独立変数Xに測定誤差がある場合、係数bの値が真の値に比べてattenuateしてしまう。OLSにおいても測定誤差は問題になるが、固定効果モデルの場合には測定誤差が大きくなることが知られており、より重要な問題になる。
どれだけ関心のある変数に測定誤差があるのか、それを前提としてもeffect sizeに大きな違いはないのかなどを調べる時には、SIMEXと呼ばれる測定誤差のシミュレーションの手法がある。
Simulation-Extrapolation: The Measurement Error Jackknife
これまた同じくDaltonの論文から具体例
Changing Polygenic Penetrance on Phenotypes in the 20th Century Among Adults in the US Population
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October 3, 2019
標本データの正規性の検定
統計の授業で、調査から得られた標本データが正規分布に従っているかどうかは、ヒストグラムを描いたり、qq plotを出して視覚的に確かめるものしか紹介されていなかったが、実際には統計的に得られた確率分布が正規分布に従っているかどうか(あるいは複数の標本が同じ確率分布か)を検定する方法が存在する。その名も「Kolmogorov–Smirnov test」(コルモゴロフ・スミルノフ検定)という。
Rによる実装
https://data-science.gr.jp/implementation/ist_r_kolmogorov_smirnov_test.html
Daltonの授業で意外と知られていないと指摘されていた。彼の最近の論文では、p-valueのdistributionがuniformかどうかを検定する際に使われている(つまり、正規分布以外についても応用可能である)。
Testing the key assumption of heritability estimates based on genome-wide genetic relatedness
https://www.nature.com/articles/jhg201414
Rによる実装
https://data-science.gr.jp/implementation/ist_r_kolmogorov_smirnov_test.html
Daltonの授業で意外と知られていないと指摘されていた。彼の最近の論文では、p-valueのdistributionがuniformかどうかを検定する際に使われている(つまり、正規分布以外についても応用可能である)。
Testing the key assumption of heritability estimates based on genome-wide genetic relatedness
https://www.nature.com/articles/jhg201414
August 5, 2019
学歴からみる「死の格差」
社会学における社会階層論では、ある人口において社会経済的地位(socio-economic status, SES)によって資源へのアクセスが不均等に分配されていると考え、この規定要因や帰結について問います。SESの代表的な指標には学歴や職業などがあり、これ以外にも人種やジェンダーによる格差も研究対象とします。非常にざっくりとした説明になりますが、人口学的な関心に立つと、ある人口(population)レベルで見たときに、関心のある変数の分布や、下位集団による違い、その時間的な変遷に注目します。社会階層論ではSES同士の関連や、集団間の違いなどに関心があるため、社会階層論的な人口学(あるいは人口学的な社会階層論)では、ある集団をSESなどでサブグループに分けたときに、注目するアウトカムにどれだけ差があり、それがどのように規定されているのかに関心があると言えるでしょう。強調すべきは個人のアウトカム自体に関心があるのではなく、あくまで人口単位で見たときのアウトカムの分布に関心がある点ですが、これは本題からそれるので省略します。population perspectiveは、具体的にはどのような政策を取っていくかと考えるときには、非常に重要な視点です。
さて、簡単に言ってしまえば格差の帰結を問う社会階層論ですが、人生の終着地点である死にも社会階層による寿命や死亡年齢の分散(後述)といった格差があります。死は、これまでSESの違いによって蓄積してきた格差が最も如実に出ると言ってよいでしょう。アメリカにおける社会階層的な視点に立った死亡研究の嚆矢はエヴェリン・キタガワとフィリップ・ハウザーによるDifferential Mortality in the United Statesです。これ以降、社会階層と死亡の関連が、アメリカでは社会学、人口学、疫学、経済学など様々な分野の研究者によって進められています(注1)。
私は死亡研究の素人ですが、プレリムの一環で死亡研究の論文をこれでもか、これでもかと読む中で、2015年に一つのブレークスルーがあったと理解するに足りました。ノーベル経済学賞を受賞したAngus Deaton氏がAnne Case氏との共著で書いたRising morbidity and mortality in midlife among white non-Hispanic Americans in the 21st centuryでは、アメリカにおける非大卒・非ヒスパニック系白人の中年層の死亡率が上昇していることを指摘しています。
この論文は一言で言うと「バズ」りました。その後に出てきた死亡格差研究のほぼ全てがこの論文を引用しているといっても大げさではないでしょう。何がこの論文をそこまで引用させているかと言うと、「一部のアメリカ人の死亡率が上昇している」という非常にショッキングな事実です。
アメリカの平均余命(時点ごとにみた1人の人間が一生に生きる期待年数)は他の高所得国に比べると低いですが、それでも上昇し続けてきました。例えば、1900年時点の平均余命は全人口で47.3歳でしたが、1980年では73.7、2000年で76.8、2015年で78.8歳となっています。平均余命の伸びは20世紀前半は急激でしたが、後半になると緩やかになります。これは、死亡の構成要因が変化したことが背景にあります。平均余命は乳児や幼い子どもの死亡率が減少すると一気に伸びる特徴を持っているのですが、20世紀前半で減少した死因は子どもが感染しやすい感染症でした。これに対して、20世紀後半の死因の多くは慢性疾患(chronic disease)、つまり脳卒中やガンといった、発症までに生活習慣が関わる病気になり、これらは人生の後半において生じる病気のため、これらの死因が改善したとしても余命の伸びは緩やかになります。
このように、先行研究の多くは平均余命に注目して社会階層の格差を検討してきたのですが、Case and Deaton(2015)の一つのイノベーションは、年齢別死亡率に注目する、というものでした。平均余命自体は年齢別の死亡率から算出されるので、どの研究も必ず計算するわけですが、先行研究では死因別・年齢別の死亡率を、下位集団に着目してみるアプローチは取られていなかったのだろうと思います。具体的にどの死因が増加しているかと言うと、ドラッグやアルコール中国、あるいは自殺、アルコール摂取に起因する肝臓の病といったもので、Case and Deatonでは絶望死(death of despair)と名付けています。特に、アメリカではオピオイド(アヘン)の医療目的での使用が2000年代から広がり、この過剰摂取による中毒死が激増しています。この「絶望死」による死亡率の上昇は中年の非ヒスパニック系白人、特に非大卒層に特徴的にみられています。年齢別死亡率が上昇しても、それ以外の年齢の死亡率が減少すれば平均余命は伸びるわけですが。2016年にアメリカでは統計を取り始めてから「初めて」平均余命が減少したことが、大きなニュースになりました。アメリカでは人種による平均余命の格差が大きく、特に黒人層の平均余命は短いのですが、白人層の余命が縮んだ結果、両者の格差が減少するという事態になっています。高所得国において余命が縮小するという現象は異常です。
なぜ非ヒスパニック系白人、特に非大卒層における死亡率が上昇しているのか。多くの研究がその要因を検討しているのが現段階です。Case and Deatonは経済格差の拡大を指摘しています。精神的なストレスの増大に原因を求める研究もあります(Goldman et al. 2018)が、Crimmins and Zhang(2019)のレビュー論文によれば、まだこの研究は発展途上ということです。
こうした文脈の中で、人口学のトップジャーナルであるDemographyにSassonという人口学者がある論文を掲載しました(Sasson 2016)。この論文では、性別、学歴別、人種別の平均余命の変化を検討しているのですが、以上3つの指標でわけた16の集団でみると、ほぼ全てのグループで平均余命は1990年から2010年の間に拡大しているのですが、ある2つの集団だけが平均余命が減少していました。それは、Case and Deatonの論文とも似ていますが、非ヒスパニック系白人で教育年数12年以下(高校中退)の男性と女性です。特に、女性においては25歳まで生きた場合の平均余命が20年の間に3年ほど縮小しているという、衝撃的な結果です。
この論文もCase and Deatonほどではないにしても「バズ」っているのですが、批判が集まっています。2017年に人口学の若手スターであるHendiがこの論文における1つの決定的な弱点と、1つの方法的な課題を指摘しました(Hendi 2017)。
前者については、この論文はDual Data-Source Biasを抱えているというものです(なんかかっこいい名前)。このバイアスは何かというと、分子と分母の間で異なる二つのデータを使用することによって生じるバイアスのことを指します。アメリカではvital statisticsで学歴を聞いているため、Sassonの論文では分子(死亡)にはvital statsを使い、分母(曝露人口)にセンサスデータを使っているのですが、Hendiの批判は二つの調査では学歴の定義にズレがあるというものでした。センサスでは、self-reportで学歴が聞かれるのですが、vital statisticsの死亡統計では、死人が自分の学歴を答えることはできないので(死人に口無し)、知人や家族といった自分ではない誰かが死んだ人の学歴を記入します。Hendiによると、両者の間で学歴のミスマッチが生じ、これが小さくない値(学歴によって異なりますが、およそ20-40%で、さらに時点によってもミスマッチ率が異なる)であることが指摘されています。そのため、学歴別の死亡率が一体何を示しているのかわからないのです。本人が間違った学歴を答えているかもしれないし(例えば高校を卒業していないのに卒業していると答えるとか)、周りの知人が本人の学歴について誤解している可能性もあります。バイアス自体が悪いわけではなく、ここではあくまで学歴間の差に関心があるため分母と分子で聞き方が統一されていればいいのですが、その聞き方が異なるデータを使ってしまうと、出てきた値が信頼できるものではなくなってしまうと、Hendiは指摘するわけです。学歴は性別や人種に比べるとこうしたミスレポートが生じやすいため、学歴格差を前面に押し出したSassonの論文は批判されてしまいました。
これに対して、Hendiは死亡がリンクしているサーベイデータ(the National Health Interview Survey, NHIS)を使って(そのため分子と分母の学歴の定義が一緒)Sassonの分析のreplication(25歳時点の平均余命の学歴、人種、性別差)を試みているのですが、結論としてはSassonは余命の学歴差の拡大を過剰に見積もっていて、結果的に人種間の格差が縮小しているという点も、誤っていると指摘しました。
これに対して、Sassonも後日リプライを用意します(Sasson 2017)。このリプライでは、Hendiの使っているデータの方が信用できないという、これもまたエグい批判をしています。Sassonの批判はNHISは二つのエラーを抱えているというものです。
一つがsystematic errorです。NHISはnon-institutionalized citizensを対象としています。日本でいうと、施設に入っていない市民ということになりますが、具体的にはケア施設や、収監されていない人が対象になっています。そのため、人口全体に比べると相対的に「健康」な人しか含まれていないので、余命が高めに算出されます。これでも学歴差は求まるといえば求まるわけですが、どういう人が収監されやすいかと考えると、学歴にランダムに収監は生じないので、やはりバイアスはあるわけです。収監されていない低学歴層は、収監されている人も含めた低学歴層に比べると特に「健康」であると考えられるので、学歴差が過少に見積もられるということでしょう。
もう一つが、ランダムエラーです。要するに、NHISはサンプルサイズがそこまで(といってもセンサスに比べると)大きくないため、信頼区間が大きく出てしまい、集団間の差が統計的に有意なものか判断できないとします。さらに、SassonはできるだけmisreportによるDual Data-Source Biasが生じないようにいくつかの学歴をマージしていると主張しています。
Sassonのリプライを持って一応論争は幕を閉じたのですが、これがつい2年前の出来事です。on-goingで日々新しい研究が出てきているので、この記事も数年後には古いものになるでしょう。
少し寄り道してしまいましたが、Hendiの二つ目の批判を述べていませんでした。個人的には、こちらの批判の方がより根本的で、社会階層研究の人も興味を持つのではないかと思います。その批判とは、学歴分布の変化に伴うselectivityの変化というものです。
平均余命は、periodレベルで求めます。これは合計特殊出生率の算出とも似ているのですが、例えば2010年の平均余命というのは、2010年の年齢別の人口を取ってきた上で(1年間の間にも人は死ぬので、2010年のちょうど真ん中の時点の人口、mid-year populationを取ってくるのが理想です)、年齢別の死亡率(age specific mortality rate)を算出します。例えば、2010年時点で40-44歳だった人が100人いるとして、このうち2人が死ぬと、死亡確率は2/100になります(死亡率rateと死亡確率probabilityは異なり、前者から後者に変換するのですが、両者の違いに興味がある人は形式人口学の世界に入ってください)。このように求めていくと、年齢別の死亡確率が求まるのですが、ここで、2010年時点の人口を、ある年に生まれたコーホートがこの確率に従うと考えるのを、synthetic cohortといいます。2010年に生きている人は、同じ年には生まれていないわけですが、仮に同じ年に生まれていたとしたら、と考えるわけです。その上で0歳の時の人口を仮想的に設定して(通常100,000)、この10万の人たちが最終的に全員死ぬまでの変遷を作るのが生命表(life table)という手法です。
生命表の話が長くなりましたが、この「平均余命はsynthetic cohortによって求まるperiod estimatesである」という点は重要です。特に学歴間の死亡格差という文脈では超重要になります。なぜなら、2010年時点で70歳の人の「高卒未満」と2010年時点で30歳の人における「高卒未満」の意味合いは、多くの社会では全く異なるからです。ここにHendiが強調するcompositional shiftによるselectivityの変化があります。
ちょっとおかしく聞こえるかもしれませんが、学校教育を終える頃に死ぬ人はあまりいません。大多数がもっと後に死にます。そのため、2010年時点の「高卒未満」の平均余命というのは、相対的にネガティブなセレクションがなかった高齢者と、現在のように強いネガティブ・セレクションが働いている若年・中年層によって構成されているのです。さらに、1990年における「高卒未満」の方が、全体としてこのネガティブ・セレクションは弱かったと言えるでしょう(前者の時点で死亡がよく起こるような年齢の人が20歳前後の時は、まだ高校修了率が高くなかった)。そのため、1990年における「高卒未満」と2010年における「高卒未満」の平均余命を比較して、高卒未満の余命が減少しているといっても、それは同じ集団を比べているのか?という問題が生じるのです。
こうした問題は学歴分布の下位20%といった相対的な学歴を考慮すれば生じないのですが、名目的な学歴分類に従って時点ごとの余命などを比較したりすると、もしその間に教育拡大を経験した集団が入ると、全体としてみれば余命は改善しているのに、セレクティビティのことなる年齢集団が混ざった学歴の余命が縮まっているように見えることがあります(Dowd and Hamoudi 2014)。これをLagged Selection Biasといいます。そのため、そもそもの問題として学歴間の余命の格差は拡大しているのか、していないのかは、こうしたbiasも含んだ上での推定になっているということです。
ちなみに、日本ではvital statisticsで学歴が尋ねられていないので、学歴別の死亡率や余命を出すことはできません。ただ、いくつかの仮定をおけば、学歴の死亡格差を見ることができます。例えば、今月の雑誌「統計」では、非国際移動・非学歴上昇・誤差なしを仮定して、国勢調査が10年おきに聞く学歴から、10年生存確率を出していました。これによると、2000年の男性70-74歳の10年後(2010年)生存確率は、高卒で75.6%、大卒以上で86.8%ということです。この年齢層で国際移動、学歴上昇は少ないと考えられるので、日本でも学歴による差があるのだろうと思われます。
教育社会学や社会階層の研究者は、教育拡大の帰結などを問うことが多いのですが、学歴からみる「死の格差」においても、分布の変化(教育拡大)は重要なインプリケーションを持っているのです。
注1:余談ですが、私は最近までエヴェリン・キタガワは日系アメリカ人だと思っていたのですが、これは誤りでした。彼女はポルトガル系アメリカ人なのですが、シカゴで日本生まれの宗教学者ジョセフ・キタガワ氏と結婚して名字を変えたようです。ちなみに、私は最近のニュースでジャニー・キタガワとエベリン・キタガワの関係性を疑ったことがあるのですが、夫のキタガワ氏の名字は喜多川ではなく北川でした。さらにちなむと、ハウザーは社会階層論の大家ロバート・ハウザー(ウィスコンシン大学名誉教授)の叔父です。
さて、簡単に言ってしまえば格差の帰結を問う社会階層論ですが、人生の終着地点である死にも社会階層による寿命や死亡年齢の分散(後述)といった格差があります。死は、これまでSESの違いによって蓄積してきた格差が最も如実に出ると言ってよいでしょう。アメリカにおける社会階層的な視点に立った死亡研究の嚆矢はエヴェリン・キタガワとフィリップ・ハウザーによるDifferential Mortality in the United Statesです。これ以降、社会階層と死亡の関連が、アメリカでは社会学、人口学、疫学、経済学など様々な分野の研究者によって進められています(注1)。
私は死亡研究の素人ですが、プレリムの一環で死亡研究の論文をこれでもか、これでもかと読む中で、2015年に一つのブレークスルーがあったと理解するに足りました。ノーベル経済学賞を受賞したAngus Deaton氏がAnne Case氏との共著で書いたRising morbidity and mortality in midlife among white non-Hispanic Americans in the 21st centuryでは、アメリカにおける非大卒・非ヒスパニック系白人の中年層の死亡率が上昇していることを指摘しています。
この論文は一言で言うと「バズ」りました。その後に出てきた死亡格差研究のほぼ全てがこの論文を引用しているといっても大げさではないでしょう。何がこの論文をそこまで引用させているかと言うと、「一部のアメリカ人の死亡率が上昇している」という非常にショッキングな事実です。
アメリカの平均余命(時点ごとにみた1人の人間が一生に生きる期待年数)は他の高所得国に比べると低いですが、それでも上昇し続けてきました。例えば、1900年時点の平均余命は全人口で47.3歳でしたが、1980年では73.7、2000年で76.8、2015年で78.8歳となっています。平均余命の伸びは20世紀前半は急激でしたが、後半になると緩やかになります。これは、死亡の構成要因が変化したことが背景にあります。平均余命は乳児や幼い子どもの死亡率が減少すると一気に伸びる特徴を持っているのですが、20世紀前半で減少した死因は子どもが感染しやすい感染症でした。これに対して、20世紀後半の死因の多くは慢性疾患(chronic disease)、つまり脳卒中やガンといった、発症までに生活習慣が関わる病気になり、これらは人生の後半において生じる病気のため、これらの死因が改善したとしても余命の伸びは緩やかになります。
このように、先行研究の多くは平均余命に注目して社会階層の格差を検討してきたのですが、Case and Deaton(2015)の一つのイノベーションは、年齢別死亡率に注目する、というものでした。平均余命自体は年齢別の死亡率から算出されるので、どの研究も必ず計算するわけですが、先行研究では死因別・年齢別の死亡率を、下位集団に着目してみるアプローチは取られていなかったのだろうと思います。具体的にどの死因が増加しているかと言うと、ドラッグやアルコール中国、あるいは自殺、アルコール摂取に起因する肝臓の病といったもので、Case and Deatonでは絶望死(death of despair)と名付けています。特に、アメリカではオピオイド(アヘン)の医療目的での使用が2000年代から広がり、この過剰摂取による中毒死が激増しています。この「絶望死」による死亡率の上昇は中年の非ヒスパニック系白人、特に非大卒層に特徴的にみられています。年齢別死亡率が上昇しても、それ以外の年齢の死亡率が減少すれば平均余命は伸びるわけですが。2016年にアメリカでは統計を取り始めてから「初めて」平均余命が減少したことが、大きなニュースになりました。アメリカでは人種による平均余命の格差が大きく、特に黒人層の平均余命は短いのですが、白人層の余命が縮んだ結果、両者の格差が減少するという事態になっています。高所得国において余命が縮小するという現象は異常です。
なぜ非ヒスパニック系白人、特に非大卒層における死亡率が上昇しているのか。多くの研究がその要因を検討しているのが現段階です。Case and Deatonは経済格差の拡大を指摘しています。精神的なストレスの増大に原因を求める研究もあります(Goldman et al. 2018)が、Crimmins and Zhang(2019)のレビュー論文によれば、まだこの研究は発展途上ということです。
こうした文脈の中で、人口学のトップジャーナルであるDemographyにSassonという人口学者がある論文を掲載しました(Sasson 2016)。この論文では、性別、学歴別、人種別の平均余命の変化を検討しているのですが、以上3つの指標でわけた16の集団でみると、ほぼ全てのグループで平均余命は1990年から2010年の間に拡大しているのですが、ある2つの集団だけが平均余命が減少していました。それは、Case and Deatonの論文とも似ていますが、非ヒスパニック系白人で教育年数12年以下(高校中退)の男性と女性です。特に、女性においては25歳まで生きた場合の平均余命が20年の間に3年ほど縮小しているという、衝撃的な結果です。
この論文もCase and Deatonほどではないにしても「バズ」っているのですが、批判が集まっています。2017年に人口学の若手スターであるHendiがこの論文における1つの決定的な弱点と、1つの方法的な課題を指摘しました(Hendi 2017)。
