October 29, 2022

PopFest - ヨーロッパでアメリカの大学院生が日本の発表をする

Over the three days from October 26th to 28th, I attended PopFest, a small conference for early-career demographers (mainly) based in Europe. This was my second time attending the conference (the last time I attended was 2018 in Oxford). I was the only participant crossing the Atlantic this time (last time I was the only participant coming from Asia). I really love the smallness of this conference that allows us to talk more with other participants who are in a similar stage. I found several people who share research interests and already look forward to seeing them again at future conferences. 

Another motivation for attending this time is to visit the European University Institute. It was like an IAS in Princeton in terms of size, or perhaps way smaller than I expected. Florence is a bit too commercialized though beautiful in itself. I stayed for two days in Bologna after the conference, which I liked much more. The food was so delicious that I wish I could come again after another (hopefully demography) conference, maybe somewhere in northern Italy.

アメリカのデモグラフィーは少し社会学によりすぎなのですが、ヨーロッパのデモグラフィーはいい意味で社会学と距離感をとっていて、個人的には居心地がいいです。僕は同じステージにいる人と話すのは大事だと思っていますし、実際話していると楽しく勉強になります。こういう小さなカンファレンスで知り合いになって、PAAのような大きな学会で再会する、そうやってネットワークは広がっていくんだろうと思います。もちろん再会するのは今回会った人の中で半分くらいでしょう、それでもそのうちさらに半分の人とは今後10年、20年と付き合っていく、そんな気がしています。

こうした学会に来ると、いつも以上に自分がアメリカの大学院にいることによって持ってしまっている特殊性というか、彼らとの比較を通じてそうしたものを感じとってしまいます。その中で、自分は日本の研究を発表しているわけですが、いつもよりもアメリカの大学で日本の研究をしている、それはどうして必要な作業で、今回のようなヨーロッパの人口学者が集まる場で聞き手にどういうメッセージを届けた方がいいのだろうか、言葉を話しながら考えます。僕の考えや発言は、アメリカでトレーニングを受けながら、日本という非西洋の国を対象にしている研究者という条件・制約のもとに形成されている、そういうコンテクスト性があり、こういう学会では、そうしたコンテクスト性に、自分自身よりセンシティブになってきます。博士課程も後半に入って、昔よりも目の前にある現実をがむしゃらにかきむしるのではなく、自分の立場について少し俯瞰的になって考えている気がします。

October 23, 2022

日曜日:浪人と結婚

 先日の朝日関連のポストは結構読まれていたみたいです、大学院生の戯言にお付き合いくださり、ありがとうございます。記事の方も日が経つともう少し落ち着いたコメントをいただけるようになりました。根も歯もない批判を投げかけてくださった方々も、(恐らく)記事を全て読んでいただいたことだろうと、今になって思います。貴重な時間を使ってくださり、感謝いたします。

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今日は土曜日、といってもこの1週間、ずっと秋休みだったので、一瞬日曜日ではないかと勘違いする(し、なんならこの記事のタイトルも間違っている)。高校調査関連の仕事を少しばかり片付けたあと、久しぶりに関係のない論文をちらほら眺めていた。意外とこういう時間がストレス解消になったりする。ついこの間、休日に研究するかと聞かれて、僕はついイエスと答えてしまったけど、こういう自分の研究に関係ないことに時間を費やすことは、自分にとっては広義には研究であって、狭義には研究ではない。勉強といった方が近いかもしれない。

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一通り論文を読んで、先日来の浪人と結婚の話が気になり、しばらく考えつつ、少しデータをいじってみた。先日みた浪人の変数は大学や短大・高専を含んでいたので、両者を峻別したところ、大学浪人のみが結婚の遅れと関連していた(私はセレクションバイアスという言葉を知っているので、相関といってもいいです)。単純に浪人した1年分、追加で人的資本投資があり、結婚のゲインが減っているとかなら、男女双方にみられるはずが、女性にだけ浪人と結婚の負の関連がある。しかも、同じ浪人でも大学と短大では意味が異なるようで、大学浪人でしか、結婚との負の関連はみられない。

