January 14, 2013

【小論】「家族の価値」の理論の射程




「家族の価値」の理論の射程

 ここでは政治哲学者のアダム・スウィフトとハリー・ブリッグハウスが共同で研究している「家族の価値」の理論について報告する.彼らの問題意識は,リベラリズムや社会正義の考えとしばしば対立し,正義論の中で例外と位置づけられてきた家族をあくまでリベラリズムの視点に立ちながら,その中に理論化しようとするものだ.
 子から親への権利の委譲という形で成立する信託関係とこの関係性のもとで子どもだけでなく親も利益を追求できるという関係の財を提唱するこの理論は社会学に対しても大きな示唆を与えると思われる.多様化する家族を前に,どこまで家族を社会政策に包摂するかが問われている家族社会学に対して,理論的な貢献ができる可能性を提示したい.

1. 平等主義リベラリズムと家族の緊張
 ブリッグハウスとスウィフトによれば,家族はリベラリズムの考えや社会正義とはしばしば緊張関係にあるという.一つは家族内部において子どもの権利を大人が代行することから生じる問題,もう一つは大人が自らの子どもに対して特別な扱いをするために生じる問題である.
 リベラリズムの考えの基礎は,人間は自らの生について自分で決定する権利をもつことだ.何かしらの集団に権利を付与することはあっても,それが個人の権利に還元される訳ではないし,集団的権利よりも個人の持つ権利が優先される.また,集団的な権利の場合でも,あるメンバーに違うメンバーの権利を与えることはあってはならない.そのようなことがあるとしても,何かしらの制限を加えるか,権利を他者へ譲渡する個人には抜け道(options of exit)が用意されていなければならない.しかし,家族とは親が子どもの持つ権利を代行している一方で,子どもにとってはそうした抜け道が保障されてはいない.その意味で,子どもの権利についての取り扱いはリベラリズムの例外と考えられてきた(Brighouse and Swift, 2006: 80-82).
 ところで,他者による個人の権利の代行はその個人の利益を実現する場合にのみ正当化される.例えば,老親は時として自らの権利を子どもに委ねることがある.このとき,子どもは親の代理人となるが,子どもはあくまで親の利益を実現する限りでその権利を行使しなくてはならない.権利とは,権利が帰属するところの人が善き生を営むための能力を保護するものであるからだ(これは,権能と言った方がよいかもしれない).このような関係をブリッグハウスとスウィフトは信託関係(fiduciary relationship)と表現している.
 しかし,子どもは自らの権利についての見解を述べることはできない.そのため,いくら子どもの自律性を育成するといっても,大人が自分の好きなように子どもを育てることは,リベラルが重視する二つの価値に緊張をもたらすという.一つは寛容(toleration)の原則で,これは他者の行為や信条に対して干渉してはならないとするものだ.もう一つは自律性(autonomy)の原則で,人は自らの行為を合理的に評価し,変更するための能力や資源を備えていなければならないとするものだ.個人の自律性を尊重するが故に,寛容の原則が主張されるため,個人に介入や強制をするときには二つの価値が侵害されてしまう.ブリッグハウスとスウィフトは寛容と自律性の尊重の原則をある程度修正する形でこの問題を解決しようとする3つの方法を紹介するが,どれも不十分だとする(Brighouse and Swift, 2006: 82-84).
 また,ブリッグハウスとスウィフトによれば,自由と平等の適切なバランスを重んじる平等主義リベラルは,リベラルが重視する自由が平等を浸食するという問題を抱えている.そして,家族は自由が平等を蝕むことで生じる不公平の温床であることを述べる.つまり,リベラリストとして人々がよく生きる自由を保障すると,その中には特定の他者を特別なものとして扱うことも含まれることになる.これはすなわち,自己自身と自身が愛したものにとって有利なように,不公平に行為する自由も保障されているということである.愛するものに特別な扱いをする自由を認める以上,それが生み出す不平等のために家族は社会正義の実現にとって障害になりうる(Brighouse and Swift, 2010: 140).
 このように,家族は内部における親子の権利関係,そしてそれが生み出す不平等の側面から,社会正義と緊張関係にある.しかし,ブリッグハウスとスウィフトは家族が公正な社会の鍵になるとも述べている.なぜなら,それは親子関係への権利を保障するからだという.仮に,家族が不平等しか生み出さないのであれば,社会正義の観点から家族は廃止されるべきだと判断されてしまうが,彼らはこれに対して異を唱える.親子関係において重要な善とは何かを考えることによって,どのような権利が重要で保護すべきなのかが分かると論じる彼らは,そうした親子関係における権利を正当化するために「家族の価値」という理論を提示する.彼らは「この理論によって,我々は私たちの社会正義のconceptionの「平等」の側面と公平に扱わない「自由」との衝突を解決する方向に向かうための,いくらかの進歩が可能になる.」と述べる(Brighouse and Swift, 2010: 139).
 この「家族の価値」という概念はともすると保守主義論者が唱えるような家族の本質主義的性格と思われてしまいかねない.しかし,家族内部における権利関係の正当化,及び社会的公正との関連で家族という制度をどう評価するか,この二つの問題を解決するために,彼らは家族の価値の中でも,特に親の持つ利益(interest)が重要だと主張する.
 家族の規範理論を適切に捉えるために,彼らはそれぞれに利害を持つ親,子ども,そして第三者(国家や社会)の3つのアクターを立てており,はじめに子どもと第三者の利益からアプローチする見方を紹介した後,それだけでは家族制度の廃止という主張に反論できない限界と,家族制度は社会正義との関連においても同様の批判をされることを示す.そして,家族を正当化するためには親子の信託関係だけではなく,親の利益も考えなくてはならないと述べているので,順に紹介していきたい.[1]

