August 31, 2020

半沢直樹的世界観

 今日は半沢直樹を見て、論文の改稿をして、たこ焼きを作って1日が終わった。

半沢直樹の世界だったら、今回の黒幕は官房長官。コロナのワクチン完成間近だったイギリスの某大学と製薬企業は日本にもワクチンを購入して欲しかったが、アメリカにいいなりの首相は同じく有望だったアメリカ製のワクチンに固執していた。

首相の体調問題に気づいていたイギリスの製薬企業は官房長官にコンタクト、首相からの禅譲、イギリス製ワクチン購入を条件に多額の裏金を送る約束。思いついた官房長官は裏金の一部を五輪委員会に横流し、首相に対して来年の五輪が中止の可能性が高いと口裏を合わせ、経歴に傷がつかないよう禅譲を促す。

投薬をしながら続けることも考えていた首相だったが、五輪の中止の可能性が高いのならと、任期途中での辞任を決める。官房長官は幹事長に根回しして、人気政治家が当選しにくい党内選挙を選択し、首相になる。それを首相秘書官だった半沢直樹が全部暴いて倍返し。

August 30, 2020

8月29日

 カレーを作った以外には、ほぼ2年前に投稿して2度目の再査読になってから2ヶ月くらい放っておいた論文を一日改稿してた、もう2年も経つと全然考え変わってくるし、自分の文章も今と比べると稚拙だし、改稿すると別物に見えてくる。違う人の論文を校正してる気分であまり自分の論文という気にもならない、

アイビーリーグはエリートの再生産機関なのか?

ハーバード大学の学部入試でアジア系に対する差別があったのではないかという話を聞いた人は多いかもしれない、実際に大学を相手にとって裁判が起こっている(wiki)。試験の点数で勝負する東アジアとは異なり、アメリカの多くの大学では綺麗目に言えば「ホリスティック」、つまり試験の点数以外の部分を総合的に評価する入試制度をとっている。しかし、裏を返すとこの選抜方法はブラックボックスになりがちで(課外活動に対してSAT何点分加点、みたいなシステムではない)、大学が理想とするような人口構成になるように、恣意的に選抜が行われる側面がある(もちろん、試験がどの人間にとっても平等にできているかというとそうではないので、究極的には全ての選抜制度は選抜者の恣意性を拭えない)。アジア系が差別されているのではないか、というのは何も人種によるクオータが導入されているという話に限らず、試験よりも寄付金を見込んで親族が当該大学を卒業した場合に優遇するレガシー制度を重視すると、結果的に試験の点数が高い傾向にある一方でレガシーの恩恵を受けられないアジア系を割りを食うという可能性もある(関連のNBERペーパー)。仮にこれが事実だとすると、アイビーリーグはエリートの再生産機関といえるかもしれない。

日本だと少し考えにくいかもしれないが、アメリカではエリート大学への進学が人種の格差と相まって(特に高学歴層にとっては)社会問題になっている。レガシーを肯定するか、しないかは一種の政治的な立場にもなっている。

なぜアイビーリーグに代表されるアメリカのエリート大学がこのような問題含みの選抜制度を作るに至ったのか、その答えを提供してくれるのが、ハーバード、イェール、プリンストン、いわゆるBig3の選抜制度の歴史を丹念に紐解いたジェローム・カラベルによるThe Chosenである。

この本では、Big3に代表されるアメリカのエリート大学は、当初プロテスタントのアングロサクソン系白人男性(WASP)の子弟を教育するための機関だったこと、しかし20世期に入って学業成績に勝るユダヤ系が多く入学するいわゆる「ユダヤ人問題」に直面した大学は、WASPの子弟を優遇するためのレガシー制度を導入したこと、戦後のリベラリズムの中で、大学側も選抜制度を変えてより社会経済的背景が「多様な」学生を入学させる必要性が出てきたことなどが丁寧に書かれている。

結論部で、カラベルは現在のBig3の学生構成は(1)レガシー制度の恩恵を受けて一族代々同じ大学に進学する特権層(多くが白人)(2)学業成績などを生かしてエリート大学に新規参入する層(白人女性、アジア系)そして(3)歴史的に差別を受けてきたマイノリティ(黒人、ネイティブアメリカン)の三つに分類されるとしている。この三つの経路から入学してくる学生をバランスよく混在させるのが、現在のアイビーリーグが目指している「多様性」となる。ちなみに、(1)の層でも一応学業成績は必要なので、勉強ができない特権層が入り込む余地はない(ブッシュみたいな例外はあるかもしれない…)。したがって、いくらレガシーで有利とは言っても、特権層の子弟たちもそれなりにきちんとしたCVを作らねばならず、裕福な親たちが課外活動やサマーキャンプ、留学などに投資をすることで自分の子どもたちをエリート大学に入学させようとしているとカラベルは指摘している。この辺りは、東アジアに典型的な学校外教育投資の影が見えるところである。

以上を踏まえれば、アイビーリーグは多少生まれの不平等を考慮した入試制度へ移行しつつはあるが、総じてみれば試験制度のみで選抜する大学に比べると、まだまだエリートの再生産機関と言えるかもしれない。もちろん、試験制度のみでもエリートの再生産は生じるうるが、この辺りは割愛する。

ただし、教育格差をより広い視点で見てみると、アメリカはそこまで教育が生まれの格差を再生産する国ではないことがわかる。アメリカの教育制度は早期に生徒の進路を決めず、学校の中で成績による習熟度クラスがあるくらいで、専門を決めるのは高等教育に入ってからになる。これに対して、ドイツに代表されるような早期に生徒の進路を職業トラックなのか、アカデミックトラックなのかを決める国の方が、より親の階層の影響が強く出ることが指摘されている(Bol and van de Werfhorst 2013)。日本のような医学部がないアメリカでは、学部段階の進学先が職業に直結することもない。

このように考えると、課外教育などにお金をかけて、子どもをアイビーリーグの大学に入れたがる親の動機は何なのだろうか?という疑問が出てくる。

一番簡単な回答は、特定の職業に結びつかなくても、エリート大学に進学することが子どもの将来にとってペイするからだろう。直感的に考えても、同じ大学でもハーバードに進学するのと、地方の州立大学に進学するのとでは、将来の所得は違ってきそうである。

しかし実は、話はそこまで単純ではない。エリート大学に進学する子弟は学業成績も高く、別にエリート大学に進学しなくても将来同じような所得を得られる可能性もあるからだ。因果推論の話に入ってくるが、大学進学を操作することはできないので、多くの研究は観察データからエリート大学のペイを測定する。これに対して、同じ観察データだが大学受験記録を集めたデータセットを使って、「限りなく能力が近しい異なる個人間で、エリート大学とそうでない大学に行くことが将来の所得の違いを説明するか」を検討したのがDale and Krueger(2002)であり、この手の研究で引用されないことはない。我々の直感に反するかもしれないが、彼らの結論はエリート大学に進学することによって得られる追加的なペイはないというものだった(その後色々追試があったりして結果はまちまちだが、基本的には思っているほど利益はないという論調だと理解している)。

この結論は悩ましい。この研究結果は、なぜ親は子どもをエリート大学に進学させたがるのか(あるいは子どもが目指したがるのか)に対して答えを提示するよりも、むしろ彼らの進学行動が経済的にはあまり合理的ではない、という示唆を与えるからである。

もちろん、エリート大学へのペイは賃金に限らないかもしれない。社会的なネットワークが違ってくるのかもしれないし、結婚相手も違うだろう、もっと文化的な威信を獲得したいのかもしれない。今のところ、しっかりとした「なぜ」に対する答えは見つけられていないが、先述のカラベルはDale and Krueger(2002)の研究を引用した箇所で、やや社会学的な一言を放っている。

In recent decades, competition for entry to the Big Three and other selective colleges has become so fierce and the public's obsession with these institutions so great that it has spawned an entire industry - a sprawling complex that includes coaching companies, guidebooks, private tutors, summer camps, software packages, and private counselors who charge fees up to $29,000 per student. Beneath this industry is the belief- corroborated by a wide body of research - that attending a "prestige" college will confer important benefits later in life. (p.3 強調は筆者)

アメリカのエリートの多くはアイビーリーグ、特にBig3出身者が占めている。もしかしたらそのエリートたちは違う大学に進学しても同じような地位を得たのかもしれないが、人々はエリートに占めるこれら大学出身者を見て、「エリート大学に進学することがエリートへの近道だ」という「信念」を形成するのかもしれない。実際にペイするかどうかは別として、この信念が、進学行動を動機づけていると考えるのは飛躍があるだろうか。

August 29, 2020

8月28日

8月が終わろうとしている、夏休みは割と楽しかった(といっても、ほとんど休んでいないが、研究を好きにできるのは長期休みの特権である)、学期が始まるのが嫌で嫌でしょうがない。

ティーチング関係で一悶着あった後、初めてティーチングをする人向けのトレーニング。今日は5分間のmock presentationをしたのだが、他の人が軒並みスライドを使って解説をするのに対して、自分はweekly reflectionをもとに議論するプリセプトなので、ややフォーマットが合っていなかったが、色々勉強になることはあった。一度生徒の立場になって考えることは大切だと思った。

ウィスコンシンでは、留学生は英語のテストを受けてパスしないといけない。ブラウンでもティーチングアシスタントへのトレーニングは結構厳しいと聞いていたが、プリンストンは本当にあっという間に終わった。本来は2日かけて済ませるトレーニングのほぼ全てをオンライン上のクイズなどにしたことは、間違いなく背景にあるが、このトレーニングで落とされることはないに等しいことを考えると、プリンストン のトレーニングはかなりゆるい方だと思う。これでいいのか、ちょっと分からないが、今日の模擬授業を見てみると、それぞれ英語にアクセントはあっても、教えようとしている内容を各自自信を持って発表しているように見受けられたし、アクセントに対してつべこべいってくる層は、こう言った内容面をあまり重視していないのかもしれない。もちろん、理解可能な英語を話すことはコミュニケーションの上では大切だが、過度に強制されるものでもないだろう。

この大多数を英語を母語としない人が占めるという環境が久しぶりで新鮮に感じた。うちの社会学は基本アメリカの人、たまにバイリンガルの人が多数で、私みたいな非英語圏でずっと教育を受けてきたという人はかなり珍しいので、今日みたいな環境に入ると驚く。

ちなみに、今学期TAする現代日本社会論(バブル後の日本)、授業すでに全部収録されてるみたいなんだけど、多分安倍政権が続いていることを念頭に置いてるので、あちゃーという感じ。

続いて、ポッドキャストの編集。感想。日本には書店がない自治体が2割もあるそう。書店があっても岩波文庫など教養的な本がない場合も珍しくはない。そうした地域による文化の格差を技術の力で解決できないかという、今回のゲストにお越しいただいた矢田さんのモチベーションには感嘆した。といっても、私は収録後、そうした技術を開発しても媒体に触れるかは階層差があるはずなので、本当にリーチアウトしたい人に辿り着けるんでしょうか、と社会学にありがちな悲観的なことを言っちゃったんですが(反省している)、地域・文化の格差をエンジニアリング視点で見てる研究者に対して、社会学はどうポジティブに貢献できるかと、ぼんやり考えてしまった。

