October 8, 2017

京論壇2017最終報告会

午前まで帰省してましたが、高速バスで帰京。その足で駒場へ。

12時半開場というのでほぼ時間通りに来てしまったら、会場には来場者らしき人はほとんどいなかった。いつからか、18号館ホールではなく会場がKOMCEEになっている。

少しすぎると、一人先輩が来た。通信社で働く記者で、自前と言いつつ社用かと見間違うばかりの立派なカメラを携えて。しばらく談笑している間に、人も入り、13時になる。

分科会はグローバリズム、ジェンダー、エリート主義の三つ。

グローバリズムはセッションの最初の方でこの流れに反対するのはjustifyできないという結論になったらしく、それ以降はひたすら愛国主義とナショナリズムの違いを議論していたようだった。端的に分科会の名前をナショナリズムとかにすればよかったのではないかという気になった。特に目新しい話には出会えず。

ジェンダー。概要にあったLGBTの話は省略されていた(そもそも議論しなかったのかもしれない)。どちらかというとジェンダー不平等、具体的には機会格差(equality of opportunity)と結果の公正さ(equity)の峻別をした上で、ライフコースごとに主として女性が直面するジェンダー不平等に対して、どう考えていくべきかという話だった。
感想としては二点。一つ目は面白いと思った点。equityの話をしたがっていたのは北京側だったというのを全体ミーティングで聞かされていたが、日中で比較すると、日本では中間層が厚いので、ジェンダー不平等もミドルクラスの層になりがち、また中国と比較して格差自体が小さいので、あまり結果の不平等は問われない。要するに男女間の機会格差が注目される傾向にある。一方で中国ではまだ労働者階級が多く、格差も大きい。したがって、男女の格差は機会以外にも結果についても議論されるべきと言っていた(私の理解ではそういう話だったと思う)。安易な比較なのでは?といい捨てることは簡単だが、中国において結果の平等が重要視されている背景を北京大の学生が主張していたことは興味深かった。言い換えると、日本では機会の平等が伴っていれば結果も伴うだろうと考えているのかもしれない(これは部分的には正しいだろう)。一方で、中国では、機会が提供されていても、結果が男女間で異なる自体が想定されているのだろうか。

二点目は、女性が直面する格差に焦点が当たっていたこと。基本的には男性と比べて女性は〜〜ができない、阻害されているという話で、間違ってはいないと思うが、こういう話で稼ぎ主として期待される男性の生きづらさみたいなものは誰も指摘しなかったのだろうか。おそらく、彼らの頭の中では女性も男性並みに働くことがある種の理想とされていて、世帯の中での分業や、ワークライフバランスの視点はあまりなかったような気がした。

最後にエリート主義分科会。エリートの条件、及び具体的なケースとアクターに絞って、何がエリートに対する不信を生んでいるかを分析していた。選んだケースが福島原発と中国の遺伝子組み換え食品というユニークな設定。政治家だけではなく、研究者やメディアもエリートして位置付けていた。質疑ではエリートが判断を誤りうる可能性、その際に市民から意見を聞く必要性、あるいはそもそも日中で市民社会は成立しているかなどが議論された。

報告会は学生の発表中心の第一部と、藤原帰一教授の講義などが入った第二部に分かれていたのだが、さしあたり学生の報告を聞けたのでもういいかと思い、会場を後にする。

昔に比べると、東大側も英語ができるようになっているという、毎回アラムナイが残していく言葉を自分も残しそうになってしまった。これは、学部生の英語力のベースが上がっていると理解して良いだろう(もちろん、帰国子女の人も多いだろうが)。自分の意見を論理的に英語で伝えることができることは、さしあたりまだ重要。

京論壇の報告会にできるだけ来るようにしているのは、自己啓発の一種というか、学生たちのやる気ある姿勢に触れて、自分も頑張ろうという程度なのかもしれない。少し感傷的になれば、やはり学部の時に一番取り組んだ活動でもあるので、その行く末を見守っていたいのかもしれない。

ともあれ、先輩とも話したが、自分たちよりも上の代のアラムナイは全く来ていなかったのが気になった。もちろん皆さん、お忙しいのだろうが、学生側もアラムナイが来ないよりは来たほうが緊張感が増すかもしれないし、やる気になるかもしれない。もちろん、誰が来たところで変わらない人もいるだろう。ただ、来ないよりは全体としてマシだろうと思うので、引き続き(迷惑にならない程度に)行こうと思った次第。

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