前者については、この論文はDual Data-Source Biasを抱えているというものです(なんかかっこいい名前)。このバイアスは何かというと、分子と分母の間で異なる二つのデータを使用することによって生じるバイアスのことを指します。アメリカではvital statisticsで学歴を聞いているため、Sassonの論文では分子(死亡)にはvital statsを使い、分母(曝露人口)にセンサスデータを使っているのですが、Hendiの批判は二つの調査では学歴の定義にズレがあるというものでした。センサスでは、self-reportで学歴が聞かれるのですが、vital statisticsの死亡統計では、死人が自分の学歴を答えることはできないので(死人に口無し)、知人や家族といった自分ではない誰かが死んだ人の学歴を記入します。Hendiによると、両者の間で学歴のミスマッチが生じ、これが小さくない値(学歴によって異なりますが、およそ20-40%で、さらに時点によってもミスマッチ率が異なる)であることが指摘されています。そのため、学歴別の死亡率が一体何を示しているのかわからないのです。本人が間違った学歴を答えているかもしれないし(例えば高校を卒業していないのに卒業していると答えるとか)、周りの知人が本人の学歴について誤解している可能性もあります。バイアス自体が悪いわけではなく、ここではあくまで学歴間の差に関心があるため分母と分子で聞き方が統一されていればいいのですが、その聞き方が異なるデータを使ってしまうと、出てきた値が信頼できるものではなくなってしまうと、Hendiは指摘するわけです。学歴は性別や人種に比べるとこうしたミスレポートが生じやすいため、学歴格差を前面に押し出したSassonの論文は批判されてしまいました。
これに対して、Hendiは死亡がリンクしているサーベイデータ(the National Health Interview Survey, NHIS)を使って(そのため分子と分母の学歴の定義が一緒)Sassonの分析のreplication(25歳時点の平均余命の学歴、人種、性別差)を試みているのですが、結論としてはSassonは余命の学歴差の拡大を過剰に見積もっていて、結果的に人種間の格差が縮小しているという点も、誤っていると指摘しました。
これに対して、Sassonも後日リプライを用意します(Sasson 2017)。このリプライでは、Hendiの使っているデータの方が信用できないという、これもまたエグい批判をしています。Sassonの批判はNHISは二つのエラーを抱えているというものです。
一つがsystematic errorです。NHISはnon-institutionalized citizensを対象としています。日本でいうと、施設に入っていない市民ということになりますが、具体的にはケア施設や、収監されていない人が対象になっています。そのため、人口全体に比べると相対的に「健康」な人しか含まれていないので、余命が高めに算出されます。これでも学歴差は求まるといえば求まるわけですが、どういう人が収監されやすいかと考えると、学歴にランダムに収監は生じないので、やはりバイアスはあるわけです。収監されていない低学歴層は、収監されている人も含めた低学歴層に比べると特に「健康」であると考えられるので、学歴差が過少に見積もられるということでしょう。
もう一つが、ランダムエラーです。要するに、NHISはサンプルサイズがそこまで(といってもセンサスに比べると)大きくないため、信頼区間が大きく出てしまい、集団間の差が統計的に有意なものか判断できないとします。さらに、SassonはできるだけmisreportによるDual Data-Source Biasが生じないようにいくつかの学歴をマージしていると主張しています。
Sassonのリプライを持って一応論争は幕を閉じたのですが、これがつい2年前の出来事です。on-goingで日々新しい研究が出てきているので、この記事も数年後には古いものになるでしょう。
少し寄り道してしまいましたが、Hendiの二つ目の批判を述べていませんでした。個人的には、こちらの批判の方がより根本的で、社会階層研究の人も興味を持つのではないかと思います。その批判とは、学歴分布の変化に伴うselectivityの変化というものです。
平均余命は、periodレベルで求めます。これは合計特殊出生率の算出とも似ているのですが、例えば2010年の平均余命というのは、2010年の年齢別の人口を取ってきた上で(1年間の間にも人は死ぬので、2010年のちょうど真ん中の時点の人口、mid-year populationを取ってくるのが理想です)、年齢別の死亡率(age specific mortality rate)を算出します。例えば、2010年時点で40-44歳だった人が100人いるとして、このうち2人が死ぬと、死亡確率は2/100になります(死亡率rateと死亡確率probabilityは異なり、前者から後者に変換するのですが、両者の違いに興味がある人は形式人口学の世界に入ってください)。このように求めていくと、年齢別の死亡確率が求まるのですが、ここで、2010年時点の人口を、ある年に生まれたコーホートがこの確率に従うと考えるのを、synthetic cohortといいます。2010年に生きている人は、同じ年には生まれていないわけですが、仮に同じ年に生まれていたとしたら、と考えるわけです。その上で0歳の時の人口を仮想的に設定して(通常100,000)、この10万の人たちが最終的に全員死ぬまでの変遷を作るのが生命表(life table)という手法です。
生命表の話が長くなりましたが、この「平均余命はsynthetic cohortによって求まるperiod estimatesである」という点は重要です。特に学歴間の死亡格差という文脈では超重要になります。なぜなら、2010年時点で70歳の人の「高卒未満」と2010年時点で30歳の人における「高卒未満」の意味合いは、多くの社会では全く異なるからです。ここにHendiが強調するcompositional shiftによるselectivityの変化があります。
ちょっとおかしく聞こえるかもしれませんが、学校教育を終える頃に死ぬ人はあまりいません。大多数がもっと後に死にます。そのため、2010年時点の「高卒未満」の平均余命というのは、相対的にネガティブなセレクションがなかった高齢者と、現在のように強いネガティブ・セレクションが働いている若年・中年層によって構成されているのです。さらに、1990年における「高卒未満」の方が、全体としてこのネガティブ・セレクションは弱かったと言えるでしょう(前者の時点で死亡がよく起こるような年齢の人が20歳前後の時は、まだ高校修了率が高くなかった)。そのため、1990年における「高卒未満」と2010年における「高卒未満」の平均余命を比較して、高卒未満の余命が減少しているといっても、それは同じ集団を比べているのか?という問題が生じるのです。
こうした問題は学歴分布の下位20%といった相対的な学歴を考慮すれば生じないのですが、名目的な学歴分類に従って時点ごとの余命などを比較したりすると、もしその間に教育拡大を経験した集団が入ると、全体としてみれば余命は改善しているのに、セレクティビティのことなる年齢集団が混ざった学歴の余命が縮まっているように見えることがあります(Dowd and Hamoudi 2014)。これをLagged Selection Biasといいます。そのため、そもそもの問題として学歴間の余命の格差は拡大しているのか、していないのかは、こうしたbiasも含んだ上での推定になっているということです。
ちなみに、日本ではvital statisticsで学歴が尋ねられていないので、学歴別の死亡率や余命を出すことはできません。ただ、いくつかの仮定をおけば、学歴の死亡格差を見ることができます。例えば、今月の雑誌「統計」では、非国際移動・非学歴上昇・誤差なしを仮定して、国勢調査が10年おきに聞く学歴から、10年生存確率を出していました。これによると、2000年の男性70-74歳の10年後(2010年)生存確率は、高卒で75.6%、大卒以上で86.8%ということです。この年齢層で国際移動、学歴上昇は少ないと考えられるので、日本でも学歴による差があるのだろうと思われます。
教育社会学や社会階層の研究者は、教育拡大の帰結などを問うことが多いのですが、学歴からみる「死の格差」においても、分布の変化(教育拡大)は重要なインプリケーションを持っているのです。
注1:余談ですが、私は最近までエヴェリン・キタガワは日系アメリカ人だと思っていたのですが、これは誤りでした。彼女はポルトガル系アメリカ人なのですが、シカゴで日本生まれの宗教学者ジョセフ・キタガワ氏と結婚して名字を変えたようです。ちなみに、私は最近のニュースでジャニー・キタガワとエベリン・キタガワの関係性を疑ったことがあるのですが、夫のキタガワ氏の名字は喜多川ではなく北川でした。さらにちなむと、ハウザーは社会階層論の大家ロバート・ハウザー(ウィスコンシン大学名誉教授)の叔父です。
May 20, 2019
博士課程1年目春学期の振り返り
奨学金をいただいている財団向けに作成した今学期の振り返りを兼ねた報告書になる予定の文章です。以前書いたものを適宜編集しています。
博士課程1年目の春学期(2学期目)も基本的にはコースワークをこなす日々だった。今学期履修したのは社会学部で開講されている統計学、人口学の大学院セミナーと形式人口学、および人口学研究所が開いているセミナー二つ、そして政治科学部の質的調査法だった。以下、この順にコースワークの振り返りから始め、最後に研究について今考えていること、何をやっているかを簡単に書いている。
コースワーク(1):統計学
まず統計の授業だが、先学期は今学期と違う先生が線形回帰までを教えてくれ、今学期は社会学の因果推論ではよく知られた先生が因果推論をメインに講義を担当してくれた。先学期はSoc361で、今学期がSoc362になる。番号でわかる方にはわかるかもしれないが、この授業は学部生も履修することのできる授業である。ただし、社会学博士課程の必修になっているほか(一定の条件を満たすとwaiveは可能)、隣接領域(社会福祉、教育政策、教育心理など)の院生も多く取っていた。したがって、学部生にとっては恐らく難易度はかなり高い授業だと思われる。私も一学期間とってみて、レベル的には700番台(院生向けの授業の中級?)くらいだなと感じた。
因果推論と一口に言っても奥が深いが、この授業では観察データから因果効果をestimate(推定)する方法(傾向スコアなど)、及び因果効果をidentify(同定?)する方法(RDD, IVなど)の双方がカバーされていて、因果推論の世界は一通りカバーされていた印象である。ただ、時折effect heterogeneityの話を急に深く踏み込んだり、先生の最近の関心であるネットワークにおける因果効果の例が出てくるなど、応用的な話もあり、全体としては中級と上級の間くらいのラインアップだった。
この授業の特筆すべき特徴は、DAGと呼ばれるグラフィカルに因果推論にアプローチする方法がほぼ全ての授業で紹介されている点である。後半の授業になると、例えばDIDの回であれば、最初にエコノメチックな紹介をした後、これをDAGで表現するとどうなるかという、マニアックといえばマニアックな世界に入る構成になっていた。DAGのメリットは多くあるが、理論の中で考える変数間の関係性をcausal, cofounding, colliderの三つに分けることで、どのようなモデルを自分が想定しているのか、またその想定のもと変数を条件づけていくとどこでまずいことが起こるか(具体的にはcolliderを条件づけることによるendogenous selection bias)を、非常に分かりやすく可視化してくれる点にあると考えている。また、DAGのpath modelで表される変数間の関係性はそのまま分析する人が想定する理論(data generating process)へと直結するため、potential outcome modelを想定した上で、理論と実際のモデリングの世界を架橋してくれる道具でもある点が非常に有益である。
私は授業を取る前に、因果推論に対してはエコノメや最近では政治学の人がかなり時間をかけて取り組んでいるテーマで、そういう人たちは(当たり前といえば当たり前だが)、実験的な環境における因果効果を理想とした上で、どう現実を実験の環境に近づけるかという思考で研究をしているという印象を持っていた。そういうこともあり、この授業の先生も、観察データからいかに因果効果を導くかに関心があり、ともすればそれ以外の記述的な研究の価値をあまり評価していないのではないかと思っていた節があった。
この授業を取った嬉しい誤算の一つは、先生がそうした因果推論至上主義(またの名を因果推論警察、私はそんな言葉を使ったりはしませんが)の流れにいる人では必ずしもなかったということだった。どちらかというと、因果推論の力を認めつつも、その短所も同時に指摘することで、従来主流だったアプローチが必ずしも意味をなさないわけではないと示唆することが多かったように思う。
どれだけエコノメの授業で強調されるのかは分からないが(ある程度は強調されるとは思うが)、どの因果推論のアプローチも、外的妥当性の問題を抱えている。例えばIVやRDDを使った推定はlocal average treatment effectになるため、その因果効果がどれだけ一般化できるのかについてはわからないところが多々ある。傾向スコアも、まずは観察される変数でバランスできているのかという問題と、マッチングに関してはマッチされなかった集団を分析から除くことでどれだけ求められる因果効果が集団全体に適用可能なのかも分からない。そもそも実験的なアプローチについても、対象となる集団の代表性については問題とならないため、因果効果を求めても外的妥当性の問題はなお残る。
この授業を取るまでは、固定効果なども含めてエコノメから発展してきたこれらの手法は非常に強力で、やはりどの研究者もこうしたアプローチを分析に取り込むべきなのだろうかと考えていたこともあった。授業をとってみて変わった点は、当たり前に聞こえるかもしれないが、因果推論的なアプローチを取るかは研究上の問いによるというものである。
何かしらの手法を駆使して因果効果を求めることが適切な問いである場合もあるだろうが(特に介入が可能な政策効果などの場合)、外的妥当性が議論のコアになるような問題については、必ずしもこのアプローチを取る必要はないと考えている。なにより、社会学あるいは人口学的な志向を持つ社会学的な研究では、この外的妥当性の考えに、大きな比重を置いているという印象を持っている。
代表性を気にしなければ、依拠するサンプルが何だろうと因果効果を求めて一つの貢献になるのかもしれない。しかし、一旦外的妥当性を気にし始めると、その分析が想定している母集団とは一体何なのかという疑問が解決しない限り、その研究を評価することが難しくなる。少なくとも人口学、あるいは人口学的な志向を持って研究している社会学の人にとっては、想定する母集団がまずあり、その集団において何が起こっているかを理解しようと考える傾向が強い(と私は勝手に感じている)ので、まずは集団の明確な定義が必要になる。また、社会制度や規範の変化に伴って学歴と結婚、年齢と性別役割意識の関係は変わったのか、あるいはそれらの関係は国ごとに異なるのか、という構成的な(constitutive)問いを立てることも多いため、こういう研究の場合でも、対象とする母集団が明確になっていないと、どの集団とどの集団を比較しているのかよくわからなくなってくる。
以上述べたような問いに関心がある場合は、ひとまず因果推論的な考えは棚に上げて記述的にみてみることも大切かなと、改めて考え直している。もちろん、例えば学歴と結婚の関係が1960年代と2000年代で変わった場合、可能性としては(1)学歴の結婚に対する因果効果が本当に変わった、という説と(2)学歴と結婚の間にある交絡要因が変わったという説の少なくとも二つが考えられるが、こういった時点間で因果関係が変わっていることに対して、因果推論の人はどのようにアプローチするのか、私はまだ(どれくらい意義があるかも含めて)よく分かっていない。なぜかというと、これまで授業やそれ以外の機会で読んできた因果推論の文献は、ある特定の集団を対象にした時の因果効果に言及することがほとんどで、その関係が他の集団、あるいは同じ集団でも異なる時点で異なることに関心を向ける研究は知らないからである。
一般に、まずはassociationがあるかを確認して、それが本当にcausalなのかを確かめようというステップで因果推論の利点が紹介されることが多いように感じるのだが、上記のような問いはまさしくassociationalな問いで、数えきれない交絡があると考えられる。そういう現象に対して、どうやってcausalな問いを組みこんでいくか、そもそもそういう問いにどれだけ意味があるのかは、今後考えていく必要があるだろう。少し踏み込んで言えば、今までassociationからcausationへという、両者は架橋できるという意味を含んだ言葉で回収されてきたassociationalな問いの一部は、実はconstitutionalな問いといったほうが適切なのであって、constitutionalな問いとcausalな問いを架橋することは一見すると簡単そうに思えて、実はかなり距離があって難しいのではないかというものだ。先の例を使うと、「学歴と結婚の関係はこの50年間で変わったのか」という問いと、「学歴が結婚に対して与える因果効果はどれくらいか」という問いの二つは、似ているように見えて、実は翻訳が不可能なのではないか、と言うことができる。そういう点について改めて考える機会を与えてくれた今学期の統計の授業だった。
コースワーク(2):人口学
次に人口学である。人口学に関連する授業は多い。先学期の振り返りでも述べたが、私は社会学部の博士課程に在籍するとともに、社会学部と関係の深い人口学研究所にもトレイニーとして所属している。本来、研究所と学部は独立のはずだが、なぜか本学では人口学研究所に所属すると社会学部から要求されるコースワークのrequirementが増える。具体的には学部の指定する授業と、人口学研究所の主催するセミナーに出席することが義務付けられる。
したがって、今学期もそのノルマに従うことになった。月曜日には先学期と引き続きpopulation and societyという名前の文献購読のセミナーに出る。火曜日と木曜日の午前中は形式人口学(人口学方法論)の授業、火曜日はその授業が終わった後に人口学研究所が主催するセミナー(外部のスピーカーを呼んで報告をしてもらう形式)。水曜日にはもう一つの人口学研究所の主催するトレーニングセミナーに出た。
先学期は月曜日の文献購読セミナーが最もついていくのが辛かったことは前回の振り返りで述べたが、今学期は新しく上級生が数人加わった以外は、講師・学生とも同じラインナップで、この授業をいかに負担なくこなせるかが課題だった。結論から言えば、多少の慣れと工夫のおかげで前回よりも負担なく終えることができた。
「慣れ」からいえば、メンバーも前回と同じだったので、緊張感も前回ほどはなく、自分の思ったことをすぐ言える雰囲気にはなっていた。また、わからないときにどう言う表現を使えばいいのか、いい意味での「ごまかし」に関するスキルも他の学生を見ながら会得していけた気がしている。
今学期の文献購読セミナーでは多少の「工夫」もしてみた。まず文献を読み過ぎないことである。もちろん、時間が許す限り文献を丁寧に読み込むことは重要だが、アメリカの博士課程教育で課される文献の数は日本に比べると明らかに多く、後述する政治学の質的調査法もとった今学期は文献購読のセミナーを二つとることになり、先学期よりも読まなくてはいけない文献が倍以上になった。丁寧に読んでいては読み終わらないのだ。ではどうするかというと、論文の要点を素早く掴むスキルを身につける必要がある。さらに、時間をかけすぎると他の課題を済ませる余裕がなくなるので、今学期はこの日までに読み終わり質問をポストする(この文献購読のセミナーでは前日までに文献を読んで浮かんできた疑問点をウェブポータルにポストすることになっていた)、ポストしたら当日までは文献を読み返さないというポリシーを取ることにした。こうすることで、期日までにアサインされた論文を読みきらなくてはいけない動機が生まれるし、終えてからは他の課題に集中できる。
こういった「工夫」は丁寧に文献を購読してこそ研究と考える見方からすると「邪道」に思われるかもしれない。私も、論文を読むときは要点だけではなく細部まで理解する必要があると考えていた。その考えはまだ捨ててはいないが、(どこまで一般化できるかわからないが、少なくとも社会学では)アメリカの大学院での教育では個々の論文の論点よりも、アサインされた論文に共通するテーマや対立する観点、比較してより深く理解できる先行研究における課題などに重点が当てられる。訓詁学的に論文を丁寧に読み込む作業よりも(もちろんそういった作業は自分の論文を執筆するときには必要になるだろうが)全体の流れの中に文献を位置付けて体系的に議論する力の方が優先されるのだろうと現在は考えている。重要なのは、これらは対立するものではなく、場面によって使い分けるべきスキルである点だ。よくアメリカの教育では文献が大量に課され、「スキミング」のスキルが必要になるとされるが、別にそのスキミング能力を身につけること自体が文献を大量に課す目的なのではなく、数多くの文献から特定の論文がなぜアサインされ、アサインされた論文間の関係性を把握した上で全体の議論を掴むことが目的なのかもしれないと今は考えている。結果的にそうした全体の流れをつかむ力は論文を書く際のliterature reviewに通じるのだろう。
そういうわけで、人口学の文献購読セミナーについては前回よりもかなり負担なくこなすことができたので、その点はコースワークを通じて得ることのできた収穫なのではないかと考えている。もう一つの文献購読セミナーは政治学部の質的調査法でこれは色々と別の難しさがあったのだが、その点については後述する。
人口学の方法論、形式人口学については先学期が基礎、今学期が応用となっていて、先生も違う人になった。指導教員いわく、本学の応用形式人口学は人口学部を持つ他の大学(バークリーなど)のプログラムと競える水準にあると言われ、期待半分、ついていけるのか不安半分の気持ちで受講した。指定された教科書は形式人口学の世界では定番中の定番とも言えるペンシルバニア大学のPreston教授らが書いたDemographyという本で、基本的にはこの本に準拠して授業が進んでいった。
この本については、日本にいた時からその評判を聞いていたので、以前勉強会で読み通したことがあったのだが、その当時は何をいっているのかよくわからないところばかりだった。もちろん、今学期授業を受けてみてもまだわからないところはあるのだが、講師の先生の解説もあり理解度は非常に深まった。特に形式人口学にはいくつかの人口モデルがあるのだが、stable populationに関するモデルのコアな部分を掴めたのは非常に大きな経験だった。また、人口予測のモデルについても学んだのだが、このモデルの応用例で、私が自分の研究で取り組みたかった人口学的な観点から社会階層・社会移動を分析するモデルを扱ってくれたのは非常にありがたかった。
この授業の特徴は、ほぼ毎週のように課題が出るのだが、(1)統計ソフトウェアのRのggplotと呼ばれるvisualizationのツールを使って(2)課題をできるだけ可視化して提出することが推奨された。もちろん、最初はエクセルを使って死亡率を計算して、といった風にできるのだが、人口予測のシミュレーションなどに入り出すと統計ソフトを使用する必要が出てくる。この授業ではRのプログラミングなどは教えてくれなかったので、毎回課題に取り組むときはみんなで協力して知恵を振り絞った。興味深いことに必要に駆られると人は学び始めるもので、私はRと並んで社会科学ではよく使用されるstataを研究では使用しているのだが、この授業でon the jobにRのトレーニングを受けた(というかほぼ自学自習をした)結果、Rの方が時と場合によっては使いやすいと感じるまでになったのは大きな収穫だった。
社会学に限らず、社会科学ではdata visualizationの重要性が指摘されるようになっており、近年これに関する教科書も相次いで出版されている。私も学期中に人口学研究所の支援を受けて参加したアメリカ人口学会では、学会に先立ってdata vizのワークショップが開催されており、これに参加した。この形式人口学の授業は2年おきに開講されているが、今回が初めてRを本格的に導入しdata vizを強調した年だったので、そこまでオーガナイズされてはいなかったがdata vizのエッセンスをつかむことはできたので、今後はこのスキルを伸ばしていきたい。
最後に、今学期の裏テーマである「批判的人口学」について。critical demographyは本学の界隈ではホットなトピックになりつつある。既存の人口学的研究はbroken down by sex and ageというスローガンに代表されるように、性別と年齢に分けた上で死亡率や女性の出生などについてみることが一般的だった。こういった分析ではsexは所与のものとして考えられ、出生は女性が行うもの、としてみなされるわけだが、社会学やジェンダー研究によってその想定が必ずしも適用できるものではなくなってきている。sexual identifyはどの時点でも固定ではなく、変わりうるものであり、同様にrace/ethnicityについても近年の研究では自らのracial identityに揺らぎがある現象(racial fluidity)が注目を集めている。社会学的な観点に立てば、こうした個人の社会的なアイデンティティは社会的に構築される面もあるため、これまでの人口学が扱ってきたようなそれらを所与のものとする仮定は批判の対象となる。
