December 31, 2016

計量社会学の二つの文化

時たま時間に余裕ができると、計量社会学と呼ばれる分野(?)がどのような営みを実践しているのかを考えることがあります。以前も、分析社会学の話に関連して少し書いたことがあるのですが、今回はJohn H. Goldthorpeが最近刊行したSociology as a population science(Cambridge University Press)を手掛かりに、この手の話について考えてみました。

この本を読むのは二回目。一度目は何かの機会で偶然知って、タイトルからしてGoldthorpeが自分の研究をまとめにかかってきている予感がしたので(笑)買ってみて、軽く読んだのですが、今回とある先生からこの本の話題を振られて、少し時間もできたので再読してみようかと考えて手にとってみました。

ブログのタイトルが「計量社会学の二つの物語」ということで、この対比に即して彼の議論をまとめると、彼は「決定論的で、方法論的集合主義に立つ社会類型論」的な(計量)社会学アプローチに対して、「確率論的で、方法論的個人主義に立つ人口論」的な計量社会学の手続きについて説明しています。

前者のアプローチは、必ずしも計量的なものに限りませんが、志向性としては、何らかの形で識別可能な集団や社会を類型化し、複数の集団の違いを制度や文化といった集合的なもの自体に求めます。代表例として紹介されているのがデュルケムの自殺論や、パーソンズの社会システム論で、そこにおいて個人は社会レベルの規範や制度を純粋に内面化する対象として想定されているに過ぎない。

この立場が計量社会学においてどのように表現されるかというか、従属変数のばらつき(分布)のうち、設定した独立変数が説明しない部分を「誤差」として捉えます。これは、Xie(2007)でGaussianとされる立場です。これに対して、Duncanら人口科学的な立場に立つ研究者は、独立変数によって説明されなかった部分を誤差ではなく「集団内の異質性」として捉えます。これは、Galtonianとされる立場ということです。

ここで、すでに人口論的な立場に立つ研究の志向性について入ってしまいましたが、この立場のポイントは集団内の異質性(population heterogeneity)です。ここで異質性というのが具体的になぜ生じるのかというと、ある規範や制度といった集合的な性質が個人に影響をあたえるとしても、その出力・反応は個人によって異なるためです。そして、その反応の違いはある規則性(regularity)を帯びるという確率論的な思考をします。

この異質な個人を正当化する社会学の方法論的な立場は、いわゆる方法論的個人主義とされます。方法論的というのは、分析の際にここに着目するという意味で、この世界には個人しか存在しないと想定するような存在論的個人主義とは毛色が異なります。方法論的個人主義は、個人が何らかの条件や情報を与えられた時に、そうした条件をもとに何らかの合理的な行為をすると仮定されます。ここでの合理性とは、すべての個人に共通な効用最大化などとはことなり、ある種の限界合理性・状況下された自己が念頭にあります。

Goldthorpeは以上の議論に基づき、人口科学としての(計量)社会学の具体的な営みとして、以下のような手続きを説きます。

まず、サーベイを用いて、集団ごとに見られる規則性を発見します。ここでいう規則性は、複数回の観察を通じて同じようなパターンが観察されるというくらいの意味です。さらに言えば、男性では〜〜だが、女性では〜〜というような、集団ごとに異なる規則性も重要になります。突き詰めれば、集団内の異質性に関心があるとすれば、男女の差をさらに異なる集団内の異質性(例えば、年齢や階級)に着目して説明することも可能なわけです。

このあたりのさじ加減は、分野の既存研究によって異なるのでしょうが、個人的に疑問だったのは、いったいどこまで異質性を検討すれば次のステップである規則性の説明に入っていいのだろうかという点でした。

さしあたり、十分であると考えられる規則性を確定したら、それを個人の行為・および他の個人との相互行為というミクロなレベルから説明するというのが、分析社会学の説明戦略、ではなくて、Goldthorpeのいう説明戦略です。このあたりは、ほとんど分析社会学と言っていることは変わりません。どこかですでに述べましたが、なぜ行為なのかは、社会学が合理性を持った個人を分析単位にしているからですね、それは、停止規則(stopping rule)というやつで、分野によってどこまで分析単位を細かく(粗く)するかは違います。

