最近、社会学における結婚の趨勢の議論に関心を持つようになった。結婚、ないし配偶者選択というと、個人の選択の余地が大きいように思われる。どうしてそれが社会学的に面白いのか。
まず、社会学は配偶者同士のパターンに着目する。後で述べるように、配偶者の選択に対してはネットワーク分析におけるホモフィリーの理論が当てはまる。つまり、似た者同士が結合しあうのだ。男女というヘテロなものを除くと、同じ学歴、職業、年齢、趣味、人種などカップル同士の社会的な属性は似通っていることが多い。趣味などは結婚後に似るのかもしれないが、それ以外は結婚の以前に決まっているものであるから、何らかのメカニズムによって似た者同士が結合するものと考えられる。同質的なものとの結婚はホモガミーと言われている。
特に、学歴や職業が似ているもの同士が結婚するというのは、社会学的にみて非常に大切だ。社会学の主要な関心は各社会の近代化の影響に向けられている。具体的には、近代化によって、社会がどれだけ個人の業績によって秩序づけられるようになったのか(メリトクラシー)は社会学の大きな関心の一つである。逆に言えば、社会がどれだけ個人の努力によっては説明できないのかという点も社会学が明らかに使用としてきた。これを抽象的な言葉で表すと、社会が開放的か閉鎖的なのか、ということになる。開放的な社会では不平等が少なく、個人は生まれによって左右されず本人の努力によって評価される。閉鎖的な社会では、例えば親の出身などによって個人の将来が決まってしまう。学歴は、それ自体として近代に置ける業績中心の秩序を表現しているが、これは教育が個人の人生に大きな影響を与えるということでもある。学歴が同じもの同士が結婚しあうというのは、世代間の不平等を考えると、閉鎖的な社会に向かっていると考えられるのだ。これは、親子の職業がどれほどの連関を持っているかという社会異動の議論とかなり似ている。まとめると、ホモガミーは社会の開放性を検討する際に重要な指標となり得るのだ。
選択という側面に重きを置けば、同時に、結婚は経済学的な合理的選択理論の中でも議論されている。そこでは、どのような配偶者を選ぶのが自分の便益になるかを個人が合理的に考え選択するというモデルが採用される。例えば、高学歴化が進み、大卒の女性の未婚化が進んだ場合、男女の性分業が強い社会においては、これは女性にとっては人的資本を無駄にして家庭に入ることをリスクとして考えた結果として解釈される。
しかし、結婚はすぐれて社会的な制度である。社会学的に考えると、結婚は個人の合理的な選択に回収されない側面を持つとされる。例えば、日本で未婚化が進んだ解釈の一つとして、女性の高学歴化よりも、それまでの日本社会で盛んだった見合いや職場での出会いを通じた結婚が少なくなっているという議論がある。そこでは、欧米のような結婚を個人の選択によるものとするイデオロギーの影響で、そうした集団主義的な結婚のシステムが崩壊したという指摘が重要だ。このように、一口に配偶者選択と言っても、経済学と社会学では随分考えが違ってくる。
最後に、配偶者の選択が社会的な構造に制約されると考えるのであれば、結婚相手を見つける際に、彼らのネットワークがどのような効果を持っているかを検討することは重要だ。話を始めに戻すと、同じ社会的な属性を持つもの同士が結婚しやすいという議論には多くの蓄積がある。そして、このホモガミーの理論は、ネットワーク分析におけるホモフィリーの一つとして考えられる。そうだとすれば、ネットワーク分析でホモフィリーについて提出された知見が応用できるはずだ。
このように、結婚はマクロな社会の開放性の議論としても、個人と社会的な選択メカニズムの議論としても、ネットワークとの関連からも分析できる、非常に魅力的なテーマでもある。ここでは述べなかったが、結婚が出生と結びつく時に、これは人口学的なフレームワークでも解釈できる。ホモガミーの議論と同時に、女性が自分より地位の高い男性と結婚するという上昇婚はアジアを中心によく見られる現象で、実はこのメカニズムはよく分かっていないと思われる。このように考えると、結婚を社会学的に考えるのは、それなりの意義があるだろう。配偶者選択に関する社会学の議論枠組みは社会階層論とダブることが多いが、結婚に特徴的なのは、配偶者を選択する時にネットワーク的な特性が作用するという点にあると思われる。
April 24, 2014
ホモガミー
Kalmijn, M. 2009. “Educational Inequality, Homogamy, and Status Exchange in Black‐White Intermarriage: a Comment on Rosenfeld1.” American journal of sociology 115(4):1252–63.
この論文では、米国における白人と黒人の結婚によるstatus-caste exchangeがみられないことを指摘したRosenfeldに対するリプライとなっている。Rosenfeldの分析では、simple modelとcomplex modelの双方でこの仮説が支持されないと指摘しているが、Kalmijnはこの点から再検討している。筆者は、白人においては、男性と女性では前者の方が高学歴のものが多いことを指摘する。次に、黒人男性と白人女性では後者、黒人女性と黒人男性では前者がそれぞれ学歴が高いことを指摘する。さらに、白人女性の方が黒人女性よりも学歴が高い傾向にある。すなわち、白人女性が黒人男性と結婚する時はexchangeが起こらない。また、intermarriageの方がnon intermarriageよりもmale dominanceが生じやすいというこの仮説の想定とも矛盾する。このように、シンプルなモデルから考えれば、交換理論は否定されることになるが、筆者はこの事例を持って人種間・男女間の教育の不平等を考慮しなければ交換理論が妥当かどうかを検討できないとする(つまり、教育の不平等がバイアスになっている可能性が高い)。このように論じた上で、Rosenfeldと同じように筆者は(よりサンプルサイズの大きい異なるデータをもって)ログリニアモデルによるcomplex modelの検討に入るが、Rosenfeldとはことなり、各学歴ごとの結婚パターンを観察する。先行研究から、珍しい組み合わせのパターンには交換理論が当てはまらないことが指摘されている。逆に言えば、よくあるパターンについては交換理論が当てはまることを持って筆者はこれを擁護する。社会的交換理論は一応合理的選択理論の一つなのだが、対立するホモガミーの議論に関しては合理的な説明が可能な場合とそうでない場合がある。どうにかいかせないだろうか。
Park, H., and J. Smits. 2005. “Educational Assortative Mating in South Korea: Trends 1930–1998.” Research in Social Stratification and Mobility 23:103–27.
