はじめに、stata用のstyファイルをltxファイルと同じ階層に置く。stata上で
copy http://www.stata-journal.com/production/sjlatex/stata.sty stata.sty
とすればstyファイルが手に入る。あるいは、以下のコマンドでも同様らしい。
net from http://www.stata-journal.com/production
net install sjlatex
さらにstataにtexdocをインストール。
ssc install texdoc, replace
下ごしらえは終了。基本的にtexdoc do filename.doと実行していくことで、texファイルができる。texdocのウェブ上に豊富な例が掲載されている。latex上でコンパイルする際にプリアンブルに
\usepackage{stata}
を加えた上で、本文中に
\begin{stlog}\input{Sample_1.log.tex}\end{stlog}
などのように作成したtexファイルを貼り付ければ良い。
November 29, 2018
November 28, 2018
今週の計画
今週の目標
・統計のタームペーパー提出
・形式人口学のテスト
・同類婚の分析
・共著論文の修正
日曜
・人口学テスト
月曜
・統計のタームペーパー
・統計のラボ
火曜
・統計のタームペーパー
⇨提出
・人口学の質問ポスト
・統計の授業
・DemSem
・プロセミナー
・同類婚の分析
水曜
・同類婚の分析
・コロキウム(JLMトーク)
・JLMとインフォーマルセッション
木曜
・同類婚の分析
⇨モデルが間違っていないかを確認してメール
・同棲の分析
・人口学タームペーパー
土日
・demtechの課題
・人口学セミナーのレポート
***
・waiveの準備
・ジョブトークの候補者の論文を読む
・質的調査法の先生にメール
・同類婚地域分析の文献
・TTSのまとめ
・Professional development
・夏のファンディングとワークショップ機会についてメール
・統計のタームペーパー提出
・形式人口学のテスト
・同類婚の分析
・共著論文の修正
日曜
・人口学テスト
月曜
・統計のタームペーパー
・統計のラボ
火曜
・統計のタームペーパー
⇨提出
・人口学の質問ポスト
・統計の授業
・DemSem
・プロセミナー
・同類婚の分析
水曜
・同類婚の分析
・コロキウム(JLMトーク)
・JLMとインフォーマルセッション
木曜
・同類婚の分析
⇨モデルが間違っていないかを確認してメール
・同棲の分析
・人口学タームペーパー
土日
・demtechの課題
・人口学セミナーのレポート
***
・waiveの準備
・ジョブトークの候補者の論文を読む
・質的調査法の先生にメール
・同類婚地域分析の文献
・TTSのまとめ
・Professional development
・夏のファンディングとワークショップ機会についてメール
November 27, 2018
履歴書の書き方
今日のプロセミナーの前半がCVに関してだったので、気になった(参考になった)箇所をメモ。
UW-Madisonの最近の卒業生のCVを例に話が進んだ。結局時間の関係で、しっかり見たのは現在USCのProvost’s Postdoctoral ScholarをしているKingさん。早速話がそれるが、もしUSCに就職できたらすごく幸せだと思う。幸いかどうかわからないが、地熱方面で共著をしている先生もいるので、何かと縁を感じる大学である。ちなみに行ったことはない。カリフォルニアというだけでかなり憧れる。
本題に入ると、彼女は経歴からもわかるように、研究業績以外にも新しい授業を作る際に関わったり、ASAの前に開かれている学生カンファレンスのオーガナイザー、ASAのセクションの院生代表、豊富な教歴、様々なサービスなど、多彩な活動をしていることがわかる。
先生としては、こういった側面も重視されることはあるが(例えば教育重視の大学への就職を考えている場合は教歴やサービス歴は重要かもしれない)、研究大学を考えている場合には、hiring committeeが見ているのは、基本的に採用した場合にテニュアが取れるか、つまり研究のポテンシャルがどれくらいあるのか、ということらしい。
細かいところでは、referenceあるいはPhD thesis committeeの欄に書いた先生は、hiring committeeが採用を考える際に、誰に聞けば当人の研究を詳しく聞けるかという側面もあるが、自分はこの先生の弟子というシグナルにもなるようで、自分はどういうラインの研究をしているのかをシンボリックに伝える機能もあるという。これは私の感想だが、committeeの先生は、少なくとも数人はその界隈ですでに評価が確立している先生の方が、話は進みやすいのかもしれないなと思った。
Research experienceでは、自分が共著には入らなかったが、どのようなスキルを持っているかを示すためにRAやPA歴を書くところで、できれば1行でどう行った作業をしたかを書くと良いという。そのrationaleは、共著であれば自分が担当したところを書けばすぐわかるが、RAというのはそういった貢献として表には出にくいからだろう。
サービス歴については、基本的にあまり重視はされないが、何かをしていればgood citizenであることをアピールできるらしい 。とはいえ、サービス歴がなくともbad citizenだとは思われないので、なくても良いということ。
カンファレンスでの発表歴も、業績というよりは、自分がどの学会にフルにコミットしているかを知らせるための機能が大きいらしい。また、就職先候補のファカルティに候補者がコミットしている学会、あるいはセクションにコミットしている先生がいれば、もしかしたら候補者の発表をすでに聞いているかもしれないので、事前に探りを入れることができる。学会はネットワーキングとしての機能を持つが、何も良い側面ばかりではない。もし学会で変な報告をしてしまったり、社交的ではないと判断されれば、whispering networkを通じて当人の評価が下がることになるという。怖い。
グラントの項目ではmajorとminorというわけかたと、internalとexternalのわけかたがあるらしい。好みによって使い分けるということ。最後に、査読中の論文をCVにあげることはよくあるが、単にunder reviewではあまり意味はなく、R&Rに入った時点で雑誌名を上げるだけで良い。後者の方が、実際にその論文が当該雑誌に掲載される確率が圧倒的に高いからだ。
終了後の感想としては、私はアメリカの大学院に出願するときに、アメリカの院生のCVを真似ていたが、正直あまり意味がわからないところもあり、その一部が解決された。ジョブマに出ている人が気にする箇所(under reviewなど)が、かならずしも大学院出願者にとって重要であるとは限らないので、もし昔に戻れるなら、恥ずかしくて書き直していることだろう。
UW-Madisonの最近の卒業生のCVを例に話が進んだ。結局時間の関係で、しっかり見たのは現在USCのProvost’s Postdoctoral ScholarをしているKingさん。早速話がそれるが、もしUSCに就職できたらすごく幸せだと思う。幸いかどうかわからないが、地熱方面で共著をしている先生もいるので、何かと縁を感じる大学である。ちなみに行ったことはない。カリフォルニアというだけでかなり憧れる。
本題に入ると、彼女は経歴からもわかるように、研究業績以外にも新しい授業を作る際に関わったり、ASAの前に開かれている学生カンファレンスのオーガナイザー、ASAのセクションの院生代表、豊富な教歴、様々なサービスなど、多彩な活動をしていることがわかる。
先生としては、こういった側面も重視されることはあるが(例えば教育重視の大学への就職を考えている場合は教歴やサービス歴は重要かもしれない)、研究大学を考えている場合には、hiring committeeが見ているのは、基本的に採用した場合にテニュアが取れるか、つまり研究のポテンシャルがどれくらいあるのか、ということらしい。
細かいところでは、referenceあるいはPhD thesis committeeの欄に書いた先生は、hiring committeeが採用を考える際に、誰に聞けば当人の研究を詳しく聞けるかという側面もあるが、自分はこの先生の弟子というシグナルにもなるようで、自分はどういうラインの研究をしているのかをシンボリックに伝える機能もあるという。これは私の感想だが、committeeの先生は、少なくとも数人はその界隈ですでに評価が確立している先生の方が、話は進みやすいのかもしれないなと思った。
Research experienceでは、自分が共著には入らなかったが、どのようなスキルを持っているかを示すためにRAやPA歴を書くところで、できれば1行でどう行った作業をしたかを書くと良いという。そのrationaleは、共著であれば自分が担当したところを書けばすぐわかるが、RAというのはそういった貢献として表には出にくいからだろう。
サービス歴については、基本的にあまり重視はされないが、何かをしていればgood citizenであることをアピールできるらしい 。とはいえ、サービス歴がなくともbad citizenだとは思われないので、なくても良いということ。
カンファレンスでの発表歴も、業績というよりは、自分がどの学会にフルにコミットしているかを知らせるための機能が大きいらしい。また、就職先候補のファカルティに候補者がコミットしている学会、あるいはセクションにコミットしている先生がいれば、もしかしたら候補者の発表をすでに聞いているかもしれないので、事前に探りを入れることができる。学会はネットワーキングとしての機能を持つが、何も良い側面ばかりではない。もし学会で変な報告をしてしまったり、社交的ではないと判断されれば、whispering networkを通じて当人の評価が下がることになるという。怖い。
グラントの項目ではmajorとminorというわけかたと、internalとexternalのわけかたがあるらしい。好みによって使い分けるということ。最後に、査読中の論文をCVにあげることはよくあるが、単にunder reviewではあまり意味はなく、R&Rに入った時点で雑誌名を上げるだけで良い。後者の方が、実際にその論文が当該雑誌に掲載される確率が圧倒的に高いからだ。
終了後の感想としては、私はアメリカの大学院に出願するときに、アメリカの院生のCVを真似ていたが、正直あまり意味がわからないところもあり、その一部が解決された。ジョブマに出ている人が気にする箇所(under reviewなど)が、かならずしも大学院出願者にとって重要であるとは限らないので、もし昔に戻れるなら、恥ずかしくて書き直していることだろう。
November 26, 2018
アメリカにいると、raceについて考えない日はない。
昨今、ダイバーシティという言葉が日本のメディアでも頻繁に聞かれることになった。主として女性の活躍という文脈で使われている印象が強いが、例えばセクシュアリティの多様性といった場面でも、この言葉は用いられるだろう。
日本から見ると、アメリカは非常にダイバーシティに富んだ社会だと思われるかもしれない。大学の在籍者で見れば、すでに男性よりも女性の割合の方が大きく、研究者はこれをthe rise of womenと呼んでいる(一方で、労働市場における男女の賃金格差の是正は停滞気味である)。トランプ政権の登場によって逆風が吹いているかもしれないが、アメリカでは多くの州で同性婚が認められるようになっている。
こういった文脈で、アメリカにおけるraceあるいはethnicityの多様性を耳にすることがあるかもしれない。raceの分布に地域差があることも、知っている人は多いだろう。西海岸はアジア系が多く、テキサスは保守的な土地だが国境を合わせるメキシコからのヒスパニック系住民が多い。意外と知られていないが、中西部でもイリノイは他の週に比べればヒスパニックや黒人の割合が多いが、私が住んでいるウィスコンシンは、NYCからきた友人をしてvery whiteと形容される街である。
アメリカに来る前は、raceもジェンダーやセクシュアリティといった多様性の中の一つだと考えていた。しかし、アメリカを一つの社会としてみたときに、何が社会を構成する要素として影響力が一番大きいのかと聞かれれば、今では真っ先にraceと答えるだろう。
アメリカにいると、raceについて考えない日はないのだ。社会がどのように動いているのか(how society works)を考えるときに、raceが占める比重は非常に大きい。その影響力の大きさゆえに、raceについては様々な定義をすることが可能でもある。
例えば、raceをethnicityと対立的に捉え、前者を身体的(生物学的)な特徴、後者を文化的(社会的)な特徴とするのは、見慣れた区分かもしれない。もちろん、skin colorもraceを構成する要素であるとは考えられるが、両者は対立的に捉えられるものではない。例えば、国勢調査ではヒスパニックという`race'は存在しない。ヒスパニックはethnicityとして捉えられている。ヒスパニックの中にも、raceでいえばwhiteの人もいるしblackの人もいるからだ。ただし、国勢調査的にはアジア系はethnicityではなくraceである。ややこしいことに、私みたいな人間はraceをアジア系としてidentifyし、ethnicityをJapaneseとすることが期待されている。
期待されているとしたが、これがraceの定義を複雑にさせる要因でもある。raceは身体的な特徴と考えてきた人には、不思議に思われるかもしれないが、raceを語る際にそれがracismにならないのは、race自体が一つのアイデンティティとして確立しているからである。つまり、blackというカテゴリは、他者によって帰属させられるカテゴリであると同時に、自分自身をどのように定義するかというアイデンティティの側面も持つ。例えば、raceにもとづいた、根拠のない主張は偏見や差別になるが、本人が自分のraceを定義した上でraceに基づいて何かの主張をしている場合、その主張をraceと結びつけることには異論は出ない。
要するに、raceは自らを規定するカテゴリでもあると同時に、他者から規定されるカテゴリでもある。アメリカの社会学者がraceをsocial constructと捉える際に念頭に置いているのは、raceカテゴリがこのように社会的な相互作用から規定される側面である。繰り返すが、raceが全て社会的な構築物に還元できるわけではなく、文脈によっては身体的な特徴が押し出されたり、raceが帰属的な地位であると考えられることは多いが、アメリカ社会に身を置くと、raceを一言で定義することの難しさを痛感することになる。
raceは社会的な相互作用によって規定される。そのため、raceに対する意味付けや解釈が頻繁に行われることになるが、その解釈が差別になるのか、ならないのかには、実際に相互作用に参加している人でなければ掴めない綾がある。例えば、ある人を(本人が自分をどうidentifyしているかは省略して)blackだとかwhiteだとか同定することは、差別とは考えられない。したがって、道端ですれ違った人はwhiteだったと思う、という言明に差別的な意図は見出されない(それがなぜそのように判断されるのかは、説明が難しい。例えば、日本で見た目から当該人物を中国人や韓国人と判断したら、それは偏見だと思われるのではないか)。しかし、raceに基づいて、それ以上の判断、例えばアジア系だから見分けがつかない、というのは差別的な言明になる。
また、マイノリティ側であるraceの集団が、ある制度や組織をマジョリティによる独占やダイバーシティの欠如といった文脈で批判することは、コンフリクトを生じさせることはない程度に許容されている。しかし反対に、マジョリティ側がある組織がマイノリティによって独占されていることを言明することは差別的だと判断されるだろう。このようにraceによって、どのような言明が問題になるのか、あるいはならないのかの線引きは、おおよそ明瞭に決まっているが、その線引きがなぜ妥当とみなされているかの合理的な説明をすることは難しい。マイノリティがマイノリティであることによって不当な扱いを受けているという言明には説得力があるが、マジョリティ側が、マイノリティに対する優遇のせいで不遇を買っていると主張することは支持されない。
raceは日常生活のあらゆる場面に登場するが、非常にセンシティブな問題になることも多い。そのため、「線引き」を、無意識に判断してその場で適切な振る舞いを行えるスキルを持っている人と、そうでない人が出てくる。これをコンピテンスと呼べばいいのかはわからないが、いわゆるマジョリティ側(white)の中にも、こういったコンピテンスが高い人とそうでない人がいて、前者はマイノリティ側が潜在的に抱くであろう考えを、それが表出する前に察知することができるため、コンフリクトを生じさせないことができる。後者の場合、マイノリティ側の心情を考慮しない発言をしたりしてしまうため、そうした配慮に欠ける人だと考えられてしまう。
これは、raceに限ったことではなく、genderやsexualityに対するセンシティブさも同様に議論できるが、社会の機制として、raceが果たしている役割が、アメリカでは非常に大きい。
日本から見ると、アメリカは非常にダイバーシティに富んだ社会だと思われるかもしれない。大学の在籍者で見れば、すでに男性よりも女性の割合の方が大きく、研究者はこれをthe rise of womenと呼んでいる(一方で、労働市場における男女の賃金格差の是正は停滞気味である)。トランプ政権の登場によって逆風が吹いているかもしれないが、アメリカでは多くの州で同性婚が認められるようになっている。
こういった文脈で、アメリカにおけるraceあるいはethnicityの多様性を耳にすることがあるかもしれない。raceの分布に地域差があることも、知っている人は多いだろう。西海岸はアジア系が多く、テキサスは保守的な土地だが国境を合わせるメキシコからのヒスパニック系住民が多い。意外と知られていないが、中西部でもイリノイは他の週に比べればヒスパニックや黒人の割合が多いが、私が住んでいるウィスコンシンは、NYCからきた友人をしてvery whiteと形容される街である。
アメリカに来る前は、raceもジェンダーやセクシュアリティといった多様性の中の一つだと考えていた。しかし、アメリカを一つの社会としてみたときに、何が社会を構成する要素として影響力が一番大きいのかと聞かれれば、今では真っ先にraceと答えるだろう。
