March 3, 2013

岩本由輝,2009,『東北開発120年』,刀水書房.


①「東北」ということばに込められた意味
「こうして鶴岡藩が秋田藩の領内深く攻め込んで優勢を保っている出羽中部の戦線を除くと、西軍の優位は決定的なものになっていった。七月一日には江戸が東京と改められたが、この頃、戊辰戦争での西軍の勝利を確信することができたものとみえ、薩長政府の参与木戸孝允は戦勝後の奥羽越列藩同盟に加盟した諸藩に対する処置に関する建議書を提出している。その建議書の表題が『東北諸県儀見込書』となっているのが注目される。東北という地域名の文字の上での初現であり、また、県というのは閏四月二一日に出された府藩県三治の制にもとづき占領地など政府の直轄地に付される予定の行政単位の呼称であった。そして、今日の東北地方という呼称につながる東北は、要するに東夷北狄を約めたものであったのである。[pp.10-11]
 
 岩本が戊辰戦争の記述を持ってきた動機は「一九八八(昭和六三)年は戊辰戦争一二〇年記念ということもあって、当時の現実を無視した敗者故の正義を美化する心情的な言説が東北各地に横行したので、当北海初の視点としてのこの時代を客観的に考える必要があると考え、戊辰戦争の経過と当時の評価をあるがままに示した」[p.13]からであるが、ここで、彼が戊辰戦争における「勝者(明治政府)と敗者(東北)」の構図がそのまま「中央と地方の格差」に移っていることを示そうとしたのは、「東北」という地名が「東夷北狄」にちなんで、戊辰戦争で敗れた奥羽越列藩同盟につけられた蔑称であると主張していることを考えると想像に難くない。確かに、彼の主張にも頷けるが、果たして本当にそうだろうか?

②自己自らの恥辱?
「このため、東北振興ということばが東北救済の代名詞のごとく印象づけられることになり、東北救済はあくまで凶作に対する東北振興会の臨時的な対応にすぎなかったはずであるが、それが恒常的なものと受け留められるようになり、浅野源吾の言によれば、『振興』ということばを使うことは『自己自らの恥辱なり』とする雰囲気が東北地方の気力ある人々の間にみられるということすらあったのである」[pp.62-63]

 ③でも関連することを述べているが、ここでは浅野の「恥辱」感に焦点を当ててみたい。岩本は、浅野のこの言葉を借りながら、中央が用意する「東北振興」ということばが、東北の人々にとっては「東北救済」ということばに変換されて現れ、中央の振興という言葉に名誉を傷つけられた感情を抱くとしている。一貫して「中央と地方の格差」のフレームの中で議論が進められている論考の中で、この箇所は東北の人々が中央に差別されているという感情を抱いているということを読者に喚起させている。
 しかし、この「恥辱」感は当時の東北の人々にどれほど共有されていたのであろうか。こうした疑いは、浅野が岩手出身である一方、第二次東北振興会の理事としての浅野の考えが「会を使って国家資金を引き出し、東北振興を進めようという他力本願型」[p.75]だったからでもあるが、東北遊説に出た渋沢を待っていた「渋沢に対して何かやってくれるだろうという他力本願型の期待をするだけ」[p.65]の人々、1924年の第一次振興会の「銀行ノ合同」「電気事業ノ組織改善」に関する提案を否決した東北地方の会員[p.77及びp.81]の記述を見るにつけ、東北地方の人々にとって、中央とは自分のために何かをやってくれる人々であり、開発に関して自分たちが必要ないと思えば、無理して中央に懇願するまでもなかったのであり、岩本の指摘するような「恥辱感」などは抱いていなかったのではないか。議論の中で紹介できればいいが、浅野自身は中央に対するコンプレックスを抱いていた。しかし、彼が抱いていたような恥辱感を東北地方の人々はどれだけ共有していたのだろう。この恥辱感の記述は、岩本が自分の中央と地方の格差フレームで議論を進めたいがために持ってきた、恣意的な記述のように思える。


③「中央と地方の格差」フレームの限界
 浅野の「恥辱」感がどれほど当時の人々に共有されていたか疑いを持ってしまうと、岩本がこの論考で一貫して支持していた「中央と地方の格差」フレームの限界に気づかざるを得ない。彼はこのフレームを説得的に見せることで、新潟県を含む東北地方の日本の産業発展史上における特異性に言及しようとしているのは、あとがきでそれを否定しようとはしているものの、多くの読者が感じるところであろう。中央を「勝者」「資本」ということばで記述する一方、東北地方が(そもそも東北という言葉自体に蔑称の意味が込められているのが彼の主張であるが)「敗者」「小作人」ということばに現されたように、一貫して弱い立場に置かれていたことを彼は主張する。従って、東北地方の人々の恥辱感はこの「中央地方」の二項対立に必要不可欠である。
 しかし、この感情を東北地方に住む一般の人々がどれだけ持っていたかは疑わしい。そもそも、東北地方の人々を東北ということばでひとくくりにしてしまうことに限界があるのではないか。私は、「中央と地方」の間に、中間項としての「地方の資本家・知識人」がいたとするのが適切だろうと考える。浅野のような、中央と接する機会の多かった地方の知識人層は東北地方の経済的・文化的な未発達について意識することが多かったと考えられる。一方で、実際に小作人であった人々がどれだけ自らの地域の未発展について意識していたかは疑わしい。振興会の会員でさえ、開発に対して無関心だったのである。

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