この論文では韓国におけるホモガミーの議論を検討している。論文の主張としてはシンプルな分析ではホモガミーの傾向は非線形的になるが、ログリニア分析の結果、韓国では高学歴層でのホモガミーが増加しており、社会の分断線が増している。また、ホモガミーではなくても、こちらも高学歴層において自分と近い学歴の配偶者を選択する傾向が強まってきたことが指摘される、これらの傾向の理由としては男性が高学歴の女性を選好するようになったことがあげられている(分析結果として、カップルのうち男性の方が学歴が高いパターンがみられるという。)。高学歴男性は近い学歴の女性を妻とすることで子どもの教育に対する便益を想定しているという解釈が提示されている。ホモガミーの議論でややこしいのは、学歴が全く同じことを持って狭義のホモガミーとすれば、上記の後者の例は上昇婚としてヘテロガミーに扱われる一方、緩く定義すれば、高学歴層と例学歴層との間の分断が強まっているとみることが可能な点にあるだろうか。論文の主張は、ホモガミーも上昇婚も高学歴そうで生じていることを持って、分断線が強まっていることを主張する。
何が高学歴かは、同じ社会でも時代によって異なる。例えば、20年前であれば女性の短大卒は相対的にみて高学歴だったかもしれないが、現在は大卒と厳然たる違いがあると考えてもおかしくない。男女間で絶対数が違うため、シンプルな分析だけではホモガミーの主張はするべきではないが、それと私たちの今の感覚が昔と同じものではないという点は話が異なる。例えば、日本でかつては大卒男性と短大卒女性のカップルが多かったとして、それが大卒男女同士のカップルに変わったとする。これはホモガミーが強化されたと言えるだろうか。日本では大学ごとのランクを重要視する見方も根強い。何を高学歴かとする時に、教育課程というフォーマルな定義をするのもありだし、私たちの主観的な認識を用いることも妥当でないとは言えない気がする。ちなみに、韓国でも見合い文化はあるらしい。
Raymo, J. M., and M. Iwasawa. 2005. “Marriage Market Mismatches in Japan: an Alternative View of the Relationship Between Women's Education and Marriage.” American sociological review 70(5):801–22.
女性の高学歴化は広く産業社会に見られる現象であるが、これが男女の結婚に対して与える影響については二つの異なる知見が提出されている。まず、アメリカやその他の産業社会の多くでは、女性の学歴達成は結婚に対してポジティブな影響を持っている。一方で、日本では結婚率の減少は高学歴女性の間で大きい。この意味で、日本社会の事例はベッカーやパーソンズが主張した専門スキルの交換を重視した理論と整合的である。労働市場において価値の高い男性は家事労働スキルの高い女性と結婚するとすれば(Becker 1991)、配偶者の男性と同じだけの学歴を持ち経済的に独立した女性にとっては結婚で得られる利益が少ないため、結婚に対する誘因がなくなると考えられるからだ。しかし、多くの社会ではこの理論が想定したこととは逆のことが起きている。そこで、筆者らは日本に見られる現象を説明するために、もう一つの理論となる仮説を示す。この仮説では、女性の学歴が高くなる一方で、女性が男性の経済的な資源に依存して自分と同等以上の学歴の男性を求める状況が変わらなければ、高学歴男性の相対的な供給が減少すると考える。この仮説には、男女間の結婚パターンの非対称性(女性の学歴上昇婚)が、期待されている役割が男女によって異なる、つまり男性は稼得労働者として経済的資源を確保すると期待されていることを反映しているという前提があるが、これは男女の性分業に賛同する女性であればあるほど学歴上昇婚を志向しやすいことが指摘されなくてはいけないと思われる。そうであって初めて、女性の経済的な地位が高くなればなるほど、男性の供給が不足するという主張が可能になるのではないか。
Rosenfeld, M. J. 2005. “A Critique of Exchange Theory in Mate Selection1.” American journal of sociology 110(5):1284–1325.
Homogamyの理論に対立すると考えられるのが配偶者選択における社会的交換の理論(Social Exchange Theory in mate selection)である。配偶者選択を説明する社会的交換の理論では、ジェンダー以外の二つの側面を想定し、結婚を通じて一方を持つものと他方を持つものとの間に交換が成り立つと考える(Rosenfeld 2005)。この理論では、地位の高い男性が美貌を備える女性と結婚する(Elder 1969; Waller 1937; Goode 1951; Taylor and Glenn 1976)、労働市場において価値の高い男性は家事労働スキルの高い女性と結婚する(Becker 1991)といった具体例が報告されているが、最もポピュラーなものとしては、Davis (1941)とMerton(1941)から始まる、地位とカーストの交換(Status-caste exchange)が有名である。この議論では、人種的にアドバンテージがある白人で社会経済的な地位が低い人が黒人の地位が高い人と結婚する事例が報告されている。社会的交換の系譜では、これは非直接の交換関係による一般的交換ではなく、「人種」と「地位」の直接交換と考えられる。これを一般化すれば、A, Bという資源があった時に、Aという資源を持つがBを持たない人とBを持つがAを持たない人との間で結婚を通じた社会的な交換が成立するということになる。
Homogamyの議論は、この理論と対立するように見える。なぜならば、Homogamyの理論では、同じ人種であったり、同じ社会的地位を持つ人間との間で結婚が成り立つと考えるからだ。もちろん、両者が補いあうことも十分に考えられる。例えば、Homogamyが結婚を導く大きなメカニズムの一つである一方、社会的交換もマイナーなメカニズムになりえることは想定可能だ。しかし、Rosenfeld (2005)は、経験的な証拠からはHomogamyが支持され、Status-caste exchangeは原因にならないと主張する。彼の論拠は三つある。まず、人種間に不平等が存在するため、例え客観的に見て同一の地位のものが結婚したとしても、集団内において一方が高い地位、もう一方が低い地位にいるため、交換が成り立っているように見えるだけで、実際には地位のHomogamyが生じているに過ぎないからである。次に、男女の間の不平等に関しても同様のことが言える。以上二つから、一見すると交換に見えても、それは集団間の不平等によってそう見えているだけであり、実際にはHomogamyであることが述べられる。最後に、社会的交換の理論が想定するメカニズムは統計的に見て頑強ではないことが経験的な証拠から明らかであると主張される。
この論文は二つの理論の矛盾を指摘しつつ、経験的なレベルにまで落とし込んで比較している点で好感が持てる。加えて、この論文からHomogamyないしHomophilyといっても、何が個人同士の接近を引き起こしているのかについての慎重な検討が必要であることが分かる。
Smits, J. 2003. “Social Closure Among the Higher Educated: Trends in Educational Homogamy in 55 Countries.” Social Science Research 32(2):251–77.
