きを作って1日が終わった。

半沢直樹の世界だったら、今回の黒幕は官房長官。コロナのワクチン完成間近だったイギリスの某大学と製薬企業は日本にもワクチンを購入して欲しかったが、アメリカにいいなりの首相は同じく有望だったアメリカ製のワクチンに固執していた。

首相の体調問題に気づいていたイギリスの製薬企業は官房長官にコンタクト、首相からの禅譲、イギリス製ワクチン購入を条件に多額の裏金を送る約束。思いついた官房長官は裏金の一部を五輪委員会に横流し、首相に対して来年の五輪が中止の可能性が高いと口裏を合わせ、経歴に傷がつかないよう禅譲を促す。

投薬をしながら続けることも考えていた首相だったが、五輪の中止の可能性が高いのならと、任期途中での辞任を決める。官房長官は幹事長に根回しして、人気政治家が当選しにくい党内選挙を選択し、首相になる。それを首相秘書官だった半沢直樹が全部暴いて倍返し。

August 30, 2020

8月29日

 カレーを作った以外には、ほぼ2年前に投稿して2度目の再査読になってから2ヶ月くらい放っておいた論文を一日改稿してた、もう2年も経つと全然考え変わってくるし、自分の文章も今と比べると稚拙だし、改稿すると別物に見えてくる。違う人の論文を校正してる気分であまり自分の論文という気にもならない、

アイビーリーグはエリートの再生産機関なのか?

ハーバード大学の学部入試でアジア系に対する差別があったのではないかという話を聞いた人は多いかもしれない、実際に大学を相手にとって裁判が起こっている(wiki)。試験の点数で勝負する東アジアとは異なり、アメリカの多くの大学では綺麗目に言えば「ホリスティック」、つまり試験の点数以外の部分を総合的に評価する入試制度をとっている。しかし、裏を返すとこの選抜方法はブラックボックスになりがちで(課外活動に対してSAT何点分加点、みたいなシステムではない)、大学が理想とするような人口構成になるように、恣意的に選抜が行われる側面がある(もちろん、試験がどの人間にとっても平等にできているかというとそうではないので、究極的には全ての選抜制度は選抜者の恣意性を拭えない)。アジア系が差別されているのではないか、というのは何も人種によるクオータが導入されているという話に限らず、試験よりも寄付金を見込んで親族が当該大学を卒業した場合に優遇するレガシー制度を重視すると、結果的に試験の点数が高い傾向にある一方でレガシーの恩恵を受けられないアジア系を割りを食うという可能性もある(関連のNBERペーパー)。仮にこれが事実だとすると、アイビーリーグはエリートの再生産機関といえるかもしれない。

日本だと少し考えにくいかもしれないが、アメリカではエリート大学への進学が人種の格差と相まって(特に高学歴層にとっては)社会問題になっている。レガシーを肯定するか、しないかは一種の政治的な立場にもなっている。

なぜアイビーリーグに代表されるアメリカのエリート大学がこのような問題含みの選抜制度を作るに至ったのか、その答えを提供してくれるのが、ハーバード、イェール、プリンストン、いわゆるBig3の選抜制度の歴史を丹念に紐解いたジェローム・カラベルによるThe Chosenである。

この本では、Big3に代表されるアメリカのエリート大学は、当初プロテスタントのアングロサクソン系白人男性(WASP)の子弟を教育するための機関だったこと、しかし20世期に入って学業成績に勝るユダヤ系が多く入学するいわゆる「ユダヤ人問題」に直面した大学は、WASPの子弟を優遇するためのレガシー制度を導入したこと、戦後のリベラリズムの中で、大学側も選抜制度を変えてより社会経済的背景が「多様な」学生を入学させる必要性が出てきたことなどが丁寧に書かれている。

結論部で、カラベルは現在のBig3の学生構成は(1)レガシー制度の恩恵を受けて一族代々同じ大学に進学する特権層(多くが白人)(2)学業成績などを生かしてエリート大学に新規参入する層(白人女性、アジア系)そして(3)歴史的に差別を受けてきたマイノリティ(黒人、ネイティブアメリカン)の三つに分類されるとしている。この三つの経路から入学してくる学生をバランスよく混在させるのが、現在のアイビーリーグが目指している「多様性」となる。ちなみに、(1)の層でも一応学業成績は必要なので、勉強ができない特権層が入り込む余地はない(ブッシュみたいな例外はあるかもしれない…)。したがって、いくらレガシーで有利とは言っても、特権層の子弟たちもそれなりにきちんとしたCVを作らねばならず、裕福な親たちが課外活動やサマーキャンプ、留学などに投資をすることで自分の子どもたちをエリート大学に入学させようとしているとカラベルは指摘している。この辺りは、東アジアに典型的な学校外教育投資の影が見えるところである。

以上を踏まえれば、アイビーリーグは多少生まれの不平等を考慮した入試制度へ移行しつつはあるが、総じてみれば試験制度のみで選抜する大学に比べると、まだまだエリートの再生産機関と言えるかもしれない。もちろん、試験制度のみでもエリートの再生産は生じるうるが、この辺りは割愛する。

ただし、教育格差をより広い視点で見てみると、アメリカはそこまで教育が生まれの格差を再生産する国ではないことがわかる。アメリカの教育制度は早期に生徒の進路を決めず、学校の中で成績による習熟度クラスがあるくらいで、専門を決めるのは高等教育に入ってからになる。これに対して、ドイツに代表されるような早期に生徒の進路を職業トラックなのか、アカデミックトラックなのかを決める国の方が、より親の階層の影響が強く出ることが指摘されている(Bol and van de Werfhorst 2013)。日本のような医学部がないアメリカでは、学部段階の進学先が職業に直結することもない。

このように考えると、課外教育などにお金をかけて、子どもをアイビーリーグの大学に入れたがる親の動機は何なのだろうか?という疑問が出てくる。

一番簡単な回答は、特定の職業に結びつかなくても、エリート大学に進学することが子どもの将来にとってペイするからだろう。直感的に考えても、同じ大学でもハーバードに進学するのと、地方の州立大学に進学するのとでは、将来の所得は違ってきそうである。

しかし実は、話はそこまで単純ではない。エリート大学に進学する子弟は学業成績も高く、別にエリート大学に進学しなくても将来同じような所得を得られる可能性もあるからだ。因果推論の話に入ってくるが、大学進学を操作することはできないので、多くの研究は観察データからエリート大学のペイを測定する。これに対して、同じ観察データだが大学受験記録を集めたデータセットを使って、「限りなく能力が近しい異なる個人間で、エリート大学とそうでない大学に行くことが将来の所得の違いを説明するか」を検討したのがDale and Krueger(2002)であり、この手の研究で引用されないことはない。我々の直感に反するかもしれないが、彼らの結論はエリート大学に進学することによって得られる追加的なペイはないというものだった(その後色々追試があったりして結果はまちまちだが、基本的には思っているほど利益はないという論調だと理解している)。

この結論は悩ましい。この研究結果は、なぜ親は子どもをエリート大学に進学させたがるのか(あるいは子どもが目指したがるのか)に対して答えを提示するよりも、むしろ彼らの進学行動が経済的にはあまり合理的ではない、という示唆を与えるからである。

もちろん、エリート大学へのペイは賃金に限らないかもしれない。社会的なネットワークが違ってくるのかもしれないし、結婚相手も違うだろう、もっと文化的な威信を獲得したいのかもしれない。今のところ、しっかりとした「なぜ」に対する答えは見つけられていないが、先述のカラベルはDale and Krueger(2002)の研究を引用した箇所で、やや社会学的な一言を放っている。