要するに、記述をして説明をしようという、それ自体は社会調査の教科書に書かれている話ですし、大方の計量社会学者は無意識のうちにこの手の話をすでに実践しているでしょう。この本の貢献としては、そうしたやや無意識的に実践されている分析を、もう少し定式化しようとした点にあるかもしれません。定式化というのは、いわゆる類型論的な個人の異質性を想定しないようなアプローチとの対比によって、特徴がよくわかるということでしょうか。

説明戦略についても、Goldthorpeは幾つかの事例を紹介しています。一つ目は第8章で議論されている回帰分析のアプローチに依拠して因果関係を明らかにする因果推論(潜在効果モデル)によるアプローチです。私感では、因果関係というと最近ではほとんど因果推論的な話が想定されるような気がしますが、これはこれでいいとして、他にも因果に対する異なる考え方はあるわけです。Goldthorpeに限らず、この因果推論に対する批判として指摘されるのは、それは因果の効果(effect of cause)はわかるが、影響の原因(cause of effect)はわからない、言い換えれば因果推論は推定であって説明ではないというものです。

第二に挙げられるのが、分析社会学のアプローチです。個人的には、ABMを使うという点以外を除けば、Goldthorpeがいう説明と分析社会学がいう説明はほとんど差がないような気がするのですが、彼が分析社会学に対して持つ批判は、分析社会学ではメカニズムそれ自体に主眼があり、本当にそのメカニズムがその集団で実際に作動(at work, actually operate)しているのかわからないというものです。ABMに対しても同様の批判をしていて、やはりGoldthorpeは規則性の発見に対して重点を置いているのだなという印象を持ちます。

最終的にGoldthorpeが提案するのが、規則性は明らかになっているけれどもそれを説明することはできない対象に対して、現実に作動している因果メカニズムを観察データの次元で説明するアプローチということで、例としてRRAが取り上げられています。正直、これが具体的にどのような手続きを経ればいいのか自分にはよくわかりませんでした。

中途半端になりましたが、大雑把な要約としてはこんな感じです。個人的には、やはりどの規則性まで明らかにすればいいのかという点と、分析社会学に途中まで乗っかりながらRRAのようなアプローチが目指すべき説明戦略とするには、まだ議論に飛躍があるなという点が気になりました。

ちなみに、今回は「二つの物語」の一つの方しかほとんど扱っていないわけですが、日本の計量社会学で時たまささやかれる「計量モノグラフ」なんかは、決定論的で、集合論的なアプローチと言っても良いのではないかと思います。説明を志向するときに、個人から出発するのか、ある歴史的なイベントか何かに個人が等しく影響を受けるのかとか、その辺りの解釈には計量社会学の人の中にも差があるのかもしれません。

少なくとも計量的なアプローチで研究している社会学研究者は、社会の記述をしたいという欲求(その意味では、すべての計量社会学者には分類したいという欲求があるのかもしれません)と、記述したパターンをなぜそうなっているのか説明したいという欲求の二つが同居しているのかもしれません。先日参加した研究会でも、そのような話がありまして、この本を読まなくても、うっすらそうした二つの姿勢が混じっているなと感じるわけですが、Goldthorpe大先生の本を読めば、また新しい何かを発見できるかもしれません。ちなみに、Goldthorpeはあらゆる社会学的な研究は計量分析をする、population scienceになるべきだという論調で書いている節がありますが、さすがにそれは極論でしょう。あくまで、計量的な研究について、目指すべき一つの道くらいに考えたほうがいいと思います。



December 20, 2016

12月20日

わけあって群馬にいました。

前橋駅についた後、関越バスに乗って富士見温泉、そこからさらに赤城山まで向かいます。

富士見温泉隣の休憩所にてほうれん草のうどんと焼きまんじゅう。おいしかった。



ビジターセンターでバスを降り、歩いて湿原の覚満淵へ。水面は凍結しています。


ここから、ビジターセンターのおばちゃんに勧められるがままハイキングコースを選択しましたが、完全に誤りでした。冬場で道が滑りやすくなっており、さらにまわりに観光客もいなかったので、もし足を持っていかれたらと思うと、なかなかヒヤヒヤものでした。目当ての小沼について時は感動。

冬の兵軸のこんなところに来る人はいませんでした。圧倒的な静寂の中、数十分散策。


悪くな1日でした。疲れましたが。

December 18, 2016

12月18日

11時起床。行く途中のベンチでdemographyを読んで、大学へ。demographyの第2章まで読み、論文を読む。途中で、social measurementの話に移る、昨日のダンカンの話ですね。これに限らず、数年前に読んだ論文が、今読み直すと全然違って読めたり、深く?読めるようになってたりすることがあり、それはいいことだなと思います。

