April 29, 2020
4月29日
寝すぎた。2時に寝て10時過ぎまで寝ていて頭が痛い。10時40分から疫学のラスト授業。所得不平等がどのように健康に影響を及ぼすかという非常に社会学的な話だった。頭痛のせいであまりはかどらなかったが、地熱論文のデータ作成と、covid関連の話を進める。ペーパーのリジェクト。すぐ次のところに出す。夜はゲノム論文の執筆。
April 27, 2020
4月27日
今週が学期最終週(レポートなどはある)。火曜日の家族社会学の授業が諸事情で月曜日に移動したため、今日は疫学と合わせて二つ授業。だいぶ疲れていたのか、授業15分前に起床。最初の方は寝ぼけてて何も浮かんでこないが、徐々に目が覚めてくる。昼食を軽く取り家族社会学の授業。先生(指導教員)はポジティブなので、どのコメントにもinteresting, beatiful, excellent, wonderful, thoughtfulなどのリプライをするのだが、正直褒めすぎて本当に的を得ているコメントなのかわからないことが多い。ただ今日は、受講生の一人がdoing gender in older agesに関する研究はないのかというコメントに対してメモを取っていたので、それは本当に(彼にとって)役にたつ質問だったかも知れない。授業後グロサリへ。今回はかなり購入した。冷凍でいけるものも多いことに気づいたので、2-3週間分の食料を買ったつもり。帰宅して4品ほど作り夕食。
コロナ関連で疫学の先生と話すことが多いのだが、徐々に情報が記事のシェア以外にも研究の話に入り込んできて、処理する情報量が増えてきた。ストレスにならない程度に勧めたい。
コロナ関連で疫学の先生と話すことが多いのだが、徐々に情報が記事のシェア以外にも研究の話に入り込んできて、処理する情報量が増えてきた。ストレスにならない程度に勧めたい。
April 26, 2020
April 25, 2020
在宅だと変化に乏しいので今日唯一の発見は「ネギは水につけるとかなりの勢いで伸びる」だけだった
本当にネギは伸びるのが早い。ネギは月曜日も火曜日も、水曜日も木曜日も、そして金曜日も同じように伸びていく、雨が降っても、雷が鳴っていても気にせず伸びていく、私もネギを見習って、ネギのような進捗を産みたい。
起床してコロナの死亡例のデータを作り、11時から理論の授業。今日はポストコロニアル社会学。前半は先生のレクチャーで、社会学が度々対象とするフランス革命と産業革命に端を発する「近代化の起こり」がコロニアリズムと密接な関係にあったこと、それにもかかわらず初期の社会学者たちは植民地のことを全く考慮せず、資本主義に対して批判的だったマルクスでさえも植民地主義を肯定的に見ていたことなどがレクチャーされる。
それを踏まえてJulian Goによるポストコロニアル社会学のチャプターを読んだが、フーコー以降のポスト構造主義シリーズでは毎回「シンパシーは感じるけど私はこの視点を生かしてどうやって人口学的な研究をすればええねん」という感想が繰り返されており、今日もその例にもれなかった。先生曰くhistorical contextが大事なんだと、繰り返し言われたが、それはポストコロニアルな文献を読まなくても実証主義的な研究伝統に立つ社会階層の研究者でさえ近代化論を信じてる人なんで今は誰もいませんよ、と心の中でつぶやくこと、数知れず。正直言ってポストモダンな視点と私の研究は非常に相性が悪いわけだが、どのようにこれらの視点をreconcileしていくかは今後の課題である。
コロニアリズム関連でいうと、私は気持ちアカデミック・ナショナリストなところがあり、アメリカの社会学で東アジアや日本の研究がないがしろにされていることに対して素朴に何糞と思っているところがある。この政治的な感情自体は前々から認識していたわけだが、今日の文献を読むと、そういう私は、コロニアルな視点をそのまま持ち込んでると言われても否定し難い気になってしまった。アカデミックな場における自分の政治性からコロニアルな視点を除くのは、なかなか難しい。