批判的人口学というのは、社会学で重視され、議論されてきたこうした個人のアイデンティティを人口学が所与の変数として扱ってきたことを反省し、sex/gender、race/ethnicity、あるいはそれらのintersection、さらにレイシズムといった集合的な現象をどのように人口学的な分析に組み込むかというもので、文献購読セミナーでは時折議論する機会があった。形式人口学では伝統的な方法に則ったアプローチが紹介されるにとどまったが、講師の先生は今後これまでの人口学が自明としてきた想定を批判的に再検討した上で、新しい方法的アプローチを開発する必要性についてはオープンだった。このテーマについては自分の中でも勉強が不足しているが、今後考えていきたいテーマとして強く印象に残っている。
コースワーク(3):質的調査法
今学期受けたコースワークの振り返りの最後は質的調査法である。今回取った授業は政治学部の大学院セミナーとして開講されているもので、社会学部のそれではなかった。社会学部の授業でも質的調査法と題するものはあるし、他の学部にも存在するが、政治学の授業を選んだのは(1)スケジュール的に取れそうな唯一の授業だった(2)指導教員が院生のメーリングリストでシェアしてくれた、という非常にいい加減な理由なのだが、政治学の質的調査法の方が過程追跡などの歴史的なアプローチを重視していると考えており、自分の関心分野ではこうしたアプローチが取られることもあるので、社会学よりも相性がいいかもしれないと考えた,という理由もある。
とはいえ、そもそもの話から始めれば、質的調査法の授業を取る必要はない。弊学のコースワークでは質的調査法は必修ではないからである。これに対して、統計は先述のように複数の授業が必修として設定されている。社会学や政治学では時折、分析対象への方法的なアプローチとして「量」と「質」という(かなり不毛な)対立がある。この対立が不毛な理由はいくつもあるが、非学術的な理由によって対立が深くなっているのも、その不毛さに拍車をかけている。
典型的な要因は「お金」である。計量アプローチの研究はファンディングと結びつきやすい。弊学部に関していえば、人口学研究所がRAなどを供給する巨大な組織となっているが、この研究所は名前の通り人口学者が在籍しているが、彼らは基本的には計量的なアプローチで対象に迫る(もちろん、批判的人口学のように質的アプローチによる人口学的研究も存在するが、マイナーである)。そのため、計量的な分析に関心があり、スキルがある人の方がRAのポジションを得るのには有利で、反対に質的調査をするような人には十分なファンディングの機会がないため、彼らはティーチングを行うことが多い(と考えられている)。学生同士で量と質によるイデオロギー上の対立は(表面的には)ないのだが、学生にとってファンディングの機会は死活問題なので、潜在的に量/質によって機会格差があり、それは不満の温床になっているかもしれない。教員同士では(噂で聞く限りは)量と質の対立はよりリアルに存在するらしく、教員採用をめぐっては量の人は量の人を好み、質の人は質を好むという対立があるらしい(実際に確認できる類のものではないのでわからない)。当たり前といえば当たり前と思う人もいるかもしれないが、別に全ての研究が量と質に二分できるわけでもなく、同じサブスタンティブな関心を共有する人同士で量の人もいれば質の人もいる領域はあるわけなので、個人的にはこのような対立を煽るようなことはしたくない。
量と質が本質的に違うという想定は個人的には嘘だと思っているのだが、そういう誤解が広がる原因は教育にもある。コースワークの編成上、「量」の人は「質」の方法を勉強しない傾向が本学では強いので、「量」の人は質的研究で何ができるのか・できないのかに関して誤解をしており、その結果「質よりも量の方が〜〜」といった本当に意味が不明な比較をすることがある。以上のような理由と、本学に関しては「質」の人は「量」の勉強をしなくてはいけないのに、「量」の人は「質」を勉強する必要がないというのは端的にいってアンフェアだと思ったので、今回履修することにした。
さて、授業の方であるが、大学院セミナーなので基本的に毎回文献が大量にアサインされてそれを元に議論、というスタイルである。先学期は人口学の大学院セミナーだけで手一杯で、今学期はそれに加えてもう一つセミナーを取ろうというのだから、最初から無理があった。実際、指定された文献を読み終わらないこともよくあり、十分消化できたかと言われると難しい。質的調査法や政治学を学んでいる人であればすでに読んでいるか、あるいは関心の近い論文もあるだろうが、そのいずれにも当てはまらない自分にとってはアサインされる文献はどれも自分の研究とは縁遠いものであり、こうした文献にアプローチするのは大変だった。
カバーされたのは質的調査の考えを把握するにあたり重要になる基礎的な内容(存在論、認識論,概念、実証主義・解釈主義、ケース、一般化)などから始まり、その後具体的な手法(参与観察、インタビュー、エスノグラフィ、過程追跡と経路依存、アーカイブ)について、具体的な研究と方法論的な論文で理解し、最後に倫理的な事項にも触れた。政治学の授業ではあったが、何回か社会学の文献がアサインされることもあり、多少は親近感を覚えたが、それでも自分では読まないような論文ばかりだった。
そういうわけで、毎回が新しい発見であると同時に、果たしてこれらの論文を読んで,どのように自分の研究にフィードバックできるのか、悩むことも多かった。まだ納得する結論は出せていないが、最低限、質的アプローチのロジックを理解した上で,そうしたロジックが計量的なアプローチに対して優れているとか、劣っているという発想はやめ、どういった事象を理解したい時に、どういった方法を使うべきなのか、という軸で量・質という区分にこだわらずに適切な方法を取捨選択するべきだろう、という月並みといえば月並みな考えに至った。
ただ、この考えでも量と質による優劣があるという発想にはならなくとも、両者が至る真理には溝があり、違うものを見ているという結論になってしまうかもしれない。果たして、本当にそうなのだろうか。これについては、社会学者のMario SmallのHow many cases do I need?という論文がアサインされた時に得た知見がとても役に立っている。
この論文は、質的調査法で指定された文献だけではなく、今年読んだ論文の中でも最も面白いものの一つだったことを覚えている。Smallはアメリカで著名なエスノグラファーであり、都市社会学などで多くの業績を残している。彼は最初に、都市の貧困や階層研究では量・質双方の研究が参入していることを指摘する。これらの分野では、量の人から質の研究に対してコメントがくるため、質の人も統計的な用語に従い「代表性」がないサンプルがいかに「バイアス」含みかを気にする。
しかし、彼に言わせれば,そういう議論は不毛なのだという。まず、量の人が質の人に対する投かける「代表性」は完全に量のロジックにおける「代表性」である。つまり、分析の対象とする集団が一体何を代表しているのかを、サンプリングのロジックで正当化する際の「代表性」である。この考え方は計量的なアプローチを取る人にとってはほぼ唯一の「代表性」のロジックとして受け入られており、先述したように、外的妥当性を重視する人口学者にとっても非常に重要な基準である。
しかし、Smallによれば、計量分析における「代表性」を質的研究に当てはめることは不毛であり、質的研究は一体何を経験的に明らかにしようとしているのかをマンチェスター学派の研究を引用しつつ論じている。その内容は、量と質では依拠する推論の方法が異なり、その推論から導かれる経験的な知見も違うというもので、そこまで新しいものではない。しかし、私が重要だと思ったのはその「推論」の内容で、Smallはマンチェスター大学におけるネットワーク研究の中興の祖ともいうべきClyde Mitchellの論文を引用しつつ、二つの推論の方法を紹介している。一つが「統計的な推論」であり、統計的なアプローチを使って外的な妥当性に関して言及するのはまさしくこの統計的なロジックが用いられる場面になる。もう一つは「論理的な推論」であり、これはある分析枠組みの中で二つ以上の特徴を結びつけることを指す。過程追跡は探偵的な作業に例えられることがあるが、こうした証拠に基づいて事件の推論をするのはまさしく「論理的な推論」に当たる。
ここで重要なのは、計量的なアプローチは「統計的な推論」だけではなく「論理的な推論」も行なっているという点である。変数間に関係性があることを統計的に確かめることはでき、それによって統計的な推論から導かれる仮説はテストされるが、なぜその変数同士に関連があるか、そのメカニズムを想定するのは論理に依存する。これに対して、質的なアプローチでは統計的な推論がなく、主として論理的な推論に依拠して仮説がテストされている。
強調するべきは、「統計的な推論」ができないために質的調査は劣っているという発想は誤りであるというものだ。統計的な推論を用いた研究においても、論理的な推論がなければ統計分析の結果は空虚なものに終わってしまうからである。量・質とも本質的に重要なのは「どのようにして世界が成り立っているのか」に関する理論であり、その理論から導かれる論理的な推論である。したがって、質的調査に対して計量アプローチの研究者が「ケース数が足りない」というのは、質的調査にも統計的な推論が用いられるべきという誤った想定に基づいている。
私がこの論文、あるいは授業での他のリーティングを通じて読み取ったことは、量と質は(実証主義的アプローチを取る限りは)最終的に論理的なロジックに依拠して問いを検証しているのだから、その限りにおいては両者は同じ経験的な研究として議論されるべきだろうというものである。量と質が対立しているというのはかなりミスリーディングな議論で、強調すべきは実証主義的な世界観と解釈主義的な世界観なのではないか、という気もする。もっとも、この二つの立場も同じ研究者の中に並存し、明らかにしたい問いによって実証主義的に考えるか、解釈主義的に考えるかは分かれるだろう。例えば,人口学でもある人種や性別を所与のものとして実証主義的に分析することはあるが,人々が人種をどのようにidentifyしていて、その意味づけにはどういう根拠があるのかを探るアプローチも、実証主義的な研究と同様に重要だと考えている。
この論点に関連させると、質的調査法という授業そのものに編成上の難しさがある気も多少している。というのも、この授業では実証主義的なアプローチと解釈主義的なアプローチによる二つの質的調査法の世界がカバーされていて、私からすると量と質の対立は擬似問題であって、メソドロジカルに存在する本質的になり「得る」違いは実証主義的な世界観と解釈主義的な世界観だと考えているからである(「得る」と書いたのは、私の理解では例えば関係主義的な理論はその両者の対立を乗り越えようとする取り組みだと考えており、実際に対立するのかはまだわからないためだ)。
研究
先学期の研究上の振り返りの1文目は「学生としての本分は授業を履修して単位を取ることかもしれないが、実際には博士課程は研究者の養成機関であり、在学中から研究に勤しむことも重要である」だった。この考えに変わりはないが、文献購読のセミナーを一つ追加した今学期は、予習量が明らかに増えたので研究に配分できる時間は少なくなった。とはいえ、様々な「工夫」はしたので平日の時間の大半はコースワークに時間を使っていたが、休日を中心に多少ではあるが、研究時間も確保した。とはいっても、1日に2時間研究できれば大成功で、全く研究できない日も1週間の半分くらいあったのが現実である。
論文を投稿しなくてはいけないのは自明なのだが、どのような論文をどのようにして書くべきなのかについては2点、考えが変わった。1点目は雑誌のランクである。先学期の振り返りを見ると、ひとまず中堅以上を目指しながら、将来的にトップジャーナルに載せられたらいいくらいに考えていたが、あまり悠長なことは言えなくなってきた。様々な事情で、トップジャーナルに載るような論文に全力を注ぐことにインセンティブが与えられているのがアメリカの博士課程プログラムで、私の場合はすでにパブリケーションがあるため、これから書く論文については、基本的にトップジャーナルに載るようなものを優先することになる。逆に言うと、萌芽的には面白いがトップジャーナルには載らなそうな研究には時間が割けなくなる。どうしてこういうメカニズムで世界が動いているのか、私もまだ掴みかねているところはあるが、論文は基本的にトップジャーナルから出していくのであって、出す以上はそのジャーナルに載せられるようなクオリティを目指す必要がある。もちろんトップ誌に載せたからといってその論文が優れているかはわからないので、実際はジャーナルの名前に左右されることなく論文の質を評価できるのが理想なのだが、アメリカの社会学ではジャーナルのランクが質のプロキシとしての役割を担っている(あるいはそう期待されている)ので、合理的に考えるとトップ誌に載せられるような論文を書く努力をすることになる。もしかすると、アメリカの社会学はサブフィールドが多様なので、そういうフラッグシップを頂点とする階層性を前提としないと人事評価がしにくいのかもしれないし、あるいはある人事に対してその公募でとろうとする分野の人が採用をリードするのではなく、多くの分野の人から納得してもらえるような人を採用しなくてはいけないのかもしれない。個人的には後者のような気がしている。例えば、日本の人事では(特に講座制の影響が根強いところであれば)学史の先生を採用しようとなった時にその分野に最も詳しいのは学史の先生たちなので(当たり前だが)、その人たちが最終的にイエスといえば他の教員はそれを支持するのかもしれない。トップジャーナル志向というのは当たり前に聞こえるかもしれないが、奇妙な価値観である。
2点目は自分の研究スタイルというか、日本を対象にすることとの距離感である。先学期の時点では日本研究者としてのアイデンティティを持ちつつ、日本を事例にした研究をすることで既存研究の理論的な空隙を埋めよう、というモチベーションだった気がしている。もちろん、今でも日本をケースにして博論を書きたいと思っているし、それをより広いオーディエンスにアプローチできるような研究にしたいと考えているが、多少出発点が変わった。この点は、人口学の大学院セミナーで議論をリードしてくれた講師の先生の影響が大きい。彼女は毎回の議論において、アサインされた文献が想定している暗黙の仮定が何かを非常に重視している。私がその授業、および彼女の研究に対する姿勢から感じ取ったのは、新しい価値ある研究というのは、既存研究がそうして確かめることなく棚上げにしていた想定を批判的に再検討し、経験的な研究であればそれをデータで示すことなのかなと考えている。もちろん、そういう論理で事例を選んで分析をしていっても、結果的に先学期のように「先行研究の想定は日本では当てはまらないので、日本の事例検討することで理論をアップデートする」という主張と大して変わらない知見になるのかもしれないが、もう少し先行研究をレビューしていく過程で論理的に導ける暗黙の想定に対してクリティカルになってもいいのかなと考えている。常に変化する社会を対象とする社会科学では、そうした想定は一部の社会や時代においては妥当なものとして支持されるのだが、場所や時間が変わると妥当ではなくなる。私がこの発想で最近取り組んでいる研究は二つあり、一つは学歴に関するもの、もう一つは家族形成に関するものである。前者については、教育社会学の研究などでは近年、高等教育の中の異質性が拡大していることに着目する議論がある。日本の例で言えば、日本の四大進学率の上昇に寄与したのは私立大学で、さらに言えば以前は短大や専門学校だったような一般にはそこまで威信が高くない層による学校の設立が大きい。そのため、昔の大卒と今の大卒ではアベレージで見た時に意味する中身が変わってくるのだが、私が専門にする学歴同類婚の分野では大卒層を均質的に扱ってきた。私が最近取り組んでいるプロジェクトでは、そういう想定がもはや妥当ではなく、実際にデータを用いて検証すると威信や選抜度の高いと考えられる大学出身の人の方が、選抜度の低い大学出身の人よりも、自分と同じような学歴の人と結婚しやすいことがわかった。
後者については、アメリカの家族人口学における家族形成、特にユニオン形成に関する先行研究をレビューしていて生じた疑問に基づいている。アメリカでは1970年代以降に結婚率が減少し、その代わりに同棲が増えたのだが、この中で何故結婚する人が減ったのかというretreat from marriageと呼ばれる現象が盛んに議論された。詳細は割愛するが、そこでの議論の中心は人は何故結婚しなくなったのか、であり結婚ではないカテゴリは全て非結婚として残余的に扱われてきた。しかし、結婚しない人の中も多様である。その中で増加傾向にあったのが同棲で、もう一つの先行研究では何故同棲が増えているのかに着目した説明をしている。どちらも重要な研究なのだが、どちらも結婚や同棲以外の減少を残余的に扱っているほか、後者は同棲と結婚を対立的に捉えている。しかし、日本的なコンテクストを踏まえると、同棲はそこまで増えていないし、同棲が結婚に代わる新たなライフスタイルとして定着しているわけでもない。結婚からの減退は高所得国全般で生じているが、結婚率が減少すると同棲が増えるわけではない。したがって、両者は代替的なものではない。代わりに、日本や韓国などでは結婚せずパートナーも持たない人が増えている。私の関心の一つはもともと一つだったのだが、アメリカの人に話してもいまいち理解してくれなかった。それは何故か、今はアメリカの家族人口学ではユニオン形成、あるいはその後の出産・子どもへの教育投資を通じた世代間移動に関心があり、そもそもユニオンを形成しない人は関心の外にあったのではないかと考えている。私が明らかにしたいのは、結婚と同棲が必ずしも代替的な関係にあるわけではなく、ある社会的な文脈では同棲ではなくパートナーを持たないソロの人が増えるのであって、それは多かれ少なかれどの社会でも増えているだろう、というものだ。この研究も、既存研究がパートナーのいない独身者を残余的に扱ってきたことを批判的に再検討しているところから始まり、結果的に日本を事例として選択している。ひいては、そういったソロの人たちはある種のスティグマを付されていると思う。例えば、大都市とは違い中西部のような地方都市では、いっぱしの大人にはパートナーがいるだろうという強い期待があるのを感じるし、さらにいえば独身の人はパーソナリティ上何か問題があるので独身のままではないのか、という偏見がある気もする。それは偏見であり、かつ人口学的・社会学的に考えると今後はますますソロの人が増えるのだから、そういう声なきマイノリティだった層がすでにマイノリティではなくなりつつあることを指摘して、社会的に流布している偏見が偏見であることを明らかにできればいいなと考えている。最後の点については、どういう研究をするのが「役に立つのか」、そもそも「役に立つとは何か」という古くて新しい問題と関係するが、この点についても考えることが多いものの、明確な答えは出ていない。しかしながら、おそらく今よりももっと社会学者はパブリックな議論にコミットしていくべきだし、社会を外から眺めているという想定は捨てる必要はないが、社会の中にいる以上、ある価値を前提にして社会を変えていく役割を担うべきだろうと考えている。
博士課程1年目の春学期(2学期目)も基本的にはコースワークをこなす日々だった。今学期履修したのは社会学部で開講されている統計学、人口学の大学院セミナーと形式人口学、および人口学研究所が開いているセミナー二つ、そして政治科学部の質的調査法だった。以下、この順にコースワークの振り返りから始め、最後に研究について今考えていること、何をやっているかを簡単に書いている。
コースワーク(1):統計学
まず統計の授業だが、先学期は今学期と違う先生が線形回帰までを教えてくれ、今学期は社会学の因果推論ではよく知られた先生が因果推論をメインに講義を担当してくれた。先学期はSoc361で、今学期がSoc362になる。番号でわかる方にはわかるかもしれないが、この授業は学部生も履修することのできる授業である。ただし、社会学博士課程の必修になっているほか(一定の条件を満たすとwaiveは可能)、隣接領域(社会福祉、教育政策、教育心理など)の院生も多く取っていた。したがって、学部生にとっては恐らく難易度はかなり高い授業だと思われる。私も一学期間とってみて、レベル的には700番台(院生向けの授業の中級?)くらいだなと感じた。
因果推論と一口に言っても奥が深いが、この授業では観察データから因果効果をestimate(推定)する方法(傾向スコアなど)、及び因果効果をidentify(同定?)する方法(RDD, IVなど)の双方がカバーされていて、因果推論の世界は一通りカバーされていた印象である。ただ、時折effect heterogeneityの話を急に深く踏み込んだり、先生の最近の関心であるネットワークにおける因果効果の例が出てくるなど、応用的な話もあり、全体としては中級と上級の間くらいのラインアップだった。
この授業の特筆すべき特徴は、DAGと呼ばれるグラフィカルに因果推論にアプローチする方法がほぼ全ての授業で紹介されている点である。後半の授業になると、例えばDIDの回であれば、最初にエコノメチックな紹介をした後、これをDAGで表現するとどうなるかという、マニアックといえばマニアックな世界に入る構成になっていた。DAGのメリットは多くあるが、理論の中で考える変数間の関係性をcausal, cofounding, colliderの三つに分けることで、どのようなモデルを自分が想定しているのか、またその想定のもと変数を条件づけていくとどこでまずいことが起こるか(具体的にはcolliderを条件づけることによるendogenous selection bias)を、非常に分かりやすく可視化してくれる点にあると考えている。また、DAGのpath modelで表される変数間の関係性はそのまま分析する人が想定する理論(data generating process)へと直結するため、potential outcome modelを想定した上で、理論と実際のモデリングの世界を架橋してくれる道具でもある点が非常に有益である。
私は授業を取る前に、因果推論に対してはエコノメや最近では政治学の人がかなり時間をかけて取り組んでいるテーマで、そういう人たちは(当たり前といえば当たり前だが)、実験的な環境における因果効果を理想とした上で、どう現実を実験の環境に近づけるかという思考で研究をしているという印象を持っていた。そういうこともあり、この授業の先生も、観察データからいかに因果効果を導くかに関心があり、ともすればそれ以外の記述的な研究の価値をあまり評価していないのではないかと思っていた節があった。
この授業を取った嬉しい誤算の一つは、先生がそうした因果推論至上主義(またの名を因果推論警察、私はそんな言葉を使ったりはしませんが)の流れにいる人では必ずしもなかったということだった。どちらかというと、因果推論の力を認めつつも、その短所も同時に指摘することで、従来主流だったアプローチが必ずしも意味をなさないわけではないと示唆することが多かったように思う。
どれだけエコノメの授業で強調されるのかは分からないが(ある程度は強調されるとは思うが)、どの因果推論のアプローチも、外的妥当性の問題を抱えている。例えばIVやRDDを使った推定はlocal average treatment effectになるため、その因果効果がどれだけ一般化できるのかについてはわからないところが多々ある。傾向スコアも、まずは観察される変数でバランスできているのかという問題と、マッチングに関してはマッチされなかった集団を分析から除くことでどれだけ求められる因果効果が集団全体に適用可能なのかも分からない。そもそも実験的なアプローチについても、対象となる集団の代表性については問題とならないため、因果効果を求めても外的妥当性の問題はなお残る。
この授業を取るまでは、固定効果なども含めてエコノメから発展してきたこれらの手法は非常に強力で、やはりどの研究者もこうしたアプローチを分析に取り込むべきなのだろうかと考えていたこともあった。授業をとってみて変わった点は、当たり前に聞こえるかもしれないが、因果推論的なアプローチを取るかは研究上の問いによるというものである。
何かしらの手法を駆使して因果効果を求めることが適切な問いである場合もあるだろうが(特に介入が可能な政策効果などの場合)、外的妥当性が議論のコアになるような問題については、必ずしもこのアプローチを取る必要はないと考えている。なにより、社会学あるいは人口学的な志向を持つ社会学的な研究では、この外的妥当性の考えに、大きな比重を置いているという印象を持っている。