In recent decades, competition for entry to the Big Three and other selective colleges has become so fierce and the public's obsession with these institutions so great that it has spawned an entire industry - a sprawling complex that includes coaching companies, guidebooks, private tutors, summer camps, software packages, and private counselors who charge fees up to $29,000 per student. Beneath this industry is the belief- corroborated by a wide body of research - that attending a "prestige" college will confer important benefits later in life. (p.3 強調は筆者)

アメリカのエリートの多くはアイビーリーグ、特にBig3出身者が占めている。もしかしたらそのエリートたちは違う大学に進学しても同じような地位を得たのかもしれないが、人々はエリートに占めるこれら大学出身者を見て、「エリート大学に進学することがエリートへの近道だ」という「信念」を形成するのかもしれない。実際にペイするかどうかは別として、この信念が、進学行動を動機づけていると考えるのは飛躍があるだろうか。

August 29, 2020

8月28日

8月が終わろうとしている、夏休みは割と楽しかった(といっても、ほとんど休んでいないが、研究を好きにできるのは長期休みの特権である)、学期が始まるのが嫌で嫌でしょうがない。

ティーチング関係で一悶着あった後、初めてティーチングをする人向けのトレーニング。今日は5分間のmock presentationをしたのだが、他の人が軒並みスライドを使って解説をするのに対して、自分はweekly reflectionをもとに議論するプリセプトなので、ややフォーマットが合っていなかったが、色々勉強になることはあった。一度生徒の立場になって考えることは大切だと思った。

ウィスコンシンでは、留学生は英語のテストを受けてパスしないといけない。ブラウンでもティーチングアシスタントへのトレーニングは結構厳しいと聞いていたが、プリンストンは本当にあっという間に終わった。本来は2日かけて済ませるトレーニングのほぼ全てをオンライン上のクイズなどにしたことは、間違いなく背景にあるが、このトレーニングで落とされることはないに等しいことを考えると、プリンストン のトレーニングはかなりゆるい方だと思う。これでいいのか、ちょっと分からないが、今日の模擬授業を見てみると、それぞれ英語にアクセントはあっても、教えようとしている内容を各自自信を持って発表しているように見受けられたし、アクセントに対してつべこべいってくる層は、こう言った内容面をあまり重視していないのかもしれない。もちろん、理解可能な英語を話すことはコミュニケーションの上では大切だが、過度に強制されるものでもないだろう。

この大多数を英語を母語としない人が占めるという環境が久しぶりで新鮮に感じた。うちの社会学は基本アメリカの人、たまにバイリンガルの人が多数で、私みたいな非英語圏でずっと教育を受けてきたという人はかなり珍しいので、今日みたいな環境に入ると驚く。

ちなみに、今学期TAする現代日本社会論(バブル後の日本)、授業すでに全部収録されてるみたいなんだけど、多分安倍政権が続いていることを念頭に置いてるので、あちゃーという感じ。

続いて、ポッドキャストの編集。感想。日本には書店がない自治体が2割もあるそう。書店があっても岩波文庫など教養的な本がない場合も珍しくはない。そうした地域による文化の格差を技術の力で解決できないかという、今回のゲストにお越しいただいた矢田さんのモチベーションには感嘆した。といっても、私は収録後、そうした技術を開発しても媒体に触れるかは階層差があるはずなので、本当にリーチアウトしたい人に辿り着けるんでしょうか、と社会学にありがちな悲観的なことを言っちゃったんですが(反省している)、地域・文化の格差をエンジニアリング視点で見てる研究者に対して、社会学はどうポジティブに貢献できるかと、ぼんやり考えてしまった。

その後、今日は同じアパートに住んでいるコーホートの友人を招いてルームメイトと3人でディナー。中身は中華のデリバリー。久々にたわいもない話が、オイリー中華をおかずにして、できたのでよかった。家で作るなんちゃって中華は全然オイリーじゃない。これが本当のオイリー中華だ。

その中で、安倍首相がやめた話も、もちろん話題に上がった。と言っても私が安倍政権を断罪するみたいな下りはなく、いつ次の首相が選ばれるのか、首相の任期はどれくらいなのか、選ばれ方は選挙なのか、といった事実確認の話をしていたら色々脇道に逸れていった。日本は内閣制度をとっているので、直接首相を選ぶことはできないこと、首相も閣僚の一人なので大統領とは違って任期に制限はないこと、ただし首相が選ばれる国会議員の政党の内規で、党首になるための任期制限があるので、実質6年以上首相を続けることはできないが、安倍政権下でそのルールが変わったこと、選挙が近い衆議院議員は人気ベースで党首を選ぶ可能性があること、選挙が近くない参議院の議員はそうした動機が薄いことなどを話した。

中国や台湾の留学生と話して、たまに指摘されるのは、日本は多党制だがほぼ一つの政党が政権をずっと担っており(ただし小政党の協力がないと政権を担えない、この辺りもややこしい)、一体何が争点となって政党が対立するのか、という点。例えば台湾であれば、中国との関係をどう考えるかで大きく二つの政党が分かれ、アメリカで言えば銃規制、中絶、移民への対応などで党派性がはっきりと出るわけだが、それにあたるものは、そもそもあるのかという。そう考えると、日本はこれと言って「国を二分する」ような論争がないのかもしれない。

かつての日米安保のように、将来的に国を二分するようなトピックはあるかもしれない(夫婦別姓、女系天皇、同性パートナーシップ制度など)が、少なくとも今は、多くの日本人のこれらのトピックへの意見は、政権を担う政党の政策と大きく矛盾しないのだろう。

良くも悪くも安倍晋三が総理である日常に慣れ過ぎてしまった嫌いがあり、これから新しい首相が選ばれることに対して、少し途方に暮れているところがある。次の政権に対して期待を持てるわけもなく、大して変化もしないだろう政権を待つための妙な空白期間が、私の気持ちを浮つかせているのが薄気味悪い。首相が辞めて、ちらほらと立候補の噂が出てくるあたりから、安倍政権以前の嫌な空気を思い出させる。そこに我々が割って入る余地はないのだ。彼ら(というか幹事長?)のご都合で選出方法が決まり、その彼らが決めた方法で選ばれた政治家を、我々の代表とされる国会議員の一部が指名する。我々が直接介入できないのに、その政治家は国を代表する権力を持つようになる。

たくさん批判を受けた政権だったと思うが、政権が変わるという、我々が辟易としていた日本政治の悪習をしばし忘れることができたのは、この政権の重要な功績だったかもしれない(これは皮肉ではない)。一方で、日本のメディアの騒ぎようがコロナ前の「日常の中の非日常」を強く喚起させ、そのネガである日常の部分が戻ってきた錯覚を覚えてしまった、そんなわけはないのに。

August 27, 2020

8月27日

 26日はご飯食べたら眠くなってしまい、今日は3時に起きた。昨日は某トップジャーナルに投稿しただけで終わってしまったが、今日は1日使って階層論のシラバス作り、およびAIトレーニング。その後covidのテストを受けたついでに図書館で本を借り、ストリートで買い物。帰宅して結婚と健康の論文。

大きなニュースが起きてると思うんだけど、久しぶりにコロナとは関係ないという意味で日常が戻ってきた錯覚を覚える。憲法改正したかっただろうな。

もちろん関係ないわけはないけど、コロナがない状況でも大きなニュースになっていただろう日常の中の非日常を目にすると、むしろ日常の方がフラッシュバックしてくる。

August 25, 2020

8月25日

 午前中はコロナ 、午後はシラバス作り。間に検査。夜は再び階層論のリーディング。college as a great equalizerも、OEDのフレームの中から産まれてきたことがよくわかった。

