March 9, 2013

マキアヴェッリ『君主論』感想

政策研究大学院の某S先生にお世話になるかたちで,東大の学部生で政治思想の勉強会が始まった.

第一回は3月9日にあり,課題はマキアヴェッリ『君主論』

お恥ずかしい限り,マキアヴェッリは初めて読んだので,素人的な質問ばかりしていたけれども,以下の書評にあるように,マキアヴェッリが読まれ続ける理由に,彼が想定したような為政者と民衆の関係をまだ説得的に考えてしまうという点などをコメントに残した.

知らなかったこととしては,マキアヴェッリは共和主義者だったということ,正常不安なイタリアに限って君主独裁制が向いていると考えていたこと,マキアヴェッリは民衆を限られた情報の中で利己的に行動する合理的個人として捉えていてこと(あわせて,政治と宗教の関係を相対化してみていたこと),自分の論旨の根拠となる実例を歴史から導きだしていること,政体の分類を丹念に行っていることなどを知ることができてよかった.

勉強会は4つのグループに分かれて,毎回1グループが背景説明などのプレゼンをするのだが,やはり本に書かれていた固有名詞を自分で探してみるという作業はおっくうになりがちでさぼりがちだけど,発表を聞いてとても大事なことだと感じた.

以下コメント 政体分類に付いて言及していないためレジュメとしてはA-をつけられた(´・ω・`)


マキアヴェッリははっきりとは認めていないけれども,外敵から国を守るための軍隊の整備を進言しており,国家が暴力装置を独占する必要を説いている。また、人が善人になるのは「やむを得ない状況」に限られていると述べていることからしても、民衆に対して、一貫して性悪説に立つマキアヴェッリは、狐のような狡猾さとライオンのような獰猛さを持って、支配を貫徹することを説く(102-103)。その背景に「人間の思惑の全く外れる世相の激変を、日夜、見せつけられている」という時代診断があったことは想像に難く無けれども(143)、いくら毅然とした態度で、善行を積み重ねたとしても、人に恨まれることからは逃れられない(112-114)とするマキアヴェッリの頭の中では、政治は統治者と大衆の闘争の場として措定されているのではないだろうか。そこでは、理念や誠実さなどといった小奇麗なものは取り払われ、「そうであるように見せること」が勧められている(①)。
 あくまで彼は「イタリアのすべての民に幸福をもたらす」(148)ためには、どのような為政術が必要かを君主に進言するために、この著作を書いている(②)。これに対して、国家を維持し、繁栄させるためには手段を択ばない支配の方法を認めている(③)彼の考えは非常に冷淡で、残酷なものに映る。加えて、民衆に一貫して統治者にあらがおうとする性格を付与する彼の想定には、同意できない場面も出てくるだろう。しかし、そうであるがゆえに、マキアヴェッリは統治者の責任を鋭く指摘する。民衆を、固定的利害を持つ存在として一様にとらえたことで、国の盛衰を君主の力量に帰する君主責任主義ともいうべき姿勢を打ち出している(141)。この姿勢は、「りっぱな進言を得たとしても、良い意見は君主の思慮から生まれるものでなければならない」(140)と認めていることからも推察される。なにより、この著作自体が臣下から君主への進言の形をとっており、マキアヴェッリの進言はさぞ強烈なものだったろう。国家の盛衰は君主の力量にかかっていると喝破したマキアヴェッリの功績は小さくない(④)。
現代政治学は、国民の信用を得て、その利益をかなえるための代理人としての国家を前提としながら議論を進めるが、この想定はマキアヴェッリの考えていたような国家像とは大きく異なる。にもかかわらず、彼の著作がいまだ読み続けられるのはなぜなのだろうか。それは、ひとえに彼の描いたような統治者と民衆の対立、闘争のイメージが我々に説得的なものとして映るからである。近代における組織はすべからく、その成員が持つ権利が対象とする資源への制御権を代行している。株式会社にしろ、議会にしろ、成員は組織に対して何らかの信用をおいて統治をゆだねている。そこでは、不正や詐称があった場合に、成員によるサンクションが与えられるはずだが、実際には、株主総会や選挙がそのような機能を果たしているかということについて、私たちは懐疑的になってしまう。成員が統治者に対する制御権を持っていると、なんとなしに肯定できない状況が続く限り、マキアヴェッリは読み続けられる気がしなくもない。
翻って考えてみると、私たちはなぜ自分たちの国家を正当なものとしてみなしているのだろう。マキアヴェッリの考えでは、甘い姿勢を見せてしまえば民衆に裏切られるのだから、統治者が「そうであるように見せ」れば良いことになるが、現代に生きる私たちは「そうであるように見せ」られていると、本当に思っているだろうか。彼は一貫して君主の為政術を唱えたため、民衆の権力承認過程に対する考察が甘いのかもしれない。どのように考えればよいだろう。

March 3, 2013

昨日今日

昨日は盛山和夫「社会調査法入門」,石村貞夫・石村光資郎「入門はじめての多変量解析」,社会調査協会「社会と調査9月号数量化理論の現在」をぱらぱら読んでた.

今日は寝坊してしまって,大学に行って翌日の読書会で扱う本田由紀「多元化する「能力」と日本社会」のコメントを作ろうとしていたが,駅で京論壇の現役スタッフに遭遇して,彼に教えられて工学部8号館に向かってしまった.結果的にコメントは完成したけれど,本当は二次分析のゼミのレポートもやらねばならなかったので,結構ピンチである.

あと,中央調査社に電話して調査員のバイトがないか聞いてみたが,首都圏は人が余っているとのことだった.残念.下宿の方は,空き部屋があるとのこと.近日中に訪問することになった.