代表性を気にしなければ、依拠するサンプルが何だろうと因果効果を求めて一つの貢献になるのかもしれない。しかし、一旦外的妥当性を気にし始めると、その分析が想定している母集団とは一体何なのかという疑問が解決しない限り、その研究を評価することが難しくなる。少なくとも人口学、あるいは人口学的な志向を持って研究している社会学の人にとっては、想定する母集団がまずあり、その集団において何が起こっているかを理解しようと考える傾向が強い(と私は勝手に感じている)ので、まずは集団の明確な定義が必要になる。また、社会制度や規範の変化に伴って学歴と結婚、年齢と性別役割意識の関係は変わったのか、あるいはそれらの関係は国ごとに異なるのか、という構成的な(constitutive)問いを立てることも多いため、こういう研究の場合でも、対象とする母集団が明確になっていないと、どの集団とどの集団を比較しているのかよくわからなくなってくる。
以上述べたような問いに関心がある場合は、ひとまず因果推論的な考えは棚に上げて記述的にみてみることも大切かなと、改めて考え直している。もちろん、例えば学歴と結婚の関係が1960年代と2000年代で変わった場合、可能性としては(1)学歴の結婚に対する因果効果が本当に変わった、という説と(2)学歴と結婚の間にある交絡要因が変わったという説の少なくとも二つが考えられるが、こういった時点間で因果関係が変わっていることに対して、因果推論の人はどのようにアプローチするのか、私はまだ(どれくらい意義があるかも含めて)よく分かっていない。なぜかというと、これまで授業やそれ以外の機会で読んできた因果推論の文献は、ある特定の集団を対象にした時の因果効果に言及することがほとんどで、その関係が他の集団、あるいは同じ集団でも異なる時点で異なることに関心を向ける研究は知らないからである。
一般に、まずはassociationがあるかを確認して、それが本当にcausalなのかを確かめようというステップで因果推論の利点が紹介されることが多いように感じるのだが、上記のような問いはまさしくassociationalな問いで、数えきれない交絡があると考えられる。そういう現象に対して、どうやってcausalな問いを組みこんでいくか、そもそもそういう問いにどれだけ意味があるのかは、今後考えていく必要があるだろう。少し踏み込んで言えば、今までassociationからcausationへという、両者は架橋できるという意味を含んだ言葉で回収されてきたassociationalな問いの一部は、実はconstitutionalな問いといったほうが適切なのであって、constitutionalな問いとcausalな問いを架橋することは一見すると簡単そうに思えて、実はかなり距離があって難しいのではないかというものだ。先の例を使うと、「学歴と結婚の関係はこの50年間で変わったのか」という問いと、「学歴が結婚に対して与える因果効果はどれくらいか」という問いの二つは、似ているように見えて、実は翻訳が不可能なのではないか、と言うことができる。そういう点について改めて考える機会を与えてくれた今学期の統計の授業だった。
コースワーク(2):人口学
次に人口学である。人口学に関連する授業は多い。先学期の振り返りでも述べたが、私は社会学部の博士課程に在籍するとともに、社会学部と関係の深い人口学研究所にもトレイニーとして所属している。本来、研究所と学部は独立のはずだが、なぜか本学では人口学研究所に所属すると社会学部から要求されるコースワークのrequirementが増える。具体的には学部の指定する授業と、人口学研究所の主催するセミナーに出席することが義務付けられる。
したがって、今学期もそのノルマに従うことになった。月曜日には先学期と引き続きpopulation and societyという名前の文献購読のセミナーに出る。火曜日と木曜日の午前中は形式人口学(人口学方法論)の授業、火曜日はその授業が終わった後に人口学研究所が主催するセミナー(外部のスピーカーを呼んで報告をしてもらう形式)。水曜日にはもう一つの人口学研究所の主催するトレーニングセミナーに出た。
先学期は月曜日の文献購読セミナーが最もついていくのが辛かったことは前回の振り返りで述べたが、今学期は新しく上級生が数人加わった以外は、講師・学生とも同じラインナップで、この授業をいかに負担なくこなせるかが課題だった。結論から言えば、多少の慣れと工夫のおかげで前回よりも負担なく終えることができた。
「慣れ」からいえば、メンバーも前回と同じだったので、緊張感も前回ほどはなく、自分の思ったことをすぐ言える雰囲気にはなっていた。また、わからないときにどう言う表現を使えばいいのか、いい意味での「ごまかし」に関するスキルも他の学生を見ながら会得していけた気がしている。
今学期の文献購読セミナーでは多少の「工夫」もしてみた。まず文献を読み過ぎないことである。もちろん、時間が許す限り文献を丁寧に読み込むことは重要だが、アメリカの博士課程教育で課される文献の数は日本に比べると明らかに多く、後述する政治学の質的調査法もとった今学期は文献購読のセミナーを二つとることになり、先学期よりも読まなくてはいけない文献が倍以上になった。丁寧に読んでいては読み終わらないのだ。ではどうするかというと、論文の要点を素早く掴むスキルを身につける必要がある。さらに、時間をかけすぎると他の課題を済ませる余裕がなくなるので、今学期はこの日までに読み終わり質問をポストする(この文献購読のセミナーでは前日までに文献を読んで浮かんできた疑問点をウェブポータルにポストすることになっていた)、ポストしたら当日までは文献を読み返さないというポリシーを取ることにした。こうすることで、期日までにアサインされた論文を読みきらなくてはいけない動機が生まれるし、終えてからは他の課題に集中できる。
こういった「工夫」は丁寧に文献を購読してこそ研究と考える見方からすると「邪道」に思われるかもしれない。私も、論文を読むときは要点だけではなく細部まで理解する必要があると考えていた。その考えはまだ捨ててはいないが、(どこまで一般化できるかわからないが、少なくとも社会学では)アメリカの大学院での教育では個々の論文の論点よりも、アサインされた論文に共通するテーマや対立する観点、比較してより深く理解できる先行研究における課題などに重点が当てられる。訓詁学的に論文を丁寧に読み込む作業よりも(もちろんそういった作業は自分の論文を執筆するときには必要になるだろうが)全体の流れの中に文献を位置付けて体系的に議論する力の方が優先されるのだろうと現在は考えている。重要なのは、これらは対立するものではなく、場面によって使い分けるべきスキルである点だ。よくアメリカの教育では文献が大量に課され、「スキミング」のスキルが必要になるとされるが、別にそのスキミング能力を身につけること自体が文献を大量に課す目的なのではなく、数多くの文献から特定の論文がなぜアサインされ、アサインされた論文間の関係性を把握した上で全体の議論を掴むことが目的なのかもしれないと今は考えている。結果的にそうした全体の流れをつかむ力は論文を書く際のliterature reviewに通じるのだろう。
そういうわけで、人口学の文献購読セミナーについては前回よりもかなり負担なくこなすことができたので、その点はコースワークを通じて得ることのできた収穫なのではないかと考えている。もう一つの文献購読セミナーは政治学部の質的調査法でこれは色々と別の難しさがあったのだが、その点については後述する。
人口学の方法論、形式人口学については先学期が基礎、今学期が応用となっていて、先生も違う人になった。指導教員いわく、本学の応用形式人口学は人口学部を持つ他の大学(バークリーなど)のプログラムと競える水準にあると言われ、期待半分、ついていけるのか不安半分の気持ちで受講した。指定された教科書は形式人口学の世界では定番中の定番とも言えるペンシルバニア大学のPreston教授らが書いたDemographyという本で、基本的にはこの本に準拠して授業が進んでいった。
この本については、日本にいた時からその評判を聞いていたので、以前勉強会で読み通したことがあったのだが、その当時は何をいっているのかよくわからないところばかりだった。もちろん、今学期授業を受けてみてもまだわからないところはあるのだが、講師の先生の解説もあり理解度は非常に深まった。特に形式人口学にはいくつかの人口モデルがあるのだが、stable populationに関するモデルのコアな部分を掴めたのは非常に大きな経験だった。また、人口予測のモデルについても学んだのだが、このモデルの応用例で、私が自分の研究で取り組みたかった人口学的な観点から社会階層・社会移動を分析するモデルを扱ってくれたのは非常にありがたかった。
この授業の特徴は、ほぼ毎週のように課題が出るのだが、(1)統計ソフトウェアのRのggplotと呼ばれるvisualizationのツールを使って(2)課題をできるだけ可視化して提出することが推奨された。もちろん、最初はエクセルを使って死亡率を計算して、といった風にできるのだが、人口予測のシミュレーションなどに入り出すと統計ソフトを使用する必要が出てくる。この授業ではRのプログラミングなどは教えてくれなかったので、毎回課題に取り組むときはみんなで協力して知恵を振り絞った。興味深いことに必要に駆られると人は学び始めるもので、私はRと並んで社会科学ではよく使用されるstataを研究では使用しているのだが、この授業でon the jobにRのトレーニングを受けた(というかほぼ自学自習をした)結果、Rの方が時と場合によっては使いやすいと感じるまでになったのは大きな収穫だった。
社会学に限らず、社会科学ではdata visualizationの重要性が指摘されるようになっており、近年これに関する教科書も相次いで出版されている。私も学期中に人口学研究所の支援を受けて参加したアメリカ人口学会では、学会に先立ってdata vizのワークショップが開催されており、これに参加した。この形式人口学の授業は2年おきに開講されているが、今回が初めてRを本格的に導入しdata vizを強調した年だったので、そこまでオーガナイズされてはいなかったがdata vizのエッセンスをつかむことはできたので、今後はこのスキルを伸ばしていきたい。
最後に、今学期の裏テーマである「批判的人口学」について。critical demographyは本学の界隈ではホットなトピックになりつつある。既存の人口学的研究はbroken down by sex and ageというスローガンに代表されるように、性別と年齢に分けた上で死亡率や女性の出生などについてみることが一般的だった。こういった分析ではsexは所与のものとして考えられ、出生は女性が行うもの、としてみなされるわけだが、社会学やジェンダー研究によってその想定が必ずしも適用できるものではなくなってきている。sexual identifyはどの時点でも固定ではなく、変わりうるものであり、同様にrace/ethnicityについても近年の研究では自らのracial identityに揺らぎがある現象(racial fluidity)が注目を集めている。社会学的な観点に立てば、こうした個人の社会的なアイデンティティは社会的に構築される面もあるため、これまでの人口学が扱ってきたようなそれらを所与のものとする仮定は批判の対象となる。
批判的人口学というのは、社会学で重視され、議論されてきたこうした個人のアイデンティティを人口学が所与の変数として扱ってきたことを反省し、sex/gender、race/ethnicity、あるいはそれらのintersection、さらにレイシズムといった集合的な現象をどのように人口学的な分析に組み込むかというもので、文献購読セミナーでは時折議論する機会があった。形式人口学では伝統的な方法に則ったアプローチが紹介されるにとどまったが、講師の先生は今後これまでの人口学が自明としてきた想定を批判的に再検討した上で、新しい方法的アプローチを開発する必要性についてはオープンだった。このテーマについては自分の中でも勉強が不足しているが、今後考えていきたいテーマとして強く印象に残っている。
コースワーク(3):質的調査法
今学期受けたコースワークの振り返りの最後は質的調査法である。今回取った授業は政治学部の大学院セミナーとして開講されているもので、社会学部のそれではなかった。社会学部の授業でも質的調査法と題するものはあるし、他の学部にも存在するが、政治学の授業を選んだのは(1)スケジュール的に取れそうな唯一の授業だった(2)指導教員が院生のメーリングリストでシェアしてくれた、という非常にいい加減な理由なのだが、政治学の質的調査法の方が過程追跡などの歴史的なアプローチを重視していると考えており、自分の関心分野ではこうしたアプローチが取られることもあるので、社会学よりも相性がいいかもしれないと考えた,という理由もある。
とはいえ、そもそもの話から始めれば、質的調査法の授業を取る必要はない。弊学のコースワークでは質的調査法は必修ではないからである。これに対して、統計は先述のように複数の授業が必修として設定されている。社会学や政治学では時折、分析対象への方法的なアプローチとして「量」と「質」という(かなり不毛な)対立がある。この対立が不毛な理由はいくつもあるが、非学術的な理由によって対立が深くなっているのも、その不毛さに拍車をかけている。
典型的な要因は「お金」である。計量アプローチの研究はファンディングと結びつきやすい。弊学部に関していえば、人口学研究所がRAなどを供給する巨大な組織となっているが、この研究所は名前の通り人口学者が在籍しているが、彼らは基本的には計量的なアプローチで対象に迫る(もちろん、批判的人口学のように質的アプローチによる人口学的研究も存在するが、マイナーである)。そのため、計量的な分析に関心があり、スキルがある人の方がRAのポジションを得るのには有利で、反対に質的調査をするような人には十分なファンディングの機会がないため、彼らはティーチングを行うことが多い(と考えられている)。学生同士で量と質によるイデオロギー上の対立は(表面的には)ないのだが、学生にとってファンディングの機会は死活問題なので、潜在的に量/質によって機会格差があり、それは不満の温床になっているかもしれない。教員同士では(噂で聞く限りは)量と質の対立はよりリアルに存在するらしく、教員採用をめぐっては量の人は量の人を好み、質の人は質を好むという対立があるらしい(実際に確認できる類のものではないのでわからない)。当たり前といえば当たり前と思う人もいるかもしれないが、別に全ての研究が量と質に二分できるわけでもなく、同じサブスタンティブな関心を共有する人同士で量の人もいれば質の人もいる領域はあるわけなので、個人的にはこのような対立を煽るようなことはしたくない。
量と質が本質的に違うという想定は個人的には嘘だと思っているのだが、そういう誤解が広がる原因は教育にもある。コースワークの編成上、「量」の人は「質」の方法を勉強しない傾向が本学では強いので、「量」の人は質的研究で何ができるのか・できないのかに関して誤解をしており、その結果「質よりも量の方が〜〜」といった本当に意味が不明な比較をすることがある。以上のような理由と、本学に関しては「質」の人は「量」の勉強をしなくてはいけないのに、「量」の人は「質」を勉強する必要がないというのは端的にいってアンフェアだと思ったので、今回履修することにした。
さて、授業の方であるが、大学院セミナーなので基本的に毎回文献が大量にアサインされてそれを元に議論、というスタイルである。先学期は人口学の大学院セミナーだけで手一杯で、今学期はそれに加えてもう一つセミナーを取ろうというのだから、最初から無理があった。実際、指定された文献を読み終わらないこともよくあり、十分消化できたかと言われると難しい。質的調査法や政治学を学んでいる人であればすでに読んでいるか、あるいは関心の近い論文もあるだろうが、そのいずれにも当てはまらない自分にとってはアサインされる文献はどれも自分の研究とは縁遠いものであり、こうした文献にアプローチするのは大変だった。
カバーされたのは質的調査の考えを把握するにあたり重要になる基礎的な内容(存在論、認識論,概念、実証主義・解釈主義、ケース、一般化)などから始まり、その後具体的な手法(参与観察、インタビュー、エスノグラフィ、過程追跡と経路依存、アーカイブ)について、具体的な研究と方法論的な論文で理解し、最後に倫理的な事項にも触れた。政治学の授業ではあったが、何回か社会学の文献がアサインされることもあり、多少は親近感を覚えたが、それでも自分では読まないような論文ばかりだった。
そういうわけで、毎回が新しい発見であると同時に、果たしてこれらの論文を読んで,どのように自分の研究にフィードバックできるのか、悩むことも多かった。まだ納得する結論は出せていないが、最低限、質的アプローチのロジックを理解した上で,そうしたロジックが計量的なアプローチに対して優れているとか、劣っているという発想はやめ、どういった事象を理解したい時に、どういった方法を使うべきなのか、という軸で量・質という区分にこだわらずに適切な方法を取捨選択するべきだろう、という月並みといえば月並みな考えに至った。
ただ、この考えでも量と質による優劣があるという発想にはならなくとも、両者が至る真理には溝があり、違うものを見ているという結論になってしまうかもしれない。果たして、本当にそうなのだろうか。これについては、社会学者のMario SmallのHow many cases do I need?という論文がアサインされた時に得た知見がとても役に立っている。
この論文は、質的調査法で指定された文献だけではなく、今年読んだ論文の中でも最も面白いものの一つだったことを覚えている。Smallはアメリカで著名なエスノグラファーであり、都市社会学などで多くの業績を残している。彼は最初に、都市の貧困や階層研究では量・質双方の研究が参入していることを指摘する。これらの分野では、量の人から質の研究に対してコメントがくるため、質の人も統計的な用語に従い「代表性」がないサンプルがいかに「バイアス」含みかを気にする。
しかし、彼に言わせれば,そういう議論は不毛なのだという。まず、量の人が質の人に対する投かける「代表性」は完全に量のロジックにおける「代表性」である。つまり、分析の対象とする集団が一体何を代表しているのかを、サンプリングのロジックで正当化する際の「代表性」である。この考え方は計量的なアプローチを取る人にとってはほぼ唯一の「代表性」のロジックとして受け入られており、先述したように、外的妥当性を重視する人口学者にとっても非常に重要な基準である。
しかし、Smallによれば、計量分析における「代表性」を質的研究に当てはめることは不毛であり、質的研究は一体何を経験的に明らかにしようとしているのかをマンチェスター学派の研究を引用しつつ論じている。その内容は、量と質では依拠する推論の方法が異なり、その推論から導かれる経験的な知見も違うというもので、そこまで新しいものではない。しかし、私が重要だと思ったのはその「推論」の内容で、Smallはマンチェスター大学におけるネットワーク研究の中興の祖ともいうべきClyde Mitchellの論文を引用しつつ、二つの推論の方法を紹介している。一つが「統計的な推論」であり、統計的なアプローチを使って外的な妥当性に関して言及するのはまさしくこの統計的なロジックが用いられる場面になる。もう一つは「論理的な推論」であり、これはある分析枠組みの中で二つ以上の特徴を結びつけることを指す。過程追跡は探偵的な作業に例えられることがあるが、こうした証拠に基づいて事件の推論をするのはまさしく「論理的な推論」に当たる。
ここで重要なのは、計量的なアプローチは「統計的な推論」だけではなく「論理的な推論」も行なっているという点である。変数間に関係性があることを統計的に確かめることはでき、それによって統計的な推論から導かれる仮説はテストされるが、なぜその変数同士に関連があるか、そのメカニズムを想定するのは論理に依存する。これに対して、質的なアプローチでは統計的な推論がなく、主として論理的な推論に依拠して仮説がテストされている。
強調するべきは、「統計的な推論」ができないために質的調査は劣っているという発想は誤りであるというものだ。統計的な推論を用いた研究においても、論理的な推論がなければ統計分析の結果は空虚なものに終わってしまうからである。量・質とも本質的に重要なのは「どのようにして世界が成り立っているのか」に関する理論であり、その理論から導かれる論理的な推論である。したがって、質的調査に対して計量アプローチの研究者が「ケース数が足りない」というのは、質的調査にも統計的な推論が用いられるべきという誤った想定に基づいている。
私がこの論文、あるいは授業での他のリーティングを通じて読み取ったことは、量と質は(実証主義的アプローチを取る限りは)最終的に論理的なロジックに依拠して問いを検証しているのだから、その限りにおいては両者は同じ経験的な研究として議論されるべきだろうというものである。量と質が対立しているというのはかなりミスリーディングな議論で、強調すべきは実証主義的な世界観と解釈主義的な世界観なのではないか、という気もする。もっとも、この二つの立場も同じ研究者の中に並存し、明らかにしたい問いによって実証主義的に考えるか、解釈主義的に考えるかは分かれるだろう。例えば,人口学でもある人種や性別を所与のものとして実証主義的に分析することはあるが,人々が人種をどのようにidentifyしていて、その意味づけにはどういう根拠があるのかを探るアプローチも、実証主義的な研究と同様に重要だと考えている。
この論点に関連させると、質的調査法という授業そのものに編成上の難しさがある気も多少している。というのも、この授業では実証主義的なアプローチと解釈主義的なアプローチによる二つの質的調査法の世界がカバーされていて、私からすると量と質の対立は擬似問題であって、メソドロジカルに存在する本質的になり「得る」違いは実証主義的な世界観と解釈主義的な世界観だと考えているからである(「得る」と書いたのは、私の理解では例えば関係主義的な理論はその両者の対立を乗り越えようとする取り組みだと考えており、実際に対立するのかはまだわからないためだ)。
研究
先学期の研究上の振り返りの1文目は「学生としての本分は授業を履修して単位を取ることかもしれないが、実際には博士課程は研究者の養成機関であり、在学中から研究に勤しむことも重要である」だった。この考えに変わりはないが、文献購読のセミナーを一つ追加した今学期は、予習量が明らかに増えたので研究に配分できる時間は少なくなった。とはいえ、様々な「工夫」はしたので平日の時間の大半はコースワークに時間を使っていたが、休日を中心に多少ではあるが、研究時間も確保した。とはいっても、1日に2時間研究できれば大成功で、全く研究できない日も1週間の半分くらいあったのが現実である。
論文を投稿しなくてはいけないのは自明なのだが、どのような論文をどのようにして書くべきなのかについては2点、考えが変わった。1点目は雑誌のランクである。先学期の振り返りを見ると、ひとまず中堅以上を目指しながら、将来的にトップジャーナルに載せられたらいいくらいに考えていたが、あまり悠長なことは言えなくなってきた。様々な事情で、トップジャーナルに載るような論文に全力を注ぐことにインセンティブが与えられているのがアメリカの博士課程プログラムで、私の場合はすでにパブリケーションがあるため、これから書く論文については、基本的にトップジャーナルに載るようなものを優先することになる。逆に言うと、萌芽的には面白いがトップジャーナルには載らなそうな研究には時間が割けなくなる。どうしてこういうメカニズムで世界が動いているのか、私もまだ掴みかねているところはあるが、論文は基本的にトップジャーナルから出していくのであって、出す以上はそのジャーナルに載せられるようなクオリティを目指す必要がある。もちろんトップ誌に載せたからといってその論文が優れているかはわからないので、実際はジャーナルの名前に左右されることなく論文の質を評価できるのが理想なのだが、アメリカの社会学ではジャーナルのランクが質のプロキシとしての役割を担っている(あるいはそう期待されている)ので、合理的に考えるとトップ誌に載せられるような論文を書く努力をすることになる。もしかすると、アメリカの社会学はサブフィールドが多様なので、そういうフラッグシップを頂点とする階層性を前提としないと人事評価がしにくいのかもしれないし、あるいはある人事に対してその公募でとろうとする分野の人が採用をリードするのではなく、多くの分野の人から納得してもらえるような人を採用しなくてはいけないのかもしれない。個人的には後者のような気がしている。例えば、日本の人事では(特に講座制の影響が根強いところであれば)学史の先生を採用しようとなった時にその分野に最も詳しいのは学史の先生たちなので(当たり前だが)、その人たちが最終的にイエスといえば他の教員はそれを支持するのかもしれない。トップジャーナル志向というのは当たり前に聞こえるかもしれないが、奇妙な価値観である。