コロナの検査を受ける

プリンストンでは今週から、学生はキャンパスにいる場合に週に2回、無症状の場合でもコロナのテストを受けることになっている。「キャンパスにいる」の具体的な条件は、1週間で8時間以上キャンパス施設を使うことだが、それ以外にカレッジや大学が所有するアパートに住んでいる人は無条件で受けなくてはいけないため、やや渋々だが検査を受けに行ってきた(渋々というのは、オフキャンパスの家に住んでいる学生は検査を受ける必要がないから、まあ検査を受けられるのはラッキーと言えばラッキーなのかもしれないが、出不精なので検査のために外出するのが億劫に感じる)。

検査施設は大学内にあるスタジアム、風通しが良い。今日の天気は晴れていたが、雨の日は駐車場、駐輪場から会場まで少し歩くので、検査する場所にはテントがあるとは言え、濡れるかもしれない。

そこまで会場は混んではおらず、social distanceをとって順番にpodに案内される。受付で学生証を見せるとスタッフの人が自分の名前を手書きで加えた検査キットを渡してくれ、それにスマホにある大学専用appを使ってキットのバーコードをスキャンして、本人が検査したことを確かめる仕様になっていた。

唾液を一定量集めるタイプのキットだったが、規程量まで唾液を出すのが結構大変だった。普段唾液を出そうとして出しているわけではないので、全部出し終えられないためにその場を離れられないと思うと、少々いたたまれない気分になった。パーティションで仕切られているとは言え、隣の人たちが横一列になって唾液を出しまくっているかと思うと、少し滑稽に思えてきて余計に唾液が出なかった。

規定量まで出し終えたら謎の青い液体と混濁させ、キャップを閉め、自分で専用のポストに投函する。それで終了。慣れれば5分もかからない気はする。これから学期終了まで週に2回(今後回数、会場は変わる可能性はあるらしい)、今日みたいな形で無症状者向けのテストを受けることになる。

出口にプリンストン大学のロゴが入ったマスクが無料で配布されていたので、ありがたくいただくことにした。間違いなくこの季節限定のアイテムなので、使わずにとっておこうと思う(アベノマスクみたいな発想)。メルカリで売れるだろうか…

8月24日

 土日はしっかり休んでいた。午前は階層論のシラバス作り。午後にcovidのミーティング、意外と最後はあっけなく終わった。そのあと、きょうだい論文、結婚と健康、およびcovid論文。走って夕食、netflixでinequality for allをみる。その後コーディングをしようと思ったが、研究所のサーバーに入れなかったので断念。

August 22, 2020

8月21-22日

21日

最近研究詰めで、それはストレスにならない程度に楽しいものだったが、休んでいなかったので数日疲れが溜まっていた。午前中から午後は、スペシャルイシュー兼階層論のための文献購読。昼に砂肝の炒め物をつくる。ランニングは3位のタイム。その後covidのアブスト作り。夜に校正原稿が返ってきたので、午前2時過ぎくらいまで直していた、やや働きすぎだったと思う。本当は30分くらいで済ませて寝るつもりだったけど、校正者が思いの外アクティブに改稿してきたり、ちょっと余計な校正をしていたので、それを一つ一つチェックするのに時間がかかった。

22日

寝起きはあまり良くなかった。午後3時に人と会うことになったので、それまでに終わらせるべきことを済ませていたので結構忙しかった。午前中一杯は論文再投稿の用意、scholar oneのシステムは以上に面倒くさいと思うのは自分だけだろうか。昼ごはんを食べて、2時半まではPAAのアブスト作り、1本はcovid、もう1本は日本の結婚と死亡の話。covidの方はメンターが先に原稿を書いてくれたので、私はそれへのコメントと、図表の挿入。毎回思うのだが、その道のプロが書いた原稿に対してコメントするのは恐れ多いものである。半分自分が見なくてもすでに出来上がってるだろうと思っている節もあって、油断してしまうことがあるのだが、メールの返信でメンターにもう少しコメント欲しい類のことを言われて、本当に欲しいのかもしれないし、こいつはコメントができるのかと試しているのかもしれない、わからないが時間をかければそれなりにクリティカルなサジェスチョンはできる。その後で、反映してくれた原稿を返してくれた。こういうちまちました作業からも、メンターから学ぶことは多い。研究は、徒弟制的な部分も大きいと感じる。残りの時間で自分が書いた原稿を送付。

15時から人と会う。日本から来た研究者の人で分野が違っていたのだが、人の紹介でコロナ前にお会いした。帰国されるとのことだったので、その前にお別れの挨拶。私は出不精の人間だが、その土地を離れる人には会いたい思いが強くなる。これまでいくつかの国、都市に住んできて、一度そこから離れると、もう2度と会わない人もいることに気づいたからかもしれない。プリンストンで会うのと、東京で会うのもだいぶ雰囲気は違ってくるので、今会いたかった。

少し買い物をして帰宅、カレーを作り食べたら眠くなったのでランなどはキャンセル、午後11時に起きてしまいルームメイトが見ていたリアリティショーを見ながら時間を潰す。週末は階層論の試験のためのシラバス作りを進めたい(これは、自分の仕事でも、研究でもないが、やらなくてはいけないものなので、週末ワークに分類される)。文献は頭にあったり、軽く作ってはいるけど、週末に最近読んだものをまとめようと思う、最近はずっと教育の話を読んでた、この辺りはメリトクラシーの話があり政治性も出やすい。

個人的には、社会学者もゲノムのデータをもっと使うべきだと思うが、センシティブになった方がいいところもある。やるかやらないかは別として、いま行動遺伝学でどういうデータが利用可能になっていて、それを用いた研究テーマがいかに階層論の話と関連するのかは頭に入れておいた方がいいと思う。教育達成の階層間格差の理論を見直してみたら、彼らは意外とGxEの話をしていない気がした。

例えばブードンの二次効果(出身階層間で異なるパフォーマンスの違いを統制した上で残る階層効果)やその延長の相対リスク回避は、パフォーマンス(能力)を一定とした後の階層の直接効果を検討するが、行動遺伝学の先行研究を踏まえると出身階層を環境、能力を遺伝としたGxEへの言及がないことに驚く。もちろん(センシティブになった方がいいのは)今の遺伝のデータが拾っている教育年数のばらつきは本当に能力やポテンシャルなのかといえば小さくない疑問符がつくので、大きなことは言えないが、少なくとも行動遺伝学と階層論の理論の架橋は検討してもいいはずだと考えている。

あとは、ヤングのメリトクラシー論に従うのであれば、メリトクラシーとは「能力+努力」の組み合わせで、本来はランダム(実際はランダムじゃないが)に割り当てられる能力と、それとは別に本人の(もちろん環境の影響を受ける)努力を分けられれば、興味深いと思う。

再来週から授業が始まるので、そろそろ研究モードから少し離れて、ティーチングのことや、試験のことを考えなくてはいけない。不思議な夏休みだった。ずっとステイホームだったけど、これまで溜まってた仕事におおよそ片付けられ、前を向いてこれからのことを考えられるようになったので、これはこれで良かったと思う。普段だったら学会に行ったり規制していたりで、夏休みに研究に集中する時間は限られていたのだが、今回は思いっきり研究できたので、良かった。ただ、これだけ時間があっても人間はどこかでサボることも明らかになり、適度に時間を割り振るのも大切だと思った、移動が自由になったらまた旅行に行きたい。

