しばらく近況をまとめていませんでした。メモみたいに書いていたブログを読み直すと誤字脱字が激しかったので、奨学金の報告書として書いたものをここにもあげておきます。
パンデミックの影響で感謝祭前に学期が終わり、11月末から2ヶ月ほど一時帰国をしていました。1月下旬に戻り、現在春学期の4週目の授業が終わろうとしています。今回は2020年9月以降の記録として秋学期と春学期の途中までの経過をまとめています。
秋学期(2020年9-11月)
今学期は多くの大学がそうであるように授業やセミナーは全てオンラインに移行しました。アメリカは通常感謝祭で1週間程度の休みを挟みますが、プリンストンでは移動を抑制するためこの休みがなくなり、学期開始を早めることで感謝祭前に授業が全て終わることになりました。そのため、通常は12月半ばまでかかっていた授業も、11月の下旬に終わりました。
今学期の大きな目標はコースワークの終了でした。授業自体はほぼ取り終わっていましたが、後述する人口学プログラムの必修授業が一つ残っており、今学期はそれだけ履修しました。および、general examと言われる進級試験を済ませることがもう一つの課題でした。進級試験と書くと大袈裟に聞こえますが、プリンストンの社会学では少なくとも落ちることはないと言われており、私も無事パスしました。それでも口述試験までにそれなりに準備しなくてはいけないことはあったので、これを授業やティーチングと両立させながらこなしていくのは予想はしていたがあまり楽しい類のものではありませんでした。
a. コースワーク
既に言及した人口学の必修授業は、これまで人口学プログラムを卒業した先輩たちの博論を読み、それを議論することで自らの博論への展望を形作ることに主眼が置かれたものです。先輩方の博論を読んだ感想としては、博論といえども完璧とは程遠いということに尽きます。
人口学プログラムの博論は計量的な論文にもっぱら限られるため、実証的な論文を3つ書くthree chapter formatが取られていますが、このうち少なくとも1本はどこかのジャーナルに掲載されていることが多いです(正確には、どこかに掲載されているような論文がないと就職が難しい→掲載されるまで卒業を延長する!)。掲載済論文が再収録されたチャプターは非常に洗練されていましたが,それ以外の章は、問いがはっきりしていなかったり、メソッドが弱かったり、議論が追いづらかったり、読みにくいものも少なくありませんでした。この授業を通じて、プリンストンの社会学・人口学といえども、博論の水準がどの章も高くある必要はなく、少なくとも1章非常に強い論文があれば就職でき、それ以外の章は卒業後にアップデートしていけばいいのだと思えたことが収穫でした。もちろん実際には、ジョブトークで話す論文(経済学などのJMP相当)が評価されて就職が決まったら、急いで他の二つの章を仕上げる,という流れでクオリティに差が出てるのかもしれません。
b. 試験
こうしてコースワークをこなしている間に、進級試験(general exam)の用意をしなくてはいけなくなりました。マディソンにいた時に受けた試験は夏休みにあったので試験勉強だけに集中できたのか良かったのですが、プリンストンでは学期中に行われるため、授業やティーチングとのバランスが大変です。
選択した科目は社会階層論と家族社会学。「選択」というのは語弊があるかもしれません。マディソンではおよそ20ほどある試験科目の中から二つ選ぶのが条件でしたが、プリンストンでは科目を自分で作ることができます。そのため、例えば「社会科学における因果推論と機械学習」といった、最先端のトピックを作ることもできます。試験カルチャーで育ってきた自分は、あくまで過去問があり、それをもとに時間を逆算してできるだけ多くの問題に対応できるように準備をしていくスタイルに慣れていたので、今回のような創造性が求められるタイプに試験は、最後まで何が求められているのか掌握できなかったところがあります。
実際に口述試験で聞かれるのは,試験勉強を通じて何を学んだのか、およびそれに関連して教員の方からトピックに関する質問がされるという感じで、そこまで「試験」といった感じではなく、いつものようにoverpreparedだったし、やや肩透かしを喰らったところもあります。というわけで、口述試験をパスしても、心が晴れやかになっている感じは特になかったのですが、準備を通じて作ったリーディングリストは今後重宝することもあるでしょう。ただ、個人的には試験だけに集中する時間が2ヶ月ほど欲しかったなと思います。もうこういう時間は取れないのだなと思うと、少し寂しくもあります。
c. 研究
研究の方は,夏休みに投稿した論文のうち、返ってきたもの、最初の査読で落ちたものもあれば、再投稿してまだ結果が来ていないもの、最初の査読も返ってきていないものなど様々です。