昨日今日と曇りや雨が続く嫌な天気.水戸の梅が散らないといいけれど.

コールマンとマキャベリを読まないと.自分のゼミ論,全然進んでない,ドイツ語と英語も。。。

岩本由輝,2009,『東北開発120年』,刀水書房.


①「東北」ということばに込められた意味
「こうして鶴岡藩が秋田藩の領内深く攻め込んで優勢を保っている出羽中部の戦線を除くと、西軍の優位は決定的なものになっていった。七月一日には江戸が東京と改められたが、この頃、戊辰戦争での西軍の勝利を確信することができたものとみえ、薩長政府の参与木戸孝允は戦勝後の奥羽越列藩同盟に加盟した諸藩に対する処置に関する建議書を提出している。その建議書の表題が『東北諸県儀見込書』となっているのが注目される。東北という地域名の文字の上での初現であり、また、県というのは閏四月二一日に出された府藩県三治の制にもとづき占領地など政府の直轄地に付される予定の行政単位の呼称であった。そして、今日の東北地方という呼称につながる東北は、要するに東夷北狄を約めたものであったのである。[pp.10-11]
 
 岩本が戊辰戦争の記述を持ってきた動機は「一九八八(昭和六三)年は戊辰戦争一二〇年記念ということもあって、当時の現実を無視した敗者故の正義を美化する心情的な言説が東北各地に横行したので、当北海初の視点としてのこの時代を客観的に考える必要があると考え、戊辰戦争の経過と当時の評価をあるがままに示した」[p.13]からであるが、ここで、彼が戊辰戦争における「勝者(明治政府)と敗者(東北)」の構図がそのまま「中央と地方の格差」に移っていることを示そうとしたのは、「東北」という地名が「東夷北狄」にちなんで、戊辰戦争で敗れた奥羽越列藩同盟につけられた蔑称であると主張していることを考えると想像に難くない。確かに、彼の主張にも頷けるが、果たして本当にそうだろうか?

②自己自らの恥辱?
「このため、東北振興ということばが東北救済の代名詞のごとく印象づけられることになり、東北救済はあくまで凶作に対する東北振興会の臨時的な対応にすぎなかったはずであるが、それが恒常的なものと受け留められるようになり、浅野源吾の言によれば、『振興』ということばを使うことは『自己自らの恥辱なり』とする雰囲気が東北地方の気力ある人々の間にみられるということすらあったのである」[pp.62-63]

 ③でも関連することを述べているが、ここでは浅野の「恥辱」感に焦点を当ててみたい。岩本は、浅野のこの言葉を借りながら、中央が用意する「東北振興」ということばが、東北の人々にとっては「東北救済」ということばに変換されて現れ、中央の振興という言葉に名誉を傷つけられた感情を抱くとしている。一貫して「中央と地方の格差」のフレームの中で議論が進められている論考の中で、この箇所は東北の人々が中央に差別されているという感情を抱いているということを読者に喚起させている。
 しかし、この「恥辱」感は当時の東北の人々にどれほど共有されていたのであろうか。こうした疑いは、浅野が岩手出身である一方、第二次東北振興会の理事としての浅野の考えが「会を使って国家資金を引き出し、東北振興を進めようという他力本願型」[p.75]だったからでもあるが、東北遊説に出た渋沢を待っていた「渋沢に対して何かやってくれるだろうという他力本願型の期待をするだけ」[p.65]の人々、1924年の第一次振興会の「銀行ノ合同」「電気事業ノ組織改善」に関する提案を否決した東北地方の会員[p.77及びp.81]の記述を見るにつけ、東北地方の人々にとって、中央とは自分のために何かをやってくれる人々であり、開発に関して自分たちが必要ないと思えば、無理して中央に懇願するまでもなかったのであり、岩本の指摘するような「恥辱感」などは抱いていなかったのではないか。議論の中で紹介できればいいが、浅野自身は中央に対するコンプレックスを抱いていた。しかし、彼が抱いていたような恥辱感を東北地方の人々はどれだけ共有していたのだろう。この恥辱感の記述は、岩本が自分の中央と地方の格差フレームで議論を進めたいがために持ってきた、恣意的な記述のように思える。


③「中央と地方の格差」フレームの限界
 浅野の「恥辱」感がどれほど当時の人々に共有されていたか疑いを持ってしまうと、岩本がこの論考で一貫して支持していた「中央と地方の格差」フレームの限界に気づかざるを得ない。彼はこのフレームを説得的に見せることで、新潟県を含む東北地方の日本の産業発展史上における特異性に言及しようとしているのは、あとがきでそれを否定しようとはしているものの、多くの読者が感じるところであろう。中央を「勝者」「資本」ということばで記述する一方、東北地方が(そもそも東北という言葉自体に蔑称の意味が込められているのが彼の主張であるが)「敗者」「小作人」ということばに現されたように、一貫して弱い立場に置かれていたことを彼は主張する。従って、東北地方の人々の恥辱感はこの「中央地方」の二項対立に必要不可欠である。
 しかし、この感情を東北地方に住む一般の人々がどれだけ持っていたかは疑わしい。そもそも、東北地方の人々を東北ということばでひとくくりにしてしまうことに限界があるのではないか。私は、「中央と地方」の間に、中間項としての「地方の資本家・知識人」がいたとするのが適切だろうと考える。浅野のような、中央と接する機会の多かった地方の知識人層は東北地方の経済的・文化的な未発達について意識することが多かったと考えられる。一方で、実際に小作人であった人々がどれだけ自らの地域の未発展について意識していたかは疑わしい。振興会の会員でさえ、開発に対して無関心だったのである。