April 30, 2015

4月25-30日

またしばらくさぼっていました。

25日(土)
午前中は駒場でライティングの授業。自分の書きたい文章を書かせてもらえるようなのでその点はよかった。もはや半ば休日の英会話教室みたいにはなっている。昼食後、図書館で少しのんびりした後、乃木坂へ。勉強会。久しぶりに、自分の専門と関係ない議論を,自分より若い人と出来た。こういう機会は日に日に少なくなっていくので、大切にしたい。近くの中華料理で夕食後、六本木アートナイトを少し楽しんで帰宅。この日、書籍部でOECDが出した報告書Divided We Standの邦訳があり、あとでチェックしてみようと思った。

26日(日)
帰宅後すぐに寝落ちしてしまい,早朝に起床。朝一番で市長・市議会選に投票。この日は寮の歓迎会で、三鷹駅近くのチープなイタリアンで食べ放題。ピザが店側の好みで次々と出てくる変な感じの店だった。途中抜けして、日米社会学史茶話会に出るため、下北沢経由で成城へ。高山先生の「ハードアカデミズムの時代」を読んで忘れたやる気を思い出した。茶話会では、ビックネームもいて、色々貴重な話を伺えた。
この日の夜に、iPhoneの右上にある電源スイッチが壊れたので、今持ってるものもそろそろ物理的にキツイかもしれない。寮の一年生と話してて変わったなと思うのは、1.CAP制が敷かれ1学期原則30単位までになり、2.英語の授業が入試の成績別に三段階に分かれ、3.さらに一番上の段階の生徒には週5回の中国語授業を行うTLPが始まり、4.さらにTLPクラス上位層は国際研修の機会が提供される、というあたり。私のクラスにはいわゆる帰国子女や留学生が何人かいて、そういう人を通じて機会に恵まれることもあったのだが、優秀な人が徐々に一固まりになることで失われるものも出てくるだろう。事実だけを並べるなら、初めの段階から意欲があり優秀な人にどんどん機会を提供するような構造になってきていると思われる。


27日(月)
六本木に行く前に、定期券証明書をとりに駒場へ。結果は、所属する研究科に池とのこと。その足でなんとなく初年次活動センターにいったら、アドバイザー席にはやおが座ってて非常に一年生が入りづらい空気を形成してしまった。懐かしい雰囲気。あれから5年も経ったのか。この日は暑かった。6限に概論の授業で、DNのグルディスの司会みたいなことをした。レポートを帰宅後すぐドラフトに仕上げ、就寝。

28日(火)
朝、文学部所蔵の戸田貞三著作集がほとんど不在資料になってることに気づき、研究室に報告。二限に出た後、昼寝をして回復。雑務とメール作業をして、ライティングの授業。この授業がなんだかんだ言って一番楽しい疑惑。29日の食事会に関して、こまごまと作業。私は、店の選定役には向いていないと思う。文学部の教務課で証明書をゲットし、6限に出る前に定期券売り場へ。吉祥寺まで延ばしてくれず、断念。若干遅刻して6限に出たら、資料をもらえず,理解が及ばなかった。残念。S学部ゼミのコンパがあり、二次会の誘いを受けるが、さすがに家にいたので断念。まさかの麦とは。オバマ-安倍共同会見を途中まで見て作業に戻り、就寝。

29日(水)
一日研究室で作業、のつもりが食堂が閉まっており寝坊。11時半に到着。昼食はインドカレー。まずまずの進捗を経て、渋谷へ。

神泉近くのイタリアンにて、IHS2期生で食事会。最終的に8名集まり無事終了。自分と違う専門の人の話を聞くのは勉強になるし、考え直す部分もある。料理もおいしくて、紹介してくれたおーわ氏に感謝。女性が多かったこともあり、男女差別やジェンダーの話へ。こういった話について、少しは勉強してきたつもりになっていたけど,何を最初に読めばいいですかと聞かれて、思いつかなかったので、今後は興味がある、くらいに言い直そうと思った。自分の専門とする分野に関しては、これから何か読もうとする人に、薦められる本を三冊くらい思いつくことができるというのは、それを専門としていることの一つの基準になるかもしれないと思った。

東大に関しては、この15年の間、学部の女子比率が20%前後で推移している。行動シナリオにて、2020年までに女子比率を3割にすると宣言したけど、率直にいって不可能に近い。この問題に関しては、学生側が組織をつくって、大学や外部に対して主張していくことも必要だろうなと思う。店は雰囲気もよく、値段も高くない(一人三千円で済んだ)。

30日(木)
1−2限の長丁場のあと、三友館で鬼のように寝る。予習を済ませ、5限に出ようとしたが、授業内容的に回避。できた時間を、分析に費やす。おにぎり290円、飲み物2本で230円、メトロで340円、最後にローソンでアイス170円。おまけに自転車駐輪200円。無駄遣いの多い一日だった。反省。



April 26, 2015

多様性とソーシャル・キャピタルの関係

 近年、エスニシティの多様性がコミュニティの結束(Community cohesion)に対してどのような影響を与えるかが検討されている。従来の議論では、ある集団内で自分と異なるバックグラウンドを持つ他者と交流(インタラクション)することで、集団外にもその効果が波及するという接触仮説と近隣環境において人種の多様性が増すことが信頼の低下を招くという紛争仮説が対立する形で存在している(Stolle, Soroka, and Johnston 2008)。パットナム(R. D. Putnam)はソーシャル・キャピタルにおけるボンディングとブリッジングの区別をこの分野に応用して、接触仮説からは多様性(正確には異なるバックグラウンドの人とのインタラクション)がin-groupout-groupの区別を失くすという想定が導け、紛争仮説からはin-group内のボンディングSCが醸成されるという想定が導かれる。パットナムによれば、先行研究の知見は紛争仮説を支持するものだが、これらの研究はout-groupに対する姿勢のみをたずね、in-groupへの姿勢はそれに反転するという暗黙の前提を置いていたとする。パットナムはconstrict theory、すなわちエスニシティの多様性はin-groupout-group双方の信頼を衰退させるという仮説を提示し、実証データを用いてこれが支持できると論ずる(Putnam 2007)。パットナムの論文は、仮説レベルではコンタクトから信頼が形成されるとしているものの、分析のレベルでは、信頼と多様性のみの関係を扱っており、接触仮説の想定を無視していると言わざるを得ない。他にも、均質性の信頼に対するポジティブな効果は確認されているものの、これは教育の与える効果より小さく、変数の重要性に関する議論を省略しているため説得力に欠ける。また、エスニシティの多様性とcivic engamgementのネガティブな関係についても、先行研究同士で意見が対立する箇所を無視しているなど、この分析結果だけから、経験的にこの命題を支持することは難しい。

 それでも、数多くの経験的研究がこのパットナム命題(Putnam Thesis)を検討している。分析では、コミュニティ内における人種の多様性と、実際に異なる人種的背景を持つ人とのインタラクションの二つの側面の違いに注意を向ける必要がある。Stolle, Soroka, and Johnston (2008)では、既存のデータからは都市レベルでのコンテクスト効果(人種の多様性)しか測れず、地区レベルでのコンテクスト効果、及びインタラクションの側面を見逃しているという説明が存在する。この論文ではセンサスデータを用いて地区レベルの多様性を測ることに成功している。分析の結果、米加両方のデータで回答者がマイノリティの場合に信頼が低くなること、及び対象者の周りの人種の多様性は両国、特にカナダのデータで信頼に対してネガティブに働くこと、カナダのみにおいてインタラクションがポジティブな効果を持つことが分かった。個人レベルのネットワークを調査したアメリカデータの分析(対象はマジョリティのみ)から、地区レベルでの多様性は個人のネットワークにおける多様性の変数を投入することで有意ではなくなる。また、近隣の多様性と近隣との会話が交互作用を持つことが分かり、インタラクションを持たない人は、近隣の人種の多様性は信頼に対してマイナスに働く一方、近隣の人と話す人にとっては人種の多様性はマイナスには働かないことが分かった。

 Eurobarometerのデータを用いたGesthuizen, van der Meer, and Scheepers (2009)では、パットナムの議論は移民が増加するという時間的な側面を省略しているとし、通時的な移民の流入を仮説に加えている。この他、先行研究の知見から、経済的な不平等、社会保障、民主主義の歴史とSCの関係について仮説を立てている。分析の結果、エスニシティの多様性指標はSCに対してネガティブな影響を持たず、その代わりに経済的な不平等と民主主義の歴史が各国のSCの違いを説明するとしている。Boyas and Sharpe (2010)では、人種間の信頼関係について注目する。従属変数には、白人、アフリカ系、アジア系、そしてラテン(ヒスパニック)系の四つのエスニシティそれぞれへの信頼を尋ねた質問が合成されて用いられ、独立変数には個人の社会経済的な属性の他、調査の対象となったアフリカ系、ヒスパニック系、そして白人の三つのエスニシティがカテゴリとして採用されている。分析の結果、ラテン系が最もエスニシティへの信頼が低く、いちばん高いのは白人だった。全体サンプルにおける重回帰分析では、エスニシティと教育の効果が最も大きく、他に差別の経験、収入、居住期間が有意なものとして続いた。続いて、サンプルを三つのエスニシティに分けた分析では、ラテン系で収入が、白人で教育と差別の経験、そして居住期間が効果を持つ。アフリカ系に関しては教育、差別の経験、居住期間が5%水準で有意なことが分かっている。エスニシティ間で信頼を規定する要因が異なることを示唆している。Fieldhouse and Cutts (2010)も米英のデータの比較を通じて、エスニシティ間における人種の多様性と信頼の関係の違いについて考察している。紛争仮説と接触仮説に加えて、筆者らは多様性は白人のSC(信頼と社会参加)醸成にマイナスに働く、及びマイノリティグループにおいてSCと多様性の交互作用が見られるという仮説を設定した。交互作用に関しては、信頼に関してはイギリスのデータからは概ね仮説を支持する結果が導かれた。ただしアメリカデータに関しても傾向としては白人においては信頼と多様性のネガティブな関係、そしてそれがマイノリティには当てはまらないことが分かっている。社会参加に関しては両国で白人ではなくマイノリティBlack britishにおける多様性とのネガティブな関係が見られるが、アメリカに関しては近隣レベルの変数を投入することで相殺され、交互作用の仮説はイギリスのデータで支持された。