その後、今日は同じアパートに住んでいるコーホートの友人を招いてルームメイトと3人でディナー。中身は中華のデリバリー。久々にたわいもない話が、オイリー中華をおかずにして、できたのでよかった。家で作るなんちゃって中華は全然オイリーじゃない。これが本当のオイリー中華だ。

その中で、安倍首相がやめた話も、もちろん話題に上がった。と言っても私が安倍政権を断罪するみたいな下りはなく、いつ次の首相が選ばれるのか、首相の任期はどれくらいなのか、選ばれ方は選挙なのか、といった事実確認の話をしていたら色々脇道に逸れていった。日本は内閣制度をとっているので、直接首相を選ぶことはできないこと、首相も閣僚の一人なので大統領とは違って任期に制限はないこと、ただし首相が選ばれる国会議員の政党の内規で、党首になるための任期制限があるので、実質6年以上首相を続けることはできないが、安倍政権下でそのルールが変わったこと、選挙が近い衆議院議員は人気ベースで党首を選ぶ可能性があること、選挙が近くない参議院の議員はそうした動機が薄いことなどを話した。

中国や台湾の留学生と話して、たまに指摘されるのは、日本は多党制だがほぼ一つの政党が政権をずっと担っており(ただし小政党の協力がないと政権を担えない、この辺りもややこしい)、一体何が争点となって政党が対立するのか、という点。例えば台湾であれば、中国との関係をどう考えるかで大きく二つの政党が分かれ、アメリカで言えば銃規制、中絶、移民への対応などで党派性がはっきりと出るわけだが、それにあたるものは、そもそもあるのかという。そう考えると、日本はこれと言って「国を二分する」ような論争がないのかもしれない。

かつての日米安保のように、将来的に国を二分するようなトピックはあるかもしれない(夫婦別姓、女系天皇、同性パートナーシップ制度など)が、少なくとも今は、多くの日本人のこれらのトピックへの意見は、政権を担う政党の政策と大きく矛盾しないのだろう。

良くも悪くも安倍晋三が総理である日常に慣れ過ぎてしまった嫌いがあり、これから新しい首相が選ばれることに対して、少し途方に暮れているところがある。次の政権に対して期待を持てるわけもなく、大して変化もしないだろう政権を待つための妙な空白期間が、私の気持ちを浮つかせているのが薄気味悪い。首相が辞めて、ちらほらと立候補の噂が出てくるあたりから、安倍政権以前の嫌な空気を思い出させる。そこに我々が割って入る余地はないのだ。彼ら(というか幹事長?)のご都合で選出方法が決まり、その彼らが決めた方法で選ばれた政治家を、我々の代表とされる国会議員の一部が指名する。我々が直接介入できないのに、その政治家は国を代表する権力を持つようになる。

たくさん批判を受けた政権だったと思うが、政権が変わるという、我々が辟易としていた日本政治の悪習をしばし忘れることができたのは、この政権の重要な功績だったかもしれない(これは皮肉ではない)。一方で、日本のメディアの騒ぎようがコロナ前の「日常の中の非日常」を強く喚起させ、そのネガである日常の部分が戻ってきた錯覚を覚えてしまった、そんなわけはないのに。

August 27, 2020

8月27日

 26日はご飯食べたら眠くなってしまい、今日は3時に起きた。昨日は某トップジャーナルに投稿しただけで終わってしまったが、今日は1日使って階層論のシラバス作り、およびAIトレーニング。その後covidのテストを受けたついでに図書館で本を借り、ストリートで買い物。帰宅して結婚と健康の論文。

大きなニュースが起きてると思うんだけど、久しぶりにコロナとは関係ないという意味で日常が戻ってきた錯覚を覚える。憲法改正したかっただろうな。

もちろん関係ないわけはないけど、コロナがない状況でも大きなニュースになっていただろう日常の中の非日常を目にすると、むしろ日常の方がフラッシュバックしてくる。

August 25, 2020

8月25日

 午前中はコロナ 、午後はシラバス作り。間に検査。夜は再び階層論のリーディング。college as a great equalizerも、OEDのフレームの中から産まれてきたことがよくわかった。

コロナの検査を受ける

プリンストンでは今週から、学生はキャンパスにいる場合に週に2回、無症状の場合でもコロナのテストを受けることになっている。「キャンパスにいる」の具体的な条件は、1週間で8時間以上キャンパス施設を使うことだが、それ以外にカレッジや大学が所有するアパートに住んでいる人は無条件で受けなくてはいけないため、やや渋々だが検査を受けに行ってきた(渋々というのは、オフキャンパスの家に住んでいる学生は検査を受ける必要がないから、まあ検査を受けられるのはラッキーと言えばラッキーなのかもしれないが、出不精なので検査のために外出するのが億劫に感じる)。

検査施設は大学内にあるスタジアム、風通しが良い。今日の天気は晴れていたが、雨の日は駐車場、駐輪場から会場まで少し歩くので、検査する場所にはテントがあるとは言え、濡れるかもしれない。

そこまで会場は混んではおらず、social distanceをとって順番にpodに案内される。受付で学生証を見せるとスタッフの人が自分の名前を手書きで加えた検査キットを渡してくれ、それにスマホにある大学専用appを使ってキットのバーコードをスキャンして、本人が検査したことを確かめる仕様になっていた。

唾液を一定量集めるタイプのキットだったが、規程量まで唾液を出すのが結構大変だった。普段唾液を出そうとして出しているわけではないので、全部出し終えられないためにその場を離れられないと思うと、少々いたたまれない気分になった。パーティションで仕切られているとは言え、隣の人たちが横一列になって唾液を出しまくっているかと思うと、少し滑稽に思えてきて余計に唾液が出なかった。

規定量まで出し終えたら謎の青い液体と混濁させ、キャップを閉め、自分で専用のポストに投函する。それで終了。慣れれば5分もかからない気はする。これから学期終了まで週に2回(今後回数、会場は変わる可能性はあるらしい)、今日みたいな形で無症状者向けのテストを受けることになる。

出口にプリンストン大学のロゴが入ったマスクが無料で配布されていたので、ありがたくいただくことにした。間違いなくこの季節限定のアイテムなので、使わずにとっておこうと思う(アベノマスクみたいな発想)。メルカリで売れるだろうか…

8月24日

 土日はしっかり休んでいた。午前は階層論のシラバス作り。午後にcovidのミーティング、意外と最後はあっけなく終わった。そのあと、きょうだい論文、結婚と健康、およびcovid論文。走って夕食、netflixでinequality for allをみる。その後コーディングをしようと思ったが、研究所のサーバーに入れなかったので断念。

August 22, 2020

8月21-22日

21日

最近研究詰めで、それはストレスにならない程度に楽しいものだったが、休んでいなかったので数日疲れが溜まっていた。午前中から午後は、スペシャルイシュー兼階層論のための文献購読。昼に砂肝の炒め物をつくる。ランニングは3位のタイム。その後covidのアブスト作り。夜に校正原稿が返ってきたので、午前2時過ぎくらいまで直していた、やや働きすぎだったと思う。本当は30分くらいで済ませて寝るつもりだったけど、校正者が思いの外アクティブに改稿してきたり、ちょっと余計な校正をしていたので、それを一つ一つチェックするのに時間がかかった。

22日

寝起きはあまり良くなかった。午後3時に人と会うことになったので、それまでに終わらせるべきことを済ませていたので結構忙しかった。午前中一杯は論文再投稿の用意、scholar oneのシステムは以上に面倒くさいと思うのは自分だけだろうか。昼ごはんを食べて、2時半まではPAAのアブスト作り、1本はcovid、もう1本は日本の結婚と死亡の話。covidの方はメンターが先に原稿を書いてくれたので、私はそれへのコメントと、図表の挿入。毎回思うのだが、その道のプロが書いた原稿に対してコメントするのは恐れ多いものである。半分自分が見なくてもすでに出来上がってるだろうと思っている節もあって、油断してしまうことがあるのだが、メールの返信でメンターにもう少しコメント欲しい類のことを言われて、本当に欲しいのかもしれないし、こいつはコメントができるのかと試しているのかもしれない、わからないが時間をかければそれなりにクリティカルなサジェスチョンはできる。その後で、反映してくれた原稿を返してくれた。こういうちまちました作業からも、メンターから学ぶことは多い。研究は、徒弟制的な部分も大きいと感じる。残りの時間で自分が書いた原稿を送付。

15時から人と会う。日本から来た研究者の人で分野が違っていたのだが、人の紹介でコロナ前にお会いした。帰国されるとのことだったので、その前にお別れの挨拶。私は出不精の人間だが、その土地を離れる人には会いたい思いが強くなる。これまでいくつかの国、都市に住んできて、一度そこから離れると、もう2度と会わない人もいることに気づいたからかもしれない。プリンストンで会うのと、東京で会うのもだいぶ雰囲気は違ってくるので、今会いたかった。

少し買い物をして帰宅、カレーを作り食べたら眠くなったのでランなどはキャンセル、午後11時に起きてしまいルームメイトが見ていたリアリティショーを見ながら時間を潰す。週末は階層論の試験のためのシラバス作りを進めたい(これは、自分の仕事でも、研究でもないが、やらなくてはいけないものなので、週末ワークに分類される)。文献は頭にあったり、軽く作ってはいるけど、週末に最近読んだものをまとめようと思う、最近はずっと教育の話を読んでた、この辺りはメリトクラシーの話があり政治性も出やすい。

個人的には、社会学者もゲノムのデータをもっと使うべきだと思うが、センシティブになった方がいいところもある。やるかやらないかは別として、いま行動遺伝学でどういうデータが利用可能になっていて、それを用いた研究テーマがいかに階層論の話と関連するのかは頭に入れておいた方がいいと思う。教育達成の階層間格差の理論を見直してみたら、彼らは意外とGxEの話をしていない気がした。

例えばブードンの二次効果(出身階層間で異なるパフォーマンスの違いを統制した上で残る階層効果)やその延長の相対リスク回避は、パフォーマンス(能力)を一定とした後の階層の直接効果を検討するが、行動遺伝学の先行研究を踏まえると出身階層を環境、能力を遺伝としたGxEへの言及がないことに驚く。もちろん(センシティブになった方がいいのは)今の遺伝のデータが拾っている教育年数のばらつきは本当に能力やポテンシャルなのかといえば小さくない疑問符がつくので、大きなことは言えないが、少なくとも行動遺伝学と階層論の理論の架橋は検討してもいいはずだと考えている。

あとは、ヤングのメリトクラシー論に従うのであれば、メリトクラシーとは「能力+努力」の組み合わせで、本来はランダム(実際はランダムじゃないが)に割り当てられる能力と、それとは別に本人の(もちろん環境の影響を受ける)努力を分けられれば、興味深いと思う。