August 20, 2020

8月18ー19日

18日。どうやら1日間違って日付をつけていたらしい。一昨日の深夜に半沢直樹を見てしまって、昨日は眠かった。午前中はきょうだい論文の修正をして、午後に買い物、中華スーパーに行ったのだが、新しく移転して開いた店でとても広く、居心地が良かった。帰宅すると大学からオンキャンパスの学生や職員は毎週コロナのテストを受けるという連絡が来た、大学の施設は使わないのだが、大学のアパートは大学の施設らしい、まあそうだけど…研究会での話題提供をお願いされる。


19日。午前は引き続ききょうだい論文。研究会の話題提供の延長で、社会学のトップジャーナルの日本事例を扱ったテーマを見ていたら、まずフレームワークをしっかり作って、それをテストするのに日本事例が一番適切という演繹的な書き方をしていた。今の論文は人口学ジャーナルに出す予定だけど、常に社会学にいると日本事例を用いたことによってわかる理論的な意義を考えなくてはいけない。それはアメリカ事例でも同じはずだが、日本事例の方がハードルは高い気がする。11時からcovidのミーティング。いよいよ論文を書くフェーズということで、メンターの先生がかなり細かくなり出して大変だった。ただ、この論文を書くところになって(遠慮なく)急に細かくなるのは研究者の一類型であって、慣れている。そんなこんなで時間を取られ、走る(最速タイムだった)。昨日の中華スーパーで買ったハツを炒めたものでどんぶり(これがうまい、しかしハツを食べ続けて思うが脂肪が本当になく、食べた気がしない)。夜はreadi。あっという間に第7回。私のコロナの記録になっている。

August 19, 2020

working paper

学歴同類婚に関する論文を書きました(査読前の論文になります)。この論文では、アメリカを中心に高学歴層の同類婚が増えている国がある一方で、日本のように逆に減少している国もあることへの一つの説明を提示しています。具体的には、高学歴化に伴って大卒内の異質性が拡大するという教育社会学の議論に注目しています。仮に大学にも階層性があり、低階層の大学を卒業した場合にはこう階層の大学よりも非大卒の人と結婚しやすい場合、高学歴化が均質に起こるのではなく低階層大学の増加によって生じるとすれば、大卒層が非大卒層と結婚するオッズが増えます。これに加え、低階層大学の増加によって、結婚市場において大卒の価値に変化が生じた場合でも、高学歴同類婚は減少するでしょう。

この論文では以下の二つのメカニズムを念頭に置いた上で、大学間の階層性が明確かつ広く共有されている事例として日本を選択し、仮説を検証しました。分析結果から、国公立大学卒業者よりも私大卒業者の方が同類婚オッズが低く、非大卒層と結婚しやすいことがわかりました。加えて、近年ほど私大卒業者の同類婚オッズが減少していることが示唆されました。これらは仮説と整合的であり、高学歴化が低階層大学の増加によって異質性も拡大している限りにおいて、他の国でも当てはまる点を議論しています。

Title: Explaining Declining Trends in Educational Homogamy in Japan: The Role of Institutional Changes in Higher Education

replication package: https://github.com/fumiyau/Explaining-Homogamy-Decline

preprint: 

working paper: 

August 18, 2020

DP執筆

 2020年に公開された日本版O-NETと国勢調査をマッチングしたデータを使用して、性別職域分離、職業に就くために必要なスキル、および入職後の訓練期間との関係を分析したディスカッションペーパーを、一橋の麦山さんとJILPTの小松さんと一緒に執筆しました。

http://www.ier.hit-u.ac.jp/Japanese/publication/dp2020.html#2020

アメリカを中心に欧米では、女性比率の高い職業ほど、あるいは女性的とされるスキル(例:ケアスキル)が必要な職業ほど、賃金が低いことが指摘されています。日本では後者のようなスキルを正確に測定するデータが今まで整備されてこなかったため、こうした分析はできませんでした。

今回、厚生労働省が公開したO-NETとよばれる職業データベースでスキルが測定されたので、国勢調査の職業とマッチングをし、O-NETで測定されている、入職後の訓練期間(職業能力が企業を中心に養成される日本では、将来的な賃金を予測する要因としてみなせる)をアウトカムにして分析しました。

およそ200の職業を単位にした分析から、他の要因を一定とした上で、女性比率が高いほど入職後の訓練期間が短い、ケアスキルのレベルが高い職業ほど入職後の訓練期間が短いことがわかりました。

特に後者については、他のスキルが軒並み訓練期間と正に関連していることを踏まえると、女性的な労働が、女性典型的であるがゆえに訓練が必要ではないと雇用主からみなされる不当評価(devaluation)の存在を示唆していると解釈できるのではないかと考えています。

August 17, 2020

小噺

とある日本の研究会で話題提供を依頼されたので、その原稿がてら。

話題提供(依頼内容)

アメリカで日本社会を対象とする不平等研究を行いながら、理論や方法論も含めて海外の研究と日本の研究との相違や、今後の日本やアメリカの不平等研究の進むべき方向性

経験のあるファカルティでもない私が話せること:日本で博士課程の途中まで在籍し、そこからアメリカの社会学・人口学プログラムに「移民」した自分から見た、日本とアメリカの研究像

自己紹介・略歴

専門:家族人口学、社会階層論

2015 - 2017 東京大学 大学院人文社会系研究科 社会学専門分野 修士課程 

2017 - 2019 東京大学 大学院人文社会系研究科 社会学専門分野 博士後期課程 

2018 - 2019 ウィスコンシン大学マディソン校 社会学部 博士課程 

  • 社会階層論・人口学が伝統的な強み
  • 中西部の州立大学、社会学PhDの数は全米でも最多(Warren 2019

2019 - 現在 プリンストン大学 社会学部 博士課程 

  • 伝統的には経済社会学、文化社会学、移民研究が盛ん
  • 小規模だが最近拡大傾向、貧困・階層研究にも力
  • 全米最古の人口学研究所(OPR)、かつては出生力研究、近年は移民、健康

ウィスコンシン・プリンストンともアメリカの社会学博士課程ランキングではトップ校だが、最近プリンストンは上昇傾向(Ranking of Sociology Programs

人口学の強みは若干異なり、ウィスコンシンはミシガンと並び中西部の大学に多い人口の異質性に着目した社会人口学研究(=私の進学理由)、プリンストンはペンシルバニアと並びヨーロッパまで含めた出生力研究の強み(しかし現在は両方ともゲノム研究を強みともしつつあり、この区分は曖昧になっている)。

最近の階層研究では何が話題なのか

「日本」の階層研究

  • SSMを中心とする、質の高い調査、密な研究者ネットワーク
  • 社会移動、OEDの国際比較(constant flux, inequality in higher education)RC28との関連
  • 日本独自のトピック
    • 昔:一億総中流、地位の非一貫性、日本的雇用慣行と内部労働市場の強さ、学校と会社の実績関係、学校経由の「間断なき移行」、学歴社会論
    • 今:非正規雇用の増加、人口学的要因による経済格差の拡大、労働市場のジェンダー格差
  • (階層研究に限らないが)日本発の理論の不在(Sato 2012; 多喜 2020)
  • 理論よりも日本の現状理解・先行研究のテストが優先?