2点目は自分の研究スタイルというか、日本を対象にすることとの距離感である。先学期の時点では日本研究者としてのアイデンティティを持ちつつ、日本を事例にした研究をすることで既存研究の理論的な空隙を埋めよう、というモチベーションだった気がしている。もちろん、今でも日本をケースにして博論を書きたいと思っているし、それをより広いオーディエンスにアプローチできるような研究にしたいと考えているが、多少出発点が変わった。この点は、人口学の大学院セミナーで議論をリードしてくれた講師の先生の影響が大きい。彼女は毎回の議論において、アサインされた文献が想定している暗黙の仮定が何かを非常に重視している。私がその授業、および彼女の研究に対する姿勢から感じ取ったのは、新しい価値ある研究というのは、既存研究がそうして確かめることなく棚上げにしていた想定を批判的に再検討し、経験的な研究であればそれをデータで示すことなのかなと考えている。もちろん、そういう論理で事例を選んで分析をしていっても、結果的に先学期のように「先行研究の想定は日本では当てはまらないので、日本の事例検討することで理論をアップデートする」という主張と大して変わらない知見になるのかもしれないが、もう少し先行研究をレビューしていく過程で論理的に導ける暗黙の想定に対してクリティカルになってもいいのかなと考えている。常に変化する社会を対象とする社会科学では、そうした想定は一部の社会や時代においては妥当なものとして支持されるのだが、場所や時間が変わると妥当ではなくなる。私がこの発想で最近取り組んでいる研究は二つあり、一つは学歴に関するもの、もう一つは家族形成に関するものである。前者については、教育社会学の研究などでは近年、高等教育の中の異質性が拡大していることに着目する議論がある。日本の例で言えば、日本の四大進学率の上昇に寄与したのは私立大学で、さらに言えば以前は短大や専門学校だったような一般にはそこまで威信が高くない層による学校の設立が大きい。そのため、昔の大卒と今の大卒ではアベレージで見た時に意味する中身が変わってくるのだが、私が専門にする学歴同類婚の分野では大卒層を均質的に扱ってきた。私が最近取り組んでいるプロジェクトでは、そういう想定がもはや妥当ではなく、実際にデータを用いて検証すると威信や選抜度の高いと考えられる大学出身の人の方が、選抜度の低い大学出身の人よりも、自分と同じような学歴の人と結婚しやすいことがわかった。
後者については、アメリカの家族人口学における家族形成、特にユニオン形成に関する先行研究をレビューしていて生じた疑問に基づいている。アメリカでは1970年代以降に結婚率が減少し、その代わりに同棲が増えたのだが、この中で何故結婚する人が減ったのかというretreat from marriageと呼ばれる現象が盛んに議論された。詳細は割愛するが、そこでの議論の中心は人は何故結婚しなくなったのか、であり結婚ではないカテゴリは全て非結婚として残余的に扱われてきた。しかし、結婚しない人の中も多様である。その中で増加傾向にあったのが同棲で、もう一つの先行研究では何故同棲が増えているのかに着目した説明をしている。どちらも重要な研究なのだが、どちらも結婚や同棲以外の減少を残余的に扱っているほか、後者は同棲と結婚を対立的に捉えている。しかし、日本的なコンテクストを踏まえると、同棲はそこまで増えていないし、同棲が結婚に代わる新たなライフスタイルとして定着しているわけでもない。結婚からの減退は高所得国全般で生じているが、結婚率が減少すると同棲が増えるわけではない。したがって、両者は代替的なものではない。代わりに、日本や韓国などでは結婚せずパートナーも持たない人が増えている。私の関心の一つはもともと一つだったのだが、アメリカの人に話してもいまいち理解してくれなかった。それは何故か、今はアメリカの家族人口学ではユニオン形成、あるいはその後の出産・子どもへの教育投資を通じた世代間移動に関心があり、そもそもユニオンを形成しない人は関心の外にあったのではないかと考えている。私が明らかにしたいのは、結婚と同棲が必ずしも代替的な関係にあるわけではなく、ある社会的な文脈では同棲ではなくパートナーを持たないソロの人が増えるのであって、それは多かれ少なかれどの社会でも増えているだろう、というものだ。この研究も、既存研究がパートナーのいない独身者を残余的に扱ってきたことを批判的に再検討しているところから始まり、結果的に日本を事例として選択している。ひいては、そういったソロの人たちはある種のスティグマを付されていると思う。例えば、大都市とは違い中西部のような地方都市では、いっぱしの大人にはパートナーがいるだろうという強い期待があるのを感じるし、さらにいえば独身の人はパーソナリティ上何か問題があるので独身のままではないのか、という偏見がある気もする。それは偏見であり、かつ人口学的・社会学的に考えると今後はますますソロの人が増えるのだから、そういう声なきマイノリティだった層がすでにマイノリティではなくなりつつあることを指摘して、社会的に流布している偏見が偏見であることを明らかにできればいいなと考えている。最後の点については、どういう研究をするのが「役に立つのか」、そもそも「役に立つとは何か」という古くて新しい問題と関係するが、この点についても考えることが多いものの、明確な答えは出ていない。しかしながら、おそらく今よりももっと社会学者はパブリックな議論にコミットしていくべきだし、社会を外から眺めているという想定は捨てる必要はないが、社会の中にいる以上、ある価値を前提にして社会を変えていく役割を担うべきだろうと考えている。
May 19, 2019
人口学徒が質的調査法の授業を取ってみた感想
今学期受けたコースワークの振り返りの最後は質的調査法である。今回取った授業は政治学部の大学院セミナーとして開講されているもので、社会学部のそれではなかった。社会学部の授業でも質的調査法と題するものはあるし、他の学部にも存在するが、政治学の授業を選んだのは(1)スケジュール的に取れそうな唯一の授業だった(2)指導教員が院生のメーリングリストでシェアしてくれた、という非常にいい加減な理由なのだが、政治学の質的調査法の方が過程追跡などの歴史的なアプローチを重視していると考えており、自分の関心分野ではこうしたアプローチが取られることもあるので、社会学よりも相性がいい感と考えた,という理由もある。
とはいえ、質的調査法の授業を取る必要はない。なぜかというと、弊学のコースワークでは質的調査法は必修ではないからである。これに対して、統計は複数の授業が必修として設定されている。社会学や政治学では時折、分析対象への方法的なアプローチとして「量」と「質」という(かなり不毛な)対立がある。この対立が不毛な理由はいくつもあるが、非学術的な理由によって対立が深くなっているのも、その不毛さに拍車をかけている。典型的な要因は「お金」である。計量アプローチの研究はファンディングと結びつきやすい。弊学部に関していえば、人口学研究所がRAなどを供給する巨大な組織となっているが、この研究所は名前の通り人口学者が在籍しているが,彼らは基本的には計量的なアプローチで対象に迫る(もちろん、批判的人口学のように質的アプローチによる人口学的研究も存在するが、マイナーである)。そのため、計量的な分析に関心があり,スキルがある人の方がRAのポジションを得るのには有利で、反対に質的調査をするような人には十分なファンディングの機会がないため、彼らはティーチングを行うことが多い。学生同士で量と質によるイデオロギー上の対立は(表面的には)ないのだが、学生にとってファンディングの機会は死活問題なので,潜在的に量質によって機会に格差があり、それは不満の温床になっているかもしれない。教員同士では(噂で聞く限りは)量と質の対立はよりリアルらしく、教員採用をめぐっては量の人は量の人を好み,質の人は質を好むという対立があるらしい(実際に確認できる類のものではないのでわからない)。当たり前といえば当たり前と思う人もいるかもしれないが、別に全ての研究が量と質に二分できるわけでもなく、同じサブスタンティブな関心を共有する人同士で量の人もいれば質の人もいる領域はあるわけなので、個人的にはこのような対立を煽るようなことはしたくない。
量と質が本質的に違うという想定は個人的には嘘だと思っているのだが、そういう誤解が広がる原因は教育にもある。「量」の人は「質」の方法を勉強しない傾向が本学では強いので、「量」の人は質的研究で何ができるのか・できないのかに関して誤解をしており、その結果「質よりも量の方が〜〜」といった意味不明な比較をすることがある。本学に関しては「質」の人は「量」の勉強をしなくてはいけないのに,「量」の人は「質」を勉強する必要がないというのは端的にいってアンフェアだと思ったので、今回履修することにした。
さて、授業の方であるが、大学院セミナーなので基本的に毎回文献が大量にアサインされてそれを元に議論、というスタイルである。先学期は人口学の大学院セミナーだけで手一杯で、今学期はそれに加えてもう一つセミナーを取ろうというのだから、最初から無理があった。実際、指定された文献を読み終わらないこともよくあり、十分消化できたかと言われると難しい。質的調査法や政治学を学んでいる人であればすでに読んでいるか、あるいは関心の近い論文もあるだろうが、そのいずれにも当てはまらない自分にとってはアサインされる文献はどれも自分の研究とは縁遠いものであり、アプローチするのは大変だった。
カバーされたのは質的調査の考えを把握するにあたり重要になる基礎的な内容(存在論、認識論,概念、実証主義・解釈主義、ケース、一般化)などから始まり、その後具体的な手法(参与観察、インタビュー、エスノグラフィ、過程追跡と経路依存、アーカイブ)について、具体的な研究と方法論的な論文で理解し、最後に倫理的な事項にも触れた。政治学の授業ではあったが、何回か社会学の文献がアサインされることもあり、多少は親近感を覚えたが,それでも自分では読まないような論文ばかりだった。
そういうわけで、毎回が新しい発見であると同時に、果たしてこれらの論文を読んで,どのように自分の研究にフィードバックできるのか、悩むことも多かった。まだ納得する結論は出せていないが、最低限、質的アプローチのロジックを理解した上で,そうしたロジックが計量的なアプローチに対して優れているとか、劣っているという発想はやめ、どういった事象を理解したい時に、どういった方法を使うべきなのか、という軸で量・質という区分にこだわらずに適切な方法を取捨選択するべきだろう、という月並みといえば月並みな考えに至った。
ただ、この考えでも量と質による優劣があるという発想にはならなくとも、両者が至る真理には溝があり、違うものを見ているという結論になってしまうかもしれない。果たして、本当にそうなのだろうか。これについては、社会学者のMario SmallのHow many cases do I need?という論文がアサインされた時に得た知見がとても役に立っている。
この論文は、質的調査法で指定された文献だけではなく、今年読んだ論文の中でも最も面白いものの一つだったことを覚えている。Smallはアメリカで著名なエスノグラファーであり、都市社会学などで多くの業績を残している。彼は最初に、都市の貧困や階層研究では量・質双方の研究が参入していることを指摘する。これらの分野では、量の人から質の研究に対してコメントがくるため、質の人も統計的な用語に従い「代表性」がないサンプルがいかに「バイアス」含みかを気にする。
しかし、彼に言わせれば,そういう議論は不毛なのだという。まず、量の人が質の人に対するなぜかける「代表性」は完全に量のロジックにおける「代表性」である。つまり、分析の対象とする集団が一体何を代表しているのかを、サンプリングのロジックで正当化する際の「代表性で」ある。この考え方は計量的なアプローチを取る人にとってはほぼ唯一の「代表性」のロジックとして受け入られており、特に外的妥当性を重視する人口学者にとっては重要な基準である。
しかし、Smallによれば、計量分析における「代表性」を質的研究に当てはめることは不毛であり、質的研究は一体何を経験的に明らかにしようとしているのかをマンチェスター学派の研究を引用しつつ論じている。その内容は、量と質では依拠する推論の方法が異なり、その推論から導かれる経験的な知見も違うというもので、そこまで新しいものではない。しかし、私が重要だと思ったのはその「推論」の内容で、Smallは二つの推論の方法を紹介している。一つが「統計的な推論」であり、統計的なアプローチを使って外的な妥当性に関して言及するのはまさしくこの統計的なロジックが用いられる場面になる。もう一つは「論理的な推論」であり、これはある分析枠組みの中で二つ以上の特徴を結びつけることを指す。過程追跡は探偵的な作業に例えられることがあるが、こうした証拠に基づいて事件の推論をするのはまさしく「論理的な推論」に当たる。
ここで重要なのは、計量的なアプローチは「統計的な推論」だけではなく「論理的な推論」も行なっているという点である。変数間に関係性があることを統計的に確かめることはでき、それによって統計的な推論から導かれる仮説はテストされるが、なぜその変数同士に関連があるか、そのメカニズムを想定するのは論理に依存する。これに対して、質的なアプローチでは統計的な推論がなく、主として論理的な推論に依拠して仮説がテストされている。
強調するべきは、「統計的な推論」ができないために質的調査は劣っているという発想は誤りであるというものだ。なぜならば、統計的な推論を用いた研究においても、論理的な推論がなければ統計分析の結果は空虚なものに終わってしまうからである。量質とも本質的に重要なのは「どのようにして世界が成り立っているのか」に関する理論であり,その理論から導かれる論理的な推論である。したがって、質的調査に対して計量アプローチの研究者が「ケース数が足りない」というのは、質的調査にも統計的な推論が用いられるべきという誤った想定に基づいている。
私がこの論文、あるいは授業での他のリーティングを通じて読み取ったことは、量と質は(実証主義的アプローチを取る限りは)最終的に論理的なロジックに依拠して問いを検証しているのだから、その限りにおいては両者は同じ経験的な研究として議論されるべきだろうというものである。量と質が対立しているというのはかなりミスリーディングな議論で、強調すべきは実証主義的な世界観と解釈主義的な世界観なのではないか、という気もする。もっとも、この二つの立場も同じ研究者の中に並存し、明らかにしたい問いによって実証主義的に考えるか、解釈主義的に考えるかは分かれるとした方が良いだろうと考えている。例えば,人口学でもある人種や性別を所与のものとして実証主義的に分析することはあるが,人々が人種をどのようにidentifyしていて、その意味づけにはどういう根拠があるのかを探るアプローチも、実証主義的な研究と同様に重要だと考えている。
とはいえ、質的調査法の授業を取る必要はない。なぜかというと、弊学のコースワークでは質的調査法は必修ではないからである。これに対して、統計は複数の授業が必修として設定されている。社会学や政治学では時折、分析対象への方法的なアプローチとして「量」と「質」という(かなり不毛な)対立がある。この対立が不毛な理由はいくつもあるが、非学術的な理由によって対立が深くなっているのも、その不毛さに拍車をかけている。典型的な要因は「お金」である。計量アプローチの研究はファンディングと結びつきやすい。弊学部に関していえば、人口学研究所がRAなどを供給する巨大な組織となっているが、この研究所は名前の通り人口学者が在籍しているが,彼らは基本的には計量的なアプローチで対象に迫る(もちろん、批判的人口学のように質的アプローチによる人口学的研究も存在するが、マイナーである)。そのため、計量的な分析に関心があり,スキルがある人の方がRAのポジションを得るのには有利で、反対に質的調査をするような人には十分なファンディングの機会がないため、彼らはティーチングを行うことが多い。学生同士で量と質によるイデオロギー上の対立は(表面的には)ないのだが、学生にとってファンディングの機会は死活問題なので,潜在的に量質によって機会に格差があり、それは不満の温床になっているかもしれない。教員同士では(噂で聞く限りは)量と質の対立はよりリアルらしく、教員採用をめぐっては量の人は量の人を好み,質の人は質を好むという対立があるらしい(実際に確認できる類のものではないのでわからない)。当たり前といえば当たり前と思う人もいるかもしれないが、別に全ての研究が量と質に二分できるわけでもなく、同じサブスタンティブな関心を共有する人同士で量の人もいれば質の人もいる領域はあるわけなので、個人的にはこのような対立を煽るようなことはしたくない。
量と質が本質的に違うという想定は個人的には嘘だと思っているのだが、そういう誤解が広がる原因は教育にもある。「量」の人は「質」の方法を勉強しない傾向が本学では強いので、「量」の人は質的研究で何ができるのか・できないのかに関して誤解をしており、その結果「質よりも量の方が〜〜」といった意味不明な比較をすることがある。本学に関しては「質」の人は「量」の勉強をしなくてはいけないのに,「量」の人は「質」を勉強する必要がないというのは端的にいってアンフェアだと思ったので、今回履修することにした。
さて、授業の方であるが、大学院セミナーなので基本的に毎回文献が大量にアサインされてそれを元に議論、というスタイルである。先学期は人口学の大学院セミナーだけで手一杯で、今学期はそれに加えてもう一つセミナーを取ろうというのだから、最初から無理があった。実際、指定された文献を読み終わらないこともよくあり、十分消化できたかと言われると難しい。質的調査法や政治学を学んでいる人であればすでに読んでいるか、あるいは関心の近い論文もあるだろうが、そのいずれにも当てはまらない自分にとってはアサインされる文献はどれも自分の研究とは縁遠いものであり、アプローチするのは大変だった。
カバーされたのは質的調査の考えを把握するにあたり重要になる基礎的な内容(存在論、認識論,概念、実証主義・解釈主義、ケース、一般化)などから始まり、その後具体的な手法(参与観察、インタビュー、エスノグラフィ、過程追跡と経路依存、アーカイブ)について、具体的な研究と方法論的な論文で理解し、最後に倫理的な事項にも触れた。政治学の授業ではあったが、何回か社会学の文献がアサインされることもあり、多少は親近感を覚えたが,それでも自分では読まないような論文ばかりだった。
そういうわけで、毎回が新しい発見であると同時に、果たしてこれらの論文を読んで,どのように自分の研究にフィードバックできるのか、悩むことも多かった。まだ納得する結論は出せていないが、最低限、質的アプローチのロジックを理解した上で,そうしたロジックが計量的なアプローチに対して優れているとか、劣っているという発想はやめ、どういった事象を理解したい時に、どういった方法を使うべきなのか、という軸で量・質という区分にこだわらずに適切な方法を取捨選択するべきだろう、という月並みといえば月並みな考えに至った。
ただ、この考えでも量と質による優劣があるという発想にはならなくとも、両者が至る真理には溝があり、違うものを見ているという結論になってしまうかもしれない。果たして、本当にそうなのだろうか。これについては、社会学者のMario SmallのHow many cases do I need?という論文がアサインされた時に得た知見がとても役に立っている。
この論文は、質的調査法で指定された文献だけではなく、今年読んだ論文の中でも最も面白いものの一つだったことを覚えている。Smallはアメリカで著名なエスノグラファーであり、都市社会学などで多くの業績を残している。彼は最初に、都市の貧困や階層研究では量・質双方の研究が参入していることを指摘する。これらの分野では、量の人から質の研究に対してコメントがくるため、質の人も統計的な用語に従い「代表性」がないサンプルがいかに「バイアス」含みかを気にする。
しかし、彼に言わせれば,そういう議論は不毛なのだという。まず、量の人が質の人に対するなぜかける「代表性」は完全に量のロジックにおける「代表性」である。つまり、分析の対象とする集団が一体何を代表しているのかを、サンプリングのロジックで正当化する際の「代表性で」ある。この考え方は計量的なアプローチを取る人にとってはほぼ唯一の「代表性」のロジックとして受け入られており、特に外的妥当性を重視する人口学者にとっては重要な基準である。
しかし、Smallによれば、計量分析における「代表性」を質的研究に当てはめることは不毛であり、質的研究は一体何を経験的に明らかにしようとしているのかをマンチェスター学派の研究を引用しつつ論じている。その内容は、量と質では依拠する推論の方法が異なり、その推論から導かれる経験的な知見も違うというもので、そこまで新しいものではない。しかし、私が重要だと思ったのはその「推論」の内容で、Smallは二つの推論の方法を紹介している。一つが「統計的な推論」であり、統計的なアプローチを使って外的な妥当性に関して言及するのはまさしくこの統計的なロジックが用いられる場面になる。もう一つは「論理的な推論」であり、これはある分析枠組みの中で二つ以上の特徴を結びつけることを指す。過程追跡は探偵的な作業に例えられることがあるが、こうした証拠に基づいて事件の推論をするのはまさしく「論理的な推論」に当たる。
ここで重要なのは、計量的なアプローチは「統計的な推論」だけではなく「論理的な推論」も行なっているという点である。変数間に関係性があることを統計的に確かめることはでき、それによって統計的な推論から導かれる仮説はテストされるが、なぜその変数同士に関連があるか、そのメカニズムを想定するのは論理に依存する。これに対して、質的なアプローチでは統計的な推論がなく、主として論理的な推論に依拠して仮説がテストされている。
強調するべきは、「統計的な推論」ができないために質的調査は劣っているという発想は誤りであるというものだ。なぜならば、統計的な推論を用いた研究においても、論理的な推論がなければ統計分析の結果は空虚なものに終わってしまうからである。量質とも本質的に重要なのは「どのようにして世界が成り立っているのか」に関する理論であり,その理論から導かれる論理的な推論である。したがって、質的調査に対して計量アプローチの研究者が「ケース数が足りない」というのは、質的調査にも統計的な推論が用いられるべきという誤った想定に基づいている。
私がこの論文、あるいは授業での他のリーティングを通じて読み取ったことは、量と質は(実証主義的アプローチを取る限りは)最終的に論理的なロジックに依拠して問いを検証しているのだから、その限りにおいては両者は同じ経験的な研究として議論されるべきだろうというものである。量と質が対立しているというのはかなりミスリーディングな議論で、強調すべきは実証主義的な世界観と解釈主義的な世界観なのではないか、という気もする。もっとも、この二つの立場も同じ研究者の中に並存し、明らかにしたい問いによって実証主義的に考えるか、解釈主義的に考えるかは分かれるとした方が良いだろうと考えている。例えば,人口学でもある人種や性別を所与のものとして実証主義的に分析することはあるが,人々が人種をどのようにidentifyしていて、その意味づけにはどういう根拠があるのかを探るアプローチも、実証主義的な研究と同様に重要だと考えている。
May 8, 2019
社会学者から見た因果推論の一例を人口学徒が解釈する
今学期は必須の授業の一つである統計の授業を取っていたのですが、先ほど期末試験が終わりました。まだ最終的な成績は分かりませんが、一学期間授業を取った所感を残しておきます。
統計の授業なのですが、先学期は今学期と違う先生が線形回帰までを教えてくれて、今学期は社会学の因果推論では知られた先生が講義を担当しています。先学期がSOC361で、今学期が362です。番号でわかる方はわかると思いますが、この授業は学部生も取れる授業です。ただし、社会学博士課程の必修になっているほか(一定の条件を満たすとwaiveは可能)隣接領域(社会福祉、教育政策、教育心理)の院生も多く取っていました。したがって、学部生にとっては恐らく難易度はかなり高い授業だと思います。私も一学期間とってみて、レベル的には700番台(院生向けの授業の中級?)くらいだなと思いました。
因果推論は奥が深いですが、この授業では観察データから因果効果をestimate(推定)する方法(傾向スコアなど)、及び因果効果をidentify(同定?)する方法(RDD, IVなど)の双方がカバーされていて、因果推論の世界は一通りカバーされていた印象です。ただ、時折effect heterogeneityの話を急に深く踏み込んだり、先生の最近の関心であるネットワークにおける因果効果の例が出てくるなど、応用的な話もあるので、全体としては中級と上級の間くらいのラインアップだったと思います。
この授業の特筆すべき特徴は、DAGと呼ばれるグラフィカルに因果推論にアプローチする方法がほぼ全ての授業で紹介されている点です。後半の授業になると、例えばDIDの回であれば、最初にエコノメチックな紹介をした後、これをDAGで表現するとどうなるかという、非常にマニアックといえばマニアックな世界に入る構成になってきました。DAGのメリットは多くありますが、理論の中で考える変数間の関係性をcausal, cofounding, colliderの三つに分けることで、どのようなモデルを自分が想定しているのか、またその想定のもと変数を条件づけていくとどこでまずいことが起こるか(具体的にはcolliderを条件づけることによるendogeneous selection bias)を、非常に分かりやすく可視化してくれる点にあると思いました。また、DAGのpath modelで表される変数間の関係性はそのまま分析する人が想定する理論(data generating process)へと直結するため、potential outcome modelを想定した上で、理論と実際のモデリングの世界を架橋してくれる道具でもある点が非常に便利だなと思いました。