再来週から授業が始まるので、そろそろ研究モードから少し離れて、ティーチングのことや、試験のことを考えなくてはいけない。不思議な夏休みだった。ずっとステイホームだったけど、これまで溜まってた仕事におおよそ片付けられ、前を向いてこれからのことを考えられるようになったので、これはこれで良かったと思う。普段だったら学会に行ったり規制していたりで、夏休みに研究に集中する時間は限られていたのだが、今回は思いっきり研究できたので、良かった。ただ、これだけ時間があっても人間はどこかでサボることも明らかになり、適度に時間を割り振るのも大切だと思った、移動が自由になったらまた旅行に行きたい。

August 20, 2020

8月18ー19日

18日。どうやら1日間違って日付をつけていたらしい。一昨日の深夜に半沢直樹を見てしまって、昨日は眠かった。午前中はきょうだい論文の修正をして、午後に買い物、中華スーパーに行ったのだが、新しく移転して開いた店でとても広く、居心地が良かった。帰宅すると大学からオンキャンパスの学生や職員は毎週コロナのテストを受けるという連絡が来た、大学の施設は使わないのだが、大学のアパートは大学の施設らしい、まあそうだけど…研究会での話題提供をお願いされる。


19日。午前は引き続ききょうだい論文。研究会の話題提供の延長で、社会学のトップジャーナルの日本事例を扱ったテーマを見ていたら、まずフレームワークをしっかり作って、それをテストするのに日本事例が一番適切という演繹的な書き方をしていた。今の論文は人口学ジャーナルに出す予定だけど、常に社会学にいると日本事例を用いたことによってわかる理論的な意義を考えなくてはいけない。それはアメリカ事例でも同じはずだが、日本事例の方がハードルは高い気がする。11時からcovidのミーティング。いよいよ論文を書くフェーズということで、メンターの先生がかなり細かくなり出して大変だった。ただ、この論文を書くところになって(遠慮なく)急に細かくなるのは研究者の一類型であって、慣れている。そんなこんなで時間を取られ、走る(最速タイムだった)。昨日の中華スーパーで買ったハツを炒めたものでどんぶり(これがうまい、しかしハツを食べ続けて思うが脂肪が本当になく、食べた気がしない)。夜はreadi。あっという間に第7回。私のコロナの記録になっている。

August 19, 2020

working paper

学歴同類婚に関する論文を書きました(査読前の論文になります)。この論文では、アメリカを中心に高学歴層の同類婚が増えている国がある一方で、日本のように逆に減少している国もあることへの一つの説明を提示しています。具体的には、高学歴化に伴って大卒内の異質性が拡大するという教育社会学の議論に注目しています。仮に大学にも階層性があり、低階層の大学を卒業した場合にはこう階層の大学よりも非大卒の人と結婚しやすい場合、高学歴化が均質に起こるのではなく低階層大学の増加によって生じるとすれば、大卒層が非大卒層と結婚するオッズが増えます。これに加え、低階層大学の増加によって、結婚市場において大卒の価値に変化が生じた場合でも、高学歴同類婚は減少するでしょう。

この論文では以下の二つのメカニズムを念頭に置いた上で、大学間の階層性が明確かつ広く共有されている事例として日本を選択し、仮説を検証しました。分析結果から、国公立大学卒業者よりも私大卒業者の方が同類婚オッズが低く、非大卒層と結婚しやすいことがわかりました。加えて、近年ほど私大卒業者の同類婚オッズが減少していることが示唆されました。これらは仮説と整合的であり、高学歴化が低階層大学の増加によって異質性も拡大している限りにおいて、他の国でも当てはまる点を議論しています。

Title: Explaining Declining Trends in Educational Homogamy in Japan: The Role of Institutional Changes in Higher Education

replication package: https://github.com/fumiyau/Explaining-Homogamy-Decline

preprint: 

working paper: 

August 18, 2020

DP執筆

 2020年に公開された日本版O-NETと国勢調査をマッチングしたデータを使用して、性別職域分離、職業に就くために必要なスキル、および入職後の訓練期間との関係を分析したディスカッションペーパーを、一橋の麦山さんとJILPTの小松さんと一緒に執筆しました。

http://www.ier.hit-u.ac.jp/Japanese/publication/dp2020.html#2020

アメリカを中心に欧米では、女性比率の高い職業ほど、あるいは女性的とされるスキル(例:ケアスキル)が必要な職業ほど、賃金が低いことが指摘されています。日本では後者のようなスキルを正確に測定するデータが今まで整備されてこなかったため、こうした分析はできませんでした。

今回、厚生労働省が公開したO-NETとよばれる職業データベースでスキルが測定されたので、国勢調査の職業とマッチングをし、O-NETで測定されている、入職後の訓練期間(職業能力が企業を中心に養成される日本では、将来的な賃金を予測する要因としてみなせる)をアウトカムにして分析しました。

およそ200の職業を単位にした分析から、他の要因を一定とした上で、女性比率が高いほど入職後の訓練期間が短い、ケアスキルのレベルが高い職業ほど入職後の訓練期間が短いことがわかりました。

特に後者については、他のスキルが軒並み訓練期間と正に関連していることを踏まえると、女性的な労働が、女性典型的であるがゆえに訓練が必要ではないと雇用主からみなされる不当評価(devaluation)の存在を示唆していると解釈できるのではないかと考えています。

August 17, 2020

小噺

とある日本の研究会で話題提供を依頼されたので、その原稿がてら。

話題提供(依頼内容)

アメリカで日本社会を対象とする不平等研究を行いながら、理論や方法論も含めて海外の研究と日本の研究との相違や、今後の日本やアメリカの不平等研究の進むべき方向性

経験のあるファカルティでもない私が話せること:日本で博士課程の途中まで在籍し、そこからアメリカの社会学・人口学プログラムに「移民」した自分から見た、日本とアメリカの研究像

自己紹介・略歴

専門:家族人口学、社会階層論

2015 - 2017 東京大学 大学院人文社会系研究科 社会学専門分野 修士課程 

2017 - 2019 東京大学 大学院人文社会系研究科 社会学専門分野 博士後期課程 

2018 - 2019 ウィスコンシン大学マディソン校 社会学部 博士課程 

  • 社会階層論・人口学が伝統的な強み
  • 中西部の州立大学、社会学PhDの数は全米でも最多(Warren 2019

2019 - 現在 プリンストン大学 社会学部 博士課程 

  • 伝統的には経済社会学、文化社会学、移民研究が盛ん
  • 小規模だが最近拡大傾向、貧困・階層研究にも力
  • 全米最古の人口学研究所(OPR)、かつては出生力研究、近年は移民、健康

ウィスコンシン・プリンストンともアメリカの社会学博士課程ランキングではトップ校だが、最近プリンストンは上昇傾向(Ranking of Sociology Programs

人口学の強みは若干異なり、ウィスコンシンはミシガンと並び中西部の大学に多い人口の異質性に着目した社会人口学研究(=私の進学理由)、プリンストンはペンシルバニアと並びヨーロッパまで含めた出生力研究の強み(しかし現在は両方ともゲノム研究を強みともしつつあり、この区分は曖昧になっている)。

最近の階層研究では何が話題なのか

「日本」の階層研究

  • SSMを中心とする、質の高い調査、密な研究者ネットワーク
  • 社会移動、OEDの国際比較(constant flux, inequality in higher education)RC28との関連
  • 日本独自のトピック
    • 昔:一億総中流、地位の非一貫性、日本的雇用慣行と内部労働市場の強さ、学校と会社の実績関係、学校経由の「間断なき移行」、学歴社会論
    • 今:非正規雇用の増加、人口学的要因による経済格差の拡大、労働市場のジェンダー格差
  • (階層研究に限らないが)日本発の理論の不在(Sato 2012; 多喜 2020)
  • 理論よりも日本の現状理解・先行研究のテストが優先?