やはり、キャリア意識仮説だろうか。しかし、初職や職業キャリアでみても、現役で大学に入った大卒女性と浪人で入った女性とでは違いがない。大学の選抜度は多少違うが、選抜度自体は結婚タイミングと関係していないので(大卒だと結婚が遅れる、これは既存研究が指摘する通り)、安易にセレクションの話にするのには惜しい。交絡として多少あったのは、15歳時の居住地、要するに浪人するための予備校があるような大都市に住んでいる人は、結婚も遅い。ただしこの変数を統制しても、浪人の係数はごくわずかしか変わらない。

今扱っているデータはクロスセクションで回顧で学校・職歴を尋ねているので、意識については現時点のものしかわからない。パネルデータを使って、未婚女性のうち浪人経験があるかないかで結婚希望などが異なるかは改めてみる必要がある。出会いのきっかけをみると、浪人して結婚した大卒女性は、現役で入った大卒女性に比べて、友人を介した出会いが少ない。浪人して大学に入ると、女性の場合、周りの友人は現役の人が相対的に多いので、友人関係に差が出てくるのかもしれない。しかしやや意外なことに、学校での出会いについては、浪人した女性の方が現役の女性よりも多少、多い傾向にあった。当初は結婚市場のミスマッチのストーリーを考えていたが、少し解釈は難しい。

ざっと調査時点の意識もみたところ、浪人した女性の方が、現役で入った女性よりも、子どもに高い教育を受けさせたかったり、教育の便益については認識している傾向がある。若干ではあるが、性別役割意識にも否定的、また性別による不公平を感じたことがある人も多く、ある程度は浪人するような人は結婚を所与としないようなライフコースを考えているという説は間違いではないだろう、しかしそれで全てが説明できるような気はしない。なぜそう思うのかは明確に答えられないが、人口学者としての勘というか、オッズで見た時の30-40%の差が、意識だけで説明できるというのは、かなり稀な気がする。

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そのあと、久しぶりに走って、夜の予定までカフェで本を読むことにした。歩きながら、オーディブルで村田沙耶香の「無」を聴く。ドライブマイカーの三浦透子さんが朗読をしている。彼女の感情を抑えた、しかしはっきりと意志の感じられる声は、村田さんの時としてグロテスクで、しかし社会の本質をついている文章と、うまく共鳴している。

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カフェでは論文を読んでいた。2015年に出た家族人口学の理論的な論文で、2018年に読んだ時にはいまいち消化不良だったのだが、今回読んで少し理解が深まった気がする。難関大進学のジェンダー差の話をtheorizeするときに、いくつか人口学の理論を借りるつもりで、その用意(というと、研究をしている気分になって、正当化しやすい)。

カフェでは、18時からライブミュージックが始まる。毎週土曜の夜はたまにここにきて、時間を潰している。今日のジャズは、少しピンと来なかった。

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20時から、歩いて20分ほどのところにあるギリシャ料理の店で、友人たちと夕食。帰宅して、母親と電話をする。僕の記事が載った朝日新聞が5部もきたらしい。これは、親戚にでも送れというメッセージでもあるのだろうか。水戸一高の先生も、職員室に記事を掲示したりと、少々大袈裟である。

それでも、私がアメリカで何をしているのか、検討がつかないような周りの人には、今回の記事のようなものが、自分は頑張って生きてますよという分かりやすいメッセージになるような気がして、そう思ってもらえるのであれば何をされても悪い気はしない。

なにより些細なことでも、大きく扱ってくれる地方にありがちな雰囲気の中に、自分もいるのだろう。松尾先生が生きていたら、喜んでくれたかもしれない。お世話になった先生に、自分の元気な姿を見せることができないのは、寂しい限りである。