論文の投稿に関しては考えが変わりました。今まではトップジャーナルに載りにくいものでも重要な話はあり、それに時間をかけることも大切だと思っていたところがあります,実際にはまだ思ってもいます。ただそれ以上に、やはりトップジャーナルに論文を載せることも大切だなと感じ始めたのが今学期の変化でした。
一つには、先に言及した授業の影響で、1本のトップジャーナル論文が持つ重みが、より際立って見えるようになったことがあります。もう一つは,結局のところ、トップジャーナルでも、それ以外のジャーナルでも、投稿して修正して再投稿しての繰り返して1年くらいは潰れることに気づきました。同じ時間をかけるのであれば、多くの人に関心を持ってもらえる内容にしたいし,それがひいてはトップジャーナルへの掲載に繋がるのだなと、考えを改めるに至りました。
変な遠慮はせず、これから書くものは自分オリジナルの貢献ができ、それが結果的にいいところに掲載されるような論文を書いていきたいと思います。人生は限られてるので、自分以外の人でも書ける論文は、わざわざ自分で書く必要はないと言ってしまうと、何も書けなくなってしまうそうですが、それくらいの気概は必要なのかもしれません。
d. ティーチング
ティーチングは現代日本論の授業を教えました。正確には指導教員がレクチャーした授業のTAですが、私の担当するセッションについてはかなり自由を認めてもらってるので、自分でデザイン(というと大袈裟ですが)した流れで教えさせてもらっています。当たり前と言えば当たり前ですが、授業を教え始めてわかるのは、教えられているのは自分自身だということです。特に,日本で育った経験をもとに日本を眺めていると,どうしてstatus quoを当たり前に思ってしまうところがあります。これに対して学生たちの素朴な、しかし核心をついているコメントには常にハッとさせられ、彼らの持っている素直な疑問に答えられるような研究がまだ少ないことに気づきました。思いもよらず,研究のモチベーションにつながっていることに感謝しています。
春学期(2020年1月-)
今学期は引き続きティーチングロードをこなすこと、および博論の計画書を練ることが目標です。授業は全て取り終えましたが、生活サイクルを整える意味でも多少緊張感のある授業をとっておくことは有益だと考え、ミニセミナー(6週間で終わる授業)を2つとっています。本来は一つが学期前半、もう一つが学期後半に開かれるはずだったのですが、何かの手違いか両方とも前半に開かれることになり、1-2月は非常に忙しくしています。
a. コースワーク
授業は経済社会学と国際移動・移民の授業をとってます。まず経済社会学ですが、初回の文献を読んでると久しぶりに「社会学」の授業をとってる感じがします。具体的には経済活動がいかに社会的なコンテクストや人と人の相互作用に規定されているか、みたいなところに社会学らしさを感じます。一言で言うと、経済活動は社会なしには語れない、といった主張でしょうか。人口学の研究は統計的なデータを使ったマクロな分析が主なのですが、人口学の研究でこうした人と人の相互作用の重要性を指摘するときには、学歴やジェンダーと言った要因に還元しがちという批判を受けます。授業を理由して、それは概ね正しいと思いました。
研究に関係する文脈では、兼ねてから興味のあった親の子どもへの投資、支出の話を経済社会学的に考えることができると分かり興味が増しました。どうやら、子どもを消費主体として積極的に捉えるアプローチは少ないようです。文献を読んでると、経済社会学の中にも経済学寄りの社会学者と社会学寄りの社会学者がいて、前者は経済学を(やや藁人形的に)対比しながら自分たちのオリジナリティを主張している一方、後者は前者と比較しながら自分たちのオリジナリティを主張しているように見えます。
もう一つ履修している移民の授業も非常に楽しいです。今学期からプリンストンに着任された先生の授業です。毎週3時間のセミナーで、文献は論文や本の章が8本程度なのは他のセミナーと同じですが、移民研究は学際的なので、方法論も分野も非常に多様な論文が毎週並びとても楽しく勉強させてもらってます。
経済社会学といい、移民といい、これまで詳しくなかったけれど興味はあった分野のコアの部分を、たった1学期(どちらもミニコースなので6週間ですが、それでもそれぞれで50本以上の文献を読むわけでなかなかの量です)で勉強できてしまうのは、こういう言葉が適切かはわかりませんが、とてもお得な気がします。まず先生がアサインする文献が面白いですし、それに対して周りの学生も鋭いコメントをしますし(またそれに淀みなく答える先生もすごいですが)、私も頑張って発言するようにはしてますが、実際には勉強させてもらってる側です。アメリカの研究大学に残って、こういう授業を20年くらい教えることができたら、もう人生御の字かもしれません。そういう大学に就職できるのはアメリカの院生でもほんの一握りですが、そこにたどり着けるように頑張っていきたいと思います。