日本以上に特殊なアメリカ階層研究

  • アメリカを一口に語ることの難しさ→国際比較の難しさ
    • 人種、ジェンダー、セクシュアリティ、移民的背景による人口の異質性
    • 階層研究と貧困研究の並立(アメリカ社会学会IPM)
    • 人口学・社会政策との距離の近さ(PAA/APPAM)
      • 人口学的社会階層研究
      • 政策的なインプリケーションの意識
    • 手法:因果推論は増えているが、データ・方法のイノベーションにより、記述的・人口学アプローチもまだ盛ん(むしろ、より盛ん?)
      • センサスデータのリンケージによるアメリカの社会移動の長期的趨勢(Song et al 2020
      • 行政データを使用した所得移動(Chetty et al 2016
      • 大規模ゲノムデータ(GWAS)を使用したgene-environment interaction(Rimfeld et al. 2018), genetic nurture(Kong et al 2018
      • 機械学習を用いてSESアウトカムを予測→調査データはどんなに頑張っても予測力が低い(Salganik et al 2020
  • それでもアメリカ発の理論はある
    • FJH, college as a great equalizer, MMI, EMI, stalled gender revolution, diverging destinies, segmented assimilation, neighborhood effect, cumulative advantage, linked lives
    • BTW, 理論の定義
      • 検証可能性
      • 一般化可能性
      • 複数のメカニズム
      • フレームワークといったものに近いかもしれない
アメリカで日本研究をするということ
  • 背景
    • アメリカにおけるトップジャーナル信仰→日本事例を載せることのハードルは低くない(後述)
    • アメリカにおける日本への注目の低下
      • 90年代をピークとした日本脅威論は中国に替わられる
      • 授業で日本に言及がある機会:日本の平均余命の長さ
    • アメリカに留学する日本出身学生の減少(NIRA
  • アメリカにおけるWho cares Japan?問題
    • 実は日本に限られない(アメリカ、中国以外は「地域研究」というジョーク)
    • ヨーロッパ事例はEUによる国際比較が多い印象、(東)アジア比較は相対的に少ない(データの問題?)
    • それでも研究者が少ないため競合リスクは低く、興味を持ってもらえる人には懇意にしてもらえる(留学生の多い韓国や中国と比較して)。
  • メリット
    • Who cares Japan?問題
      • 常に事例選択の妥当性について考える癖がつく
      • アメリカを検討する際に、Why USを比較的簡単に考えられる(アメリカのコンテクストを相対的に考えることができる)
      • 注目度は低くなっているが、それでも一定の需要はある。
    • 比較の視点で考える機会が増える(例:readi)
    • 新しい研究成果に触れながら問いを考えられる知的刺激
  • 過去10年のトップジャーナルに掲載された日本事例とトピック
    • 社会学(AJS/ASR)
      • Brinton and Oh 2019 AJS:日韓ではなぜ出産後就業継続が実現できないのか
      • Tsutsui 2017 AJS:グローバルな人権とローカルな社会運動の理論枠組み→日本事例を用いた検証
      • Mun and Jung 2018 ASR:welfare state paradoxにおける雇用者側のメカニズムの検証
      • Cohen 2015 ASR:資本主義への移転に関する新しいフレームワーク→徳川日本を事例とした検証
      • Shibayama et al 2015 ASR:大学における起業が研究者における知識の共有方法に与える影響
    • 人口学(Demography)
      • Hauer et al. 2020 津波と人口移動、Raymo and Shibata 2017 雇用環境、不況と出生力、Yu and Kuo 2016 親同居と結婚の遅れのメカニズム、Dong et al. 2015 東アジア歴史人口学、Drixler 2015 江戸時代における棄児、Takagi & Silberstein 2011 結婚後親同居のメカニズム、Raymo et al. 2009 日本における同棲
    • 社会学と比較した時の人口学ジャーナルの事例の特徴
      • 人口学は相対的に他の国の事例は多い(Jacobs and Mizrachi 2020
      • 「理論」よりもユニークな文脈を活かした示唆に富む事例研究が多い印象(噛めば噛むほど味が出るタイプ)
      • 社会学:事前にフレームワークを作り、日本事例でテストが多い(切れ味は鋭い)
  • トップジャーナルに掲載される日本事例のフレーミング
    • 逸脱例(既存理論では日本を説明できない→帰納的に新しいメカニズムを発見)
    • 典型例(新たな仮説をテストするのにベストなケースであることを演繹的に導く)
    • 事例研究(欧米の理論を日本にテスト)
      • 理論的なインプリケーションを出すのが難しい
      • トップジャーナルには掲載されにくい
  • 自分の日本事例を用いた研究紹介とそれぞれの課題
    • 高学歴化に着目した学歴同類婚の減少トレンドの説明(当初逸脱例→典型例)
      • アメリカ:高学歴層の同類婚が増加している(背景:男性稼ぎ主の揺らぎ、共働きの経済的メリット)
      • 日本:高学歴同類婚は減少傾向→逸脱例として検討
      • パンチライン:高学歴化によって大学の異質性が拡大(低階層私大の増加)
        • メカニズム1:低階層大学卒業者の方が同類婚しにくい
        • メカニズム2:低階層大学卒業者が近年ほど増える→同類婚オッズは減少(compositionalな説明)
        • メカニズム3:異質性の拡大によって低階層私大の結婚市場での価値も減少している→同類婚オッズは減少(diverging association)
      • 理論的なレバレッジを高めるため、異質性の拡大が高所得国で広く見られる→日本の大学階層性はこの命題を検証するために適切な事例、としてフレーミング
      • 裏を返すと、逸脱例アプローチだと最初にwho cares Japan?問題をクリアしにくい(これに対して、アメリカのオーディエンス向けにアメリカがなぜ逸脱なのかをアピールすることは相対的に容易かも)
    • 日本における男女の専攻分離のトレンドと要因分解(事例研究)
      • Why Japan?:日本はジェンダー格差の大きな国の一つ+高学歴化によって大卒者の中でのジェンダー格差が相対的に重要
        • ただしそれは日本に限らない
      • 査読コメント:日本を検討したことでstalled revolution theoryに対して示唆はあるのか?
        • 日本じゃなきゃいけない理由は理論的な含意と関連する
    • きょうだい地位による同類婚(事例研究、しかし示唆は一般的)
      • 低出生の経済的なインパクトは議論されているが、社会的なインパクトは希少
      • 低出生の人口学的帰結→きょうだい数の減少、長子、一人っ子の増加
      • きょうだい地位によって家族的な義務への期待が異なる場合(e.g.長男継承規範)、結婚市場における特定のきょうだい地位の増加はミスマッチを生じさせるかもしれない(「長男の嫁」の拒否)
      • きょうだい数や地位が結婚市場での個人の行動を規定する限りにおいて、この論文の主張(低出生により長男や一人っ子が増えることでさらに低出生が加速するかもしれない)は一般的
      • 事例研究からスタートして全く新しい理論的含意を生み出す作業はかなり大変だと感じている
  • 今後の方向性
    • 階層研究一般
      • データや方法の刷新は続く(行政・歴史・遺伝データ、機械学習・計算社会科学・因果推論)、キャッチアップは必要
      • アメリカ発の理論の検証も続く
        • e.g. college is not a great equalizer in Japan
      • 両者は手を取り合って発展するはず
        • GWASデータの整備→社会学的な見地からGxEやnature of nurtureなどがさらに検証されるかも
        • センサスデータのリンケージの整備→世代間移動とライフコース理論(e.g. linked lives)の統合
    • 日本の階層研究が進むべき道?→語れる立場にはまだない
    • 日本の(階層)研究者は英語で論文を書くべきなのか?→分からない
      • アメリカのトップスクールではトップジャーナルに掲載することに強く価値が置かれている
      • 指導教員からの教え:3本論文あるよりも、1本ASRにある方が評価は高い
      • もちろん、トップジャーナルしか読まれないわけではない
        • 日本研究者であれば非トップジャーナルでも日本事例は読むはず
        • 階層研究者であればRSSMは読むはず
      • 日本の社会学アカデミア:英語/日本語の区分が前提、英語内の違いはあまり共有されていない?
      • 結局のところ、どのオーディエンスにアプローチしたいのか?
        • 階層研究→RSSM、SSR
        • 家族研究→JMF
        • 人口研究→DR, PRPR
      • ただし、個人的には「本当に理論的に面白い研究」は英語で、かつトップジャーナルにトライすべきだと思う。
        • なぜ?→自分が論文の着想を得た研究の多くは英語で、かつトップジャーナルに掲載されているものだから(信仰といっても実は伴っている)
        • 日本を対象にしていない研究者でも自分の研究にフィードバックがあるような論文が多数の人が読めない言語で書かれていたら、少し残念

