社会学は侵入性の低い学問だと思う。一方で、経済学は侵入性の高い学問だと思う。
今冬は経済学の研究所に滞在していることもあり、経済学者と話すことが多い。慶応と一橋のセミナーでも報告し、経済学者からフィードバックをもらった。
そこで感じたことだが、経済学では「事実の真実性」が重要になる(少なくとも私が接している応用ミクロの世界にいる人の間では)。
当たり前に聞こえるかもしれないが、例えば「学歴によって賃金に違いがあるのはなぜか」という問いが成立するためには、「学歴によって賃金に違いがある」という命題が正しくないといけない。しかし、賃金が「学歴によって」異なるのが本当に事実なのかは、必ずしも自明ではない。社会学に比べると、経済学では賃金の違いが本当に学歴によって引き起こされているのかを確かめる。それが「事実の真実性」がいわんとするところだ。
社会「科学」をやっているのであれば、そんな作業は当たり前ではないか、と思われるかもしれないが、社会学では「事実の真実性」よりも「事実に対する世界観の提示」の方が重要視される。これは、「事実の真実性」が蔑ろにされるという意味ではない。一応(経済学者ほどではないにしても)、社会学でも観察される事実に真実味があるかは俎上に上がるが、相対的には世界観を提示できる人のほうが高く評価されると思う。
それでは「世界観の提示」とは何かというと、「学歴によって賃金に違いがある」としたら、なぜ・どのようにその関係が生じているかに関する「モデル」の提示だといって差し支えない。それは、採用者が学歴によって人を「差別」するからかもしれないし、単に学歴の高い人のほうが生産性が高いのかもしれない。あるいは、他の理由によって学歴の高い人のほうが賃金の高い職業につきやすいのかもしれない(=マッチング)。もちろん、経済学でもこうした「なぜ・どのように」の部分は一般にメカニズムとして「事実の真実性」が担保されたあとに検証されるという理解でいるが、社会学ではどちらかというと「もしかしたらこういうことが起こっているかもしれない」「学歴と賃金の関係についてこういう見方もあるのではないか」といういったモデルの提示が好まれる。
モデルの提示は、言い換えれば「ストーリーテリング(物語り)」といってもいい。一流の社会学者にはいくつかの定義があるが、その一つはこのストーリーテリング力があるかどうかだと思う。学歴が賃金の違いを生む過程をすべて観察することはできない。できないからこそ、観察された事実の間を埋めるような「モデル=ストーリー」が必要になる。観察されていない以上、本当にそのストーリーが正しいのかはわからない。しかし、いくつかの仮定を置いたりして、事実をつなぎ合わせたりすれば、もっともらしいストーリーができる。
また、仮に学歴→賃金の関係があったとしても、「→」にあたるストーリーは複数たりえる。それは男女で異なるかもしれないし、移民とネイティブで異なるかもしれない。日本とアメリカでは「→」が異なるかもしれない。社会学の中でも、人口学に傾斜を置く者であれば、「→」を豊かにするためにジェンダーや人種、国籍といった社会人口学的な変数に着目するし、制度を重視するものであれば、社会ごとに異なる制度や規範に着目するかもしれない。社会学者は伝統的に世界を4象限で理解したがると言われるが、それも自分からすれば「世界観の提示」という社会学者の仕事の一つと言える。
社会学者はそんな怪しい商売をしているのですか、と思われるかもしれないが、正直に社会学者は世界観の提示をするのが仕事の一つです、と言ってしまってもいいのではないかと思う。エビデンスという言葉が称揚される時代、社会学も「事実の真実性」に誘惑されて経済学者の研究に近づいてしまっている。そうなると、何が社会学のユニークさなのか、忘れてしまいかねない。「本当かどうかわからないけれど、そういう可能性もありそうね」という世界観の提示も、社会現象の理解に重要な貢献をするはずだ。
「本当かどうかわからないけれど」というのは厄介な部分で、社会学のトークを聞いていると、「その事実は本当か?」と聞いてしまいたくなる時がある。それはデータがインタビューの場合でも、サーベイの場合でも(「本当か?」の意味は異なるが)同様に生じる。
そこで経済学は、事実の統計的な同定(identification)を通じて「真実性」を追求するが、社会学では「→」の穴埋めを通じて「世界観」を提示することで、もっともらしさを与えようとする。だからといっていいかわからないが、社会学のトークは、45分話すとしたら15分は「私の世界観」開陳コーナーと言っても差し支えない。要するに、バッググラウンドが長いのである。経済学は、少々のイントロスライドから、直接問いに入るが、社会学では主張のもっともらしさを支える「理論」や「コンテクスト」を話す時間が長い。
最初に書いた侵入性という言葉は、ここに関係してくる。経済学のセミナーでは、発表中から丁々発止の議論が始まる。それは事実の確認といった小さな点も含むが、因果関係の同定の部分では、発表者の分析に対して、どのような仮定を置いているのか、同定の仕方は適切なのか、推定の結果はどれだけ過大(過小)なのか、オーディエンスが「事実の真実性」を巡ってコンセンサスを得ようとする。もちろん、コンセンサスを得ようとするのではなく、自分の主張を押し通す人もいるが。こうした営みは、発表者の報告内容に対して、他者が侵入してくる程度が強い、ということができるだろう。
これに対して社会学は、言ってしまえば「みんな違ってみんないい」のカルチャーである。まず、発表者の報告中に対して、基本的に質問はしない。なぜかはわからないが、経済学に比べると社会学では、最後まで聞かないと相手の言おうとしていることはわからない、という暗黙の了解がある気がしている。これは要するに、社会学のトークは究極的には「世界観の提示」なので、話が終わるまではどのようなストーリーが展開されているのかわからないからだと思う。
発表が終わってから始まる質疑応答では、まず「素晴らしい発表をありがとう」とまずお礼を言う規範がある(なんと丁寧なことか)。そして「あなたの発表から云々をたくさん学んだ」と褒めちぎった後で「ただ、ほんの少しわからないことがあって」と、質問をおまけのように言う(もちろん、戯画化している)。「ほんの少し」が全くもって「少し」ではないことはよくある話だが、基本的に質問は、相手の世界観が真だとすると(こういう事実もあるんじゃないか?)、という仮定付きで進む。もちろん「私はあなたの世界観を買わない」と喧嘩を売ってもいい。実際には、喧嘩腰で質問する人は珍しく、質問者は「私の世界観」を提示しながら、「私の世界観に従うと、あなたの主張は現実的には見えない」と、世界観を通じてコミュニケーションをする。
経済学のセミナーでよくある「事実の真実性」と社会学の「世界観を通じたコミュニケーション」の間には、侵入性を巡って決定的な違いがある。「事実の真実性」の議論では基本的に「真実はいつも一つ」なので、質問者は発表者の想定に侵入してくる。これに対して、社会学でぶつけ合うのは「事実の真実性」よりは「事実の真実性の前提にある世界観」なので、疑問があったとしても「あなたの世界観は私と違うから仕方ないか」と諦められる。だから、社会学のセミナーでは、質問者は報告者の考えに侵入してこない。
繰り返すように、同じ現象を見ていても、経済学と社会学では重視される論点が異なる。どちらが正しいというわけではない。
それこそ世界観の違いだからだ。