この論文では、高い教育程度を持つ層のホモガミーの傾向に対する影響を国際比較の点から比較している。分析の結果、経済的に発展している国、プロテスタントの国、高学歴層が多い国ではホモガミーは少なく、開放的であることが分かった。また、トレンドの観点については、経済成長をしている新興国では開放的な結婚が進んでいる。ホモガミーは社会異動と並んで近代化が社会の開放性に与える影響を考える際の重要な指標の一つであり、国際比較が奨励されるのもこのためである。また、status homogamyの中でも教育が重視されるのは、近代社会の業績主義的な編成原理が教育によって秩序づけられていることが挙げられる。加えて、配偶者の学歴は本人に大して社会的な利益をもたらす。また、両親の学歴は次世代のそれにも影響する。以上の点から、教育は社会的な不平等の重要な構成要素と考えられるため、homogamyの国際比較の議論は実質的に教育に限定されている。
Smits, J., and H. Park. 2009. “Five Decades of Educational Assortative Mating in 10 East Asian Societies.” Social Forces 88(1):227–55.
この論文では、東アジア10カ国におけるHomogamyを50年間のスパンで検討している。教育システムにおいて教育課程ごとの障壁が大きかった国ではHomogamyは強力だったが、これらの国では50年代以降Homogamyが持続的に減少している。しかし、障壁が小さい国ではこの傾向は見られず、筆者らは教育水準が低い層でもHomogamyへの収斂が起こっていると主張する。女性の非雇用率が高い、また儒教の影響が少ない国ではHomogamyは小さくなっている。分析の結果は、開放性仮説と排他仮説の両方を支持している。すなわち、近代化の課程でHomogamyが減少していった一方、高等教育の拡大の結果、教育程度の低い層でのHomogamyが残っている。
この論文では、米国における白人と黒人の結婚によるstatus-caste exchangeがみられないことを指摘したRosenfeldに対するリプライとなっている。Rosenfeldの分析では、simple modelとcomplex modelの双方でこの仮説が支持されないと指摘しているが、Kalmijnはこの点から再検討している。筆者は、白人においては、男性と女性では前者の方が高学歴のものが多いことを指摘する。次に、黒人男性と白人女性では後者、黒人女性と黒人男性では前者がそれぞれ学歴が高いことを指摘する。さらに、白人女性の方が黒人女性よりも学歴が高い傾向にある。すなわち、白人女性が黒人男性と結婚する時はexchangeが起こらない。また、intermarriageの方がnon intermarriageよりもmale dominanceが生じやすいというこの仮説の想定とも矛盾する。このように、シンプルなモデルから考えれば、交換理論は否定されることになるが、筆者はこの事例を持って人種間・男女間の教育の不平等を考慮しなければ交換理論が妥当かどうかを検討できないとする(つまり、教育の不平等がバイアスになっている可能性が高い)。このように論じた上で、Rosenfeldと同じように筆者は(よりサンプルサイズの大きい異なるデータをもって)ログリニアモデルによるcomplex modelの検討に入るが、Rosenfeldとはことなり、各学歴ごとの結婚パターンを観察する。先行研究から、珍しい組み合わせのパターンには交換理論が当てはまらないことが指摘されている。逆に言えば、よくあるパターンについては交換理論が当てはまることを持って筆者はこれを擁護する。社会的交換理論は一応合理的選択理論の一つなのだが、対立するホモガミーの議論に関しては合理的な説明が可能な場合とそうでない場合がある。どうにかいかせないだろうか。
Park, H., and J. Smits. 2005. “Educational Assortative Mating in South Korea: Trends 1930–1998.” Research in Social Stratification and Mobility 23:103–27.
この論文では韓国におけるホモガミーの議論を検討している。論文の主張としてはシンプルな分析ではホモガミーの傾向は非線形的になるが、ログリニア分析の結果、韓国では高学歴層でのホモガミーが増加しており、社会の分断線が増している。また、ホモガミーではなくても、こちらも高学歴層において自分と近い学歴の配偶者を選択する傾向が強まってきたことが指摘される、これらの傾向の理由としては男性が高学歴の女性を選好するようになったことがあげられている(分析結果として、カップルのうち男性の方が学歴が高いパターンがみられるという。)。高学歴男性は近い学歴の女性を妻とすることで子どもの教育に対する便益を想定しているという解釈が提示されている。ホモガミーの議論でややこしいのは、学歴が全く同じことを持って狭義のホモガミーとすれば、上記の後者の例は上昇婚としてヘテロガミーに扱われる一方、緩く定義すれば、高学歴層と例学歴層との間の分断が強まっているとみることが可能な点にあるだろうか。論文の主張は、ホモガミーも上昇婚も高学歴そうで生じていることを持って、分断線が強まっていることを主張する。
何が高学歴かは、同じ社会でも時代によって異なる。例えば、20年前であれば女性の短大卒は相対的にみて高学歴だったかもしれないが、現在は大卒と厳然たる違いがあると考えてもおかしくない。男女間で絶対数が違うため、シンプルな分析だけではホモガミーの主張はするべきではないが、それと私たちの今の感覚が昔と同じものではないという点は話が異なる。例えば、日本でかつては大卒男性と短大卒女性のカップルが多かったとして、それが大卒男女同士のカップルに変わったとする。これはホモガミーが強化されたと言えるだろうか。日本では大学ごとのランクを重要視する見方も根強い。何を高学歴かとする時に、教育課程というフォーマルな定義をするのもありだし、私たちの主観的な認識を用いることも妥当でないとは言えない気がする。ちなみに、韓国でも見合い文化はあるらしい。
Raymo, J. M., and M. Iwasawa. 2005. “Marriage Market Mismatches in Japan: an Alternative View of the Relationship Between Women's Education and Marriage.” American sociological review 70(5):801–22.