アメリカにいると、raceについて考えない日はないのだ。社会がどのように動いているのか(how society works)を考えるときに、raceが占める比重は非常に大きい。その影響力の大きさゆえに、raceについては様々な定義をすることが可能でもある。
例えば、raceをethnicityと対立的に捉え、前者を身体的(生物学的)な特徴、後者を文化的(社会的)な特徴とするのは、見慣れた区分かもしれない。もちろん、skin colorもraceを構成する要素であるとは考えられるが、両者は対立的に捉えられるものではない。例えば、国勢調査ではヒスパニックという`race'は存在しない。ヒスパニックはethnicityとして捉えられている。ヒスパニックの中にも、raceでいえばwhiteの人もいるしblackの人もいるからだ。ただし、国勢調査的にはアジア系はethnicityではなくraceである。ややこしいことに、私みたいな人間はraceをアジア系としてidentifyし、ethnicityをJapaneseとすることが期待されている。
期待されているとしたが、これがraceの定義を複雑にさせる要因でもある。raceは身体的な特徴と考えてきた人には、不思議に思われるかもしれないが、raceを語る際にそれがracismにならないのは、race自体が一つのアイデンティティとして確立しているからである。つまり、blackというカテゴリは、他者によって帰属させられるカテゴリであると同時に、自分自身をどのように定義するかというアイデンティティの側面も持つ。例えば、raceにもとづいた、根拠のない主張は偏見や差別になるが、本人が自分のraceを定義した上でraceに基づいて何かの主張をしている場合、その主張をraceと結びつけることには異論は出ない。
要するに、raceは自らを規定するカテゴリでもあると同時に、他者から規定されるカテゴリでもある。アメリカの社会学者がraceをsocial constructと捉える際に念頭に置いているのは、raceカテゴリがこのように社会的な相互作用から規定される側面である。繰り返すが、raceが全て社会的な構築物に還元できるわけではなく、文脈によっては身体的な特徴が押し出されたり、raceが帰属的な地位であると考えられることは多いが、アメリカ社会に身を置くと、raceを一言で定義することの難しさを痛感することになる。
raceは社会的な相互作用によって規定される。そのため、raceに対する意味付けや解釈が頻繁に行われることになるが、その解釈が差別になるのか、ならないのかには、実際に相互作用に参加している人でなければ掴めない綾がある。例えば、ある人を(本人が自分をどうidentifyしているかは省略して)blackだとかwhiteだとか同定することは、差別とは考えられない。したがって、道端ですれ違った人はwhiteだったと思う、という言明に差別的な意図は見出されない(それがなぜそのように判断されるのかは、説明が難しい。例えば、日本で見た目から当該人物を中国人や韓国人と判断したら、それは偏見だと思われるのではないか)。しかし、raceに基づいて、それ以上の判断、例えばアジア系だから見分けがつかない、というのは差別的な言明になる。
また、マイノリティ側であるraceの集団が、ある制度や組織をマジョリティによる独占やダイバーシティの欠如といった文脈で批判することは、コンフリクトを生じさせることはない程度に許容されている。しかし反対に、マジョリティ側がある組織がマイノリティによって独占されていることを言明することは差別的だと判断されるだろう。このようにraceによって、どのような言明が問題になるのか、あるいはならないのかの線引きは、おおよそ明瞭に決まっているが、その線引きがなぜ妥当とみなされているかの合理的な説明をすることは難しい。マイノリティがマイノリティであることによって不当な扱いを受けているという言明には説得力があるが、マジョリティ側が、マイノリティに対する優遇のせいで不遇を買っていると主張することは支持されない。
raceは日常生活のあらゆる場面に登場するが、非常にセンシティブな問題になることも多い。そのため、「線引き」を、無意識に判断してその場で適切な振る舞いを行えるスキルを持っている人と、そうでない人が出てくる。これをコンピテンスと呼べばいいのかはわからないが、いわゆるマジョリティ側(white)の中にも、こういったコンピテンスが高い人とそうでない人がいて、前者はマイノリティ側が潜在的に抱くであろう考えを、それが表出する前に察知することができるため、コンフリクトを生じさせないことができる。後者の場合、マイノリティ側の心情を考慮しない発言をしたりしてしまうため、そうした配慮に欠ける人だと考えられてしまう。
これは、raceに限ったことではなく、genderやsexualityに対するセンシティブさも同様に議論できるが、社会の機制として、raceが果たしている役割が、アメリカでは非常に大きい。
November 23, 2018
Same results
LEM: log-linear and event history analysis with missing data.
Developed by Jeroen Vermunt (c), Tilburg University, The Netherlands.
Version 1.0 (September 18, 1997).
*** INPUT ***
man 3
dim 2 6 6
lab C W H
***HOMOGAMY (MAT1) with changing RCII
mod {cov(H,1) cov(H,1) cov(H,1) cov(H,1) cov(H,1)}
des[
1 0 0 0 0 -1
0 1 0 0 0 -1
0 0 1 0 0 -1
0 0 0 1 0 -1
0 0 0 0 1 -1
]
dat sample.fre
nco
*** STATISTICS ***
Number of iterations = 25
Converge criterion = 0.0000006002
X-squared = 14181.7959 (0.0000)
L-squared = 11171.3442 (0.0000)
Cressie-Read = 12616.3463 (0.0000)
Dissimilarity index = 0.4448
Degrees of freedom = 66
Log-likelihood = -36482.70566
Number of parameters = 5 (+1)
Sample size = 9684.0
BIC(L-squared) = 10565.5810
AIC(L-squared) = 11039.3442
BIC(log-likelihood) = 73011.3025
AIC(log-likelihood) = 72975.4113
Eigenvalues information matrix
3317.3117 1775.1841 1292.5114 852.5569 317.1529
*** LOG-LINEAR PARAMETERS ***
* TABLE CWH [or P(CWH)] *
effect beta std err z-value exp(beta) Wald df prob
main 4.3243 75.5102
cov(H)
1 0.0378 0.0317 1.191 1.0385 1.42 1 0.234
cov(H)
1 1.7772 0.0206 86.426 5.9131 7469.54 1 0.000
cov(H)
1 0.8285 0.0249 33.285 2.2900 1107.88 1 0.000
cov(H)
1 -0.1333 0.0337 -3.951 0.8752 15.61 1 0.000
cov(H)
1 -1.2144 0.0527 -23.048 0.2969 531.23 1 0.000
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
LEM: log-linear and event history analysis with missing data.
Developed by Jeroen Vermunt (c), Tilburg University, The Netherlands.
Version 1.0 (September 18, 1997).
*** INPUT ***
man 3
dim 2 6 6
lab C W H
***HOMOGAMY (MAT1) with changing RCII
mod {H}
dat sample.fre
nco
*** STATISTICS ***
Number of iterations = 2
Converge criterion = 0.0000000000
X-squared = 14181.8075 (0.0000)
L-squared = 11171.3442 (0.0000)
Cressie-Read = 12616.3527 (0.0000)
Dissimilarity index = 0.4448
Degrees of freedom = 66
Log-likelihood = -36482.70566
Number of parameters = 5 (+1)
Sample size = 9684.0
BIC(L-squared) = 10565.5810
AIC(L-squared) = 11039.3442
BIC(log-likelihood) = 73011.3025
AIC(log-likelihood) = 72975.4113
Eigenvalues information matrix
3317.3172 1775.1003 1292.5355 852.5780 317.1440
*** LOG-LINEAR PARAMETERS ***
* TABLE CWH [or P(CWH)] *
effect beta std err z-value exp(beta) Wald df prob
main 4.3243 75.5092
H
1 0.0378 0.0317 1.191 1.0385
2 1.7772 0.0206 86.426 5.9132
3 0.8286 0.0249 33.285 2.2900
4 -0.1333 0.0337 -3.951 0.8752
5 -1.2145 0.0527 -23.049 0.2969
6 -1.2957 0.2737 7740.30 5 0.000
Control marginal
In log-linear model approach, we are taught that we should control `marginal distribution' in contingency tables. Let's think about why. In the sample table below, C is cohort (just 2), W and H refer to wife's and husband's education, and each number corresponds to educational rank (the larger, the higher). A design matrix(quasihetero.txt) allows us to see a kind of quasi-independence, but in this example, we do not control marginal distribution. As usual, I'm interested in the magnitude of homogamy parameters. Results are agains my expectation, since I suppose that the diagonal cells are more likely to occur, but of course, this model did not consider marginals, so the results are understandable given that the union between highly educated men and women are less likely to occur. This is why we need to control the marginal distribution of wife's and husband's education. As this example shows, even when we are not interested in the marginals, we need to consider adding the parameter. In the same token, conventionally lower BIC means worse fit, so we need to do something when we see the BIC is not negative, even if it seems we add enough parameters.
LEM: log-linear and event history analysis with missing data.
Developed by Jeroen Vermunt (c), Tilburg University, The Netherlands.
Version 1.0 (September 18, 1997).
*** INPUT ***
man 3
dim 2 6 6
lab C W H
***HOMOGAMY (MAT1) with changing RCII
mod {fac(WH,7) } des quasihetero.txt
dat sample.fre
nco
*** STATISTICS ***
Number of iterations = 20
Converge criterion = 0.0000003082
X-squared = 9082.8294 (0.0000)
L-squared = 8078.8462 (0.0000)
Cressie-Read = 8310.0803 (0.0000)
Dissimilarity index = 0.3188
Degrees of freedom = 64
Log-likelihood = -34936.45669
Number of parameters = 7 (+1)
Sample size = 9684.0
BIC(L-squared) = 7491.4395
AIC(L-squared) = 7950.8462
BIC(log-likelihood) = 69937.1610
AIC(log-likelihood) = 69886.9134
Eigenvalues information matrix
2241.6153 522.8455 441.5313 291.4483 182.6207 151.1644
68.8027
*** LOG-LINEAR PARAMETERS ***
* TABLE CWH [or P(CWH)] *
effect beta std err z-value exp(beta) Wald df prob
main 4.5501 94.6463
fac(WH)
1 1.0333 0.0458 22.552 2.8104
2 2.8773 0.0227 126.488 17.7661
3 0.0037 0.0740 0.050 1.0037
4 0.5093 0.0583 8.741 1.6641
5 -0.7967 0.0466 -17.092 0.4508
6 -0.1744 0.0807 -2.162 0.8400
7 -0.9948 0.1204 -8.260 0.3698 18807.52 7 0.000
November 21, 2018
Summer workshop opportunities for demographers and sociologists 2019
Annual Workshop on Formal Demography (UC Berkeley)
Date: June 4-8, 2018 (not updated yet)
Funding: Partial support for travel. Accommodation is covered.
Genomics for Social Scientists (U of Michigan)
Date: June 17-21, 2019
Funding: $200 course fee, travel stipends available.
Rostock Retreat (MPIDR)
Date: July 1-3, 2019, which can be follow by Agent Based Modeling course on June 24-28, 2019
Funding: not clear yet
Inequality Workshop (Stone Center at CUNY)
Date: June 10-14
Funding: "Attendees from outside of New York City are responsible for arranging and funding their own accommodation and travel"
Parenting Among Asians ISSBD at CUHK
Date: June 25-28
Funding: There will be no registration fee for participants. Participants will also be provided with accommodation, meals, and a travel allocation.
Date: June 4-8, 2018 (not updated yet)
Funding: Partial support for travel. Accommodation is covered.
Genomics for Social Scientists (U of Michigan)
Date: June 17-21, 2019
Funding: $200 course fee, travel stipends available.