日本以上に特殊なアメリカ階層研究

  • アメリカを一口に語ることの難しさ→国際比較の難しさ
    • 人種、ジェンダー、セクシュアリティ、移民的背景による人口の異質性
    • 階層研究と貧困研究の並立(アメリカ社会学会IPM)
    • 人口学・社会政策との距離の近さ(PAA/APPAM)
      • 人口学的社会階層研究
      • 政策的なインプリケーションの意識
    • 手法:因果推論は増えているが、データ・方法のイノベーションにより、記述的・人口学アプローチもまだ盛ん(むしろ、より盛ん?)
      • センサスデータのリンケージによるアメリカの社会移動の長期的趨勢(Song et al 2020
      • 行政データを使用した所得移動(Chetty et al 2016
      • 大規模ゲノムデータ(GWAS)を使用したgene-environment interaction(Rimfeld et al. 2018), genetic nurture(Kong et al 2018
      • 機械学習を用いてSESアウトカムを予測→調査データはどんなに頑張っても予測力が低い(Salganik et al 2020
  • それでもアメリカ発の理論はある
    • FJH, college as a great equalizer, MMI, EMI, stalled gender revolution, diverging destinies, segmented assimilation, neighborhood effect, cumulative advantage, linked lives
    • BTW, 理論の定義
      • 検証可能性
      • 一般化可能性
      • 複数のメカニズム
      • フレームワークといったものに近いかもしれない
アメリカで日本研究をするということ
  • 背景
    • アメリカにおけるトップジャーナル信仰→日本事例を載せることのハードルは低くない(後述)
    • アメリカにおける日本への注目の低下
      • 90年代をピークとした日本脅威論は中国に替わられる
      • 授業で日本に言及がある機会:日本の平均余命の長さ
    • アメリカに留学する日本出身学生の減少(NIRA
  • アメリカにおけるWho cares Japan?問題
    • 実は日本に限られない(アメリカ、中国以外は「地域研究」というジョーク)
    • ヨーロッパ事例はEUによる国際比較が多い印象、(東)アジア比較は相対的に少ない(データの問題?)
    • それでも研究者が少ないため競合リスクは低く、興味を持ってもらえる人には懇意にしてもらえる(留学生の多い韓国や中国と比較して)。
  • メリット
    • Who cares Japan?問題
      • 常に事例選択の妥当性について考える癖がつく
      • アメリカを検討する際に、Why USを比較的簡単に考えられる(アメリカのコンテクストを相対的に考えることができる)
      • 注目度は低くなっているが、それでも一定の需要はある。
    • 比較の視点で考える機会が増える(例:readi)
    • 新しい研究成果に触れながら問いを考えられる知的刺激
  • 過去10年のトップジャーナルに掲載された日本事例とトピック
    • 社会学(AJS/ASR)
      • Brinton and Oh 2019 AJS:日韓ではなぜ出産後就業継続が実現できないのか
      • Tsutsui 2017 AJS:グローバルな人権とローカルな社会運動の理論枠組み→日本事例を用いた検証
      • Mun and Jung 2018 ASR:welfare state paradoxにおける雇用者側のメカニズムの検証
      • Cohen 2015 ASR:資本主義への移転に関する新しいフレームワーク→徳川日本を事例とした検証
      • Shibayama et al 2015 ASR:大学における起業が研究者における知識の共有方法に与える影響
    • 人口学(Demography)
      • Hauer et al. 2020 津波と人口移動、Raymo and Shibata 2017 雇用環境、不況と出生力、Yu and Kuo 2016 親同居と結婚の遅れのメカニズム、Dong et al. 2015 東アジア歴史人口学、Drixler 2015 江戸時代における棄児、Takagi & Silberstein 2011 結婚後親同居のメカニズム、Raymo et al. 2009 日本における同棲
    • 社会学と比較した時の人口学ジャーナルの事例の特徴
      • 人口学は相対的に他の国の事例は多い(Jacobs and Mizrachi 2020
      • 「理論」よりもユニークな文脈を活かした示唆に富む事例研究が多い印象(噛めば噛むほど味が出るタイプ)
      • 社会学:事前にフレームワークを作り、日本事例でテストが多い(切れ味は鋭い)
  • トップジャーナルに掲載される日本事例のフレーミング
    • 逸脱例(既存理論では日本を説明できない→帰納的に新しいメカニズムを発見)
    • 典型例(新たな仮説をテストするのにベストなケースであることを演繹的に導く)
    • 事例研究(欧米の理論を日本にテスト)
      • 理論的なインプリケーションを出すのが難しい
      • トップジャーナルには掲載されにくい
  • 自分の日本事例を用いた研究紹介とそれぞれの課題
    • 高学歴化に着目した学歴同類婚の減少トレンドの説明(当初逸脱例→典型例)
      • アメリカ:高学歴層の同類婚が増加している(背景:男性稼ぎ主の揺らぎ、共働きの経済的メリット)
      • 日本:高学歴同類婚は減少傾向→逸脱例として検討
      • パンチライン:高学歴化によって大学の異質性が拡大(低階層私大の増加)
        • メカニズム1:低階層大学卒業者の方が同類婚しにくい
        • メカニズム2:低階層大学卒業者が近年ほど増える→同類婚オッズは減少(compositionalな説明)
        • メカニズム3:異質性の拡大によって低階層私大の結婚市場での価値も減少している→同類婚オッズは減少(diverging association)
      • 理論的なレバレッジを高めるため、異質性の拡大が高所得国で広く見られる→日本の大学階層性はこの命題を検証するために適切な事例、としてフレーミング
      • 裏を返すと、逸脱例アプローチだと最初にwho cares Japan?問題をクリアしにくい(これに対して、アメリカのオーディエンス向けにアメリカがなぜ逸脱なのかをアピールすることは相対的に容易かも)
    • 日本における男女の専攻分離のトレンドと要因分解(事例研究)
      • Why Japan?:日本はジェンダー格差の大きな国の一つ+高学歴化によって大卒者の中でのジェンダー格差が相対的に重要
        • ただしそれは日本に限らない
      • 査読コメント:日本を検討したことでstalled revolution theoryに対して示唆はあるのか?
        • 日本じゃなきゃいけない理由は理論的な含意と関連する
    • きょうだい地位による同類婚(事例研究、しかし示唆は一般的)
      • 低出生の経済的なインパクトは議論されているが、社会的なインパクトは希少
      • 低出生の人口学的帰結→きょうだい数の減少、長子、一人っ子の増加
      • きょうだい地位によって家族的な義務への期待が異なる場合(e.g.長男継承規範)、結婚市場における特定のきょうだい地位の増加はミスマッチを生じさせるかもしれない(「長男の嫁」の拒否)
      • きょうだい数や地位が結婚市場での個人の行動を規定する限りにおいて、この論文の主張(低出生により長男や一人っ子が増えることでさらに低出生が加速するかもしれない)は一般的
      • 事例研究からスタートして全く新しい理論的含意を生み出す作業はかなり大変だと感じている
  • 今後の方向性
    • 階層研究一般
      • データや方法の刷新は続く(行政・歴史・遺伝データ、機械学習・計算社会科学・因果推論)、キャッチアップは必要
      • アメリカ発の理論の検証も続く
        • e.g. college is not a great equalizer in Japan
      • 両者は手を取り合って発展するはず
        • GWASデータの整備→社会学的な見地からGxEやnature of nurtureなどがさらに検証されるかも
        • センサスデータのリンケージの整備→世代間移動とライフコース理論(e.g. linked lives)の統合
    • 日本の階層研究が進むべき道?→語れる立場にはまだない
    • 日本の(階層)研究者は英語で論文を書くべきなのか?→分からない
      • アメリカのトップスクールではトップジャーナルに掲載することに強く価値が置かれている
      • 指導教員からの教え:3本論文あるよりも、1本ASRにある方が評価は高い
      • もちろん、トップジャーナルしか読まれないわけではない
        • 日本研究者であれば非トップジャーナルでも日本事例は読むはず
        • 階層研究者であればRSSMは読むはず
      • 日本の社会学アカデミア:英語/日本語の区分が前提、英語内の違いはあまり共有されていない?
      • 結局のところ、どのオーディエンスにアプローチしたいのか?
        • 階層研究→RSSM、SSR
        • 家族研究→JMF
        • 人口研究→DR, PRPR
      • ただし、個人的には「本当に理論的に面白い研究」は英語で、かつトップジャーナルにトライすべきだと思う。
        • なぜ?→自分が論文の着想を得た研究の多くは英語で、かつトップジャーナルに掲載されているものだから(信仰といっても実は伴っている)
        • 日本を対象にしていない研究者でも自分の研究にフィードバックがあるような論文が多数の人が読めない言語で書かれていたら、少し残念

8月18日

 午前中はトラッキング関係の文献をずっと読んでいた。ビビンバ麺をたべ、午後はきょうだい同類婚の論文。

8月17日

概要

午前中は試験対策で論文、本を読む。午後に論文の改稿(同類婚、専攻分離)x2、査読リプライ(専攻分離、地熱)x2、ルームメイトのr packageの手伝い(+エラーの発見)、夜にcovidのdata vizなど。社研にDPを出すことにした、校正をお願いする。

研究

読んだ本はBukodi and Goldthorpe 2019, Jenks 1977, あとLucasのtracking inequality。Lucasの本はアメリカのsecondary edが1970ー80年代にトラッキングからコンプリヘンシブ型に変わったこと、それでも格差が残るとすればどういうメカニズムか、などが議論されていて興味深かった。Bukodi and Goldthorpe、JenksともOE連関の話の中でabilityの話をしており、共に出身階層によってpotentialが抑制されている可能性を示唆しており、引用したい。Breen 2010の論文が実は今書いてる論文に対して重要なことを言っている気もしてきた。これを読んだ後、各国の大学におけるhorizontal stratificationの度合いを指標ができないかと思ったが、いろいろ難しそう。Shavit, Arum, Gamoranの2004年の本で一応質的分類はされているので、それを少し参照するかもしれない。

その他

もやしがかなりダメになってきたので、昨日の昼はやきそば、今日の昼ごはんはチャーハン、夜はビビンバと使い切った。コチュジャンのからさが久しぶりで食欲が促進された気がする。ひまわりの水が切れていることに気づかず、少し萎れてしまったのが残念。ジョギングの距離を伸ばしているが、今日のタイムはこれまでの短いジョグを含めてもトップ10にはいるもので、調子が良かった。もう朝夜は小寒いので、風邪をひかないように注意をしなくてはいけない。

来週の予定

covidミーティングが二つ、水曜日にreadiセミナー、きょうだい論文は進めたい、校正が終わり次第同類婚論文を投稿、および専攻分離論文を再投稿、地熱論文は共著者に任せているが再投稿はもうすぐ、ゲノム同類婚は査読中、デスクになるとしたら明日が期限。1-2日は橘木先生からもらったデータの分析を進めたい。ゲノムとhorizontal stratの話は、メンターのリプライがまだ、作業するかもしれないししないかもしれない。引き続き階層論の試験勉強、同類婚の本や同居の話もあるが、優先順位はそんなに高くない。多分進捗具合的にはきょうだい論文2時間をさくべきな気がしている。

August 15, 2020

8月16日

寝起きはあまり良くなかった。午前は論文と本を読む。Breenのsocial mobility in Europeでいくつかabilityに言及した論文が引用されており、SaundersとMarshall and Swiftの議論を発見した、メンターの一人に共有。アメリカにおける女性の高等教育について論じたwomen in academeも2章ほど目を通す。論文をチェックすると学歴同類婚の新しい論文が出たので読む。イタリアなどヨーロッパ6か国では高学歴の同類婚が減っているので地位閉鎖理論を支持と主張、知見は面白いし、日本の話とも整合的だが、高学歴同類婚が減った理由が高学歴化が進展してsocial homogamyが増えたからだとするのは、実際には検証できていないのでやや弱いなと思った。高等教育の拡大自体は大卒比率で評価できると思いますが、differentiationの尺度を作りたいところ、国ごとの高等教育がどれだけvariationがあるのかという。論文は共同研究者にシェア。

その後、先日の学校歴データについて、メンターからウェイティングをしたほうがいいと言われたので調整。結果自体は変わらないはずだが、国勢調査人口と合わせるために専門学校卒を高卒にするか、短大高専卒とみなすかによって結果は異なる。両方とも結果は共有。women in academeの関連する章を注文。

その後、専攻分離の論文を改稿、およびミーティング。ルームメイトと野球を見た後に地熱の論文。再び改稿、校正に出してもいいかなと思う。

英語の論文も多少書く力はついてきたのかなと思う、でも多分これはアメリカの社会学や人口学の計量的な論文に特化しているといえばしているので、慣れが大きい気がする。あと(村上春樹みたいだけど)集中して書く体力は必要で、それは走ることで多少訓練される気がする。

英語の論文を書く/書けるというのは大層なことのように聞こえるけど、中身としては非常に狭い分野の文化に沿った書き方になっているし、グローバルに研究とか形容されたところで、内実は日本のドメスティックに見える話をアメリカの超ドメスティックな界隈に理解してもらう、非常に特殊な作業の連続。

だから私は最近の若い学生が国際誌に云々というのは、実態を正確に捉えているようには思えません、分野間/内でオーディエンスは異なり、その限りにおいては日本語で書くのと同じくらいローカルな営みだと思います。

August 14, 2020

8月15日

 午前中はゲノムの論文のアウトライン、午後に本を借りに行き、covidのミーティング。職域分離の論文を書き、BBQ。コーホートの友達と久しぶりにあった。細々とでも人とリアルで話すのは大切だなと思った。その後に校正が終わった原稿をみて、DPとして提出。夜にコロナのデータをアップデート。前は1週間で良かったが、最近死亡者が増えてきたので更新頻度を増やしました。

8月14日

 本当は木曜はいつもcovidのミーティングがあるのだが、先生が1週間休暇を撮りに行っているのでミーティングがなくなり、なんとなく張り合いのない1週間を過ごしている。午前はルームメイトの誘いに乗ってファーマーズマーケットへ。マディソンの時はよくいっていたが、プリンストンでは初めてだった。この手のマーケットに行くと、地場の新鮮な野菜などが手に入る。パン、野菜、花を購入して帰宅。その後は学校トラッキングに関する論文などを読んでいた。ゲノムとhorizontal stratificationに関して論文を書くことになり、フレーミングに悩んでいたが、ひとまず500wordsくらいのアウトラインはできた。魚屋で買ったサーモンで、久しぶりに生魚を食べることができた。

