目上の研究者は「さん」なのか「先生」なのか。
基本的に(出会った時すでに)准教授以上なら、自分は「先生」と言います。微妙なケースは、出会ってからしばらく経って准教授になった場合。会話ではそこまで臨機応変に区別できませんが、アカデミックには「先生」、プライベートでは「さん」にします。
目上の研究者は「さん」なのか「先生」なのか。
基本的に(出会った時すでに)准教授以上なら、自分は「先生」と言います。微妙なケースは、出会ってからしばらく経って准教授になった場合。会話ではそこまで臨機応変に区別できませんが、アカデミックには「先生」、プライベートでは「さん」にします。
私は人並みにはサッカーの日本代表戦はみてきたと思います。アメリカに来てからはなかなか見る機会が少なくなり、選手の顔と名前が一致しないこともちらほら出てきましたが、どことなくヨーロッパのフットボールに挑戦する選手がキャリア上で抱える困難を、自分の研究キャリアと重ねることもしばしばで、そういう意味では試合の結果よりも選手個人の生き方の方に興味があるのかもしれません。
海外のチームでうまくいく人もいればそうでない人もいるし、どのチームを選ぶかは決定的に重要だと思います。せっかくユニークな個性を持っていても、チームの戦術上必要なければ使ってもらえません。エリートクラブの控えがいいのか、スモールクラブでもレギュラーで使ってもらえる方が成長につながるのではないか。日本に戻って「再チャレンジ」はできるけど、しかし一度日本に戻るとなかなか海外のチームに移籍することは難しいのではないか、そういう節々の点が、自分がこれまで経験してきた、あるいは経験するだろうキャリアと似ている気がします。
ところで、何人かの選手が言っていたベスト8という「新しい景色」が印象に残りました。現在の自分にとっての「新しい景色」は何かと聞かれれば、社会学のトップジャーナルに論文を掲載すること、と答えるでしょう。
人口学のトップジャーナルには論文を載せることができて、感覚的には(こういう表現が正しいかわかりませんが)日本代表におけるベスト16くらいの、頑張れば条件次第で達成可能な目標になってきました。しかし社会学のジャーナルは、トップジャーナルまでは壁がもう少し高く、しかし20年かかっても越えられない壁にも思えません。日本代表におけるベスト8くらいが穏当なのかなと思います。実際、まず社会学のトップジャーナルからチャレンジして、リジェクトされて人口学のそれに行き着くので、感覚としてはベスト8に進めずベスト16を繰り返す現在の日本代表の状況に近いかもしれません。
それじゃ仮に日本代表がベスト8に到達したとして、あるいは自分が社会学のトップジャーナルに載せたとして、その次の「新しい景色」は何なのでしょうか。サッカーであればベスト4でしょうが、まだ新しい景色を見ることができていない自分にとっては見当がつきません。
最後に、こういうある種のトップジャーナル至上主義的な考えをあまり良く思われない人もいるかもしれないので少し書いておくと、こういった考えは「上へ、上へ」みたいな上昇志向と同じで、研究する上で本質的ではない要素なのかと思われるかもしれません。
それは、おそらくそうだろうと思います。その上で、少々言い訳を書いておきます。
現在の私は、研究をそれ自体として楽しく取り組めていますし、特に現在進めている難関大進学のジェンダー差に関する研究は、私がその研究をしたいかどうかを考えるときの三つの基準(自分が面白いと思えるか、学問的に意義がある問いか、社会的にも意義がある問いか)を全て満たしているので、毎日時間を忘れて研究ができます。一方で、どこかでインセンティブというか、達成可能なゴールを設定しておくことで研究に対して意欲を継続できることもあります。トップジャーナルに掲載したいという目標は、自分にとってそれが3分の1というところです。あとは何かというと、同僚の研究者から評価される研究がしたいというピアプレッシャーとも互酬性ともはっきりとは言い難い気持ちが3分の1(これが一番素直なモチベーションかもしれません)、あとは単にアメリカで就職したいという、少々打算的な、しかし自分の人生を考える上では極めて重要な要因が残り3分の1です。そういうモチベーションがないと、色々なかなか難しいと思います。トップジャーナルを目指す過程で研究の質が上がることはありますが、理屈の上ではそれは過程の副産物であって本質ではありません。
日本代表の選手たちが「新しい景色」をみたいというのは、それは選手としての性なのか、日本という国を背負っている責任感なのか、あるいはそれ以外のモチベーションからなのか、少し気になるところではあります。登山家がいう「そこに山があるから」みたいな理由だったら少し困ってしまって、研究者はなかなか「そこにトップジャーナルがあるから」とは言えない職業なのです。
最近、自分の中でアスピレーションの研究がアツい。進路選択の男女差のメカニズムを考え出して文献を見ると、同じ研究でも今までと異なる示唆を得ることができて、研究することの醍醐味を感じる。特に制度とアスピレーションの関係がアツい。エステベス=アベさんの研究を補助線にすると深い研究になる。
福祉レジームやVoCの話は一旦博論に入れようかと思ったけど、うまくフィットしなかったのでプロポーザル段階で落とした。結果的にまたそういう話に回帰しつつある。男女の進路選択の差を考える時にノンメリトクラティックという言葉でまとめると、せっかく概念化できるものを残余にしてしまう。
ここ最近は「手に職」という言葉で表現される女性に多いアスピレーションを、レジーム論などに依拠しながら、うまく理論化(=理論的に翻訳)したいと思ってます。勝手にskil portability aspirationsみたいに言ってますが、多分意味がわからないと思います。
今日は学部で4-5年生向けに外部資金の獲得についてのワークショップ。うちにしては珍しく出席が必須。コロナ禍をへて6年ファンディングに移行したけど、6年目に入る時に外部資金を見つけるよう「努力」することが義務付けられた関係。うちみたいに内部ファンディングが充実していると、色々と複雑。
プリンストン全体が博士課程は5年間スタイペンドと授業料が無条件で出る仕組みになっており、そもそも外部資金を獲得するインセンティブに欠ける。そういうのに気を取られずに自由に研究して欲しいという意図がある一方で、グラント獲得はアカデミックキャリアを考える際には重要で、ジレンマがある。
東大、ウィスコンシンと財政的に豊かとは必ずしも言えないところに長くいたので、自分にとってお金は外から取ってくるものという意識がまだ強い。そういう視点でみると、プリンストンの院生は確かに少々スポイルされていると言われても、仕方ないかもしれない。
アドミッションの観点で言えば、財政的に豊かなところに人は集まりやすい。社会学は伝統的に州立大学が強い中で、プリンストンやイェール、ブラウンなどが台頭してきたので、博士課程獲得の力学はこの10-15年で結構変わっている印象。昔は、一番優秀な学生はウィスコンシンやミシガンに入っていた。
今でも社会学は州立大学が強いけど、例えばウィスコンシンとプリンストンに受かると、今は後者に来てしまう。フィットも大事だけど、お金も同じくらい大事。イタリアや日本、アメリカの複数の学会に行っても全て旅費が出るようなメカニズムを持つ大学にいて、強く感じる。
Over the three days from October 26th to 28th, I attended PopFest, a small conference for early-career demographers (mainly) based in Europe. This was my second time attending the conference (the last time I attended was 2018 in Oxford). I was the only participant crossing the Atlantic this time (last time I was the only participant coming from Asia). I really love the smallness of this conference that allows us to talk more with other participants who are in a similar stage. I found several people who share research interests and already look forward to seeing them again at future conferences.
Another motivation for attending this time is to visit the European University Institute. It was like an IAS in Princeton in terms of size, or perhaps way smaller than I expected. Florence is a bit too commercialized though beautiful in itself. I stayed for two days in Bologna after the conference, which I liked much more. The food was so delicious that I wish I could come again after another (hopefully demography) conference, maybe somewhere in northern Italy.
アメリカのデモグラフィーは少し社会学によりすぎなのですが、ヨーロッパのデモグラフィーはいい意味で社会学と距離感をとっていて、個人的には居心地がいいです。僕は同じステージにいる人と話すのは大事だと思っていますし、実際話していると楽しく勉強になります。こういう小さなカンファレンスで知り合いになって、PAAのような大きな学会で再会する、そうやってネットワークは広がっていくんだろうと思います。もちろん再会するのは今回会った人の中で半分くらいでしょう、それでもそのうちさらに半分の人とは今後10年、20年と付き合っていく、そんな気がしています。
こうした学会に来ると、いつも以上に自分がアメリカの大学院にいることによって持ってしまっている特殊性というか、彼らとの比較を通じてそうしたものを感じとってしまいます。その中で、自分は日本の研究を発表しているわけですが、いつもよりもアメリカの大学で日本の研究をしている、それはどうして必要な作業で、今回のようなヨーロッパの人口学者が集まる場で聞き手にどういうメッセージを届けた方がいいのだろうか、言葉を話しながら考えます。僕の考えや発言は、アメリカでトレーニングを受けながら、日本という非西洋の国を対象にしている研究者という条件・制約のもとに形成されている、そういうコンテクスト性があり、こういう学会では、そうしたコンテクスト性に、自分自身よりセンシティブになってきます。博士課程も後半に入って、昔よりも目の前にある現実をがむしゃらにかきむしるのではなく、自分の立場について少し俯瞰的になって考えている気がします。
先日の朝日関連のポストは結構読まれていたみたいです、大学院生の戯言にお付き合いくださり、ありがとうございます。記事の方も日が経つともう少し落ち着いたコメントをいただけるようになりました。根も歯もない批判を投げかけてくださった方々も、(恐らく)記事を全て読んでいただいたことだろうと、今になって思います。貴重な時間を使ってくださり、感謝いたします。
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今日は土曜日、といってもこの1週間、ずっと秋休みだったので、一瞬日曜日ではないかと勘違いする(し、なんならこの記事のタイトルも間違っている)。高校調査関連の仕事を少しばかり片付けたあと、久しぶりに関係のない論文をちらほら眺めていた。意外とこういう時間がストレス解消になったりする。ついこの間、休日に研究するかと聞かれて、僕はついイエスと答えてしまったけど、こういう自分の研究に関係ないことに時間を費やすことは、自分にとっては広義には研究であって、狭義には研究ではない。勉強といった方が近いかもしれない。
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一通り論文を読んで、先日来の浪人と結婚の話が気になり、しばらく考えつつ、少しデータをいじってみた。先日みた浪人の変数は大学や短大・高専を含んでいたので、両者を峻別したところ、大学浪人のみが結婚の遅れと関連していた(私はセレクションバイアスという言葉を知っているので、相関といってもいいです)。単純に浪人した1年分、追加で人的資本投資があり、結婚のゲインが減っているとかなら、男女双方にみられるはずが、女性にだけ浪人と結婚の負の関連がある。しかも、同じ浪人でも大学と短大では意味が異なるようで、大学浪人でしか、結婚との負の関連はみられない。
やはり、キャリア意識仮説だろうか。しかし、初職や職業キャリアでみても、現役で大学に入った大卒女性と浪人で入った女性とでは違いがない。大学の選抜度は多少違うが、選抜度自体は結婚タイミングと関係していないので(大卒だと結婚が遅れる、これは既存研究が指摘する通り)、安易にセレクションの話にするのには惜しい。交絡として多少あったのは、15歳時の居住地、要するに浪人するための予備校があるような大都市に住んでいる人は、結婚も遅い。ただしこの変数を統制しても、浪人の係数はごくわずかしか変わらない。
今扱っているデータはクロスセクションで回顧で学校・職歴を尋ねているので、意識については現時点のものしかわからない。パネルデータを使って、未婚女性のうち浪人経験があるかないかで結婚希望などが異なるかは改めてみる必要がある。出会いのきっかけをみると、浪人して結婚した大卒女性は、現役で入った大卒女性に比べて、友人を介した出会いが少ない。浪人して大学に入ると、女性の場合、周りの友人は現役の人が相対的に多いので、友人関係に差が出てくるのかもしれない。しかしやや意外なことに、学校での出会いについては、浪人した女性の方が現役の女性よりも多少、多い傾向にあった。当初は結婚市場のミスマッチのストーリーを考えていたが、少し解釈は難しい。