Rostock Retreat (MPIDR)
Date: July 1-3, 2019, which can be follow by Agent Based Modeling course on June 24-28, 2019
Funding: not clear yet
Inequality Workshop (Stone Center at CUNY)
Date: June 10-14
Funding: "Attendees from outside of New York City are responsible for arranging and funding their own accommodation and travel"
Parenting Among Asians ISSBD at CUHK
Date: June 25-28
Funding: There will be no registration fee for participants. Participants will also be provided with accommodation, meals, and a travel allocation.
November 20, 2018
11月20日
午前中はミーティング。大学に来て形式人口学の課題を進める(作業時間40分)。統計の課題を終わらせてレポートとして提出(作業時間20分)。最後に形式人口学のレポートを仕上げる。いつもハードワークで笑顔を振りまいてくれてる清掃員の人に感謝の手紙。統計の授業を経て人口学の課題を提出。日本語の論文を執筆。移民の課題を提出。
11月19日
今週はthanks givingでほぼ休暇なのだか、そのぶんレポートやtake homeのテストがたんまりとあり、休んでいいのか勉強しなくてはいけないのかよく分からない1週間。同期のアメリカ人は、火曜に授業があるにもかかわらず平気で月曜に地元に帰っていった。
9時半から形式人口学の授業。今日は移民。自分が先週移民を担当したので、いくつか質問も出てきた。例えば、decennial censusから人の移動を推定する場合、2時点のmid year populaitonのうち、(forwardアプローチの場合)前者を生存比で重み付けした後に差分を取り、net migrationとして算出するが、これはあくまでnetなので、inとoutを区別できていない。また、undocumentedも含まれるが、峻別はできない。あるいは、移民の人がアメリカで産んだことも(定義上はアメリカ国民)と産んでから移民してきた親と子供を区別できない。色々と課題はあるのだと思った。
昼ごはんは大学で一番お金がかかってそうな広報用の建物に入っている地中海料理の店でランチ。その後統計の授業。終了後、レポートなどを片付ける。博論のテーマもボヤリト感がつつ、世代間移動と人口学の視点を前に進めたDDの議論などしたいなと考える。因果推論も大事だけど、自分の関心は近接要因ではなく、もう少し社会変動と結びついたスパンの大きなものかもしれない。
帰宅後、共著のことなどを進める。
9時半から形式人口学の授業。今日は移民。自分が先週移民を担当したので、いくつか質問も出てきた。例えば、decennial censusから人の移動を推定する場合、2時点のmid year populaitonのうち、(forwardアプローチの場合)前者を生存比で重み付けした後に差分を取り、net migrationとして算出するが、これはあくまでnetなので、inとoutを区別できていない。また、undocumentedも含まれるが、峻別はできない。あるいは、移民の人がアメリカで産んだことも(定義上はアメリカ国民)と産んでから移民してきた親と子供を区別できない。色々と課題はあるのだと思った。
昼ごはんは大学で一番お金がかかってそうな広報用の建物に入っている地中海料理の店でランチ。その後統計の授業。終了後、レポートなどを片付ける。博論のテーマもボヤリト感がつつ、世代間移動と人口学の視点を前に進めたDDの議論などしたいなと考える。因果推論も大事だけど、自分の関心は近接要因ではなく、もう少し社会変動と結びついたスパンの大きなものかもしれない。
帰宅後、共著のことなどを進める。
November 18, 2018
JLM-Thinking Through Statistics
11月28日にJLMがマディソンに来てトークをしてくれることになりました。今週はサンクスギビングで中盤から休暇なので、トークで話してくれるTTSを読み進めたいと思います。
Introduction(google playの無料で読めるところまで)
多くの統計は不要であり、世界に関する異なる主張の妥当性を判断するための手法が必要である。ごく少数の事例ではモデルのフィットを良くすることが重要かもしれないが、多くはそうではない。アナロジーで考えよう。医科学の研究に対しては、不可能に思える問題ー不死ーに多くのリソースを割いてることに対して批判がある。しかし、実際にはより重要な問題として、栄養や運動、環境への被曝リスクなどがあげられている。これらの問題は、単に解くことも難しいために敬遠されている。
統計についても同様である。多くの統計の分野で行われて入るのは絶対的に最も優れた推定値を出すことである(bestimates)。しかしながら、たいていの場合、正しいモデルを知っているのであれば、統計をやる必要はない。ここでの問題は、真のモデルからパラメータのbestimatesを得ることではなく、モデルの結果が誤解を招かないようにすることにある。我々にとって必要なことは、社会的世界に関するアイデアを提示することであり、その世界から私たちが間違っていることを知らせてもらうことであり、我々が実際に間違っている時により頻繁に、それを指摘してもらうことである。
多くの読者は統計学者は一つの正しいモデルを知っているとは想定しないと反論するだろう。たしかに、現在注目を集めているのはいくつかのモデルに対して、それらのうちどれが一番フィットがいいかを選ぶ手法である。こうした研究に対して肯定的な意見もあるが、あくまでも可能なモデルのうち、その一部しか見ていないことを肝に銘じるべきだろう。こうしたアプローチの重要性は否定されるべきではないが、繰り返すように、基本的な問題、すなわち真のモデルに近づいているのかを確証させるものではない。
統計学者はありえる変数の中でベストなモデルを選ぶ。社会学者の仕事はより世界をよく理解するためのモデルを考えること、すなわち欠落変数がないかを考えることである。
OLSよりも「正しい」モデルはあるが、多くの場合、OLSはその想定に対する違反に頑健である。ベストな推定量を出すわけではないが、全く間違っているわけではない。
さらに、より重要なこととして、そのデータのモデルとは独立の特徴と関係している。係数をある種の因果効果として解釈することもできるし、偏相関係数としてみることもできる。これらの記述的な解釈は役に立つだろう。多くの研究者は行動理論的なモデルに近づいているが、私(著者)からすればそれは話の半分にすぎない。政治家の「平和を望むなら戦争に備えよ」になぞらえれば、「モデルを望むなら記述に備えよ」となる。
ここでいう「モデル」とは、実際の世界に対して検証可能な含意を含む主張をすることである。あるいは、それは因果や過程に対する主張となる。モデルが仮に正しければ、パラメータは真の世界らしき解釈を導いてくれる。
パラメータの推定値と、測定値(測定の単位とやりとりをする過程)の区別をしておこう。我々は、モデルのパラメータ(及び測定値)と記述統計量との区別をしようとする。記述とはモデルとは独立なデータのセットにおいて情報を要約する方法である。つまり、どんなモデルであっても平均は平均である。それに対して、複雑なモデルではパラメータは、もしそのモデルが間違っている場合には、意味をなさない。
Introduction(google playの無料で読めるところまで)
多くの統計は不要であり、世界に関する異なる主張の妥当性を判断するための手法が必要である。ごく少数の事例ではモデルのフィットを良くすることが重要かもしれないが、多くはそうではない。アナロジーで考えよう。医科学の研究に対しては、不可能に思える問題ー不死ーに多くのリソースを割いてることに対して批判がある。しかし、実際にはより重要な問題として、栄養や運動、環境への被曝リスクなどがあげられている。これらの問題は、単に解くことも難しいために敬遠されている。
統計についても同様である。多くの統計の分野で行われて入るのは絶対的に最も優れた推定値を出すことである(bestimates)。しかしながら、たいていの場合、正しいモデルを知っているのであれば、統計をやる必要はない。ここでの問題は、真のモデルからパラメータのbestimatesを得ることではなく、モデルの結果が誤解を招かないようにすることにある。我々にとって必要なことは、社会的世界に関するアイデアを提示することであり、その世界から私たちが間違っていることを知らせてもらうことであり、我々が実際に間違っている時により頻繁に、それを指摘してもらうことである。
多くの読者は統計学者は一つの正しいモデルを知っているとは想定しないと反論するだろう。たしかに、現在注目を集めているのはいくつかのモデルに対して、それらのうちどれが一番フィットがいいかを選ぶ手法である。こうした研究に対して肯定的な意見もあるが、あくまでも可能なモデルのうち、その一部しか見ていないことを肝に銘じるべきだろう。こうしたアプローチの重要性は否定されるべきではないが、繰り返すように、基本的な問題、すなわち真のモデルに近づいているのかを確証させるものではない。
統計学者はありえる変数の中でベストなモデルを選ぶ。社会学者の仕事はより世界をよく理解するためのモデルを考えること、すなわち欠落変数がないかを考えることである。
OLSよりも「正しい」モデルはあるが、多くの場合、OLSはその想定に対する違反に頑健である。ベストな推定量を出すわけではないが、全く間違っているわけではない。
さらに、より重要なこととして、そのデータのモデルとは独立の特徴と関係している。係数をある種の因果効果として解釈することもできるし、偏相関係数としてみることもできる。これらの記述的な解釈は役に立つだろう。多くの研究者は行動理論的なモデルに近づいているが、私(著者)からすればそれは話の半分にすぎない。政治家の「平和を望むなら戦争に備えよ」になぞらえれば、「モデルを望むなら記述に備えよ」となる。
ここでいう「モデル」とは、実際の世界に対して検証可能な含意を含む主張をすることである。あるいは、それは因果や過程に対する主張となる。モデルが仮に正しければ、パラメータは真の世界らしき解釈を導いてくれる。
パラメータの推定値と、測定値(測定の単位とやりとりをする過程)の区別をしておこう。我々は、モデルのパラメータ(及び測定値)と記述統計量との区別をしようとする。記述とはモデルとは独立なデータのセットにおいて情報を要約する方法である。つまり、どんなモデルであっても平均は平均である。それに対して、複雑なモデルではパラメータは、もしそのモデルが間違っている場合には、意味をなさない。
休日
金曜の人口学セミナーを終えたらそれから土曜は丸一日休むと決めていたので、それに従った。
セミナー後に、社会保障番号(SSN)を取得するためにマディソン郊外に向かった。東部に住んでいる自分にとって、マディソン西部はほぼ未開拓の地。バス停を降りて数分歩くと、周囲にトヨタ、マツダ、スバル、ブリジストンの販売店があり奇妙な日本感がある。
事務所に到着して受け付けよう番号をもらい、待つ。だいぶ、おそらく25分くらい待ったところで呼ばれ、必要書類を提出。パスポートと申請書以外にも、大学からの雇用証明書、留学を証明するI20や直近のアメリカ到着を示すI94や、大学からこの学生はSSNを必要としているのでお願いしますという旨が書いてある書類を提出した。
以外とあっさり手続きは終わり、セミナーの司会とSSNという二つの重荷から解放された気分で買い物でもしようかと思い、近くのモールへと向かった。最初に古本屋に入ったが、当たり前かもしれないが日本語の本はおろか学術書もなく、特に買い物はなし。スピリチュアル系の本がたくさんあったのはアメリカっぽい。西部のモールでは、Hilldaleというところに入ったことがあったが、今回行ったWestgateは初めて。駐車場から見て左半分の側のエリアはほぼ店が閉店していて、郊外感があった。感謝祭用のワインなどを購入して帰宅。
土曜は15時過ぎまで寝ていた。その後、ナイトマーケットに行ったが寒さにやられて40分もしないうちに帰宅。
セミナー後に、社会保障番号(SSN)を取得するためにマディソン郊外に向かった。東部に住んでいる自分にとって、マディソン西部はほぼ未開拓の地。バス停を降りて数分歩くと、周囲にトヨタ、マツダ、スバル、ブリジストンの販売店があり奇妙な日本感がある。
事務所に到着して受け付けよう番号をもらい、待つ。だいぶ、おそらく25分くらい待ったところで呼ばれ、必要書類を提出。パスポートと申請書以外にも、大学からの雇用証明書、留学を証明するI20や直近のアメリカ到着を示すI94や、大学からこの学生はSSNを必要としているのでお願いしますという旨が書いてある書類を提出した。
以外とあっさり手続きは終わり、セミナーの司会とSSNという二つの重荷から解放された気分で買い物でもしようかと思い、近くのモールへと向かった。最初に古本屋に入ったが、当たり前かもしれないが日本語の本はおろか学術書もなく、特に買い物はなし。スピリチュアル系の本がたくさんあったのはアメリカっぽい。西部のモールでは、Hilldaleというところに入ったことがあったが、今回行ったWestgateは初めて。駐車場から見て左半分の側のエリアはほぼ店が閉店していて、郊外感があった。感謝祭用のワインなどを購入して帰宅。
土曜は15時過ぎまで寝ていた。その後、ナイトマーケットに行ったが寒さにやられて40分もしないうちに帰宅。
November 17, 2018
一時帰国時の予定
ダブルブッキングがないように備忘録
12月24日(アメリカ)
11:55 シカゴ発
12月25日(日本)
16:20 成田着
12月27日
6:41 バス
9:00~ Hさんとお茶
10:00-13:00 計量社会学研究会
13:00 Mくんと昼食
15:00 Mとお茶
17:00 Mさんと論文執筆ミーティング
19:00~ 学部同期と夕食
12月28日
12:30~14:30 奨学財団によるパーティー(渋谷)
14:30-19:00 駒場、下北、杉並、吉祥寺を散策、靴が欲しい。
19:30~ 松尾先生との夕食
12月29日
本郷周辺を散策
1月9日
13:30 大学院ゼミ
19:00 飲み会
1月10日
10:00-12:00 二次分析
15:00- 小西先生
18:00 豊島寮同窓会
1月11日
10:00 研究室訪問
12:00 余田さん
15:30 Uとお茶
19:00 IHS同窓会
1月12日
19:00 京論壇同窓会
1月14日(日本)
17:05 成田空港発
1月14日(アメリカ)
13:45 シカゴ着
5月27日(アメリカ)
11:20 シカゴ発
5月28日(日本)
14:20 日本着
6月1-2日
日本人口学会(香川大学)
12月24日(アメリカ)
11:55 シカゴ発
12月25日(日本)
16:20 成田着
12月27日
6:41 バス
9:00~ Hさんとお茶
10:00-13:00 計量社会学研究会
13:00 Mくんと昼食
15:00 Mとお茶
17:00 Mさんと論文執筆ミーティング
19:00~ 学部同期と夕食
12月28日
12:30~14:30 奨学財団によるパーティー(渋谷)
14:30-19:00 駒場、下北、杉並、吉祥寺を散策、靴が欲しい。
19:30~ 松尾先生との夕食
12月29日
本郷周辺を散策
1月9日
13:30 大学院ゼミ
19:00 飲み会
1月10日
10:00-12:00 二次分析
15:00- 小西先生
18:00 豊島寮同窓会
1月11日
10:00 研究室訪問
12:00 余田さん
15:30 Uとお茶
19:00 IHS同窓会
1月12日
19:00 京論壇同窓会
1月14日(日本)
17:05 成田空港発
1月14日(アメリカ)
13:45 シカゴ着
5月27日(アメリカ)
11:20 シカゴ発
5月28日(日本)
14:20 日本着
6月1-2日
日本人口学会(香川大学)
Week12の予定
Thanksgiving
土日
・Demtechの宿題修正
・再婚論文
月曜
・統計Lab
・Demtechの宿題
火曜
・Regression2課題提出