2. 家族と「関係の財」
 親に子どもの権利を代行することを正当化しようとする際にまず考えられるのは,子どもの利益を尊重する立場からの主張である.ブリッグハウスとスウィフトは親子関係におけるそれぞれの利益を考える際に「関係の財」(Relationship goods)という概念に沿いながら話を進めている.関係の財とは,「家族が親子関係に参加するもの自身に与えられる財」を指し,ここで財はそれを獲得するためにある関係性が前提とされていることが分かる.そして,子どもの側は親子関係から発達的利益と非発達的利益[2]を得ている.この意味で,家族が子どもにとって利益になる機能が果たされている限り,第三者からの介入は避けられるべきだという考えになる.
 次に,家族は子どもという公共財を生み出すという見方は,第三者にとっての利益になる.子どもは将来の労働者や消費者として当該社会を維持していくためには不可欠だ.この視点からすれば,子どもは公共財であり,子どもを育てる家族は正当化されうる.しかし,両者とも家族内部での親の利益を認めていないため,ブリッグハウスとスウィフトによれば,以下の反論に耐えられない.子どもの利益を主張する考えは,家族は親が子どもの利益に寄与する信託関係に基づくとするが,そうした信託関係のみで家族を正当化しようとしても,子どもをよりよい親に再分配するという選択肢を排除できない.また,子どもを公共財とする見方も,子どもを国立の孤児院に集めて育ててしまった方が効率的だとする見方を排除できない.従って,子どもと第三者の利益のみを考えていても,家族制度を廃する選択を棄却できないのだ(Brighouse and Swift, 2006: 84-86).
 こうした反論は社会的な不平等との関連でも生じる.平等や公正を追求していくと,親が子どもを育てるのではなく,子どもは一律国立の孤児院に預けた方が,平等は達成されると考えてもおかしくない.現実的に,この意見は大半の人からは常軌を逸したものと考えられてしまう.それでは,どうして子どもは孤児院にではなく,特定の親が育てることが正当化されうるのだろうか.また,親が自らの価値観を子どもに伝えることに干渉するのは,親の子どもへの権利を侵害していると言えるだろうか.もしくは,彼らの富を子どもに受け継がせることはどうだろう.このように,子どもと第三者の利益を考えても,家族という制度の妥当性が証明されない困難に陥ってしまう.