August 13, 2020

移動

 階層研究では親子の地位の関連を社会移動と定義して社会が開放的かを分析する。その際には絶対移動と相対移動を区別する、前者は何%の人が親よりも上昇移動したかをみるが、この方法だと移動しやすい出身の人が増減する影響を純粋なチャンスと区別できないので、オッズ比ベースの相対移動が使われる。

相対移動による分析結果によると、日本を含め多くの高所得国では、親子の地位の関連は明確なトレンドを示さず、大まかに見れば安定的。と考えると、最近の格差の固定化と言った論調は、階層論の人から見ると直感に反する(少なくとも世代間の移動に関して)。相対移動による分析結果によると、日本を含め多くの高所得国では、親子の地位の関連は明確なトレンドを示さず、大まかに見れば安定的。と考えると、最近の格差の固定化と言った論調は、階層論の人から見ると直感に反する(少なくとも世代間の移動に関して)。

移動のパターンは安定的なのに出身階層で人生が決まってしまうと考える人が増えているとすれば、それはなぜか。一つはメディアなどで格差社会論が実態と乖離して報じられている可能性。もう一つの可能性は、人々は相対移動よりも、絶対移動の方に敏感なのではないかという説。

という意味では、確かに日本では下降移動(親の地位よりも自分の職業的地位が低い)は増えている。これは主として、上昇移動をする傾向にある農業層が昔は多かったけど、近年はそうした出身の人は減ってるから。昔に比べると親よりも自分の地位が低い(と考える)人は相対的に増えているということ。

社会科学者であれば出身で人生の全てが決まるという考えには首肯しないと思うけど、世代間移動は安定的という知見から不平等が増しているという考えに反論する人はそれなりにいるはず。階層論の人が使う指標と世間の人が依拠する何かには違いがあるのかなと思う。

August 12, 2020

8月13日

 夫婦の学校歴がわかるデータの加工、その後分析、カレーを昼と夜に食べる。夜は専攻分離の論文の改稿。目処が立ちつつある。

年始に特典航空券を予約してしまったのだが、この状況かつ大学も学期を感謝祭前に終わらせることにしたので、チケットを取り直そうと思いJ●Lのページに行く、まさかこの状況なのでキャンセル料は無料だと思いきや、特典航空券は3100円の手数料がかかるらしい(ケチ)。とはいえ11月の便はガラガラなのでおそらくその辺りに帰ると思う。

August 11, 2020

8月12日

 論文の改稿をして校正業者に投げた。その後同じ系列の論文を書くため、違うデータのクリーニング。夜はreadi. OD連関が高学歴層では弱くない、学校歴で分けるとトップ層はあるけど、他の学校歴では差はない。学校選択に対するセレクションを考慮した上でcollege as qreat equalizerを検討したが、大卒効果の異質性は見られず。ただし、selective collegesにするとnegative selectionが見つかった(親階層が低い場合、大卒であることによって不利を挽回できる)。

8月11日

 論文を投稿、同類婚の論文の改稿、ゲノム、論文購読。

August 10, 2020

博士課程2年目の振り返り(後半)

後半では春学期、および夏休みについて振り返っておこうと思います。

博士課程2年目の振り返り(前半)

春学期はご存知のようにパンデミック下で授業がオンラインになったり、予想していた日々とは大きく違うものになったわけですが、この振り返りではできるだけパンデミックの話をするのではなく、春学期を過ごす中でどうコロナウイルスに影響されてきたのかを書きたいと思います。

年末年始の一時帰国からアメリカに戻ってきたのが1月19日、そこからシカゴの知人の家にお邪魔して、プリンストンに戻りました。当時はすでに武漢でコロナウイルスが発生し、どこかの国の大統領が武漢ウイルスなどと呼んだせいもあり、空気としてはアジア系への差別が問題になっていた気がします。アメリカに戻って翌週に、現代中国センター(CCC)が主宰する新年会パーティがCCCのディレクター(私の指導教員の指導教員)宅で行われたのですが、確かにこのタイミングで中国から帰港したかもしれない人がいるところに行くのはどうなのだろうか、まあ多分大丈夫だろう、と半分楽天的に思ったことを覚えています。

コースワーク

帰国してから2週間、2月の初旬から春学期が始まりまった。コースワークとして現代社会学理論、先学期に引き続きエンピリカルセミナー、疫学、それと学期の後半から指導教員の家族社会学のセミナーを受講した。

現代社会学理論の授業は、古典に比べると先生の好みがはっきり出るタイプの授業で、話を聞く限り、批判的人種理論を読むところや、ハーバーマスを読むところ、色々あるみたいです。今回授業をもってくれたのは、フーコディアンの先生だったので、フーコーやグラムシといった権力論の話が多かったです、ポストモダンですね。加えて、イランの専門家でもある先生は、Julian Goなどのポストコロニアルの文献もたくさん入れられていました。

この授業は実りがあったかと言われると、正直難しいところがあります。特に、フーコー以降のポスト構造主義シリーズでは毎回「シンパシーは感じるけれど、私はこの視点を生かしてどうやって人口学的な研究をすればいいのだろうか」という感想を持ちました。いくら歴史的文脈が大切と言われても、実証主義的な研究伝統に立つ社会階層の研究者でさえ近代化論を信じてる人はいないはずで、多かれ少なかれ今の社会学者はコンテクストの重要性に気づいていると思います。もちろん、そうしたベースにはポスト構造主義の知的潮流があるのかもしれませんが、実際に原作を読むことで、自分の研究にフィードバックがあるのかと言われると、難しかったです。

エンピリカルセミナーは先学期と同じなので省略。書き上げたペーパーはこの1ヶ月で修正して、明日投稿する予定。

疫学の前に、half termの家族社会学。ロックダウンが始まった後半からの授業だったので、最初から最後までzoomで、なかなか新体験だった。お互い色々難しいところはあったと思うが、家族社会学(というよりも人口学)の重要文献をフォローできたので、これをもとに10月の試験を受ける予定である。

色々とドラマチックだったのは、疫学の授業だった。授業を持つ先生は社会学部には所属しておらず、人口学研究所および公共政策学部に所属している。この人もなかなかユニークで、博士課程を出てから、基本的にずっとプリンストンの人口学研究所で研究してきた、うちの研究所の長老的な存在である。

生きる歴史といった感じの人で、アメリカ人口学の黎明期にある研究者とは同僚だった経験があり、プリンストンを出た多くの人口学者とのネットワークを持っている(コロナ関係で論文をシェアした時も、この著者は私の学生だった、と言われたことは数知れず)。海外での調査経験が豊富な点もユニークで、これまでグアテマラや台湾で実地調査に関わっている。日本に関しても1990年代に婚姻上の地位と死亡率に関する一連の論文を出版しており、色々あって指導教員と彼女と私の3人で、そのアップデートの論文を書いている。

25年以上前に出た論文について、ついこないだ書いたように明快に説明する姿をみて、この人だけ時間の流れ方が違うのではないかと思ったことも少なくない。典型的なニューヨーカーで、授業の最初では自分の話し方が早いことに注意を喚起する(多分昔は今よりも早口だったのだろう)。授業で引用する新聞記事は95%はNYTで、ここまで生粋のニューヨーカーも、今時珍しいのではないか。余談だが、村上春樹の「やがて哀しき外国語」でプリンストンの教員が毎日NYTをとっていることに対して村上はスノビズムの気をみてとっているが、彼女は村上春樹がプリンストンにいた時も教員だったので、村上がみていた教員の一人は彼女だったのかもしれない。かなりシニアの研究者だが、まだまだアクティブなので、すくなくとも私が卒業するまでは退職しないでほしいと思いつつ、一緒に楽しく研究している。

疫学の授業を取り始めた時には、廊下やキッチンで、やや気まずいスモールトークを何回かしたぐらいで、それ以外にコンタクトはあまりなかったのだが、コロナ以降は特に、一番頻繁に話している人かもしれない。「人」というのは、教員や友人などを含めてで、私が日常的に連絡し合う全ての人の中で、一番話している気がする。その事情は夏休みのところで話すことにする。

疫学の授業は公共政策大学院と人口学研究所の博士課程用の合併コースで、プリンストンでは私にとって初めてのレクチャースタイルの授業だった。彼女の授業では多分20年前くらいから作り始めて毎年微修正をしている老舗の鰻屋のタレみたいなスライドが使われ、古さは感じないが、とにかく「整っている」ものだった。よく手入れされた家具といった方がいいかも知れない。5年間同じ授業をしても、ここまで適度な情報量で話の流れもいいスライドは作れないだろう。本人は完全に中身を暗記してるので、ドラマのシーンを見ているくらい流暢に授業が進んでいく。この授業、10年でも作れないかも知れない、そう思って私は勝手に20年もののスライドと呼んでいた。学生からの質問も即座に答える。そりゃ20年やってるので質問は出尽くしてるのだろう。それでもたまに今まで指摘されなかった質問があると、一言「ナイス」と付け加えてメモをしているので、おそらく来年のスライドではその点は解決しているはずだ。

この授業では疫学の教科書に準拠する形で、疫学のイントロについてレビューを行う。既知のことも多かったが、社会学や人口学をやっていて、なぜ疫学の人はそう考えるんだろうと判然としなかったところがわかったのは一つの収穫だった。例えば疫学ではオッズ比が多用される。この授業でも何度もオッズ比をつかったので、オッズ比が「オッズの比」であることがよくわかった。これだけだと、何をいっているのかわからないかも知れないが、社会移動のオッズ比の概念を学ぶより先に、疫学のオッズ比をexcess rateと比較しながら学ぶ方が概念を掴みやすい気がした。

話を戻すと、疫学でオッズ比が多用されるのは、サンプルがアウトカムに基づいて選択されるケース・コントロール法がよく用いられるためである。人口学者からするとなぜサンプリングをしないんだと思ってしまうが、ある症例がそこまで頻繁に生じない場合は、ケース・コントロール法の相対的なメリットも増してくる。これは一つの例だが、数字一つの解釈とっても、疫学的な解釈と社会学、人口学的な解釈は異なるので、私にはそういった点が非常に楽しかった。

例年であれば、先生も微修正したスライドをいつものように流して、試験をしてレポートの採点をすれば良かったのだろう、ところがしかし、タイミングよく(わるく?)コロナウイルスによるパンデミックと授業のタイミングが完全に一致してしまったので、授業は3/4程度がこれまでの内容、残り1/4がコロナウイルスを事例に教科書の内容を応用する展開に変わった。コロナウイルスほど疫学の授業の題材に適切な(というとあまりコレクトではないが)事例もないだろう。感染症のモデリングの話では、日進月歩で進むコロナウイルスの再生産指数がどのように計算されるのかの説明があったし、その指数のインプリケーション、あるいは他の感染症との比較などの解説があり、これは疫学の授業なのか、コロナウイルスへの理解を深める特別授業なのか区別がつかなくなってきた。