終了後、ローグワン。帰宅後、論文のタイトルを考え、メールに返信、地熱など。明日から月曜。定期を更新した。ローグ・ワンは最初カタカナだけだとlogue oneだと思っていて、プロローグとエピローグの間の表現とかであるのかなと勝手に勘違いしていましたが、rogue statesのローグらしく、これはうまいと思いました。

おそらく、人文学、社会科学ではすでにポストモダンなどという言葉が出てくるあたりから何が善で何が悪なのかわからない状況というのは共有されていたような気はしますが、イラク戦争、なくならない紛争、さらにはbrexitや大統領選を経て、ますますこの感覚は研ぎ澄まされてきているのかもしれません。そうした分断の背景にあるのは、事実を超えた価値観の対立だとすれば、今年の流行語がpost truthになるのもうなづけます。ただ、科学的営為に関わる限り、ポストモダンという立場は許容できても、ポスト真実という立場には参入することはできません。我々にとっては、何がポスト真実を構成するのかという立場に立って研究する限りです。しかし、そうして提供された客観的とされる事実自体がますます浮遊感を帯びていくとすれば、社会科学の営みとは何の意義があるのでしょうか、さすがにここまでいくと言い過ぎですね。

最近、社会階層と人口学の架橋的なことには携わるだろうなという感じがするのですが、一方で、一応数理社会学会にも入っているので、最近の計算社会科学のトレンドにも興味があり、人口学とABMの話については以下のような本を、来年くらいまでには理解していたいと思っています。関心ある方、いるでしょうか。

ABCD (Agent Based Computational Demography)
Agent-Based Computational Demography: Using Simulation to Improve Our Understanding of Demographic Behaviour
Agent-Based Modelling in Population Studies: Concepts, Methods, and Applications

人口学会の会員が三百人で、その前後を人口学者の母集団として、その中でABMに関心がある人というと、もう壊滅的に少ないような気もしますが,かすかな希望を持っています。

December 17, 2016

固定効果モデルに対する疑問へのちょっとした疑問

はじめに断っておきますが、ただの妄言です。

夜に、固定効果モデルに対するちょっとした疑問から出発して、ダンカン、ゴールドソープと巡り、おや、これは石田先生の講演論文とほとんど同じことを言っているな、というところまで気づいた。要するに、観察されない云々を統制した上での(真の)「因果効果」というのは、観察データをベースとする社会学・人口学研究において、いかほどの意義があるのだろうかという。

ただ、固定効果モデルに対する疑問から出発する研究に対しても疑問がある。いわゆる「因果効果の異質性」に関心があるのはわかるのだが、その異質性を解明するために傾向スコアを用いると、逆に何の異質性を見たいのかよくわからなくなってくる。自分の理解では、傾向スコアは次元の呪いを解消するための手立てであり、一方でダンカンがいうような集団間の異質性はもっと(我々がその境界を認知しているという意味で)しっかりした集団なのではないかと思う。例えば、学歴、人種、その他種々の(時不変の)変数で傾向スコアを調整して層化したとしても、その5分類(5分位)ってなんの階層性を表現してるの?となる。ならないだろうか?

因果効果の異質性に対しては、社会学者は我々が境界を認知している(その点で意味があると仮定できる)集団レベルの異質性から出発していくのがよいのではないかと暫定的に、思った。いきなりあれこれ共変量入れて、ハイ調整しましたではなくてね、もちろん、裏ではやってるのかもしれないけどね。

で、自分が暫定的に出した結論は、固定効果との交互作用というちゃっちいもの...
まあ変数によって対応は異なり、例えば結婚年数と結婚満足度みたいに、因果の方向も、なんなら傾きも観察データでもfixされているものに関しては、もっと異質性にアタックしてもいいんじゃないかと考えている。あくまで固定効果モデルはなんらかの処置がアウトカムに与える影響はそれなりにロバストだろうということを確認するための手段くらいでもいいんじゃないかと思う。本当にプログラム評価とかに関心がある、それこそ計量経済学畑の人にしてみれば、いったいどれくらいの効果量があるのだろうかは重要な課題だろうが、社会学者はもっと更地にある集団の異質性に関心があるとしておきたい。