女性の高学歴化は広く産業社会に見られる現象であるが、これが男女の結婚に対して与える影響については二つの異なる知見が提出されている。まず、アメリカやその他の産業社会の多くでは、女性の学歴達成は結婚に対してポジティブな影響を持っている。一方で、日本では結婚率の減少は高学歴女性の間で大きい。この意味で、日本社会の事例はベッカーやパーソンズが主張した専門スキルの交換を重視した理論と整合的である。労働市場において価値の高い男性は家事労働スキルの高い女性と結婚するとすれば(Becker 1991)、配偶者の男性と同じだけの学歴を持ち経済的に独立した女性にとっては結婚で得られる利益が少ないため、結婚に対する誘因がなくなると考えられるからだ。しかし、多くの社会ではこの理論が想定したこととは逆のことが起きている。そこで、筆者らは日本に見られる現象を説明するために、もう一つの理論となる仮説を示す。この仮説では、女性の学歴が高くなる一方で、女性が男性の経済的な資源に依存して自分と同等以上の学歴の男性を求める状況が変わらなければ、高学歴男性の相対的な供給が減少すると考える。この仮説には、男女間の結婚パターンの非対称性(女性の学歴上昇婚)が、期待されている役割が男女によって異なる、つまり男性は稼得労働者として経済的資源を確保すると期待されていることを反映しているという前提があるが、これは男女の性分業に賛同する女性であればあるほど学歴上昇婚を志向しやすいことが指摘されなくてはいけないと思われる。そうであって初めて、女性の経済的な地位が高くなればなるほど、男性の供給が不足するという主張が可能になるのではないか。
Rosenfeld, M. J. 2005. “A Critique of Exchange Theory in Mate Selection1.” American journal of sociology 110(5):1284–1325.
Homogamyの理論に対立すると考えられるのが配偶者選択における社会的交換の理論(Social Exchange Theory in mate selection)である。配偶者選択を説明する社会的交換の理論では、ジェンダー以外の二つの側面を想定し、結婚を通じて一方を持つものと他方を持つものとの間に交換が成り立つと考える(Rosenfeld 2005)。この理論では、地位の高い男性が美貌を備える女性と結婚する(Elder 1969; Waller 1937; Goode 1951; Taylor and Glenn 1976)、労働市場において価値の高い男性は家事労働スキルの高い女性と結婚する(Becker 1991)といった具体例が報告されているが、最もポピュラーなものとしては、Davis (1941)とMerton(1941)から始まる、地位とカーストの交換(Status-caste exchange)が有名である。この議論では、人種的にアドバンテージがある白人で社会経済的な地位が低い人が黒人の地位が高い人と結婚する事例が報告されている。社会的交換の系譜では、これは非直接の交換関係による一般的交換ではなく、「人種」と「地位」の直接交換と考えられる。これを一般化すれば、A, Bという資源があった時に、Aという資源を持つがBを持たない人とBを持つがAを持たない人との間で結婚を通じた社会的な交換が成立するということになる。
Homogamyの議論は、この理論と対立するように見える。なぜならば、Homogamyの理論では、同じ人種であったり、同じ社会的地位を持つ人間との間で結婚が成り立つと考えるからだ。もちろん、両者が補いあうことも十分に考えられる。例えば、Homogamyが結婚を導く大きなメカニズムの一つである一方、社会的交換もマイナーなメカニズムになりえることは想定可能だ。しかし、Rosenfeld (2005)は、経験的な証拠からはHomogamyが支持され、Status-caste exchangeは原因にならないと主張する。彼の論拠は三つある。まず、人種間に不平等が存在するため、例え客観的に見て同一の地位のものが結婚したとしても、集団内において一方が高い地位、もう一方が低い地位にいるため、交換が成り立っているように見えるだけで、実際には地位のHomogamyが生じているに過ぎないからである。次に、男女の間の不平等に関しても同様のことが言える。以上二つから、一見すると交換に見えても、それは集団間の不平等によってそう見えているだけであり、実際にはHomogamyであることが述べられる。最後に、社会的交換の理論が想定するメカニズムは統計的に見て頑強ではないことが経験的な証拠から明らかであると主張される。
この論文は二つの理論の矛盾を指摘しつつ、経験的なレベルにまで落とし込んで比較している点で好感が持てる。加えて、この論文からHomogamyないしHomophilyといっても、何が個人同士の接近を引き起こしているのかについての慎重な検討が必要であることが分かる。
Smits, J. 2003. “Social Closure Among the Higher Educated: Trends in Educational Homogamy in 55 Countries.” Social Science Research 32(2):251–77.
この論文では、高い教育程度を持つ層のホモガミーの傾向に対する影響を国際比較の点から比較している。分析の結果、経済的に発展している国、プロテスタントの国、高学歴層が多い国ではホモガミーは少なく、開放的であることが分かった。また、トレンドの観点については、経済成長をしている新興国では開放的な結婚が進んでいる。ホモガミーは社会異動と並んで近代化が社会の開放性に与える影響を考える際の重要な指標の一つであり、国際比較が奨励されるのもこのためである。また、status homogamyの中でも教育が重視されるのは、近代社会の業績主義的な編成原理が教育によって秩序づけられていることが挙げられる。加えて、配偶者の学歴は本人に大して社会的な利益をもたらす。また、両親の学歴は次世代のそれにも影響する。以上の点から、教育は社会的な不平等の重要な構成要素と考えられるため、homogamyの国際比較の議論は実質的に教育に限定されている。
Smits, J., and H. Park. 2009. “Five Decades of Educational Assortative Mating in 10 East Asian Societies.” Social Forces 88(1):227–55.