後半の社会疫学のパートに入る頃にはアメリカでもロックダウンが始まり、徐々にコロナウイルスとSES、人種の関係がクローズアップされるようになり、またもやコロナウイルスが絶好の事例となってしまった。そんなこんなで、授業が終わる頃には疫学の知識だけではなく、コロナウイルスの情報についてもかなり詳しくなっていた。

パンデミック下で、これは非常に助かった。というのも、ツイッターなどを当時見ていると、本当かどうかわからない情報もたくさん流れていたし、良くも悪くもコロナ関連の論文が量産されていたので、自分一人では何がとるべき情報なのか、判断がつかなかったかも知れない。この疫学の授業を取りながらコロナウイルスについての理解を深めていけたのは、予想外ではあるが一生の財産になるだろうと思う。

そうやってオンラインに移行してからも私は授業を楽しんでいて、発言も結構していたからか、上に書いた共著にも誘ってもらったし、夏休みにコロナウイルス関連で一緒に研究をすることにもなった。

夏休み 

5月後半に学期が終わり、夏休みに入った。当初の予定では(笑ってしまうが)イタリアやフィンランドの学会に行く予定だったのが、もう全ておじゃんになってしまったのは、いう必要もないだろう。一時帰国も考えたし、周りの友人たちも結構帰っていたが、私は実家に高齢の祖母がいることもあって躊躇していたら、いつの間にか便がほとんどなくなり、チケットも高騰したのであきらめた。7月10日に大学のアパートに引っ越すことになっていたので、タイミング的にもその前後の帰国は難しかった。ルームメイトも色々あって最初から探し直す羽目になったのだが、最終的に同じ学部の友人と住むことになり、今までで一番ルームメイトとよく話していて、引っ越してから1ヶ月が経とうとしているが、メンタルヘルスはかなり安定した気がしている。

夏休みに入って、いくつか新しいことを始めた。一つはポッドキャスト「となりの研究室」。途中、中だるみする時もあったが、ちょうど第6回の収録を公開した。趣旨作りには苦労したが、結局友人から初めて研究者仲間を紹介してもらい、ご自身の研究生活についてざっくり伺うというゆるゆるポッドキャストになった。結果としては、こういう大義名分めいたものがない方が続くのかも知れない。回り回って、第6回と第7回のゲストは同じ年に東大に入学した全く知らない人になって、世の中の狭さを感じている。

もう一つは東アジアの人口と社会階層に関する学生セミナー。もともと、指導教員が指導教員の指導教員(ややこしい)と一緒に夏にこのテーマで学会を開こうとしていたのだが、コロナで中止になったため、オンラインエフォートになった。zoomセミナーは月に一回、シニアの研究者が報告する形式になったのだが、私から学生・ポスドクを対象にしたセミナーの提案をさせてもらった。こちらは隔週開催。学生メインとはいえ、英語でセミナーのオーガナイズをするのは初めてだったので、色々学ばさせてもらっている。

論文も書いていた。4月初めに依頼原稿のような形の連絡をいただき、日本語はしばらく書かないつもりだったが、お世話になっている学会の話なので受けることにした。締め切りまで何もしないのも嫌だったので、4月から初めて、7月末に1本書き上げた。近く一橋経済研究所のワーキングペーパーとして公開される性別職域分離とスキルの関係についての論文。先に書いたようにgenomeのペーパーは提出間近。3月に投稿した専攻分離の論文はR&Rになったので現在改稿中。地熱論文も査読が戻ってきて来週には提出。第二著者として入った人口学系ジャーナルに出した論文はすでに修正して再提出。だいたい夏に終わらせたかったものは終えている。

最後に、疫学の先生とのプロジェクト。これも事の発端はCOVID。夏休みというのは学部生にとってはインターンの時期なのだが、こういう状況でインターンは不可能になっているので、先生が所属するヘルスに関する研究所から予算をとって、学生主体でプロジェクトを提案してもらって、夏の間に一緒に研究するプロジェクトを立ち上げた。私も、学生の選考に多少関わって、今では二つのプロジェクトを走らせている。自分がRAとして雇われていれば給料が出るのだろうが、今回私はRAというよりはco-PIみたいになっている。こう書くとタダ働きさせられているようにも見えるが(確かに学生が書けないコードとかは書いているが)、先生はどちらかというと私に学生を指導する経験をチャンスとして与えたかったのかも知れない(し、私がいる事で先生の負担も減るというのは間違い無くあっただろうと思う)。実際、初めてアメリカの学部生に「アドバイス」をする立場になると、学ぶことも多い。

なにより、ほぼ毎週1度のペースでミーティングをしているのだが、これが私生活も含めてペースメーカーになってくれたので非常に助かった。たるみがちな夏休み、かつWFHでなかなかモチベーションが上がらない時期もあるのは事実だが、こうやって定期的に人と話せる機会を持てる事で、最低限生活リズムを整えて研究することができているので、それだけでも感謝している。

August 9, 2020

献本御礼、多喜弘文「学校教育と不平等の比較社会学」、ミネルヴァ書房

法政大学の多喜先生から、先日単著をいただきました。東大社研でのアルバイトでお会いしてから、10年近く個人的にもお世話になっています。私の専門は人口学,家族形成なので教育の話は詳しくないのですが、社会階層研究の中で教育制度について理解を深めておくことは非常に大切なので、夏休みの時間を利用して拝読させていただきました。

社会階層論の枠組みで教育について焦点を当てるときは、学校段階の学力が親の出身階層によって規程されているのはどのようなメカニズムにおいてなのかを問います。代表的なメカニズムは、生徒を異なる集団に分化させる組織的なメカニズム(Sorensen 1970)、具体的にはトラッキングと呼ばれるものです。日本で言えば、高校段階の選抜は生徒の学力によって行われ、偏差値の異なる学校にトラッキングされることが、その典型例と言えるでしょう。個人視点で見れば、個人の特性(学力など)に基づいて生徒がソーティングされる側面に注目が集まりますが、トラッキングを行う制度視点で見れば、こうしたトラッキングはどのような正当性に基づいて(例:学力)生徒を異なる集団に分岐させるメカニズムが制度化されているのか、という点から論じることができます(Meyer 1977)。

今回の研究もその例に漏れず、出身階層と教育段階でのアウトカムの関連を説明する制度的なメカニズムに焦点が当てられています。本著の野心的な試みは、個々のメカニズムを俯瞰する理論的な枠組みの中に、日本の事例を位置付けようとした点にあります。この本では第1章で社会階層と教育,それぞれの次元の関係性から既存の理論を整理しています。文献レビューの結果,既存理論は教育システムの自律性(社会階層によって異なる価値観や文化に教育という場が従属的なのか、それとも教育制度が独自に生み出す資格などが格差の生成に寄与するのか)と自明性(教育上の成功の定義が社会で共有されているかどうか)の二つの軸で整理します。自律性が高い教育制度を持つ社会では、階層差が制度的には一定のルールのもとで配分される資格などを経由して生じるため、学校が格差の生成に寄与している点が見えにくくなります。自明性が高い日本のような社会では、教育上の階層性が学力をもとに明確に定義されている一方、アメリカのような社会では学校での子どもの成功に影響する指標が曖昧で、複数あることが例として挙げられています。

しかし、この二軸では、日本における教育の格差生成メカニズムとして重要視されてきた「努力の階層差仮説」(苅谷 2001)をうまく位置付けることができないと、著者は論じます。日本は学力を基準にしたトラッキングが標準化されているため自明性は高く、学校で生成される学力を媒介して階層の再生産が行われているという意味では、自律性も高いと想像されます。しかし、自律性・自明性の双方が高いフランス社会をベースにした文化資本論を展開したディマジオらの研究と比較すると、「努力の階層差仮説」は学力という一元的な尺度が決定的に重要である一方、文化資本論では教師による評価や面接など、階層差を媒介するメカニズムが複数あることが指摘されます。実証分析を踏まえて、この研究では最終的に教育システムの自明性ではなく「一元的階層性」という軸を新たに提唱します。この軸によれば、「努力の階層差仮説」は最も一元的階層性が高く、その次に来るのが文化資本論であると論じられています(220)。日本発の理論は欧米の理論とは比較が難しい「オルタナティブ」としての側面が強く、それがひいては日本特殊論にも繋がっていったと著者は示唆しますが、この研究では欧米の理論の中に、日本事例から導かれた仮説を位置付けた点が非常にユニークかつ、アメリカの大学で日本の研究している自分にとっても、勇気付けられる著作でした。

以上が要約で、以下、いくつか気になったところです。

1. この本では、第1章で議論した理論の俯瞰を経て、第2章で具体的な社会を比較する際の枠組みも議論しています。なお、国際比較研究より、中等教育段階の制度的な特徴こそが、教育システムによる格差生成メカニズムにおいて重要であるという知見をもとに、本研究では中等教育段階の生徒を対象にしたPISA調査を用いた分析を行っています。

実証分析において具体的に筆者が依拠するのはミュラーとシャビット(Muller and Shavit 1998)による教育の制度的文脈に関する類型論です。この類型論では、三つの指標(stratification, standardization, vocational capitacity)が使用され、具体例としてドイツとアメリカが議論されます。stratificationは生徒が教育制度を通じて階層化される度合いであり、トラッキングによって生徒が異なる学校類型に分岐させられるドイツは高く、単線型のアメリカでは低いとされてます。standardizationはこれらの制度が国内で共有されているかの度合いで、これもドイツは高く、アメリカは地域による多様性が大きいため低いとされます。最後のvocational capitacityは教育システムの職業との関連性ですが、これもドイツは高く,アメリカは低いとされます。

これに対して日本はドイツとアメリカ、いずれにも当てはまらない類型になります。ミュラーとシャビットによれば日本は職業との関連が弱く、これが広く標準化されており、学校間の格差も小さいため(stratification, standardization, vocational capitacityの順に)「低・高・低」とされていますが、筆者によれば、階層化の指標は職業との関連でみたトラッキングだけに限らないとします。実際、職業トラッキングとの関連のみで階層化を定義すると、それはvocational capitacityと同じになってしまうためです。著者は、日本の中等教育は職業とのレリバンスは低いが、一方で高校は学力によって階層化されていると論じます。したがって、修正版の日本類型は、「高・高・低」となります。

この類型から予測される仮説を導き出し、筆者は実証分析でこの予想が概ね正しいことを示していますが、一つ気になったのはアメリカにおいて学校間の階層性が「低い」とされた点でした。本書でも、アメリカは居住してる地区に相当する学区の学校に通うことになっており、区域ごとに学校教育のあり方を決める余地が残されており,その点で多様性に富むとしています。私個人としては,この多様性が階層性に結びつかないのが、非常に不思議でした。というのも、アメリカの初等、中等教育段階の学校の予算は、その地区の財政力によって左右されているため、どこに住むかによって受けられる教育の質が異なります。さらにアメリカでは歴史的に人種による居住の分離があったために、今でも黒人層が多い地区と、白人層が多い地区といった分離があり、それが学校間の予算の違い,ひいては階層性に寄与していると考えていたからです。実際の分析でも、分岐型のドイツ語圏に比べると低いものの、学校レベルでみたSESは他の国と比べて中程度に高く(171)、筆者もアメリカを含む自由主義的なモデルの国では学校間の階層格差が中であると結論づけています(175)。最初に提示した階層性の度合いが低であったので、これは予測と分析結果が異なると考えられ、議論すべきところだったと思いますが、あくまで日本的事例をこれまでの分類に位置付けることに主眼をおく本書で、この点が軽視されているように思えたのは残念でした。

