December 31, 2016

計量社会学の二つの文化

時たま時間に余裕ができると、計量社会学と呼ばれる分野(?)がどのような営みを実践しているのかを考えることがあります。以前も、分析社会学の話に関連して少し書いたことがあるのですが、今回はJohn H. Goldthorpeが最近刊行したSociology as a population science(Cambridge University Press)を手掛かりに、この手の話について考えてみました。

この本を読むのは二回目。一度目は何かの機会で偶然知って、タイトルからしてGoldthorpeが自分の研究をまとめにかかってきている予感がしたので(笑)買ってみて、軽く読んだのですが、今回とある先生からこの本の話題を振られて、少し時間もできたので再読してみようかと考えて手にとってみました。

ブログのタイトルが「計量社会学の二つの物語」ということで、この対比に即して彼の議論をまとめると、彼は「決定論的で、方法論的集合主義に立つ社会類型論」的な(計量)社会学アプローチに対して、「確率論的で、方法論的個人主義に立つ人口論」的な計量社会学の手続きについて説明しています。

前者のアプローチは、必ずしも計量的なものに限りませんが、志向性としては、何らかの形で識別可能な集団や社会を類型化し、複数の集団の違いを制度や文化といった集合的なもの自体に求めます。代表例として紹介されているのがデュルケムの自殺論や、パーソンズの社会システム論で、そこにおいて個人は社会レベルの規範や制度を純粋に内面化する対象として想定されているに過ぎない。

この立場が計量社会学においてどのように表現されるかというか、従属変数のばらつき(分布)のうち、設定した独立変数が説明しない部分を「誤差」として捉えます。これは、Xie(2007)でGaussianとされる立場です。これに対して、Duncanら人口科学的な立場に立つ研究者は、独立変数によって説明されなかった部分を誤差ではなく「集団内の異質性」として捉えます。これは、Galtonianとされる立場ということです。

ここで、すでに人口論的な立場に立つ研究の志向性について入ってしまいましたが、この立場のポイントは集団内の異質性(population heterogeneity)です。ここで異質性というのが具体的になぜ生じるのかというと、ある規範や制度といった集合的な性質が個人に影響をあたえるとしても、その出力・反応は個人によって異なるためです。そして、その反応の違いはある規則性(regularity)を帯びるという確率論的な思考をします。

この異質な個人を正当化する社会学の方法論的な立場は、いわゆる方法論的個人主義とされます。方法論的というのは、分析の際にここに着目するという意味で、この世界には個人しか存在しないと想定するような存在論的個人主義とは毛色が異なります。方法論的個人主義は、個人が何らかの条件や情報を与えられた時に、そうした条件をもとに何らかの合理的な行為をすると仮定されます。ここでの合理性とは、すべての個人に共通な効用最大化などとはことなり、ある種の限界合理性・状況下された自己が念頭にあります。

Goldthorpeは以上の議論に基づき、人口科学としての(計量)社会学の具体的な営みとして、以下のような手続きを説きます。

まず、サーベイを用いて、集団ごとに見られる規則性を発見します。ここでいう規則性は、複数回の観察を通じて同じようなパターンが観察されるというくらいの意味です。さらに言えば、男性では〜〜だが、女性では〜〜というような、集団ごとに異なる規則性も重要になります。突き詰めれば、集団内の異質性に関心があるとすれば、男女の差をさらに異なる集団内の異質性(例えば、年齢や階級)に着目して説明することも可能なわけです。

このあたりのさじ加減は、分野の既存研究によって異なるのでしょうが、個人的に疑問だったのは、いったいどこまで異質性を検討すれば次のステップである規則性の説明に入っていいのだろうかという点でした。

さしあたり、十分であると考えられる規則性を確定したら、それを個人の行為・および他の個人との相互行為というミクロなレベルから説明するというのが、分析社会学の説明戦略、ではなくて、Goldthorpeのいう説明戦略です。このあたりは、ほとんど分析社会学と言っていることは変わりません。どこかですでに述べましたが、なぜ行為なのかは、社会学が合理性を持った個人を分析単位にしているからですね、それは、停止規則(stopping rule)というやつで、分野によってどこまで分析単位を細かく(粗く)するかは違います。

要するに、記述をして説明をしようという、それ自体は社会調査の教科書に書かれている話ですし、大方の計量社会学者は無意識のうちにこの手の話をすでに実践しているでしょう。この本の貢献としては、そうしたやや無意識的に実践されている分析を、もう少し定式化しようとした点にあるかもしれません。定式化というのは、いわゆる類型論的な個人の異質性を想定しないようなアプローチとの対比によって、特徴がよくわかるということでしょうか。

説明戦略についても、Goldthorpeは幾つかの事例を紹介しています。一つ目は第8章で議論されている回帰分析のアプローチに依拠して因果関係を明らかにする因果推論(潜在効果モデル)によるアプローチです。私感では、因果関係というと最近ではほとんど因果推論的な話が想定されるような気がしますが、これはこれでいいとして、他にも因果に対する異なる考え方はあるわけです。Goldthorpeに限らず、この因果推論に対する批判として指摘されるのは、それは因果の効果(effect of cause)はわかるが、影響の原因(cause of effect)はわからない、言い換えれば因果推論は推定であって説明ではないというものです。

第二に挙げられるのが、分析社会学のアプローチです。個人的には、ABMを使うという点以外を除けば、Goldthorpeがいう説明と分析社会学がいう説明はほとんど差がないような気がするのですが、彼が分析社会学に対して持つ批判は、分析社会学ではメカニズムそれ自体に主眼があり、本当にそのメカニズムがその集団で実際に作動(at work, actually operate)しているのかわからないというものです。ABMに対しても同様の批判をしていて、やはりGoldthorpeは規則性の発見に対して重点を置いているのだなという印象を持ちます。

最終的にGoldthorpeが提案するのが、規則性は明らかになっているけれどもそれを説明することはできない対象に対して、現実に作動している因果メカニズムを観察データの次元で説明するアプローチということで、例としてRRAが取り上げられています。正直、これが具体的にどのような手続きを経ればいいのか自分にはよくわかりませんでした。

中途半端になりましたが、大雑把な要約としてはこんな感じです。個人的には、やはりどの規則性まで明らかにすればいいのかという点と、分析社会学に途中まで乗っかりながらRRAのようなアプローチが目指すべき説明戦略とするには、まだ議論に飛躍があるなという点が気になりました。

ちなみに、今回は「二つの物語」の一つの方しかほとんど扱っていないわけですが、日本の計量社会学で時たまささやかれる「計量モノグラフ」なんかは、決定論的で、集合論的なアプローチと言っても良いのではないかと思います。説明を志向するときに、個人から出発するのか、ある歴史的なイベントか何かに個人が等しく影響を受けるのかとか、その辺りの解釈には計量社会学の人の中にも差があるのかもしれません。

少なくとも計量的なアプローチで研究している社会学研究者は、社会の記述をしたいという欲求(その意味では、すべての計量社会学者には分類したいという欲求があるのかもしれません)と、記述したパターンをなぜそうなっているのか説明したいという欲求の二つが同居しているのかもしれません。先日参加した研究会でも、そのような話がありまして、この本を読まなくても、うっすらそうした二つの姿勢が混じっているなと感じるわけですが、Goldthorpe大先生の本を読めば、また新しい何かを発見できるかもしれません。ちなみに、Goldthorpeはあらゆる社会学的な研究は計量分析をする、population scienceになるべきだという論調で書いている節がありますが、さすがにそれは極論でしょう。あくまで、計量的な研究について、目指すべき一つの道くらいに考えたほうがいいと思います。



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