この論文では、東アジア10カ国におけるHomogamyを50年間のスパンで検討している。教育システムにおいて教育課程ごとの障壁が大きかった国ではHomogamyは強力だったが、これらの国では50年代以降Homogamyが持続的に減少している。しかし、障壁が小さい国ではこの傾向は見られず、筆者らは教育水準が低い層でもHomogamyへの収斂が起こっていると主張する。女性の非雇用率が高い、また儒教の影響が少ない国ではHomogamyは小さくなっている。分析の結果は、開放性仮説と排他仮説の両方を支持している。すなわち、近代化の課程でHomogamyが減少していった一方、高等教育の拡大の結果、教育程度の低い層でのHomogamyが残っている。
April 19, 2014
卒論についての文献収集
卒論のテーマ、どれだけ可能性があるものか分かりませんでしたが、ひとまず文献が一応あって、まだ死んだ議論じゃないことが確認できたのでこれで行こうと思います。
社会学なんて、ほんとにいろんな人がいろんなことがやっているので、自分と同じ研究テーマの人を3人見つけられれば食っていけるとベッカーが言ってた気がしますね。3人は少なすぎですが、この分野はアメリカで15人くらいかな。
じきに文献のまとめも再開したいと思います。
社会学なんて、ほんとにいろんな人がいろんなことがやっているので、自分と同じ研究テーマの人を3人見つけられれば食っていけるとベッカーが言ってた気がしますね。3人は少なすぎですが、この分野はアメリカで15人くらいかな。
じきに文献のまとめも再開したいと思います。
April 18, 2014
差別
浦和レッズの件の横断幕のことを考えてたら、似たような事例で議論を呼ぶケースを思い出した。大相撲だ。大相撲では、土俵に女性が入ることは許されていない。扇元大臣が賜杯を授与しようとした時に、女性が入れないということがニュースになったと思う。なぜ、横断幕が問題になって、大相撲のケースはならないかと考えると、まず伝統という理由を挙げる人が多いかもしれない。少なくない人や、特に社会学者とかは、伝統という理由を持って何かを排斥することに反対するような気がするけど、僕は、場合によってはそういう文化的な理由を持って人を区別することはナシではないと思う。それに該当する理由はいくつかある。
一つは合理性。何が合理的かというときには、複数の解釈が可能だと思う(なので、何が合理的かも部分的には社会的に決まっていると思う)けれど、例えば、未成年に喫煙や飲酒を禁止するのは、どこに境界を設ければいいかは置いておくとしても、発育上の理由から合理的とみなされると思う。大相撲のケースは、僕には合理的には思えないけど、相撲協会やファンの人からすると合理的に見えるかもしれない。実は、合理的といった時には、上記の伝統や文化といった理由や下記の理由を複数用いながら判断している場合が多いのではないかと思う。僕であれば、性別という帰属的なものを用いて人を区別することは合理的だとは考えないけど、賛成する人は上記の伝統といった側面からそう考えるのだろうと思う。まあ、合理的と言っても、多くは社会的に共有された解釈を応用したもので、AだからBといったときの関係はspriousな場合が多いと思う。
もう一つは区別がascriptive(帰属的)なものではないこと。生まれながら備えた性質(性別、人種、出身国)を持って人を区別することは基本的には許されない。一方で、人生の間に獲得した資格や職業を持って人を区別することは、許される場合が多い。多くが部分的に上記の合理的な理由を持っている気がする(医者じゃないと診察できないのは、道徳だったり、文化だったりではなく、患者の安全や同業者の利益の保護といった側面から合理的と判断されるだろう)。ただ、飲酒や喫煙の事例のように、境界線を引く時には集団的に共有された合理性とは別の次元で、明文化されたルールや法的に決まっていることも必要だろう。とはいっても、たとえ非合理的な理由でも、慣習上そうなっている場合もある。大相撲の場合は、性別という帰属的なものから区別をしているので、この条件は満たしていない。もちろん、なぜ性別やエスニシティで人を差別してはいけないかと聞かれて、例え歴史的な理由を用いるにしても、説明としてはそれらで差別をしてはいけないというトートロジーになるのは避けられない。と考えていくと、実は一番基本的なように思える人々の帰属性から区別をすることは、トートロジーでも問答無用で妥当なものとして受入れるという共通の理解が成り立っていない場合、議論は噛み合ないのではないかと思う。浦和の件も、横断幕を揚げたのは「そういうつもりじゃなかった」という釈明をする人は、「そういうつもり」がいけないことだと分かっていながらそう弁明できるのだ。それは、そうしたメッセージが問答無用で駄目だという考えが共有されていない(と言い訳できる)からだろう。
伝統、合理性、帰属性以外に、僕が大切だと思う理由は、そうした区別がなされている場所がパブリックな場所なのか、プライベートな場所なのかというものだ。例えば、アダルトビデオ店に入店できるのが18歳以上(たぶん)なのは、もちろん青少年云々もあるだろうけど(もちのもちで、青少年の健康的な発達のためにそういう店が必要というのも、ロジックとしてはありだろう、賛同はされないだろうけど)、基本的には、そういう店はプライベートな空間なので、その区別は空間を所有する人が決めていい(アダルトビデオ店は法や条例でそう決まっているから、たとえとしてはよくないか)。料理店で、ある程度修行を積んだ人しかお客に振る舞える料理をすることができないのも、合理的な理由以外に、料理店が店主やオーナーによって管理されているプライベートな空間だからと考えることもできる。パブリックと思われる空間、例えば公園だったり大学だったり広場だったり、そういう空間では、基本的に人々を区別して、一部の人を排除するようなことはあってはいけないと思われる。「公衆」トイレはどうかというと、同じ昨日が区分された人同士に配分されているので、問題にはならないと思う。もちろん、パブリックとは何かという議論も、色々な意見があると思うので一つのまとめるのは難しそうだけど、一つにはパブリックな場では、様々なバックグラウンドな人がそれを理由に区別されることなく場に参入できているという条件があるだろう。もちろん、大相撲を生で見るには小額ではないお金を払わなきゃいけないので、それはクローズドな空間かもしれないけれど、僕たちは(安くはない受信料を払えば)、大相撲を生中継で見られるし、結果はニュースとして日本のメディアで報じられるし、多くの人が知る可能性が大いにある。そういう意味では、十分パブリックな場所だと思う。
僕は、伝統や合理性、帰属性よりも、その空間がパブリックかプライベートかの区分が、こうした差別の問題を考える時には先行するのではないかと思う。プライベートな空間で人を区別することがアリかナシかは議論があると思うけど、基本的に、パブリックな空間では、人を区別してはいけない(何故かといわれると、パブリックな空間なので、というトートロジーに陥ることに、今、気がついた)はずだ。そして、大相撲は十分パブリックな空間だし、それはJリーグの試合と比較しても遜色ないはずなので、やはり女性を土俵に上がらせないというのは、やめた方がいいと思う。もちろん、伝統も大切だとは思うけど、パブリックな場で人を排斥しているというのは、合理性や伝統に回収されないシンボリックな意味があるはずだ。
トートロジーのように思えるけれど、パブリックな場には象徴的な意味が付されると考えると、うまくいくかもしれない。公的な場で人を排除することは、それをすることが政党なものだという、伝統という文脈からはなれて、女性を排斥するという意味に結びつくから、と考えるのは、どうだろうか、自分でも、半分納得くらいだけど。
最後に、横断幕と大相撲では、排除の際の記号的な意味の有無が違いになるだろう。横断幕は、歴史的に蓄積されてきた差別のメッセージが記号的に共有されている。大相撲の場合には、他の文脈と結びつくような、記号的な部分がないので、議論にならないのかもしれない。とはいえ、僕は公的な空間でそうした区別をするのは、よくないだろうと思う。