タイトルとの関連で本題に入ると、私は授業を取る前に、因果推論に対してはエコノメや最近では政治学の人がかなり時間をかけて取り組んでいるテーマで、そういう人たちは(当たり前といえば当たり前ですが)、実験的な環境における因果効果を理想とした上で、どう現実を実験の環境に近づけるかという思考で研究をしているという印象を持っていました。そういうこともあり、この授業の先生も、観察データからいかに因果効果を導くかに関心があり、ともすればそれ以外の記述的な研究の価値をあまり評価していないのではないかと思っていた節がありました。
この授業を取った嬉しい誤算の一つは、先生がそうした因果推論至上主義(またの名を因果推論警察、私はそんな言葉を使ったりはしませんが)の流れにいる人では必ずしもなかったということでした。どちらかというと、因果推論の力を認めつつも、その短所も同時に指摘することで、従来主流だったアプローチが必ずしも意味をなさないわけではないと示唆することが多かったように思います。
どれだけエコノメの授業で強調されるのかは分かりませんが(ある程度は強調されるとは思いますが)、どの因果推論のアプローチも、外的妥当性の問題を抱えています。例えばIVやRDDを使った推定はLATEになるため、その因果効果がどれだけ一般化できるのかについてはわからないところがあります。傾向スコアも、まずは観察される変数でバランスできているのかという問題と、マッチングに関してはマッチされなかった集団を分析から除くことでどれだけ求められる因果効果が集団全体に適用可能なのかも分かりません。そもそも実験的なアプローチについても、対象となる集団の代表性については問題とならないため、因果効果を求めても外的妥当性の問題はなお残ります。
この授業を取るまでは、固定効果なども含めてエコノメから発展してきたこれらの手法は非常に強力で、やはりどの研究者もこうしたアプローチを分析に取り込むべきなのだろうかと考えていたこともありました。授業をとってみて変わった点は、当たり前に聞こえるかもしれませんが、因果推論的なアプローチを取るかは問いによるというものです。
何かしらの手法を駆使して因果効果を求めることが適切な問いである場合もあると思いますが(特に介入が可能な政策効果などの場合)、外的妥当性が議論のコアになるような問題については、必ずしもこのアプローチを取る必要はないのかなと考えています。そして社会学、あるいは人口学的な志向を持つ社会学的な研究ではこの外的妥当性の考えにより比重を置いているという印象を持っています。代表性を気にしなければ、依拠するサンプルが何だろうと因果効果を求めて一つの貢献になるのかもしれません。
しかし、一旦外的妥当性を気にし始めると、その分析が想定している母集団とは一体何なのかという疑問が解決しない限り、その研究を評価することが難しくなります。少なくとも人口学、あるいは人口学的な志向を持って研究している社会学の人にとっては、想定する母集団がまずあり、その集団において何が起こっているかを理解しようと考える傾向が強い(と私は勝手に感じている)ので、まずは集団の明確な定義が必要になります。また、社会制度や規範の変化に伴って学歴と結婚、年齢と性別役割意識の関係は変わったのか、あるいはそれらの関係は国ごとに異なるのか、という構成的な問いを立てることも多いため、こういう研究の場合も、対象とする母集団が明確になっていないと、どの集団とどの集団を比較しているのかよくわからなくなってきます。
以上述べたような問いに関心がある場合は、ひとまず因果推論的な考えは多少棚に上げて記述的にみてみることも大切かなと、改めて考えているところです。もちろん、例えば学歴と結婚の関係が1960年代と2000年代で変わった場合、可能性としては(1)学歴の結婚に対する因果効果が本当に変わった、という説と(2)学歴と結婚の間にある交絡要因が変わったという説の少なくとも二つが考えられますが、こういった時点間で因果関係が変わっていることに対して、因果推論の人はどのようにアプローチするのか、私はまだ(どれくらい意義があるかも含めて)よく分かっていません。なぜかというと、これまで授業やそれ以外の機会で読んできた因果推論の文献は、ある特定の集団を対象にした時の因果効果に言及することがほとんどで、その関係が他の集団、あるいは同じ集団でも異なる時点で異なることに関心を向ける研究は知らないからです。
一般に、まずはassociationがあるかを確認して、それが本当にcausalなのかを確かめようというステップで因果推論の利点が紹介されることが多いように感じるのですが、上記のような問いはまさしくassociationalな問いで、数えきれない交絡があると考えられます。そういう現象に対して、どうやってcausalな問いを組みこんでいくか、そもそもそういう問いにどれだけ意味があるのかは、今後考えていく必要があるのかなと思っています。少し踏み込んで言えば、今までassociationからcausationへという、両者は架橋できるという意味を含んだ言葉で回収されてきたassociationalな問いの一部は、実はconstitutionalな問いといったほうが適切なのであって、constitutionalな問いとcausalな問いを架橋することは一見すると簡単そうに思えて、実はかなり距離があって難しいのではないかというものです。先の例を使うと、「学歴と結婚の関係はこの50年間で変わったのか」という問いと、「学歴が結婚に対して与える因果効果はどれくらいか」という問いの二つは、似ているように見えて、実は翻訳が不可能なのではないか、ということができます。
そういう点について改めて考える機会を与えてくれた今学期の統計の授業でした。
統計の授業なのですが、先学期は今学期と違う先生が線形回帰までを教えてくれて、今学期は社会学の因果推論では知られた先生が講義を担当しています。先学期がSOC361で、今学期が362です。番号でわかる方はわかると思いますが、この授業は学部生も取れる授業です。ただし、社会学博士課程の必修になっているほか(一定の条件を満たすとwaiveは可能)隣接領域(社会福祉、教育政策、教育心理)の院生も多く取っていました。したがって、学部生にとっては恐らく難易度はかなり高い授業だと思います。私も一学期間とってみて、レベル的には700番台(院生向けの授業の中級?)くらいだなと思いました。
因果推論は奥が深いですが、この授業では観察データから因果効果をestimate(推定)する方法(傾向スコアなど)、及び因果効果をidentify(同定?)する方法(RDD, IVなど)の双方がカバーされていて、因果推論の世界は一通りカバーされていた印象です。ただ、時折effect heterogeneityの話を急に深く踏み込んだり、先生の最近の関心であるネットワークにおける因果効果の例が出てくるなど、応用的な話もあるので、全体としては中級と上級の間くらいのラインアップだったと思います。
この授業の特筆すべき特徴は、DAGと呼ばれるグラフィカルに因果推論にアプローチする方法がほぼ全ての授業で紹介されている点です。後半の授業になると、例えばDIDの回であれば、最初にエコノメチックな紹介をした後、これをDAGで表現するとどうなるかという、非常にマニアックといえばマニアックな世界に入る構成になってきました。DAGのメリットは多くありますが、理論の中で考える変数間の関係性をcausal, cofounding, colliderの三つに分けることで、どのようなモデルを自分が想定しているのか、またその想定のもと変数を条件づけていくとどこでまずいことが起こるか(具体的にはcolliderを条件づけることによるendogeneous selection bias)を、非常に分かりやすく可視化してくれる点にあると思いました。また、DAGのpath modelで表される変数間の関係性はそのまま分析する人が想定する理論(data generating process)へと直結するため、potential outcome modelを想定した上で、理論と実際のモデリングの世界を架橋してくれる道具でもある点が非常に便利だなと思いました。
タイトルとの関連で本題に入ると、私は授業を取る前に、因果推論に対してはエコノメや最近では政治学の人がかなり時間をかけて取り組んでいるテーマで、そういう人たちは(当たり前といえば当たり前ですが)、実験的な環境における因果効果を理想とした上で、どう現実を実験の環境に近づけるかという思考で研究をしているという印象を持っていました。そういうこともあり、この授業の先生も、観察データからいかに因果効果を導くかに関心があり、ともすればそれ以外の記述的な研究の価値をあまり評価していないのではないかと思っていた節がありました。
この授業を取った嬉しい誤算の一つは、先生がそうした因果推論至上主義(またの名を因果推論警察、私はそんな言葉を使ったりはしませんが)の流れにいる人では必ずしもなかったということでした。どちらかというと、因果推論の力を認めつつも、その短所も同時に指摘することで、従来主流だったアプローチが必ずしも意味をなさないわけではないと示唆することが多かったように思います。
どれだけエコノメの授業で強調されるのかは分かりませんが(ある程度は強調されるとは思いますが)、どの因果推論のアプローチも、外的妥当性の問題を抱えています。例えばIVやRDDを使った推定はLATEになるため、その因果効果がどれだけ一般化できるのかについてはわからないところがあります。傾向スコアも、まずは観察される変数でバランスできているのかという問題と、マッチングに関してはマッチされなかった集団を分析から除くことでどれだけ求められる因果効果が集団全体に適用可能なのかも分かりません。そもそも実験的なアプローチについても、対象となる集団の代表性については問題とならないため、因果効果を求めても外的妥当性の問題はなお残ります。
この授業を取るまでは、固定効果なども含めてエコノメから発展してきたこれらの手法は非常に強力で、やはりどの研究者もこうしたアプローチを分析に取り込むべきなのだろうかと考えていたこともありました。授業をとってみて変わった点は、当たり前に聞こえるかもしれませんが、因果推論的なアプローチを取るかは問いによるというものです。
何かしらの手法を駆使して因果効果を求めることが適切な問いである場合もあると思いますが(特に介入が可能な政策効果などの場合)、外的妥当性が議論のコアになるような問題については、必ずしもこのアプローチを取る必要はないのかなと考えています。そして社会学、あるいは人口学的な志向を持つ社会学的な研究ではこの外的妥当性の考えにより比重を置いているという印象を持っています。代表性を気にしなければ、依拠するサンプルが何だろうと因果効果を求めて一つの貢献になるのかもしれません。
しかし、一旦外的妥当性を気にし始めると、その分析が想定している母集団とは一体何なのかという疑問が解決しない限り、その研究を評価することが難しくなります。少なくとも人口学、あるいは人口学的な志向を持って研究している社会学の人にとっては、想定する母集団がまずあり、その集団において何が起こっているかを理解しようと考える傾向が強い(と私は勝手に感じている)ので、まずは集団の明確な定義が必要になります。また、社会制度や規範の変化に伴って学歴と結婚、年齢と性別役割意識の関係は変わったのか、あるいはそれらの関係は国ごとに異なるのか、という構成的な問いを立てることも多いため、こういう研究の場合も、対象とする母集団が明確になっていないと、どの集団とどの集団を比較しているのかよくわからなくなってきます。
以上述べたような問いに関心がある場合は、ひとまず因果推論的な考えは多少棚に上げて記述的にみてみることも大切かなと、改めて考えているところです。もちろん、例えば学歴と結婚の関係が1960年代と2000年代で変わった場合、可能性としては(1)学歴の結婚に対する因果効果が本当に変わった、という説と(2)学歴と結婚の間にある交絡要因が変わったという説の少なくとも二つが考えられますが、こういった時点間で因果関係が変わっていることに対して、因果推論の人はどのようにアプローチするのか、私はまだ(どれくらい意義があるかも含めて)よく分かっていません。なぜかというと、これまで授業やそれ以外の機会で読んできた因果推論の文献は、ある特定の集団を対象にした時の因果効果に言及することがほとんどで、その関係が他の集団、あるいは同じ集団でも異なる時点で異なることに関心を向ける研究は知らないからです。
一般に、まずはassociationがあるかを確認して、それが本当にcausalなのかを確かめようというステップで因果推論の利点が紹介されることが多いように感じるのですが、上記のような問いはまさしくassociationalな問いで、数えきれない交絡があると考えられます。そういう現象に対して、どうやってcausalな問いを組みこんでいくか、そもそもそういう問いにどれだけ意味があるのかは、今後考えていく必要があるのかなと思っています。少し踏み込んで言えば、今までassociationからcausationへという、両者は架橋できるという意味を含んだ言葉で回収されてきたassociationalな問いの一部は、実はconstitutionalな問いといったほうが適切なのであって、constitutionalな問いとcausalな問いを架橋することは一見すると簡単そうに思えて、実はかなり距離があって難しいのではないかというものです。先の例を使うと、「学歴と結婚の関係はこの50年間で変わったのか」という問いと、「学歴が結婚に対して与える因果効果はどれくらいか」という問いの二つは、似ているように見えて、実は翻訳が不可能なのではないか、ということができます。
そういう点について改めて考える機会を与えてくれた今学期の統計の授業でした。
March 21, 2019
計量社会学とは?
6年前の記事だが、筒井先生が「計量社会学」について解説された記事がTL上に流れてきたので、私のここ最近の疑問と考えについて書いておく。
わたしたちが生きる社会はどのように生まれたのか
計量社会学者・筒井淳也氏インタビュー
日本よりも先に計量的な手法が発達したアメリカでは「計量社会学」がない。したがって、「計量社会学」に対する英訳もない(quantitative sociologyという言葉は全く聞かないし、quantitative methodsという表現はあるが、それは自分の研究手法を表現するもので、もし研究関心としてこの用語をあげたら、その人はメソドロジーが専門だと思われる)。
では、日本の「計量-」はアメリカでは何に該当するのか。私は社会人口学(social demography)だと思っている。
なぜならば、筒井先生の記事で言及されている、「計量-」が分析対象とする「社会」はほぼ「人口」によって代表されるものだからだ。ここでの人口の訳はpopulationであり、日本語では「母集団」とされるところのものである。
記事で挙げられている社会移動は、究極的には分析単位は個人の社会的地位の変化であり、それを集団レベルにまとめあげて社会における流動性を測定している。都市化による人口移動は、まさに人口学がコアとしてきたmigrationの一つである。核家族化、晩婚・非婚化を研究する社会学者の多くが家族人口学の研究者でもある。家族人口学とは、家族的な現象を人口レベルのデータから理解しようとする研究分野のことである。
「計量-」の研究者が頻繁に使う社会調査データを思い浮かべてみよう。JGSS, SSM, NFRJ...どれも(多少の年齢の区切りは異なるが)日本に住む人を対象とした無作為抽出の調査である。これらの調査は、ランダムサンプリングによって、対象となるサンプルが日本に住む人を代表するという条件を満たしている。したがって、より具体的に言えば、「計量-」の研究者が行なっているのは、サンプルの分析結果を母集団(人口)に一般化させた上で、その「人口」と社会を同一視している。
社会学者はそういう代表性のあるデータから、因果的言明は難しいが社会を「記述」することの強みを訴える。要するに、観察データからは因果推論をすることは難しい、という主張があるが、それに対して「いや、私たちが行なっているのは因果推論ではなく、社会の記述だ」という反論を社会学者は用意している。そのロジックは、まさに筒井先生の記事で「データをみながら社会の長期的変化を考える」という形で指摘されていることである。
しかし、どうやら計量社会学者の中にも因果推論をする人もいると筒井先生は考えているらしく、どうも歯切れが悪い。人口学者の中にも、確かに因果推論をする人はいるが、彼らの関心はpopulation levelにおける政策効果などである。その限りにおいては、彼らも分析対象は「人口」であり、何も矛盾はない。私からすれば、社会学は記述で、経済学は因果推論という考え方自体はナンセンスに感じる。
「計量-」の研究者の分析対象はあくまで「社会」であって、それは「人口」に還元されるものではない、と主張することもできるだろう。しかし、それは実際の分析において「人口」に還元されない「社会」を明らかにできる限りにおいてである、と考える。「人口」に還元されない「社会」を表現する術を計量社会学者が持っているかというと、私はそう思わない。彼らが行なっている社会を記述する作業というのは、社会と定義されるところの人口を介して理解されている、というのが私の考えである。したがって、「計量-」の研究者が分析しているものは「人口」であって、明らかにしたい対象が「社会」である場合、「人口」は「社会」の操作的な定義になる。
私は別に「社会」がないと言っているわけではない。「人口」に還元されない「社会」もあるかもしれない、というか、あると考えるのが社会学だろう。私は、自分の研究で分析しているのは「人口」だが、その背景には「社会」があると考えている。社会の変化があって人口も変化する。ただ、データから社会は直接観察できないから、人口を介して観察する。
「計量-」の研究者が持っているデータや分析手法では、あくまで対象は「人口」であるというのが私の考えだが、その意識を持つことで、それまで縁遠いと思っていた分野に対してアプローチできる利点もある。アメリカでは、日本で「計量-」に分類されるような研究者の多くがアメリカ人口学会(PAA)に参加している。PAAは人口学の学会だが、ピュアの人口学者が学会に占める割合は少なく、多くが社会学者と経済学者からなる集まりである。社会学会と比べた時のPAAの特徴は、非常に経験的な分析を重視すること、とりわけ人口データ(センサスなどの官庁統計や社会調査データ)を用いた分析を重視することがあげられる。こうした特徴のため、理論的な志向性は薄い。
広く「人口」に関心がある研究者が集まるこの学会は分野横断的である。先ほど挙げた社会移動、都市化、家族、他にも多くの分野からなる研究が報告されている。当該分野では目にすることのない新しいデータ、新しい手法に出会うことも多く、発見に満ちている。自分たちが対象としているのが「人口」であると視点を変え、PAAに参加すれば、こうした新しい出会いが待っているのに、なぜ日本の計量社会学の人たちはPAAに参加しないのだろうか。これは私がこの数ヶ月解決できていない謎の一つである。
わたしたちが生きる社会はどのように生まれたのか
計量社会学者・筒井淳也氏インタビュー
日本よりも先に計量的な手法が発達したアメリカでは「計量社会学」がない。したがって、「計量社会学」に対する英訳もない(quantitative sociologyという言葉は全く聞かないし、quantitative methodsという表現はあるが、それは自分の研究手法を表現するもので、もし研究関心としてこの用語をあげたら、その人はメソドロジーが専門だと思われる)。
では、日本の「計量-」はアメリカでは何に該当するのか。私は社会人口学(social demography)だと思っている。
なぜならば、筒井先生の記事で言及されている、「計量-」が分析対象とする「社会」はほぼ「人口」によって代表されるものだからだ。ここでの人口の訳はpopulationであり、日本語では「母集団」とされるところのものである。
記事で挙げられている社会移動は、究極的には分析単位は個人の社会的地位の変化であり、それを集団レベルにまとめあげて社会における流動性を測定している。都市化による人口移動は、まさに人口学がコアとしてきたmigrationの一つである。核家族化、晩婚・非婚化を研究する社会学者の多くが家族人口学の研究者でもある。家族人口学とは、家族的な現象を人口レベルのデータから理解しようとする研究分野のことである。
「計量-」の研究者が頻繁に使う社会調査データを思い浮かべてみよう。JGSS, SSM, NFRJ...どれも(多少の年齢の区切りは異なるが)日本に住む人を対象とした無作為抽出の調査である。これらの調査は、ランダムサンプリングによって、対象となるサンプルが日本に住む人を代表するという条件を満たしている。したがって、より具体的に言えば、「計量-」の研究者が行なっているのは、サンプルの分析結果を母集団(人口)に一般化させた上で、その「人口」と社会を同一視している。
社会学者はそういう代表性のあるデータから、因果的言明は難しいが社会を「記述」することの強みを訴える。要するに、観察データからは因果推論をすることは難しい、という主張があるが、それに対して「いや、私たちが行なっているのは因果推論ではなく、社会の記述だ」という反論を社会学者は用意している。そのロジックは、まさに筒井先生の記事で「データをみながら社会の長期的変化を考える」という形で指摘されていることである。
しかし、どうやら計量社会学者の中にも因果推論をする人もいると筒井先生は考えているらしく、どうも歯切れが悪い。人口学者の中にも、確かに因果推論をする人はいるが、彼らの関心はpopulation levelにおける政策効果などである。その限りにおいては、彼らも分析対象は「人口」であり、何も矛盾はない。私からすれば、社会学は記述で、経済学は因果推論という考え方自体はナンセンスに感じる。
「計量-」の研究者の分析対象はあくまで「社会」であって、それは「人口」に還元されるものではない、と主張することもできるだろう。しかし、それは実際の分析において「人口」に還元されない「社会」を明らかにできる限りにおいてである、と考える。「人口」に還元されない「社会」を表現する術を計量社会学者が持っているかというと、私はそう思わない。彼らが行なっている社会を記述する作業というのは、社会と定義されるところの人口を介して理解されている、というのが私の考えである。したがって、「計量-」の研究者が分析しているものは「人口」であって、明らかにしたい対象が「社会」である場合、「人口」は「社会」の操作的な定義になる。
私は別に「社会」がないと言っているわけではない。「人口」に還元されない「社会」もあるかもしれない、というか、あると考えるのが社会学だろう。私は、自分の研究で分析しているのは「人口」だが、その背景には「社会」があると考えている。社会の変化があって人口も変化する。ただ、データから社会は直接観察できないから、人口を介して観察する。
「計量-」の研究者が持っているデータや分析手法では、あくまで対象は「人口」であるというのが私の考えだが、その意識を持つことで、それまで縁遠いと思っていた分野に対してアプローチできる利点もある。アメリカでは、日本で「計量-」に分類されるような研究者の多くがアメリカ人口学会(PAA)に参加している。PAAは人口学の学会だが、ピュアの人口学者が学会に占める割合は少なく、多くが社会学者と経済学者からなる集まりである。社会学会と比べた時のPAAの特徴は、非常に経験的な分析を重視すること、とりわけ人口データ(センサスなどの官庁統計や社会調査データ)を用いた分析を重視することがあげられる。こうした特徴のため、理論的な志向性は薄い。
広く「人口」に関心がある研究者が集まるこの学会は分野横断的である。先ほど挙げた社会移動、都市化、家族、他にも多くの分野からなる研究が報告されている。当該分野では目にすることのない新しいデータ、新しい手法に出会うことも多く、発見に満ちている。自分たちが対象としているのが「人口」であると視点を変え、PAAに参加すれば、こうした新しい出会いが待っているのに、なぜ日本の計量社会学の人たちはPAAに参加しないのだろうか。これは私がこの数ヶ月解決できていない謎の一つである。
December 23, 2018
博士課程1学期目
この1週間、時間ができたので今学期までに書き上げたいと思っていた論文をずっと書いていた。おかげで、体調が悪いというか、今日は何もする気が起きない。代わりに、今学期を振り返っておきたいと思う。
8月後半からの4ヶ月は、本当に変化の激しい日々だった。毎日誰かしら新しい人と出会い、新しい考えに触れ、学び、時間はあっという間に過ぎて行った。それらをいくつかの単語にまとめれば、コースワーク、研究、ジョブトーク、メンタルヘルス、アイデンティティなどになる。時系列で追っていくには、これらが互いに深く結びついているので難しい。したがって、一つずつ懐古的に振り返っておく。