3. 親である権利と利益
 家族内部の権利関係を見ても,社会正義と家族の関係を見ても,家族という制度は廃止論との緊張関係にある.この中で彼らがよって立つのは,親自身も子どもを持つことで利益を得ているというものだ.「たとえ国営の育児施設が親と同じくらい子どもや第三者にうまくやったとしても,なお親子関係は大人のウェルビーイングに大きく貢献するのであり,その理由から家族は部分的に正当化されるのである」(Brighouse and Swift, 2010: 141).
 それでは子どもを持つことによって大人が得ることのできる利益(interest)とは何だろうか.この点について理解するために,先ほど示したRelationship goodsの概念に戻ろう.判断能力欠如などの理由によって,意思決定ができない子どもに代わって親による「文脈の決定」がなされる.ここでは,親は子どもの利益を促進する義務を課されている.これに加え,子どもの側は親子関係から発達的利益と非発達的利益を得ている.その一方で,親も依存者である子どもと親密的な関係を享受できる.ジョン・ロック以来,信託関係の中での親の子どもに対する義務は語られてきたことではあるが,彼らが強調するのは,そうしたケアの義務を遂行できる中で,親も子どもにとって非常に重要な役割を担っているという特別な関係から利益を持っているという点[3]から,すなわち信託された役割を遂行する中で非信託的な利益を親が享受できるのだ.役割を遂行する中で得られ,発達させることのできる能力は,多くの人にとって人生の繁栄に重要なものであると述べるブリッグハウスとスウィフトが具体的な例としてあげるのは,自分自身をよく知ること,人として成長すること,親子関係から満足を得られること,そうした役割を遂行できれば,それは親自身の人生の成功に寄与するという点にある(Brighouse and Swift, 2006: 91-96).
 このように書かれると,本当に親は親子関係から満足を得ているのかと疑いたくなってしまうが,権利が根源的であるのは,人が単にその人自身であるという理由に負うのであり,権利によって保障されるものを通じて,権利を持つその人自身が利益を得るからである.もし多くの人にとって親であることが一つの利益でなければ,その権利は根源的とはされず,親になることを可能にする制度—すなわち家族—を廃止するという主張に対抗できない.その意味で,多くの人によって親であることが一つの利益であると共有されている限り[4],この権利は保障されるべきという論理をブリッグハウスとスウィフトは用いていると言える.もちろん,根源的な権利であっても条件的であり,第三者から何かしらの制限を受けることは認められる.これは他の根源的な権利でも同じことだ.この場合の条件とは,子どもの利益(自律性を獲得すること)を妨げない範囲で親は自らの利益を享受できることを示すと同時に,関係の財を犠牲にしない範囲であれば,不平等や不公正を是正するための介入も正当化されるということである[5]