一つは合理性。何が合理的かというときには、複数の解釈が可能だと思う(なので、何が合理的かも部分的には社会的に決まっていると思う)けれど、例えば、未成年に喫煙や飲酒を禁止するのは、どこに境界を設ければいいかは置いておくとしても、発育上の理由から合理的とみなされると思う。大相撲のケースは、僕には合理的には思えないけど、相撲協会やファンの人からすると合理的に見えるかもしれない。実は、合理的といった時には、上記の伝統や文化といった理由や下記の理由を複数用いながら判断している場合が多いのではないかと思う。僕であれば、性別という帰属的なものを用いて人を区別することは合理的だとは考えないけど、賛成する人は上記の伝統といった側面からそう考えるのだろうと思う。まあ、合理的と言っても、多くは社会的に共有された解釈を応用したもので、AだからBといったときの関係はspriousな場合が多いと思う。
もう一つは区別がascriptive(帰属的)なものではないこと。生まれながら備えた性質(性別、人種、出身国)を持って人を区別することは基本的には許されない。一方で、人生の間に獲得した資格や職業を持って人を区別することは、許される場合が多い。多くが部分的に上記の合理的な理由を持っている気がする(医者じゃないと診察できないのは、道徳だったり、文化だったりではなく、患者の安全や同業者の利益の保護といった側面から合理的と判断されるだろう)。ただ、飲酒や喫煙の事例のように、境界線を引く時には集団的に共有された合理性とは別の次元で、明文化されたルールや法的に決まっていることも必要だろう。とはいっても、たとえ非合理的な理由でも、慣習上そうなっている場合もある。大相撲の場合は、性別という帰属的なものから区別をしているので、この条件は満たしていない。もちろん、なぜ性別やエスニシティで人を差別してはいけないかと聞かれて、例え歴史的な理由を用いるにしても、説明としてはそれらで差別をしてはいけないというトートロジーになるのは避けられない。と考えていくと、実は一番基本的なように思える人々の帰属性から区別をすることは、トートロジーでも問答無用で妥当なものとして受入れるという共通の理解が成り立っていない場合、議論は噛み合ないのではないかと思う。浦和の件も、横断幕を揚げたのは「そういうつもりじゃなかった」という釈明をする人は、「そういうつもり」がいけないことだと分かっていながらそう弁明できるのだ。それは、そうしたメッセージが問答無用で駄目だという考えが共有されていない(と言い訳できる)からだろう。
伝統、合理性、帰属性以外に、僕が大切だと思う理由は、そうした区別がなされている場所がパブリックな場所なのか、プライベートな場所なのかというものだ。例えば、アダルトビデオ店に入店できるのが18歳以上(たぶん)なのは、もちろん青少年云々もあるだろうけど(もちのもちで、青少年の健康的な発達のためにそういう店が必要というのも、ロジックとしてはありだろう、賛同はされないだろうけど)、基本的には、そういう店はプライベートな空間なので、その区別は空間を所有する人が決めていい(アダルトビデオ店は法や条例でそう決まっているから、たとえとしてはよくないか)。料理店で、ある程度修行を積んだ人しかお客に振る舞える料理をすることができないのも、合理的な理由以外に、料理店が店主やオーナーによって管理されているプライベートな空間だからと考えることもできる。パブリックと思われる空間、例えば公園だったり大学だったり広場だったり、そういう空間では、基本的に人々を区別して、一部の人を排除するようなことはあってはいけないと思われる。「公衆」トイレはどうかというと、同じ昨日が区分された人同士に配分されているので、問題にはならないと思う。もちろん、パブリックとは何かという議論も、色々な意見があると思うので一つのまとめるのは難しそうだけど、一つにはパブリックな場では、様々なバックグラウンドな人がそれを理由に区別されることなく場に参入できているという条件があるだろう。もちろん、大相撲を生で見るには小額ではないお金を払わなきゃいけないので、それはクローズドな空間かもしれないけれど、僕たちは(安くはない受信料を払えば)、大相撲を生中継で見られるし、結果はニュースとして日本のメディアで報じられるし、多くの人が知る可能性が大いにある。そういう意味では、十分パブリックな場所だと思う。
僕は、伝統や合理性、帰属性よりも、その空間がパブリックかプライベートかの区分が、こうした差別の問題を考える時には先行するのではないかと思う。プライベートな空間で人を区別することがアリかナシかは議論があると思うけど、基本的に、パブリックな空間では、人を区別してはいけない(何故かといわれると、パブリックな空間なので、というトートロジーに陥ることに、今、気がついた)はずだ。そして、大相撲は十分パブリックな空間だし、それはJリーグの試合と比較しても遜色ないはずなので、やはり女性を土俵に上がらせないというのは、やめた方がいいと思う。もちろん、伝統も大切だとは思うけど、パブリックな場で人を排斥しているというのは、合理性や伝統に回収されないシンボリックな意味があるはずだ。
トートロジーのように思えるけれど、パブリックな場には象徴的な意味が付されると考えると、うまくいくかもしれない。公的な場で人を排除することは、それをすることが政党なものだという、伝統という文脈からはなれて、女性を排斥するという意味に結びつくから、と考えるのは、どうだろうか、自分でも、半分納得くらいだけど。
最後に、横断幕と大相撲では、排除の際の記号的な意味の有無が違いになるだろう。横断幕は、歴史的に蓄積されてきた差別のメッセージが記号的に共有されている。大相撲の場合には、他の文脈と結びつくような、記号的な部分がないので、議論にならないのかもしれない。とはいえ、僕は公的な空間でそうした区別をするのは、よくないだろうと思う。
April 8, 2014
卒論関係の論文を少し
Brinton, Mary C. 2007. Gendered Offices: A Comparative-Historical Examination of Clerical Work in Japan and the United States, in Rosenbluth, F. M. (Ed.). The political economy of Japan's low fertility. Stanford University Press.
Clerical workersの歴史的な発展を日米で比較した論文。女性が事務職に就く割合は日本よりもアメリカの方がどのコーホートを見ても高い。特に、アメリカでは初職が事務職だった人の多くが結婚後に仕事に復帰するのに対して、日本では、初職が事務職だった女性は30代の時には半分以上が労働市場に残っていない。女性が結婚後に就く最初の職業のうち事務職は2割程度しか占めず、ほとんどが製造業とBrintonは指摘している(95年までのデータなので現在は違うとは思う)。アメリカでは、事務職の女性化が女性の学歴獲得・上昇移動のアスピレーションを高めることにつながり、結果的に管理職の女性比率も上昇していったのに対して、日本でも事務職の女性化は起こったが、彼女たちは結婚・出産後に事務職に留まることはなく(M字カーブ)、上昇移動へのきっかけとはならなかった。女性の管理職比率を3割にすると言っても、日本のように就職してからいきなり管理職的な仕事を任されない企業文化の国ではなおさら、企業内部の昇進プロセス、特に教育程度の高い人がつくと考えられる事務職のそれについて考えるのが重要なのだろう。
Chang, C.-F., and P. England. 2011. “Gender Inequality in Earnings in Industrialized East Asia.” Social Science Research 40(1):1–14.
