July 27, 2018

大学院のHidden Curriculum(メール編)

先日、インディアナ大学のJessica Calarcoさんが「大学院での隠れたカリュキュラム」と題して、いくつかのポストをtwitterに投稿した(詳しい内容はブラウン大のHirschmanさんのブログにまとめてある)。

隠れたカリュキュラム(Hidden Curriculum)というのは、主に教育社会学の分野で使用される学術用語で、文字通り明示的に教育されることはないが、学校教育などを通じて人々が身につけていく事象を指す。Calarcoさんのポストは、これをもう少し広くとって、大学院生活上で重要な「最初は知らなかった常識」の類を指していると考えられる。知らなかったら恥ずかしいが、誰も明示的に教えてくれない知識である。

これとは別の話になるが、先日某大学教員が学生が送ってきたメールでの呼称に難癖をつけてちょっとした炎上をした(ツィートは削除されている)。

この一件で、呼称を気にすることなどくだらない、言葉遣いにこだわる必要などないだろうと考える人は少なくないだろう。自分も、あとで述べるように(自分がどう呼ばれるかは)割とどうでも良い。

それでも、某教員の例は若干極端だったとしても、呼称やメールの書き方を気にする人がいるのは事実だろう。したがって、ある程度の「書き方講座」なるものが提供されていることが望ましい。例えば、大学における教員へのメールの書き方一般については、(これもTL上で知った程度のものだが)関大の先生がメールの書き方基礎編・応用編を提供している。こうした「メールの書き方」はググればたくさん出てくるので、「書き方」を守っていれば(ハラスメント体質の教員に当たらない限り)基本的に面倒な事態に巻き込まれることはないだろう。

とはいえ、という部分もある。TLをみていて、この手の「書き方」にもローカルルールというか、分野によってよしとされていること、されていないことがあることにも気づく。こうなってくると、若干ややこしい。一般的な「書き方」に準拠しても、必ずしもそれが当てはまらないかもしれないからだ。

後述するように研究者といっても、いろんな考えがあるので、自分の基本的な方針は「相手に合わせてルールを多少変える」というものだが、そのためには「どう書けばいいか」よりも実際に普段「どう書いているか」という実践知的なものも、多少は役に立つだろう(特に、(メールの書き方については多少学んでいるとは思うが)非日本語圏から大学院に留学しにきた留学生などには、テンプレの亜種として読むこともできるかもしれない)。隠れたカリュキュラムほどの「常識」ではないが、隠れている度合いは似ているだろう。なお、以下の話は基本的に自分の大学院経験に基づいて書いている。学部生が教員にレポートを送る時間などを気にする必要はないとは思う。大学院に入ると、教員-学生という地位がはっきりと区別されたものから、徐々に(シニア)研究者-(若手)研究者という、同じ土壌に立つ構図に関係が変化していくので、学部時代よりは、相手の状況に配慮する必要性がでてくると考えている。

前提
これは完全に私の嗜好というか、単なる好みだが、メールはできるだけ簡潔にするようにしている。時候の挨拶とか、「いつもお世話になっております」などは業務上のメールでは極力避けている。失礼なのでは?と思う向きもあるだろうが、事務的なメールは簡潔な方がよい。なぜなら、送り手が丁寧に書きすぎると、受け手もそれに対応して丁寧に返信しようとする誘引が働いてしまうので、そうなると本質的ではない作業に時間を取られてしまい、目的が達成されないからだ。

もちろん、時候の挨拶から始まって「今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。敬具」で終わるようなメールが(仮にキーボードに"k"と打っただけで「今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。」と予測変換されるとしても)無意味だといっているわけではないし、そういったメールをもらった時は、丁寧でありがたいなとは思う。それでも、どれだけ丁寧なメッセージを受け取ったところで、気分は基本的に変わらない。塩梅は難しいが、失礼にならない程度に簡潔にするよう心がけている。

とはいえ、例外はある。それは、あまり頻繁に会ったことのない人に対して、こちらが何かの教えを請う時や、お世話になっている遠方の先生からのメールである。前者は、事務的な連絡という性質とは異なり、時間をとって相手に教えてもらうという状況なので、普段よりは丁寧に書くようにしている。後者の遠方の先生についても、メールの性質は事務的なものよりも、もう少し形式的な性格を帯びたものになるだろう。

呼称
今回の炎上のネタは「呼称」にあった。要するに、教員(教授)に「様(さま)」とつけるのか「先生」とつけるのか、という話である。正直、自分自身は何と呼ばれようと気にすることは少ないが、全員がそうした考えのわけでもないだろう。となると、できるだけ失礼にならない、無難な呼称を選択することがベターである。

私は、基本的に大学の教員には「先生」とつけるようにしている。「先生」には学恩を受けているというニュアンスがあるので、原理主義的に考えると学恩を受けていない教員に「先生」とつける必要性はないが、直接教えを受けていなくても、「教授」といった職位よりは、「先生」とつけることの方が多いだろう。日常的な会話で「〜〜教授」といった職位で当人について言及することが少ない以上、より「自然」な「先生」の方を選択するのが無難だと考えているからだ。もちろん、「学恩」の経路は直接・間接さまざまかもしれないと考えることもできる。単なる慣習といってしまえばそれまでだが。

若干の境界事例について。まず「助教」。日本の大学における「助教」が意味するところは、一様ではない。研究室によっては教授・准教授と並ぶポジション(assistant professor)の場合もあれば、こうした職位とは性質を若干異にするものもある(research associateなど)。私は、便宜的に指導学生を持てる場合を「先生」のラインにしているが、わからない場合には助教の「先生」でも「先生」とつけている。本人が「先生ってつけなくて良いよ〜」といってくれる場合もあるし、助教になる前から知っていた人が助教になった場合も先生とはつけない。考えてみると、呼称は厄介な概念である。

