現在、私が所属している東京大学文学部社会学研究室(大学院では、人文社会系研究科社会文研究専攻社会学専門分野に相当)には、教授・准教授が7名在籍しています。
一つの研究室に教員が7名「も」いるのは、もちろん文学部の中では最大です。しかしながら、同じ社会学分野の中で見てみると、「社会学部」がある私立大学(関西学院、立教、関西、同志社、東洋、法政など)とは、規模の差があることは否めません。
ただし、東大にも「社会学部」を作ろうとする動きがあったことは、これまでに2度あります。残念ながら、その2度とも社会学部構想は構想のままに終わり、現在に至るまで、社会学部ができることはありませんでした。
ここで簡単に、東京大学における社会学系の教育・研究組織の変遷について確認してみましょう。この辺りの詳しい経緯については、「社会学研究室の100年」(東京大学文学部社会学科・大学院人文社会研究科編)において、尾高邦雄氏、福武直氏、および高橋徹氏などが回顧しています。
1953年 大学院規則により社会科学研究科が発足する(法・経・社・国関・農経の5専修課程)。社会科学研究科の社会学専門課程にはAコース(社会学専攻)とBコース(新聞学専攻)の2つのコースが設けられている。
1963年 法と経済の2つがそれぞれ法学政治学研究科と経済学研究科を設立、残された3つのうち、社会学と国際関係論が合わさって社会学研究科に改組する。
1965年 生物系研究科から文化人類学が加わり、文化人類学専門課程ができる。
1966年 研究科内の委員会の審議から「社会学部」建設案が総長に提出される。これは、文学部と社会学研究科の間で学部からの一貫した教育ができない状態を解決するためであった。
1967年 「本学における社会学の研究体制」懇談会が設けられる。
しかしながら、1960年代後半にあった社会学部構想は、東大紛争の混乱の中、立ち消えになりました。
この「社会学部」建設案には、社会学研究科から社会学専修課程(A)と文化人類学が含まれていますが、講座編成の計画案をみると、5つの共通講座に加えて社会学科(12講座)、文化人類学科(11講座)、情報科学科(8講座)、社会政策学科(10講座)の計46講座からなっていて、今このような編成で学部が存在していてもおかしくないと思います。
さて、年表で確認したように、昔は駒場の文化人類学と国際関係論の修士・博士課程は社会学研究科に設置されており、1983年の総合文化研究科設立とともにこの二つは社会学研究科から移ります。
第2の社会学部構想が出てきたのは、1980年代の後半です。1987年に、新聞研究所、社会学・社会心理学専修を合併して「情報社会学部」を作る計画が明らかになります。この計画は日経の一面(日経1987年6/10朝刊)にもあがったくらいで、当時は注目を集めたのでしょう。
しかし、この第2の社会学部構想も諸事情で頓挫し、ご存知のように新聞研究所は社会情報研究所を経て情報学環・学際情報学府に、社会学研究科は1995年に人文科学研究科と合併して人文社会系研究科となります。こうしてみてみると、東大の人文社会系研究科の英語名がGraduate School of Humanities and Sociologyなのがよく分かります。人文学(Humanities)と社会科学の一つである社会学(Sociology)が等置されてるの、おかしいですよね。
情報社会学部の設置計画が大学院重点化の時期に先行しているのは、偶然なのかはよく分かりません。新聞研究所が情報学環になったのは、学部設置計画が頓挫した上の産物かどうかもわかりません。
ただ、日経の記事にもある通り、学部設置の計画が持ち上がった時には既に重点化の話も出てきています。限られたリソースをどこに配分するか、どうすれば一番メリットを享受できるかと考えて、社会学は文学部に残り、人文社会系研究科となっていったのでしょうか。それとも、人文社会系研究科を作ろうとする圧力に屈して(あるいは、大学院重点化の流れの中で新しく学部を作ることに対する反対意見もあったのかもしれません)、学部への移行を断念したのでしょうか。どうにしろ、国際関係と人類学が抜けた社会学研究科がどこかの院と合併するのは時間の問題だったのでしょう。
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