4. 結びにかえて
 ここまで,ハリー・ブリッグハウスとアダム・スウィフトの「家族の理論」を見てきた.考えてみれば,家族とは不平等の根源である.もちろん,このような問いは何も今に始まったことではない.山田昌広は1995年の日本家族心理学会の年報に寄せた文章の中で,「家族であるということは「自分に責任が無い」不平等を引き受けなければならないことである」(山田, 1995: 188)と述べているが,こうした「気づき」は社会学に限ったものではなく,現代家族の揺らぎという現象の中でクローズアップされてきているだろう.逆に考えてみると,今までそうした不平等を意識化させてこなかったのは,家族は「共同体的で愛情溢れるはずだ」というイデオロギーだったのかもしれない.
 こうした戦後家族のイデオロギー性・社会的構築性を歴史研究によって明らかにしたのは落合恵美子らの近代家族論である(落合恵美子,1997).そして,機能主義的な集団論的アプローチを脱する過程にあった家族社会学は,近代家族論を理論的な助けとしながら近代家族イデオロギーのもとで「逸脱」と見なされた家族を「多様化」という言葉に言い換えていった.そして,このような家族社会学の潮流には多様化する家族を政策的に包摂していこうとする政治性が含まれていたことを久保田裕之は指摘する[6](久保田, 2009;  2011).
 しかし,集団論的アプローチから脱却し家族の多様化に集約していこうとした家族社会学に未だ「求心的で統一的な新たなパラダイム」は現れず,今後の見通しも限りなく低いという批判が家族社会学の内部から提示されている.(池岡, 2010: 149-152)そのような状況の中で必要なことは,単に多様化する家族を記述するだけにとどまらず,社会政策との関連で,多様化する家族をどこまで包摂するかという問いだろう.なぜならば,従来標準的とされた家族と異なる特徴を持つ家族を制度の中に位置づけることは,「家族とは何か」,「どこまでが家族なのか」という問いと直結するからである.
 そして,このような潮流の中で,家族に期待されていた機能から出発する形で家族を理論的に再考しようとしたり,ケア論を発展させる形で家族を福祉社会の中に位置づけようとする動きが見られている.(久保田, 2011; 上野, 2011)その中で,ブリッグハウスとスウィフトが提唱した「家族の理論」の持つ意味は小さくないように思われる.彼らの理論の特徴は以下の二つだろう.第一に,家族(ここでは,親子関係)を子の権利を親が代行するという意味の信託関係と捉え,その限りにおいて親は子どもの利益を実現する義務があると考える点だ.上野千鶴子は「ケアの社会学」の中で,ケア関係にあるもの同士の中で相互にケアする権利,ケアすることを強制されない権利,ケアされる権利,ケアされることを強制されない権利が保障されている状態を実現する必要を唱えているが,親子関係において子どもは意思決定ができず,ケアされる権利/ケアされることを強制されない権利を実質的に保持していないと考えられる.この点で上野の理論は親子関係に当てはめることが難しいのだが,ブリッグハウスとスウィフトのように親子関係を信託に基づくものと考えることで,上記の二つの権利は子どもの利益を実現する限りにおいて親に委ねることができる.第二に,そうした信託関係から生じる財(関係の財)を追求できる点に親の利益を定義した点である.親子関係に関して主張される子どもの権利に対して,親の権利はあまり主張されない.しかし,家族が歴史的に再生産の制度だったからという理由だけで,家族を維持することは規範的に可能ではない.これに対し,親の利益を認めることが家族という制度を維持できると主張することで,この理論は社会正義論との緊張関係を解消している.そして,家族を個別的,情緒的な関係性から生じる善の集合体と考えることは,多様化する家族を関係の財を追求する集団と捉えることが可能になり,政策的に包摂できる可能性を持つと考えられる.以上のように,家族の権利論アプローチとも言えるこの理論は家族という制度を正当化しつつ,多様化する家族を包摂できる可能性を持っているのだ.

<参考文献>
Brighouse, Harry and Adam Swift. 2006. Parents’ Rights and the Value of the Family, Ethics 117: 80-108.
Brighouse, Harry and Adam Swift. 2010. Social Justice and the Family Value, Gary Craig, Tania Burchardt, David Gordon, eds. Social Justice and Public Policy, Bristol, Policy Press. 139-156
池岡義孝, 2010, 「戦後家族社会学の展開とその現代的位相」 『家族社会学研究』 22(2), 141-153
久保田裕之, 2009, 「『家族の多様化論』再考—家族概念の分節化を通じて—」 『家族社会学研究』 21(1), 78-90
久保田裕之, 2011, 「家族社会学における家族機能論の再定位 : <親密圏>・<ケア圏>・<生活圏>の構想」 『大阪大学大学院人文社会研究科紀要』 37, 77-96
目黒依子, 1999, 「総論 日本の家族の「近代性」」目黒依子・渡辺 秀樹編著, 『講座社会学 家族』, 東京大学出版会 1-19
山田昌広, 1995, 「家族をありのままに見る方法」, 日本家族心理学会編, 『家族—その変化と未来』, 金子書房, 179-194
落合恵美子, 1997, 『21世紀家族へ』, 有斐閣
盛山和夫, 2011, 『社会学とは何か』, ミネルヴァ書房
上野千鶴子, 2010, 『ケアの社会学』,太田出版