・Demtechのレポート
・DemSemはお休み
・共著ミーティング
水曜
・Demtechのテスト
・サンクスギビング
土日
・Demtechの宿題修正
・再婚論文
月曜
・統計Lab
・Demtechの宿題
火曜
・Regression2課題提出
・Demtechのレポート
・DemSemはお休み
・共著ミーティング
水曜
・Demtechのテスト
・サンクスギビング
初Co-lead
金曜日、人口学大学院セミナーのCo-leadを無事(?)務めました。この授業では、各学生が学期に一度、プレゼン資料を作ってディスカッションをリードするというので、これが終わったのでだいぶ楽になりました。
意外と、座ってる時に比べて緊張しなかったのが自分でも驚きでした。昔から、発表するまでは緊張しいなんですけど、いざ発表するときになると役になりきるというか、演じる癖がついている気がします。もちろん、スライドに話す内容は書いてあるし、議論の時はあまり発言しなくていいからかもしれません。座っているときは、誰も発言しない緊張感と気まずさが、さらに発言しづらさを助長するんですよね(苦笑)。
ただ、最後だらけて棒読みになったのは反省点です。自分の英語、みんな理解してくれてるのか、半信半疑になりながらの2時間半、あっという間でした。後半は棒読みだったのでちょっと評価は低かったかもしれないです。それでも、一応終わったので、安堵感があります。これで今学期最大の難所を突破しました。あとはテストやレポートを流す感じです。
この1週間のストレスやばかったです。日照時間が少なってきたこともあるからか、体調が優れず鬱気味の日々が続いていて、ついツイッターでもぼやいてしまいました。もっとも、セミナー終了後の開放感でそういう鬱っぽい気分も何処かに行ってしまったので、季節性のものと、やっぱり初めてアメリカの大学院で2時間半の議論のリードをするプレッシャーがあったんだと思います。
以上のように、このセミナーは負担も大きいのですが、そのぶん自分の人口学に対する今まで抱いていた考え方、ひいては学問観一般までに影響を与えるような印象深いものになっています。
今日のセミナーではDavid ColemanのThird Demographic Transitionに関する論文を読みました。この論文には二つの顔があり、一つはEUとUSの移民人口の予測をしているパートで、もう一つはその後に移民に反対するキツめの主張をしている議論パートがあります。
Immigration and Ethnic Change in Low-Fertility Countries
彼はイギリスの優生学を信奉する人による結社(Galton Institute)のメンバーで、論文は移民反対の主張をしたいがために、種々の仮定を置いて移民人口の予測をしたと思われても仕方ない内容です。
今日も含めて先生が論文のアサインやセミナーでの議論で一貫して伝えようとしている点は、人口現象は使い方によっては人々の分断を生むツールになってしまう危険があることなのかなと思います。古くはマルサスの時代から、人口現象というものは国の将来を決定づける要素として考えられてきましたし、その結果としての人口抑制策が多くの社会で見られてきました。
先生の学問観というか、研究に対する考え方は、少なくとも人口学では客観的な分析にみえても、その背後にあるassumptionには何らかの価値が含まれることは拭えないので、良い研究というのは科学的な態度の背後にある暗黙の想定を批判的に検討・顕在化し、修正していこうというもので、とても尊敬します。彼女からは、研究を通じて少しでも世界に対する理解を深め、社会をよくしていってほしいというマインドを感じます。最近、何がよい研究なんだろう、どういう研究をしたいんだろう、と考えるときに、この授業で学んだことの存在は大きいです。これから、もっと大きくなると思います。
意外と、座ってる時に比べて緊張しなかったのが自分でも驚きでした。昔から、発表するまでは緊張しいなんですけど、いざ発表するときになると役になりきるというか、演じる癖がついている気がします。もちろん、スライドに話す内容は書いてあるし、議論の時はあまり発言しなくていいからかもしれません。座っているときは、誰も発言しない緊張感と気まずさが、さらに発言しづらさを助長するんですよね(苦笑)。
ただ、最後だらけて棒読みになったのは反省点です。自分の英語、みんな理解してくれてるのか、半信半疑になりながらの2時間半、あっという間でした。後半は棒読みだったのでちょっと評価は低かったかもしれないです。それでも、一応終わったので、安堵感があります。これで今学期最大の難所を突破しました。あとはテストやレポートを流す感じです。
この1週間のストレスやばかったです。日照時間が少なってきたこともあるからか、体調が優れず鬱気味の日々が続いていて、ついツイッターでもぼやいてしまいました。もっとも、セミナー終了後の開放感でそういう鬱っぽい気分も何処かに行ってしまったので、季節性のものと、やっぱり初めてアメリカの大学院で2時間半の議論のリードをするプレッシャーがあったんだと思います。
以上のように、このセミナーは負担も大きいのですが、そのぶん自分の人口学に対する今まで抱いていた考え方、ひいては学問観一般までに影響を与えるような印象深いものになっています。
今日のセミナーではDavid ColemanのThird Demographic Transitionに関する論文を読みました。この論文には二つの顔があり、一つはEUとUSの移民人口の予測をしているパートで、もう一つはその後に移民に反対するキツめの主張をしている議論パートがあります。
Immigration and Ethnic Change in Low-Fertility Countries
彼はイギリスの優生学を信奉する人による結社(Galton Institute)のメンバーで、論文は移民反対の主張をしたいがために、種々の仮定を置いて移民人口の予測をしたと思われても仕方ない内容です。
今日も含めて先生が論文のアサインやセミナーでの議論で一貫して伝えようとしている点は、人口現象は使い方によっては人々の分断を生むツールになってしまう危険があることなのかなと思います。古くはマルサスの時代から、人口現象というものは国の将来を決定づける要素として考えられてきましたし、その結果としての人口抑制策が多くの社会で見られてきました。
先生の学問観というか、研究に対する考え方は、少なくとも人口学では客観的な分析にみえても、その背後にあるassumptionには何らかの価値が含まれることは拭えないので、良い研究というのは科学的な態度の背後にある暗黙の想定を批判的に検討・顕在化し、修正していこうというもので、とても尊敬します。彼女からは、研究を通じて少しでも世界に対する理解を深め、社会をよくしていってほしいというマインドを感じます。最近、何がよい研究なんだろう、どういう研究をしたいんだろう、と考えるときに、この授業で学んだことの存在は大きいです。これから、もっと大きくなると思います。
別れ
木曜日に、来週にオフィスを去るあるスタッフの人に会ってきました。
彼女は主に人口学研究所のfinanceを担当していた方で、16年間、このポジションで働いていたということです。
私が彼女のお世話になったのは8月中旬からの3ヶ月弱でしたが、特に最初の右も左も分からない時期には本当にお世話になりました。私は外部資金を持って入学して来ているので、RA/TAなどはしていないのですが、指導教員との共同研究に必要な作業をhourly assistantとしてやらせてもらっています。これ以外にも、当初はどの保険に入れば良いかもよくわからず、彼女に聞くべきではない質問を誤ってしてしまっても、丁寧に答えてくれたのが本当にありがたかったのを覚えています。
こういった仕事・保険関係以外でも、話の折にマディソンの気候や人々の性格について、彼女の経験から色々と教えてくださって、こちらに移ってきた最初の時期に、一番サポーティブだったと言える人でした。
まさか別れがこんなに早く来るとは思わず、彼女の新しいポジションへの移動の連絡を聞いたときには驚きました。16年間の勤めの労を祝って、彼女とのお別れパーティーが金曜に企画されていたのですが、当日は社会保険事務所に行ってSSNを取得する予定だったので、このままではお別れの言葉を言えないと思い、前日にオフィスを訪れることにしました(SSNの取得に必要なemployment letterは彼女のサインがされています)。
感謝の気持ちを、なかなか英語で流暢に表現することができないので、時間をとって手紙を書きました。
別れは突然やってきます。様々な形で。留学して、日本で知り合った人たちに、また会えるのだろうか、不安に思うこともあります。逆にこちらで会った人と、日本に帰ったら会えなくなってしまうのではないかと思うこともあります。もし最後の出会いが本当に「最後」になってしまっても、後で後悔をできるだけしないように、感謝の気持ちを伝えていきたいなと考えています。
彼女は主に人口学研究所のfinanceを担当していた方で、16年間、このポジションで働いていたということです。
私が彼女のお世話になったのは8月中旬からの3ヶ月弱でしたが、特に最初の右も左も分からない時期には本当にお世話になりました。私は外部資金を持って入学して来ているので、RA/TAなどはしていないのですが、指導教員との共同研究に必要な作業をhourly assistantとしてやらせてもらっています。これ以外にも、当初はどの保険に入れば良いかもよくわからず、彼女に聞くべきではない質問を誤ってしてしまっても、丁寧に答えてくれたのが本当にありがたかったのを覚えています。
こういった仕事・保険関係以外でも、話の折にマディソンの気候や人々の性格について、彼女の経験から色々と教えてくださって、こちらに移ってきた最初の時期に、一番サポーティブだったと言える人でした。
まさか別れがこんなに早く来るとは思わず、彼女の新しいポジションへの移動の連絡を聞いたときには驚きました。16年間の勤めの労を祝って、彼女とのお別れパーティーが金曜に企画されていたのですが、当日は社会保険事務所に行ってSSNを取得する予定だったので、このままではお別れの言葉を言えないと思い、前日にオフィスを訪れることにしました(SSNの取得に必要なemployment letterは彼女のサインがされています)。
感謝の気持ちを、なかなか英語で流暢に表現することができないので、時間をとって手紙を書きました。
別れは突然やってきます。様々な形で。留学して、日本で知り合った人たちに、また会えるのだろうか、不安に思うこともあります。逆にこちらで会った人と、日本に帰ったら会えなくなってしまうのではないかと思うこともあります。もし最後の出会いが本当に「最後」になってしまっても、後で後悔をできるだけしないように、感謝の気持ちを伝えていきたいなと考えています。
November 14, 2018
11月13日(DemSem)
今日は気持ちよく目覚めた。しかし昼ごはんは再びほとんど食べず。
10時からはdemsemのスピーカーのFabianさんとのミーティング。彼とランチしたい院生が多くて、特別に朝に時間を作ってくれた。私を含め院生は4人。彼らの研究関心を聞きながら、こういうデータがあるからこういう分析をしてみたらどう?みたいなsuggestiveなコメントを多くもらった。彼は階層論の中でもwealthの分析で有名だけど、それ以外の分野についても詳しくて、聡明さを強く感じた。
セミナーの報告も非常に面白かった。普段のdemsemの2倍くらいの人が来て、関心の高さを窺わせる。階層論では回顧的に親の地位を尋ねるのではなく、前向きにデータを集めて、ある世代(G1)の子どもやその孫(G2, G3)の達成を見る研究が流行っている。こうすることで、階層によって異なる出生力の影響を見ることができるのが大きな利点で、社会階層論と人口学を架橋する研究として潜在的な注目は大きい。
今回の報告は、ミシガン大学が60年代から実施しているパネル調査PSIDを利用して、最初の対象者を追跡して、彼らの孫世代に至る貧困の連鎖を捉えるものだった。まだ途中の研究ということだけど、会場の盛り上がりが半端なかった。
良いトークとは、賛否両論含めて、聴衆の手を自然に上げさせるようなものを指すと考えている。面白いトークは、終了後もオフィスに戻った人同士で面白かったね、あそこは納得いかなかったと、様々な感情を呼び起こすものだと、いくつかのセミナーをみて考えるようになった。いつか、自分もこういう人の感情に波を立てられるような報告ができればいいなと思った。
賛否両論といったが、盛り上がったのは何もポジティブなコメントが多かったからではない。アメリカの文脈では貧困研究はraceによる貧困の差が重要になってくる。Fabianさんもそうした研究を踏まえて、white/blackに分けて出生力と貧困の再生産を検討していたのだが、その中で、blackのグループの出生力が高いはずだという議論になり(はずだ、というのはPSIDでは前向きに子どもたちを追跡しているがattritionが生じていて、それがランダムには生じていない、具体的には貧困に陥りやすい世帯で抜けが大きいので、blackを含め出生力をimputeする必要があった)。
そういう議論の中で、シニアの先生が若干決めつけ気味にblackの出生力について予測するのにこうしたほうがいいというアドバイスをしていたのだが、若干説教気味のコメントで、会場の空気も、あーこれ曇ってきたぞ、、、という感じになった後に、3年生の先輩が、アメリカにおけるblackのreproductionには特殊な(政策的な)歴史があるので、パブリケーションの際にはそういう側面に言及しないと誤解を生みかねないという指摘をしていた。彼女は人口学の中でも避妊行動をメインに研究しているが、単なるfeminist empiricismに終わるのではなく近年のジェンダー理論の流れも踏まえて、既存の人口学の研究を批判的に検討している。こういう人が次世代型の研究者になるのだなと思った。
その後、統計、及びプロセミナー。内容はメンタルヘルスで、UHCの人が来てくれてストレスを溜めない方法や、周りの人が何か不調をきたしているときにどう声をかければ良いのか、あるいは不調をきたしているとき自分にどう語りかければ良いかという点などをアドバイスしてもらった。
これも話すと長くなるが、アメリカに来て学生のメンタルヘルスに関する問題は構造的に生じていて、学生は労働者ではなく一人の人間で、研究の良し悪しとは別に一人の人間として尊重しなくてはいけないという原則が広く共有されていることを強く感じる。
もちろん、実際は業績を巡って違いをライバル視する側面が全くないとは言わない。しかし、少なくとも社会学部ではできる限り教員と学生間、あるいは学生同士の風通しをよくしようという雰囲気を感じる。
大学院生というのは、自分の研究が今後どう展開するかの確信が持てるまで時間がかかり、金銭的にも不安定で、来年のポジションが常に約束されているとは限らず、就職も熾烈で、研究は個人作業の面もあり、ときには研究について「話さないこと」によって利益を得ることもできてしまうという意味で、ストレスフルな環境であり、意識的に変えていかなければ悪循環に陥ってしまう。
メンタルに不調をきたした人は、その人の心が弱いからだと考えるのではなく、一つの症状として捉えて(そうした不調を病として見做すこと自体にも問題性は含まれるだろうが)、できるだけ制度としてサポートしようとしているのは、個人的にはとても良いことだなと考えている。
帰りに2ヶ月ぶりの散髪。この2ヶ月で色々と学んだ。2ヶ月前は右も左もわからなかったなと、振り返る機会となった。
10時からはdemsemのスピーカーのFabianさんとのミーティング。彼とランチしたい院生が多くて、特別に朝に時間を作ってくれた。私を含め院生は4人。彼らの研究関心を聞きながら、こういうデータがあるからこういう分析をしてみたらどう?みたいなsuggestiveなコメントを多くもらった。彼は階層論の中でもwealthの分析で有名だけど、それ以外の分野についても詳しくて、聡明さを強く感じた。
セミナーの報告も非常に面白かった。普段のdemsemの2倍くらいの人が来て、関心の高さを窺わせる。階層論では回顧的に親の地位を尋ねるのではなく、前向きにデータを集めて、ある世代(G1)の子どもやその孫(G2, G3)の達成を見る研究が流行っている。こうすることで、階層によって異なる出生力の影響を見ることができるのが大きな利点で、社会階層論と人口学を架橋する研究として潜在的な注目は大きい。
