ここ数年、11月は学会で日本に帰ったり就活だったりで落ち着かない日々を過ごしています。4年前から付け始めた日記も、11月はぽっかり空いていたりします。それでも、感謝祭の前になると、急に色々なものが止まり始め、突然と時間ができます。
ふと気になって自分が現在取り組んでいるプロジェクトを全部書き上げたところ、30個近くありました。共著者の数を数えてみると、これも30人くらい。単著もありますが、ほとんど共著で、重複もあるのでこれくらいになります。RAの人や、編集者、仕事上関係の深い人を入れていくと、あっという間に50人くらいの人と、広い意味の研究をしていることに気づきました。
私のポスドクは自分の研究にエフォートの100%を捧げられるので、研究する時間は恐ろしいほどあります。研究する時間がありすぎて、研究していないと逆に罪悪感にかられるくらい時間があります。極端に研究する時間ができて初めて気づきますが、研究していないと不安になるのです。人間はわがままですね。
実際、ハーバードに来てから6本論文を仕上げられました。が、アメリカの社会学では量よりも質なので、単著でトップジャーナルに一本あれば苦労しないと言われ、暗に手を付け過ぎだと懐疑的な目で見られることも事実です。確かに、手広く研究をしすぎている人は、どこかアイデンティティがない人のように見えてしまいます。一応自分の中では30のプロジェクトのうち、25個は4つの研究テーマに収束しているのですが、それでも研究テーマが4つというのは、若手としては多いかもしれません。
一応自分の中では優先順位をつけて作業しているつもりではあるのですが、もっと一つのプロジェクトに時間を費やすに越したことはないという自覚もあります。エフォート100%でも回っていないので、これ以上プロジェクトは増やさず、今あるものをあと1年半のポスドクの間でできるだけ仕上げることが必要です。
ポスドクという身分にはなりましたが、基本的にやっていることというか、一日の過ごし方は学生の時と変わらない、何なら学生の時より学生や市区過ごしているので、正直まだ学生気分が全く抜けません。それでも着実に年を取っていると感じるときも増えました。わかりやすい例は、数年前から始まりましたが、大学院に出願しようとしている人からの連絡。出願書類や、ズームで話して相談に乗ることが増えました。私も出願の時に先輩の世話になったので、その時の恩返しをしているつもりではありますが、利害のない人の依頼にどこまで時間をかけて答えるべきかについては、まだ明確な回答がありません。
現役の博士課程の院生と話すと、自分はすでに学生と見られていないことに気づきます。先日あったフライアウト(フライもしなかったのでキャンパスビジットでしょうか)では、ジョブトークの後に大学院生とランチの時間があり、自分は数年前まで「向こう側」にいて、キャンディデートの人に的を得ない質問をしていたことを思い出しました。質問に答える側になってわかるのですが、要領を得ない会話になっている原因は、質問する側が的を得ていないことを聞くというより、答える側が質問の意図をうまく汲み取れていないケースが多いんじゃないかと思います。答える側も、初めて答える立場に立っている場合は、素人同然なのでした。そして答えるたび、自分の経験をシェアすることが、果たして何の役に立つのか、自問自答するわけです。
結局、自分が思っている以上に自分は「学生じゃない人」として見られているのですが、自分としてはだからといって「教員でもない」ので、向こうの視線とこちらの意識が噛み合わないときがあります。今のポストに何も不満はないのですが、この意識の噛み合わなさを早く解消したいというのが、最近考えていることです。
November 26, 2024
噛み合わなさ
November 24, 2024
missing baby
デンマークの週刊誌(割と高級紙っぽい)のインタビューに答えました。
しかし読めない(サブスクしてないのと、言語的にも、二重の意味で、、、)
De forsvundne babyer (missing baby)
https://www.weekendavisen.dk/2024-47/udland/de-forsvundne-babyer
November 21, 2024
job talk as ritual