傾向スコアの層化にしても潜在クラスにしても、(まあ、すごいことやってるなという風には見えるのだが)出てきたカテゴリはあくまで目には見えない潜在的なものであって、カテゴリとして顕在的か潜在的かというのは、推定上の問題よりは理論上の問題として、重要になってくる文脈があるなということを感じる。このカテゴリの顕在性、社会の構成員が境界線を大まかに認知しているかどうかが重要なのではないかという点は、先日の数理社会学会で瀧川さんがチェアを務められたセッションに参加している時に感じたことである。意味世界というヤツかもしれない。

December 13, 2016

12月13日

ここ数日の疲れで、今日は目覚まし付けずに寝る。結果として、11時に起きる。部屋で出願関係の仕事をして、論文を読み、幾つか印刷物が必要なことに気づき、大学に向かったのが4時過ぎ。そこから2時間かけて、文献印刷して、地熱の分析を終えた。FAROに移って、論文を読む。
帰宅して、ご飯を食べ、寝る。起きて、レジュメ作り再開。おおよそ仕事は終えた。

December 12, 2016

12月12日

8時50分に起きるが二度寝、9時過ぎに起きて、出発ギリギリ2限に間に合う。Logit and Probitの多項ロジットの箇所で、自分は条件付きロジットを担当(ただし短かった)
普通にお昼を食べようと思ったが、時間変更で3限からゼミだったので、ほっともっとで済ませる。終了後院生室で作業。土日が忙しかったからか、力が入らず寝る。それでも、メール諸々の返信、スキャン、レジュメ作り、論文購読くらいはできた。帰宅後、出願準備。帰宅路にて、パネルデータ分析の方針について考える。

社会学的な研究には、パネル分析(固定効果モデル)は相性が悪いのではないかと思うことがある。なぜか、社会学が好む時不変の変数が入れられないため、人種とか学歴とかジェンダーとか、時不変的なもの。どちらかというと、社会学は、population heterogeneityに関心があり、これはともすると因果推論アプローチと相性が悪いのではと考えることがある。さらにいえば、因果効果の量magnitudeに関心がある計量経済学に比べて、社会学では因果効果の厳密性よりも、因果効果の異質性の方に関心があるのでは(Brand など)?

そこで、傾向スコアが用いられるわけである、その利点は、次元の呪いを解消してATEを求められること、しかし逆に弱点は特定の変数に着目することはできない。もし仮に、ある特定の変数の異質性に注目したければ、交互作用でも十分なのではと考える。

違う話で、社会学的な因果アプローチとは何か。一つのたたき台は、Goldthorpeの人口科学としての社会学論。これによれば、社会学の営みは、人口学的な法則を発見→それのメカニズムを明らかにすることたるべき。 分析社会学的には、方法論的個人主義に立つ場合、個人の行為を中心として議論を展開することが重要。仮にこれを社会学的な因果アプローチとすれば、ある法則性を確認し、その内部を分解していく作業が暫定的には出発点。

このような目的に照らし合わせたときに固定効果モデルによる観察されない異質性は法則性の発見について機能すると考えられる、かもしれないと。その後で、集団間の異質性を交互作用的に検討する。

その上で、プロセスの分解、今回は集団の異質性に着目する。

December 11, 2016

12月11日(研究会)

午前8時半に起床、すぐ着替えて9時過ぎに出発。月に一度のRA会議@御茶ノ水。実は今期最後。周りが学部2-3年生が大半ということで、なかなか自分の位置取りが難しかった。カテゴリとしては学生なのだが、年齢的には社員の方が近く、考えることも多かった。今回は、年に一度、外部の人を招いて成果報告会をすることになっており、そのレク。プレゼンとは何かという話で、あまりこの手のイロハは得意ではないのだが、実習通じて得るものもあった。自分の言葉で話すことが、まだできないのかもしれない。

12時過ぎに抜けて、院生室で作業、時間もなく、すぐ13時から研究会。17時まで。あまり発言しないという方針なのに、修論から解放されたからか、割と奔放に喋ってしまい反省。半分くらいは意味のない質問だったと思う...反射的に話さず、ちゃんと飲み込んで考える落ち着きがほしい(この4年くらいの悩み)。研究会の方向性がいつのまにか変化の向き及び変化の長期的効果、になっているような気がして面白かった。自分はというと、修論終わってやや制約から離れたので、少し工夫してみようと考える。