 人種の多様性と関連する居住の分離 (segregation)が一般的信頼を低下させるものだと主張する研究も存在する。Uslaner (2011)ではアメリカのデータと、これに比べればsegregationが起こっていないと考えられるイギリスのデータを用いて比較分析をする。多様性は全回答者をサンプルにした場合及び、白人の時に信頼に対してマイナスに働く。さらに、segregationと多様性には交互作用が確認され、多様性があり統合されているとに比べ、ただ統合されている都市に置ける信頼は低くなることが分かった。ただし、対象を全回答者ではなく特定のエスニシティにした時に効果は消え、さらに交互作用項同士の多重共線性もあるためだとされる。

 Porte and Vickstrom (2011)では、パットナムが主張したエスニシティの多様性とSCのネガティブな関係について因果的な問題から出発して批判的な検討をしている。まず、SCとその結果とパットナムが主張している5つの変数の関係が検討され、それらの一部が見せかけの相関であることが示唆される。統制変数を設けた分析から、テストスコア、貧困率、一人親の世帯率に対してSCは効果を持たず、経済的不平等のみが因果的に見せかせではないことが示唆されている。特に、貧困率のような問題に対してはSCではなく経済的不平等のような構造的な変数の方が影響力を持つという主張は説得的だ。次に、州レベルのSCを従属変数にした分析から、経済的不平等は有意な値を示さず、その代わりに大学生の比率がプラスに、黒人の割合がマイナスに、スカンジナビア系移民の割合がプラスに働くことが分かった。特に最後の箇所は移民という歴史的な変遷の詳細を見ていくとasociational lifeの度合いに違いがあることを示唆している。次に、ポルテスらはパットナムのエスニシティの多様性とSCの関係について、経験的な証拠に乏しいこと、さらに多様性ではなく、コミュニティの構造的な不平等やsegregationSCに影響を与えていると見るべきだとする。最後に、ポルテスらは、デュルケムの有機的連帯、機械的連帯の違いとコミュニタリアニズムの有無から4つのセルを作り出し、パットナムらが理想とするコミュニタリア二スティックな社会は、デュルケムが機械的連帯の概念で説明したような、均質的で誰もがお互いを見知っているような伝統社会に近いことを示唆する。筆者らは分業と個人主義が進んだとしても、それらをまとめあげるようなinstitutionが存在する社会では有機的連帯が成り立つことを主張し、パットナムの主張を相対化している。

 Lawrence (2013a)では、エスニシティの多様性が人種間への態度を悪化させるという主張に対して提出された接触仮説と紛争仮説の検討を行っている。筆者は分析から、多様性の増加は二つの仮説が想定した事態をともに起こす可能性を示唆する。たしかに、多様性の増加は人種の違いを尊重するか、異なるバックグラウンドのものと上手くやって行けるかなどの意見に対してネガティブに働き、コミュニティ内の非白人の比率が上がるにつれその効果も大きくなるがが、これは異なるエスニシティとつながりを持たないものだけであるという。個人のコンタクトがコミュニティの多様性がもたらすネガティブな側面を減少させるが、コミュニティが構造的な不平等にさらされている場合、両者の差は大きくなる。構造的な不平等がないコミュニティの場合、非白人の割合が増加してもコンタクトの有無が持つ違いは大きくないが、不平等がある場合には、脅威仮説が成立することが示唆されている。また、Lawrence (2013b)では、これまでの先行研究がattitudinalSCに限った、しかもそれが近隣に対するものに限っていたことを批判する。その上で、分析では社会ネットワークという行動的な側面を追加し、(1)多様性の増加は社会的ネットワークにも影響を与えるか(2)多様性の増加は社会ネットワーク全体か、それとも近隣のネットワークを衰退させるか、以上の二つを検討している。分析の結果、多様性は近隣レベルでの信頼とネットワークを衰退させるが、個人のネットワーク全体には影響を及ぼさない。人種が多様なコミュニティに住むものはネットワークのサイズは均質的なコミュニティと変わらないが、近隣を中心としたネットワークを持たないということだ。ただし、これは個人の移動する能力に依存していることが示唆され、多様性のある地域にいる高齢者は広範なネットワークを構築しづらいことが指摘される。


Fieldhouse, E., and D. Cutts. 2010. “Does Diversity Damage Social Capital? a Comparative Study of Neighbourhood Diversity and Social Capital in the US and Britain.” Canadian Journal of Political Science 43(2):289–318.
Putnam, R. D. 2007. “E Pluribus Unum: Diversity and Community in the Twenty‐First Century the 2006 Johan Skytte Prize Lecture.” Scandinavian Political Studies 30(2):137–74.
Stolle, D., S. Soroka, and R. Johnston. 2008. “When Does Diversity Erode Trust? Neighborhood Diversity, Interpersonal Trust and the Mediating Effect of Social Interactions.” Political Studies 56(1):57–75.
Uslaner, E. M. 2011. “Trust, Diversity, and Segregation in the United States and the United Kingdom1.” Comparative Sociology 10(2):221–47.
Portes, A., & Vickstrom, E. 2011. Diversity, social capital, and cohesion. Annual Review of Sociology, 37, 461-479.
Laurence, J. (2013a). Reconciling the contact and threat hypotheses: does ethnic diversity strengthen or weaken community inter-ethnic relations?. Ethnic and Racial Studies, (ahead-of-print), 1-22.
Laurence, J. (2013b). “Hunkering Down or Hunkering Away?” The Effect of Community Ethnic Diversity on Residents' Social Networks. Journal of Elections, Public Opinion & Parties, 23(3), 255-278.
Gesthuizen, M., T. van der Meer, and P. Scheepers. 2009. “Ethnic Diversity and Social Capital in Europe: Tests of Putnam's Thesis in European Countries.” Scandinavian Political Studies 32(2):121–42.

Boyas, J., and T. L. Sharpe. 2010. “Racial and Ethnic Determinants of Interracial and Ethnic Trust.” Journal of Human Behavior in the Social Environment 20(5):618–36.

April 24, 2015

4月23-24日

一日遅れで日記を書いてしまった言い訳を話すと、最近、駒場から家に帰る機会が多くなり、今週に関しては月火水がそうだった。井の頭線は二十分ほど座れるので、ちょうど日記を書く時間に適している。反対に、中央線では座れる確率は低いので...とうもの。


二限の文献が読み終わらず、少し遅刻して参加。クワインのホーリズムの議論及び、社会学における理論と実証の関係。メモをきちんとノートに書き直した。勉強になるゼミである。1時過ぎにマンチェスター時代に知り合った友人とご飯。東大に始めてきた人独特の悩みを聞く。終了後、イベントヒストリの勉強会(ほんと復しゅうしないと...)、その後とし経済学。

土曜日は、午前一一時まで勉強や部屋の片付け、選択をして、午後から作業、の前に寿司を頂く。六時過ぎに終わり、有楽町と吉祥寺で、文房具や母の日のプレゼント等考える。しばらく全休という日はなく、あっても午前中予定ないとか、午後六時以降暇とかそういうのなので、うまく息抜きしないといけない。買い物するのも二週間ぶりくらいだったので、いい気分転換になった。

帰宅後、面接に通っていたことがわかる。この手のプログラムでは、選ぶ側の論理としては既に経験がある人(安牌)を選ぶのが理にかなっている。入学当初から時間が経てば立つほど、実は新参者にはハードルが高くなる構造。有利さの蓄積といってよいのか。つまりスタートラインは同じじゃない。個人にとっては、後になって後悔しないよう、早い段階からご利益があると思って行動することも必要かも知れない。大学としては、この手のプログラムや奨学金を、より幅広くする必要がある。

April 22, 2015

4月22日

最近、演習でも文字通り「演技」をしているのではないかという錯覚に陥る。自分が本当に思っていることではなくて、場の空気を読んだりしてきわめて月並みなことを言ってしまっている。勿論、議論の流れを読んで発言することは大切で、その意味では昔に比べて暴走しなくなっただけマシかなと思ったりもするが、最近は少しやりすぎなような気がする。
今日の午前中の授業ではそうでもなく、話したいように話していたとは思う。ただ、午後の勉強会の時の方が、自由に話せていた自分を感じ、やはり先生がいる前や批判されたくないと思った時等は,保守的になってしまうのかも知れない。これを強く感じたのは、夜に合った面接だった。最近、面接が続くこともあり、段々と面接慣れしてきたかもしれない。もちろん。就活で私の何倍も面接を経験する人はいるのだが、そのくらいのレベルになると、慣れというレベルを通り越して、面接疲れになるのかも知れない。自分はその意味では,まだまだかも。