October 21, 2022

朝日新聞の取材を受けて

感想めいたものです。最初に記者の方への返信として書きましたが、特に差し障りのあることは書いていないので、先方に断った上でここにも載せておきます。多少書き加えています。

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 私自身、朝日新聞のような大手全国紙の取材を受けるというのは初めての経験だったので、色々と勉強になりました。

良かった点としては、思いがけない反響がありました。高校の先生から、大学時代にお世話になった事務の人、大学院の友人まで、いろんな人から紙面、見たよと言ってもらえて、そこはとても嬉しかったです。研究者という職業は、なかなかダイレクトなやりがいを感じにくいところがあるので、自分の研究を知ってもらえる機会としては非常にありがたかったです。直接連絡をくれなかった友人や同僚にも、読んでくれている人は多いと思います。思いがけず私の近況を伝えられる機会になりました。また、記事を通じていくつもの示唆的なコメントもいただけて、これから研究がより一層前に進むと確信しています。

やはりこういった経験は初めてでしたので、他にも思いがけない点はありました。結局のところ、こういった記事はどのように解釈されるか、書き手のコントロールがきかないところがあります。もちろん、それが上で触れたような良い意味で思いがけない示唆に出会うことを可能にしているとは思うのですが、そうではない場合もあります。例えば、学会報告を記者が聞いているわけがないという思い込みから、私が記者に売り込んでメディアへの露出を狙うことで知名度を獲得しようとしているという根も歯もない憶測がありました。大学院生の研究が全国紙に顔写真付きで載るのは珍しく、テーマも相まってそういった奇妙な考えを持つ人の吐け口にされたのかも知れません。そうした憶測に対して反論するために、ある程度の地位や業績は必要だなと思いました。また、周りの研究者の中には、取材を受けた対価として報酬もある程度あった方がいいのではないかと考える人もいて、当初その考えにも賛同したところがありましたが、こうした憶測に対してきちんと反論できるよう、今後取材があっても今回と同様、利益は受けないようにすることが大切ということを学びました。

記事の中身では、「数学のない入試形式も考える」というところに噛みつかれた人が多かったです。私の考えでは、一つの入試形式に固執せず、多様な入試形式を考える中で自分の得意科目で受験できる制度の具体的な一案として提案したつもりだったのですが、入試から数学を廃止するような意見に読み替えられ、不本意でした。数学のない入試という具体的な提案に意見が分かれるのは理解できますが、入試制度に手を加える場合に生じるトレードオフについて冷静に評価できず、自分の信念に反する意見を頭ごなしに否定する人が多いのは残念なことです。ただ、私もいらぬ争いは避けたいので、できるだけ多くの人が賛同するような提案をしたいと思っています。数学というのは私が想像していた以上にポリティカルな領域だったようで、今後はどういう反応が来るかも斟酌していければと思いました。

個人的な考えですが、学会発表段階の研究を公表するのは少し迷いがあり、まだ正しい判断だったかどうかはわかりません。査読前のプレプリントが記事になることは珍しくなくなり、その意味では学会発表も広義のプレプリントだと思いますので問題視はされないのかも知れません。また査読のない書籍の知見がメディアに上がるときはどうするのかと考え出すと、なぜ査読前の業績は取材を受けてはいけないか、合理的な説明は難しくなります。今回は私が1月から行ってきた研究かつ、掲載いただいた部分は非常に記述的な部分で、今後査読者からコメントを受けても出てきた結果が大きく変わることはないと考え記事になることに了解しましたが、研究者の中でも考えは分かれるところだと思いますし、私もケースバイケースで判断した方がいいだろうと思います。

最後に、テレビ局でディレクターをしている大学時代の悪友が以上のような悪態をついた私に対して、こう諭してくれました。


1、何か間違ったことをしたか?

2、正しいけれど誰かを傷つけることをしたか?