終了後、近辺で打ち上げ。出した時はあまり達成感だったり、何かを仕上げたという感じはなかったが、やはり修論はそれなりに重荷になっていたようで、久しぶりに楽しい飲み会だった。自分は、今まで自分の好きなようにやってきており、それで多くの先生方に迷惑をかけてきているわけだが、そんな私でも気にかけてくれる先生がいるというのは本当にありがたいことだなと思った、というとお世辞くさい?かもしれないが、しみじみ思う。なかなか行動に移したり、面と向かってありがとうとは言えないのだが、自分の存在が周りから認知されていて、気にかけてもらえるというのは、ありがたい,まあそれくらいしか言葉が見つからないが、頑張ろうという気になるし、そう、期待に応えたいなと思うようになる。

自分には自分なりにこういうキャリアを歩みたい(本当は、キャリアという言葉ではなく、もっと広く、こう生きたい、というのが漠然と、しかししっかりとある)というのはあるのだが、今の自分が、将来の自分に向けて、どのような位置付けにあるのか、それはちゃんと考えないといけないと思う。小さなことを気にとめるばかりで、大きなことを忘れてはいけない。二次分析研究会では本当に勉強になることが多い、その一方で、修論を書く、そういう複数の話をまとめ上げる作業は、また別の知恵が必要で、20ページ程度の論文を書くのに集中するあまり、そのあたりの大きなところに目を向けられなかった一年だなと反省している。同じように、自分が今何をしていて、それが将来どう繋がるかの、緩やかな意識は必要だろうと思う。

その上で、自分のような考えで進路を計画するというひとは、珍しいと思う。その珍しさが、奇異に映って周りからは変な奴だと距離を置かれるのがせいぜいだろうと思っていたのだが、応援してくれる人がいるのは、思いがけない幸せだった。普通、興味のないことには頑張って、というだけだろうが、その道で行ったほうがいい、絶対そっちに行けと背中を押してくれる人はなかなかいなかったので、嬉しかった1日だった。期待に応えられるよう頑張りたい。

December 10, 2016

12月10日(IUSSPセミナー)

今日は麗澤大学で開催されたIUSSP国際人口学セミナーに参加してきました。ポスターとかあったようですが、一般非公開ということで、人口学会会員ということでオブザーバー参加させていただきました。

6月の日本人口学会以来の南柏、麗澤大学となり、意外と道を覚えている自分に驚きました。歩きで駅から麗澤まで向かい、お昼前のセッションから参加。テーマは人口変動の長期的趨勢ということで、いわゆる歴史人口学分野に近いかと思いましたが、最近社会学でも流行っている、多世代社会移動の話もあったりで、自分にも入って来やすい内容でした。

何より驚いたのは、マンチェスターに交換留学していたときにオックスフォードで開催されたカンファレンスで会ったストックホルム大のMartinと偶然再会したことでした。配布された論文も読んでましたが、名前見てなかったw
カンファレンスはSorensenにゆかりのある大学院の学生が集まるもので、オックスフォードのほか、ストックホルム、コロンビア、ウィスコンシンなどの大学から参加があった国際的なカンファレンスでした。それ以来、ISAやGESISで偶然再会したりする人はいましたが、まさか人口学のカンファで出会うとは思っていなかったのでかなり驚きました。

セミナー自体も非常に刺激的でした。修論からのリフレッシュ期間にいるわけですが、2世紀は当たり前に伸びるデータを分析するスケールの大きさには爽快感さえ覚える程、細かいことは気にしないという姿勢、これは語弊がありますが、やはり趨勢を追いたいという野心が垣間見えて、とても気持ちの良いものでした。自分は、階層結合から出版して最近人口学にも関心を持ち始めていますが、その中で、先ほども出た多世代社会移動の話にも興味が出てきました。ミシガンで偶然知り合ったXi Songの名前も今回のカンファでちらほら出る感じで、彼女もこのグループでアクティブなメンバーであることが窺い知れました。

彼女は参加していませんでしたが、彼女が修士を終えたHKUSTの先生たちと話すことができました。キャンベルさんはUCLAにもいたことがあり、自分の博士課程以降の研究関心を伝えると、いろいろと先生を紹介してくれました。今回は、van Bavelさんの報告を目当てに来たわけですが、いろいろと収穫の多い機会となりました。