ざっと調査時点の意識もみたところ、浪人した女性の方が、現役で入った女性よりも、子どもに高い教育を受けさせたかったり、教育の便益については認識している傾向がある。若干ではあるが、性別役割意識にも否定的、また性別による不公平を感じたことがある人も多く、ある程度は浪人するような人は結婚を所与としないようなライフコースを考えているという説は間違いではないだろう、しかしそれで全てが説明できるような気はしない。なぜそう思うのかは明確に答えられないが、人口学者としての勘というか、オッズで見た時の30-40%の差が、意識だけで説明できるというのは、かなり稀な気がする。
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そのあと、久しぶりに走って、夜の予定までカフェで本を読むことにした。歩きながら、オーディブルで村田沙耶香の「無」を聴く。ドライブマイカーの三浦透子さんが朗読をしている。彼女の感情を抑えた、しかしはっきりと意志の感じられる声は、村田さんの時としてグロテスクで、しかし社会の本質をついている文章と、うまく共鳴している。
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カフェでは論文を読んでいた。2015年に出た家族人口学の理論的な論文で、2018年に読んだ時にはいまいち消化不良だったのだが、今回読んで少し理解が深まった気がする。難関大進学のジェンダー差の話をtheorizeするときに、いくつか人口学の理論を借りるつもりで、その用意(というと、研究をしている気分になって、正当化しやすい)。
カフェでは、18時からライブミュージックが始まる。毎週土曜の夜はたまにここにきて、時間を潰している。今日のジャズは、少しピンと来なかった。
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20時から、歩いて20分ほどのところにあるギリシャ料理の店で、友人たちと夕食。帰宅して、母親と電話をする。僕の記事が載った朝日新聞が5部もきたらしい。これは、親戚にでも送れというメッセージでもあるのだろうか。水戸一高の先生も、職員室に記事を掲示したりと、少々大袈裟である。
それでも、私がアメリカで何をしているのか、検討がつかないような周りの人には、今回の記事のようなものが、自分は頑張って生きてますよという分かりやすいメッセージになるような気がして、そう思ってもらえるのであれば何をされても悪い気はしない。
なにより些細なことでも、大きく扱ってくれる地方にありがちな雰囲気の中に、自分もいるのだろう。松尾先生が生きていたら、喜んでくれたかもしれない。お世話になった先生に、自分の元気な姿を見せることができないのは、寂しい限りである。
感想めいたものです。最初に記者の方への返信として書きましたが、特に差し障りのあることは書いていないので、先方に断った上でここにも載せておきます。多少書き加えています。
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私自身、朝日新聞のような大手全国紙の取材を受けるというのは初めての経験だったので、色々と勉強になりました。
良かった点としては、思いがけない反響がありました。高校の先生から、大学時代にお世話になった事務の人、大学院の友人まで、いろんな人から紙面、見たよと言ってもらえて、そこはとても嬉しかったです。研究者という職業は、なかなかダイレクトなやりがいを感じにくいところがあるので、自分の研究を知ってもらえる機会としては非常にありがたかったです。直接連絡をくれなかった友人や同僚にも、読んでくれている人は多いと思います。思いがけず私の近況を伝えられる機会になりました。また、記事を通じていくつもの示唆的なコメントもいただけて、これから研究がより一層前に進むと確信しています。
やはりこういった経験は初めてでしたので、他にも思いがけない点はありました。結局のところ、こういった記事はどのように解釈されるか、書き手のコントロールがきかないところがあります。もちろん、それが上で触れたような良い意味で思いがけない示唆に出会うことを可能にしているとは思うのですが、そうではない場合もあります。例えば、学会報告を記者が聞いているわけがないという思い込みから、私が記者に売り込んでメディアへの露出を狙うことで知名度を獲得しようとしているという根も歯もない憶測がありました。大学院生の研究が全国紙に顔写真付きで載るのは珍しく、テーマも相まってそういった奇妙な考えを持つ人の吐け口にされたのかも知れません。そうした憶測に対して反論するために、ある程度の地位や業績は必要だなと思いました。また、周りの研究者の中には、取材を受けた対価として報酬もある程度あった方がいいのではないかと考える人もいて、当初その考えにも賛同したところがありましたが、こうした憶測に対してきちんと反論できるよう、今後取材があっても今回と同様、利益は受けないようにすることが大切ということを学びました。
記事の中身では、「数学のない入試形式も考える」というところに噛みつかれた人が多かったです。私の考えでは、一つの入試形式に固執せず、多様な入試形式を考える中で自分の得意科目で受験できる制度の具体的な一案として提案したつもりだったのですが、入試から数学を廃止するような意見に読み替えられ、不本意でした。数学のない入試という具体的な提案に意見が分かれるのは理解できますが、入試制度に手を加える場合に生じるトレードオフについて冷静に評価できず、自分の信念に反する意見を頭ごなしに否定する人が多いのは残念なことです。ただ、私もいらぬ争いは避けたいので、できるだけ多くの人が賛同するような提案をしたいと思っています。数学というのは私が想像していた以上にポリティカルな領域だったようで、今後はどういう反応が来るかも斟酌していければと思いました。
個人的な考えですが、学会発表段階の研究を公表するのは少し迷いがあり、まだ正しい判断だったかどうかはわかりません。査読前のプレプリントが記事になることは珍しくなくなり、その意味では学会発表も広義のプレプリントだと思いますので問題視はされないのかも知れません。また査読のない書籍の知見がメディアに上がるときはどうするのかと考え出すと、なぜ査読前の業績は取材を受けてはいけないか、合理的な説明は難しくなります。今回は私が1月から行ってきた研究かつ、掲載いただいた部分は非常に記述的な部分で、今後査読者からコメントを受けても出てきた結果が大きく変わることはないと考え記事になることに了解しましたが、研究者の中でも考えは分かれるところだと思いますし、私もケースバイケースで判断した方がいいだろうと思います。
最後に、テレビ局でディレクターをしている大学時代の悪友が以上のような悪態をついた私に対して、こう諭してくれました。
1、何か間違ったことをしたか?
2、正しいけれど誰かを傷つけることをしたか?
これらを考え、両方NOであれば批判を聞く必要なく、生産的な指摘だけ記憶に留めて研究に戻ればいいと言ってくれました。つまるところ、私が過度に周りの意見を気にしすぎなのかも知れません。そうしたことも含めて、今回の取材から実に多くのことを学びました。まだ大学院生の身分で、こうした経験ができたのは本当に貴重だったと思っています。
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研究をする以上、最終的には人の役に立つ成果を出していきたいので、私の研究を通じて少しでも世界がよくなるようにするにはどうすればいいか、考える機会になりました。引き続き研究を進めていきたいと思います。
先日日本教育社会学会で報告した内容が記事になりました。
「浪人・数学」、女子は回避傾向 国公立大での割合少ない理由、調べてみると
最後の提案部分は、数学を課さない入試「も」作った方がいいのではというものでしたが、「数学を入試からなくせ」という風に解釈した方もいるようで反省するとともに、理系学部などは数学を課さないことは難しいといった個々の事情もあると思うので、別に一律で廃止みたいな極端なことは考えてません。
おそらくこれからジョブマ関連の備忘録が増えていくかもしれません。初めての経験なので、折に触れて考えることも多く、その時の考えを記録しておきます。
--Oct 16
最近は来年のジョブマを意識することが多い。アメリカのアカデミアはゲームのルールが比較的明示化されているので、対策はしやすい印象がある。ひとまず単著でトップジャーナルは1本確保したので、この一年はジョブトークに呼ばれるよう業績を積み重ねつつ、トーク用の未発表の研究の質を高めていく。
自分はそこまで意識していなかったけど、やはり社会学には単著プレミアムがまだあるらしい。同じジャーナルなら、ファカルティと共著で筆頭著者よりも、単著の方が評価が高そうな印象を持つ。ジョブマ関連でいえば、あとは研究の一貫性、今後の研究とのアジェンダとどう関係するかなど。
こっちだと、これこれをすれば研究大学向けのジョブマで戦えるという基準は割と共有されているし、そこに最適化する形で博士課程があるので、トラックにうまく乗れれば損はしない。ただ「これこれ」を達成するのが大変なので、そのストレスは大きい。日本のストレスはマーケットの不透明性に起因する。
長期的には独創性がモノをいう世界ではあるけれど、短期的には個人間で比較可能なように小さなマイルストーンが設定されているので、そのバランスを取る作業は結構難しい。ジョブマがそのバランス感覚を発揮しなくてはいけない場所であるように感じる
ニューヘイブンほどではないですが、プリンストンにも多くのピザ屋があります(per capitaでみると、NJは全米8位です)。アメリカでは、ピザ屋は日本でいうとラーメン屋くらいのバラエティがあります。実際、人口10万人あたりのピザ屋の数はアメリカではおよそ20.9軒に対して、人口10万人あたりのラーメン屋の数は日本ではおよそ19.2軒と、かなり近いです(出所:アメリカ、日本)。
ちなみに、アメリカの自販機には、日本でいう緑茶と同じくらいの面積をコークが占めているので、アメリカにおけるお茶はコークです。
アメリカにおけるピザ=日本におけるラーメン
アメリカにおけるコーク=日本における緑茶
こんな感じになります。日本人がラーメンを食べ、緑茶を飲んでいる間、アメリカ人はピザを食べ、コークを飲んでいるのです。
プリンストンではNomad Pizzaというピザ屋が一番おいしいとされていますが、少し高いです。Conteを美味しいという人もいますが、自分はまだ食べたことがありません。私の推しピザはナッソーストリートにあるProofという店です。
特にピザがおいしいというわけではないのですが、オマケをしてくれるところが推しポイントです。お昼時を少し過ぎた頃に狙い澄まして行くと、頼んだピザとは違う(売れ残った)ピザを2スライス、おまけでつけてくれます。
5ドル払って、3スライスのピザですよ、信じられません、ピザハットもびっくりです。しかもproofは、ワンスライスがめっちゃでかいんです。もう、3スライスだけで朝昼晩、賄えます。
なぜこの店がproofというのかわかりませんが(おそらく、アインシュタインとかけてるんだろうと思います)、proofといえば、今日は人口学のトップジャーナルに今度掲載される論文のcorrected proofが届きました。
すでに終わったプロジェクトではありますが、出版される形でみると、やはり嬉しいです。改めて読んでみると(自画自賛ですが)よく書けてると思います。リジェクトを含め、3誌8人のレビュアーのコメントを踏まえたことが一因だと思います。アメリカのピザ屋には推しピザ(signiture pizza)があるように、私にとっては、この論文が博士課程にいた間の業績の中ではsigniture paperになると思います。
同類婚の研究者には好かれる玄人好みな論文だと思いますし、人口学のコアな部分にも触れているので、家族人口学の大学院セミナーで読まれたりしたら、嬉しいなと思います(もちろん評価は後々決まりますが)。
翻って、かれこれ4年近くかけた論文に比べると、今進めている論文は、まだまだ粗いです。もっと時間をかけなくてはいけません。大体、一つの論文を仕上げるのに4年かかってるんですから、自分はいろんなプロジェクトに手を出しすぎなのです、節操がない。
もちろん、今回の論文が、特別長い時間かかっているかというと、そうでもありません。周りの話を聞く限りでは、トップジャーナルを目指す場合、着想から分析を始め、学会発表を経て論文にし、同僚からコメントをもらい改稿し、投稿してから(リジェクトを経て)R&Rをもらって改稿して再投稿して、アクセプトされ最終的に掲載されるまで、4-5年はかかると思います。常に5年先を見ながら研究の計画を考えないといけません。
だから、博士課程の間にsigniture paperを1本出せるだけでも、十分幸せなことなのだと思います。しかし、人間一度できると欲が出てくるもので、在学中にもう1-2本、トップジャーナルに掲載できればと考えています。欲張りでしょうか、いいじゃないですか、人生一度きりなのですから。実際、一度トップジャーナルに論文を確保しておくと、在学中でも冒険できます。今自分が取り組んでいる難関大進学のジェンダー差なんて、日本以外ではほとんど見られない現象なので、関連する先行研究を見つけるところから苦労の連続でした。こういうプロジェクトを始めるのはリスキーなのですが、一本トップジャーナルに論文を持っておくと、冒険できます。
全然話は変わりますが、先日日本から大学院にこられた新入生を歓迎するために、pizza partyをしました。我々old folksが推すプリンストンのピザを注文して食べ比べましたが、お昼時の開催だったので午後4時開店のconteのピザは、また食べられずじまいでした。
9月28日
朝起きたら、先日の取材が記事になるような感じで、内容のチェック、友人の論文へのコメントを済ませ、東アジア学部でランチセミナー、本を借りて、オフィスでコンジョイント実験の質問紙とデータベースの作成。夜に政治学部の友人とキャッチアップして、帰宅。メール返信、スライドの作成。
9月になり、プリンストンも新学期です。昨年に比べ、コロナ禍の雰囲気は収まり、1年目に見たような賑やかさがキャンパスに戻って来ています。私はその状況の良し悪しを判断する立場にはありませんが、少しずつコロナ前の日常が現実として感じられつつある、そんな日々です。
報告する近況もなかったといえばなかったのですが、毎日が忙しく過ぎ去っていく感覚は、学年を経るごとに強くなります。2年目までは、コースワークが終われば暇になると思っていて、それは確かに事実なのですが、別の面では忙しさは増すばかりで、落ち着いて近況をまとめる時間は減っていると感じます。特に、人の論文をレビューする機会が増えました。それと、ミーティングをオーガナイズする機会も、増えています。