2. 類型論に戻って考えてみると、筆者はミュラーとシャビットによる日本の分類に対して反論をする中で、学校の階層性の度合いは将来の職業との関連性のみに帰する必要はないと論じ(79)、偏差値による学校のトラッキング指標を考慮した上で,日本における学校の階層性を高いとしています。同様のロジックをとれば、アメリカにおける教育システムの制度的な特徴についても、ミュラーとシャビットの分類をそのまま援用するのではなく、再検討することができればよかったのかもしれません。

3. 学校の階層性の度合いの指標として職業との関連性以外を見るべきという主張には首肯するのですが、一方でこのようなアプローチは以下のような危うさを孕んでいるのではないかという気もしました。今回は日本的な文脈、具体的には偏差値による学校トラッキングにフォーカスした上で、「一元的階層性」という軸を新たに作っているわけですが、職業との関連性以外も学校の階層性の指標として考慮するべきと言ってしまうと、日本でいえば偏差値、アメリカでいえば学校の威信(78)も加えた方がいい、といったように、各国の学校の階層性を構成する要素を限りなく検討することを許容してしまう気がします。

最終的に各国の事例から示唆される仮説群が今回の二軸のように収斂すれば、先行研究よりもカバー範囲の広い、説得力のあるタイポロジーができるのでしょう。今回は教育システムの自明性を「一元的階層性」とバージョンアップすることで、日本発の仮説を含めることはできましたが、今まで座りの悪かった各国ベースの仮説は、必ずしも日本だけではない気がします。その場合、他の事例も含めてこの自律性-一元的階層性フレームで、どれだけ説明力が増しているのかに言及があると、理論的な貢献も増すのではないかと思いました。将来的に、日本以外もディテールな文脈を踏まえた分析を通じて、このフレームのレバレッジがどれだけあるのかが明確になると、日本以外の読者にとっても意義の深い研究になるのではないかと思いました。

4. この研究の主題は出身階層と教育上のアウトカムを媒介する、教育システムの制度的メカニズムにあったわけですが、アメリカの学校間格差を階層性の一指標としてみなし、これを含めるとすれば、この階層性は生徒の学力ではなく出身階層の影響を強く受けていることが示唆されます。同時に、筆者も日本の高校トラッキングにおいて参照される学力に対する出身階層の影響を認めています。そのような理由から、実証分析では数学能力に対する規定要因の中で親SESを検討していたと思われます。日本のようなトラッキングがprimaryには学力で行われている社会を分析する際には、学力をアウトカムにした分析でもトラッキングを見たことになるのかもしれませんが、筆者の問題関心を反映すれば、実際には「どのような学校に進学するか」に関する分析があった方がよかったのかもしれません。実は筆者もこの点については確認する必要があると述べているのですが(94)、実際の分析でトラッキングへの親階層の影響をみた分析がなかったのは、少し不思議でした。

博士課程2年目の振り返り(前半)

奨学金をいただいている財団に毎学期報告書を書くのですが、それを少し編集したものをこれまでブログに載せてきました。今見ると、一年目はやけに初々しかったと思います。

博士課程1年目秋学期の振り返り

博士課程1年目春学期の振り返り

2年目の秋学期も振り返りをしていたのですが、どうやらブログにするのを忘れていたみたいです。9月に春学期の報告書を提出しなくてはいけないので、秋学期分と一緒に、忘れぬうちにメモがてら、ここに書いておこうと思います。長くなったので秋学期編ということで後半はまた書きます。

博士課程2年目秋学期の振り返り

“Are you interested in moving to Princeton too?”

この一言が私の人生を大きく変えた。日本ほどの蒸し暑さはないが、それでも強い日差しが差し込む8月の中旬、私は指導教員から以上のメッセージで始まるメールをもらった。彼が移籍することは以前から聞かされていたが、プリンストンは転学生を基本的に受け入れていないため、私が転学できる可能性はないと聞かされていた。

幸い、実験などを通じて教授と密にコンタクトする必要のある分野に比べれば、私の研究はメンターと物理的に離れていてもできる類のものなので、対面のミーティングができなくなるという懸念を除けば、大きなデメリットはなかった。

いま、正直に振り返ると、そう思い込もうとしていたのかもしれない。メンターと一緒に研究がしたくて渡米したので、最初聞いたときはショックだったと思う。アメリカの大学は人の移動が多いので仕方ないこととはいえ、1年目から指導教員を失うことは想定外だった(今後、大学院留学を検討される方は、アメリカの博士課程にはこういったリスクがある点をご承知ください)。

しかし、である。数週間以内に新学期も始まろうかという時に、プリンストンへの転学ができそうだ、というメールをもらい、私はしばらく途方に暮れてしまった。文字通り「今」決めなければ、転学のチャンスはもうない。1週間以内に決断し、2週間以内に出願し、3週間以内に引っ越す。これが条件だった。

最初は混乱していたが、数時間経った頃には転学することをほぼ決めていた。最大の優先事項は指導教員と近くで研究することであり、現実的にどれだけ転学が大変だろうと、選択肢が提示された以上、それを選ばない理由はなかった。

もう一つ付け加えるとすれば、単純に新しい環境に身を置くことが楽しそうだという直感があった。ウィスコンシンとプリンストン、ともにアメリカの社会学トップスクールであり、全米でも名の知れた人口学研究所をもちながら、一方は中西部の州立大、もう一方は東部のアイビーリーグ、強みとする研究分野も異なる。留学生という身分の自分が5―6年の博士課程の間に、ウィスコンシンとは対象的なもう一つの研究機関に身を置けることは、エキサイティングな経験になるに違いない、という直感に私は従い、次の日には転学の準備を始めていた。

実際に転学の準備に入ってみると、本来は1年かけるべき作業を、たった3週間でやっているわけで、苦労の連続だった(出願自体はフォーマルなものだった)。転学に慣れている機関であればスムーズにできたのかも知れないが、先のように今回の転学はやや異例なことで、決まったロードマップなどはなかった。後でわかったことだが、プリンストンの社会学部のスタッフの人に聞いても、彼らが働き始めてから−−それは人によって異なり13年だったり32年だったりするのだが−−、社会学部に院生が転学してきたことはないという。詰まるところ、転学のプロセスについて全てを知っている人は存在せず、大学院と学部の間で断片的な情報を持つ人が互いに必ずしも整合しない考えを持って私に話しかけてくる事態につながる。

猟奇的ともいえる転学の狂騒は、プリンストンでの最初の学期が終わる頃に、ようやく終結した。秋学期は、諸事情により、1年生の必修の理論の授業(classical sociological theory)と2年生必修のempirical seminar(修論相当の2nd year paperを書くためのセミナー)だけをとることになった。ウィスコンシンで理論の授業は2年生の時に履修するのが標準的だったため、単位のトランスファーはできなかった(正確には単位の互換という制度はなく、これまで履修した授業のトランスクリプトを提出したら、プリンストンの社会学部からこの授業は必修だけど取らなくて良いという紙ペラをもらっただけだった。繰り返すように基本的に転学が想定されていないので、対応もシステマティックとは言いがたい)。

これらの授業に加えて、ファカルティを知るために1年生必修のプロセミナーを聴講した。実質二つだけの授業は少なく、本当は人口学や政治学の授業もとりたかったのだが、プリンストンの社会学では2年生の時にティーチングをすることになり、予定を変更したのだった。

このティーチングは、しかしながら、実際にはできなかった。大学院(graduate school)はあくまで私を1年生(G1)として扱っていて、大学院のポリシーでは1年目の学生はティーチングができないことになっている。どうやら、大学院と学部の間でミスコミュニケーションがあった様子だった。TAは4セッションやる予定で4時間相当、講義が2時間相当、講義のためのリーディングや採点などの事務作業を考えると、優に週10時間は取られる予定だったので、急遽時間に余裕ができた。しかしながら、振り返ると授業が少なくて助かったというのが正直なところだった。後述するように、理論とempirical seminarはともに予習の量が多く、プリンストンの新しい環境に慣れる必要もあったので、ある程度時間に余裕があることで適応することができたと思う。

コースワーク

(1)古典社会学理論

「理論」というのは分野によって意味するところがことなるが、社会学における「理論」とは複数のサブ分野の人が共通に備えておくべき認識のフレームくらいの意味合いが強い。1年生必修のこの授業では、ウェーバー、デュルケムといった社会学の古典、彼らの知的源流であるカントやスペンサー、さらにはマルクス、ジンメル、シュッツといったヨーロッパの古典理論家、トクヴィル、デュボイス、最終的には機能主義としてパーソンズとマートンまでカバーされた。授業を教えてくれた先生は法社会学の専門家で、学部のバーナードカレッジでアメリカ社会学の大物だったロバート・K・マートンの指導を受け、シカゴ大学でアーサー・スティンチコムの指導を受けた人で、彼らも我々からすると「古典」に近いのだが、彼女は生きたアメリカの古典的な社会学者と接している人だった。

アメリカの授業らしく、毎週300ページ近くの文献がアサインされるのだが、理論的な文献の読み方はアメリカと日本で大きく異なる。日本では、どちらかというとこれらの理論家の言っていることを内在的に理解する、具体的には自分がウェーバーだったらこういう場合にどう考えるか、くらいに「憑依」することが一つの理想として考えられている(と理論的な研究を専門にしない自分は見ている、学説史といったほうがいいかもしれない)。このように日本では理論を「使う」側面よりも、理論家を「理解する」、彼らが何を考えていたかを明らかにするという色が強い。一方で、アメリカではそうした内在的な理解よりも、理論のエッセンスを掴み、自分で使うことに重点が置かれる。そのため、セミナーでも一言一句の理解よりも全体を俯瞰した議論が行われる。

この理論に対する考え方の違いは、読み方の違いにも直結する。日本での理論を読む授業は、「文献購読」といった方が適切で、1冊の本を1学期かけて読むことは珍しくない。各章を担当する学生をはじめに割り振り、担当の章がきた時にその学生は「レジュメ」を書き(中には10ページくらいの「レジュメ」を用意する人もいる)、レジュメに従って、章の内容を正確に理解することに重点が置かれる。これに対してアメリカ(というよりプリンストン、がここでは適切だが、この手のコースワークは日米とも比較的どの大学でも似通っていると推測する)では、日本で1学期に読む量に相当しかねない文献を1週間分としてアサインする。その代わり、教員は学生がその300ページを全て読んでくることは想定していない。あくまで要点を掴み、その理論家の何がオリジナルな部分で、回を重ねていけば、これまでカバーした理論とどう違うのか、似てるのか、理論家のバックグラウンドを多少踏まえながら、最終的に学生全員が、授業でカバーした理論のサマリーを自分の中に植え付けられるくらいを目指している。社会学の古典理論はほぼヨーロッパ(の男性)なので、ドイツ語やフランス語が原典の本は少なくない。日本では翻訳を読むときでも「学説史の専門」の人は原典をチェックすることもあるが、中身を精緻に理解するよりもサマリーを掴むことが重視されるアメリカでは「本当は原著を読めた方がいい」という雰囲気は存在しない(もちろん、理論を教える教員はドイツ語やフランス語のどちらか(あるいはどちらも)を読める人もいる)。