8月18日

 午前中はトラッキング関係の文献をずっと読んでいた。ビビンバ麺をたべ、午後はきょうだい同類婚の論文。

8月17日

概要

午前中は試験対策で論文、本を読む。午後に論文の改稿(同類婚、専攻分離)x2、査読リプライ(専攻分離、地熱)x2、ルームメイトのr packageの手伝い(+エラーの発見)、夜にcovidのdata vizなど。社研にDPを出すことにした、校正をお願いする。

研究

読んだ本はBukodi and Goldthorpe 2019, Jenks 1977, あとLucasのtracking inequality。Lucasの本はアメリカのsecondary edが1970ー80年代にトラッキングからコンプリヘンシブ型に変わったこと、それでも格差が残るとすればどういうメカニズムか、などが議論されていて興味深かった。Bukodi and Goldthorpe、JenksともOE連関の話の中でabilityの話をしており、共に出身階層によってpotentialが抑制されている可能性を示唆しており、引用したい。Breen 2010の論文が実は今書いてる論文に対して重要なことを言っている気もしてきた。これを読んだ後、各国の大学におけるhorizontal stratificationの度合いを指標ができないかと思ったが、いろいろ難しそう。Shavit, Arum, Gamoranの2004年の本で一応質的分類はされているので、それを少し参照するかもしれない。

その他

もやしがかなりダメになってきたので、昨日の昼はやきそば、今日の昼ごはんはチャーハン、夜はビビンバと使い切った。コチュジャンのからさが久しぶりで食欲が促進された気がする。ひまわりの水が切れていることに気づかず、少し萎れてしまったのが残念。ジョギングの距離を伸ばしているが、今日のタイムはこれまでの短いジョグを含めてもトップ10にはいるもので、調子が良かった。もう朝夜は小寒いので、風邪をひかないように注意をしなくてはいけない。

来週の予定

covidミーティングが二つ、水曜日にreadiセミナー、きょうだい論文は進めたい、校正が終わり次第同類婚論文を投稿、および専攻分離論文を再投稿、地熱論文は共著者に任せているが再投稿はもうすぐ、ゲノム同類婚は査読中、デスクになるとしたら明日が期限。1-2日は橘木先生からもらったデータの分析を進めたい。ゲノムとhorizontal stratの話は、メンターのリプライがまだ、作業するかもしれないししないかもしれない。引き続き階層論の試験勉強、同類婚の本や同居の話もあるが、優先順位はそんなに高くない。多分進捗具合的にはきょうだい論文2時間をさくべきな気がしている。

August 15, 2020

8月16日

寝起きはあまり良くなかった。午前は論文と本を読む。Breenのsocial mobility in Europeでいくつかabilityに言及した論文が引用されており、SaundersとMarshall and Swiftの議論を発見した、メンターの一人に共有。アメリカにおける女性の高等教育について論じたwomen in academeも2章ほど目を通す。論文をチェックすると学歴同類婚の新しい論文が出たので読む。イタリアなどヨーロッパ6か国では高学歴の同類婚が減っているので地位閉鎖理論を支持と主張、知見は面白いし、日本の話とも整合的だが、高学歴同類婚が減った理由が高学歴化が進展してsocial homogamyが増えたからだとするのは、実際には検証できていないのでやや弱いなと思った。高等教育の拡大自体は大卒比率で評価できると思いますが、differentiationの尺度を作りたいところ、国ごとの高等教育がどれだけvariationがあるのかという。論文は共同研究者にシェア。

その後、先日の学校歴データについて、メンターからウェイティングをしたほうがいいと言われたので調整。結果自体は変わらないはずだが、国勢調査人口と合わせるために専門学校卒を高卒にするか、短大高専卒とみなすかによって結果は異なる。両方とも結果は共有。women in academeの関連する章を注文。

その後、専攻分離の論文を改稿、およびミーティング。ルームメイトと野球を見た後に地熱の論文。再び改稿、校正に出してもいいかなと思う。

英語の論文も多少書く力はついてきたのかなと思う、でも多分これはアメリカの社会学や人口学の計量的な論文に特化しているといえばしているので、慣れが大きい気がする。あと(村上春樹みたいだけど)集中して書く体力は必要で、それは走ることで多少訓練される気がする。

英語の論文を書く/書けるというのは大層なことのように聞こえるけど、中身としては非常に狭い分野の文化に沿った書き方になっているし、グローバルに研究とか形容されたところで、内実は日本のドメスティックに見える話をアメリカの超ドメスティックな界隈に理解してもらう、非常に特殊な作業の連続。

だから私は最近の若い学生が国際誌に云々というのは、実態を正確に捉えているようには思えません、分野間/内でオーディエンスは異なり、その限りにおいては日本語で書くのと同じくらいローカルな営みだと思います。

August 14, 2020

8月15日

 午前中はゲノムの論文のアウトライン、午後に本を借りに行き、covidのミーティング。職域分離の論文を書き、BBQ。コーホートの友達と久しぶりにあった。細々とでも人とリアルで話すのは大切だなと思った。その後に校正が終わった原稿をみて、DPとして提出。夜にコロナのデータをアップデート。前は1週間で良かったが、最近死亡者が増えてきたので更新頻度を増やしました。

8月14日

 本当は木曜はいつもcovidのミーティングがあるのだが、先生が1週間休暇を撮りに行っているのでミーティングがなくなり、なんとなく張り合いのない1週間を過ごしている。午前はルームメイトの誘いに乗ってファーマーズマーケットへ。マディソンの時はよくいっていたが、プリンストンでは初めてだった。この手のマーケットに行くと、地場の新鮮な野菜などが手に入る。パン、野菜、花を購入して帰宅。その後は学校トラッキングに関する論文などを読んでいた。ゲノムとhorizontal stratificationに関して論文を書くことになり、フレーミングに悩んでいたが、ひとまず500wordsくらいのアウトラインはできた。魚屋で買ったサーモンで、久しぶりに生魚を食べることができた。

August 13, 2020

移動

 階層研究では親子の地位の関連を社会移動と定義して社会が開放的かを分析する。その際には絶対移動と相対移動を区別する、前者は何%の人が親よりも上昇移動したかをみるが、この方法だと移動しやすい出身の人が増減する影響を純粋なチャンスと区別できないので、オッズ比ベースの相対移動が使われる。

相対移動による分析結果によると、日本を含め多くの高所得国では、親子の地位の関連は明確なトレンドを示さず、大まかに見れば安定的。と考えると、最近の格差の固定化と言った論調は、階層論の人から見ると直感に反する(少なくとも世代間の移動に関して)。相対移動による分析結果によると、日本を含め多くの高所得国では、親子の地位の関連は明確なトレンドを示さず、大まかに見れば安定的。と考えると、最近の格差の固定化と言った論調は、階層論の人から見ると直感に反する(少なくとも世代間の移動に関して)。