この近況も、まとめてものを考える時間がなかなか取れないので、数日をかけて書いています。その日その日で書きたいことも移り変わるのですが、できるだけそうしたばらつきを無くしつつ、アメリカ博士過程5年目を迎えた心境、というか近況についてまとめておきます。
・博士課程も、5年目
この歳になってくると、新学期にある「何年生?」という質問に答えるのが億劫になってきます。「5年生だよ(何か文句ある?)」とまでは言いませんが、もう5年生になってしまったのかと、感慨深くなります。ただし、プリンストンは4年目で、うち2年近くはパンデミックでほとんど記憶がないので、実質的には3年目くらいの気持ちです。
取る授業もなくなり、基本は研究、研究、そして研究の日々です。恐ろしいくらいに、研究しかすることがありません。他にあるのは、セミナーです。社会学部や人口学研究所のランチセミナーで腹と知的好奇心を満たし、午前や午後にある院生を中心とする進捗報告系のワークショップでは、何かしら報告をしたりします。
今年はこれらに加えて、新しくPrize fellowに選んでもらった縁で、毎週火曜日のランチセミナーの後に、ポリシー系の研究をしている院生が集まるセミナーにも顔を出して議論に参加しています。こちらはどちらかというと、ポリシーという傘のもと集まった分野横断的な集まりで、ネットワーキングの意味合いが強そうです。ちなみに、こちらでも昼ごはんが出るので、火曜日は夜ご飯に困りません。
夜は夜で、日本にいる人とズームミーティングをしたり、オンラインセミナーのオーガナイズをしたりしています。忙しい日々ですが、研究だけで忙しいので、特に不満はありません。人の論文を読んだり、何かをオーガナイズすることは時間を取られますが、その過程で学ぶことも多いです。予定が多過ぎる時があって、たまにリマインダがあっても忘れてしまいます。
・研究
研究では、この1年でポジティブな変化がありました。博論になる3つの章は特に目立った進捗しておらず、このまま提出してもいいくらいに思っていますが、代わりに博士課程後に取り組みたいテーマが見つかり、今はそれに時間を費やしています。
内容としては、シンプルに「難関大学に女性が出願しにくいのはなぜか」、これを問うています。昨年度までは既存の社会調査データを用いた分析をしていたのですが、夏に全国12の進学校を訪問し、生徒と教員の方にインタビューをしていました。この過程で、「なぜ」の部分に対する答えを見つけ、今はその主張をサポートするべく、論を組み立てているところです。
ふと気づくと、このプロジェクトはいつの間にか一種の日本社会論になっていることに気づきました。似たような話は既に以前のブログでも書いたのですが、もう少し煮詰めたものを書いておきます。
高校生に話を聞いていると、女性の方が明確に職業意識があり、将来つきたい仕事、それと大学で学ぶことの関係について、真剣に考える傾向が見られます。職業意識の男女差は、定量的なデータでも確認される傾向です。
特に資格が取れる専攻は、周りの勧めもあって考える人は多いです。こうした職業から考えて進路を選ぶ人にとっては、同じ資格が取れるなら、偏差値にはこだわらずに現役で進学できるところに進学する、そういう進路選択が取られる傾向にあります。これに対して、男性の方が将来に対してまだ明確なプランを持っておらず、大学に入ってから考える人が多かったです。
私の考えでは、日本社会の仕組みが女性には将来を考えさせ、男性には棚上げを許す、そういう社会化がされる構造になっているのだろうと思いますが、そうした考えを所与とした時、日本の大学入試は男女の差を拡大しているのではないか、そのように考えています。
日本の入試の特徴は、まず学部単位の出願が多いことにあります。職業・専攻への意識が強い人は、そうした入試だと自分は何を学びたいのか真剣に考えることになります。一方で、将来つきたい職業や、学ぶ内容を密接に考えていない人にとっては、入試が学部単位でも、具体的な職業選択とは別の理由(例:潰しが効く)で進路が選択される傾向にあるのではないかと考えています。
次に、日本の国公立入試は、実質的に一発勝負の構造になっていて、必然的に不合格、からの再受験(浪人)が生じやすくなっています。浪人という選択肢が普通にある状況だと、難関大を志望する人は浪人してもそうした大学に進学することを許容できてしまう一方で、現役志向の強い人は、浪人にメリットを感じにくいのではないか。こうした制度的な背景もあって、男性の方が難関大学を志望し、女性が現役合格を優先して、難易度は多少落ちる大学に進学するのではないかと考えています。
学校の先生は、難関国立大学を志望することは「潰しがきく」と言って、高校生に最後まで目指すよういう傾向があります。ここでの潰しが効くというは2種類あって、第1にそうした大学を目指しておけば、後から違う大学に志望を変更しやすいという側面、第2にそうした大学に入ったら、苦労はしないという潰しが効くがあります。後者は具体的には、大学名と企業規模が密接に関連しているという既存研究の知見からもサポートされます。難関大学に入っておくと、将来が不確実でも、痛い目には合わない、そう考えて高校生は難関大学を志望しているのではないか。
しかしそうした大企業のキャリアが、万人にとって魅力的な選択肢にはなりません。長時間労働、転勤、年功序列で一度企業を離れると戻ることは難しい、そんな日本的な長期雇用の慣行は、両立志向で家事育児負担を担わされる女性にとっては、現実的な選択肢として浮かび上がってこないのではないか。むしろ結婚出産後も同じ待遇の職業を見つけやすい「手に職」系の資格を持つ方が、日本の労働市場を考えると合理的なのではないか。
高校生がどこまでそうしたキャリアを念頭に置いているかはわかりませんが、親や周囲の助言もあって、実質的にはそうした考えに影響される形で進路選択をしているのではないかと考えています。つまるところ、日本で難関大学に女性が少ない減少は、日本の労働市場の問題が背景にあるのではないか、そう考え始めたときに、この話は単に難関大学進学のジェンダー差というよりも、日本社会の根深い問題に触り始めているのではないか、そう考えるようになりました。
そうして問題の構図を考えていくと、明らかになっていない問いがどんどん出てきました。これはなかなか興味深い瞬間でした。探索的なインタビュー調査から、こういうことが起こっているのではないか、それら気づきを昇華して分析枠組みに仕上げていく段階で、いくつも仮説が出てきており、研究は急に仮説検証型のプロジェクトに移行しています。
そういうわけで、今は上で書いたようなビッグピクチャーをもとに、個々の問いを検証できるようなデータベースを作成するべく、研究プロジェクトを立ち上げる準備を始めています。データベース・プロジェクト以外にも、引き続きインタビュー調査、及び(これはまた書く機会があればと思いますが)サーベイ実験の実施を進めています。三つのプロジェクトをまたぐ組織として、自分で勝手にEducation Inequality Japan Labを立ち上げました(無給ですが、メンバー募集中です)。
余談ですが、この2週間でチームに加わってくれる3人のM1の方の卒論を読みました。どれも読み応えあり、ポテンシャルの高さを感じます。日本だと教育社会学はかなりempiricalで、アメリカの研究とも距離感が近く、少しフレーミングを変えるだけで、十分トップジャーナルも狙えると思います。
・その他、非研究的な出来事
今週から来週にかけて、日本から濱口竜介監督がプリンストンにいらしています。学生との映画制作ワークショップ、映画館での監督のこれまでの作品上映、レクチャー、レセプションと盛りだくさん。本当に貴重な機会になりそうです。
映画館で濱口監督の震災後の東北を描いた三部作の最後「うたうひと」と個人的にお気に入りの「偶然と想像」、そして監督がプリンストンの先生達の質問に答えるパネルと、贅沢な1日でした。「うたうひと」を見るのは今回が初だったのですが、言葉が会話の中で感情を呼び起こす力を感じる映画でした。
今日のパネルを聞いて、監督の映画に対する哲学は、言葉に対する哲学なのだと思いました。ドキュメンタリーとフィクションの境界性、言葉の持つ音楽性、予算が限られる映画を撮ることを通じて至った身体を重視する映像表現、学ぶことが本当に多かったです。
昨日今日と関学にお呼ばれして1日目に現在取り組んでいる難関大進学のジェンダー差の研究報告をさせてもらい、2日目は社会学研究科の院生さんの研究アイデアを話してもらい、僭越ながらアドバイスさせてもらいました。とても楽しく刺激的な2日間でした。アメリカの大学みたいな美しいキャンパスでした
2日間、家族社会学会に参加。今日は日本時代の指導教員と同じセッションにいて、自分がある発表にしたコメントに対して、それはちょっと違うんじゃないかという趣旨の発言をされて、ゼミの雰囲気を思い出し懐かしくなりました。
ふと浪人時代に通っていた予備校に久しぶりに寄ってみたのですが、自分がいた頃とは様変わりしていました。原因は数年前に河合塾が進出したから。母校の浪人生は駿優から河合に流れていったようです。
前年度の合格者を一覧にしていた正面玄関には何も貼っておらず、予備校部分は3階部分に縮小。夏のこの時期には現役生も混じって満員になっていた2階の夏季講習用の大教室は空っぽ。同じ階には予備校が新しく始めた幼児教育の教室から、未就学児に何かを復唱する先生の声。当時の講師陣は誰一人いなくなり、事務に唯一、昔から知っているベテランの方がまだおられました。
僕は浪人時代にしっかり勉強する習慣が身に付けられたことが、大学での学びにもつながっていると思っているので、12年前と建物は変わっていないのに人がすっかりいなくなった風景を見て、寂しく感じました。
数学の猿渡先生はとても厳しかったのですが、授業が終わると温かい人でした。これも数年前に亡くなったことをどこかで伝え聞きました。英語の古田先生は高校卒業したての受講生にポスト構造主義の話をしながら入試問題の解説をする、ユーモア溢れる先生でした。
英作文が大の苦手だった自分が、毎日のように英語で論文を書いたり、人の書いた論文を査読しているのは、当時は想像もつかなかっただろうと思います。
男性と同じくらい難関大学に入りたいと思っている場合でも、女性は浪人しにくいよという論文を書きました(まだワーキングペーパーで、絶賛査読中)。この論文は色々時間がかかると思うので、まず公開だけしておきます(英文校正費用を負担してくださった東大社研CSRDAに感謝いたします)。
私がPIをつとめているチームで、今月末までに進学校の高校生を対象に40件ほどのインタビューを実施、うち25人くらいの音源を聴いています。上の論文で議論していることと関係する一方で、高校生の語りからわかる進路選択の男女差は、少しばかり違って見えてきました。
男性に比べて、女性は将来つきたい職業や、大学で学びたいことをまず考える傾向にあります(これは他の国でも、似たようなことが言われています)。日本の大学入試は学部ごとに行われるので、すでにやりたいことが決まっている人にとっては、同じことが学べるなら現役で受かる大学を優先、という水路づけが行われやすいのではないかと考えています。下記とも関連しますが、国公立大学は実質一発勝負で難関大学に進学するためには浪人することが珍しくない構造なのも、やりたいことが決まっている人にとって、わざわざ浪人してまで難関大学に行くメリットを減じさせていると考えられます。
これに対して、男性の方が将来の展望がまだ明確に決まっていない人が多く、その場合に選択肢を残すために(いわゆる「潰しが効く」というロジックを使って)、まず偏差値の高い大学を志望してから、何をやりたいのかを後から考える(けどそれは曖昧)、そんな流れで進路希望が形成される傾向が強いです。東大に毎年何十人も出すような進学校になると、偏差値で見合う大学が東大になるので、ひとまず東大を志望して、そこから何をやりたいのか考えるということも起こります。やりたいことよりも、まず難関大学に入ることが優先されると、結果的に一浪してでもその大学に入ることを本人も、あるいは周りも正当化しやすくなるのではないかと考えています。そして皮肉なことに(?)、やりたいことが決まっていない人にとっては、教養学部を持つ東大という偏差値的には一番難しい大学が、一番「潰しが効く」大学になってしまっています。
難関大学に女性が少ない理由は他にいくつかあるのですが、インタビューからは将来の展望と進路選択の関係が男女で異なることが重要なのではないか、そんな仮説が浮かび上がってきました。さらに、学部ごとの選抜、国公立大学の受験回数の少なさ、予備校といった浪人をしやすい環境など、日本の大学受験のシステム自体が、進路選択の男女差を拡大させるようにデザインされているのではないかと考えるようになりました。
学力(テストの点数)に応じて進学先が割り当てられる日本的なメリトクラシーは、実力勝負という意味では平等なのですが、少なくとも大学受験制度は意図せず非メリトクラティックな考えを持ちやすい集団(将来の職業や大学で学びたいことを重視する人)が難関大学にアクセスしにくいようにできている、そんなメリトクラシーの「罠」ともいえる側面について、もう少し議論を深めていこうと思います。
最近、断ることが増えた。断るのは辛い、人間関係がベースにあるから。だけど時間は限られてて、自分がやりたいこと、自分にしかできないと思われることに集中した方がいいと最近考えるようになってから、断るようにした。それでも、色んな理由で断れなかったものは、長いto doリストの中に入っていく。
まだ、不安定な身分の大学院生なので、断ることが、何かしら大切な機会を逃してしまうことなんじゃないかと不安に思うこともある。でもどこかで自分の研究を優先しないと、研究者として潰れてしまうんじゃないか、そういう恐怖感には勝てない。
人間関係に根差してなくても、断らないものがある、それは査読。自分が読むだろう雑誌の査読は、まだ基本断ってないと思う。それでもいくつかは、自分じゃない人が査読した方がいいなと振り返って思う。自分が読む雑誌+自分が適任の査読者である論文である場合は、忙しくても査読するようにしている。
最近、計算社会科学の界隈で、社会学が注目してきたアウトカム(例:大学に行くかどうか)をサーベイデータに機械学習応用して予測しても、精度は単純な線形回帰とそこまで変わらない、みたいな話がある。
Salganik, Lundberg... McLanahan. 2020. Measuring the predictability of life outcomes with a scientific mass collaboration. PNAS.