今回の報告は、ミシガン大学が60年代から実施しているパネル調査PSIDを利用して、最初の対象者を追跡して、彼らの孫世代に至る貧困の連鎖を捉えるものだった。まだ途中の研究ということだけど、会場の盛り上がりが半端なかった。
良いトークとは、賛否両論含めて、聴衆の手を自然に上げさせるようなものを指すと考えている。面白いトークは、終了後もオフィスに戻った人同士で面白かったね、あそこは納得いかなかったと、様々な感情を呼び起こすものだと、いくつかのセミナーをみて考えるようになった。いつか、自分もこういう人の感情に波を立てられるような報告ができればいいなと思った。
賛否両論といったが、盛り上がったのは何もポジティブなコメントが多かったからではない。アメリカの文脈では貧困研究はraceによる貧困の差が重要になってくる。Fabianさんもそうした研究を踏まえて、white/blackに分けて出生力と貧困の再生産を検討していたのだが、その中で、blackのグループの出生力が高いはずだという議論になり(はずだ、というのはPSIDでは前向きに子どもたちを追跡しているがattritionが生じていて、それがランダムには生じていない、具体的には貧困に陥りやすい世帯で抜けが大きいので、blackを含め出生力をimputeする必要があった)。
そういう議論の中で、シニアの先生が若干決めつけ気味にblackの出生力について予測するのにこうしたほうがいいというアドバイスをしていたのだが、若干説教気味のコメントで、会場の空気も、あーこれ曇ってきたぞ、、、という感じになった後に、3年生の先輩が、アメリカにおけるblackのreproductionには特殊な(政策的な)歴史があるので、パブリケーションの際にはそういう側面に言及しないと誤解を生みかねないという指摘をしていた。彼女は人口学の中でも避妊行動をメインに研究しているが、単なるfeminist empiricismに終わるのではなく近年のジェンダー理論の流れも踏まえて、既存の人口学の研究を批判的に検討している。こういう人が次世代型の研究者になるのだなと思った。
その後、統計、及びプロセミナー。内容はメンタルヘルスで、UHCの人が来てくれてストレスを溜めない方法や、周りの人が何か不調をきたしているときにどう声をかければ良いのか、あるいは不調をきたしているとき自分にどう語りかければ良いかという点などをアドバイスしてもらった。
これも話すと長くなるが、アメリカに来て学生のメンタルヘルスに関する問題は構造的に生じていて、学生は労働者ではなく一人の人間で、研究の良し悪しとは別に一人の人間として尊重しなくてはいけないという原則が広く共有されていることを強く感じる。
もちろん、実際は業績を巡って違いをライバル視する側面が全くないとは言わない。しかし、少なくとも社会学部ではできる限り教員と学生間、あるいは学生同士の風通しをよくしようという雰囲気を感じる。
大学院生というのは、自分の研究が今後どう展開するかの確信が持てるまで時間がかかり、金銭的にも不安定で、来年のポジションが常に約束されているとは限らず、就職も熾烈で、研究は個人作業の面もあり、ときには研究について「話さないこと」によって利益を得ることもできてしまうという意味で、ストレスフルな環境であり、意識的に変えていかなければ悪循環に陥ってしまう。
メンタルに不調をきたした人は、その人の心が弱いからだと考えるのではなく、一つの症状として捉えて(そうした不調を病として見做すこと自体にも問題性は含まれるだろうが)、できるだけ制度としてサポートしようとしているのは、個人的にはとても良いことだなと考えている。
帰りに2ヶ月ぶりの散髪。この2ヶ月で色々と学んだ。2ヶ月前は右も左もわからなかったなと、振り返る機会となった。
November 12, 2018
心境
月曜日は眠い、いつも。いまいち食欲がなくて昼食用に作った弁当も食べなかった。調子が悪いわけではないけど、いまいちフィットしない1日。
形式人口学の授業、今日は先生(クリスティン)が色々と生命表を用いたサブスタンスを紹介してくれた。離婚の学歴格差の拡大や自身のproximate ditermintnants of educational homogamyなどで生命表を用いていて、その解説が半分。前者はDRでトップ10に入る引用数だけど、最初JMFにリジェクトされたらしい。後者はクリスティンの修論らしく、出版まで12年かかったということ(大体は寝かせていたらしい)。
残り半分は、学部の先輩で生命表を用いている人が来てくれてその紹介。授業中に、来学期の授業登録をした。途中でPAAの結果が出ていることを知ってチェックしたが、オーラルセッションには自分の名前がなく、少し挫折感を感じる。他人と比べるのは良くないが、CDEの先輩の中にはオーラルで通っている人も多く、その時は悔しかった。しばらくたって、そういう感情は研究に負の影響しかないと思って、考えるのはやめようと思った。
今の指導教員と書いている論文は、結構指導教員からも推しがあったので、個人的にはオーラルはいけるかなと思っていたので、そういうのも含めて悔しかった。もちろん、オーラルに通らなかったから質が低いということではないけど、今年の目標の一つは1本オーラルで通すことだったので、やっぱり悔しいかな。何でダメだったんだろうと自問気味。
こういう時のマインドコントロールは大切だと思う。かんぜんに忘れるのも良くないし、いつまでもくよくよしていてはダメ、単にオーラルに通るか通らないかなので、そこまできにする必要はないかもしれない。とは言え、この感情をどのように処理すれば良いのかは、似たような状況に何度直面したところで、いつも悩むものである。
これと合わせて、こちらで人口学など新しい分野、視点を学ぶに連れて、今までの研究を一度見直してみたい気がしてきた。抜本的に変えるわけではないけど、やはり留学する前と今とでは、なにが良い研究かという見方も含めて、色々修正をする必要があるなと考えている。今までの研究は手放したくないと思う一方で、同じままでは意味がないと思う、このバランスの問題はなかなか難しい。
余談だが、今日は報告者の友人に誘われて初めてブラウンバッグに出てみた(raceðnicity)、テーマがracial segregationとhomicidesで、実にアメリカらしい。ブラウンバックの方がこじんまりとしてて質問しやすい。ファカルティの先生のコメントも容赦なかったけど。
ブラウンバックでの議論を聞いてみて、日本と似ている、というかどこでも見られるのだなと思われることがあった。報告者のスライドに対して、1つずつ教員がこうしたほうがいい、このほうが誤解がない、ここをもっと明確にと細かく指摘しているのが印象的だった。犯罪学のカンファレンスなので、ここは省略しても大丈夫だろうという指摘もあった。こういう細かい報告へのコメントは、日本でもよく目にしていたので、逆に新鮮だった(アメリカでもこういう感じで指導するんだ、という意味で)。ただ、一方で10分ちょっとの報告に対してここまで気を配るのかというのにも驚いた。もしかするとこの報告で興味をもらって就職につながったり共同研究に誘われたりするのかもしれない。ただ、彼女は論文の第2著者で、第1著者は指導教員。そういう人がどこまでこの報告をブラッシュアップする必要があるのかは、よくわからない。
形式人口学の授業、今日は先生(クリスティン)が色々と生命表を用いたサブスタンスを紹介してくれた。離婚の学歴格差の拡大や自身のproximate ditermintnants of educational homogamyなどで生命表を用いていて、その解説が半分。前者はDRでトップ10に入る引用数だけど、最初JMFにリジェクトされたらしい。後者はクリスティンの修論らしく、出版まで12年かかったということ(大体は寝かせていたらしい)。
残り半分は、学部の先輩で生命表を用いている人が来てくれてその紹介。授業中に、来学期の授業登録をした。途中でPAAの結果が出ていることを知ってチェックしたが、オーラルセッションには自分の名前がなく、少し挫折感を感じる。他人と比べるのは良くないが、CDEの先輩の中にはオーラルで通っている人も多く、その時は悔しかった。しばらくたって、そういう感情は研究に負の影響しかないと思って、考えるのはやめようと思った。
今の指導教員と書いている論文は、結構指導教員からも推しがあったので、個人的にはオーラルはいけるかなと思っていたので、そういうのも含めて悔しかった。もちろん、オーラルに通らなかったから質が低いということではないけど、今年の目標の一つは1本オーラルで通すことだったので、やっぱり悔しいかな。何でダメだったんだろうと自問気味。
こういう時のマインドコントロールは大切だと思う。かんぜんに忘れるのも良くないし、いつまでもくよくよしていてはダメ、単にオーラルに通るか通らないかなので、そこまできにする必要はないかもしれない。とは言え、この感情をどのように処理すれば良いのかは、似たような状況に何度直面したところで、いつも悩むものである。
これと合わせて、こちらで人口学など新しい分野、視点を学ぶに連れて、今までの研究を一度見直してみたい気がしてきた。抜本的に変えるわけではないけど、やはり留学する前と今とでは、なにが良い研究かという見方も含めて、色々修正をする必要があるなと考えている。今までの研究は手放したくないと思う一方で、同じままでは意味がないと思う、このバランスの問題はなかなか難しい。
余談だが、今日は報告者の友人に誘われて初めてブラウンバッグに出てみた(raceðnicity)、テーマがracial segregationとhomicidesで、実にアメリカらしい。ブラウンバックの方がこじんまりとしてて質問しやすい。ファカルティの先生のコメントも容赦なかったけど。
ブラウンバックでの議論を聞いてみて、日本と似ている、というかどこでも見られるのだなと思われることがあった。報告者のスライドに対して、1つずつ教員がこうしたほうがいい、このほうが誤解がない、ここをもっと明確にと細かく指摘しているのが印象的だった。犯罪学のカンファレンスなので、ここは省略しても大丈夫だろうという指摘もあった。こういう細かい報告へのコメントは、日本でもよく目にしていたので、逆に新鮮だった(アメリカでもこういう感じで指導するんだ、という意味で)。ただ、一方で10分ちょっとの報告に対してここまで気を配るのかというのにも驚いた。もしかするとこの報告で興味をもらって就職につながったり共同研究に誘われたりするのかもしれない。ただ、彼女は論文の第2著者で、第1著者は指導教員。そういう人がどこまでこの報告をブラッシュアップする必要があるのかは、よくわからない。
Is the second demographic transition theory a development idealism?
Lesthaeghe, R., 2010. The Unfolding Story of the Second Demographic Transition. PDR
In this paper, Lesthaeghe attempts to theorize the demographic change under the sub-replacement fertility, but he implicitly assumes, using a Maslow's framework, an inclination towards a post-material value (self-realization and autonomy) as a consequence of societal development. On the other hand, he also mentioned the strong family regimes in Southern European countries. Strong family regimes are quite comparable to that of East Asia, where intergenerational coresidence has been prevalent. The majority (approximately 70% or more) of never-married young adults stay in their parents’ home, and this trend has been stable over the past decades. These countries with strong family regimes often emphasize the importance of family lineage (ie in Japanese or jib in Korean), and eldest sons have long been expected to live with their parents after marriage, in order to maintain the family lineage. The wives of eldest sons are thus more likely than women married to second and third sons to coreside with their parents-in-law.
Based on this cultural context, the Japanese government recently started to promote three-generation living arrangements to "facilitate the flow and volume of intergenerational support" (Izuhara 2018). Behind the "re-familiarization" policy, some studies provided an empirical support a positive association between intergenerational coresidence and (1) mother's labor force participation and (2) additional childbearing. The relationship is also observed in countries with other family regimes, such as UK (Kanji 2017).
The role of intergenerational coresidence reminds me an assumed distinction between "traditional" and "modern" in family demography. As Thornton (2001)'s article revealed, developmental idealism influences our thinking about family formation in various ways. Except for a couple of scholars who strongly emphasized the inertia of Japanese family system, most demographers in Japan seem to be against the abovementioned “re-familiarization” policy, because it has been considered as the policy towards "traditional" living arrangement which oppress individual autonomy. However, living with parents after school graduation or marriage is not a "traditional" thing, or not limited to those strong family countries. Other affluent countries, where there has been a rise in cost of living and growing economic uncertainty, have seen an increase in Boomerang kids: adult children coming back to parents home after independence (Newman 2013).