いずれにせよ、今日の計量研は久々に自分の頭で考えている気がして、楽しかった。授業では、どちらかというと、規範的な答えを言っている気がする。一般的にはこう考えるだとか、そういう意味で、何かしらの空気を,官僚答弁みたいに言っているような気がする。今日は1、2、3限と続いた後すぐ研究会で、その足で駒場へ向かって面接だったので、ほとほと疲れた、と夜八時の井の頭線の中で今日の日記を閉じる。

April 21, 2015

4月21日

 家を出る前にいくつか用事ができてしまい、二限には20分ほど遅刻して登校、クロス表についての授業だったが、勉強になることもあった。終了後、権兵衛のおにぎりを二個教育学部の学部生室でとり、院生室へ、院ゼミの関連文献を三つ落として、読む。途中で眠くなり、三友館で昼寝。その後、基礎形態や科学哲学の本を読んで、英語のライティングへ。いくつかのスタイルについての話、意外と女性が多いことに気づく。終了後、コンビニでパンを買って駒場へ。教務課は閉まっていたが、事務所の方は開いており書類の提出。少しややこしいことになったので、先生に相談する一幕も。意外と手続きが難しい。五限の授業のときには、少々疲れがたまっていた。終了後、Kと山手でラーメン。何を話したのかいまいち覚えていないくらいには疲れている。帰寮後、すぐお風呂に入って、有田先生の博論やOUP very short introduction “Multicultulalism”、読んだ文献のまとめと明日のリーディングなど。明日は一限から三限まで、その後に研究会。

April 20, 2015

4月15日-20日

4月15日からおよそ1週間の記録がなかったようで、一言で言うと忙しく時間が取れなかった。


(遥か前の記憶だが)15日は一限に質的研究法、文献を読みながらインタビューの手法についての議論。個人的に気になったのが、フィールドノーツという言葉で、いくらかメモにした。2限に方法基礎で研究倫理に関する本を要約した。明日も含めて、研究倫理に触れる機会が多い修士一年目の四月。業績主義の流れは、あまりベテラン層の中では共有されていないのかも知れない。3限は社会調査法、授業の仕方が相変わらず参考になる。途中で、理論仮説から作業仮説に落とす時の例を見せて,その戦略のどこが駄目なのかを考えさせる時間がよかった.来週は課題文献がある。その後、労働経済学の教科書を「読む」勉強会に参加して、終了後ひょんなことからdgc先生の野暮用をお手伝い。結果として、tkgw先生から「研究道」頂くことに。研究道極めたいと思います。ありがとうございます。(評判で増刷とのことです。)終了後、駒場へ。Kと一緒に駒鉄でつけ麺を食べて帰宅。

16日も三コマ。一限は9時からで、院ゼミ。グラノベッタ―の文献で、まりもがinstitutional networkに関心を持ったくらいか。労働市場には疎いので,どう議論に入るか思案中。二限もゼミで、先生の書かれた科学と社会の関係についての論文を基に議論。覚えているのは、学術研究の共同体は壊そうと思えばすぐ壊せるし、しかしその微妙なバランスの中で維持されるものであるということ。終了後、駒場で同じクラスだった友人と3年ぶりにランチ、引き続き個人事業主を続けているらしい。ランチは四川料理の栄児(ロンアール)、友人に勧められるがまま汁無し担々麺を頼む。舌がしびれる辛さで、割と好みだった。どんなメニューでも、水餃子が食べ放題。その後、都市経済学の授業に出て(出ながら)、院生室でデータ構築。後にミスが発覚するが、その日は有意義だと思って12時頃に寮に着く。気分が良かったので紹興酒で一杯。一年の中でも相当過ごしやすい日だったかもしれない、夜も涼しくて井の頭公園歩いててとても心地よかった。

17日は12時に竹橋のKKRホテルで某経済学の大家の先生の講演。終了後、ボスと先生の三人でお茶をする。貴重な時間だった。意外と可愛い一面も。終了後、FCCJで作業。夜ご飯にグリルドポークとキンキンに冷えたビールで祝われる。

18日は駒場で午前中に授業を受け、食堂でお昼を食べ、生協購買部と書籍部をぶらぶらした後、図書館で新聞雑誌を読む。久しぶりの駒場的生活で少し不自然。こういうルートが自然に歩いているとできてしまうキャンパスのつくりはいいなと思う。日経の女性面の記事と読売国際面のサーカスの記事が気になった。エコノミストと中央公論の増田・白波瀬対談をちらちら。映画を見て帰るつもりが、その後コンパという駒場的展開。神泉の中華料理で、およそ紹興酒ボトル一本、二次会でハイボール。先生方がみな優しく、参加できてよかった。

19日の日曜日は午後の予定まで時間があったので、JAGES研究会に途中まで参加。健康アウトカムとSC以外にも、生活行動や地理情報もあってやはり面白そう。発表では、同じものを違う言葉で使ってるあるあるを散見。お昼を食べながら、院生室でデータ構築を再開するが、ミスが発覚。タダの勘違いだったので修正した。結局、SPSSよりもSTATAの方が、分析に間隔をあけない場合にはやりやすいのではないかという結論。帰宅後、夏の予定を埋めるための事務作業。履修登録など。割りと破壊的なスケジュールであることに少し驚く。


20日は、午後まで新宿で作業した後、タクシーで駒場まで。オリンピックセンターを通ったとき、京論壇を思い出して、無性に懐かしくなった。概論のガイダンスに出席後、図書館で新聞や先日購入した雑誌統計等を読み、帰宅。久しぶりの寮での夜ご飯は牛丼だった。1TBのポータブルHDDが届いたのでiPhotoの写真を移行したり、リーディングを紹介して、これから床に着く。

S院ゼミ第二回 Kalleberg (2003) Flexible firms and labor market segmentation effects of workplace restructuring on jobs and workers.

課題文献②

Introduction

  • Precarious work: 労働者の観点から見て不透明、将来の予測が難しい、そしてリスキーな雇用。
  • Precarious workは必ずしも現代に新しいものではないが、1970年代以降この言葉は注目を集めている。Precarious workは社会学者の関心となる多くの領域に対して影響を与える。

アメリカにおけるPrecarious work増加の背景

  • オイルショック等のマクロ的な経済変化によって生じた世界的な価格競争、新自由主義の元での経済のグローバル化。
  • 労働組合の衰退や政府の規制の変化などの法律や制度の影響
  • レーガン政権の登場、個人主義や個人の責任を追及するイデオロギー的な変化
  • 知識集約的なサービスセクターの台頭。

Precarityの文脈
ポランニの「大転換」におけるdouble movementの理論(securityとflexibilityの振り子)
安定した時代の方が珍しい。the postwar period was unusual for its sustained growth and stability。それでは戦前と何が異なるのか?

  • グローバル化によるSpatialization
  • サービスセクターの台頭
  • レイオフ
  • イデオロギーの欠如
  • かつては二重労働市場であったが、現在では管理や専門職にもPrecarious workが浸透している(本当?)


アメリカにおけるPrecarious work増加の証拠

  • 平均雇用期間の減少
  • 失業の長期化
  • 仕事の不安定性の自己評価の増加
  • non-standard とcontingent workの増加(両者の差異)
  • 雇用者から労働者へのリスクの移行


Precarious workの結果

→経済的不平等や不透明性・不安定性の増加

ひとまずメモ
ひとまず、グローバル化は進行し続けることを前提に、子の議論を考えなくては行けない。
日本では、専門職の非正規化が進んでいるという印象を持っていないのだが、労働力調査等見る必要があるか。


課題文献①
Kalleberg, A. L. (2003). Flexible firms and labor market segmentation effects of workplace restructuring on jobs and workers. Work and occupations, 30(2), 154-175.

 近年、多くの企業が労働者の人員を整理し、生産過程における柔軟性を確保しようとしている。柔軟性を獲得する戦略としては、フルタイムではない、非標準的な労働者を随時雇用することで受容に対応する方法がある。こうした柔軟化が組織の生産性に結びついているかについては論争が有賀、この戦略の結果、多くの非典型的な仕事につく人が増えてきている。しかし、これまでの先行研究は雇用者と労働者双方にとって、こうした形態の仕事が増加することもマイナス面について言及してこなかった。
 こうした非標準的な仕事の登場に関しては、Atkinsonのcore-peripheryモデルが理論的な背景となる。この理論が予想するように、企業が柔軟化を志向すると、フルタイムで安定した雇用を持つインサイダーと、非正規雇用で待遇の悪いアウトサイダーに分かれる。この結果形成される労働市場をデュアリズムと呼ぶことが出来る。労働者が、こうした潮流から利益を得られるかどうかは、彼等がつく仕事におけるコントロールをどれだけ持っているかによるとされる(loyality rent)。最後に、こうした職業と仕事上の質に関係があると主張される。
 

Goldthorpe, J. H. (1984). The end of convergence: Corporatist and dualist tendencies in modern Western societies. In J. H. Goldthorpe (Ed.), Order and conflict in contemporary capitalism (pp. 315-343). New York: Oxford University Press.