この研究の知見から、社会学者が手塩にかけて実施してきた社会調査では、個人のライフコースを予測する重要な変数を聞けてないのではないか?という話になり、アメリカでは予想と現実が一致しない人(モデル上は大学に行ってない確率が高いのに実際には行ってる人)にインタビューをして、何が見逃されてきたのかを、調査しているグループもある(というか、僕の同僚のチームがやってる)。
このプロジェクトで使用された調査データについては、今度出る「社会と調査」で、そのプロジェクトと一緒に解説しているので、ご笑覧ください。
(ここで急に自分語りに入る)そういう意味では、自分も調査でわかる出身階層(地方出身、両親高卒、ひとり親家庭)的にはアウトカム(学部東大、アメリカで博士課程)はかなり予想から反すると思う。反実仮想はわからないけど、上記の不利を克服したと思える要素を並べると、
偶然、地元の進学校に入ると、周りが難関大学志望に囲まれるので、実力不相応でもそういう大学を志望しがちになる(ピアエフェクト)。そういう意味では、地方とはいえ、県庁所在地で進学校や予備校も自宅から通える距離にあったのも重要かもしれない。東大に入っても、上記の不利はあまり問題にならなかった気がする(俗にいう大学の平等化効果かもしれない)。
ということを、進路選択の調査を企画しながら思った次第。深夜の一人語り終了。
もちろんそれが慣習として成り立つのは十分理解できる。実名顔出し公開垢でやってると、つぶやきが公的な発言として残る可能性は最近ひしひしと感じるし。自分はそういう慣習化に抗いたいだけかもしれない(日本語と英語アカウントを分けるとかもそう)
今日の午前は溜め込んでた旅費の申請を一気に済ませて、少し徒労感を覚えた。お金をもらえるのはいいのだけど、社会学部、人口学研究所、大学院、それからPIIRSに別個に申請して、コロナ禍で旅行申請の手続きも面倒になっている。日本への旅行は、まだ学部ディレクターの承認が必要だったりする。
今日は阪大からビジットできている先生とブランチ。アメリカにいながら日本の先生と交流できるのはありがたい。こっちの大学に就職したいけど日本の学生を指導したい、プリンストンに残りたいけど独立研究者にもなりたい、そんなジレンマ(欲張りともいう)を抱える最近。夜はコーホートの友達とボドゲ。祝日前の、のんびりした数日。
でも逡巡して結局プリンストンにできるだけ長くいるのがいいなという結論になる(ので今年は就活しない)。。居心地良すぎるのもまた問題。
自分はまだ博士課程の途中だけど、最近コラボで修士の人と研究するようになって、少しメンタリングとかも考えるようになった。どこまで教えて、どこあたりである意味で突き放すのか、塩梅が難しいなと思う(指導教員ではないので尚更)。
あと自分は同じ院生なので「同僚」くらいの目線で考えてても、向こうからすると「先生」くらいに見えてるのでは、と思うこともある。気持ち先輩くらいの距離感でいたい。
万が一アメリカで就職したとしても、多分日本のことをやる学生を指導する機会はかなり少ないと思うので、そういうのを少し企図しながら、今のうちにちょっと下の世代の人ともネットワークを築いておいた方がいいだろうなと考えている(結果論として)。
自分はかなり特殊ルートで留学かつ出願などに対してかなり偏った見方をしている気がするので、多分自分みたいな人はアドバイスしちゃいかんのだろうなと思った。
自分の経験や周りを見て思うのは、博士課程後のキャリアから逆算して出願校を選択した方がいい。例えば、研究環境重視なら、アメリカの研究大学に就職するのがいい。そうしたければ、トップスクールに行く方が、多分いい。トップスクールに受かるチャンスを増やすには、アメリカの修士を挟む方がいい。
じゃあ自分が逆算して出願先を考えていたかというと、そんなことはなかった(シンプルに一緒に研究したい人のところに行った)けど、結果的に今いるところはそういうルートに沿っている。一番は誰の指導を受けたいかだと思うけど、将来の選択肢を残しておくことも一つ。
One of my dissertation chapters on educational homogamy in Japan received an honorable mention for the ASA population section's student paper award. This is a huge honor. So many thanks to my advisor Jim Raymo, as well as my friends and colleagues in Madison, Tokyo, and Princeton.
日本の学歴同類婚に関する論文がアメリカ社会学会の人口社会学セクションから賞をいただけることになりました。留学してから自信を失うことも度々だったのですが、最近この手のrecognitionをいただくことがあり、自分のやってきたことは間違ってなかったと思えるようになりました。自分の一番好きな論文が、アメリカの社会学に認められたことに対する安心感はとても大きいです。
Side note: I love this paper so much because it is an evidence of my 12 months in Madison - this paper was (mostly) made there, from the early stage to the end (writing up the first draft). It would have looked quite different without helpful feedback from my Madison friends and professors.
余談。受賞した論文は、最初(問いの設定)から最後(ドラフトの執筆)までマディソンにいた一年で済ませた唯一の研究で、とても思い出深いもの。マディソンにいた時に友人や先生たちからもらったフィードバックがなければ、今の形にはなってなかったはずです。
しかし、honorable mentionって何て訳せばいいんでしょうね、佳作?特別賞(なんか盛ってる…)?歴代受賞者を見ると、もう錚々たる方々で、賞の名誉に泥を塗るようなことがないように引き続き研究していければと思います。
毎日5-8コマある免許合宿の空き時間に少し研究しようと思っても、細切れになってしまい、できることはメールを返したり、論文のワンパラグラフ書いたり。なかなか集中できずにストレスが溜まる日々を過ごしていたのですが、1ヶ月ぶりにプリンストンの同僚と話して、久々にやる気が出てきました。
集中する時間が限られると、夏休みに何を成し遂げたいのか、大きなピクチャーを忘れかけてしまいます。そんな状態だった自分を現実に引き戻してくれた友人たちに感謝です。
・サマーリーディングリストの消化
・論文を書き上げ、投稿。学会発表の準備
・8-9月の調査の計画
・その他有象無象の雑務
毎年この季節は少子化が話題に上がってますが、最近進めてる研究だと、初めて就いた職業が正規か非正規かで、男性が45歳までに結婚し子どもを持っている割合は大きく違うことがわかりました(正規は6割、非正規は4割)。この雇用形態による格差は、非正規雇用が拡大した90年代以降、大きくなってます。
雇用形態で結婚/出産のチャンスが異なることは既知ですが、この格差は初職時点から生じてるようです。日本は非正規→正規への移動が難しく、最初のつまづきが後々の家族形成にも影響します。こうしたつまづきを減らす、または雇用形態に関係なく将来を描けるようにしないと少子化は続くかもしれません。
今日は来年やろうと思っているプロジェクトで進捗。昨年やったような二次分析の研究会、テーマは子育ての階層差。アドバイザーをお願いしたい先生に恐る恐るメールをしたら、快諾してくれよかったけど、よければ私も分析しますかと言われ、驚いた。忙しいからと配慮のしすぎも良くないんだなと思った。
教習の方はS字カーブに四苦八苦しているが、運転自体は楽しい。
空き時間を利用して、関西にいる研究者の友人や先生方と会っている。なかなか東京にいるだけでは会うことが難しく、コロナがあって数年間会っていない人もちらほらだった(忙しい学期中にも関わらず、お時間とってくださった方々、この場で御礼申し上げます)。
今日も教習が終わってから、一人の先生とお茶しに梅田まで向かっていった。
その先生を一言で形容すると「変」な人である。
変と言っても、性格が奇妙とか、そういうのではなく、研究に対して一癖も二癖もある考えをしていて、なかなか教科書通りな答えに納得しない人である。そして自分でモノを考えている。アメリカのように大きなリタラチャーにいい意味で思考を支配されることもなく、日本のように属人主義的な考え方(〜〜先生がこう言ってるから)にも与しない。その人なりの社会調査の哲学を持っている方で、学会でお会いした時からとてもユニークな人だと思っていた。
4年を経て久々に再会しても、そのユニークさは変わっていなかった。
その先生は、ラディカル社会調査思想ともいうべき、調査に対する非主流な考えをずっと持っていた。一つ目が「パネル調査は必要ない」という思想である。やばい。
ざっくりいうとパネル調査では、人々はその時々の気分に左右された回答をするし、アトリションがある割にお金がかかる。それよりももっとコスパがよい調査手法があるだ。Y先生は、一時点で懐古式の質問をすればいいと考えている。
この考え方に、色々と賛否はあるだろう。高齢者については死亡バイアスがあるだろうし、何より問題になりそうなのは、懐古バイアスである。人は昔起こったことを忘れるし、現状を踏まえて合理化した回答をしがちだ。
正確に昔のことを覚えているかは、正直わからないという。しかし、少なくとも嘘はつけないような調査設計をすることで、こうしたバイアスには部分的に対処しているという。
「嘘のつけない調査設計」とは、いったいどういうものだろうか。この辺りが、やっぱりY先生、一癖あるな〜と思ったところもである。
要するに、一つの質問で嘘をつくと、他の質問でも嘘をつかなくてはいけない設計にしている。そうすることで、調査者はどこで嘘をついているかわかるし、回答者も嘘をつき続ける方が大変なので正直に答えた方がいいと考えるようになるらしい。もっとも、無回答も可能な設計になっているので、答えてくれる人はセレクティブな集団になっているかもしれない。
一度嘘をついたら、他でも嘘をつかないといけなくなる、というのは人の実際の人生がどういうものかを踏まえた、絶妙なトリックだと思った。こうした点を活かすには、それぞれの質問が独立しているように設計するのではなく、相互に関連するような設計をするべきなのだ。ちなみに、そんなテクニックは、社会調査の教科書には、一切載っていない。その先生の経験に裏打ちされた、職人芸なのである。
Y先生のラディカル社会調査思想その②は、「全国無作為抽出の調査はいらない」である。これも、やばい。まあ正確にはパネル調査も、無作為調査も必要なのだが、それよりももっとやるべき調査がある、という考えだと思う。
なぜ全国無作為抽出はいらないのか。端的にいうと、メカニズムがわからないからである。特に社会学者が興味を持つようなアウトカムは、友人関係(ネットワーク)やどういう学校・地域にいるか(コンテクスト)、そういったマクロ(社会全体)とミクロ(個人)の間にある、メゾな要因が重要になる。無作為抽出だと、by designで調査対象者はお互い全く繋がりがない人になるので、そんな調査ではメカニズムがわかりにくい、というものだ。なお、この考え自体は珍しいものではなく、例として分析社会学的なアプローチはそう考える傾向が強いと思う。現実的な落とし所としては、Add Healthのような注目するコンテクスト(この場合は学校)単位で抽出するような全国調査だろう。
そうした文脈で、自分が考えている学校調査の話もした。この夏に12校ほどの高校を訪れてインタビュー調査をしたいと考えているが、将来的には協力的な学校や教育委員会とコラボして、学校全員を対象にしたパネル調査をしたいと考えている。ピア効果を見たいのが、目的の一つである。相変わらず、Y先生も無作為でなくてもいいと考えていて、少し懐かしくもあり、同志ここにありという気持ちにもなった。
ソーシャルメディアをやっている人でもなく、お互い4年間近況を知らせてなかったので、久しぶりに「今いったい何をしてるんですか」を素朴に聞けた。個人的にはとても楽しい時間だった。
一時帰国してから、日本の研究仲間とご飯を食べながら話している。さながらパンデミック前に戻ったかのようだった。
今日もそんな日で、友人の研究者と話していて、何がいい研究なのかを評価するのは難しいと言う話になった。普段はあまり話さない内容だったので、少しここにも書いておく。
発端は、英語論文を書くべきなのかという、日本の社会学ではよくある話をしていたところから始まる。日本の社会学では、まだ日本語で論文を書くカルチャーが強い。英語で書こうとしている人も増えているが、いかんせん国内大学では英語で論文を書くトレーニングを受けていないので、実際に書いている人はとても少ない。
そういう話をしていると、なんとなく「英語論文=すごい」であったり、いわゆる「国際誌」に投稿する研究者の方が優れている、みたいな考えになりがちである。人間は希少なものに価値を置く。
アメリカの大学院にいてこんなことを言うのは矛盾しているかもしれないが、個人的には「必ずしも」そうではないと思う。本来は書く言語によって研究の質が決まるわけではないからだ。しかし「必ずしも」という言葉をつけているのは、現実としては日本語の雑誌よりもいわゆる「国際誌(英文雑誌)」に書かれている論文の方が、質が高いものが多いと私は思うからである。