コースワーク
博士課程の学生として、コースワークは当たり前にこなさなければいけない。今学期は、統計学、人口学方法論(形式人口学)、人口学大学院セミナーを履修した。加えて、単位としては博士課程に入学したコーホートで一緒に受けるプロセミナー(professional developmentの側面が強い)、及び所属する人口学研究所のセミナーを二つ履修した。
私もまだ区別がうまくできないのだが、アメリカではインタラクティブに学ぶ機会を全てセミナーと括れてしまう気がする。日本でいう「ゼミ」もセミナーだし、外部のスピーカーを招いて報告してもらい、議論するのもセミナーである。ただ、各々のセミナーの性格は異なっていて、ゼミに近い大学院セミナーと呼ばれるものはこちらが文献を読んで、議論し、最後にタームペーパーを書くという意味では、もっともコースワークに準拠している。これに対して、外部のスピーカーを招く研究所のセミナーはブラウンバックと呼ばれることもあり、オーディエンスは学生に限らず誰にでも開かれており、最先端の研究について皆で議論し合う機会になっている。また、外部から来たスピーカーは、大抵1ー2日大学に滞在し、セミナーでのトーク以外にも、招聘した研究所や学部のファカルティ(教員)との面談やディナー、あるいは院生とのランチを共にする。おそらく、ファカルティとのディナーではより突っ込んだ話をするだろうし、その先生が現在の所属先に対してなんらかの不満を抱えている場合には、将来的にオファーを出そうとするのかもしれない。院生は、外部のスピーカーと積極的にコンタクトを取ることを勧められている。もちろん、コネを作るという意味もあるだろうが、トークに来る先生の研究は、その分野の最先端であることが多いので、学生に対して新しい研究と触れ合う機会を提供しているものと思われる。このように、アメリカの大学院は日頃から外部の研究者とのインタラクションが多く、非常に流動性に満ちている。
早速脱線してしまったが、研究所のセミナーはコースワークと研究、並びにprofessional developmentが分け難く結びついていることの好例だろう。私が人口学研究所に所属しているので、セミナーに出ることを通じて単位も履修している。その意味では、これらのセミナーは教育の機会として提供されているが、新しい研究に触れるという意味では、自分の研究に対するフィードバックの役割もあるし、スピーカーとの個人的な話の中で、どういった就活の戦略をすれば良いかなどについてアドバイスをもらうのはPDの側面が強い。
メインで履修している3科目はテストやレポートがあるという意味で、日本でもよくある授業である。興味深いことに、私は社会学部に所属しているが、今学期は社会学らしい授業を一つも履修していないし、来学期も履修しない予定である。これは、私が人口学研究所に所属していることと関係する。アメリカでは、伝統的に人口学が社会学者によって発展してきた経緯があり、社会学部と人口学の距離が非常に近い。アメリカでは人口学部もあり、自らをピュアな人口学者として定義している人もいるが、そういう人は割合としてはかなり少なく、アメリカ人口学会は社会学者や経済学者が中心になって運営されている。ウィスコンシンの人口学研究所(CDE)も、かつては社会学の下にあったが、学際的な研究教育体制を築くため、10数年前に独立したと聞いている。ちなみに、CDEは全米でもっとも遅く社会学部から独立した人口学研究所として知られており、このことはウィスコンシンにおいて社会学部と人口学の関係が非常に密接だったことを物語る。
独立したものの、現在でも社会学部と研究所の関係は深く、多くのファカルティの研究者が研究所にも所属しており、その中心を担っている。社会学部のカリキュラムにもそれは反映されており、minor in demographyやjoint degreeといった制度はないが、もし研究所に所属する場合は、博士課程の修了要件として社会学部が開講する人口学の必修科目を収める必要がある。ウィスコンシンの社会学部は、人口学的なアプローチによる研究では全米でも指折りの業績があるが、私はそのような環境で、社会学よりも人口学に比重のおいたコースワークを先に済ませている。1年目から人口学を履修する必要は必ずしもないが、最初のプレリムを人口学にしようと決めており、そのためにはあらかじめコースワークを履修しておくのが得策であると考えているからである。
といっても、全く社会学から縁遠い生活をしていたわけではない。コースワークの中で最も面白かったのは、人口学の大学院セミナーであった。最初は、古典のマルサスから始まり、人口転換の議論などをリーディングとして消化していったのだが、後半に入るにつれ、既存の人口学の研究の限界を指摘するような批判的な文献を多く読むようになった。人口学者の最大の関心は正確な数え上げ(counting)と人口予測にあるが、これらの背後にある想定を、社会学などの他分野の先行研究と合わせて読むことで、批判的に再検討する文献を読んだ。例えば、我々は人種を個人の属性として固定的なものと捉えがちであるが、実際にはセンサスや社会調査で収集されている人種とは、個人のracial identificationであり、要するに個人がどのようなraceに自分を帰属させているかという問題になる。個人のアイデンティティとして人種が定義される以上、それは流動的に変化しうる。人口学者は人種というカテゴリの不変性を想定しているが、社会学的な視点に立てばアイデンティティは社会的な状況に照らし合わされて変化しうる。また、人口学のみならず、低出生という「社会問題」は長く政策的な関心を呼んでいるが、近年になって一社会のジェンダー平等の進展が低出生を解決するという命題が人口学者から提起されるようになった。一見すると、ジェンダー平等が達成されると、夫の家事育児時間が増え、妻の出生意欲が増し、子どもが増えるというストーリーは理想的に聞こえるかもしれない。しかし、この理論の背景には、すでにジェンダー平等が達成されており、低出生国の中でも比較的出生力が高いとスウェーデンに代表される北欧諸国が他の社会が目指すべき「目標」になっている。社会の発展に伴ってジェンダー平等が進展すると考える点で、これは一種の収斂理論であるといってよいだろう。この理論は、近代化によって社会が一様に、線形的に変わりうるとするようなイデオロギーと何が違うのだろうか?実際には一時点の各社会のばらつきがあるに過ぎないのに、それを歴史的な発展になぞられる考え方はreading history sidewayとして批判されている。人口学は政策と非常に距離が近いために、こうした収斂理論の亜種のような理論を批判なく受け入れてしまう傾向があるのかもしれない。そうした研究に対して、社会学の批判的な視点が重要になるということを、今学期学んだ。日本では、人口学を体系的に学ぶことがそもそも難しい(それが私が日本を飛び出した理由の一つである)が、仮に海外に出て人口学を学べたとしても、今学期受講したような人口学に対する批判的な視点を養うようなプログラムが提供されていることは多くないのではないかと考えている。そういう意味で、私はこの大学に進学できて非常に良かったと思っている。
研究
学生としての本分は授業を履修して単位を取ることかもしれないが、実際には博士課程は研究者の養成機関であり、在学中から研究に勤しむことも重要である。特に、アメリカの社会学では近年になって、就職する際に最低1本査読付きの論文を持っていることが推奨されるようになったことを聞く。こうした状況の中で、院生はマーケットに出る前に最低一本、できれば複数のパブを持ち、就活することを目指している。この状況では、できるだけ長く大学院に在学した方がパブを稼げるので、院生の在学期間も長期化している。
とはいえ、一年目から論文を書く必要はないと考えられていることも事実である。コースワークと研究を両立することは容易ではないからだ、研究に時間を取られて単位を逃したら元も子もない。そもそも一年目から関心が定まっている人も多くないだろうし、在学中に関心が変わることについて、多くの教員は寛容であり、当たり前に起こると考えている。多くの社会学の院生にとって、少なくともうちの学部では、最初の投稿論文は修論が元になることが多い。修論を書いてから、研究者としてのファイティングポーズを取り、ラウンドに出るわけである。もちろん、その前に指導教員の研究をRAとして手伝いながら、学会で報告させてもらったり、論文に共著者として名前を載せてもらうこともある。
ここで個人的な事例になるが、私の場合には上記のような慣例は全く当てはまらなかった。それはすでに修士論文を書いてきたということもあるし、何よりそうした修士論文などを元にすでに論文を投稿していたからだった。結果として、今年は英語で2本、日本語も合わせれば5本の論文が出版及び掲載決定となった。
数だけ聞けば生産的にみえるかもしれないが、アメリカのマーケットで評価されるのは、英語のみである。また、英語の査読付きでも、(特にテニュアを取るまでの若い間は)トップジャーナルないしそれに準ずるような中堅以上のジャーナルに論文を載せることが推奨されている。別に自分が出したいところに出せばいいじゃないかと考えられるかもしれないが、ジョブマーケットではジャーナルのランクも重要になる。私が今回出版した2本の論文は、トップジャーナルではないが、その分野の研究者(人口学・階層論)の間ではよく読まれるものであり、テニュアをとった教員もよく載せているジャーナルなので、悪い評価にはならないだろう。それでも、最低限の業績といったところで、これからトップジャーナルに載せることが就活を有利にするために必要な作業になると考えている。現在の目標として、とりあえず毎年2本は中堅以上のジャーナルに掲載したい。そうすれば就活する頃には10本あるので、さすがに食いっぱぐれない気がする。また、そのうち2本はトップジャーナルに載せたい。とりあえずトップジャーナルから投稿してみることを勧められるので、ガチャに当たることを願うばかりだ。もちろん、10本、数として必ず載せようというのが具体的な目標ではなく、そのつもりで研究をしようということである。
論文に対しては、日本にいた時は闇雲に査読付き論文に出したいという気持ちが先行し、次第に投稿している論文がないと不安になってくる体質になってしまった。結果的に多くの論文を書けている要因はいくつかあるが(例えば、共著者の存在)、私はタイムマネジメントが得意なわけでは必ずしもなく、1週間や月単位で目標を定めることはあるが、1日にやることは得てして当日まで固まっていないことも多い。もし、他の人より論文を書くペースが早いとすれば、大きな理由の一つは、論文のハードルを高く設定していないことだろう。最初は、論文というものは何かしら大きな命題を唱えたり、先行研究を元に仮説を検証するものかと思っていた時期がある。こういう発想は必ずしも間違っておらず、長く読まれる論文というものやはり大きな主張をしている。しかし、研究者の論文が全てこのような論文であることは稀だろう。多くの研究者の業績は、社会学で言えば10年でgoogle scholarで20-30回引用されればいいくらいの論文が大半である。こうした論文の価値が低いかというと、そういうわけでは全くない。もちろん、本当に意義を疑うような論文もあるかもしれないが、多くの論文は、問いがシンプルであり、かつ非常にスペシフィックである。誰もやったことのない研究として新規性を打ち出すのだから、当たり前と言えば当たり前だが、その主張のインプリケーションが広い場合に、論文は分野を超えて多くの読者に読まれるのだと思っている。
したがって、初めから大きな主張をしようとせず、問いを分節化し、何が先行研究で見落とされてきたことなのか、何をアップデートするべきなのかを考えている。一つでもそれが見つかって、かつ相応の時間や資源的な制約の中で結果が出るのであれば、論文を書く。方法に自信がなかったり、違う分野の研究者の助言を募りたい時には共著者を見つける。そこまで難しくはない。論文ではせいぜいわかったことをシンプルに1-2つ書けば査読には通る(その「わかったこと」がなんらかの基準に照らし合わせて「新しく」なければいけないが)。ある程度数を稼ぐためには、こうした割り切りも必要だろうと思う。あとは、計画的でなくても良いので、常に論文を書いたり、分析を進めたり、文献を探したり、執筆途中の論文を常にアクティブにしておくことが必要だろう。ストレスになるかもしれないが、別に毎日全ての論文について考えるというわけではない、1ヶ月でいえば、最低2ー3日はその論文について上記のどれかに当てはまるような作業をして、共著者がいれば数ヶ月に一度しっかりミーティングをし、原稿を書き、再びミーティングをして詰め合わせ、学会や他の同僚の助言をもらい改稿し、またミーティングをして原稿を完成させ、投稿し、もしR&Rをもらえれば上記の作業を繰り返すように改稿する。そうしていれば、3-4ヶ月のスパンで論文を1本投稿し、1年に1-2本は出版できるだろう。常にアクティブな論文を複数持っておくことが重要である。査読によっては非常に時間がかかることもある。先日RSSMから出た論文は最初の査読が帰ってくるまで8ヶ月を要した。8ヶ月の間、その論文の結果を待っているだけではもったいない。8ヶ月あれば、2本は投稿し、2本は執筆中のステータスにできるだろう。常に問いを考え、アイデアとしてまとめ、人のアドバイスをもらいながら文章に残しておく作業が重要だと思う。
このように、私は論文を書くこと自体はそこまで難しくないのではないかと考えている。もちろん、英語で論文を書くためには、ライティングのスキルを身につける必要はあるが、最低限の教育を受けたら、ひたすら書いてコメントをもらう。そういう作業を1ー2年繰り返していれば、書くこと自体は苦ではなくなる。問題は、書いた論文が雑誌に載るかという問題であり、更に言えばトップジャーナルに載るかという問題である。私がアメリカに来た目的の一つは、この点と関係する。一つのargumentをロジカルに提示すれば論文にはなるが、今どのような研究が求められていて、主張をサポートするためにはどのような素材や方法が支持されていて、どのような研究に「意義」があると思われているのかは、実は社会的に決定されている部分も大きい。日本社会を対象とする場合には、単に日本の事例を検討してこういうことがわかりました、だけではアメリカのジャーナルには載りにくいだろう。残念ながら、アメリカの社会学はアメリカを前提に成立しているので、日本を対象にしたところで「なんでわざわざ日本なの?」と聞かれるのが関の山だからだ。これはtipsになるかもしれないが、私は自分の研究が日本から示唆を得て成立していることを前提に、日本の事例が当該分野の研究に対してどのようなpotential implicationをもたらすかを常に考えている。これは、誰も明示的に教えてくれないし、「アメリカでアメリカ以外の研究対象を選ぶ人のための研究入門」みたいな教科書があればよいが、そんなものは存在しない。しかし、この発想は必須である。詳細は省略するが、要するにアメリカだけを見ていては理論的な議論の重要な部分を見落としてたりするんじゃないでしょうか?という気持ちで私は論文を書いている。これが、日本を事例に研究を続けたいと考えているドメスティックな志向と、社会学や人口学一般の理論の上に貢献をしたいと考えているアカデミックな志向の妥協点になっている。ウィスコンシンに来て、この妥協点の上に立ちながら、どういう問いをRQとして提示するか、その問いを提示するまでにどういった先行研究を持ち出せばいいか、といった点に関しては、ファカルティや同僚から非常に大きな示唆を得ており、ここに来て良かったと考えている。私の日本を事例にした階層論や人口学に対する研究の姿勢は若干歪んでいるというか、素直に社会学部の教育を受けて出来上がるものでもないので、なかなか一言で言うのが難しい。ただ、今のような考えに至った経緯については後悔していないし、現在はこういうハイブリッドな考え方は、日本で教育を受け、研究している研究者とも異なり、アメリカで教育を受け、研究している研究者とも異なる、自分のオリジナリティだと思うようになっている。自分の考えに近いのは今の指導教員であり、彼はアメリカ人だが、日本に長く滞在し、基本的に全ての論文は日本を事例にしているが、アメリカのトップスクールでテニュアを取り評価を得ている。日本の事例を取り上げる際に陥ってしまう地域的な固有性を強調する志向を「脱文脈化」させつつ、アメリカを中心としてできて来た先行研究の知見自体も「脱文脈化」ないし「再文脈化」させる作業は、大変なことも多いがやりがいも感じる。
振り返ると、1学期目からこうした「妥協」をしているのは、何度か学会発表や査読、ないしインフォーマルな機会で自分の研究を英語圏の研究者に提示する機会を経て、(少々残念ではあるが)自分がやりたい研究が、相手が求めている研究と一致しない(=査読に通らない、評価されない)こともあるということを学んだからである。ただ、これは単に残念という言葉で片付けるには勿体無い。日本の文脈を共有していない読者に対して、社会学や人口学の一般的な理論の上に立って日本の事例を紹介する過程を通じて、著者自身が当初意図していなかったような、事例研究を飛び越えた意義を見つけることができるからである。この「英語論文の発見的作用」ともいうべき役割に気づくと、論文執筆は、単純に「今、日本がどうなっているのか」を明らかにすること以上の知的刺激に満ちた冒険になる。段々、私の考えが歪んでいることが伝わってきただろうか。私は自分が「妥協」をしているとは思っているものの、その妥協に対して積極的な意義を見出している。
ジョブトーク
アメリカに来て最もエキサイティングな経験として強く印象に残っているのがジョブトークであり、これは日本では目にすることがないイベントである。就活の慣行は分野によって異なるので、はじめにアメリカの社会学に関して確認しておく。まず、学部や研究所がポジションの募集を始める。ここで、分野を限らないオープンなものから、特定の分野に絞った公募をすることもある。また、social justiceとも関連するが、多様性を考慮してアカデミアでunderrepresentedされてきたマイノリティを優先的に雇用したり、学部の特段の必要性を満たすためのtarget of opportunity(ToO)といった制度もある。最近では、大学が主導して学際的な分野を作るための公募もあり、この場合は各ポジションに分野名が付され、そのポジションに採用された場合には所定の学部に所属しつつ、学際的なポジションにおける仕事もこなすcluster hireと呼ばれる制度もある。
このように、ポジションの募集自体は様々なメカニズムから成立するが、一度募集が始まれば、基本的にプロセスは似通っている。まずは書類選考。応募者はライティングサンプルやシラバスのサンプル、並びに履歴書や推薦状を用意して提出する。そこから、面接に呼ばれるのは1-3人ほど。非常に狭き門である。また、面接(フライアウト)も非常に過酷で、2ー3日の滞在中、プライベートな時間はほぼないといってよい。朝からファカルティの教員との朝食、ファカルティの車に乗って学部に行き、いくつかの個人面談、そしてメインイベントのジョブトーク、終了後に院生とのランチ、再び教員との個人面談、そして教員とのディナーといった予定が続く。cluster hireのように複数の分野にまたがる公募の場合には、二回ジョブトークをすることもある。人生で何度も経験したい類のものではない。しかし、ジョブトークは非常にエキサイティングなイベントである。まず、候補者は自分の就職がかかっているので、本当に自信のある研究を、何度も練習してプレゼンする。ファカルティも、仮に候補者を採用した場合、最低テニュアを取れるまで投資をしなくてはいけないし、テニュアを取れないような教員は(テニュア審査までに投資した分が戻ってこないため)採用したくないので、非常に慎重に審査する。特に、assistant professorのような若手を対象とした公募の際には、現在の業績だけではなく、その人がテニュアを取れるか、という意味で研究のポテンシャルという不確実なものを評価しなくてはいけないので、慎重さは極まる。表向きはみんなフランクで笑顔に満ちているが、これは表向きのパフォーマンスといったところで、複数の候補者から誰が学部に採用されるべきか、みんな真剣に考えている。学生たちも、将来ジョブトークの場に立つことを目標にしているわけで、生きた教材を直接目にできるられる機会は非常に恵まれているし、話から伝え聞くよりも勉強になることは多い。トップスクールに採用される候補者はトップスクールの出身者であることが多いのにはいくつか考えられる要因があるが、その一つはトップスクールの方が教員のポジションが相対的に多く、ジョブトークが頻繁に行われる。出してくる候補者も非常に優秀な人が多く、早くから就職活動について意識的になれることもあるだろう。
幸運なことに、今年は複数のジョブトークが行われ、一年目から多くのトークを目にすることができた。ToOが1つ、cluster hireが3つあり、うち社会学部が主催したトークが5つあり、合計6つのジョブトークに参加した。その中でも、候補者とのランチに5つ参加して、候補者の人たちから、色々と本音を聞くことができた。その中でも最も興味深かったのが、現代韓国研究のcluster hireであり、このポジションの最終候補者は全員社会学者だったので、3人のトークを聞くことができた。興味深いことに、このポジションは「現代韓国社会」を「質的な方法」で研究している人を採用するという、今後数十年アメリカでも見られないようなユニークな公募であった。また、最終候補者も全員が韓国人の女性研究者であり、様々な要因があらかじめ揃っており、いくつかの点について比較をすることができた。トークやランチに参加した院生はフィードバックを送ることが推奨されており、日本を対象に研究している自分にとっても、現代韓国研究の先生は関心が近い可能性が高く、慎重に、1日かけてフィードバックを作成した。自分なりに誰を採用したいかは考え、文章に残した。もちろん、自分の考えが決定に影響するわけはないのだが、仮に採用する側になってみて考えると、誰を採用するべきかという思考で録画されたジョブトークを何度も聞くことになり、得るものは非常に多かった。今回のジョブトークを振り返って、その研究の知見がどれだけ他の事例にインパクトを持つかが大切であることを感じた。先ほどの問題に戻るが、「なんで韓国なの?」「それって韓国だけでしか見られないんじゃないの、どういう意味があるの?」といった、それだけ見れば馬鹿げたようなものである。しかし、一歩進んで、その事例から社会学一般にどういったインプリケーションがあるのかを考えるという意味では、やはりなぜその問いが韓国を対象にしていて、そこから何が導き出されたのかを考える必要はあるだろう。もちろん、別に韓国に限ったことではなく日本でも台湾でも、ひいてはアメリカを事例にしても、なお考える必要のある点である。
メンタルヘルス
言葉としては知っていたが、大きく考えを改めるに至ったのがメンタルヘルスである。院生は鬱になりやすい。それは事実として知っている。要因として、業績主義のプレッシャー、教員との開放的でいるとは言えない関係、経済的な不安、熾烈な競争、色々とあることも知っている。それは日米で共通だろう。異なるのは、メンタルヘルスに対する考え方と、その考えに基づく取り組みである。日本時代にいた研究室では、メンタルヘルスを悪くすることはどちらかというと、個人が陥りがちな病気といった印象が近く、誰にでもなってしまう可能性があるが、なった場合はカウンセリングに行ったり、多少研究をストップしてみたりといったことしか想像していなかった。もちろん、私の知らないところで色々と取り組みがあったのかもしれないが、あまり公にはなっていなかったと思うし、そういう意識は共有されていたとは言い難い。
これに対して、うちの学部では、院生自治会に当たるSGSAという組織の下にメンタルヘルスとウェルネスに関する専門のセクションがあり、何人かの院生がメンタルヘルスを悪化させないような予防策を検討している。一言で言ってしまえば、メンタルヘルスが悪化する原因は、研究というプレッシャーを一人で抱え込んでしまうことにあり、そう言った状態に陥らないようにピア(同僚)によるサポートが必要になる。自治会では、研究に直接関係ないようねピア・ネットワークを構築できるような機会を提供している。例として、ポットラックや、Mindfulnessを維持するためのワークショップなどである。こうしたイベント以外でも、学生個人々々のメンタルヘルスに対する理解は深く、個人が陥る病気ではなく、メンタルヘルスを悪化させるような社会的な要因があり、それに対して介入できる(と明確にいうわけではないが)という意識があると感じた。他のプログラムや学部でどういう取り組みがされているのかはわからないが、うちの社会学部では、多くの院生が大学院生活は孤独で辛く、それをみんなでサポートしていくことが必要であるという意識が強い気がした。
まとめ:ハイブリッドなアイデンティティ?