この論文では、日本、韓国、台湾の三つの産業化した東アジアの国のデータ(EASS)を用いて、男女の賃金格差の原因の違いを検討している。分析の結果、日本では、多くの女性がパートタイムで働いており、これが他国に比べて、男女の賃金格差の要因となっている。韓国では、男性の大卒割合が高く、これが賃金格差の要因として大きい。台湾では、賃金格差が一番少なく、女性の学歴も男性より高い傾向にあるという。
Hertog, E. 2008. “‘The Worst Abuse Against a Child Is the Absence of a Parent’: How Japanese Unwed Mothers Evaluate Their Decision to Have a Child Outside Wedlock.” Japan Forum 20(2):193–217.
この論文では、シングルマザーが忌避されるのは、子育ての規範が重要だと主張する。unwed motherは離婚した人を含まず、結婚せずに子どもを持つことを選択したシングルマザーを指している。この論文では、ひとり親を回避する理由として最もよく挙げられる経済的な不安定さと法的な差別について、これだけでは不十分とする。経済的な不安定では、シングルマザーと離婚した人の間には福祉の供給でほとんど違いがなく、離婚の増加に対してシングルマザーが少ないことを説明しない。戸籍上の差別も、近年になって消えてきている。この論文では、まず西洋とは異なり日本では子どもはタブララサの状態で生まれ、親や教師の教育と彼らの努力によって成功するかが大きく変わると考えられているとする。同時に、母親たちは一人親の過程で育った家庭の子どもの将来について罪深さを感じている。彼らにとって、未婚が子どもにもたらす利益は何もないと考えられている。また、母親たちは父親の役割を認めており、同時に多くが子どもに一人親であることを告げるのをためらっている。Goodmanらの知見を引きながら、シングルマザーの少なさを子育て規範に求める分析は鋭いと思った。
Hertog, E., and M. Iwasawa. 2011. “Marriage, Abortion, or Unwed Motherhood? How Women Evaluate Alternative Solutions to Premarital Pregnancies in Japan and the United States.” Journal of Family Issues 32(12):1674–99.
この論文では、日本におけるシングルマザーの質的調査と日米の20歳から49歳までの対象者への量的調査から、結婚前の妊娠に対してとる三つの行動(結婚、中絶、一人親)への意味付けを検討している。日米とも、結婚前の妊娠は増加しているが、アメリカでは結婚せずに出産する選択が増加しているのに対して、日本ではそのような人はほとんどおらず、かわりに中絶が選択されやすい。日本における婚姻外出産の欠如に対しては、それに対する法的的な差別や経済的な不平等が指摘されてきたが、前者に対しては近年大きな改善が見られること、後者に関してはアメリカも同じような状況であることを持って退ける。またアメリカに比べても婚姻外の子育てに対して賛成の意見がそこまで少なくないことから、筆者らは個人内部の選好が日米で異なるという仮説を唱える。分析の結果、筆者らは日本においてはシングルマザーという選択は倫理的に劣ったものとして認識されていることが分かった。日本では、結婚がもつ実用的な利益・特に子育てにとっての必要性から結婚が選ばれるのに対して、アメリカでは結婚は一つの理想的なものとして考えられており、子どもを育てる必要性から結婚が選択されないとする。この意味で、アメリカでは結婚と子育ては別のものとして捉えられており、シングルマザーという選択も立派なものとして考えられている。中絶は、日本では最も責任のある選択と考えられるのに対して、アメリカでは評価はその逆となる。
Ishida, H. 2013. “The Transition to Adulthood Among Japanese Youths: Understanding Courtship in Japan.” The annals of the American academy of political and social science 646(1):86–106.
この論文では、現代日本の若者のcourtship恋愛について検討している。青年期から大人への意向が長期化するに伴って、日本では初婚年齢の上昇が続いている。しかし、現在結婚せず恋人のいない若者の多くは恋人が欲しいと望んでいる。全体的に、日本の若者の結婚までの道のりを海外の研究者に丁寧に解説している論調だ。例えば、論文では日本ではヨーロッパのように同棲が広まらず、また婚姻外で子どもを持つことにも拒否的になっていることを挙げて、若者にとって結婚相手を捜すことが重要であると論じている。筆者は恋人を捜す活動として何がもっとも普及しているのか、どのような人がそうした活動をしているのか、積極的に探すことがパートナーを見つけることに寄与するかを検討している。
Raymo, J. M., and Y. Xie. 2000. “Temporal and Regional Variation in the Strength of Educational Homogamy.” American sociological review 773–81.
この論文は、Smitsらのeducational homogamy(学歴同類婚)の国際比較の論文へのコメントをもとにしている。educational homogamyは社会の開放性を測る指標として社会移動と並んで広く用いられてきた。65カ国のデータを比較したSmitsらの分析では、経済発展とhomogamyの関係は前者を横軸、後者を縦軸にとった時に、逆U字型になるという。つまり、経済発展が進むに連れて行ったんはhomogamyが促進するものの、さらに発展が進むとhomogamyは減少し開放的な社会になるという。その一方で、東アジアの儒教国家では高いhomogamyが見られたとする。筆者らは、彼らが近代化がhomogamyに等しい影響を与えると考えながらも、東アジアを独立に捉えていることを批判する。この分析は単一時点のクロスセクショナルなものであるが、この分析結果に対して筆者らが用いたのは日本、中国、台湾、そしてアメリカの二つのコーホートをデータである。分析の結果、確かに経済発展がhomogamyに府の影響を与えることは確認されたが、日本はアメリカと同じくらいhomogamyが強い国であり、一方で台湾は高くなく、儒教社会の高いhomogamyの仮説は確認されなかった。
Clerical workersの歴史的な発展を日米で比較した論文。女性が事務職に就く割合は日本よりもアメリカの方がどのコーホートを見ても高い。特に、アメリカでは初職が事務職だった人の多くが結婚後に仕事に復帰するのに対して、日本では、初職が事務職だった女性は30代の時には半分以上が労働市場に残っていない。女性が結婚後に就く最初の職業のうち事務職は2割程度しか占めず、ほとんどが製造業とBrintonは指摘している(95年までのデータなので現在は違うとは思う)。アメリカでは、事務職の女性化が女性の学歴獲得・上昇移動のアスピレーションを高めることにつながり、結果的に管理職の女性比率も上昇していったのに対して、日本でも事務職の女性化は起こったが、彼女たちは結婚・出産後に事務職に留まることはなく(M字カーブ)、上昇移動へのきっかけとはならなかった。女性の管理職比率を3割にすると言っても、日本のように就職してからいきなり管理職的な仕事を任されない企業文化の国ではなおさら、企業内部の昇進プロセス、特に教育程度の高い人がつくと考えられる事務職のそれについて考えるのが重要なのだろう。
Chang, C.-F., and P. England. 2011. “Gender Inequality in Earnings in Industrialized East Asia.” Social Science Research 40(1):1–14.