移動のパターンは安定的なのに出身階層で人生が決まってしまうと考える人が増えているとすれば、それはなぜか。一つはメディアなどで格差社会論が実態と乖離して報じられている可能性。もう一つの可能性は、人々は相対移動よりも、絶対移動の方に敏感なのではないかという説。

という意味では、確かに日本では下降移動(親の地位よりも自分の職業的地位が低い)は増えている。これは主として、上昇移動をする傾向にある農業層が昔は多かったけど、近年はそうした出身の人は減ってるから。昔に比べると親よりも自分の地位が低い(と考える)人は相対的に増えているということ。

社会科学者であれば出身で人生の全てが決まるという考えには首肯しないと思うけど、世代間移動は安定的という知見から不平等が増しているという考えに反論する人はそれなりにいるはず。階層論の人が使う指標と世間の人が依拠する何かには違いがあるのかなと思う。

August 12, 2020

8月13日

 夫婦の学校歴がわかるデータの加工、その後分析、カレーを昼と夜に食べる。夜は専攻分離の論文の改稿。目処が立ちつつある。

年始に特典航空券を予約してしまったのだが、この状況かつ大学も学期を感謝祭前に終わらせることにしたので、チケットを取り直そうと思いJ●Lのページに行く、まさかこの状況なのでキャンセル料は無料だと思いきや、特典航空券は3100円の手数料がかかるらしい(ケチ)。とはいえ11月の便はガラガラなのでおそらくその辺りに帰ると思う。

August 11, 2020

8月12日

 論文の改稿をして校正業者に投げた。その後同じ系列の論文を書くため、違うデータのクリーニング。夜はreadi. OD連関が高学歴層では弱くない、学校歴で分けるとトップ層はあるけど、他の学校歴では差はない。学校選択に対するセレクションを考慮した上でcollege as qreat equalizerを検討したが、大卒効果の異質性は見られず。ただし、selective collegesにするとnegative selectionが見つかった(親階層が低い場合、大卒であることによって不利を挽回できる)。

8月11日

 論文を投稿、同類婚の論文の改稿、ゲノム、論文購読。

August 10, 2020

博士課程2年目の振り返り(後半)

後半では春学期、および夏休みについて振り返っておこうと思います。

博士課程2年目の振り返り(前半)

春学期はご存知のようにパンデミック下で授業がオンラインになったり、予想していた日々とは大きく違うものになったわけですが、この振り返りではできるだけパンデミックの話をするのではなく、春学期を過ごす中でどうコロナウイルスに影響されてきたのかを書きたいと思います。

年末年始の一時帰国からアメリカに戻ってきたのが1月19日、そこからシカゴの知人の家にお邪魔して、プリンストンに戻りました。当時はすでに武漢でコロナウイルスが発生し、どこかの国の大統領が武漢ウイルスなどと呼んだせいもあり、空気としてはアジア系への差別が問題になっていた気がします。アメリカに戻って翌週に、現代中国センター(CCC)が主宰する新年会パーティがCCCのディレクター(私の指導教員の指導教員)宅で行われたのですが、確かにこのタイミングで中国から帰港したかもしれない人がいるところに行くのはどうなのだろうか、まあ多分大丈夫だろう、と半分楽天的に思ったことを覚えています。

コースワーク

帰国してから2週間、2月の初旬から春学期が始まりまった。コースワークとして現代社会学理論、先学期に引き続きエンピリカルセミナー、疫学、それと学期の後半から指導教員の家族社会学のセミナーを受講した。

現代社会学理論の授業は、古典に比べると先生の好みがはっきり出るタイプの授業で、話を聞く限り、批判的人種理論を読むところや、ハーバーマスを読むところ、色々あるみたいです。今回授業をもってくれたのは、フーコディアンの先生だったので、フーコーやグラムシといった権力論の話が多かったです、ポストモダンですね。加えて、イランの専門家でもある先生は、Julian Goなどのポストコロニアルの文献もたくさん入れられていました。

この授業は実りがあったかと言われると、正直難しいところがあります。特に、フーコー以降のポスト構造主義シリーズでは毎回「シンパシーは感じるけれど、私はこの視点を生かしてどうやって人口学的な研究をすればいいのだろうか」という感想を持ちました。いくら歴史的文脈が大切と言われても、実証主義的な研究伝統に立つ社会階層の研究者でさえ近代化論を信じてる人はいないはずで、多かれ少なかれ今の社会学者はコンテクストの重要性に気づいていると思います。もちろん、そうしたベースにはポスト構造主義の知的潮流があるのかもしれませんが、実際に原作を読むことで、自分の研究にフィードバックがあるのかと言われると、難しかったです。

エンピリカルセミナーは先学期と同じなので省略。書き上げたペーパーはこの1ヶ月で修正して、明日投稿する予定。

疫学の前に、half termの家族社会学。ロックダウンが始まった後半からの授業だったので、最初から最後までzoomで、なかなか新体験だった。お互い色々難しいところはあったと思うが、家族社会学(というよりも人口学)の重要文献をフォローできたので、これをもとに10月の試験を受ける予定である。

色々とドラマチックだったのは、疫学の授業だった。授業を持つ先生は社会学部には所属しておらず、人口学研究所および公共政策学部に所属している。この人もなかなかユニークで、博士課程を出てから、基本的にずっとプリンストンの人口学研究所で研究してきた、うちの研究所の長老的な存在である。

生きる歴史といった感じの人で、アメリカ人口学の黎明期にある研究者とは同僚だった経験があり、プリンストンを出た多くの人口学者とのネットワークを持っている(コロナ関係で論文をシェアした時も、この著者は私の学生だった、と言われたことは数知れず)。海外での調査経験が豊富な点もユニークで、これまでグアテマラや台湾で実地調査に関わっている。日本に関しても1990年代に婚姻上の地位と死亡率に関する一連の論文を出版しており、色々あって指導教員と彼女と私の3人で、そのアップデートの論文を書いている。

25年以上前に出た論文について、ついこないだ書いたように明快に説明する姿をみて、この人だけ時間の流れ方が違うのではないかと思ったことも少なくない。典型的なニューヨーカーで、授業の最初では自分の話し方が早いことに注意を喚起する(多分昔は今よりも早口だったのだろう)。授業で引用する新聞記事は95%はNYTで、ここまで生粋のニューヨーカーも、今時珍しいのではないか。余談だが、村上春樹の「やがて哀しき外国語」でプリンストンの教員が毎日NYTをとっていることに対して村上はスノビズムの気をみてとっているが、彼女は村上春樹がプリンストンにいた時も教員だったので、村上がみていた教員の一人は彼女だったのかもしれない。かなりシニアの研究者だが、まだまだアクティブなので、すくなくとも私が卒業するまでは退職しないでほしいと思いつつ、一緒に楽しく研究している。

疫学の授業を取り始めた時には、廊下やキッチンで、やや気まずいスモールトークを何回かしたぐらいで、それ以外にコンタクトはあまりなかったのだが、コロナ以降は特に、一番頻繁に話している人かもしれない。「人」というのは、教員や友人などを含めてで、私が日常的に連絡し合う全ての人の中で、一番話している気がする。その事情は夏休みのところで話すことにする。