まとめれば、今学期は非常に濃密に、瞬く間に過ぎ去っていった。その中で私の価値観も日々めまぐるしく変わっていった。まさしく疾風怒濤(Sturm und Drang)である。思えば、この数年は変化が欲しかった。東大に入学し、今後も自分の人生に影響を与えてくれるような人たちに出会えたことは貴重だったが、東大という環境に少し身を長く置きすぎていたと感じていた。マディソンに来て、日々様々な考え方に触れ、少し幅も出て来た気がする。その意味で、私の博士課程留学の1学期目は非常に充実していたが、このような考えに至ったのも、日本での経験がもとになっていることは間違いない。仮に、日本で修士や博士をせずに直接アメリカに来た場合と、一定程度研究者としての生活を始めてからくるのとでは、同じものを目にしても、異なる解釈に至るだろう。私はいまだに、自分の研究や考え方が、日本時代の経験に強く影響されていることを感じている。その中で、なぜ二つの社会で、こうまで異なる考え方をするのか、あるいはしないのかについて思いを巡らすことも多い。大げさにいってしまえば、私は自分自身の経験を対象とした比較社会学的な研究をしているかもしれない。こうした比較を通じて、私自身、少しずつではあるが、日本で育った研究者としてのアイデンティティに加えて、アメリカの(中西部という)土地に生活しつつ、社会学PhDで教育を受け、研究をしていることによって形成されるアイデンティティの二つがハイブリッドに混ざり合っていくのを感じている。当初、私は日本時代の経験を置き去りにして、アメリカの価値観に完全に適応してしまうことを恐れていたというか、そうならないようにしていこうと思っていたフシがあるが、鼻からそういう可能性は存在していなかった。両方の社会において軸足を置いて研究している以上、私の研究者としてのアイデンティティはハイブリッドなものにならざるを得ないのだ。
もちろん、その比較から、何か本質めいたものを見出すつもりもないし、できもしないが、2つの異なる環境にどっぷり身を浸かることで、多少捻じ曲がった、それでも異なる角度から見ればユニークなアイデンティティが形成されているのではないかと思う。そういう意味で、東大での経験も、マディソンでの日々も、同様に私の人生を豊かにしてくれているのではないかと考えている。ここに至るまで紆余曲折はあったが、今を楽しみ、これからも研究を楽しみながら進めていき、いくつかの人生の目標を実現したいと考えている。
8月後半からの4ヶ月は、本当に変化の激しい日々だった。毎日誰かしら新しい人と出会い、新しい考えに触れ、学び、時間はあっという間に過ぎて行った。それらをいくつかの単語にまとめれば、コースワーク、研究、ジョブトーク、メンタルヘルス、アイデンティティなどになる。時系列で追っていくには、これらが互いに深く結びついているので難しい。したがって、一つずつ懐古的に振り返っておく。
コースワーク
博士課程の学生として、コースワークは当たり前にこなさなければいけない。今学期は、統計学、人口学方法論(形式人口学)、人口学大学院セミナーを履修した。加えて、単位としては博士課程に入学したコーホートで一緒に受けるプロセミナー(professional developmentの側面が強い)、及び所属する人口学研究所のセミナーを二つ履修した。
私もまだ区別がうまくできないのだが、アメリカではインタラクティブに学ぶ機会を全てセミナーと括れてしまう気がする。日本でいう「ゼミ」もセミナーだし、外部のスピーカーを招いて報告してもらい、議論するのもセミナーである。ただ、各々のセミナーの性格は異なっていて、ゼミに近い大学院セミナーと呼ばれるものはこちらが文献を読んで、議論し、最後にタームペーパーを書くという意味では、もっともコースワークに準拠している。これに対して、外部のスピーカーを招く研究所のセミナーはブラウンバックと呼ばれることもあり、オーディエンスは学生に限らず誰にでも開かれており、最先端の研究について皆で議論し合う機会になっている。また、外部から来たスピーカーは、大抵1ー2日大学に滞在し、セミナーでのトーク以外にも、招聘した研究所や学部のファカルティ(教員)との面談やディナー、あるいは院生とのランチを共にする。おそらく、ファカルティとのディナーではより突っ込んだ話をするだろうし、その先生が現在の所属先に対してなんらかの不満を抱えている場合には、将来的にオファーを出そうとするのかもしれない。院生は、外部のスピーカーと積極的にコンタクトを取ることを勧められている。もちろん、コネを作るという意味もあるだろうが、トークに来る先生の研究は、その分野の最先端であることが多いので、学生に対して新しい研究と触れ合う機会を提供しているものと思われる。このように、アメリカの大学院は日頃から外部の研究者とのインタラクションが多く、非常に流動性に満ちている。
早速脱線してしまったが、研究所のセミナーはコースワークと研究、並びにprofessional developmentが分け難く結びついていることの好例だろう。私が人口学研究所に所属しているので、セミナーに出ることを通じて単位も履修している。その意味では、これらのセミナーは教育の機会として提供されているが、新しい研究に触れるという意味では、自分の研究に対するフィードバックの役割もあるし、スピーカーとの個人的な話の中で、どういった就活の戦略をすれば良いかなどについてアドバイスをもらうのはPDの側面が強い。
メインで履修している3科目はテストやレポートがあるという意味で、日本でもよくある授業である。興味深いことに、私は社会学部に所属しているが、今学期は社会学らしい授業を一つも履修していないし、来学期も履修しない予定である。これは、私が人口学研究所に所属していることと関係する。アメリカでは、伝統的に人口学が社会学者によって発展してきた経緯があり、社会学部と人口学の距離が非常に近い。アメリカでは人口学部もあり、自らをピュアな人口学者として定義している人もいるが、そういう人は割合としてはかなり少なく、アメリカ人口学会は社会学者や経済学者が中心になって運営されている。ウィスコンシンの人口学研究所(CDE)も、かつては社会学の下にあったが、学際的な研究教育体制を築くため、10数年前に独立したと聞いている。ちなみに、CDEは全米でもっとも遅く社会学部から独立した人口学研究所として知られており、このことはウィスコンシンにおいて社会学部と人口学の関係が非常に密接だったことを物語る。
独立したものの、現在でも社会学部と研究所の関係は深く、多くのファカルティの研究者が研究所にも所属しており、その中心を担っている。社会学部のカリキュラムにもそれは反映されており、minor in demographyやjoint degreeといった制度はないが、もし研究所に所属する場合は、博士課程の修了要件として社会学部が開講する人口学の必修科目を収める必要がある。ウィスコンシンの社会学部は、人口学的なアプローチによる研究では全米でも指折りの業績があるが、私はそのような環境で、社会学よりも人口学に比重のおいたコースワークを先に済ませている。1年目から人口学を履修する必要は必ずしもないが、最初のプレリムを人口学にしようと決めており、そのためにはあらかじめコースワークを履修しておくのが得策であると考えているからである。
といっても、全く社会学から縁遠い生活をしていたわけではない。コースワークの中で最も面白かったのは、人口学の大学院セミナーであった。最初は、古典のマルサスから始まり、人口転換の議論などをリーディングとして消化していったのだが、後半に入るにつれ、既存の人口学の研究の限界を指摘するような批判的な文献を多く読むようになった。人口学者の最大の関心は正確な数え上げ(counting)と人口予測にあるが、これらの背後にある想定を、社会学などの他分野の先行研究と合わせて読むことで、批判的に再検討する文献を読んだ。例えば、我々は人種を個人の属性として固定的なものと捉えがちであるが、実際にはセンサスや社会調査で収集されている人種とは、個人のracial identificationであり、要するに個人がどのようなraceに自分を帰属させているかという問題になる。個人のアイデンティティとして人種が定義される以上、それは流動的に変化しうる。人口学者は人種というカテゴリの不変性を想定しているが、社会学的な視点に立てばアイデンティティは社会的な状況に照らし合わされて変化しうる。また、人口学のみならず、低出生という「社会問題」は長く政策的な関心を呼んでいるが、近年になって一社会のジェンダー平等の進展が低出生を解決するという命題が人口学者から提起されるようになった。一見すると、ジェンダー平等が達成されると、夫の家事育児時間が増え、妻の出生意欲が増し、子どもが増えるというストーリーは理想的に聞こえるかもしれない。しかし、この理論の背景には、すでにジェンダー平等が達成されており、低出生国の中でも比較的出生力が高いとスウェーデンに代表される北欧諸国が他の社会が目指すべき「目標」になっている。社会の発展に伴ってジェンダー平等が進展すると考える点で、これは一種の収斂理論であるといってよいだろう。この理論は、近代化によって社会が一様に、線形的に変わりうるとするようなイデオロギーと何が違うのだろうか?実際には一時点の各社会のばらつきがあるに過ぎないのに、それを歴史的な発展になぞられる考え方はreading history sidewayとして批判されている。人口学は政策と非常に距離が近いために、こうした収斂理論の亜種のような理論を批判なく受け入れてしまう傾向があるのかもしれない。そうした研究に対して、社会学の批判的な視点が重要になるということを、今学期学んだ。日本では、人口学を体系的に学ぶことがそもそも難しい(それが私が日本を飛び出した理由の一つである)が、仮に海外に出て人口学を学べたとしても、今学期受講したような人口学に対する批判的な視点を養うようなプログラムが提供されていることは多くないのではないかと考えている。そういう意味で、私はこの大学に進学できて非常に良かったと思っている。
研究
学生としての本分は授業を履修して単位を取ることかもしれないが、実際には博士課程は研究者の養成機関であり、在学中から研究に勤しむことも重要である。特に、アメリカの社会学では近年になって、就職する際に最低1本査読付きの論文を持っていることが推奨されるようになったことを聞く。こうした状況の中で、院生はマーケットに出る前に最低一本、できれば複数のパブを持ち、就活することを目指している。この状況では、できるだけ長く大学院に在学した方がパブを稼げるので、院生の在学期間も長期化している。
とはいえ、一年目から論文を書く必要はないと考えられていることも事実である。コースワークと研究を両立することは容易ではないからだ、研究に時間を取られて単位を逃したら元も子もない。そもそも一年目から関心が定まっている人も多くないだろうし、在学中に関心が変わることについて、多くの教員は寛容であり、当たり前に起こると考えている。多くの社会学の院生にとって、少なくともうちの学部では、最初の投稿論文は修論が元になることが多い。修論を書いてから、研究者としてのファイティングポーズを取り、ラウンドに出るわけである。もちろん、その前に指導教員の研究をRAとして手伝いながら、学会で報告させてもらったり、論文に共著者として名前を載せてもらうこともある。
ここで個人的な事例になるが、私の場合には上記のような慣例は全く当てはまらなかった。それはすでに修士論文を書いてきたということもあるし、何よりそうした修士論文などを元にすでに論文を投稿していたからだった。結果として、今年は英語で2本、日本語も合わせれば5本の論文が出版及び掲載決定となった。
数だけ聞けば生産的にみえるかもしれないが、アメリカのマーケットで評価されるのは、英語のみである。また、英語の査読付きでも、(特にテニュアを取るまでの若い間は)トップジャーナルないしそれに準ずるような中堅以上のジャーナルに論文を載せることが推奨されている。別に自分が出したいところに出せばいいじゃないかと考えられるかもしれないが、ジョブマーケットではジャーナルのランクも重要になる。私が今回出版した2本の論文は、トップジャーナルではないが、その分野の研究者(人口学・階層論)の間ではよく読まれるものであり、テニュアをとった教員もよく載せているジャーナルなので、悪い評価にはならないだろう。それでも、最低限の業績といったところで、これからトップジャーナルに載せることが就活を有利にするために必要な作業になると考えている。現在の目標として、とりあえず毎年2本は中堅以上のジャーナルに掲載したい。そうすれば就活する頃には10本あるので、さすがに食いっぱぐれない気がする。また、そのうち2本はトップジャーナルに載せたい。とりあえずトップジャーナルから投稿してみることを勧められるので、ガチャに当たることを願うばかりだ。もちろん、10本、数として必ず載せようというのが具体的な目標ではなく、そのつもりで研究をしようということである。
論文に対しては、日本にいた時は闇雲に査読付き論文に出したいという気持ちが先行し、次第に投稿している論文がないと不安になってくる体質になってしまった。結果的に多くの論文を書けている要因はいくつかあるが(例えば、共著者の存在)、私はタイムマネジメントが得意なわけでは必ずしもなく、1週間や月単位で目標を定めることはあるが、1日にやることは得てして当日まで固まっていないことも多い。もし、他の人より論文を書くペースが早いとすれば、大きな理由の一つは、論文のハードルを高く設定していないことだろう。最初は、論文というものは何かしら大きな命題を唱えたり、先行研究を元に仮説を検証するものかと思っていた時期がある。こういう発想は必ずしも間違っておらず、長く読まれる論文というものやはり大きな主張をしている。しかし、研究者の論文が全てこのような論文であることは稀だろう。多くの研究者の業績は、社会学で言えば10年でgoogle scholarで20-30回引用されればいいくらいの論文が大半である。こうした論文の価値が低いかというと、そういうわけでは全くない。もちろん、本当に意義を疑うような論文もあるかもしれないが、多くの論文は、問いがシンプルであり、かつ非常にスペシフィックである。誰もやったことのない研究として新規性を打ち出すのだから、当たり前と言えば当たり前だが、その主張のインプリケーションが広い場合に、論文は分野を超えて多くの読者に読まれるのだと思っている。
したがって、初めから大きな主張をしようとせず、問いを分節化し、何が先行研究で見落とされてきたことなのか、何をアップデートするべきなのかを考えている。一つでもそれが見つかって、かつ相応の時間や資源的な制約の中で結果が出るのであれば、論文を書く。方法に自信がなかったり、違う分野の研究者の助言を募りたい時には共著者を見つける。そこまで難しくはない。論文ではせいぜいわかったことをシンプルに1-2つ書けば査読には通る(その「わかったこと」がなんらかの基準に照らし合わせて「新しく」なければいけないが)。ある程度数を稼ぐためには、こうした割り切りも必要だろうと思う。あとは、計画的でなくても良いので、常に論文を書いたり、分析を進めたり、文献を探したり、執筆途中の論文を常にアクティブにしておくことが必要だろう。ストレスになるかもしれないが、別に毎日全ての論文について考えるというわけではない、1ヶ月でいえば、最低2ー3日はその論文について上記のどれかに当てはまるような作業をして、共著者がいれば数ヶ月に一度しっかりミーティングをし、原稿を書き、再びミーティングをして詰め合わせ、学会や他の同僚の助言をもらい改稿し、またミーティングをして原稿を完成させ、投稿し、もしR&Rをもらえれば上記の作業を繰り返すように改稿する。そうしていれば、3-4ヶ月のスパンで論文を1本投稿し、1年に1-2本は出版できるだろう。常にアクティブな論文を複数持っておくことが重要である。査読によっては非常に時間がかかることもある。先日RSSMから出た論文は最初の査読が帰ってくるまで8ヶ月を要した。8ヶ月の間、その論文の結果を待っているだけではもったいない。8ヶ月あれば、2本は投稿し、2本は執筆中のステータスにできるだろう。常に問いを考え、アイデアとしてまとめ、人のアドバイスをもらいながら文章に残しておく作業が重要だと思う。
このように、私は論文を書くこと自体はそこまで難しくないのではないかと考えている。もちろん、英語で論文を書くためには、ライティングのスキルを身につける必要はあるが、最低限の教育を受けたら、ひたすら書いてコメントをもらう。そういう作業を1ー2年繰り返していれば、書くこと自体は苦ではなくなる。問題は、書いた論文が雑誌に載るかという問題であり、更に言えばトップジャーナルに載るかという問題である。私がアメリカに来た目的の一つは、この点と関係する。一つのargumentをロジカルに提示すれば論文にはなるが、今どのような研究が求められていて、主張をサポートするためにはどのような素材や方法が支持されていて、どのような研究に「意義」があると思われているのかは、実は社会的に決定されている部分も大きい。日本社会を対象とする場合には、単に日本の事例を検討してこういうことがわかりました、だけではアメリカのジャーナルには載りにくいだろう。残念ながら、アメリカの社会学はアメリカを前提に成立しているので、日本を対象にしたところで「なんでわざわざ日本なの?」と聞かれるのが関の山だからだ。これはtipsになるかもしれないが、私は自分の研究が日本から示唆を得て成立していることを前提に、日本の事例が当該分野の研究に対してどのようなpotential implicationをもたらすかを常に考えている。これは、誰も明示的に教えてくれないし、「アメリカでアメリカ以外の研究対象を選ぶ人のための研究入門」みたいな教科書があればよいが、そんなものは存在しない。しかし、この発想は必須である。詳細は省略するが、要するにアメリカだけを見ていては理論的な議論の重要な部分を見落としてたりするんじゃないでしょうか?という気持ちで私は論文を書いている。これが、日本を事例に研究を続けたいと考えているドメスティックな志向と、社会学や人口学一般の理論の上に貢献をしたいと考えているアカデミックな志向の妥協点になっている。ウィスコンシンに来て、この妥協点の上に立ちながら、どういう問いをRQとして提示するか、その問いを提示するまでにどういった先行研究を持ち出せばいいか、といった点に関しては、ファカルティや同僚から非常に大きな示唆を得ており、ここに来て良かったと考えている。私の日本を事例にした階層論や人口学に対する研究の姿勢は若干歪んでいるというか、素直に社会学部の教育を受けて出来上がるものでもないので、なかなか一言で言うのが難しい。ただ、今のような考えに至った経緯については後悔していないし、現在はこういうハイブリッドな考え方は、日本で教育を受け、研究している研究者とも異なり、アメリカで教育を受け、研究している研究者とも異なる、自分のオリジナリティだと思うようになっている。自分の考えに近いのは今の指導教員であり、彼はアメリカ人だが、日本に長く滞在し、基本的に全ての論文は日本を事例にしているが、アメリカのトップスクールでテニュアを取り評価を得ている。日本の事例を取り上げる際に陥ってしまう地域的な固有性を強調する志向を「脱文脈化」させつつ、アメリカを中心としてできて来た先行研究の知見自体も「脱文脈化」ないし「再文脈化」させる作業は、大変なことも多いがやりがいも感じる。
振り返ると、1学期目からこうした「妥協」をしているのは、何度か学会発表や査読、ないしインフォーマルな機会で自分の研究を英語圏の研究者に提示する機会を経て、(少々残念ではあるが)自分がやりたい研究が、相手が求めている研究と一致しない(=査読に通らない、評価されない)こともあるということを学んだからである。ただ、これは単に残念という言葉で片付けるには勿体無い。日本の文脈を共有していない読者に対して、社会学や人口学の一般的な理論の上に立って日本の事例を紹介する過程を通じて、著者自身が当初意図していなかったような、事例研究を飛び越えた意義を見つけることができるからである。この「英語論文の発見的作用」ともいうべき役割に気づくと、論文執筆は、単純に「今、日本がどうなっているのか」を明らかにすること以上の知的刺激に満ちた冒険になる。段々、私の考えが歪んでいることが伝わってきただろうか。私は自分が「妥協」をしているとは思っているものの、その妥協に対して積極的な意義を見出している。
ジョブトーク
アメリカに来て最もエキサイティングな経験として強く印象に残っているのがジョブトークであり、これは日本では目にすることがないイベントである。就活の慣行は分野によって異なるので、はじめにアメリカの社会学に関して確認しておく。まず、学部や研究所がポジションの募集を始める。ここで、分野を限らないオープンなものから、特定の分野に絞った公募をすることもある。また、social justiceとも関連するが、多様性を考慮してアカデミアでunderrepresentedされてきたマイノリティを優先的に雇用したり、学部の特段の必要性を満たすためのtarget of opportunity(ToO)といった制度もある。最近では、大学が主導して学際的な分野を作るための公募もあり、この場合は各ポジションに分野名が付され、そのポジションに採用された場合には所定の学部に所属しつつ、学際的なポジションにおける仕事もこなすcluster hireと呼ばれる制度もある。
このように、ポジションの募集自体は様々なメカニズムから成立するが、一度募集が始まれば、基本的にプロセスは似通っている。まずは書類選考。応募者はライティングサンプルやシラバスのサンプル、並びに履歴書や推薦状を用意して提出する。そこから、面接に呼ばれるのは1-3人ほど。非常に狭き門である。また、面接(フライアウト)も非常に過酷で、2ー3日の滞在中、プライベートな時間はほぼないといってよい。朝からファカルティの教員との朝食、ファカルティの車に乗って学部に行き、いくつかの個人面談、そしてメインイベントのジョブトーク、終了後に院生とのランチ、再び教員との個人面談、そして教員とのディナーといった予定が続く。cluster hireのように複数の分野にまたがる公募の場合には、二回ジョブトークをすることもある。人生で何度も経験したい類のものではない。しかし、ジョブトークは非常にエキサイティングなイベントである。まず、候補者は自分の就職がかかっているので、本当に自信のある研究を、何度も練習してプレゼンする。ファカルティも、仮に候補者を採用した場合、最低テニュアを取れるまで投資をしなくてはいけないし、テニュアを取れないような教員は(テニュア審査までに投資した分が戻ってこないため)採用したくないので、非常に慎重に審査する。特に、assistant professorのような若手を対象とした公募の際には、現在の業績だけではなく、その人がテニュアを取れるか、という意味で研究のポテンシャルという不確実なものを評価しなくてはいけないので、慎重さは極まる。表向きはみんなフランクで笑顔に満ちているが、これは表向きのパフォーマンスといったところで、複数の候補者から誰が学部に採用されるべきか、みんな真剣に考えている。学生たちも、将来ジョブトークの場に立つことを目標にしているわけで、生きた教材を直接目にできるられる機会は非常に恵まれているし、話から伝え聞くよりも勉強になることは多い。トップスクールに採用される候補者はトップスクールの出身者であることが多いのにはいくつか考えられる要因があるが、その一つはトップスクールの方が教員のポジションが相対的に多く、ジョブトークが頻繁に行われる。出してくる候補者も非常に優秀な人が多く、早くから就職活動について意識的になれることもあるだろう。
幸運なことに、今年は複数のジョブトークが行われ、一年目から多くのトークを目にすることができた。ToOが1つ、cluster hireが3つあり、うち社会学部が主催したトークが5つあり、合計6つのジョブトークに参加した。その中でも、候補者とのランチに5つ参加して、候補者の人たちから、色々と本音を聞くことができた。その中でも最も興味深かったのが、現代韓国研究のcluster hireであり、このポジションの最終候補者は全員社会学者だったので、3人のトークを聞くことができた。興味深いことに、このポジションは「現代韓国社会」を「質的な方法」で研究している人を採用するという、今後数十年アメリカでも見られないようなユニークな公募であった。また、最終候補者も全員が韓国人の女性研究者であり、様々な要因があらかじめ揃っており、いくつかの点について比較をすることができた。トークやランチに参加した院生はフィードバックを送ることが推奨されており、日本を対象に研究している自分にとっても、現代韓国研究の先生は関心が近い可能性が高く、慎重に、1日かけてフィードバックを作成した。自分なりに誰を採用したいかは考え、文章に残した。もちろん、自分の考えが決定に影響するわけはないのだが、仮に採用する側になってみて考えると、誰を採用するべきかという思考で録画されたジョブトークを何度も聞くことになり、得るものは非常に多かった。今回のジョブトークを振り返って、その研究の知見がどれだけ他の事例にインパクトを持つかが大切であることを感じた。先ほどの問題に戻るが、「なんで韓国なの?」「それって韓国だけでしか見られないんじゃないの、どういう意味があるの?」といった、それだけ見れば馬鹿げたようなものである。しかし、一歩進んで、その事例から社会学一般にどういったインプリケーションがあるのかを考えるという意味では、やはりなぜその問いが韓国を対象にしていて、そこから何が導き出されたのかを考える必要はあるだろう。もちろん、別に韓国に限ったことではなく日本でも台湾でも、ひいてはアメリカを事例にしても、なお考える必要のある点である。
メンタルヘルス
言葉としては知っていたが、大きく考えを改めるに至ったのがメンタルヘルスである。院生は鬱になりやすい。それは事実として知っている。要因として、業績主義のプレッシャー、教員との開放的でいるとは言えない関係、経済的な不安、熾烈な競争、色々とあることも知っている。それは日米で共通だろう。異なるのは、メンタルヘルスに対する考え方と、その考えに基づく取り組みである。日本時代にいた研究室では、メンタルヘルスを悪くすることはどちらかというと、個人が陥りがちな病気といった印象が近く、誰にでもなってしまう可能性があるが、なった場合はカウンセリングに行ったり、多少研究をストップしてみたりといったことしか想像していなかった。もちろん、私の知らないところで色々と取り組みがあったのかもしれないが、あまり公にはなっていなかったと思うし、そういう意識は共有されていたとは言い難い。
これに対して、うちの学部では、院生自治会に当たるSGSAという組織の下にメンタルヘルスとウェルネスに関する専門のセクションがあり、何人かの院生がメンタルヘルスを悪化させないような予防策を検討している。一言で言ってしまえば、メンタルヘルスが悪化する原因は、研究というプレッシャーを一人で抱え込んでしまうことにあり、そう言った状態に陥らないようにピア(同僚)によるサポートが必要になる。自治会では、研究に直接関係ないようねピア・ネットワークを構築できるような機会を提供している。例として、ポットラックや、Mindfulnessを維持するためのワークショップなどである。こうしたイベント以外でも、学生個人々々のメンタルヘルスに対する理解は深く、個人が陥る病気ではなく、メンタルヘルスを悪化させるような社会的な要因があり、それに対して介入できる(と明確にいうわけではないが)という意識があると感じた。他のプログラムや学部でどういう取り組みがされているのかはわからないが、うちの社会学部では、多くの院生が大学院生活は孤独で辛く、それをみんなでサポートしていくことが必要であるという意識が強い気がした。
まとめ:ハイブリッドなアイデンティティ?
まとめれば、今学期は非常に濃密に、瞬く間に過ぎ去っていった。その中で私の価値観も日々めまぐるしく変わっていった。まさしく疾風怒濤(Sturm und Drang)である。思えば、この数年は変化が欲しかった。東大に入学し、今後も自分の人生に影響を与えてくれるような人たちに出会えたことは貴重だったが、東大という環境に少し身を長く置きすぎていたと感じていた。マディソンに来て、日々様々な考え方に触れ、少し幅も出て来た気がする。その意味で、私の博士課程留学の1学期目は非常に充実していたが、このような考えに至ったのも、日本での経験がもとになっていることは間違いない。仮に、日本で修士や博士をせずに直接アメリカに来た場合と、一定程度研究者としての生活を始めてからくるのとでは、同じものを目にしても、異なる解釈に至るだろう。私はいまだに、自分の研究や考え方が、日本時代の経験に強く影響されていることを感じている。その中で、なぜ二つの社会で、こうまで異なる考え方をするのか、あるいはしないのかについて思いを巡らすことも多い。大げさにいってしまえば、私は自分自身の経験を対象とした比較社会学的な研究をしているかもしれない。こうした比較を通じて、私自身、少しずつではあるが、日本で育った研究者としてのアイデンティティに加えて、アメリカの(中西部という)土地に生活しつつ、社会学PhDで教育を受け、研究をしていることによって形成されるアイデンティティの二つがハイブリッドに混ざり合っていくのを感じている。当初、私は日本時代の経験を置き去りにして、アメリカの価値観に完全に適応してしまうことを恐れていたというか、そうならないようにしていこうと思っていたフシがあるが、鼻からそういう可能性は存在していなかった。両方の社会において軸足を置いて研究している以上、私の研究者としてのアイデンティティはハイブリッドなものにならざるを得ないのだ。
もちろん、その比較から、何か本質めいたものを見出すつもりもないし、できもしないが、2つの異なる環境にどっぷり身を浸かることで、多少捻じ曲がった、それでも異なる角度から見ればユニークなアイデンティティが形成されているのではないかと思う。そういう意味で、東大での経験も、マディソンでの日々も、同様に私の人生を豊かにしてくれているのではないかと考えている。ここに至るまで紆余曲折はあったが、今を楽しみ、これからも研究を楽しみながら進めていき、いくつかの人生の目標を実現したいと考えている。
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人口学研究所の看板 |
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今学期の我がオフィス |