[1] 前提として両者が想定しているような家族は基本的に親子関係と私たちが考えるものになっている.そこでは,兄弟や祖父母といった人達は想定されてはいない.だからといって両親と子どもからなる核家族を措定している訳でもないことには注意したい.両者は親が必ずしも二人である必要は無いと考えるし,さらに言えば親子に血縁関係がなくても家族と捉えている.そういう意味で両者が考えている家族とは「親子関係の中の大人と子ども」くらいに捉えて差し支えない.社会正義論に立つ両者の家族の定義はファミニズムからは批判を受けるかもしれない.ともすると文脈性を無視した両者の定義は,男女の不平等な役割分業に焦点を当てるフェミニズムには不十分なものと映るかもしれないからだ.しかし,両者は二人親を想定していない点でフェミニズムに欠けた視点を備えているとも言える.シングルマザーでもシングルファーザーでも,子どもとの関係があれば家族なのだ.実際のところ,両者は排他的な関係にあると考えるよりも,相補的な関係にあると見た方が良いだろう.フェミニズムは特に女性の不払い労働の構造化を問題視するが,それは一方で家族をマジョリティの定義に標準化してしまっている.一方で社会正義論にはフェミニズムのような具体的な問題意識に欠けるところはあるかもしれないが,逆に利点としては特定の家族を想定しないことによってより一般的な志向が可能になるという点を見逃してはならない.両者は排除しあう関係ではなく,還元不可能であるものとして互いに「編み合わさ」っていればよいのだ.
[2] 前者は,感情や倫理感などのようなその人の人格に寄与するような側面で,後者は関係から直接に得られるような安心感といった側面である.
[3] 両者は,多くの大人にとって親になることには利益があると考えているが,全ての大人がそうだとは考えていない.親になることが大人に不幸な結末をもたらす可能性を否定してはいない(Brighouse and Swift, 2010: 142).
[4] この意味で,家族という制度も人々の間の一定の規範的な了解の中にあり,盛山がいうような「理念的実在」として考えることができる(盛山, 2011: 55).
[5] 「家族の価値」は大人が自分の子どもを他の子どもとは異なって扱うことによって可能であるため,関係の財が機会の不平等を引き起こすことは容易に考えられる.ブリッグハウスとスィフトは以下の6つの項目はすべて関係の財から発生するような現象とし,これらが機会の不平等を引き起こすことに注意を促している.
①贈与/遺産,②エリート教育,私立への授業料,③社会ネットワークへのアクセス,④価値観の伝達,野心の形成,⑤育児のスタイル,⑥寝る時の読み聞かせ
 これらのリストのうち,どれが許容されて,どれが何らかの制限を加えるべきか.こうした点に彼らは外部のシステムに関係するものはなんらかの制限の対象になりうると述べる.例えば,読み聞かせが全くもって私的な,すなわち親密性の範疇でなされることであるのに対し,遺産やエリート教育は外部のシステムと関係し,機会の不平等の可能性がある.すなわち,国家は関係の財を実現するために必要な親子のインタラクションは保護しなくてはならないが,これらの財は親が子どもにどんなことにまで好意を与えることを認めている訳ではないのである(Brighouse and Swift, 2010: 142-146).
 このように,両者は親子の相互作用とそれを生み出す関係の財を分けて考えている.子どもと情緒的な時間を過ごすことはなんら制限の対象にはならないだろうが,子どもに遺産を与えたり,教育投資をしたりするのは,親子のレベルでは関係の財であるけれども,機会の不平等を生み出すため制限の対象となり得る.これら関係の財は子どもにも大人にも財をもたらす.しかしその多くが,実は外部との関係から機会の不平等という問題と対立してしまう.彼らはこうした機会の平等との対立を乗り越えたあとになお残る家族を廃しないだけの価値を「家族の価値」と考えているのだろう.
[6] 日本の代表的家族社会学者である目黒依子は「講座 家族社会学」の総論部分で以下のように述べる.
 対等なジェンダー関係は,個人レベルのそれを支える社会制度が整備されて初めて社会システムとなる近代福祉国家の成立が夫婦とその子供で成り立つ家族を親族組織から独立させる仕組みであったとすれば,個人化する家族をシステムとして成立させるためには,家族単位ではなく個人を単位とするサポート・システムが必須となる(目黒依子, 1999: 15).

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