August 3, 2019

近況(1)日本で大学院生をすることについて最近思ったこと

近況報告

この1ヶ月研究から離れ、ひたすら論文を読んでいたので、近況と言うほどの近況もないのだが、時間ができたのでこの数ヶ月考えていることを書いてみる(と思ったのですが、最初の内容でだいぶ書いてしまったので、他の内容についてはまた日を改めて)。

- 日本のこと

    日本で夏休みを1ヶ月くらい過ごして、こちらに戻ってきて同じくらいの期間を過ごしていて、やはりマディソンの方が日々の生活ストレスが圧倒的に小さい。実家にいるときはいいのだが、東京はやはり人混みが激しく、忙しそうにしているし、行き交う人々が不寛容になってしまうような構造がある気がする。不文律としてのルールがたくさんあり、それを守っていない人に対して、白い目が投げかけられる、誰もサポートしようとしない、抽象的に言うと、そういう感じだろうか。そのルールも合理的かというと、そうではないものも結構あり、小さいストレスが蓄積する感じが強く印象に残っている。

    日々のニュースを見ていると、日本にいることで生じる生きづらさみたいなのが、大きくなっているのかもしれないと、不安にかられることもある。例えば、文科省が新たに発表した「高等教育段階の教育費負担」は、大学院生が対象に含まれていないことに対して、当事者たる大学院生を中心に批判が集まっている。これに関しては、いくつかの観点から思うところがあり、結論としては、日本は大学院生が研究する場所として、ますます適切ではない場所になっていくような気がしている。

    この新制度に対する批判として、大きく取り上げられているのが、Q&Aにおいて、なぜ大学院生が対象となっていないかに関する、文科省側の答えである。

    大学院生は対象になりません。(大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)

(http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/hutankeigen/1409388.htm)

    邪推になるが、おそらく財務省との交渉で大学院生分の予算を取ってこれなかったのだろうと思う。もちろん、実際のところは分からないのだが、この文章は建前としてもややお粗末な印象を拭えない。まず、20歳以上で就労している者とのバランス、という文章が理解に苦しむ。この文章が示唆している内容は、20歳以上になると通常は働いているのだから、大学院生には支援をしません、ということになる。後日、文科省はメディアからの質問に対して、他の高等教育課程(ないしそれに準ずる専門学校)がユニバーサル段階にあるのに比べ、大学院への進学はまだ1割にも満たされていないから、支援はしないと補足している。こちらの説明の方が説得力がある。大学や短大、高専といった教育段階は高卒と同じように全員が経験しうるものとなっており、もし家庭の経済的な理由で進学が断念された場合には格差の固定化につながるので、支援をするという訳だ。これに対して、大学院はまだ多くの人が進学するものではないので支援をしないという論理である。

 この背景には、義務教育以上の教育を原則として個人の投資の対象とみなす考えがあるだろう。この考えに従えば、高等教育は個人の投資の対象なので、原則として国が負担することに合理性はないが、国民の多くが進学する段階になると、その教育を享受できないことで機会の格差が結果の格差につながる可能性がある。そのために、一定の所得以下の世帯の学生に対して支援をする、という論理である。これに対して、大学院はまだ国民の多くが享受するほど普及している消費財ではなく、大学院生に対して支援をすると、進学していない(支援を受けられない)層との間で、公的負担の整合性がとれなくなってしまうので、対象外とする論理には、一定の説得力がある。

    もちろん、こういった教育を私的投資の対象とみる見方は、国が主導してきた大学院重点化とは、相容れない側面があることも事実だろう。当時国際的に見て規模の小さかった修士・博士学位取得者の需要が今後拡大することが見込まれたために、高度な専門知識を持った人材を供給していこうとしたのが、重点化政策の要点の一つだろう(本当にそうした需要の拡大があったのかは置いておく)。国主導の大学院拡大政策は、高等教育学歴が個人の投資の対象であるという考えだけでは正当化されない。高度な知識を持った人口が増えることで、イノベーションが促進され、国の競争力も維持されるという、教育の正の外部性を期待しなければ、このような政策は正当性がない(これも本当なのかはわからない)。重点化との整合性を取るならば、大学院生に対する支援を別途設けるべきだろう。それが卓越大学院やリーディング大学院制度なのかもしれないが、これは所得ベースの支援ではなく、メリットベースの支援になる。