これらを考え、両方NOであれば批判を聞く必要なく、生産的な指摘だけ記憶に留めて研究に戻ればいいと言ってくれました。つまるところ、私が過度に周りの意見を気にしすぎなのかも知れません。そうしたことも含めて、今回の取材から実に多くのことを学びました。まだ大学院生の身分で、こうした経験ができたのは本当に貴重だったと思っています。

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研究をする以上、最終的には人の役に立つ成果を出していきたいので、私の研究を通じて少しでも世界がよくなるようにするにはどうすればいいか、考える機会になりました。引き続き研究を進めていきたいと思います。

October 17, 2022

朝日新聞に研究の紹介が載りました

 先日日本教育社会学会で報告した内容が記事になりました。

「浪人・数学」、女子は回避傾向 国公立大での割合少ない理由、調べてみると

https://digital.asahi.com/articles/DA3S15446818.html?ptoken=01GFH8NS7VYJ92PRJBPGMBPYBV&fbclid=IwAR2WiiVsLNyPEkxjv_9R83E_EzF7L87m0oXu1MtVVZQUcou7eurP-Vu-_rs

最後の提案部分は、数学を課さない入試「も」作った方がいいのではというものでしたが、「数学を入試からなくせ」という風に解釈した方もいるようで反省するとともに、理系学部などは数学を課さないことは難しいといった個々の事情もあると思うので、別に一律で廃止みたいな極端なことは考えてません。


ただ、数学能力に明確な男女差がないにも関わらず、女性の方が数学を苦手科目と考える傾向にあることも事実なので、学校レベルでそうした意識の男女差を埋めていく取り組みをするとともに、自分の得意科目で勝負できる入試や推薦入試を増やすといった施策を考えてみることは重要だと思います。

ちなみに分析だと一次試験に数学があってもなくても女性割合は変わりませんでした。国公立大学で数学なしに受験をすることは現実的に難しいからだろうと思います。数学が女性割合と関係してくるのは二次試験からです。特に看護や人文系などの学部で顕著で、理工学系では数学有無による差はありません。

その他、学会報告の段階の研究がこうした記事になることは本当に良かったのだろうかなど、この段階でも正しい判断だったかはわからないのですが、高等教育のジェンダー格差を考える際の一案として議論の材料にしていただければと思います。

https://www.asahi.com/articles/DA3S15446818.html

October 16, 2022

ジョブマ

 おそらくこれからジョブマ関連の備忘録が増えていくかもしれません。初めての経験なので、折に触れて考えることも多く、その時の考えを記録しておきます。

--Oct 16

最近は来年のジョブマを意識することが多い。アメリカのアカデミアはゲームのルールが比較的明示化されているので、対策はしやすい印象がある。ひとまず単著でトップジャーナルは1本確保したので、この一年はジョブトークに呼ばれるよう業績を積み重ねつつ、トーク用の未発表の研究の質を高めていく。

自分はそこまで意識していなかったけど、やはり社会学には単著プレミアムがまだあるらしい。同じジャーナルなら、ファカルティと共著で筆頭著者よりも、単著の方が評価が高そうな印象を持つ。ジョブマ関連でいえば、あとは研究の一貫性、今後の研究とのアジェンダとどう関係するかなど。

こっちだと、これこれをすれば研究大学向けのジョブマで戦えるという基準は割と共有されているし、そこに最適化する形で博士課程があるので、トラックにうまく乗れれば損はしない。ただ「これこれ」を達成するのが大変なので、そのストレスは大きい。日本のストレスはマーケットの不透明性に起因する。

長期的には独創性がモノをいう世界ではあるけれど、短期的には個人間で比較可能なように小さなマイルストーンが設定されているので、そのバランスを取る作業は結構難しい。ジョブマがそのバランス感覚を発揮しなくてはいけない場所であるように感じる

October 4, 2022

proof

ニューヘイブンほどではないですが、プリンストンにも多くのピザ屋があります(per capitaでみると、NJは全米8位です)。アメリカでは、ピザ屋は日本でいうとラーメン屋くらいのバラエティがあります。実際、人口10万人あたりのピザ屋の数はアメリカではおよそ20.9軒に対して、人口10万人あたりのラーメン屋の数は日本ではおよそ19.2軒と、かなり近いです(出所:アメリカ日本)。