次に研究所に在籍する研究者。ここでの「研究者」とは大学の中にある研究所に所属する教員ではなく、国立の研究機関などに在籍している研究者のことを指す(さらに狭義には、「教授」の職位が適用されない場合)。悩むことはあるが、私は基本的に「さま」で統一している。先の指導学生を持つことができるか(=教授かどうか)基準を適用しているからだ。あるいは、研究所の研究者の方達は普段「先生」と呼ばれることに慣れていないケースが多いとも考えている。そのため、学恩的にはたくさん論文を読んでいて、個人的には「先生」だと思っている人でも、相手が困らないように「さま」にしている。やはり、呼称は厄介な概念である。

ちなみに、「先生」の場合、冒頭だけではなく文中にも「先生」が適用されるが、「〜〜様」の場合には、本文中は「〜〜さん」にする人が多く、私もその慣習に従っている。わけがわからないかもしれない。私の解釈は、日本語メールの「〜〜様」は手紙文化の延長だというもので、手紙でも本文になれば「〜〜さん」になるから「さん」で良いのだと思っている。英語でも、最初はDearと使うが、そのあとは使わないのと似ているかもしれない。結論としては、呼称は実に厄介な概念である。

いつ送るか
これも、最近の自分を悩ませている事項の一つだ。私は1日のどの時間に送られても、平日だろうが休日だろうが、気にしないことにしている(とはいえ、夜に送られてきたり休日のメールにはあまり返信しないようにはしている)。特に理由がない場合も、あからさまに遅い時間や休日にメールすることは控えている(とはいえ、早朝4時に送ることはあるし、水曜の研究会の3日前の休日にリマインダを送ることもある。また、後述するように相手がいつでも送ってくるタイプであれば気にせず送る)。

「いつ送るか」が潜在的に重要になる背景は、コミュニケーション手段の変化があるだろう。スマホがなかった時代(といっても、10年も前でもない)は、gmailやhotmailに送られたメールを就寝時に確認することも少なかっただろうが、現在ではアドレスを同期すれば、携帯からでも簡単に仕事のメールを確認できてしまう。「夜に送ることが失礼」と考えている人の一部は、電話などの「夜分遅くになってからの連絡は失礼」の文化を引きずっているのかもしれないが、私はどちらかというと、夜にメールしてしまうことによって、仕事(学業)から解放された時間に介入してしまう危険性のようなものがあるのかなと考えている。具体的には、メールのマナーでは「レスはできるだけ早く」が推奨される傾向にあるので、夜にメールが送られてくると(とくに教員-学生のような権力関係を伴っている場合)、送られた学生側は、先生からのメールにすぐ返信しないといけないというプレッシャーを感じるかもしれないのは、気にした方が良いと考えている。

もう一つの要因は、ワークライフバランスに対する意識の変化だろう。昔は、学会参加・運営に代表されるように、研究者が休日を犠牲にすることが半ば自明視されていた(それはおそらく、研究者が男性で、結婚していて、家事や育児などは妻がおおよそ担ってくれる、といった分業モデルを遂行している場合が多かったことも関係しているだろう)。しかし、近年になるにつれて、休日を犠牲にしてまで研究することへの疑問も出てきている。その延長で、休日にメールを見て、返信することは、ワークライフバランスに反する、と考える人が出てきてもおかしくない。家族の時間を大切にしたいのに、研究グループ内で急を要するメールが送られてきた場合、研究者でもコンフリクトは感じるだろう。会社勤めの人は家で仕事関係のメールが見られることに驚くかもしれないが、そういう公私の区別がつきにくいのが研究者という生業の特徴になってしまっている。

私は、そういった「家族」もなければ(最近は控えているが)休日に研究室に行くこともあるので、休日にメールが送られてきてもあまり気にはしないが、休日はあまり積極的に業務のメールはやりとりしない。

もっとも、これは弱い原則くらいのもので、個人個人によって考えは異なるため、よくいえば臨機応変に、言い換えれば属人的に対応している。例えば、休日にメールを頻繁に送ってくる人には、私もあまり気にせず返信するようにしている。もしかすると、平日は他の業務で忙殺されているので、その人にとっては休日が他の作業に勤しむ時間かもしれないからだ。

考えてみると、呼称だけではなく、いつ送るかなどの他の側面も含めたメールのやり取りにおける暗黙の慣習は、相手に配慮すると同時に、その配慮を相手が過剰に取らないようにする程度には、押し付けてもいけない基準である。例えば、自分はいつメールが送られても良いが、相手のことを考慮して休日にメールを送らないことにする。そのことに相手が気づき、相手も休日にメールを送らないようにする。一見すると、これで合意が取れているように見えるが、相手が何か緊急の用事で休日にメールを送りたいと思った時に、両者の間で取れた暗黙の合意によって、相手がメールを送ることを躊躇するかもしれない。しかし、自分は本来はいつ送られてもいいので、そうした躊躇は杞憂である。

その辺りのバランスは、自分もよくわからないので適度に「例外」をつくることもある。例えば、「いつ送るか」ではないが、後輩が形式張ったメールを送ってきた時には(長ったらしいメールをつまらない先輩に送るのに時間を使うのも面倒だろうと思い)若干フランクな返信を「することもある」(しないこともある)。もちろん、若干でもフランクに書くことによって、相手はもしかすると不快感を感じるかもしれないので、その辺りを考えるとだんだんわからなくなってくる。結局のところ、互いにとって心地よいところを探るためには信頼関係が必要になるのだと思うが、そういう探り合いも面倒なのでたまに全部slackでいいよね、と考えることもある。

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