Why did the second demographic transition theory pay a bit too much emphasis on individual autonomy and associate it with social development, while dismissing a potential importance of "traditional" living arrangement? Is this also due to the development idealism which labels free and equal family as modern and the modern family as good?
In this paper, Lesthaeghe attempts to theorize the demographic change under the sub-replacement fertility, but he implicitly assumes, using a Maslow's framework, an inclination towards a post-material value (self-realization and autonomy) as a consequence of societal development. On the other hand, he also mentioned the strong family regimes in Southern European countries. Strong family regimes are quite comparable to that of East Asia, where intergenerational coresidence has been prevalent. The majority (approximately 70% or more) of never-married young adults stay in their parents’ home, and this trend has been stable over the past decades. These countries with strong family regimes often emphasize the importance of family lineage (ie in Japanese or jib in Korean), and eldest sons have long been expected to live with their parents after marriage, in order to maintain the family lineage. The wives of eldest sons are thus more likely than women married to second and third sons to coreside with their parents-in-law.
Based on this cultural context, the Japanese government recently started to promote three-generation living arrangements to "facilitate the flow and volume of intergenerational support" (Izuhara 2018). Behind the "re-familiarization" policy, some studies provided an empirical support a positive association between intergenerational coresidence and (1) mother's labor force participation and (2) additional childbearing. The relationship is also observed in countries with other family regimes, such as UK (Kanji 2017).
The role of intergenerational coresidence reminds me an assumed distinction between "traditional" and "modern" in family demography. As Thornton (2001)'s article revealed, developmental idealism influences our thinking about family formation in various ways. Except for a couple of scholars who strongly emphasized the inertia of Japanese family system, most demographers in Japan seem to be against the abovementioned “re-familiarization” policy, because it has been considered as the policy towards "traditional" living arrangement which oppress individual autonomy. However, living with parents after school graduation or marriage is not a "traditional" thing, or not limited to those strong family countries. Other affluent countries, where there has been a rise in cost of living and growing economic uncertainty, have seen an increase in Boomerang kids: adult children coming back to parents home after independence (Newman 2013).
Why did the second demographic transition theory pay a bit too much emphasis on individual autonomy and associate it with social development, while dismissing a potential importance of "traditional" living arrangement? Is this also due to the development idealism which labels free and equal family as modern and the modern family as good?
A critical assessment of gender revolution theory
In this short note, I aim to critically examine the gender revolution theory (GRT, hereafter), both from theoretical and empirical perspective. This note is particularly focused on Goldscheider et al. (2015). This theory has been paid a considerable attention in demography in recent years. The theory originates from a response to recent reversal trends of fertility in rich countries, and focuses on structural change in gender relationship in public and private spheres. There are some weak points, as I argue below, in this theory: its theoretical inclination towards development idealism and limited empirical supports. This note consists of four sections. First, I introduce a general overview of this theory: what does the theory try to explain and what is a unique feature in this theory compared with other fertility transition theory? Second, I examine the GRT from a theoretical perspective, while the third section deals with a couple of empirical expectations derived from the theory. Lastly, I will discuss a potential implication of this theory and conclude the note.
Gender revolution theory: what is unique?
The theory is based on a theoretical response to a rise in the total fertility rate (TFR) in rich countries. In some Northern European countries, the TFR has risen in recent years. In particular Sweden has seen a dramatic reversal trend in the TFR from late 1990s to late 2000s as the figure below shows. A dominant theory to explain sub-replacement fertility trends is the Second Demographic Transition (SDT), which emphasizes a transition from material to post-material value (self-realization and autonomy) as a consequence of societal development. Under the SDT framework, individuals with ‘untraditional’ norms and individualistic values will pursue higher order needs and choose multiple forms of living arrangement (Lesthaeghe 2010). During the SDT, fertility and nuptiality are increasingly less connected, and thus there has been an increase in cohabitation, non-marital childbearing, and divorce.
An theoretical expectation derived from the SDT is a continuous decrease in the TFR. In contrast to the expectation, however, some rich countries have seen a reversal trend in the TFR. These countries are typically geographically located in Northern Europe, and demograhers started to explore a possible mechanism to explain the reversal trend, which is the GRT.
One uniqueness of the GRT is its focus on changing structure of gender relationship. According to Goldscheider et al. (2015), the gender revolution has two phases. In the first phase when women's participation in labor market started to rise, there was a delay in marriage, a decrease in probability of marriage, delay in childbearing, and an increase in divorce. In the second phase, however, the relationship between women's labor participation and these demographic behaviors has gradually weakened or even reversal. In the current European countries, Sweden in particular, the TFR is also high in countries where women's labor participation is high. This structural change in gender relationship both in the public and private sectors, which is referred to as a gender revolution in Goldscheider et al. (2015), is an important aspect to explain this reversal trend in fertility. According to Goldscheider et al. (2015), there has been an increase in men’s involvement with housework and child care, which contributed to stabilizing families and increasing fertility.
Also, unlike other fertility transition theories, the GRT focuses not only on fertility but also other family dimensions (union formation and dissolution). While giving a credit to McDonald (2000)’s gender equity theory, which explains a variation in the TFR in affluent countries from policy perspective, Goldscheider et al. (2015) argues that these family formation behaviors are less influenced by the policy, but largely influenced by changing gender relationship.
Moreover, the GRT has an orientation for comparative perspective. As Goldscheider et al. (2015) examined, the theory compares the association between gender inequality and fertility both in Western and non-Western countries, while the primary focus of the second demographic transition theory was on Western countries, and it later started to examine whether the theoretical expectation fits with other countries (Lesthaeghe 2010). This initially formulated comparative perspective has a theoretical advantage. On the one hand, the SDT theory started from sub-replacement fertility countries in Europe, and found that it is correlated with a rise in non-material value. Thus their analytical approach examines whether the findings in European countries is generalizable to other contexts, which may dismiss a potential important institutional characteristics in the non-Western countries. As England insightfully suggested, the post-materialist culture might be rooted in the liberal individualism which is dominant in most of Western societies (England 2010). On the other hand, the GRT focuses on gender inequality, which is an obviously common characteristics to many rich countries, and it thus successfully includes both Western and non-Western countries into their analysis.
Theoretical assumption of gender revolution theory and its critique
Although the GRT has many advantages to explain the reversal trends in low fertility, the same critiques for the past fertility transition theory are applicable. First, the theory assumes fertility trends are associated with social development because it implicitly argues industrial countries converge into gender-egalitarian regimes (specifically, Sweden). This assumption is quite comparable to what Thornton (2001) calls ‘development idealism’, which is characterized by its propositions that modern families are good and modern individuals are labeled as free and equal. A possible critique towards the GRT is not to argue that changing gender relationship should not be considered as good or bad, but to argue that it should be cautious to link gender equality to a reversal trend in fertility with an assumption that every gender-inegalitarian countries will converge to what contemporary Sweden has seen.
The theory also mentions ‘strength’ of families. For instance, Goldscheider et al. (2015: 208) argues the gender revolution “is actually strengthening families”. By this they meant that equal relationship between men and women makes families more stable and cohesive. This assumption seems to propose that families are measured by strong or weak, and also there are some families that are weak. The theory is focused on the gender inequality between men and women at private spheres, which implicitly ignores other types of families, such as single parent families or same-sex couples. Although the GRT did not explicitly mention, it should be the case that the theory solely limit their focus to two-parent families.
Empirical assessment of the theory
As this note mentioned, the GRT emphasizes the role of structural shift towards gender egalitarian regimes, but most of the changes are attributable to individual behaviors (women's labor force participation, better access to higher education, and men's increasing involvement with private spheres). In that sense, as Riley (1999) argued, the GRT might ignore socio-institutional basis of gender. Comparing a sum of individual behaviors across countries with different institutional contexts may inhibit a clear empirical analysis. For example, it is skeptical that the Goldscheider's emphasis on women's labor force participation as a key indicator to understand the relationship between fertility change. Women's labor force participation in Japan outpaces that of US in 2014. If Goldscheider's prediction is right, the US should increase the women's labor force participation, but the rate has not shown an upward trend. Obviously, gender inequality in Japan is more serious than in the US in many respects (persistent gender wage gap, father's lower rate of taking parental leave, and men's lower contribution to housework).
Also, a sole focus on quantitatively collected information ignores contextual features that might be distal for low fertility. Although Goldscheider et al. (2015: 222) argued “there is growing evidence that men’s increasing involvement in homemaking and childcare may potentially increase fertility. Such evidence has been found in countries with ultra-low fertility”, this is still one side of the coin. Studies have found mixed supports for the relationship between father’s involvement and a transition to fertility. Fathers’ contribution to childcare has a positive effect (but depends on mother's employment status) on the likelihood of a second birth in Spain, but not for Italy (Cooke 2009). Also, women’s fertility intentions are influenced by unequal division of household work only for those who have long work hours and children (Mills et al. 2008).
Mixed supports for the relationship may stem from different institutional contexts in those low and ultra-low fertility countries. Brinton et al. (2018), for instance, examines the gap in desired and actual fertility in four rich countries - Sweden, US, Spain, and Japan -, and focuses on the role of gender inequality, as Goldscheider et al. (2015) did. Although sharing research interests, unlike comparing quantitative measures in different countries, their approach to ask this question was to use qualitative interview. Their analysis reveals that the influence of gender inequality on fertility intention differs by institutional contexts. In Japan, most women implicitly accept unequal division of labor as given and did not reason the lack of husband’s housework share constraints their intention. This finding is supported by their analysis of male interviewees among full-time couples, showing that they are likely to have gender egalitarian attitudes but their long work hours prohibits husband’s contribution to housework (Brinton et al. 2018: 299). In contrast to the Japanese case, in Spain, couples emphasized high levels of economic uncertainty as a condition to maintain both partners work fulltime. In these lowest-low fertility countries, the role of gender inequality is not performed to the extent that GRT expected. Rather, institutional contexts, possibly combined with gender inequality, creates their perception towards gaps in desired and actual fertility.
Although Goldscheider et al. (2015) slightly discussed growing class inequality, another skeptic view stems from the fact that family trends are not converging even within a single country. Sociologists understand that family formation is increasingly stable among highly-educated couples, and that the opposite is the case among the less educated - `diverging destinies', as coined by McLanahan (2004). The GRT does not clearly reconcile the gap in the sociological literature on family adaptation to demographic change. This is understandable given that the GRT originates from Swedish experience where income inequality is not high under the strong welfare regime.
Conclusion
Demographers have tried to theorize trends in fertility in the world. While the SDT explains why the TFR reached the below replacement fertility, it fails to explain a recent reversal trend in fertility in some rich countries. The GRT has emerged as an alternative theory to explain the reversal trends. In that sense, the most fundamental contribution of the theory to demographic transition is its application of the gender equity theory (McDonald 2000) to explaining trends in fertility. That being said, it should be criticized both from theoretical and empirical perspectives. In particular, its extensive focus on the Swedish case is a double edge sword. On the one hand, by largely relying on the forerunner of the demographic transition, it successfully provides a strong argument to predict a future fertility change in other rich countries. On the other hand, its assumption that ‘developed’ countries will converge into the Swedish case in terms of its gender equality and fertility is to be considered a bit too much optimistic and may fall in the development idealism. While the thesis provided by the theory is clear and easy to test, demographers also need to be cautious about its assumption behind the theory and potential limitations.
Reference
Brinton, Mary C., Xiana Bueno, Livia Oláh, and Merete Hellum. 2018. “Postindustrial Fertility Ideals, Intentions, and Gender Inequality: A Comparative Qualitative Analysis: Postindustrial Fertility Ideals, Intentions, and Gender Inequality.” Population and Development Review 44(2):281–309.
Cooke, Lynn Prince. 2009. “Gender Equity and Fertility in Italy and Spain.” Journal of Social Policy 38(1): 123-140.
England, Paula. 2010. “The Gender Revolution: Uneven and Stalled.” Gender & Society 24(2):149–66.
Goldscheider, Frances, Eva Bernhardt, and Trude Lappegård. 2015. “The Gender Revolution: A Framework for Understanding Changing Family and Demographic Behavior.” Population and Development Review 41(2):207–39.
Lesthaeghe, Ron. 2010. “The Unfolding Story of the Second Demographic Transition.” Population and Development Review 36(2):211–51.
McDonald, Peter. 2000. “Gender Equity in Theories of Fertility Transition.” Population and Development Review 26(3):427–39.
McLanahan, Sara. 2004. “Diverging Destinies: How Children Are Faring Under the Second Demographic Transition.” Demography 41(4):607–27.
Mills, Melinda, Letizia Mencarini, Maria Letizia Tanturri, and Katia Begall. 2008. “Gender Equity and Fertility Intentions in Italy and the Netherlands.” Demographic Research 18:1–26.
Riley, Nancy E. 1999. “Challenging Demography: Contributions From Feminist Theory.” Sociological Forum 14(3):369–97.
Thornton, Arland. 2001. “The Developmental Paradigm, Reading History Sideways, and Family Change.” Demography 38(4):449-465.
Gender revolution theory: what is unique?
The theory is based on a theoretical response to a rise in the total fertility rate (TFR) in rich countries. In some Northern European countries, the TFR has risen in recent years. In particular Sweden has seen a dramatic reversal trend in the TFR from late 1990s to late 2000s as the figure below shows. A dominant theory to explain sub-replacement fertility trends is the Second Demographic Transition (SDT), which emphasizes a transition from material to post-material value (self-realization and autonomy) as a consequence of societal development. Under the SDT framework, individuals with ‘untraditional’ norms and individualistic values will pursue higher order needs and choose multiple forms of living arrangement (Lesthaeghe 2010). During the SDT, fertility and nuptiality are increasingly less connected, and thus there has been an increase in cohabitation, non-marital childbearing, and divorce.