疫学の授業は公共政策大学院と人口学研究所の博士課程用の合併コースで、プリンストンでは私にとって初めてのレクチャースタイルの授業だった。彼女の授業では多分20年前くらいから作り始めて毎年微修正をしている老舗の鰻屋のタレみたいなスライドが使われ、古さは感じないが、とにかく「整っている」ものだった。よく手入れされた家具といった方がいいかも知れない。5年間同じ授業をしても、ここまで適度な情報量で話の流れもいいスライドは作れないだろう。本人は完全に中身を暗記してるので、ドラマのシーンを見ているくらい流暢に授業が進んでいく。この授業、10年でも作れないかも知れない、そう思って私は勝手に20年もののスライドと呼んでいた。学生からの質問も即座に答える。そりゃ20年やってるので質問は出尽くしてるのだろう。それでもたまに今まで指摘されなかった質問があると、一言「ナイス」と付け加えてメモをしているので、おそらく来年のスライドではその点は解決しているはずだ。

この授業では疫学の教科書に準拠する形で、疫学のイントロについてレビューを行う。既知のことも多かったが、社会学や人口学をやっていて、なぜ疫学の人はそう考えるんだろうと判然としなかったところがわかったのは一つの収穫だった。例えば疫学ではオッズ比が多用される。この授業でも何度もオッズ比をつかったので、オッズ比が「オッズの比」であることがよくわかった。これだけだと、何をいっているのかわからないかも知れないが、社会移動のオッズ比の概念を学ぶより先に、疫学のオッズ比をexcess rateと比較しながら学ぶ方が概念を掴みやすい気がした。

話を戻すと、疫学でオッズ比が多用されるのは、サンプルがアウトカムに基づいて選択されるケース・コントロール法がよく用いられるためである。人口学者からするとなぜサンプリングをしないんだと思ってしまうが、ある症例がそこまで頻繁に生じない場合は、ケース・コントロール法の相対的なメリットも増してくる。これは一つの例だが、数字一つの解釈とっても、疫学的な解釈と社会学、人口学的な解釈は異なるので、私にはそういった点が非常に楽しかった。

例年であれば、先生も微修正したスライドをいつものように流して、試験をしてレポートの採点をすれば良かったのだろう、ところがしかし、タイミングよく(わるく?)コロナウイルスによるパンデミックと授業のタイミングが完全に一致してしまったので、授業は3/4程度がこれまでの内容、残り1/4がコロナウイルスを事例に教科書の内容を応用する展開に変わった。コロナウイルスほど疫学の授業の題材に適切な(というとあまりコレクトではないが)事例もないだろう。感染症のモデリングの話では、日進月歩で進むコロナウイルスの再生産指数がどのように計算されるのかの説明があったし、その指数のインプリケーション、あるいは他の感染症との比較などの解説があり、これは疫学の授業なのか、コロナウイルスへの理解を深める特別授業なのか区別がつかなくなってきた。

後半の社会疫学のパートに入る頃にはアメリカでもロックダウンが始まり、徐々にコロナウイルスとSES、人種の関係がクローズアップされるようになり、またもやコロナウイルスが絶好の事例となってしまった。そんなこんなで、授業が終わる頃には疫学の知識だけではなく、コロナウイルスの情報についてもかなり詳しくなっていた。

パンデミック下で、これは非常に助かった。というのも、ツイッターなどを当時見ていると、本当かどうかわからない情報もたくさん流れていたし、良くも悪くもコロナ関連の論文が量産されていたので、自分一人では何がとるべき情報なのか、判断がつかなかったかも知れない。この疫学の授業を取りながらコロナウイルスについての理解を深めていけたのは、予想外ではあるが一生の財産になるだろうと思う。

そうやってオンラインに移行してからも私は授業を楽しんでいて、発言も結構していたからか、上に書いた共著にも誘ってもらったし、夏休みにコロナウイルス関連で一緒に研究をすることにもなった。

夏休み 

5月後半に学期が終わり、夏休みに入った。当初の予定では(笑ってしまうが)イタリアやフィンランドの学会に行く予定だったのが、もう全ておじゃんになってしまったのは、いう必要もないだろう。一時帰国も考えたし、周りの友人たちも結構帰っていたが、私は実家に高齢の祖母がいることもあって躊躇していたら、いつの間にか便がほとんどなくなり、チケットも高騰したのであきらめた。7月10日に大学のアパートに引っ越すことになっていたので、タイミング的にもその前後の帰国は難しかった。ルームメイトも色々あって最初から探し直す羽目になったのだが、最終的に同じ学部の友人と住むことになり、今までで一番ルームメイトとよく話していて、引っ越してから1ヶ月が経とうとしているが、メンタルヘルスはかなり安定した気がしている。

夏休みに入って、いくつか新しいことを始めた。一つはポッドキャスト「となりの研究室」。途中、中だるみする時もあったが、ちょうど第6回の収録を公開した。趣旨作りには苦労したが、結局友人から初めて研究者仲間を紹介してもらい、ご自身の研究生活についてざっくり伺うというゆるゆるポッドキャストになった。結果としては、こういう大義名分めいたものがない方が続くのかも知れない。回り回って、第6回と第7回のゲストは同じ年に東大に入学した全く知らない人になって、世の中の狭さを感じている。

もう一つは東アジアの人口と社会階層に関する学生セミナー。もともと、指導教員が指導教員の指導教員(ややこしい)と一緒に夏にこのテーマで学会を開こうとしていたのだが、コロナで中止になったため、オンラインエフォートになった。zoomセミナーは月に一回、シニアの研究者が報告する形式になったのだが、私から学生・ポスドクを対象にしたセミナーの提案をさせてもらった。こちらは隔週開催。学生メインとはいえ、英語でセミナーのオーガナイズをするのは初めてだったので、色々学ばさせてもらっている。

論文も書いていた。4月初めに依頼原稿のような形の連絡をいただき、日本語はしばらく書かないつもりだったが、お世話になっている学会の話なので受けることにした。締め切りまで何もしないのも嫌だったので、4月から初めて、7月末に1本書き上げた。近く一橋経済研究所のワーキングペーパーとして公開される性別職域分離とスキルの関係についての論文。先に書いたようにgenomeのペーパーは提出間近。3月に投稿した専攻分離の論文はR&Rになったので現在改稿中。地熱論文も査読が戻ってきて来週には提出。第二著者として入った人口学系ジャーナルに出した論文はすでに修正して再提出。だいたい夏に終わらせたかったものは終えている。

最後に、疫学の先生とのプロジェクト。これも事の発端はCOVID。夏休みというのは学部生にとってはインターンの時期なのだが、こういう状況でインターンは不可能になっているので、先生が所属するヘルスに関する研究所から予算をとって、学生主体でプロジェクトを提案してもらって、夏の間に一緒に研究するプロジェクトを立ち上げた。私も、学生の選考に多少関わって、今では二つのプロジェクトを走らせている。自分がRAとして雇われていれば給料が出るのだろうが、今回私はRAというよりはco-PIみたいになっている。こう書くとタダ働きさせられているようにも見えるが(確かに学生が書けないコードとかは書いているが)、先生はどちらかというと私に学生を指導する経験をチャンスとして与えたかったのかも知れない(し、私がいる事で先生の負担も減るというのは間違い無くあっただろうと思う)。実際、初めてアメリカの学部生に「アドバイス」をする立場になると、学ぶことも多い。

なにより、ほぼ毎週1度のペースでミーティングをしているのだが、これが私生活も含めてペースメーカーになってくれたので非常に助かった。たるみがちな夏休み、かつWFHでなかなかモチベーションが上がらない時期もあるのは事実だが、こうやって定期的に人と話せる機会を持てる事で、最低限生活リズムを整えて研究することができているので、それだけでも感謝している。