この授業で印象的だったのは、教員が「古典」とされる理論をこれまでと同じように読むのではなく、時代的な背景も踏まえながら社会学では必ずしも「古典」とはみなされてこなかった著者の本をリーディングに含めて、これまでの社会学理論像を相対的にみる機会を提供してくれたことだった。二つ例を紹介しよう。まずはデュボイス。アメリカで最初の社会学部ができたのはシカゴ学派で有名なシカゴ大学というのが「定説」なのだが、実際にはW. E. B. デュボイスという社会学者がアトランタ大学に作ったのが最初である。黒人ゲットーの研究から始まりアメリカにおける人種差別の構造について研究していたデュボイスの業績は,近年になるまで社会学では軽視されてきた。現在のアメリカは、デュボイス・ルネッサンスともいうべき状況になっており、彼の理論は批判的人種理論などに展開しており、デュボイスを理論の授業で読むのは珍しいことではなくなっている。

もう一人はかなりマイナーだと思うが、ハリエット・マルティノー(Harriet Martineau)である。彼女の著作はアメリカの回でトクヴィルと一緒に読んだ。トクヴィルの「アメリカンデモクラシー」を読んだ方はわかると思うが、彼は当時のアメリカ社会を民主的で結社による社会統合が進んだ、ヨーロッパが追うべき一種の理想として描いている。そういう主張のトクヴィルにとって、アメリカ社会の大きな謎は奴隷制だったことは想像に難くない。彼は当時すでに奴隷制を廃止していた北部と維持していた南部を比較しているが、こうした違いが生じている理由を、白人にとってどちらが利に資するかという点から論じている。彼の奴隷制に対する書き振りは、なぜ作ってはいけないものをわざわざ作ってしまったんだと言わんばかりで、白人視点であり、黒人奴隷の経験を描いた箇所はない。これに対してイギリスの社会運動家であったマルティノーという人物も,ほぼ同時期のアメリカを旅していたが、二人の著作を比べると、彼らが同じ社会を見ているとは思えなくなる。マルティノーのアメリカ評価はトクヴィルとは逆で、アメリカ民主主義の理想と奴隷制の存在という現実の矛盾を鋭くついており、奴隷制を支持する論拠を批判的に検討している。さらに彼女は女性の政治的地位の低さについても言及しており、両者を比較することで、トクヴィルのみたアメリカは、白人男性にとってのアメリカであり、その限りにおいては理想だったことがよくわかる。

(2)エンピリカルセミナー

この授業、計量分析の論文を1本書くという説明だったので、それならそこまで大変ではないかと考えていたのだが、実際には「因果推論」の論文を書くというのが目的だった。担当の先生はダルトン・コンリーという、彼もまた非常にユニークな教授で(*)、社会学にゲノムの分析を持ち込んだ代表的な研究者の一人である。社会学だけではなく、教授になってから生物学の博士号もとっていて、色々と規格外。

授業では、自分の関心のある分野でcausal identificationをすることも目標に、これまでの先行研究を批判的に読んだ上で、識別戦略を提示することを強く求められた。ここまで強硬に因果推論を求めるのには最初驚いた。重要なことは、これは必修の授業であり、学生の中にはエスノグラファーや質的研究をメインにしている人もいるという点である。

社会学でも因果推論はみんなできておくべき必須のツールになっており、これを選択ではなく必修で受けさせるのに教育的な意味があるのだろう。これはまだ漠然とした印象でしかないが、マディソンもプリンストンもそれぞれ強みがあるが、プリンストンの強みは「どのようなバックグラウンドを持っていたとしても一定程度のアウトプットが自分で無理なくできるようにする」ための授業が整っているところにあるかもしれない。正確には、最低限のことは必修で教えるので、そのあとは自分の好きな研究をしてください、といったスタンスといったほうがいいだろう。その意味では、マディソンの方が学生のいいところを伸ばす教育をしている印象で、こちらの方をより教育的とみることもできるかもしれない。

私の研究は因果推論とはかなり遠いところにあるが、できる限りチャレンジはしてみた。顛末としては、同類婚に関心がある一方で、自分の書きたい論文でガチガチの因果推論をすることはかなり難しかったので、彼の専門であるゲノムを組み合わせて,学歴同類婚とゲノムの関連を見ることにした。「関連」であることには違いないが、population levelでみればゲノムはランダムに分布しているので、多少は「効果」の話ができることになった。しかし実際には、ゲノムはランダムに分布しているわけではなく、似たもの同士の同類婚が起こっているので、その想定は間違っている。random matingを仮定しているのにassortative matingの分析をするのは、今考えるとちょっとした矛盾に思えてきた。このように行動遺伝学にとって同類婚のメカニズムは非常に重要で、今後は自分の関心に引き付けてゲノムの研究を続けたいと思っている。

教員としてのダルトンのユニークさは、以下のような点にも現れている。授業の最初の方で雑誌のフォローをしてもいいが、最近はどんどんプレプリントが社会学でも盛んになっているので、NBERやSocArXivをフォローするようアドバイスしてくれた。後半に入ると、分析に入る前にpre-analysis planを作ってそれを公開するように、仮説を複数用意する場合にはmultiple hypothesis testingなのでペナルティを与えるように、など彼の専門に近い行動遺伝学における「常識」を(教育目的で)「押し付けて」くれたのには感謝している(本当に感謝している)。

こうしたアドバイスをする彼の考えの背景には、サイエンスとしての社会学の質を高めていこうという教育的配慮があることは強く感じたが、同時に受講生による途中経過の報告へのコメントを聞いていると(1スライドにつき3つくらい質問・コメントするので1人が発表を終える頃には1時間ほど経っている)、あくまでこのペーパーは社会学のジャーナルに出すので社会学的な意義は何なのかを強く求めてきて、クラシカルな社会学者としての顔も持っている人だった。

*プリンストンの方がどうしてもシニアの教員が多く、彼らはゲームの「ラスボス」感がある。一癖も二癖もある人ばかりだ。これに対してウィスコンシンのファカルティは若手の人も多く、どちらかというと一緒にラスボスを倒してくれる仲間に近いかもしれない。

August 8, 2020

8月7日

なぜか週末ほど研究してしまうことがある。人からメールが来ないからかもしれない。今日は午前中に学歴同類婚のリバイズを済ませ(その間にルームメイトが再び外出)、昼食を食べてスターウォーズを少しみて図書館に行って本を借りる。少し時間ができたので棚に上げてた論文のアイデアを考えて共有。ゲノムの論文は2ヶ月前に書き上げて1ヶ月前にコメントもらった2nd year paperで、1年くらいかけて改稿するのかと思ったけど、メンターからのコメントでは、もう投稿していいらしい。指導教員はかなり投稿までに時間をかけるけど、ゲノム関係で共著してるメンターは、細かいところはあまり気にせず、サブスタンティブな知見が面白ければ悪い扱いは受けないだろうというタイプなのかもしれない(完全な推測)。その後地熱ミーティングなど。昼ごはんにうどん、夜は軽めでチャーシューとカッペリーニ。昼食を食べてそこまでたってない時に走ったがタイムはよかった。

私はシニアの教員3人と別々にコラボしてるのですが,トピックしかりアプローチしかりコメントしかり本当に三者三様で,もちろんそれ自体は勉強になります。けれど,この3人+1人全員に納得してもらって博論を書かないといけないと思うと、やや不安になります。今の所属の方がどうしても自分の分野を作り上げたって感じのシニアの教員が多いので,アドバイスをもらってる間に自分のオリジナリティが消えてしまうのではないか、という怖さはあります。ウィスコンシンの方が,一緒にまだ出来上がってない研究をしてる感じはあったかもしれません。

私も基本的にはシニアの教員から仙人コメントが来てもOKというか、違うと思ったら違うという性格なのですが、論文に対するコメントを見ると、やっぱそうだよね、言う通りに直さないとな〜と思います。そこはまだまだ、何も言えないです。やはり修羅場をくぐり抜けてきた人の論文へのコメントは唸るものが多く、納得してしまいます。その中で、自分のこだわりをどう反映していくのかは、結構難しいところです、特に自分が主著の場合は。言う通りに従ってれば,それなりのものはできるわけですが、それでいいのかと考えてしまいます。

教員によってはあえて、はっきりこうしろ、と言わずに考えさせようとしてるのかもしれませんが、それはそれで曖昧で何を言ってるのか掴み取れないときもあります。メンタリングは難しいです。

August 7, 2020

8月6日

 疲れていたので寝過ぎてしまった、covidミーティング、論文購読、 地熱など。グロサリーにいって食料を調達。

August 6, 2020

8月5日

昨日は深夜までファンタスティックビーストの2作目をみていたので眠い。午前はポッドキャスト。午後にゲノムの論文、covid、readi meeting。夜に論文のまとめ。夜ご飯はナポリタン。

August 5, 2020

8月4日

トロピカルストームの影響でルームメイトが帰ってきた。遅く起きて午前は11時からcovidのミーティング。その後しばらく作業。論文を読み、ご飯を食べ、作業,寝て走り、きょうだい論文。

August 3, 2020

8月3日

午前中はゲノムの論文の改稿、ようやく終えて共著者に投げる。昼食後covidの論文。アウトラインなどを作成。途中でゲノムの論文が来たので一読。その後きょうだい論文。および地熱。

education PGSを知能などのプロキシとして見做しているゲノムの論文では、近代化論が正しければ近年のコーホートほどheirtabilityが増し、同類婚も増えると予想すると思うのですが(マイケル・ヤングが描いたディストピアであり、ベルカーブ論争の主張)、実際にはそんなことはなく、heritabilityは減少し、ゲノム同類婚も安定的か減少傾向にあります。前者に関しては、裏を返すとinherit しなかった部分の説明力が大きくなっている、と言うことなので、genetic nurtureの寄与が大きくなっているのかなと思いました。

August 2, 2020

8月1日

いつの間にか8月になっていた。基本的には性別専攻分離のリバイズに取り組んでいた。2nd year paperや同類婚の論文、あるいは試験の用意をそろそろしないといけないので、集中して。revisionはだいたい済ませ、リプライのメモも3/4程度下書きを済ませた。そろそろ明日にはgenomeの論文の仕上げをして、メンターに送らないと来週以降の業務にサシア割りが出るかもしれない。ルームメイトが1週間外に出ているので、いつも以上に、静か。親と20分ほど電話した。昨日も改稿をしていたが、ハリーポッターを見てしまった。昨日は久しぶりに一人になったので、ちょっと羽目を外してしまったかもしれない。