    このように、大学院生を除外している今回の文科省の新制度は非難が集まる理由もわかるが、文科省が大学院卒を個人の教育投資の一つとしてみなしているのならば、公的負担との整合性の関連で、この除外は理解できる。一方で、大学院教育を公共財としてみなしてきたと言える一連の大学院重点化政策との非整合性を指摘することもできるだろう。ただし、今回の制度はあくまで所得ベースの支援なので、別途文科省が大学院教育改革の一環で、博士課程学生への支援を作ることはあるかもしれない(そこまでの交渉力があるかは別として)

    この文科省の説明もお粗末だったが、ツイッターなどで見かけた批判にも、首肯しかねるものがあった。まず、この政策では大学院生は除外されていた訳だが、もし既存の授業料免除制度に加えてこの制度が実施されるのであれば、大学の裁量で行ってきた制度で授業料が免除されてきた大学生が減るので、大学院生の授業料免除枠も拡大するのではないかと考えた。そのため、お粗末な説明は置いておくとしても、公的負担との兼ね合いを考えれば(支持できるかは置いておくとして)制度自体は理解できるものだった。しかし、そういった指摘を見つけることはできず、多くは文科省は大学院生を軽視しているとか、大学院生が研究しているという側面を無視しているとか(確かに重点化との整合性は微妙だが)、文科省の説明には書かれていないことで、結局この一連の騒動で私の印象に残ったのは、日本では大学院生の地位が低いという言説が再生産されていることだった。

 もちろん、この政策のしわ寄せで交付金が削減されたりしたら、結果的に大学院生への支援も少なくなる可能性もあるかもしれないが、それはわからない。将来に対して悲観的でいることは大切だが(そしてそれは恐らく正しいと思うが)、私が残念だったのは、文科省の件が取り上げられた時に、出てきた言説が大学院生の地位が低いというものばかりで、建設的な提案などはあまり見られなかったことだった。

    加えて、そもそも博士課程の学生が授業料を自分で払う仕組み自体がおかしいと指摘する声も見つけられなかった。私は修士課程は別として、博士の学生にはすでに専門的な知識やスキルがあるのだから、大学側が学生をTAとして雇用して、その分の費用は学部生の授業料を値上げすることで対応してもいいのではないかと考えているし、究極的には、大学側には博士課程の学生を採用する段階で、修業年限までの生活を保障することが必要だと思っている。しかし、そうした根本的な提案を見つけることはできなかった。

    つまるところ、文科省を批判する側も、提言ができずに既存の大学院生の地位の低さを憂うばかりでは、大学院に進学したいと考えている層に向けてネガティブなメッセージを伝えてしまう悪循環に陥っているのではないだろうか。今回の件を炎上というのであれば、この炎上によってわかったのは、日本では大学院生が研究することが難しくなっている(制度的にも、社会の言説的にも)ことだった。

    私は、安易に日本とアメリカの大学院教育を比較して、どうしろということは避けたいとは思っているのだが、やはり今回の件を見るにつけ、そこまで憂うのであれば、日本ではなくアメリカなどの大学院で博士号を取るのが、個人の戦略としては適っているのだろうと考えた。一般化することはできないが、私は東大で3年半所属した時に学んだ内容と、こちらの1年間のコースワークを比べると、後者の方が実りが大きかった(これに加え、先日済ませたプレリムで、こちらのコースワーク1年分以上の収穫があった)。日本の教育にも良さはあるが、効率性や包括性という意味では、アメリカの研究大学の博士プログラムの方が優れている。さらに、社会学というそこまで財政的に豊かではない分野でも、アメリカの研究大学に進学すれば、フェローシップ、TA/RAといった形で生活は5年間保証される場合が多い。もし今回の件も含めて、日本での大学院進学に不安を覚える人がいれば、アメリカの研究大学への留学を強く勧めたい。もちろん、そもそも一緒に研究したい人がいるところで研究することが望ましいわけなので、教育・研究環境や経済支援以外の理由で進学先を選ぶことも大切だ。しかし、そういった研究本位の理由で日本に残ることが、ますます難しくなっているのかなと、今回の一件を見て思った。

 最初の生きづらさの話に戻ると、社会を憂うことも大切なのだが、憂うばかりでどのようにすべきかを見失ってしまうと、その社会で生活するモチベーションも無くなってしまうのではないかと思う。失われた10年、20年、そしてそろそろ30年に差し掛かっているが、生まれた時点で成長がほとんど止まってしまったような社会でずっと生きていると、私自身、将来に対して積極的な展望を持てないこともある。別に中身なく将来は豊かになると思っていればいい、といっているわけではない。将来に対して悲観的でいることは大切だと思う。しかし、それと合わせて、どのような将来にすべきなのか、その考えを持っていないと、憂う社会が再生産されていくだけなのかもしれない。

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