ところで、個人的には「国際誌」というジャンルは言葉としてはあっても、現実にはほぼ意味をなさない呼び方だと思っている。この区分は、日本語論文とそれ以外の論文を対置させたがる日本のアカデミアに顕著な分け方なのではないかと推測している(が他の国のことは詳しくない)。アカデミアにあるのは「アメリカ」や「日本」といった国や地域(を単位とする学会)で括られる雑誌であり、英文雑誌でそうした境界を超えているものはサブフィールドごとの、つまるところ「業界誌」であると思っている。
もう一つ加えると、アメリカの(社会学の)研究観のもとでは、「英文雑誌」という括りも存在しない。英語の雑誌しか読まない彼らにとっては、全てが英語論文に等しいので、そんな区分は意味をなさないからだ。その上で、トップスクールを中心に、アメリカの一般誌(ASR/AJS/SF)+フィールド誌(業界誌、Demographyなど)+一部の地域誌以外のジャーナルは「ジャーナルではない」という研究観も存在する。
こういう考え方は、正直言うと好きではない。その一方で、この考えは研究に一定のクオリティを求める考え方と一緒になっており、アメリカのトップスクールの競争的な環境は自分が好きな部分でもあるので、なかなか一言では表し難い感情を抱いている。
なぜだろうか。自分は色んな研究観があっていいと思っているからであり、アメリカのトップスクール由来の価値観が支配的になる必要は全くないと思うからだ。英語のトップジャーナルを目指す人がいてもいいし、ランキング拘らずコツコツ載せる人がいてもいいし、日本語の雑誌や書籍をメインに書く人がいてもいい。一番やりたい研究に適した媒体がそれぞれあるはずだ。
ただし、現実にはアメリカのトップジャーナルの質は高いし、研究環境も一番競争的なので、彼らから学ぶことも多い。このように質の高い雑誌のオーディエンスは一部の国に偏っているため、そうした雑誌に論文を載せようとするとアメリカのオーディエンスが面白いと思ってくれる問題設定を選ぶことが合理的なアプローチになってくる。
理想論を言えば、アメリカのオーディエンスに媚びた論文を書く必要はないと思っている。あまりに媚びすぎると、アメリカを中心とする既存研究で自明視されてきた考えを自分も内包してしまうからだ。トップジャーナルに載る論文は、既存研究の考え方をいい意味でひっくり返すような新しい貢献が必要になる。そうしたちゃぶ台返しをできるようになるためには、既存研究を批判的に読む必要がある。
アメリカなどでトレーニングを受けても、アメリカのオーディエンスを過度に意識したモノマネのような論文をそうした雑誌に書く必要は全くない。できれば、既存のアメリカの知見を引用しつつ、その議論をちゃぶ台返ししたり、新しい視点を加えるようなオリジナルな研究をする人が日本にも増えてほしい。自分の理想は、日本の社会学部に、アメリカのトップスクールなどでトレーニングを受けた人が半分、日本で博士を取った人がもう半分を占める状況である。そうした環境が実現できれば、日本の大学院で博士をとっても英語でオリジナルな議論をトップジャーナルに掲載できる人が出てくるかもしれない。
そのためには、英文雑誌を一括りにせず、自分はどの雑誌をターゲットにするのか(トップジャーナルなのかフィールド誌なのか、アメリカの雑誌なのかそれ以外の国の雑誌なのか)を明確に考え、大学院のトレーニングに落とし込んでいく必要があると思う。
昨日今日と上間陽子さんの「裸足で逃げる」「海をあげる」を読んでいた。暴力、離婚、貧困は幼い頃の自分の周りにもあった。風俗と借金はなかった、そして基地も。アメリカで遺伝子検査をして、自分の遺伝子の25%が沖縄オリジンと知ってから、気になっている。多分父方の祖父がそちらの出身だと思う。
基本的に自分は、自分のオリジンをうまく言語化したいと思って研究している、そういう意味では利己的と言えば利己的かもしれない。自分を理解することを通じて、自分が育った日本を理解する、あるいはアメリカと比較する、そういうことをしている。ただ最近は、もう少し自分だけじゃなく社会的にも重要なテーマもやろうとしている(進路選択のジェンダー差とか)。
もしアメリカで日本社会論の授業を持つことがあれば、1回は沖縄に当てたいと思う。そして自分はアメリカに残ってそういう役回り(社会学や人口学の視点から日本社会の説明をする)を担わなくてはいけないと思う。
日本の大学からゲスト講義の依頼をいただきました、ありがたいことです。
大学院の英語文献の購読のゼミで、僕の書いた論文を扱ってくださるということで快諾しました。せっかくなので某トップ二誌からリジェクトされた後、某誌で改稿中の論文を扱おうと思います。
プリンストンで似たような授業を受けて、とても参考になった記憶があるので。査読プロセスの追体験をしてもらえればと思います。
プリンストンは春学期が終わりつつあります。私も残り1週間で色々ラップアップして、来週金曜の便で日本に帰ります。1ヶ月ほどいるのですが、半分以上は神戸に滞在して免許合宿をしてたりするので、関西方面でお時間ある方がいたらお茶に誘ってください。
タイミング的にちょうどいいので、アメリカ4年目を振り返っておきたいと思います。4年目と言いつつ、プリンストンでフルに対面の1年を過ごすのはこれが初めてでした(1年目はマディソン、2年目は春学期の後半からパンデミック、去年はずっとオンライン)。入団してすぐトレードされたけど、ずっと怪我がちでようやく初めてフルシーズン完走できた野球選手みたいな気分です。
一言でいえば、4年目は楽しく、日本時代も含めて大学院に入ってから1番充実してました。時間的にも、体力的にも余裕があって、自分のしたい研究を毎日できています。そしてとても忙しいです。個人的には二つのターニングポイントがありました。それらに触れながら、4年目を振り返ってみます。
一つ目は自分が尊敬する教授からアドバイスを定期的にもらえるようになったことです。彼は、私の専門にする社会階層研究では存命中の人物では紛れもなく世界でトップの研究者で、昔から尊敬してました。実は学部生だった頃に、相関に進んで今はなきAIKOMを使って彼が当時在籍していたミシガン大学に交換留学にいき、そこで1年指導を受けてレターを書いてもらって学部卒でアメリカへ…みたいな野望を抱いていた時期があったのですが、高山ゼミに入ってからみるみる成績が落ち、なくなく?文学部社会学専修に進んだ経緯があります。奇遇なことに、そうして日本の大学院に入り渡米が遅れたこともあって私は指導教員の移籍と合わせてプリンストンに移れましたし、彼もミシガンからプリンストンに移り、今は一緒に研究することができています。
もともと挨拶程度はする感じだったのですが、明らかに自分は彼からすると同僚の指導学生といった扱いで、さらにいうと彼は私の指導教員の指導教員でもあるので、あくまで指導教員を通じて話す仲に過ぎませんでした。自分にとっては偉大すぎる研究者であることもあって、個人的に話す機会をなかなか見つけられずにいました。転機があったのは、彼がリードして今年から社会階層研究のセミナーを開いてくれてからでした。院生がアーリーステージの研究を報告するゼミのような場で、何度も参加するようになると、彼を前にしても自分の言いたいことを緊張せずに言えるようになりました。
1ヶ月ほど前にウィスコンシンの時から秘めていたアイデアを具体的な形にして報告したところ(このアイデアを発表しようと思ったのも、指導教員を同じ同僚の研究に触発されたからだったので、やはり面と向かって自分の考えを話す機会は大切だなと思いました)、思いの外、高い評価をもらえて、彼がそのアイデアを違う集団(アジア系アメリカ人)に応用したらいいといってくれてから、指導教員も交えて3人で共同研究がスタートしました。そこから数日の頻度で分析した結果をメールで共有すると、基本的には短文で「引き続き頑張れ」みたいな返信で終わるのですが、たまに少し長めに彼の考えを共有してくれたり、セミナーの後に話したり、4月にあった学会の前後で車で一緒に移動することになった時には彼の研究に対する考え方の一端に触れることができて、本当に学ぶことが多かったです。バッググラウンド的にも自分のロールモデルと言えるところが多く、彼と1対1で気さくに話せる仲になれたのは、今学期1番の出来事でした。
彼の具体的な教えの一つは、アーリーステージの研究を同僚に報告して、そこから率直なフィードバックをもらうというものでした。その方が軌道修正が簡単だからです。そんなの当たり前じゃないかという感じもしますが、やはり人前で発表するとなると、人はoverprepareしてしまいます。自分が駒場・本郷で経験したのは「完璧」なものを見せるカルチャーだったので、なかなか「中途半端(英語では生焼け half-bakedといったり)」なアイデアを報告するというのは勇気が必要でした。社会階層セミナーは発表する側もコメントする側も敷居は低く、かつ率直に議論できるように、アーリーステージの研究をみんながどこかで共有して、できるだけ定期的に参加することを勧めていて、彼なりにそういう場所をデザインしたいのだなという意図が見えました。
この教えを体で学んだところもあり、今学期は指導教員と定期的に話す機会をかなり増やしました。これはスタンフォードにいる社会学の友人からのアドバイス(彼女は毎週指導教員と1時間面談しているようで、流石に自分はそこまではまだできていないのですが)にも影響されています。できたものを見せるだけならメッセージでもいいのですが、アイデアを話すのはやはり対面がいいです。そうやって研究の早い段階からシニアの教員のお墨付きをもらえると、これは面白い、重要だという言葉が後押しになってその後の研究にもポジティブなフィードバックがある気がしています。そうやってひたすらアイデアだけが増えて全く実になっていないのですが、2年後に卒業するまでにはどうにか目処をつけたいと思っています。
上と少し似ていますが、もう一つのターニングポイントは自分の研究が間違っていないという「承認」をもらえたことでした。大きなものは二つ。一つは人口学のトップジャーナルに投稿した論文がR&Rをもらったことです。英語では初めての単著で自分が一番好きな論文でもあります。2020年から2021年の半ばまで社会学のトップジャーナルに立て続けにリジェクトされて自信を失くしかけていたのですが、自分が一番好きなジャーナルの一つから朗報をもらって、とてもラッキーでした。最初は信じられなかったのですが、コメントをよく読み、改稿について考えるうちにこれは現実なんだと思うようになりました。不思議なもので、今までの辛かったリバイズの経験とは打って変わって、改稿のアイデアはどんどん出てくるし、何より机に向かう時間、ずっと集中できていました。このジャーナルに載せると、冗談じゃなく自分の人生がいい方向に変わるので、そういうハラハラ感というか、未来を自分の手で変えようとしている感覚が、そういうハイテンションな5日間を呼んだのかもしれません。とても貴重で、かつ楽しい時間でした。
もう一つは先日書きましたが、プリンストンのcompetitive fellowshipをもらえたことです。これはどちらかというと自分の業績というよりは指導教員とメンターの先生が強いレターを書いてくれたからだと思うのですが、2019年にプリンストンに来てからどうしても「よそから来た誰か」というラベリングを自分が拭えなかったので、大学院から認めてもらえたのは安心しました。
研究は孤独で、ストレスがかかるのが常なのですが、同僚から励まされたり、こういった承認をもらえたことで、乱高下はありつつもメンタルの方も比較的調子がよかった一年でした。とはいえ、メンタルを安定させないといけないのは自分の昔からの課題でもあります。
研究についても色々アップデートはあるのですが、やってることが多過ぎて一つにまとめるのはまたの機会があればにしたいと思います。
ロンドンのLSEで3日間にわたって行われたRC28の学会に参加してきました。対面での参加は、これが3度目(2018年のソウル、2019年のプリンストン)、昨年あったオンラインのものも含めると4度目になります。イギリス開催だったこともあり、今回はヨーロッパからの参加が多く、懐かしい再会も多数でした。いくつか学会に参加して思った感想をぽつぽつ書いておきます。
まず、コロナ前から起こっていたことではありますが、registry dataを使った分析が多かったです。社会学の階層研究はヨーロッパの研究者が比較的強い分野でもあり、もともと北欧の研究者の層は厚かったのですが、ビッグデータの波に乗って北欧の大学にいる研究者たちは基本registry dataを使って興味深い問いを検証していて、データのサイズ的には太刀打ちできないところがあります。今回で言うと、例えばデンマークの図書館の全履歴をとってきて、どのような本を借りたかを通じて文化資本を測定するといった研究がユニークでした。また、北欧以外でもオランダのtwin registry dataを使ったゲノムの分析や、イギリスに居住する外国籍の高所得者(non-doms)の税務データを使った富の分析など、いくつも面白い報告がありました。調査ベースでも、PSIDを使って親や祖父母だけではなく親族全てをclanと見做して、子ども世代の教育達成に与える影響を見てみるといった研究などがあり、この手の拡張路線と近しいところがあるかもしれません。
データの革命で言えば、20世紀前半のイングランド・ウェールズの国勢調査をリンクして社会移動を見るといった、歴史的アプローチを取る研究もちらほらありました。この手のビックデータ系の研究は社会階層研究でもかなり増えてきています。因果推論・機械学習などと合わせて、第五世代の社会階層研究は既存の研究パラダイムをデータサイエンスと一緒に拡張していくことになると予測する報告もありました。