いわゆる「収斂の終焉」論文。Kerrらの資本主義収斂理論に対して、西欧ではコーポラティズムとデュアリズムの分化が起こっていると主張する。デュアリズムでは、労働市場間に移動障壁があり、下層市場の労働者は調整されやすい。西欧のデュアリズムの場合、下層市場には移民労働力が当てられる。太郎丸先生が言うように、この論文では収斂理論を経験的に検証していない。Kallebergなどは、この議論を前提に(アメリカではデュアリズムであるという前提で)議論を進めているが、アメリカでは、移民が下層市場の労働力となっているという西欧の事情と差異があるのだろうか。日本では、デュアリズムの顛末として非正規雇用の増加が挙げられると思うが、各国で、排除される労働市場を構成する人々の特性は異なると考えられる。デュアリズムについては、以下も参照。

樽本英樹. 1995. 「デュアリズムからの脱却の可能性-エスニック階層論の展開」. 『ソシオロゴス』19号.

Kalleberg, A. L. (2000). Nonstandard employment relations: Part-time, temporary, and contractwork. Annual Review of Sociology, 26, 341-365.

非標準的な雇用の形(パートタイム、期間雇用、契約雇用)は仕事と雇用の関係についての研究において、注目を集めてきた。70年代以降のヨーロッパで進行した経済不況による労働市場の変化や新自由主義的な経済の中で、こうした雇用形態は柔軟性に富むものとして評価されることもある。こうした職業が持つ共通点は、フルタイムで、継続就業が期待され、雇用者のもとで監督されるという標準的な労働者との対比から発している。歴史的に見れば、標準的で階層的な雇用関係の方が普遍的ではなく、非標準的な雇用関係は決して新しいものではない。このレビュー論文では、近年の非標準的な雇用形態の近年の研究動向をまとめている。論文では、パートタイム、外部化された雇用として一時的支援(派遣)、契約雇用が、そして短期雇用とcontingent work(訳せないが、定義によれば明確不明確にかかわらず長期間の契約を持っていない、ないし最低賃金が不規則に変化する労働のこと)、独立契約者の五つを紹介し、これらの時系列的な割合の変化、構成する人々の特徴、仕事の質(給料等)との関連について言及している。
 非標準的な職業の登場に対する関心や論争は、こうした職業が割の悪い仕事(bad jobs)と関連するという想定のもと行われている。この点に関しては、まだ論争に決着がついていない。ただし、共通するのは非標準的な仕事には、健康保険や年金、付加給付の欠如が指摘されている。アメリカでは、個人の職業が資源の供給源であることを考えると、この点は今後問題になっていく可能性があると思われる。
 近年、こうした職業の管理方法として、複数の雇用者による労働者との共同契約などが見られている。労働者を雇用者から分離するようなことは、労働組合の結成にはマイナスで、今後はこうした1対1から脱した形の仕事形態の増加の意味について問う必要がある。
 最後に、筆者は一体どのような条件のもとで組織は労働力を外部化し、デュアリズム的な労働市場を形成するかの説明が求められているとする。

Kalleberg, A. L., Reskin, B. F., & Hudson, K. (2000). Bad jobs in America: Standard and non-standard employment relations and job quality in the United States. American Sociological Review, 65, 256-278.

アメリカでは1970年台からgood jobsとbad jobsの研究がされてきた。労働市場においてbad jobsがあることは新しいことではない。19世紀からこうした周辺的な労働は存在した。恐慌期などはこうした労働が増えたが、徐々に労働組合の組織化や政府の政策によって雇用者が支配が緩んできた。40年代以降、bad jobsに対するgood jobsの割合は増えていき、多くの先進諸国において、フルタイム雇用というのはひとつの規範でもあった。ここで、雇用の構造と仕事の質の関係はまだ問われていない。そもそも、何が標準雇用かという合意はまだとれてすらいない。

Sørensen, A. B. (1996). The structural basis of social inequality. American Journal of Sociology, 101, 1333-1365.


統計的進歩の裏で理論的な試みはされてこなかった。経済学が収入などから不平等について定義するのに対して、社会学者は構造的な変数を志向する。例えば、社会学では収入や賃金の形成において社会構造の位置が重要になるのではないかと問う。したがって(?)構造的効果は内的な要因と考えることができる。構造的な変数を重視した理論としては、マルクス主義階級理論が考えられるが、経験的なデータとフィットしない。本研究では、個々人の行動とは独立のレベルで生じる位置による分配について扱う。
この研究では、レントを構造的特徴から得られる利益として定義する。古典的経済学者の中ではレントの概念の使用を拒否するものもいた。リカードなど経済学では、レントは土地や農業と結びついてきたため、無視されてきた。しかし、レントは労働市場の中でも生じうる。

様々なレントとして...(以下続く)

Tilly, C. (1996). Half a job: Bad and good part-time jobs in a changing labor market. Philadel- phia: Temple University Press.


コメント、疑問点
contingent workをどう訳すか。日本ではどのような職業が該当するか。contingent workを非標準的雇用全体を指すものとして捉えるか、それともその中の一つのタイプとしてみなすかについては、記述に揺れがあって定まっていないのかもしれない。
corporatismとdualismの区別。その上で、日本はdualismなのだろうか。
広く日本の知見を知りたい。例えば、具体的にどの職業で非正規化が進んでいるのだろうか。また、日本の労働市場ではtemporabilityはどの程度重要なのだろうか。
やはり、どのような条件のもとで組織は労働力を外部化し、デュアリズム的な労働市場を形成するかについて、説明を考えていく必要があるだろう。




April 14, 2015

4月14日

4日ぶりに学校に行くと、ぶらぶら歩いているだけで色々と発見する。

二限は教育学部での二次分析の授業。SSJDAの説明や、尺度のあれこれについて。来週は電卓が必要。地下実験室でおにぎりを二つ食べて、院生室にて4限までリーディングを消化。明日の質的研究法のインタビューの文献(およそ4章)と木曜日のゼミの文献(10数ページ)。加えて、The noise trader approach to financeを軽く読むが、専門用語に苦しむ。

英語ライティングの選抜に通っていたので、4限は上級アカデミックライティングに参加。20人の登録者の中で、日本人は7人、およそ3分の2は留学生で、英語のライティングの勉強だが、勿論英語でコミュニケーションをとるリハビリにもなる。最初はおっくうだけど、慣れればこういうのは楽しい。何より、先学期より引き続いて同じ先生に見てもらう安心感がある。ワークショップの原稿ではかなりお世話になった。この授業は自分が書いている論文を添削してくれるのがよい。いい先生。次週までに教科書を用意。

終了後、銀行で「統計」の振込を終え、生協で甘いものと切手を買って学部生室に。その後、文学部図書館にて、取り寄せに時間がかかっていたが、ようやく田代志門「研究倫理とは何か」を入手。加えて、総合図書館で『現代の経済思想』 を借りる。田代本は、分かってはいたが、専ら医学分野について論じているので、独特。当たり前だけど治療と研究は別で、それぞれに異なる倫理がある、など。

研究室に配架されている雑誌から、いくつかコピーをしてみた。

永吉希久子.2014.「外国籍者への権利付与意識の規定構造―潜在クラス分析を用いたアプローチ」『理論と方法』29(2): 343-59.
佐藤俊樹.2014.「『社会学の方法的立場』をめぐる方法論的考察」,『理論と方法』29(2): 361-70.
石田浩.2014.「英語論文執筆の技法」,『理論と方法』29(1):207-218.
田渕六郎.2013.「家族研究と「親密性」」,『社会学論集』.37: 17-24.
瀧川裕貴.2014.「市場」,橋本努編『現代の経済思想』 ,425-450.
斉藤裕哉.2014.「読解力形成に与える一人親世帯の影響の検討」,『社会学論考』35: 29-44.

恐らく佐藤俊樹氏の文献は、方法基礎で必要になるだろう。コピー終了後、院生室にて明日の研究倫理のレジュメのまとめ。帰宅して、食事。韓国料理だった。そして、明日の準備。

メモ:明日の方法基礎に関しては、以下も参照。
田代志門.2006.「医療倫理における「研究と治療の区別」の歴史的意義 ─日米比較の視点から─」,『臨床倫理学』(オープンアクセス
田代志門. 2007. 「研究と診療を区別する二つのモデル : ヘルシンキ宣言からベルモント・レポートへ」.『医学哲学 医学倫理』
Shorpes, Linda. 2007. “Negotiating Institutional Review Boards.” American Historical Association Perspectives Online. 45:3. available at https://www.historians.org/publications-and-directories/perspectives-on-history/march-2007/institutional-review-boards .






April 11, 2015

S院ゼミ第一回:Granovetter (2005) The Impact of Social Structure on Economic Outcomes

文献
Granovetter, M. 2005. “The Impact of Social Structure on Economic Outcomes.” Journal of Economic Perspectives 33–50.

社会構造に「埋め込まれた」経済的行為という視点から、新しい経済社会学のプログラムを提唱した(と回顧されるだろう)グラノベッタ―の論文。以下、引用された論文のメモ。総じて、経済学的が好む分析対象に対して、社会構造(地位やネットワーク)を考慮したモデルを提示する経済社会学的な論文が多い。

Fernandez, R. M., E. J. Castilla, and P. Moore. 2000. “Social Capital at Work: Networks and Employment at a Phone Center.” American journal of sociology 1288–1356.

Freeland, R. F. 2001. The Struggle for Control of the Modern Corporation. Cambridge University Press.

