September 30, 2017

「日本の家族」社会学

フルペーパーが煮詰まったので気分転換にジュンク堂へ。 TLでみて嫌な予感がしたのだが、やはり昨年出した論文が引用(というか分析のためのデータに利用)されていた。

現代日本の家族社会学を問う:多様化のなかの対話 藤崎宏子・池岡義孝編

保田先生と稲葉先生の章で言及(というか、分析のネタとして)されていました。ありがとうございます。ちまちま数えてしまうんですが、家族社会学研究の論文が引用されたのは観測限りでは3回目。

家族社会学会周りの研究者は、数年に一度はこうした内省的な特集なり論集を出している印象があります。

自分は家族を対象にしている自覚はあるが、「学としての家族社会学」をやっているつもりはないです。論文が載った時も、今後「家族社会学と計量研究の関係」みたいなレビューで言及されることがあるとすれば、申し訳ないと思っていました。階層論視点の家族研究の論文であって、家族社会学の論文ではないので。

稲葉先生の章で二次分析の類が「何をやっているのかわからない」という印象を持たれがちという指摘があり、納得するとともに、自分の論文もそう思われてる節はあるだろうなと。今振り返ると、人口学的アプローチによる社会階層論の新しい研究の一つに位置付けられそうな気もします。当時はそんなつもりはありませんでしたが。

私は、一貫して家族と階層の問題に取り組んでいることには違いなく、卒論では岩間先生の本などよく参考にしていました。あるいは、家族社会学の内省的な議論も引用していました。

ただ、一度書いてみて思ったのは、日本の家族社会学は「日本の」家族にもっぱらの関心があり、そこは階層論と大きく違うという点です。ひたすら内省的に日本の家族とは何かと考える流れと、日本の事例をどのように比較の視点で捉えるかを志向する流れの相容れなさのようなものを感じ、修論では前者に言及することもなくなっていきます。ということを、この本を読みながら思い出すに至りました。

まとまった時間をとって、この手の話については考えたいのですが、あまり欧米の分析で「家族社会学とは何か」という話を目にすることはありません。日本の家族社会学には独自の伝統があり、その伝統は主として日本の家族を理解するための概念や説明を探求して来た印象があります(あくまで印象です、まあ他の国と比較することは難しいと思いますが)。それはそれとして、日本の社会学の大きな遺産の一つだろうと思います。

しかし、そうした概念を他の社会に「開く」ことは難しいのかなと、この数年思います。「開く」ことはできると思いますが、稲葉先生も書かれているように、開くためには後続の研究が必要になります。それでは、日本の家族社会学で生み出された概念が、他の社会にいる研究者にとって後続的な研究を促すか?思い当たるところでは、パラサイトシングル論とかでしょうか。やはり難しいわけです。

それよりは、もう少し一般志向の理論を持ってきて、日本をテストする。こちらの方が、他の文脈と比較しやすいわけですし、そういう研究は相対的に計量分析の方が向いていると思います。

もちろん、ただテストするだけではなく、できるだけ日本の文脈から導ける含意を応用することも必要だと思います。例えば、今書いている同居と結婚の日韓比較についても、パラサイトシングルの話を持ち出して日本の蓄積を他の文脈に開きつつ、既存の理論ではこの話はどう解釈できるか、そうやって中和させています。

日本独自の研究があること自体は良いことだと思うのですが、それを他の国で発祥した理論と結びつけるための媒介的な言葉を見つける作業は、社会学的な研究の醍醐味の一つかもしれませんが、大変そうです。昔はそれこそ機能主義とかがあったのかもしれませんし、今は個人化なのかもしれませんが、重要なのはそうした媒介を輸入するのではなく、日本で発展した理論を他の国に開いてみる作業なのではないかと思います。

そういう雰囲気は、あまりないかなというので、若干距離を感じるようになりつつある家族社会学、しかしこの本読んでちょっとした懐かしさに浸れることもできました。時間がある時にしっかり読んでみたいと思います。

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