こうしたデータやメソッドで押されると、翻ってRC28が大切にしてきたコンテクストを重視する比較の視点が、ややないがしろにされる懸念もあります。cutting edgeな研究の多さでいうと、やはりPAAの方が多かった気がしますが、RC28のよさは比較の視点にあると思うので、そこは忘れないで欲しいところです。
この点に関連して、日本からの報告が少なかったことは心配の種になっています。直前までコロナの事情が読み通せなかったことや、大学がまだ渡航を認めていない例も多いようですが、日本の大学から参加してきた方は2人、報告は1つだけでした。アメリカの大学にいる私のような研究者の報告を合わせても、4つに過ぎなかったです。対面での学会が再開するなかで、日本の研究者が国際学会で報告しにくくなるような状況にならないことを願っています。
私が参加したセッションは、社会移動とメソッド(x2)、遺伝、富、子育て、高等教育とジェンダー、同類婚などでしたが、その中で言えば富のセッションは、うまく既存研究を批判的に検討しつつ、経験的な知見のelaboration/applicationが進んでいる印象を受けました。社会ゲノミクスは階層研究でそれなりにみられるようになってはいますが、この分野が10年後、富の研究と似たような状況になっているかどうかは気になるところです。
これに対して、子育ての研究は、既存研究のマイナーチェンジといったものが多く、あまり感心しませんでした。同類婚の研究もいくつか面白い研究はありましたが、似たような気配を感じます。Rob Mareが生み出した遺産を食い潰す前に、同類婚の新しい研究が求められている気がしています。所得格差に限らない格差の帰結に関する研究や、同類婚と社会移動の関係などが候補にはありますが、これまでの研究の認識を変えるような研究が出てくるまでには、まだ時間がかかる印象です。
以上の感想は、同じ学会に複数参加してみるからこそ出てくるものでもあります。RC28には国際学会ならではの多様性もありつつ、比較的問題意識が共有されている点がユニークです。だからこそ、何度も参加してみることでトレンドの変化を見出すことができます。また、何度も参加することで、ネットワークが広がるところもあるので、日本から「常連」となるような人を連れてくることが、自分が今後やっていかなくてはいけないことなのかなと考えるようになりました。
Twitterで炎上しかけている内閣府「人生100年時代の結婚と家族に関する研究会」には、知り合いの研究者がたくさん入っているのですが、そのうちで小林先生の提出した資料で「壁ドン」を含めた恋愛・結婚支援の文脈で導入することが書いてあって、批判されています。軽率だと思いますし、研究会にいる先生もそう思ったのではないかと思います。
ただ、政府の出生・結婚支援策は基本的にpronatalistだと思うので、その意味では壁ドンと婚活パーティーも似たようなものに、個人的には見えます。出生・結婚支援策が研究者も入って進められている背景には、結婚・出産を希望している人と現実の間にギャップがあるからです。
個人的には、希望と現実の間に差があるとすんなり認めるよりは、個人的には希望のニュアンスを見た方がいいと思います。よく引用される社人研の出生動向基本調査の結婚希望ははい/いいえの二択ですが、他の調査だと一定数が「まだ考えていない」「どちらでもよい」と答えています(Raymo, Uchikoshi, and Yoda 2021)。聞き方によっては希望と現実のギャップも違って見えてくるので、二択の質問でpronatalistな政策を進めるのは、早計だと思っています。
3日間にわたってアトランタで開催された、アメリカ人口学会。久しぶりの対面で、直接人と話すことの大切さを感じた。例えば、自分が行こうと思っていたセッション以外にも、友達に誘われて行ったセッションの報告が面白かったり、ご飯を食べながら見逃したセッションの面白い報告について聞いたり。それ以外にも、セッションが終わったあとのsmall talkで意見交換したり、やっぱり論文、報告だけからはわからないニュアンスみたいなものが、会話からだと吸収できる。
そうした点を踏まえて、いくつか印象に残った報告と、それを踏まえて読まなくてはいけない文献の列挙。
[同類婚]
同類婚の発表では、ウィスコンシンの友人だったNoahがChristineらと進めている、Schwartz and Mare 2005のアップデート、Eight decades of educational assortative matingが印象に残った。特に、2010年代には学歴同類婚は多少弱くなっていること、人種別にみるとこの傾向は白人で顕著な一方、アジア系とヒスパニックでは同類婚が増えている点が興味深かった。アップデートがメインの目的ということで、graduate degreeはBAとまとめられていたが、人種別の結果を見るとおそらく大学院は別にした方がいいだろう。これとは別に、人種別のgraduate degreeの割合がどれくらいなのか、気になった。
Status exchange theoryを経験的にアップデートするために、Xie and Dong AJSで提案されたlog-linearにかわるExchange indexを中国の地位と美貌の交換に応用したYu Xieの報告も、面白かった。内容よりはメソッドが興味深く、AJS論文を読まなくてはいけない。
https://www.journals.uchicago.edu/doi/full/10.1086/713927
[子育て]
最近、parenting(子育て)が社会階層の形成に果たす役割に興味を持っている。親の学歴で子どもの学力が異なる話や、アメリカでアジア系が学業成績で優位に立っていることを説明するメカニズムとして、最近注目されている。ブラウン大学のJacksonさんの学歴間の子育て格差が州レベルの子育て支援によってどれだけ縮小するのかを検討した論文は面白かった。特に、子育て支援策は低学歴層の親の育児時間を増やすことで格差を縮小すると言う知見がパンチライン。ポスター報告でコロラド州立大学のHastingsさんがオンライン調査のテキストデータからデータドリブンに子育てスタイルを抽出した研究も面白かった。
ひとまず、KHPSを使って、子育てスタイルの類型化とそのパターンが子どもの年齢や親の階層によって異なるかをみてみようと思う。
アジア系との関連でいえば、子育て支援策を導入したとしても、子育てスタイルが文化的な背景に左右されている場合には反応が鈍いかもしれない。Policy shocks and cultural stickinessの話も考えていきたい。離婚との関連で子育てスタイルの関係を考えているのだが、もしかすると結婚満足度と離婚の関係も人種によって異なるかもしれない。この手の話ではセレクションによるcollider biasが常に問題になるので、その点も引き続き考える必要がある。
https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/00491241211043131#.YZWK3DfY60U.twitter
日本でも市町村レベルでは子育て支援策にばらつきがあるので、似たようなことをしてもいいかもしれない。Jacksonさんの研究はbetween statesのばらつきをみてみたが、歴史的なトレンドも気になる。
[メソッド]
人口学における因果推論のセッションが面白かった。ウィスコンシンの後輩だったAng Yuが報告してた研究では、raceやgenderといったgroup membershipをtreatmentではなく所与のものとして考えて、関心のあるtreatmentへのselectionを考えればいいのではと提案した上で、因果効果に加えてセレクションの部分を考慮した分解法を提案していて、面白かった。
これと合わせて、プリンストンの同僚だったIan Lundbergのgap closing estimandsも似たようなロジックで議論しているらしく、チェックしないといけない。
https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/00491241211055769
今夜は調査伺いを2校に送った。先日送った2校からは、早速オーケーのお返事、ありがたい。その前に、新書の編集者の人とミーティング。先日は、夏の高校調査に向けて、高校の先生とzoomで話す。快諾していただいた。地道にアプローチしていく。
4月1日になりましたが、着任できるポストはないので、今やっている研究についてつらつら書きます。博論は、最悪今のままでもいいかなと思っているのですが、ひとまずあと2年はいるので、ちまちま博論をアップデートしつつ、博論後を見据えた研究をしているところです。
最近のエフォートで言うと、3割を(1)高校生の進路選択の男女差に関する研究、2割を(2)社会ゲノミクスに使っています。東大社研の後援を受けた研究会はすでに報告書を書くだけになっていますが、スピンオフで(1a)複数の地域の高校を対象とした、高校生と教員を対象にしたインタビュー調査、(1b)全国の高校教員を対象にしたサーベイ実験、(1c)女性の浪人ペナルティの研究、(1d)大学学部レベルでみた選抜度と女性割合の関係に関する論文を進めています。加えて(1e)報告書と(1f)博論の第3章の改稿があります。今週は(1a)のための研究助成の申請書を書いていました。
(2)は主として、(2a)きょうだいで遺伝子データが揃っているサンプルを使って、親の遺伝子をimputationする分析を進めています。手法自体はすでに確立し、パッケージも出ていますが、実際に分析するときには、少々細かい作法が必要です。Add Healthでimputationをしています。加えて(2b)日本サンプルを対象に教育GWAS/PGIの作成にも取り組んでいます。今週はこのミーティングなどに時間を使っていました。企業とのコラボをしています、楽しみです。(2c)博論第1章の改稿と合わせて、ゲノミクスはこれくらいでいいかなと思っていたのですが、先学期TAをした先生から遺伝的祖先とスキンカラーを考慮した(2d)racial identificationと(2e)racial segregationの研究を誘われて、リードするかは微妙ですが入ることになりました。imputationが完了した暁には、多分他のプロジェクトにも巻き込まれます。
一応家族人口学者としてのアイデンティティは失っておらず、(3)日本の家族形成と格差・不平等の研究もしています。具体的には(3a)きょうだい地位による同類婚、(3b)健康状態と結婚へのセレクション、(3c)学歴同類婚と所得不平等の関係に取り組んでいますが、主として共著者側の理由で頓挫しているのが現状です。(3d)従業上の地位と出生と(3e)lifelong singlehoodの研究は夏に再開したいと思っています。(3f)新書の執筆も、ここに分類されるかもしれません。
ほかにも頓挫しているプロジェクトはあるのですが、ひとまず上記がメインかなと思います。Diverging destiniesの話の延長で、離婚の学歴差がなぜ生じているかに興味が湧き、最近はその論文も書いてます。
一応、博論は(1)高校生の進路選択の男女差(2)遺伝的ポテンシャルと社会移動(3)学歴同類婚をそれぞれ1章ずつ扱っているので、大きく研究関心が変わっているわけではなく、論文にならずにひたすら拡大しているという感じです。自分の予定では、卒業するまでに大体全て終わるはずなのですが、どうなることやら。
野球のピッチャーのごとく、研究者にも「決め球」はある。本人が得意としていて、査読の際に違いを出せるアプローチ。自分の今持ってる決め球は、そこまでキレがよくない「交互作用」と、ゴロは取れるけど三振は取れない「人口学的分解」。因果推論は、好きじゃない。
すっかりブログを書かなくなってしまった。本を書くと決めてから、ブログを書くのに使っていた夜の時間を全て執筆に回してしまったからだった。
進捗で言うと、昨日、第二章を編集者の人に送ったところだ。しかし、正直に言うと、あまりよく書けていない。第一章の方が、個人的にはよく書けていると思う。第二章は、少しバランスが悪い気がしている。
なぜそうなのか、自分でもよくわからない。恐らく、と思うのは、二章の方が知らないことがまだ多いからだと思う。本を書いていると、構成上、触れざるを得ないが、自分はそこまで詳しくない、そんな箇所が浮き彫りになってくる。
第二章は、一章よりも、そういうところが多かったので、これが関係しているのかもしれない。一つの箇所に自信がなくなると、全体のバランスが崩れていく。もちろん、全てに等しく詳しくなることはできないので、校正を経てバランスを修正していかなくてはいけない。
そういうわけで、今日は久しぶりに本を書かなくてもいいかなと思える1日だった。だから、というのが半分、もう半分は、今日あった出来事が色々と興味深く、今思っていることをメモしておいた方がいいと考えたので、今日は久しぶりにブログを書くことにする。内容は三つ、DEI、就活事情、そしてビジットデイである。
【DEI training】
まず正午に、学部に所属する院生アソシエーションの主催で、DEI training workshopがあった。DEIというのはDiversity, equity, and inclusionの略で、ティーチングの場面では、異なるバックグラウンドを持つ人がハンデを背負うことなく、最大限学べる、居心地の良い環境づくりを目指す考え方である。日本でも似たような試みが最近広がっていると思う。アメリカの方が、歴史が長い分だけ、構造化されているかもしれない。また、学生の学びを最大限引き伸ばすというゴールが明確に設定されている分、一つ一つのステップがなぜ必要なのか正当化しやすい。そういう効率の良さも持っている。