Klein, B., and K. B. Leffler. 1981. “The Role of Market Forces in Assuring Contractual Performance.” The Journal of Political Economy 615–41.

Mizruchi, M. S., and L. B. Stearns. 2001. “Getting Deals Done: the Use of Social Networks in Bank Decision-Making.” American sociological review 647–71.

 この論文では、企業組織の一つとして、銀行におけるメンバーが、企業の取引先と取引を成立させる際に、ネットワークがどのように関与するかを分析している。既存の先行研究から、まず不透明性が高い場合には、既存のネットワークに頼って取引が成立することが仮説として考えられる。次に、ネットワークの構造的な特徴が取引の成功率に影響を与えるという仮説を検証している。現在の行動を条件づける、結果や先行きの不透明性をどのように減少させたり管理するかはSimon(1947)のbounded rationality以来、会社内、会社間の関係を議論する際の鍵となっている。こうした企業における不透明性は民間企業に金を融資する銀行では特に重要になってくる。先行研究から、企業はこうした不透明制を削減するために様々なネットワークを形成していることが報告されている。しかしながら、GranoveterとBurtらの研究によって、企業は不透明性を解消するために形成したネットワーク自体からも影響を受けることが示唆されている。弱い紐帯の理論を踏まえると、弱い紐帯は様々な情報が流れてくる拡散的なネットワークを形成することに寄与する。そのため、弱い紐帯に頼るという一見すると反直感的な決断が有益な結果をもたらすかも知れない。分析の結果、二つの仮説、つまり不透明制が高い場合には銀行は強く結びついている企業との取引を選択する、そしてより拡散的なネットワークにいてそれを使用した銀行員の取引が成功する傾向にあるという仮説が支持された。これは、或る種のパラドックスを意味している。つまり,不透明性が高い問題に対処しようとして信頼している企業と取引しようとすると、取引自体が成功裏に成立するとは言えなくなる可能性があるということだ。これは、行為の意図せざる結果の一つであろうと筆者達は締めくくる。

Morton, F., and J. M. Podolny. 1999. “Social Status, Entry and Predation: the Case of British Shipping Cartels 1879-1929.” The Journal of Industrial Economics.

 経済学者はそれ以外の社会科学者から、あまりにも「非社会化」された個人像を持っていると批判されてきた。こうした批判が意図しているのは、経済的な意思決定は豊かな社会的コンテクストのもとで生じ、決定自体にも影響をあたえるというものである。経済学の対象に対しても徐々に社会的な要因を組み込む努力が向けられるようになり、執筆者の一人であるMortonの研究もその一つとされる。Mortonの研究は新規参入業者に対する略奪的価格設定(Predatory pricing)に関するものであり、口述のlong purse(長財布)仮説を支持しているとされる。これによれば、経済的資源や産業内で経験がないような参入者はカルテルの憂き目に遭うという。しかし、この分析でかけていたのはカルテルに関わることになる新規参入者の社会的アイデンティティについてであるという。本論文では、新規参入者の社会的地位に着目した分析が行われる。

 略奪的価格設定に対しては、そうしたものはないとする楽観的な見方もあるが、経済学者はこれについてフォーマルなモデルを提供してきた。Ordover and Saloner (1990)によれば、略奪的価格設定には大きく分けて三つの動機、すなわちreputation, long purse そしてsignalingがあると言う。社会学では、カルテル自体には関心が向かないが、競争やコンフリクト一般に対して社会的アイデンティティといった概念から分析を加えている。この社会的アイデンティティとは、具体的に言えば行為者が様々な社会的文脈で発達させるaffiliationを意味している。例えば、reputationは参与者が積極的に価格設定に関わることで定義されるため、これも狭義の社会的アイデンティティとして考えられる。もちろん、社会的なコンテクストは複雑である。そこで、この研究では(1)参入企業の指導者の社会的地位(social status)、及び(2)会社の地域的なaffiliationを基準として操作化している。

 生産者側の市場をベースとした関係に対してsocial statusとregional affiliationの二つを導入しようとしたのがGranovetter(1995)である。彼はカルテルとしてのビジネスグループをmoral communityであるする。彼は、歴史資料の分析からrenegadeされた(追いやられた)ものがカルテルの交換を成立(set terms)させたり一方的な(片務的な)保険協約(pooling arrangements)をする能力を脅かすと主張した。これに加えて、参入者の社会的な属性が協力的か非協力的か等の判断に用いられることもある。例えば、将来の見通しが不透明な場合、自分と似ている新規参入者やネットワークの中にいるものから選ぶのはある意味で合理的な選択になる。

 このような先行研究の知見をまとめると、新規参入者と既に地位を固めた企業との対立は、挑戦者側の社会的アイデンティティ如何によってくるという可能性がある。彼等の仮説は以下のようなものである。もし新規参入者の社会的地位が低く、またグループにいる関係者の地位と異なるのであれば、よりカルテルから排除される可能性が高くなる。彼等はこの仮説を証明するためにイギリスの船業カルテルの歴史資料を例に分析を試みる。

Mouw, T. 2003. “Social Capital and Finding a Job: Do Contacts Matter?.” American sociological review 868–98.

 この論文では、就職とソーシャルネットワークの関係について、因果性の観点から検討している。グラノベッターによる弱い紐帯の研究以降、単に個人的な紐帯を利用して就職する人がどれだけいるのかという点以外にも、こうした就職がフォーマルな就職機関を通じたものより有利かどうかが検討されてきた。特に、人々の紐帯から資源を得るという視点を提供したソーシャルキャピタル(SC)の知見から、職業上の地位が高い人とつながっている場合に本人も利益を得ることが指摘されている。しかし、homophilyの考えを踏まえると、本人が良い条件の就職先を見つけることとその人のネットワークもまた良い条件の職業についている人で囲まれていることは因果性を持たないかもしれない。ネットワークはランダムには形成されないからだ。

 このように考えた筆者は、SCを就職に効果があるものと効果を持たないspurious(偽物)の二つに分けて、因果性を検討している。モデルとしては、求職者が最低限受入れることのできる賃金を設定し、その額よりも高ければオファーを受けるsequentialモデルとオファーを全て受けてから最良のものを選ぶというextensiveの二つのモデルが提示されている。分析のレベルでは、①コンタクトを通じて就職することがSCのレベルに対して内生性バイアスを持つかどうかで分かれる、さらに①に対して持たないと考えた場合には②コンタクトの効果は求職者の個人的属性に依存するかどうかでさらに二つ、合計3つに分かれた分析がされている。まずバイアスも個人属性への異存もないと考えた時の分析では、コンタクトと賃金や仕事の満足度への関係は見出せなかった。これは低賃金の人がcontactを通じた就職をするという傾向の影響を受けているかという検討がされる。失職中だったかと自分で仕事を探したかで4つの変数を加えると、雇用されていて仕事を探さずに転職した人の賃金は高くなることが分かった。(これに関しては今後の検討課題とされている。)

 次に、バイアスはないが個人属性の依存を考えた分析では、先行研究と同じモデルで検討したが、回答者とコンタクトが同様の職業の場合のサンプルを除くとコンタクトと賃金の関係は有意ではなくなったとしている。最後に、内生性バイアスを考慮したモデルでも因果性を確認することはできず、homophilyによる影響が示唆されている。(最後の部分に関しては再読)


Shleifer, A., and L. H. Summers. 1990. “The Noise Trader Approach to Finance.” Journal of Economic Perspectives 19–33.

April 8, 2015

4月8日

一限に10分ほど遅刻して(雨で電車が遅れたのが5分くらいの遅れを説明している)、質的調査法の授業。インタビューの作法、心の習慣、現代日本人の生のゆくえ報告書といくようだ。継いで方法基礎。感じたことは後述のとおり。昼休みは研究室で弁当を軽く済ませ、三限は社会調査法。一から小規模データを構築し、クロス表レベルで分析するまでのプロセスということで、応用的な志向を持つ人には向いていないとのこと。私としては、Stata要員としてでもいいので、受けようか考えている。

授業終了後、社研にSageの緑本を借りにいき、学部生室で少し談笑したあとコピー、その後三友館で論文を読み、20分昼寝をして、再び論文を読む。6時半に休憩に入り、スキャンをした後にコンビニで甘いものを買って、院生室で食べながら作業。帰宅後、ぐだぐだする。GREなどをやる時間にしなくてはいけない、、。


私は日々慎ましく社会学で用いられる計量分析の手法を学びながら、自分の専門に関連する文献や因果関係について考えており、やはり周りに優れた友人たちが多いのに救われていて、幸せだなと思う。私の肌感覚だと、やはり計量や統計に明るい人は周りに多く、手続き的にしっかりした、ある種綺麗な論文を書ける人はうちの研究室に限らず、比教社や、東北の行動科学、教育、大阪の人間科学などに結構おり、もちろん法政研や経済、公衆衛生にもいる。それは嬉しい反面、少し困る訳でもある。

方法の普遍性は広いと思っていて、それが統計をやっていることの強みの一つだと考えている。分野が違っても、分析手法が共通でそれを知っていれば、一応どういう作業をやっているか、分かるからだ。困るのは、彼等と比べて、我々には何があるんだろうと、方法だけで競ってどうなるんだろうと。答えらしい答えもないし、別に領域に限定する必要はなく、できる人は飛び抜けてできるのだから気にする必要もないかなと思うが、最近、近接分野の人と話してて考えるのは、社会学、とりわけ我々の研究室の人は、理論的な問題にも関心があるのかなということ。