An theoretical expectation derived from the SDT is a continuous decrease in the TFR. In contrast to the expectation, however, some rich countries have seen a reversal trend in the TFR. These countries are typically geographically located in Northern Europe, and demograhers started to explore a possible mechanism to explain the reversal trend, which is the GRT.
One uniqueness of the GRT is its focus on changing structure of gender relationship. According to Goldscheider et al. (2015), the gender revolution has two phases. In the first phase when women's participation in labor market started to rise, there was a delay in marriage, a decrease in probability of marriage, delay in childbearing, and an increase in divorce. In the second phase, however, the relationship between women's labor participation and these demographic behaviors has gradually weakened or even reversal. In the current European countries, Sweden in particular, the TFR is also high in countries where women's labor participation is high. This structural change in gender relationship both in the public and private sectors, which is referred to as a gender revolution in Goldscheider et al. (2015), is an important aspect to explain this reversal trend in fertility. According to Goldscheider et al. (2015), there has been an increase in men’s involvement with housework and child care, which contributed to stabilizing families and increasing fertility.
Also, unlike other fertility transition theories, the GRT focuses not only on fertility but also other family dimensions (union formation and dissolution). While giving a credit to McDonald (2000)’s gender equity theory, which explains a variation in the TFR in affluent countries from policy perspective, Goldscheider et al. (2015) argues that these family formation behaviors are less influenced by the policy, but largely influenced by changing gender relationship.
Moreover, the GRT has an orientation for comparative perspective. As Goldscheider et al. (2015) examined, the theory compares the association between gender inequality and fertility both in Western and non-Western countries, while the primary focus of the second demographic transition theory was on Western countries, and it later started to examine whether the theoretical expectation fits with other countries (Lesthaeghe 2010). This initially formulated comparative perspective has a theoretical advantage. On the one hand, the SDT theory started from sub-replacement fertility countries in Europe, and found that it is correlated with a rise in non-material value. Thus their analytical approach examines whether the findings in European countries is generalizable to other contexts, which may dismiss a potential important institutional characteristics in the non-Western countries. As England insightfully suggested, the post-materialist culture might be rooted in the liberal individualism which is dominant in most of Western societies (England 2010). On the other hand, the GRT focuses on gender inequality, which is an obviously common characteristics to many rich countries, and it thus successfully includes both Western and non-Western countries into their analysis.
Figure: Fertility trends in selected countries 1960-2016 (source: the world bank)
Theoretical assumption of gender revolution theory and its critique
Although the GRT has many advantages to explain the reversal trends in low fertility, the same critiques for the past fertility transition theory are applicable. First, the theory assumes fertility trends are associated with social development because it implicitly argues industrial countries converge into gender-egalitarian regimes (specifically, Sweden). This assumption is quite comparable to what Thornton (2001) calls ‘development idealism’, which is characterized by its propositions that modern families are good and modern individuals are labeled as free and equal. A possible critique towards the GRT is not to argue that changing gender relationship should not be considered as good or bad, but to argue that it should be cautious to link gender equality to a reversal trend in fertility with an assumption that every gender-inegalitarian countries will converge to what contemporary Sweden has seen.
The theory also mentions ‘strength’ of families. For instance, Goldscheider et al. (2015: 208) argues the gender revolution “is actually strengthening families”. By this they meant that equal relationship between men and women makes families more stable and cohesive. This assumption seems to propose that families are measured by strong or weak, and also there are some families that are weak. The theory is focused on the gender inequality between men and women at private spheres, which implicitly ignores other types of families, such as single parent families or same-sex couples. Although the GRT did not explicitly mention, it should be the case that the theory solely limit their focus to two-parent families.
Empirical assessment of the theory
As this note mentioned, the GRT emphasizes the role of structural shift towards gender egalitarian regimes, but most of the changes are attributable to individual behaviors (women's labor force participation, better access to higher education, and men's increasing involvement with private spheres). In that sense, as Riley (1999) argued, the GRT might ignore socio-institutional basis of gender. Comparing a sum of individual behaviors across countries with different institutional contexts may inhibit a clear empirical analysis. For example, it is skeptical that the Goldscheider's emphasis on women's labor force participation as a key indicator to understand the relationship between fertility change. Women's labor force participation in Japan outpaces that of US in 2014. If Goldscheider's prediction is right, the US should increase the women's labor force participation, but the rate has not shown an upward trend. Obviously, gender inequality in Japan is more serious than in the US in many respects (persistent gender wage gap, father's lower rate of taking parental leave, and men's lower contribution to housework).
Also, a sole focus on quantitatively collected information ignores contextual features that might be distal for low fertility. Although Goldscheider et al. (2015: 222) argued “there is growing evidence that men’s increasing involvement in homemaking and childcare may potentially increase fertility. Such evidence has been found in countries with ultra-low fertility”, this is still one side of the coin. Studies have found mixed supports for the relationship between father’s involvement and a transition to fertility. Fathers’ contribution to childcare has a positive effect (but depends on mother's employment status) on the likelihood of a second birth in Spain, but not for Italy (Cooke 2009). Also, women’s fertility intentions are influenced by unequal division of household work only for those who have long work hours and children (Mills et al. 2008).
Mixed supports for the relationship may stem from different institutional contexts in those low and ultra-low fertility countries. Brinton et al. (2018), for instance, examines the gap in desired and actual fertility in four rich countries - Sweden, US, Spain, and Japan -, and focuses on the role of gender inequality, as Goldscheider et al. (2015) did. Although sharing research interests, unlike comparing quantitative measures in different countries, their approach to ask this question was to use qualitative interview. Their analysis reveals that the influence of gender inequality on fertility intention differs by institutional contexts. In Japan, most women implicitly accept unequal division of labor as given and did not reason the lack of husband’s housework share constraints their intention. This finding is supported by their analysis of male interviewees among full-time couples, showing that they are likely to have gender egalitarian attitudes but their long work hours prohibits husband’s contribution to housework (Brinton et al. 2018: 299). In contrast to the Japanese case, in Spain, couples emphasized high levels of economic uncertainty as a condition to maintain both partners work fulltime. In these lowest-low fertility countries, the role of gender inequality is not performed to the extent that GRT expected. Rather, institutional contexts, possibly combined with gender inequality, creates their perception towards gaps in desired and actual fertility.
Although Goldscheider et al. (2015) slightly discussed growing class inequality, another skeptic view stems from the fact that family trends are not converging even within a single country. Sociologists understand that family formation is increasingly stable among highly-educated couples, and that the opposite is the case among the less educated - `diverging destinies', as coined by McLanahan (2004). The GRT does not clearly reconcile the gap in the sociological literature on family adaptation to demographic change. This is understandable given that the GRT originates from Swedish experience where income inequality is not high under the strong welfare regime.
Conclusion
Demographers have tried to theorize trends in fertility in the world. While the SDT explains why the TFR reached the below replacement fertility, it fails to explain a recent reversal trend in fertility in some rich countries. The GRT has emerged as an alternative theory to explain the reversal trends. In that sense, the most fundamental contribution of the theory to demographic transition is its application of the gender equity theory (McDonald 2000) to explaining trends in fertility. That being said, it should be criticized both from theoretical and empirical perspectives. In particular, its extensive focus on the Swedish case is a double edge sword. On the one hand, by largely relying on the forerunner of the demographic transition, it successfully provides a strong argument to predict a future fertility change in other rich countries. On the other hand, its assumption that ‘developed’ countries will converge into the Swedish case in terms of its gender equality and fertility is to be considered a bit too much optimistic and may fall in the development idealism. While the thesis provided by the theory is clear and easy to test, demographers also need to be cautious about its assumption behind the theory and potential limitations.
Reference
Brinton, Mary C., Xiana Bueno, Livia Oláh, and Merete Hellum. 2018. “Postindustrial Fertility Ideals, Intentions, and Gender Inequality: A Comparative Qualitative Analysis: Postindustrial Fertility Ideals, Intentions, and Gender Inequality.” Population and Development Review 44(2):281–309.
Cooke, Lynn Prince. 2009. “Gender Equity and Fertility in Italy and Spain.” Journal of Social Policy 38(1): 123-140.
England, Paula. 2010. “The Gender Revolution: Uneven and Stalled.” Gender & Society 24(2):149–66.
Goldscheider, Frances, Eva Bernhardt, and Trude Lappegård. 2015. “The Gender Revolution: A Framework for Understanding Changing Family and Demographic Behavior.” Population and Development Review 41(2):207–39.
Lesthaeghe, Ron. 2010. “The Unfolding Story of the Second Demographic Transition.” Population and Development Review 36(2):211–51.
McDonald, Peter. 2000. “Gender Equity in Theories of Fertility Transition.” Population and Development Review 26(3):427–39.
McLanahan, Sara. 2004. “Diverging Destinies: How Children Are Faring Under the Second Demographic Transition.” Demography 41(4):607–27.
Mills, Melinda, Letizia Mencarini, Maria Letizia Tanturri, and Katia Begall. 2008. “Gender Equity and Fertility Intentions in Italy and the Netherlands.” Demographic Research 18:1–26.
Riley, Nancy E. 1999. “Challenging Demography: Contributions From Feminist Theory.” Sociological Forum 14(3):369–97.
Thornton, Arland. 2001. “The Developmental Paradigm, Reading History Sideways, and Family Change.” Demography 38(4):449-465.
November 11, 2018
easywineを使ってMacでRからLemを走らせる
多分全世界で10人くらいしか興味を持たなそうなやつですね。
Easywineのインスト
http://mattintosh.hatenablog.com/entry/20140706/1404653173
藤原先生の解説
https://sites.google.com/site/shofujihara/lem
Easywineとlemがインストールされていれば、R上で
setwd("/Users/fumiyau/lemwin/LEM")
system("/Applications/EasyWine.app/Contents/Resources/wine/bin/wine lem95 AnalysisRSSM_2nd.inp AnalysisRSSM_2nd.out")
Rのsystemでwineを走らせた場合、wine PROGRAMのようにwineの後に続くのが具体的に実行するプログラムになるようです。lem95(lemwin)、inp、outファイルは全て/Users/fumiyau/lemwin/LEMのディレクトリ下にあります。
当初、以下のようなエラーが出ました。
0009:err:process:init_windows_dirs directory L"C:\\windows" could not be created, error 2
0009:err:process:init_windows_dirs directory L"C:\\windows\\system32" could not be created, error 3
000b:err:process:init_windows_dirs directory L"C:\\windows" could not be created, error 2
000b:err:process:init_windows_dirs directory L"C:\\windows\\system32" could not be created, error 3
原因はよくわかりませんが、以下のウェブサイトで問題は解決されました。
https://wine-users.winehq.narkive.com/n6jN7Ibu/err-process-init-windows-dirs-directory-l-c-windows-could
もしかすると以前別のwineを使っていたので、wineフォルダが重複していたのかもしれません。seedで乱数を固定することを忘れずに。
Easywineのインスト
http://mattintosh.hatenablog.com/entry/20140706/1404653173
藤原先生の解説
https://sites.google.com/site/shofujihara/lem
Easywineとlemがインストールされていれば、R上で
setwd("/Users/fumiyau/lemwin/LEM")
system("/Applications/EasyWine.app/Contents/Resources/wine/bin/wine lem95 AnalysisRSSM_2nd.inp AnalysisRSSM_2nd.out")
当初、以下のようなエラーが出ました。
0009:err:process:init_windows_dirs directory L"C:\\windows" could not be created, error 2
0009:err:process:init_windows_dirs directory L"C:\\windows\\system32" could not be created, error 3
000b:err:process:init_windows_dirs directory L"C:\\windows" could not be created, error 2
000b:err:process:init_windows_dirs directory L"C:\\windows\\system32" could not be created, error 3
原因はよくわかりませんが、以下のウェブサイトで問題は解決されました。
https://wine-users.winehq.narkive.com/n6jN7Ibu/err-process-init-windows-dirs-directory-l-c-windows-could
もしかすると以前別のwineを使っていたので、wineフォルダが重複していたのかもしれません。seedで乱数を固定することを忘れずに。
November 10, 2018
Week11の予定
土曜
×論文チェック(PDR)
×同類婚分析
×掲載決定論文のreplication readme作成・図の修正
×床屋の予約
×溜まったメール
×再婚論文の確認
×Easywineのインストール
・チャーシュー
×ラストfarmars market
×買い物(30ドル)
×洗濯
日曜
×醤油と酒の購入
×Demtech予習
・同棲論文の確認
・ABM
×スライド準備
×SSN
・統計のプロジェクト(余裕があれば)
月曜
・統計のプロジェクト-regression(due on Tue)
・ABM
・Demtech
・Lab
火曜
・人口学セミナーの資料作り
・DemSem
・統計の授業
・プロセミナー
水曜
・午前中:人口学セミナーの資料作り
木曜
・午前中:人口学セミナーの資料作り
・転職するスタッフへの手紙
・自治会ミーティング(忘れた)
・統計
・再びスライド作り
・計画中論文へのコメント
金曜
・発表練習
・大学院セミナー
・SSN
土日
・Demtechの宿題修正
・再婚論文
×論文チェック(PDR)
×同類婚分析
×掲載決定論文のreplication readme作成・図の修正
×床屋の予約
×溜まったメール
×再婚論文の確認
×Easywineのインストール
・チャーシュー
×ラストfarmars market
×買い物(30ドル)
×洗濯
日曜
×醤油と酒の購入
×Demtech予習
・同棲論文の確認
・ABM
×スライド準備
×SSN
・統計のプロジェクト(余裕があれば)
月曜
・統計のプロジェクト-regression(due on Tue)
・ABM
・Demtech
・Lab
火曜
・人口学セミナーの資料作り
・DemSem
・統計の授業
・プロセミナー
・投稿論文の修正
・投稿論文のreplication data作り
・散髪水曜
・午前中:人口学セミナーの資料作り
・投稿論文の修正
・投稿論文のreplication data作り
・CDHAセミナー
・執筆予定の論文の分析
木曜
・午前中:人口学セミナーの資料作り
・転職するスタッフへの手紙
・自治会ミーティング(忘れた)
・統計
・再びスライド作り
・計画中論文へのコメント
金曜
・発表練習
・大学院セミナー
・SSN
土日
・Demtechの宿題修正
・再婚論文
目を通したい雑誌
-General
AJS
ASR
Social Forces
Social Problems
SSR
-Demography & Policy
PDR
Demography
Demographic Research
European Journal of Population
IMR
JSP
Social Politics
JHSB
PDPR
人口学研究
人口問題研究
-Education & Stratification
Sociology of Education
Child Development
RSSM
JHR
SER
-Family & Gender
JMF
Gender and Society
JFI
Family Relations
家族社会学研究
-Review
ARS
ANNALS-AAPSS
Sociology Compass
-Regional?