色々と学ぶことはあった。まず透明性を高めること。課題にrubricを作ることはよくやられる手法だが、こうすることで、採点者の持つ暗黙のバイアスを除去することができる。オフィスアワーも、典型的にはシラバスに時間を書くだけのことが多いが、オフィスアワーで何を話せるのか、具体的に書くことで、誤解を解くことができる。オフィスアワーでは、別に授業に関係することだけ聞く必要はない、日頃の生活や、悩みなどを話してもらえれば、教える側も生徒のことがよくわかるし、授業についていけなくなっている時に、その背景を推し量ることもできる。これ以外にも、ミッドタームにフィードバックをすること、課題について今までの学生の成果を示しながら、こちらの要求水準を明確に示すことなどが紹介された。
次に、学生間のインタラクションを構造化すること。学生が授業についていけるかの重要なファクターは、同じ授業をとっている人との仲であるという。何も介入しないと、人は似たような人とつるむので、マイノリティの学生が孤立してしまう。そういうことを防ぐために、意図的に、しかし特定の属性をターゲットにせずに、多様性のあるグループを作ること。これが必要だという。
これ以外にも、DEIを確保するための、具体的なチップスを多く享受された。これらは多様性への配慮という側面もあるが、繰り返すようにDEIによって学生一人一人が最大限学べることに主眼があるので、非常に実用的でもある。とてもアメリカらしい。
【就活事情】
今日は人口学の授業が、一回まるまる就活の話になった。察するに、先生が授業準備をするのに疲れたのだと思う。今回は先生が経験してきたジョブマーケット事情を共有する形だったので、先生としては準備はかなり楽だったらしい。しかし皮肉なことに、学生にとっては今日の回が一番役に立つ授業になった。
就活上、役に立つことは、大抵は教科書に載っていない。Hidden curriculumというヤツだ。教科書に書けないことは、ここにも書けない。今日の話は、そういうものばかりだった。それは恐らく、就活はケースバイケースのことが多く、個人の事情を話すことはプライバシーに触れるからだと思う。だから見知った仲でしか、話がしにくいのだろう。
書ける範囲での感想に絞ると、以下のようになる。
今日の話は、基本的にアメリカのR1大学、特にトップ30の大学に焦点を当てていた。アメリカの大学は、アカデミア就活においては日本以上に大学のハイラーキーが意識されている。民間や非研究大学、或いは海外の大学を視野に置かないのは、狭い世界の話になってしまうデリメットがあると同時に、目標を設定しやすくなるメリットもある。
一旦どのような大学で働きたいかを決めたら、そこからオファーをもらえるよう、自分のCVを最適化していくことが重要になる。仮に研究大学をターゲットにすると、以下のような事態が生じる。
まず、ティーチングが「全く」重要ではなくなる。これはよく聞く話であるが、今日受けたDEIトレーニングは、ティーチングをどのように改善していくか、という話だったので、その落差にアカデミアの冷淡さというか、二枚舌を見た。
次に、トップジャーナルに論文を載せることが最優先になる。社会学・人口学では2-3本の査読つき論文があることが、AP獲得に重要であるとされる。しかし、そのうち1本はトップジャーナルでソロオーサー、ないし第一著者であることが望まれる。トップジャーナルに論文がないと、トップ30を初職に見据えるのは、不可能ではないが難しい。社会学のトップジャーナルはASR, AJS, SF、人口学だとDemographyとPDRになる。ある意味で、わかりやすい世界だ。
循環論法みたいになってしまうが、トップジャーナルに論文を載せることを優先すると、非トップ大学での就活では、逆に不利になる。なぜかというと、もし当該の大学に就職しても、すぐ他の大学に移ってしまうと思われるからである。トップジャーナルを出すことに自分の研究を最適化しすぎると、相手にされなくなる大学も増える。しかし、そうしないとトップ大学への就職も難しくなる。嫌な世界だ。
アドバイザーではないコミティメンバーとの付き合い方、オファーをもらった後のネゴの仕方、その他考慮すべき事項、色々教えてもらった。しかし、何よりも重要なのは、自分が働きたい大学(大学でなくてもいいのだが、アカデミアに話を絞る)をまず決めて、そこに就職できるように、或いはもっと具体的にそこでテニュアを取れるように、7-10年後を見据えて行動することなのだなと思った。
自分は今日の話を聞くまで、自分の今の業績を踏まえるとポスドクが妥当かなと考えていた。しかし、その質問をすると、先生が「もし君の立場だったら」と言った後に、トップ30の大学に出しつつ、時期的にはその後に来るポスドクをバックアップとしてアプライするのがいいと言ってくれた。
どの程度自分の具体的な状況を想像して話してくれたのかはわからない。しかし、この一言は自分にはとてもencouragingだった。現実的にはポスドクだと思うが、APポジションに出しておくことは後々のためにもなるので、今から2年後を見据えて頑張ろうと思った。
【ビジットデイ】
今週は、プリンストンの博士課程に受かった人がキャンパスに来るビジットデイの週だ。これも非常にアメリカらしいイベントである。コロナ禍で2回キャンセルがあったので、実に3年ぶりのビジットデイになる。今日は、所属する人口学研究所の博士課程の学生たちが来ていた。
今日は合格した学生とのディナーがあった。明日は、現役の学生の一人としてQ&Aに出る。木曜と金曜は、今度は社会学のプログラムに合格した学生たちが来て、同様にQ&Aで話す他、キャンパスツアーをオーガナイズしている。正直いうと、今週はこれでかなり忙しい。
それでも、自分がこのイベントに少しでも携わりたいと思うのは、自分のかなりしょっぱい移動の経験に基づいている。
ウィスコンシンからプリンストンに移るまで、自分には決断の時間が3日しかなかった。アプリケーションを出してから2週間後には、プリンストンにいた。正直、考える時間などなかった。考える時間があっても決断は変わらなかったと思うが、もっと時間があれば、もっと上手くプリンストンにランディングできたと思う。
自分にはどうしようもなかったが、今でもそういう後悔があるので、合格した学生には、自分の選択を迷いなきものにできるよう、少しでも役に立ちたいと思っている。
2週間前から査読から返ってきた論文を改稿していることはすでに書いたが、ここ最近の研究時間の大半をそれに費やしている。再提出の締め切りまでは半年もあるので、別にここまで根詰めてやる必要がないのは頭ではわかってるのだが、なんとしても早く出したいので、ほとんどそれしかやってない。結果、他人の論文を査読する時間を作れていない、多分早く結果が来て欲しいと思ってるだろうから、がんばらないといけない。ドラフトをアドバイザーに送って返事を待ってる数日は、すごく解放的な気分になる、その数日に溜まった仕事をこなしてる。ブログを書く時間もないのだが、今週取り組んでいたウェイティングについて、その作業を簡単にまとめておく。
サーベイはたとえ無作為に抽出されていて代表性があるとしても、調査に協力してくれる人とそうではない人の間に差があり、それがシステマチックに生じている場合には、代表性に歪みが生じてしまう。そのため、よく国勢調査などを用いて年齢や婚姻状態、学歴といった変数でケースあたりの重み付けを変える。これを俗にcross-sectional weightsという。
パネル調査では、これに加えてlongitudinal weightsというものがある。継続調査には、脱落がつきものである。調査に回答してくれなくなる人は、例えば結婚して家を出て行って追跡できなくなったり、仕事が忙しくなって回答する時間が見つからなくなる人もいる。こちらもランダムに生じるものではないので、代表性を持たせるためには補正が必要になる(例えば、未婚者が結婚を経て脱落しやすくなる場合、未婚者を多めに見積もらないといけない)。
具体的には、脱落を予測する回帰分析から予測確率を出し、その値で1を引いた値が、継続確率になる。この継続確率の逆数をcross-sectional weightsにかけたものが、longitudinal weightsになる。
ただこう書くと、なんだ求めるのは簡単じゃないかと思われるかもしれない。たしかに、1回きりの調査ならば、そこまでは大変ではないだろう。しかし、現在用いているデータは、数年おきに新規サンプルの追加をしている(これも、脱落によってサイズが小さくなっていくパネル調査ではよくとられる方法だ)。そのため、2004年に抽出されたサンプルについては、例えば2005年の国勢調査の値を使う一方で、2009年の調査には2010年の国勢調査の値を参照する必要がある。たかだか5年と思われるかもしれないし、実際ウェイトに使う年齢分布などがそこまで変わることはない。しかし、例えば女性の学歴は若年層では高くなっているので、5年でみても変化がある。 調査年に近い官庁統計を参照するに越したことはない。
別のプロジェクトで、世界7ヵ国の世帯パネル調査をハーモナイズしたデータを使っているが、この手の調査には上記のcross-sectional/longitudinal weightsはデフォルトで調査者が提供している。個々人が異なるウェイトを使ったら、結果にもばらつきが出てしまうし、何よりパネル調査のウェイティングはかなり面倒くさいからだろう。
しかし、残念ながら現在使っている日本のパネルデータには、ウェイティング情報が提供されていないので、一から作る必要があり、これに2日とられた。かかった時間よりも、estat apiと睨めっこしたせいで生じた肩こりが辛い。
この作業の数少ないメリットは(査読者のコメントに答えられるという点を除いては)、作業を通じて、ウェイトは(デフォルトで配られているので)あまりありがたがられることのない情報であるが、この情報を提供するまでに結構な時間が投資されていることを知るに至った点である。縁の下の力持ち的なウェイトの重みを、過小評価してはいけない。ただ、正直にいうと平均値に興味がないのにウェイティングをしなくてはいけない直感的な説明が欲しい。
人口減少関連だと、たまにオートメーションの話が出てくる。自分がフォローしてるイギリスの研究だと、職業に必要なスキルで代替可能性を算出してるのだけど、そうするとサイゼリヤの調理スタッフと高級イタリアンのシェフはともに「調理人」になってしまう。恐らく代替可能性は前者の方が高いだろう。
職業内で代替可能性が異なる可能性は十分あり、それをどう測るか。そんな話を今日、NYで高ゼミの後輩とした。いっそのこと、スマートシティの監視カメラで、働く人の行動を全て記録し、一人一人の代替可能性を算出するのはどうか、みたいな話になった。
実際にそれを他の人口に広げるのは難しいので、そこで働く人に別途、自分の仕事がどれくらい代替可能性があるか、自分で判定してもらう。それと機械で算出した代替可能性の相関を取る。意外と0.8くらいありそうな気もする。
今日は10時半から社会ゲノミクスのラボ。きょうだいの遺伝子から親の遺伝子を類推して補充し、親から子への間接的な遺伝効果を推定する手法が開発され、にわかに関心を集めており、今日は先生がその論文の発表。自分も、そのパッケージを動かして、Add Healthの遺伝子データを補充する予定。
午後2時からインタビュー。学部生の寮の、院生スタッフみたいなポジション。受かれば、学部生と同じ寮に住む。ひとまず書類が通って、面接まで呼ばれたのはよかった、全く評価されていないわけではないと思えたので。自分の中では、最近では結構背伸びした経験に入る。難しい質問にはちょっと窮しちゃったけど、それも経験、少しずつ成長している、はず。この手の、正解がない、オープンエンデッドな質問には、まだ英語では苦労している。それなりのことを言ったつもりでも、相手の意図を根っこから理解しているのか、よくわからなくて、不安になる。
そのあとは来週ワシントン大学で報告する、論文の改稿。博論第3章でもあるこの論文、今日はそのイントロをかなりガラッと変えて、結構インパクトがあるように見えてきた。これは、個人的には大きな進捗。中身を変えてなくてもイントロで論文の印象が変わるのは、アメリカの社会学の論文あるあるな気がする。
午後7時から、映画館で竜とそばかすの姫を見た。プリンストンの映画館で日本のアニメが上映されるのはかなり珍しいみたいで、最終日に間に合ってよかった。幾田りらが歌わない役で出てたのが1番の驚き。日本の映画もスクリーンでたまに見られるんであれば、全然アメリカ住めるな(それができないんだけど)、カンヌの力は偉大だなと思わされた。
ハローワークのインターネットサービスに、全国の高校や大学・学部ごとの就職希望者と実際の就職者数が「全国学校便覧」として公開されている。
https://www.hellowork.mhlw.go.jp/enterprise/catalog_college.html
このデータベース、学校単位で就職希望者数と実際の就職者数をとっていて、貴重なデータだと思う。当然?、過去のものも利用できないかが気になり(就職浪人に男女差はあるのかが気になる)、ホームページを見たところ「最寄りのハローワークにお問い合わせください」とある。
アメリカにいる私にとって、最寄りのハローワークとはどこなのだろうか?