とはいえ、いろいろ仕事は溜まっているので、4本報告を聞いて、帰京。根津のオーギョーチーであんみつを食べ、院生室で作業。レジュメをまとめ終わり、兆徳二初めて行ってみました。チャーハンに感動。戻って再び作業、主として出願関係。

明日は、午前午後とも予定がありますが、出願作業を進めて、加えて地熱もできればいいなと思います。

近いうちに、Annual review of sociologyでSongとCampbellが論文を出すようです。Similarity in differenceを購入しました。
http://www.annualreviews.org/doi/abs/10.1146/annurev-soc-073014-112157

すでに出版されてますが、これも東アジアの歴史人口学についての良いまとめかなと思います。
http://link.springer.com/article/10.1007%2Fs13524-015-0397-y

December 9, 2016

12月9日

11時頃起きる、二日連続、10時間近く寝る。おかげか頭痛がひどい。家でメールやら何やら返して、大学へ。論文を読みながら、こくわですさ大。
15時からゼミ、三時間みっちり。間食にサブウェイ(生ハム)。その後院生室で、投稿論文のネタだし、終了後van bavelの論文を読む。メトロで夕食。その後スキャン、帰宅後、別の論文の方向性を確認、出願資料を整える。明日2つ提出したい。

論文を読みながら、ベビーブームの要因は意外とわかってないことを知る。日本では、第一次ベビーブームは1947年から1949年のわずか3年間、この年に生まれた世代が団塊の世代と呼ばれている。なぜこんなに短いのか、実はわかっていないのではないだろうか。
それと、戦争後に復員してきた男性と、戦後の平和感でブームが起こる、一般的な説明だが、怪しい気もする。この辺り、意外と掘ってみると面白いのかもしれない。

明日はIUSSPのセミナーです。すでに寝坊する気しかしない...

December 8, 2016

12月8日

寝るのが遅かったからか、11時頃起床、お風呂はいって、諸々済ませて1時に家を出て、こくわでお昼。

今日は明日のゼミでやる再婚の分析の途中報告資料作り。19時に終了後、ご飯を食べて、少し寝て、2時間くらいかけてその他の作業。地熱のデータ集めも含まれる。効率の悪い人間だなと思う。

帰り際に、分析のアイデアについて思いを巡らす。

December 7, 2016

近況

無事修士論文を提出しました(おとといですが)。
口頭試問が厄介なので、用意を進めます。

ただ、修論自体にはあまり自信がないので、正直自分が主査だったら撥ねてしまいそうなくらいには、満足できていません。
言い訳になるけれど、あと1ヶ月欲しかったという感じです。直前に至っても、同時並行で色々と作業があり、100%の力を注げず、という事情であまり打ち上げる気分にはならなかったです。

もちろん、課題だとわかっているところは反映して、年度内にはどこかに投稿する予定。反省と同時に、修論でゴールではないので、というのもあり締め切りギリギリまで書くという判断は見送ったという感じです。

水曜の授業でGuo and Fraserの傾向スコアの本を読んでいるのですが、先週に引き続きレジュメを担当しましたが、随分理解が深まりました。傾向スコアの重要な仮定の一つは、共変量は処置変数には影響するが、結果変数には直接影響しないという想定にあるらしい(これは、overidentificationというのでしょうか、まだよくわかりません)。今日読んだ章はこの過程を弱めるために、SEMを用いましょうというところでした。層化に関しては何とな理解できた。それ以外にも、レジュメでわからなかったところを潰すことができたので、かなり助かりました。そして、教科書だけではわからないところは引用文献にあたってみることも。

自学自習で人口学の教科書を読んでおり、形式人口学のパートを半分程度読み終えました。なかなか楽しいです。

今日は、最近進めている再婚の分析の用意や、レジュメ作成、授業、あとは修論もろも露の作業、多項ロジットの文献(IIAの仮定)など。前日も、結局レジュメ作りがほとんどでした。二次会に参加後、帰宅してメールを書いたり。投稿の準備も含めて、頑張ります。

なぜか、月曜日はとても眠くて、ゼミでも発言できず、まあ修論出したからかと思うが、疲れていた。そして、自転車をどこかにやった気がする。。。

ここ数日院生室はざわざわしていたので、明日から本番と考えて頑張ります。