November 21, 2024

job talk as ritual

 ジョブトークをしてきた。去年と合わせて3回目。これが初めてのアメリカでのトークだった。ファカルティとのミーティングからジョブトーク、大学院とのランチも含め、特にやり取りに困ることなく、ひとまず一通りこなせたことに、多少の成長を感じた。例えば、2022年の自分だったら、全くこなせていなかっただろうし、去年の自分だったら、ジョブマーケットに入って1年目で、てんてこ舞いだったろう。

成長というより、正確には慣れかもしれない。ジョブトークでもミーティングでも、コミュニケーションにはパターンがある。そのパターンに従っていれば、摩擦なくやり取りができる。文化的な背景が異なるアメリカで、それも異なる分野の人と話す今回のようなキャンパスビジットでは、会話の「型」を知っていることの利益を感じた。そういう「型」は単にアメリカに長くいれば身につくというものではなく、やはり特定の人と、特定の場面でコミュニケーションを重ねることに、体に染み付くものだと思う。

トークの方は、思った以上にうまくいった。トーク自体は言い忘れたところを戻って説明した箇所が1つか2つくらいあったくらいで、欠落なく話せたと思う。前回のプラクティストークのときには暗記した内容を早口で話してしまったが、不思議と本番ではゆっくり話すことができた。かかった時間は38分ちょうど。大体想定していた時間に収まったので(ジョブトークは45分というところが多いが、集中力を考えると37分がベストらしい(本当か?))、トークの方は自分ができる範囲ではベストに近かったと思う。もちろん、そもそもトークの内容を変えたり、順番を構造的に変えれば、より良いパフォーマンスにつながったかもしれないが、それをするには自分の実力が足りなかった。現時点での実力は出し切ったと思うので、オファーがもらえなくても全く後悔はない。

Q&Aは、まあOKという感じだった。うまく答えられない、あるいは勘違いして答えた質問は複数あった。満足な回答ができたのかもわからない。ただ質問は尽きなかったし、参加してくれた人も多かったらしい。50点満点でトークは45点、質疑は35点とすると、合計80点くらのできだったと思う(この年になって自分のパフォーマンスを100点満点で表現するときが来ようとは)。

ジョブトークにも「型」はあり、トークの中身と同じくらい、聞いている人はスピーカーがその型をうまく踏まえているか、チェックしている気がする。イメージとしては、フィギュアスケートのショートプログラムに近いかもしれない。演技は自由だが、踏まえなくてはいけない要素がある。それは相手の目を見る、ボディランゲージ、途中で間を置く(そしてその時に水を飲む)、質問の時にそれはいい質問だという、答えられない質問に対してわからないと答えずそれっぽい回答をする、などなど、挙げればきりがないが、そういう一つ一つの要素が「こいつはジョブトークの作法をわかっている」という判断基準になる。そうして要素を積み重ねることによって、最終的に聞き手は「こいつは自分と同じ側の人間だ」と考えるようになる。したがって、ジョブトークは「聞く」部分と同じくらい「見る」ことが重要になる。

そういう意味で、ジョブトーク(ひいてはキャンパスビジット)は、ある種のritual(通過儀礼)なのかもしれない。少し大げさに言えば、ジョブトークは明文化されていないルールを適切に踏まえることによって、聞き手と話し手が同じ部族にいることを確認する作業と言ってよい。

一見すると、こういった作業は研究と本質的な部分で関係がないように見える。自分も、研究者の仕事は論文を書くことなはずなのに、なぜアメリカではパブリックスピーキングのスキルが重視されるのか、首を傾げることもないわけではない。ただ、こういった「お前と私は同じ部族」確認プロセスは、ジョブトークの場面で特徴的に見られるのであって、他の場面でも明示的ではないにしろ存在する。例えば、論文を執筆するときにも、各分野の不文律を守ることが重要になる。それ自体が科学的な知見を帰る訳では無いが、分野ごとに決まった「お作法」がある。それをクリアしていない論文は異なる部族に属すると思われるので、評価も割り引かれる。アカデミアというのは、ロジックの世界でもあるが、必ずしもロジカルとは言えない慣習が支配する世界でもある。

No comments:

Post a Comment