仕方ないので、ひとまず水戸のハローワークに電話してみた。1日待って調べてもらったところ、厚労省の若年者キャリア形成支援担当まで連絡してくださいと言われ、翌日電話する。
さらにここで調べるので1日待つことになり、翌日の回答は「毎年度新しいものに更新しているので提供できるものはありません」だった。
官僚答弁ってやつですね。あるのか、ないのか、こたえないやつ。
「古いデータは残してるけど公開してないのか、そもそも廃棄してるのか、どっちですか」と聞いても「毎年度新しいものに更新しているので提供できるものはありませんとしか回答できません」の一点張り。最後はお互いに笑ってしまった(声から察するに若手の人だろう、厚労省でもこのポストは最初に就くらしい)。おそらく、上司の人にそう言えと言われてるんだろう、模範的なまでに、官僚的だった。
「毎年度新しいものに更新しているので提供できるものはありません」と言われたのですが、事業所の方では過去のデータを保管しているのでしょうか、と水戸のハローワークに戻って聞いてみたところ、答えとしてはどこの事業所も神かデジタルかはわからないが5-6年は保管しているはずだということ。あれ、保管してるんじゃないですか〜となり、今は各地域のハローワークが情報をあげている茨城の労働局に電話中。都道府県単位になると、官僚度は少し上がるか。
数日電話してみて思ったのだが、官僚は自分が専門でないことには、とにかく上司や組織の方針を一点張りにする傾向がある、自分で柔軟に考えようとしない。専門性があれば、自分の裁量で判断できるだろうに、専門性を(意図的に?)身に付けてないがために、官僚答弁が身についてしまう。
某トップジャーナルに論文がR&Rになってしまい、てんやわんやの数日を過ごしている。5日間で、少なく見積もって30時間は論文の改稿をしていた。不思議なもので、机に向かうとゾーンに入るというか、日常とは比べ物にならない集中力でリプライレターを書くことができている。この論文を通せば、自分の人生が変わることを理解しているからなのかもしれない。人は人生の重要な曲面に入ると、尋常じゃない集中力を発揮するのだなと思った。
明日から、社会ゲノミクスのラボが再開する。先学期に教えていた社会ゲノミクスの授業は、本当に大変だった。大変だった理由は20くらいあるのだけど、そのうちの1つは政治的考えによる対立。功利主義的な発想から遺伝子選別をよしとする人、それに反対する人、正直収拾がつかなくなった。新しい技術(例:遺伝子選別)は既存の政治的スペクトラムの中に回収されてしまうのだと思った。
こういう政治的意見の対立の話は、そもそも前提・事実が共有されてないんじゃないかと思われることがあるかもしれない。しかし授業の前半で、どうやって遺伝率を求めるのか、遺伝効果とは何で何ではないか、そういったベーシックなことをカバーしても、対立する時は対立する。なかなか難しい。
遺伝に対する様々な解釈はあっていいし、現代的な価値観では全く支持されない考えを持っていても、それは一つの考えだと思う。悲しいのは、ゲノミクスを学んでも、それぞれの認識が改まることは少なく、既にある考えに適合的なように解釈されてしまうこと。
だからもし「正しい」遺伝の理解を広げたい場合、大学だともう遅いと思う。個人の政治信条は既に固まってる。介入するなら中等教育だと思う。例えば(センター生物60点の自分が言うのもアレだが)メンデル遺伝学をやるのは構わないけど、形質を説明するのは複数遺伝子であることなどは強調した方がいい。
今日は博論の1章になる論文にR&Rが来て、ここ数年で一番嬉しい日だったかもしれない(それこそウィスコンシンに受かった時ぶりくらい)。この1年、ずっとリジェクト続きだったので、捨てる神あれば、拾う神ありだなと思った。自分のやってることは間違ってない、自信を取り戻すきっかけになった。今後の自分の人生を左右するかもしれないので、ひりひりとした数ヶ月を過ごすことになりそう。できれば今学期中にけりをつけて、日本に一時帰国したいと思う。
今年の弊学の合格率を小耳に挟んだが、一瞬自分の耳を疑った。今後もこの選抜度が維持できれば、本当にアメリカでトップのプログラムになるかもしれない。今でもワンオブトップだとは思うが、ハーバードとバークリーの壁は厚いと思う。ミシガン、スタンフォードと競っているくらいかなと思うが、もう一歩抜け出すかもしれない。そして、別の文脈で大学院が院生の給料を25%増すという話をこの時期に大々的にアナウンスしたのは、おそらく来年入ってくる学生を考えてのことだろう。
正直、今でもプリンストンのadmissionに受かる自信はない。いくら強い推薦状があっても、プリンストンにくる人と、自分の間には、ちょっとうめがたいポテンシャルの差を感じる。そういう意味では、私はプリンストンに正規のルートで拾われることはないと思うが、指導教員の遺跡という特殊ルートで、拾ってもらった。それに、そんな自分でもそれなりのジャーナルに論文を載せられたら、世の中ちょっとは捨てたもんじゃないだろう。
人口学だと、ジェンダー平等化が進むと女性が仕事と家庭のバランスを取りやすくなり、男性が育児に参加するようになることで、出生率が回復するという理論がある(個人的には、この話はスウェーデンを先進国が将来的に行き着く先と考えるreading history sideways の一種であり、新手の近代化論に見えるので少し懐疑的)。
ジェンダー平等と出生率の回復は別個に考える必要があると思うが、一挙両得の可能性を感じて、日本の政策担当者も重い腰を上げつつある。国家公務員の男性育休取得率の上昇などは、これまでの男性の育休取得の低さを考えると驚くばかりである。とはいえ、日本の多くの民間企業では、まだ転勤も多く、男性が仕事を休んで育児休暇を取るというのは、なかなか難しい。
これがなぜか、日本が変わっていくにはどうすればいいか、そうしたモチベーションで本を書いているのが、ハーバードのMary Brintonさんである。日本のジェンダー格差を議論するときに避けては通れない人物だが、昨日は彼女がインディアナ大学で講演をするので、話を聞いてきた。
同じトークは以前も聞いていたので、彼女の主張(日本は社会規範の影響が強く、会社で最初に育休を取ることはスティグマになってしまうので、国が率先して強制的に育休を取るような制度にしていくほかない)というのは、一理ありつつ、しかし現実的かどうかはわからないと思いながら聞いていた。いくつか興味深い質問があったので、メモしておく。
一つは一橋の小野先生が、Brintonさんのいう共働き・共育て社会の実現がnew equilibriumになるのかという質問をした。なぜなら、非正規や無職で仕事をセーブしている有配偶女性の幸福感は、正社員の有配偶女性よりも高いからだ。実際、専業主婦を希望する女性は一定数おり(それ自体はジェンダー不平等な労働市場を反映してのことだと思うが)、思考実験としては興味深い。次に(サークルの先輩で久しぶりに見た)長山さんが、結局のところ問題の根源は終身雇用をベースとした正社員と非正社員の差別的な雇用制度にあるのではないかと指摘した。これも重要な指摘だと思う。年功序列で会社の中のラダーを上がっていく正社員タイプの雇用は、キャリアを中断する可能性が高い女性には不利だからだ。いわゆるジョブ型・メンバーシップ型の議論とも繋がるが、仮に諸悪の根源だとしても、それが政策的に介入可能かは別問題になるだろう。
話を聞いていると、人口減少が危機感となってジェンダー平等が進んでいくシナリオが今後の日本で起こるのかもしれないと思った。つまり、理念的にジェンダー平等を推進しようとする動きよりも、必要性に駆られた結果、ジェンダー平等が進むというシナリオである。最初の話に戻ると、人口学の流行りの理論では、ジェンダー平等になるから出生率が回復する、という因果で考えていたが、むしろ先に来るのは人口の方なのではないか、つまり、労働力人口の減少に耐えられないポイントで企業や政府が重い腰を上げて、高学歴の女性が働きやすい環境に変わった結果、出生率も多少回復する、みたいなこ都が起こるのかもしれない。これはこれで楽観的な予測だと思うが。Demography as a source of resilienceという話、人口学者以外には受けは良くないかもしれないが、考えてみてもいいかもしれない。
学期が再開するため、土曜日にアメリカに戻ってきた。火曜日から開始する授業に出るはずだったが、航空券を予約した後にその授業が月曜に変更されることがわかり、授業開始まで、これまでよりも余裕がない。今日(月曜日)も、まだ少し時差ぼけ気味だった(とはいっても、夜8-9時に無性に眠くなり、5時ごろ起きるみたいなパターンになることが多いので、そこまで大きな問題にはならない)。
今学期履修する授業は、advanced demographic methodsである。3年ぶりくらいに人口学のメソッドの授業をとることになる。Prestonの教科書(Demography)を久しぶりにまともに開けたら、数式ばかりで、本当につまらない笑。人口学なんて、自分では絶対勉強しようと思わないから、ウィスコンシンでトレーニング受けといてよかったなと思う。
初回の内容としては、stable/stationary populationの復習から始めて、variable r methodやcohort component methodを使った人口予測などだった。この辺りは、3年前にとったマディソンの授業と少し被ってた。
人口学のトレーニングに関しては、マディソンはプリンストンと差がないか、構造化されてる具合についてはマディソンの方が優れてると思う。ウィスコンシンでは、人口学研究所に所属すると、1年目に人口学のサブスタンティブな大学院セミナー population and societyが秋春、同様に基礎と応用のメソッドのクラスが、秋春学期それぞれで学ぶことが必須になる。
これに対して、プリンストンではサブスタンティブも、メソッドも基本的には1年目で一つずつしかない。一年目に応用までカバーしないのは、おそらく人口学研究所に所属していてもそこまで必要としない人がいて、加えてプリンストンのコーホートサイズはそこまで大きくないため、毎年応用のクラスを開講しても人が来ないのだろう。今学期の授業は、2年生から4年生までが履修していた。トレーニングでは、ウィスコンシンに一日の長がある。
そんなわけで、若干復習も入るが、新しいことも学べそうなので、楽しみ。授業をとっていると、体のリズムが整うので、研究にもいいフィードバックがある気がする。
最近、徐々に高等教育とジェンダーの話に研究の舵を切っている(10年弱はするつもりでいる)。扱っている内容としては、浪人や、難関大学に女性が少ない話とか、当事者として見聞きすることも多く、興味はあったけれど、いい感じの距離感で、テーマと相対するまで、時間が必要だったのかもしれない。
修士から数えて7年弱の間に書いた論文のメインは学歴同類婚だった(今でも一番の専門と思える)。ただ、それを選んだのは、心の底から興味があったというより、階層、家族、教育、人口の全てが関わるトピックだったから。興味が定まるまで、ひとまず複数テーマにまたがる内容をやった方が、後でテーマを変えやすいのではないかと、マンチェスターの寮の図書館で卒論について考えているとき、確かに思ったし、この考えは間違いではなかったと思う(弊害は、いろんなことに興味が出てしまうこと)。
同類婚以外でも、これはピアの影響が大きいと思うが、周りがやってるテーマに興味を持ち、結婚、出生、性別職域分離の論文などを書いてきた。振り返ればややピッキーだったと思う。ぶっちゃけると、一貫性はなかった。とはいえ大雑把には、自分は階層性の再生産過程における教育の役割に興味を持っているのだと思う。振り返れば、大体その関心に惹きつけられなくもない論文が多い。
同類婚について正直にいえば、日本に関してはやっている人が少なかったのはすぐに分かった。やっている人も、片手間気味だった。興味はあるけど、メインは教育格差や、社会移動、あるいはもっとクラシカルな家族人口学だった。英語で書かれた日本事例を扱った論文はほんの少ししかなかった。要するに、自分はニッチを攻めたのだと思う。ただ、アメリカではホットなテーマで、それは知っていたが、予想以上に競争的だった。このテーマでも、引き続き貢献していきたい。
この二つが合わさり、僕の10年の目標は、まず同類婚の国際比較プロジェクトをスタートさせ、本にまとめること。次に、高等教育とジェンダーの話についても研究をリードし、成果として本にまとめること。
コロナ陽性で自宅隔離する人向けに、日本の自治体が食料を含むケアパッケージを無料で配送している話、アメリカでは政府ができることはまだあるという文脈で拡散されている。アメリカに戻り隔離している間、食料をくれたのは政府ではなく大学だった。日本の大学がそんなことをしてくれるとは思えない。
もしかすると日本の大学でも似たようなことを、例えば外国から来たばかりの留学生にしていたのかもしれない。自宅隔離者を誰がケアするかという話からは過度な一般化かもしれないけれど、この事例は誰がケアの主体を担うべきかという考えの日米の違いを表しているように思えた。
サッカー日本代表の対戦チームが、高い公益性を有しているという理由で入国が認められた件。個人的には、日本について研究したいと思ってる留学生なんて、高い公益性を持ってると判断してもよいと思うが、政府の判断としては、サッカーの親善試合の方が公益性が高いという判断、納得することは、難しい。
もちろん、何を学ぶかで線引きしようとすると、公益性のない分野の留学生は入国させなくてもよいという話になるので、それはそれでよくないだろう。公益性に限らず、線引きに何らかの基準を用いることは、少なからず恣意性を纏うため、簡単ではない。かといって、世論を踏まえると、全員入国可も現実的ではないため、どこかで折衷案を狙うべきだろう。
公益性で線引きするのであれば、Japan Foundation(国際交流基金)や日本学術振興会からファンディングをもらっている人であれば入国可、みたいにするのが妥当なラインだろうと思うけれど、現状では日本政府は留学生はすべからくダメにしている。もう少し妥協点を見出す努力をしてほしい。
今年度進めているプロジェクトから、女性は浪人しにくいことが傾向としてははっきり確認された。東大などの選抜的大学に女性が少ないことも、これらの大学に入学するためには人によっては浪人する必要があることが背景にあると考えている。ただし分析はベネッセの高校生を対象にした調査を用いていたので、なかなか大学の選抜度までは考えることができなかった。
この問いに最もストレートに答えることのできるデータは、学校基本調査の大学学部ごとの個票だった。しかし、個票を手に入れるには色々と手続きが必要で、頓挫していた。
ところが、実は国公立大学については公開されてたのをつい先日知った。2012年から、大学学位授与機構がデータを大学・学部レベルで生徒数や教員数のデータを公開している。2016年からは年齢別のデータも公開されていた。利用しない手はない。
この図は、入学者に占める19歳以上の割合(=受験浪人の代替指標)と女性割合の散布図である。結果は最新年の2021年のものを示しているが、公開されている2016年以降については、どの年も似たような結果になっている。両者は綺麗に負に相関してて、年齢と受験浪人が密接に結びつくという意味でも、また受験浪人に男女差があるという意味でも、非常に日本的な現象だと思う。19歳以上が100%を占めるのはちょっと考えにくいので、非常に定員が少ない学部かもしれない。本当であれば、定員のサイズで円の大きさを調整して示した方がいいかもしれない。
追記:19歳以上が100%を占めていたのは、埼玉大学経済学部の夜間コースだった(定員15名)。なお、他に19歳以上割合が高いのは、基本的に医学部、歯学部、それと芸大系の学部である。
19歳以上が0なのは京大の薬学部で、どうやら京大薬学部はデータには一般入試枠と特色入試の二つが入っているようで、19歳以上が0なのは後者だった。定員が3名であるために、こういうことが生じている模様。次の分析では、複数のコースがあっても同じ学部であればマージしなくてはいけない。