この論文では、日本、韓国、台湾の三つの産業化した東アジアの国のデータ(EASS)を用いて、男女の賃金格差の原因の違いを検討している。分析の結果、日本では、多くの女性がパートタイムで働いており、これが他国に比べて、男女の賃金格差の要因となっている。韓国では、男性の大卒割合が高く、これが賃金格差の要因として大きい。台湾では、賃金格差が一番少なく、女性の学歴も男性より高い傾向にあるという。
Hertog, E. 2008. “‘The Worst Abuse Against a Child Is the Absence of a Parent’: How Japanese Unwed Mothers Evaluate Their Decision to Have a Child Outside Wedlock.” Japan Forum 20(2):193–217.
この論文では、シングルマザーが忌避されるのは、子育ての規範が重要だと主張する。unwed motherは離婚した人を含まず、結婚せずに子どもを持つことを選択したシングルマザーを指している。この論文では、ひとり親を回避する理由として最もよく挙げられる経済的な不安定さと法的な差別について、これだけでは不十分とする。経済的な不安定では、シングルマザーと離婚した人の間には福祉の供給でほとんど違いがなく、離婚の増加に対してシングルマザーが少ないことを説明しない。戸籍上の差別も、近年になって消えてきている。この論文では、まず西洋とは異なり日本では子どもはタブララサの状態で生まれ、親や教師の教育と彼らの努力によって成功するかが大きく変わると考えられているとする。同時に、母親たちは一人親の過程で育った家庭の子どもの将来について罪深さを感じている。彼らにとって、未婚が子どもにもたらす利益は何もないと考えられている。また、母親たちは父親の役割を認めており、同時に多くが子どもに一人親であることを告げるのをためらっている。Goodmanらの知見を引きながら、シングルマザーの少なさを子育て規範に求める分析は鋭いと思った。
Hertog, E., and M. Iwasawa. 2011. “Marriage, Abortion, or Unwed Motherhood? How Women Evaluate Alternative Solutions to Premarital Pregnancies in Japan and the United States.” Journal of Family Issues 32(12):1674–99.
この論文では、日本におけるシングルマザーの質的調査と日米の20歳から49歳までの対象者への量的調査から、結婚前の妊娠に対してとる三つの行動(結婚、中絶、一人親)への意味付けを検討している。日米とも、結婚前の妊娠は増加しているが、アメリカでは結婚せずに出産する選択が増加しているのに対して、日本ではそのような人はほとんどおらず、かわりに中絶が選択されやすい。日本における婚姻外出産の欠如に対しては、それに対する法的的な差別や経済的な不平等が指摘されてきたが、前者に対しては近年大きな改善が見られること、後者に関してはアメリカも同じような状況であることを持って退ける。またアメリカに比べても婚姻外の子育てに対して賛成の意見がそこまで少なくないことから、筆者らは個人内部の選好が日米で異なるという仮説を唱える。分析の結果、筆者らは日本においてはシングルマザーという選択は倫理的に劣ったものとして認識されていることが分かった。日本では、結婚がもつ実用的な利益・特に子育てにとっての必要性から結婚が選ばれるのに対して、アメリカでは結婚は一つの理想的なものとして考えられており、子どもを育てる必要性から結婚が選択されないとする。この意味で、アメリカでは結婚と子育ては別のものとして捉えられており、シングルマザーという選択も立派なものとして考えられている。中絶は、日本では最も責任のある選択と考えられるのに対して、アメリカでは評価はその逆となる。
Ishida, H. 2013. “The Transition to Adulthood Among Japanese Youths: Understanding Courtship in Japan.” The annals of the American academy of political and social science 646(1):86–106.
この論文では、現代日本の若者のcourtship恋愛について検討している。青年期から大人への意向が長期化するに伴って、日本では初婚年齢の上昇が続いている。しかし、現在結婚せず恋人のいない若者の多くは恋人が欲しいと望んでいる。全体的に、日本の若者の結婚までの道のりを海外の研究者に丁寧に解説している論調だ。例えば、論文では日本ではヨーロッパのように同棲が広まらず、また婚姻外で子どもを持つことにも拒否的になっていることを挙げて、若者にとって結婚相手を捜すことが重要であると論じている。筆者は恋人を捜す活動として何がもっとも普及しているのか、どのような人がそうした活動をしているのか、積極的に探すことがパートナーを見つけることに寄与するかを検討している。
Raymo, J. M., and Y. Xie. 2000. “Temporal and Regional Variation in the Strength of Educational Homogamy.” American sociological review 773–81.
この論文は、Smitsらのeducational homogamy(学歴同類婚)の国際比較の論文へのコメントをもとにしている。educational homogamyは社会の開放性を測る指標として社会移動と並んで広く用いられてきた。65カ国のデータを比較したSmitsらの分析では、経済発展とhomogamyの関係は前者を横軸、後者を縦軸にとった時に、逆U字型になるという。つまり、経済発展が進むに連れて行ったんはhomogamyが促進するものの、さらに発展が進むとhomogamyは減少し開放的な社会になるという。その一方で、東アジアの儒教国家では高いhomogamyが見られたとする。筆者らは、彼らが近代化がhomogamyに等しい影響を与えると考えながらも、東アジアを独立に捉えていることを批判する。この分析は単一時点のクロスセクショナルなものであるが、この分析結果に対して筆者らが用いたのは日本、中国、台湾、そしてアメリカの二つのコーホートをデータである。分析の結果、確かに経済発展がhomogamyに府の影響を与えることは確認されたが、日本はアメリカと同じくらいhomogamyが強い国であり、一方で台湾は高くなく、儒教社会の高いhomogamyの仮説は確認されなかった。