ジョブトークをしてきた。去年と合わせて3回目。これが初めてのアメリカでのトークだった。ファカルティとのミーティングからジョブトーク、大学院とのランチも含め、特にやり取りに困ることなく、ひとまず一通りこなせたことに、多少の成長を感じた。例えば、2022年の自分だったら、全くこなせていなかっただろうし、去年の自分だったら、ジョブマーケットに入って1年目で、てんてこ舞いだったろう。
成長というより、正確には慣れかもしれない。ジョブトークでもミーティングでも、コミュニケーションにはパターンがある。そのパターンに従っていれば、摩擦なくやり取りができる。文化的な背景が異なるアメリカで、それも異なる分野の人と話す今回のようなキャンパスビジットでは、会話の「型」を知っていることの利益を感じた。そういう「型」は単にアメリカに長くいれば身につくというものではなく、やはり特定の人と、特定の場面でコミュニケーションを重ねることに、体に染み付くものだと思う。
トークの方は、思った以上にうまくいった。トーク自体は言い忘れたところを戻って説明した箇所が1つか2つくらいあったくらいで、欠落なく話せたと思う。前回のプラクティストークのときには暗記した内容を早口で話してしまったが、不思議と本番ではゆっくり話すことができた。かかった時間は38分ちょうど。大体想定していた時間に収まったので(ジョブトークは45分というところが多いが、集中力を考えると37分がベストらしい(本当か?))、トークの方は自分ができる範囲ではベストに近かったと思う。もちろん、そもそもトークの内容を変えたり、順番を構造的に変えれば、より良いパフォーマンスにつながったかもしれないが、それをするには自分の実力が足りなかった。現時点での実力は出し切ったと思うので、オファーがもらえなくても全く後悔はない。
Q&Aは、まあOKという感じだった。うまく答えられない、あるいは勘違いして答えた質問は複数あった。満足な回答ができたのかもわからない。ただ質問は尽きなかったし、参加してくれた人も多かったらしい。50点満点でトークは45点、質疑は35点とすると、合計80点くらのできだったと思う(この年になって自分のパフォーマンスを100点満点で表現するときが来ようとは)。
ジョブトークにも「型」はあり、トークの中身と同じくらい、聞いている人はスピーカーがその型をうまく踏まえているか、チェックしている気がする。イメージとしては、フィギュアスケートのショートプログラムに近いかもしれない。演技は自由だが、踏まえなくてはいけない要素がある。それは相手の目を見る、ボディランゲージ、途中で間を置く(そしてその時に水を飲む)、質問の時にそれはいい質問だという、答えられない質問に対してわからないと答えずそれっぽい回答をする、などなど、挙げればきりがないが、そういう一つ一つの要素が「こいつはジョブトークの作法をわかっている」という判断基準になる。そうして要素を積み重ねることによって、最終的に聞き手は「こいつは自分と同じ側の人間だ」と考えるようになる。したがって、ジョブトークは「聞く」部分と同じくらい「見る」ことが重要になる。
そういう意味で、ジョブトーク(ひいてはキャンパスビジット)は、ある種のritual(通過儀礼)なのかもしれない。少し大げさに言えば、ジョブトークは明文化されていないルールを適切に踏まえることによって、聞き手と話し手が同じ部族にいることを確認する作業と言ってよい。
一見すると、こういった作業は研究と本質的な部分で関係がないように見える。自分も、研究者の仕事は論文を書くことなはずなのに、なぜアメリカではパブリックスピーキングのスキルが重視されるのか、首を傾げることもないわけではない。ただ、こういった「お前と私は同じ部族」確認プロセスは、ジョブトークの場面で特徴的に見られるのであって、他の場面でも明示的ではないにしろ存在する。例えば、論文を執筆するときにも、各分野の不文律を守ることが重要になる。それ自体が科学的な知見を帰る訳では無いが、分野ごとに決まった「お作法」がある。それをクリアしていない論文は異なる部族に属すると思われるので、評価も割り引かれる。アカデミアというのは、ロジックの世界でもあるが、必ずしもロジカルとは言えない慣習が支配する世界でもある。
November 18, 2024
先輩として何を語ればいいのか