b. 研究
最近はコースワークとティーチングで忙しくて週に2-3日ほどしか研究に時間が取れず苦労していますが、指導教員との共著で書いた論文が人口学の雑誌に掲載されました。2月に入って、学部生の頃にスタートしたRAから発展した論文もアクセプトされました。その他、R&Rになった論文の改稿、今年出版される本の原稿、8月に疫学の先生と始めたCOVID-19の論文の仕上げ、労働政策研究・研修機構(JILPT)が実施したCOVID-19と働き方に関する調査の分析(4月にワークショップで報告予定)、リジェクトされた論文の改稿と再投稿、5月にあるアメリカ人口学会で報告する論文のアップデートなどに取り組んでいます。しばらく前ですが、アメリカ社会学会大会へのアブストも出しました。日本の論文も書きたかったのですが、ゲノムのものを一本だけ提出しました。社会学で遺伝の論文を書く際、社会への逆張りから遺伝要因をかなり強く見積もった議論になると容易に優生学的な話につながってしまうので、論文を書く際には細かなニュアンス含め誤解を生まないようにするのが大切です。個人的には遺伝は個人のポテンシャルを測ってると思うので、階層論的には重要だと考えています。
c. ティーチング
今学期は2コマ、社会学入門(Introduction to Sociology)の授業を教えています。学生は社会学の授業をとったことがない人が大半で、彼らに非ネイティブの私がアメリカの社会の事例を用いながら社会学の基本のコンセプトを紹介する、危ない橋を渡る気しかしない授業です。社会学や人口学を修めていれば、
ある程度この言葉はこういう意味を持っている、という共通理解がある分、気張らなくてもいいところがありますが、予習しているとはいえ学部生にゼロから一から社会学教えるのはなかなか大変です。なにより、反応の薄い学生が(1)単に興味ないのか、(2)考えてて発言してないのか(3)私の英語が分からないのか、zoomからでは非常に分かりにくいのが気苦労の元なのかなと思います。
アメリカの教科書で社会学入門の授業を教えていると、教える内容が日本と同じ時、異なる時があり勉強になります。例えば前回カバーした「社会化 socialization」では、ミードのI/meや一般化された他者は扱うのは日米で同じですが、アメリカではその後にコーン/スクーラーの子育ての価値の研究から、ラローの階級によって異なる子育ての話までいきます。(私個人の経験なのでなので一般化しすぎかもしれないですが)格差が非常に大きなアメリカの文脈を踏まえるとラローを言及しないわけにはいかない気がしますし、どの話にも格差・不平等が絡むのがアメリカの特徴なのかなと思います。日本の社会学の教科書にも社会階層の章はありますが、階層の話がどの章にも登場するわけではありません。意識的にそうしているわけではなく、おそらく社会化が出身階層によって異なるとか、家族形成パターンが学歴によって異なるとか、そういったことをあまり考えないのだろうと思います。
私の担当するセクションでも積極的に、階層間の格差が私たちの生活のどのような場面で現れているか、discussion questionとして生徒たちに問いかけていますが、プリンストンという環境で格差の話をするのには、それなりにセンシティブでなくてはいけません。アイビーリーグの中でも裕福な人が多いと言われるプリンストンですが、潤沢な寄付金を奨学金として生かし、日本であれば経済的な理由で大学にすら進学できない人にも門戸を開いていると思います。このように、レガシー制度を通じて卒業生の子弟を優先的に合格させる一方、大学第一世代の学生にも機会を提供しているプリンストンのような大学では、キャンパス内の階層的な多様性が非常に大きいのです。様々なバックグラウンドの人がいるからこそ、格差・不平等の話、およびその中で高等教育がどのような役割を担っているのか、議論した方がいいと思って教えていますが、薄々気付いている格差を露骨にさらされることを気分良く感じない場合もあるでしょうし、バランスが大切なのかなと考えています。
このように、教えながら教えさせてもらっている日々ですが、今後一人で英語で社会学入門の授業を教えるのは無理な気がするので、これで最後にしたいところです。というのも、社会学は普段慣れ親しんだものを違う角度から見てみましょう、という姿勢の学問なので、それこそベースとなる社会で「社会化」されていないと、その常識を常識として見ることができないのだろうなと思います。