今日の方法基礎で先生が話されたように、我々の研究室には、よいか悪いか別として、完成された小さな論文よりは、未完成なままの大きな論文を評価する寛大さがあることも事実のようである。昨今の業績主義の流れに抗えないとすれば、短いサイクルで手堅い論文を書く必要が出てくると思うが、その一方で、我々は小さな論文や修論をやりくりしつつ、その人にしかできないようなオリジナルで大きな問いを立てることも、社会学という学問を一度俯瞰してみると、必要なのではないかと考えている。

もちろん(これも先生が仰ってましたが)書ける論文と書きたい論文は別なのだが、だからといって二兎を追うのを諦める由はない。我々は生きてくために書ける論文を書きながら、いつか書けるだろうと思って諦められないようなテーマで論文を書くことを忘れてはならないなと思った。そういう意味で、大きな問いを立てている人には、この研究室は向いているかもしれないが、手堅い事実の積み重ねという(これはこれで科学者的な態度だと思うけれど)そういう考えを選ぶ人には、他の研究室が「隣の青い芝」に見えるかもしれない。というのも、この研究室が、そうした人を養成する機関という性格を、余り持っていないからです。

業績主義的なサイクルに乗る研究室では、修士のうちからパブリッシュを強く推すだろう。東北や大阪の院生が業績だらけに見えるのは、研究室・講座のそういう性格もあるかもしれない。一方で、我々の研究室では、先生の方から、修士から論文を書いたり発表をしろとはあまり言わない。本人達も、放牧ぎみなのを前提に勉強していたりする。そういう業績主義に抗ってきたかわりに、学生の自主性や、大きな問いを自ら立てることに、この研究室は寛容すぎるほどに寛容なのだと最近思うに至った。私個人としては、そちらの方が大学としての理念にも適っているような気もするが、時代が時代なので、業績主義を批判的に見ながらも、それに適応して、うまくやっていく(具体的には博士を5年でとったり)必要がある。

ということを方法基礎や論文読んだりして思いました。淡々とした一日。


April 7, 2015

4月7日

二限の授業まで時間があったが、10時から健康診断の予約があるため、それまでには大学についていようと言うことで、少し早めに家を出る。予約後、二限の授業へ。一応社会調査の分析の基礎からということだが、大半はすでに社会調査士科目を一通り履修していた人なので、すこし内容は変わるかも知れない。高ゼミの先輩で、昨年新書を出された方がいた。

授業が早々に終わり、延滞していた本を返したり、発注していた名刺を生協にとりにいったりしていた。昼休みは、明治で人口学をやっている友人とランチ。後に挙げる文献のほか、面白そうなデータなど、色々と議論ができたのでメモにまとめておこうと思う。

その後、四限にアカデミックライティング、終了後、院生室でひたすらログリニアの論文を読む。

今日読んだ論文では、HoutとXieの説明が分かりやすかった。Mobility Tablesは分かりやすいだろうか(買おうかな)。今日の驚きは、駒場の英語以来お世話になってる石井クンツ先生が、アメリカ時代に書かれたログリニアの教科書を見つけたことだった。

人口学との彼との話で、いくつかデータを教えてもらった。まず、国連ヨーロッパ経済委員会が企画している、世代とジェンダーに注目したパネル調査がある。GGPといって、調査名はGGS(Generations and Gender Survey), 日本データはJGGSとなっていて、紛らわしいかもしれない。基本的にはヨーロッパ諸国の調査で、比較として日本とオーストラリアが入っている。これは、結構いいデータかも知れない。しかし、公式のページに日本の調査の概要説明がなく、どこが企画・実施しているか調べる必要があった。知った、彼自身はヨーロッパに住む50歳以上の人を対象にしたSHAREを分析しているらしい。最後に教えてくれたのは、こちらも国連ヨーロッパ経済委員会が企画しているFertility and Family Survey (FFS) 、色々あるのだなと。



Duncan, O. D. 1979. “How Destination Depends on Origin in the Occupational Mobility Table.” American journal of sociology 793–803.
Goodman, L. A. 1973. “The Analysis of Multidimensional Contingency Tables When Some Variables Are Posterior to Others: a Modified Path Analysis Approach.” Biometrika 60(1):179–92.
Hout, M. 1984b. “Status, Autonomy, and Training in Occupational Mobility.” American journal of sociology 1379–1409.
Sobel, M. E. 1981. “Diagonal Mobility Models: a Substantively Motivated Class of Designs for the Analysis of Mobility Effects.” American sociological review 893–906.
Xie, Y. 1992. “The Log-Multiplicative Layer Effect Model for Comparing Mobility Tables.” American sociological review 380–95.
Yamaguchi, K. 1987. “Models for Comparing Mobility Tables: Toward Parsimony and Substance.” American sociological review 482–94.

以下、彼に教えてもらった文献(Raymo et al.はEsping‐Andersen and Billariに引用されていた)。Esping‐Andersen and Billariは男性稼ぎ主モデルから、女性の革命期に入って、現在は革命を脱した国もあれば、過渡期の先進国もあるという。これを過ぎれば、出生率などは回復するということだが、彼との話では、全ての国がブレッドウィナーモデルに当てはまらないだろうという点で、ここがReherと関わってくる。彼によれば、スペインなどはインフォーマルセクターに対する女性の労働進出が多く、これは公式統計では失業と見なされていたため、男性稼ぎ主型の国に見えるが、スペインでは伝統的に男性の収入を妻が補うという働き方が主流だったという。日本に関しても、かつては農業、いまでも自営業など、家族が手伝う家業を生業としていた人も多く、日本も男性稼ぎ主モデル(ここでは、女性は専業主婦と想定されている)よりも、家計補充形だった可能性があるという。どの国でも、稼ぎ主形への収斂は一度生じているかも知れないが、その視点は異なるかも知れないということだった。興味深い。

Esping‐Andersen, G., & Billari, F. C. (2015). Re‐theorizing Family Demographics. Population and Development Review41(1), 1-31.
Raymo, J. M., Fukuda, S., & Iwasawa, M. (2013). Educational Differences in Divorce in Japan DEMOGRAPHIC RESEARCH 28(6)
Reher, D. S. (1998). Family ties in Western Europe: persistent contrasts. Population and development review, 203-234.



April 6, 2015

4月6日(Sweeney論文に対するやや辛口なメモ)

4月6日

バイト終了後、ボスと一緒に夕ご飯。ルミネにある、つばめグリルにて、ハンブルクハンバーグ。


卒論の延長も含めて、いくつかネタを考えている。世代間同類婚テーブルは固く、もう一つ、動学的なモデル、要するにイベントヒストリーを使った分析として、一つは結婚満足度の時系列的変化、ないし結婚/離婚の離散時間ロジットなど。修論は、学歴同類婚が世帯間の経済格差に与える影響、だが、理論と応用が利く範囲で、いくつか考えている。欲を言えば、EASSも分析しなおしたい。あと、分析社会学の潮流を何らかの形で紹介し、議論を求めたい。

***
今日のSweeneyは、女性の労働市場が未婚化を促進したのか、それとも男性の経済的地位の悪化がこれを促したのかという、半ば古典的なベッカー・オッペンハイマー論争の検討論文。分析に入るまでの部分を掘り下げたい。

Sweeney, M. M. (2002). Two decades of family change: The shifting economic foundations of marriage. American Sociological Review, 132-147.

この論文では、世紀末の二十年のアメリカで生じた、女性における結婚と労働参加の変化について扱っている。1965-1993年の間で、女性の結婚年齢は4歳、労働参加率は30%からほぼ倍の58%になっている。結婚年齢の遅れは、男性に比べた時の女性の平均収入の上昇と軌を一にしているように見受けられる。こうした状況を説明する理論を初めに提示したのが、経済学者のベッカーである。女性の自立仮説を唱えたベッカーによれば、経済的見込みの高い女性はそうでない女性に比べて結婚のメリットがなく、婚期が遅れる傾向にある。この仮説が前提とするのが、家庭内部における分業モデルである。交渉モデルから出発したこのモデルでは、夫婦が互いに優位なスキルを用いて分業することで結婚の利益が最大化されるということになる。ベッカーは女性に家事スキルを割り当てており、この仮説に従うと、労働市場における有利な地位は、男性においては結婚の可能性を高め、女性においては低める効果があると考えられる。これをもってベッカーは女性の労働市場と未婚化・晩婚化の関係に対して独立仮説を唱えた。

しかし、ベッカーの理論は性別分業が規範的であった時代に提出されたものであり、近年の動向を踏まえ、対案が提出されている。その代表的な論者がオッペンハイマーである。彼女によれば、まず結婚の前に、生活の程度やスタイルに対する価値観が形成されるとする。これに基づくと、女性の労働市場が進む中で、次第に女性の経済的地位が男性と似通ったものになっていくと、配偶者として重要視される特徴も対称的になると考える(恐らく男女両方にとって?この点は議論になるかもしれない)。したがって、この仮説に従うと、経済的地位の高い女性は結婚の可能性が高まることになる。さらに、女性本人が家計に対してより多くの貢献ができると期待するようになると、かならずしも男性の経済力の高さは重要ではなくなるかも知れない、つまり要求する条件が緩和される可能性がある。