母校(高校)の生徒さんがアメリカに海外研修にいかれるということで、(アメリカにいるので)一言くださいと言われ、指定された日時にライブで参加することが難しかったので録画をしたのですが、果たして役に立ったのだろうか、よくわかりません。
昔からこの手の「先輩からの経験」的なイベントにいくら参加しても特に何かを得たという記憶がなく、今回話す側に回って手探りでした。結果的に、客観的な事実と少し外れた話、最後に外観してみた感想、みたいな構成になります。高校時代、大学時代、大学院時代、そしてアメリカへ(ドラクエか)。まあ話自体に中身がなくても、こういう人がいると知って将来の選択肢が広がってくれればいいんでしょうかね。繰り返すように自分はこういう話から何かを得た経験がないので、自信がありませんが。
しかし高校の頃からアメリカに研修旅行に行って「意識を高める」活動を提供しているのには、頭が下がります。留学も低年齢化しているのだろうと思いますが、高校在学当時の私にはアメリカに留学する、といった考えはミリもなかったので、多分興味も示さなかったでしょうし、そもそも数十万もする費用なんて親が出してくれなかったでしょう。私は大学に行ってからこういった「意識が高くなる経験」に恵まれることになりましたが、もし留学への競争が低年齢化して、高校の時からスタートしないと手遅れ、みたいな社会だと(韓国とかが既にそうなっていると思いますが)、私は今頃アメリカにいないかもしれません。物事は全てたらればですね。
それで基本的に現在の自分を肯定するような語りになってしまうので(本当はあのときこうしてればよかったみたいな話をした方がいいのかもしれませんが)、そういう語りをしている自分を見るとひどく痛々しい気持ちになります。どんだけ自分大好きなんよ?みたいな。アメリカにいるというのも、やはりアメリカの大学院の方が日本よりもいいみたいな話になりがちで、本当は単純にそんな紋切り型の回答もできないんだよねと思いつつ、別に先輩からの体験談は留学におけるメリット・デメリットを話す場でもないかなと思ったり。
これに限らず、最近は少し年齢が下の後輩に対して、客観的にはメンタリング、主観的にはただの雑談と愚痴の混ぜ合わせをすることが増えてきました。学部まで日本で、大学院からアメリカで博士号を取り、一応アイビーリーグの大学の中でキャリアを過ごしているというプロフィールは、日本の社会学では比較的珍しいので、ある程度自分の経験をシェアすることは理にかなっているのかなと思いますが、いかんせん自分みたいなキャリアが珍しい分、自分の意見が全体を代表しないようにも気をつけています。
実際に経験したからわかること、というのはそれがどれくらい一般化可能かはおいておくとして、役に立たないようで役に立つように見えて、しかし実は役に立たないところがあります。例えば、アイビーリーグにいる人が持ちがちな、アメリカの学歴エリート仕草。この3年くらいプリンストンとハーバードの狭いサークルで、スピーカーの発表を聞いてから、そのままの流れでフォーマルなディナーをとる、みたいなイベントに参加させられています。そこだと、最初はアカデミックに真面目な話を聞き、気の利いたコメントをするわけです。
「気の利いた」という部分は重要で、そのあとにディナーやランチの機会が待っているので、トークはそのための話題提供くらいの機能なのです。したがって、誰もガチガチの議論は望んでいません。それでも、あ、この人よくわかってるな、みたいな気の利いたコメントをして、少し牙だけ見せておく、そういうことがあります(別にそこまで意識的にはやっていないのかもしれませんが)。そしてディナーになると、ひたすら社交。スモールトークから入って、共通の友人やバックグラウンドを見つけ、当たり障りのないキャリアや昨今の社会情勢について話して、気分良く帰ります。
つまり、本気になりすぎてはいけないのです。社交に資する範囲で真面目に話すというのが、私の思うアメリカの学歴エリート仕草です。自分を誇示しすぎてもダメ、相手を持ち上げすぎてもダメ、相手の研究に本気でコメントしてもダメ、何事もほどほどが称揚される、そういう価値観です。もっと突っ込んだ話は、仲良くなって日を改めて、というカルチャーといってもいいかもしれません。役に立つのか、立たないのか、わかりませんよね。でも、そういう場面に何度も遭遇することによって、人は社会化するのです。