ちなみに、アメリカの自販機には、日本でいう緑茶と同じくらいの面積をコークが占めているので、アメリカにおけるお茶はコークです。

アメリカにおけるピザ=日本におけるラーメン

アメリカにおけるコーク=日本における緑茶

こんな感じになります。日本人がラーメンを食べ、緑茶を飲んでいる間、アメリカ人はピザを食べ、コークを飲んでいるのです。

プリンストンではNomad Pizzaというピザ屋が一番おいしいとされていますが、少し高いです。Conteを美味しいという人もいますが、自分はまだ食べたことがありません。私の推しピザはナッソーストリートにあるProofという店です。

特にピザがおいしいというわけではないのですが、オマケをしてくれるところが推しポイントです。お昼時を少し過ぎた頃に狙い澄まして行くと、頼んだピザとは違う(売れ残った)ピザを2スライス、おまけでつけてくれます。

5ドル払って、3スライスのピザですよ、信じられません、ピザハットもびっくりです。しかもproofは、ワンスライスがめっちゃでかいんです。もう、3スライスだけで朝昼晩、賄えます。

なぜこの店がproofというのかわかりませんが(おそらく、アインシュタインとかけてるんだろうと思います)、proofといえば、今日は人口学のトップジャーナルに今度掲載される論文のcorrected proofが届きました。

すでに終わったプロジェクトではありますが、出版される形でみると、やはり嬉しいです。改めて読んでみると(自画自賛ですが)よく書けてると思います。リジェクトを含め、3誌8人のレビュアーのコメントを踏まえたことが一因だと思います。アメリカのピザ屋には推しピザ(signiture pizza)があるように、私にとっては、この論文が博士課程にいた間の業績の中ではsigniture paperになると思います。

同類婚の研究者には好かれる玄人好みな論文だと思いますし、人口学のコアな部分にも触れているので、家族人口学の大学院セミナーで読まれたりしたら、嬉しいなと思います(もちろん評価は後々決まりますが)。

翻って、かれこれ4年近くかけた論文に比べると、今進めている論文は、まだまだ粗いです。もっと時間をかけなくてはいけません。大体、一つの論文を仕上げるのに4年かかってるんですから、自分はいろんなプロジェクトに手を出しすぎなのです、節操がない。

もちろん、今回の論文が、特別長い時間かかっているかというと、そうでもありません。周りの話を聞く限りでは、トップジャーナルを目指す場合、着想から分析を始め、学会発表を経て論文にし、同僚からコメントをもらい改稿し、投稿してから(リジェクトを経て)R&Rをもらって改稿して再投稿して、アクセプトされ最終的に掲載されるまで、4-5年はかかると思います。常に5年先を見ながら研究の計画を考えないといけません。

だから、博士課程の間にsigniture paperを1本出せるだけでも、十分幸せなことなのだと思います。しかし、人間一度できると欲が出てくるもので、在学中にもう1-2本、トップジャーナルに掲載できればと考えています。欲張りでしょうか、いいじゃないですか、人生一度きりなのですから。実際、一度トップジャーナルに論文を確保しておくと、在学中でも冒険できます。今自分が取り組んでいる難関大進学のジェンダー差なんて、日本以外ではほとんど見られない現象なので、関連する先行研究を見つけるところから苦労の連続でした。こういうプロジェクトを始めるのはリスキーなのですが、一本トップジャーナルに論文を持っておくと、冒険できます。

全然話は変わりますが、先日日本から大学院にこられた新入生を歓迎するために、pizza partyをしました。我々old folksが推すプリンストンのピザを注文して食べ比べましたが、お昼時の開催だったので午後4時開店のconteのピザは、また食べられずじまいでした。

ひたすらピザを貪るプリンストン大学の院生たち