戦後、収入の上昇は男性よりも女性に対して生じた他(男性はといえば労働供給の減少を受けるまでになる)、性別分業への意識のリベラル化、生活水準の変化などのトレンドを踏まえた後、Sweeneyは間違いなく女性の労働市場の地位が結婚に及ぼす影響は決定的になりつつあるとするが、反対に男性のそれについては曖昧になっていると指摘する。恐らく、相対的に見れば男性の労働市場における地位は、結婚にとって重要ではなくなってきているかも知れない。

こうした歴史があるにもかかわらず(?)、実証研究の方は、男性の経済的な地位は結婚にポジティブな影響があるとするが、女性のそれは研究によって回答が異なるという。パネルデータを使った分析は、女性の経済的な見込みと結婚について、関連性がないとする。筆者は、このような状況を踏まえて、女性の労働市場における位置づけと結婚の関係について、パネルデータを用いて、ベビーブーム前後の世代を分けて検討する。


よく分からないのが、結婚の社会経済的な文脈が歴史的に変化してきたということから、「女性の労働市場の地位が結婚に及ぼす影響は決定的になりつつあるとするが、反対に男性のそれについては曖昧になっている」と指摘しながら、経験的な研究では男性の経済的地位が明らかで、女性のそれが曖昧というのは、どういうズレなのだろうか。分析結果は、女性の経済的地位の重要性が増している一方で、男性のそれが重要でなくなってきているとはいえず、その意味で、ますます女性は男性に似るようになってきているということらしい。男性は変わらず、女性は変わり、ということで、ますます対称的になっていくという。


なんというか、この議論には昔から、胡散臭さ(というと失礼だが)に似た感じを覚えている。外野から見ていると、社会学の研究者はベッカー理論を否定しようと(リベラル的な見地から)こうした研究をしているように見受けられる。これ自体は構わないが、彼等にとってのベッカー理論は即ち女性の独立仮説で、収入が高いといった特徴に示されるような、経済的地位の高い女性は結婚しないという風に言い換えている。確かに、ベッカーもこうした趣旨を言っているし、現に引用もされているが、ベッカーを否定しようとするあまり、なんだか気持の悪い想定をしているような気もする。

私は、つくづく「〜〜する程○○になる」構文の仮説に対する胡散臭さを感じている。社会学の人たちが想定するベッカー理論は「女性は収入が高いほど結婚しない」だが、これを否定するために彼等が示そうとしているのは「女性は(も)収入が高いほど結婚する」になっている。私には、ベッカー理論という論破する相手がいないと仮定するとき、女性は収入が高いほど結婚する」にそれほど感銘を受けない。この手の「すればするほど」構文には、否定するべき相手がいる際は、それとなく理論に見えるが、そうした相手がいない時は、あまりに一般的すぎて、批判しようもない。

仮に理論に足るべき理論を、こうした分析から探したければ、まずは線形的な発想から抜け出ることも必要だろう。例えば、男性でも「すればするほど」構文が成り立つのだが、果たして収入の低い男性と平均並みの男性、収入の高い男性を一次元的に語ってよいのだろうか。どこかでthreshholdがあるとは考えられないだろうか(今回の分析では、コーホートのthreshholdが女性のみにあるというのが一つのポイントであった)。そうした主張には、先行研究がないという批判があり得るが、現に論文の筆者が相対的に見れば男性の労働市場における地位は、結婚にとって重要ではなくなってきているかもしれないと言っているのである。なぜこの点がモデルから見られないかを、より複雑な形で表現することはできないだろうか。筆者は結論部で、交互作用を検討していないことを限界として述べている。この論文は、今までのベッカー・オッペンハイマー論争に一定の回答を示したという点では評価出来るかも知れないが、メカニズム的な説明は特になく、理論的な示唆に富むとは言いがたい。その意味でとても記述的な問いに答えている。より説明的な問いを志向するとしても、計量分析では交互作用の検討程度になってしまうのかも知れず、HedstromやSorensenのが表現していたストレスも分かるには分かる、と顧みてしまう論文であった。


最後に、下線部の部分は、この論文では男女が自分の社会経済的資源の多寡によって結婚する可能性が変わるという前提を強くおいているように見える。したがって、相手がどのような状況であろうと、経済的に豊かな人は結婚しやすいし、そうでない人は結婚出来ないということになる。

しかし、未婚化や晩婚化に、配偶者選択におけるミスマッチという視点を入れることは、不可能ではない、むしろこちらの方がリーズナブルではないだろうか。収入に限らず、女性の方はますます男性と同じような条件で働き、それにしたがって平等的な配偶者選択を好むものも出てくる一方で、男性の方は意識が実態に追いついていない、としたらどうだろう。これもあり得る話である。つまり、何も結婚相手の選択を議論する際に、結婚相手の情報を抜きに議論をする意味は、どれほどあるのだろうかという点である。恐らく、Raymo and Iwasawaあたりがこの辺りの議論をしているので、後で再検討するとして、ひとまず、この分析は配偶者の情報についてほとんど考慮していない個人主義的なモデルを採用しているのも気になった。

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例えばある演繹的な発想から「Aという時、結婚の利益は最大化する」という理論を考えたとして(これはこれでよい)、Aが成立する条件として、BとCがあり、そこからBであればあるほど、結婚しやすいという仮説を導きだしたとして、計量分析で検討するのは、この「あればあるほどXしやすい」部分。

この発想では、もう一つの条件であるCの部分が無視されてしまい、そもそもBによってCも代替可能といった可能性も排除されてしまう。例えば、収入があればあるほど結婚しやすいとして、だからベッカー理論が否定されると考えるのはおかしい。

例えば、夫婦双方が高収入(B)で、家事(C)をアウトソースしたとしても、家庭内部ではBとCが達成されている。だから、わざわざベッカー理論から独立仮説とかを言う必要もない。一見分業していないように見えても、外部化することで間接的に分業を成立させることは可能。

だから、収入が高いほど結婚しやすい学派が否定しているのは、独立仮説であって、ベッカー理論ではない。独立仮説を支持しないベッカー理論も可能な上、独立仮説もすればするほど構文なので、結局、いわゆるベッカー・オッペンハイマー論争は、DVに対するIVの矢印の向きで競っている。

私たちがどのレベルで勝負しているかというと、ベッカー理論の修正ではなく、現実に観察されるデータからどういう傾向が指摘出来るかというレベル。家事を外部化しているパワー・カップルは少数で、理論的には妥当でも、経験的には観察されない。すればするほど系の仮説では、少数事例が無視される。

仮に理論的なフィードバックを得たいのであれば、少数事例でも無視せず、その理論的な含意を考えるべき。すればするほど系の分析では排除されざるえないケースを拾うためには、まず検討する変数群をパターン化してみることなどが考えられる。


言い換えると、少数事例を誤差と捉えるか、分散(多様性)と捉えるかの違い。基本的に、すればするほど系の議論は因果推論と親和的で、少数事例は誤差と考える。変数群のパターン化を志向する記述的立場は分布の端を多様性と捉える。因果関係を特定化しつつ、説明できない事例の理論的含意を見逃さない。




アメリカにおける世代間同類婚の趨勢

午前中に書類の提出やバイト関連での本貸借のため、駒場へ。これから芽吹き、飛び立っていく新一年生を迎えた、春の駒場。二年ぶりに。書籍部に行くと、ちゃっかり知の技法買ってる人を見つけたり。人は変われど、駒場は変わらず。元気を分けてもらった気がする。

さて、以下論文のメモ

Mare, R. D. (2008). Educational assortative mating in two generations. Department of Sociology, University Of California Los Angeles. (Draft)

アメリカの世代間同類婚の趨勢を検討したもの。卒論でも引用したが、いくつか分からない部分を放置していたので再読。今回は、よく分かった(恐らく、ログリニアを少し勉強したから)。以後、同類婚とは学歴にも基づく同類婚とする。

やっていることは簡単で、「同類婚の親のもとで生まれた子どもが同類婚を経験するオッズ」と「非同類婚の親のもとで生まれた子どもが同類婚を経験するオッズ」の比、要するにオッズ比の値を検討している。ただし、観察されたオッズ比ではなく、本人、配偶者、いずれからの両親からなる4 or 6重クロス表のログリニアモデルから推定された分布から導きだされたオッズ比である。男女別にコーホートを考慮するモデルと対角セルの同類婚のみを認めるrestrictionの有無などで、いくつかのパターンを提示しているが、結論としては上記のオッズ比は1を越えており、「同類婚の親のもとで生まれた子ども」の方が、「非同類婚の親のもとで生まれた子ども」よりも、同類婚を経験しやすいことが示されている。

注意したいのは、すでにモデルがあらかじめ決定されている点である。その意味で、通常のログリニアのように、適合的なモデルを選ぶ過程は省略されている(そもそも、何でそのモデルなのかの説明もない?)。
※ついでに言うと、配偶者の親の学歴が、本人のそれと関係するというのは、常識的には考えにくく、卒論でも説明に苦労したポイントだが、Mareはどのように考えるのだろうか?

