久しぶりに正義を正義らしくみることのできた映画でした。
新聞記者が従事するのは統治するもの(政治家)なのか、それとも統治されるものか(国民)なのかを問うこの映画は、今の日本の政治状況に照らし合わせた時に絶妙ともいえるタイミングに登場し、「新聞は歴史の最初のラフなドラフト(news is the first rough draft of history)」「報道の自由は民主主義の基礎」といったフレーズを我々が記憶するべき教示として残していったとみることもできるかもしれません。
この映画が問いかけるメッセージはシンプルです。すなわち、新聞は誰のためにあるのか。夫の自殺という不本意な形で父の会社を継ぐことになり、社主としての不適格さに対する自覚をかいま見せながら、最後には大きな決断を下すキャサリン(ケイ)を好演するメリル・ストリープの演技には感嘆しましたが、彼女が対峙したホワイトハウスの人物としては、長年彼女の友人だったマクナマラ国務長官しか出てきません。そのことが、スクープの渦中にある畏友マクラナマ、新聞の出版差し止め命令によって被害を被るだろう、彼女が経営するワシントン・ポスト社の記者たち、あるいは株式公開をしたばかりのポスト社の利益を優先するのか、それとも報道の自由に従うのかに葛藤しつつも、結果的には正義を選択するという、ある意味ではわかりやすい構図を、さらに見栄えのよいものにしています。
考えてみると、ここまで爽快感のある、わかりやすい展開の映画も最近は少ないのかもしれません。スター・ウォーズですら近作では善悪の峻別が難しい人間の弱さを描いています。それらに比べると、ペンタゴン・ペーパーズで描かれているのは、出版差し押さえと権力への抵抗の間に揺れながらも、結局は正義を選択する新聞社の人間たち、という比較的シンプルな善悪論のようにもみえます。もちろん、史実に従わざる得ない以上、見ている側は報道の自由が勝つことを知っているわけなので、初めから結論がわかっている映画を見る際にかかるバイアスをもっていることは否定できません。
ここでは、そうした二項対立的な見方を批判しているわけではありません。現代ではむしろ珍しいということです。単純な構図を採用しているために、ケイや編集長ベンの奔走する姿は非常に快活で、見てて気持ちよいくらいです。しかしながら、人間の内面をえぐるような複雑さや、事実の事実性それ自体が依って立つ基盤を失っている現代のような社会状況を反映しているわけでもありません。そういう意味では、映画を見たあとに、爽快な気分になる映画らしい映画ともいえ、第一級のエンターテイメント作品だと思いました。
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