ESR
CSR
BJS
Acta Sociologica
Sociological Perspectives
Sociological Forum
The Sociological Quarterly
Socius
SSJJ
社会学評論
-International/Comparative
International Sociology
Current Sociology
IJCS
-Method
SMR
SM
Social Networks
理論と方法
AJS
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Sociology Compass
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Sociological Forum
The Sociological Quarterly
Socius
SSJJ
社会学評論
-International/Comparative
International Sociology
Current Sociology
IJCS
-Method
SMR
SM
Social Networks
理論と方法
November 7, 2018
人口学セミナーの振り返り
水曜日、午前中は同類婚の分析に使った。選挙の結果が気になって眠れなかったので、あまりリーディングを読む気にはなれず。
Social Justice
今日のプロセミナーは自分の価値観を変える契機になるかもしれない。考えてみると、2018年のアメリカにおいて、社会学の大学院という場所は、政治的に極めて特殊な、というかある政治的環境の典型なのだろう。
みんな投票する政党は(visibleには)一つしかないけど、政治的にアクティブで、社会の不正義や価値観を変えようとするラディカルなマインドを持った人が多く、日常のマイクロなレベルでも政治的な現象を拾い上げていると思う。
言葉遊びに聞こえるかもしれないけど、ここでは意見を表明しないことも一つの意見と見なされるし、常に自分は何から目を背けているのか、何の意見を聞いていないのかを意識しなくてはいけない。
社会正義に対する理想に反対する人はいないけど、日常の実践レベルでは、自分がどのsocial positionに位置していて、どこでidentityに基づいた主張をしていいのか、どこではidentityをもとに判断してはいけないのかを巡る政治はある。こういうのにセンシティブになるのには、それなりの慣れが必要。
社会に潜む不正義を根底から正そうとするマインドに溢れた人が多いのはアメリカの社会学の強みで、公共社会学もその流れだろうと思う。こういうラディカルさと、社会を冷静に分析する姿勢が個人の中で両立するのが理想だけど、バランス取るのは難しいので学界として多様性を維持するのが望ましいと思う。
アメリカに来る前から社会学の大学院の人はみんな民主党に投票するリベラルな人ばっかりなんだろうと思っていたのは、表面的には間違っていなかったけど、その大学院の中で、日常のマイクロなレベルで日々政治的な現象が立ち現れ、それに対してここまで声を上げることは、想定していなかった。
というのが表面化したのが、今日のプロセミナーだった。プロセミって基本professional developmentの時間だと思うけど、うちだと(結果的に)social justice, diversity, inclusionなどを考える機会がたまにある。
みんな投票する政党は(visibleには)一つしかないけど、政治的にアクティブで、社会の不正義や価値観を変えようとするラディカルなマインドを持った人が多く、日常のマイクロなレベルでも政治的な現象を拾い上げていると思う。
言葉遊びに聞こえるかもしれないけど、ここでは意見を表明しないことも一つの意見と見なされるし、常に自分は何から目を背けているのか、何の意見を聞いていないのかを意識しなくてはいけない。
社会正義に対する理想に反対する人はいないけど、日常の実践レベルでは、自分がどのsocial positionに位置していて、どこでidentityに基づいた主張をしていいのか、どこではidentityをもとに判断してはいけないのかを巡る政治はある。こういうのにセンシティブになるのには、それなりの慣れが必要。
社会に潜む不正義を根底から正そうとするマインドに溢れた人が多いのはアメリカの社会学の強みで、公共社会学もその流れだろうと思う。こういうラディカルさと、社会を冷静に分析する姿勢が個人の中で両立するのが理想だけど、バランス取るのは難しいので学界として多様性を維持するのが望ましいと思う。
アメリカに来る前から社会学の大学院の人はみんな民主党に投票するリベラルな人ばっかりなんだろうと思っていたのは、表面的には間違っていなかったけど、その大学院の中で、日常のマイクロなレベルで日々政治的な現象が立ち現れ、それに対してここまで声を上げることは、想定していなかった。
というのが表面化したのが、今日のプロセミナーだった。プロセミって基本professional developmentの時間だと思うけど、うちだと(結果的に)social justice, diversity, inclusionなどを考える機会がたまにある。
November 3, 2018
Assortative mating
Educational assortative mating across marriage markets: Nonhispanic whites in the United States Demography 37 1 10.2307/2648094 Susan K. LewisValerie K. Oppenheimer 2000
Effects of Early U.S. Compulsory Schooling Laws on Educational Assortative Mating: The Importance of Context Demography 52 4 10.1007/s13524-015-0402-5 Emily Rauscher 2015
Educational Homogamy and Gender-Specific Earnings: Sweden, 1990'2009 Demography 50 4 10.1007/s13524-012-0188-7 Martin DribePaul Nystedt 2013
Pathways to educational homogamy in marital and cohabiting unions Demography 47 3 10.1353/dem.0.0124 Christine R. Schwartz 2010
Opportunities to Meet: Occupational Education and Marriage Formation in Young Adulthood Demography 51 4 10.1007/s13524-014-0313-x David McClendonJanet Chen-Lan KuoR. Kelly Raley 2014
Partners' Educational Pairings and Fertility Across Europe Demography 55 4 10.1007/s13524-018-0681-8 Natalie NitscheAnna MatysiakJan Van BavelDaniele Vignoli 2018
Effects of Early U.S. Compulsory Schooling Laws on Educational Assortative Mating: The Importance of Context Demography 52 4 10.1007/s13524-015-0402-5 Emily Rauscher 2015
Educational Homogamy and Gender-Specific Earnings: Sweden, 1990'2009 Demography 50 4 10.1007/s13524-012-0188-7 Martin DribePaul Nystedt 2013
Pathways to educational homogamy in marital and cohabiting unions Demography 47 3 10.1353/dem.0.0124 Christine R. Schwartz 2010
Opportunities to Meet: Occupational Education and Marriage Formation in Young Adulthood Demography 51 4 10.1007/s13524-014-0313-x David McClendonJanet Chen-Lan KuoR. Kelly Raley 2014
Partners' Educational Pairings and Fertility Across Europe Demography 55 4 10.1007/s13524-018-0681-8 Natalie NitscheAnna MatysiakJan Van BavelDaniele Vignoli 2018
Week10の予定
土日の作業
×Demtech課題
△人口学セミナーレスポンスペーパー
×共著論文のチェック
・人口学セミナーの文献まとめ×Demtech課題
△人口学セミナーレスポンスペーパー
×共著論文のチェック
×人口学セミナーの質問ポスト
・人口学セミナーの報告資料
×GSSのサーベイ
×地熱
余裕があれば:再婚論文
月曜
×DemTechの予習
×DemTech
×Stat lab
×Demtechの宿題
×Demtechのレポート
火曜
・プロセミナー
・統計
×Netlogo
・DemSem
・共著論文のチェック
水曜
・Flu shotの予約
・ISS-SSN
11月2日:人口学と反省性
今日は低所得国の出生を議論、文献はよくオーガナイズされてた。まず世界レベルでの家族計画の歴史を振り返り、人口変動への発展史観を批判的に検討した論文と例のカメルーンの論文を読み、最後は低所得国における出生と女性のウェルビーングの論文。post Cairo researchという言葉が印象に残った。
その中で、ThorntonさんのPAA会長講演論文を読んで、人口学も自身の研究に対する反省性が必要だなと思った次第。
この論文では、啓蒙思想から20世紀の人口学までみられた、1時点の社会のばらつきをもとにした発展史観から生じたイデオロギーが、いかに世界の家族パターンに影響を与えたかについて分析している。検証することが難しい命題もあるけど、現代の我々が考える何が「現代的」で何が「伝統的」かのラベリングに対して、developmental idealismが与えた影響は計り知れないと思う。分かりやすい例は見合い結婚から恋愛結婚への移行。後者は結婚が自立した個人に基づく契約であるべきという信念と親和的。
人口転換論も発展史観の亜種みたいなところはあり、この論文はかなり内輪向けに厳しいこと言ってると思う。developingとdevelopedという対比ももっぱら前者から後者への経路しか想定されていないわけだし。仮に単なるカテゴリとして用いる場合でも、その言葉の出自には反省的であるべきだと思った。
なぜ反省的である必要があるかというと、その分類が天から降ってきた自明なものではなく、社会的に構築されたものだから。もちろん、だからと言って、分析自体が不可能になるわけではなく、社会学者としては社会が生み出したカテゴリを拝借して分析してるってことに敏感になろうということかなと。
genderにしても、人口学者はsexとほとんど区別してないってフェミニスト人口学にディスられてたけど、まさにそうで、この二つの関係に反省的でないと、両者を独立のものと考えたり、同じものと考えてしまう。フェミニストは生物学的な性を否定しているみたいな誤解もそう。
raceとethnicityについても、合意はないかもしれないけど、アメリカでは両者が別のものというよりは、むしろraceという言葉はかなりethnicityに近い意味で用いられているような気もする。そもそも、昔と違って今はraceは対象者が考えるidentityの項目で、歴史的な制度と結びついたidentityだと思う。
これら全て、NIHからファンドをもらってる研究所のトレーニングの一つとして行われている人口学の授業で議論したことに基づいているのが面白い。人口学の院セミナーはよくオーガナイズされていて、前半は人口転換に関する古典的な理論を勉強した上で、後半は(圧倒的にマイナーな)フェミニスト人口学に言及した文献を入れ、最後にこの文献で終わるという。
Gender in the Investigation and Politics of ‘Low’ Fertility
社会学の側でReflexive demographyみたいな分野を作ればいいんじゃないかなと思います。人口の増加にしろ減少にしろ、人口学は非常に政策との距離が近いので、自分たちがどういう想定に基づいて議論をしているのか、自分の研究が政策に対してどれほどの影響を持っているのか、持っていないのか。こう言った点を考える際に、社会学の価値自由の議論とかとても大切だと思います。
しかし、このセミナーの先生が博士号が公衆衛生なのがまたすごい。きちんと公衆衛生側のトレーニングも受けながら、こういうreflexiveな視点を忘れない授業ができるのは。まさか1学期のセミナーでここまで人口学の文献を批判的に読めるトレーニングを受けられるとは思わなかった。この人口学の想定を内から崩して再構成していく感じ、ちょっと想定外。
その中で、ThorntonさんのPAA会長講演論文を読んで、人口学も自身の研究に対する反省性が必要だなと思った次第。
この論文では、啓蒙思想から20世紀の人口学までみられた、1時点の社会のばらつきをもとにした発展史観から生じたイデオロギーが、いかに世界の家族パターンに影響を与えたかについて分析している。検証することが難しい命題もあるけど、現代の我々が考える何が「現代的」で何が「伝統的」かのラベリングに対して、developmental idealismが与えた影響は計り知れないと思う。分かりやすい例は見合い結婚から恋愛結婚への移行。後者は結婚が自立した個人に基づく契約であるべきという信念と親和的。
人口転換論も発展史観の亜種みたいなところはあり、この論文はかなり内輪向けに厳しいこと言ってると思う。developingとdevelopedという対比ももっぱら前者から後者への経路しか想定されていないわけだし。仮に単なるカテゴリとして用いる場合でも、その言葉の出自には反省的であるべきだと思った。
なぜ反省的である必要があるかというと、その分類が天から降ってきた自明なものではなく、社会的に構築されたものだから。もちろん、だからと言って、分析自体が不可能になるわけではなく、社会学者としては社会が生み出したカテゴリを拝借して分析してるってことに敏感になろうということかなと。
genderにしても、人口学者はsexとほとんど区別してないってフェミニスト人口学にディスられてたけど、まさにそうで、この二つの関係に反省的でないと、両者を独立のものと考えたり、同じものと考えてしまう。フェミニストは生物学的な性を否定しているみたいな誤解もそう。
raceとethnicityについても、合意はないかもしれないけど、アメリカでは両者が別のものというよりは、むしろraceという言葉はかなりethnicityに近い意味で用いられているような気もする。そもそも、昔と違って今はraceは対象者が考えるidentityの項目で、歴史的な制度と結びついたidentityだと思う。
これら全て、NIHからファンドをもらってる研究所のトレーニングの一つとして行われている人口学の授業で議論したことに基づいているのが面白い。人口学の院セミナーはよくオーガナイズされていて、前半は人口転換に関する古典的な理論を勉強した上で、後半は(圧倒的にマイナーな)フェミニスト人口学に言及した文献を入れ、最後にこの文献で終わるという。
Gender in the Investigation and Politics of ‘Low’ Fertility
社会学の側でReflexive demographyみたいな分野を作ればいいんじゃないかなと思います。人口の増加にしろ減少にしろ、人口学は非常に政策との距離が近いので、自分たちがどういう想定に基づいて議論をしているのか、自分の研究が政策に対してどれほどの影響を持っているのか、持っていないのか。こう言った点を考える際に、社会学の価値自由の議論とかとても大切だと思います。
しかし、このセミナーの先生が博士号が公衆衛生なのがまたすごい。きちんと公衆衛生側のトレーニングも受けながら、こういうreflexiveな視点を忘れない授業ができるのは。まさか1学期のセミナーでここまで人口学の文献を批判的に読めるトレーニングを受けられるとは思わなかった。この人口学の想定を内から崩して再構成していく感じ、ちょっと想定外。