推定されたオッズ比から、同類婚の世代間連鎖を検討することと、そもそも世代間連鎖を想定するモデルが適合的かは、別の問いになるはずで(というか、最初に後者を示してからじゃないと前者に取りかかれない?)、今度自分が検討する時は、両方の作業を含めようと思った。

使用しているデータはGSS並びにOCG。後者は配偶者の親の学歴も聞いているので、対称的な検討ができ、一番大きなセル数は学歴が6カテゴリなので、6の6乗で46656となっている。

最後に、理論的な背景。私も、なぜ世代間同類婚が理論的に重要なのか、説明するのには苦しんだ。Mareの回答は以下のようなものである。彼によれば、同類婚は人々が社会的に同質的な集団(近隣や職場、インフォーマルな社会的な場、あるいは家族)にsegregateしていくという一般的な傾向の一つの例である。

このように、同類婚をSegregationと捉えることで、従来の配偶者選択で指摘されていたような選択に影響する要素としての選好・機会の二つ以外に、似た者同士が近くに寄り付く/近くに寄り付くから似た者同士になる、というSegregationの文脈で言及されるようなHomophilyの二側面から分析することが可能になる。

こうした、相互に強化しあうようなメカニズムは、世代間の同類婚についても指摘できる。例えば、親はもっとも子どもにとって直接的で影響力のある「近隣」であるし、同質的な親のもとで育った子どもは、そうでない子どもよりも、より狭い社会的な接触を経験するかも知れない。逆に、様々な人々と接触することは、異なる社会層の人々との交遊を深めるきっかけになるかも知れない。最終的には、子どもの選好に影響を与え、配偶者選択に対しても寄与するかも知れない。Mareは、このように考えると、配偶者選択のパターンにも、世代間の同質性の効果があるはずだと主張する。





April 5, 2015

4月第一週休日メモ

午前中は新入生と留学生を連れ吉祥寺散策。井の頭公園を抜け、サンロード、武蔵野観光協会から中道通り、大正通りから折り返しながら東急裏、お昼にハモニカ横丁のなかだ屋。買い物案件が見つかり、最後は丸井に。別れてスーパーに寄ったら、花見客用の惣菜が半額になっていたので購入し、帰宅。

いくつか文献を読んだり、調べ物をしたり、久しぶりに人に動かされずゆっくりできたいい一日だった。ただ、すごい勉強をしたという訳ではなく、今まで溜まっていた雑務の片付けをそれなりにすすめ、他はだらだらとしていた。精神的健康のためには、こういう日も必要だろう。文献としては、一通りDissecting the Socialを読み終えたのが大きく、第六章が重要だろうということでまた精読する。

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高ゼミの論考で、近年のアメリカ教育改革の流れを政策面からフォローして、代案を提言しているものがあり、勉強させてもらうと同時に、以下の三つの文献があるのだなあと、メモ。アメリカの教育改革では、内容と達成度のスタンダード、及び達成度に対して賞罰を課すアカウンタビリティがキーワード。「落ちこぼれゼロ法」などは、各州が定めたスタンダードに基づき、一定のレベルを全ての子どもが達成することを定めたもので、これに失敗するとアカウンタビリティの原則に照らして、例えば教師が解雇されたり、学校に廃止を含めた罰則が課される。「落ちこぼれゼロ法」などは、各州が定めたスタンダードに基づき、ドロップアウト率の低下や学力の向上など、一定の効果は収めたものの、なお、こうしたアウトカムに対する人種間の格差や教師の離職などの問題があり、アカウンタビリティ要件の緩和などが提案されているようだ。こういう政策的な部分はフォローしていなかったので、有り難い。一定のレベルを全ての子どもが達成することを定めたもので、これに失敗するとアカウンタビリティの原則に照らして、例えば教師が解雇されたり、学校に廃しを含めた罰則が課される。

文献としては、
アメリカの現代教育改革―スタンダードとアカウンタビリティの光と影: 松尾 知明
アメリカ教育改革の最前線―頂点への競争 (学術叢書): 北野 秋男, 大桃 敏行, 吉良 直
偉大なるアメリカ公立学校の死と生―テストと学校選択がいかに教育をだめにしてきたのか: ダイアン・ラビッチ
などがあるようだ。

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寮の留学生から、緊急連絡先として名前を貸して欲しいと頼まれる。あちらの奨学金の申請で必要らしい。私はRAだが、これをする/しないのリストはなく、判断に困る。寮に常駐している人の方がいいと思い、寮母さんを勧めたが、英語ができないから無理と言われ、ぐうの音も出ない。会社に問い合わせ中。この寮の趣旨は、日常レベルの交流を通じて、国際経験を養う、というものだと思うが、その恩恵を一番に受けているのは、私のような気がする。これは皮肉なことかもしれない。RAとして在籍していると、この大学がハウジングを含め留学生を受入れるに足る体制を整えるまで、まだ時間がかかる気がする。この件に関しては、必ずしも私だけが恩恵を受けないよう、私は努力していかねばならない。

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以下は、数日前のメモ
Sweeney, M. M. (2002). Two decades of family change: The shifting economic foundations of marriage. American Sociological Review, 132-147.
Sweeney (2002)のASR論文の趣旨としては、ベッカー-オッペンハイマー論争の検証みたいになっている。卒論でなかば決着ついたみたいに書いてしまったが、2000年代初頭くらいまではトップジャーナルに載るくらいのトピックだったか。

Are “Equals” Happier Than “Less Equals”? A Couple Analysis of Similarity and Well‐beingR Keizer, A Komter - Journal of Marriage and Family, 2015
JMF掲載のKeizer and Komter (2015)では、生活-関係満足度が夫婦のソシオデモグラフィック、ないし価値観の(非)類似性にどれくらい影響を受けるかという研究で、夫婦の社会経済的地位が異なる方が生活満足度が高く、これの説明にベッカー理論が出てくる
伝統-非伝統的カップルの満足度の違いを説明するときにベッカー持ち出すよりも、両タイプのカップルの間で具体的にどのような場面で満足度に関係するようなイベントがあるかとかを調べた方がいいと思う。


最後に、通学中に電車で実践としての統計学の序章と五章読み、前者がSorensenのいってることと結構似ていた。additiveは追加的と私は訳してたけど、これ読んでたぶん加法的と訳した方がいいと思った。

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土曜のバイトから帰宅の電車の中で、直井編「社会調査の基礎」(S.58)所収の原論文。ログリニアで独立モデルが「独立」たる際に、「周辺分布を固定する」という文言を入れると説明が分かりやすくなると思った。クロス表χ二乗も、周辺分布を固定した上で、AとBが独立であるという帰無仮説。もしくは、複数の変数が独立に度数分布を規定している、という意味で独立モデル。そもそも変数が周辺度数を規定しない、という独立も、意味的には可能。

Whither Opportunity? (2011)所収のHarding et al.論文では、教育のアウトカムに対する近隣効果の検討のための方針を紹介。メカニズム解明のため、複数の方法、特にtime-useとsocial networkのデータ収集が必要と指摘。




April 3, 2015

今週

日記の方は卒業式以来書いていなかった。

26日は、色々やらなくてはいけないと思いつつ、27日の勉強会のレジュメを作る。アナソシ最終回では、ハンドブック以外の文献も含めて検討。Sorensenなどの主張をまとめたものは先日ブログとしました。

28日は二次分析報告会に加えて高ゼミの同窓会。後者でOGの一人がいっていたのは、自分が何故その仕事をやりたいのかという理由がない場合、若いうちは酔うことのできた残業も辛くなるだけだということだった。何故研究するのか、それを研究する意味は何か、などがきちんと自分の中で用意できていなければ、諸々の雑務に埋もれて、辛くなるだけかも知れない。そういう風に思った。二次会に行くつもりが、研究会のメンバーと鉢合わせ、いつもの三蔵で二次会。非常によい会だった。

29日は午前中に転記の作業。ようやく終わり、計153本を処理する。忍耐力がついたという感想で、勉強になる部分もあった。その後、池ノ上でバイト。その日まで、気持的に随分焦る日が多かったが、30日はゆとりを持てた一日だった。バイトの休憩中、本三交差点を本部棟側に進んだところでコーヒー専門店Ammoniteを偶然見つけた。テイクアウトでしたが、steampunkで抽出されたエチオピア頂く。サードウェーブだと思いますが、ブルーボトルみたいな雰囲気ではない。本郷にはこういった店はなかったので、需要あるかも?バイト先の先生に教えてもらった文献をリスト化して、終了。31日は六本木でバイト、夕食は香妃園でよさげな中華。

1日は、本郷で勉強会→新宿でバイト→寮に戻って新入生の歓迎会と、結構どたばたしていた。留学生、一年生と夕食をともにし、この先どうなるか一抹の不安を抱きつつ、ひとまず自己紹介を無事終える。最近英語ほとんど使ってなかったが、新しい留学生相手に感覚を取り戻した。ちなみに、朝、吉祥寺駅に向かう途中、ライブコーヒーという店を見つける。オープン記念で豆が半額だったので、挽いてもらって学部生室に置いていた。月島とかにもあるみたいで、これも第三の波的なアレか。及び、書類作成や、論文もどきの執筆など。2日は成績開示、人文社会のガイダンス、学生証交付、自転車ステッカー購入、自治会の役員決め、本の返却貸出し諸々の、慌ただしい一日だった。ちなみに、3年ぶりに行方が分からなくなっていた同クラに遭遇した一日でもあった。3日は、研究室ガイダンス、自治総会、歓迎会など一通り終了。いよいよ、研究室の一員として認められた気がした。世知辛い時代の中、自治会のような組織は素朴でよいなと思った。個人的には、二年冬のTAセミナー以来お世話になってる先輩が総会で隣に座っていて、研究室のメンバーとして並ぶようになったのだと、少し感慨深くなった。研究室の先輩方から、色々伺う。