自分の本分は日本研究なわけだが、「東アジア」でグループを作ることは多々あり、それはもちろんアカデミックに東アジアで比較することの大切さが第一にはあるが、同時にアメリカ中心主義のアメリカ社会学において、東アジアの研究を盛り立てるという政治性もある。その二つは分かち難く存在している。
政治性があることはしょうがない、というよりもどのような社会的行為にも政治性は伴うわけだが、私の場合、アメリカの社会学に対して抱いている何糞魂も、オリエンタリズムへの抵抗と言われてしまえば、それまでな気もしている。コロニアルな視点を内面化しているんじゃないんですかと言われると、なんかそれも悔しいわけですね。
そんなことを考えつつ、疫学の先生とのCOVID-19プロジェクトの書類作成、そのほか疫学の課題を進め、雑務を済ませ、家族に電話し、COVID-19関連の分析をし、ご飯を食べながら多喜さんの博論本を読み、メールを書き、みたいなことをしていたら1日が終わった。6時間半後にはedrinkである。疫学の課題を済ませられたのは思いの外良い進捗だった。
起床してコロナの死亡例のデータを作り、11時から理論の授業。今日はポストコロニアル社会学。前半は先生のレクチャーで、社会学が度々対象とするフランス革命と産業革命に端を発する「近代化の起こり」がコロニアリズムと密接な関係にあったこと、それにもかかわらず初期の社会学者たちは植民地のことを全く考慮せず、資本主義に対して批判的だったマルクスでさえも植民地主義を肯定的に見ていたことなどがレクチャーされる。
それを踏まえてJulian Goによるポストコロニアル社会学のチャプターを読んだが、フーコー以降のポスト構造主義シリーズでは毎回「シンパシーは感じるけど私はこの視点を生かしてどうやって人口学的な研究をすればええねん」という感想が繰り返されており、今日もその例にもれなかった。先生曰くhistorical contextが大事なんだと、繰り返し言われたが、それはポストコロニアルな文献を読まなくても実証主義的な研究伝統に立つ社会階層の研究者でさえ近代化論を信じてる人なんで今は誰もいませんよ、と心の中でつぶやくこと、数知れず。正直言ってポストモダンな視点と私の研究は非常に相性が悪いわけだが、どのようにこれらの視点をreconcileしていくかは今後の課題である。
コロニアリズム関連でいうと、私は気持ちアカデミック・ナショナリストなところがあり、アメリカの社会学で東アジアや日本の研究がないがしろにされていることに対して素朴に何糞と思っているところがある。この政治的な感情自体は前々から認識していたわけだが、今日の文献を読むと、そういう私は、コロニアルな視点をそのまま持ち込んでると言われても否定し難い気になってしまった。アカデミックな場における自分の政治性からコロニアルな視点を除くのは、なかなか難しい。
自分の本分は日本研究なわけだが、「東アジア」でグループを作ることは多々あり、それはもちろんアカデミックに東アジアで比較することの大切さが第一にはあるが、同時にアメリカ中心主義のアメリカ社会学において、東アジアの研究を盛り立てるという政治性もある。その二つは分かち難く存在している。
政治性があることはしょうがない、というよりもどのような社会的行為にも政治性は伴うわけだが、私の場合、アメリカの社会学に対して抱いている何糞魂も、オリエンタリズムへの抵抗と言われてしまえば、それまでな気もしている。コロニアルな視点を内面化しているんじゃないんですかと言われると、なんかそれも悔しいわけですね。
そんなことを考えつつ、疫学の先生とのCOVID-19プロジェクトの書類作成、そのほか疫学の課題を進め、雑務を済ませ、家族に電話し、COVID-19関連の分析をし、ご飯を食べながら多喜さんの博論本を読み、メールを書き、みたいなことをしていたら1日が終わった。6時間半後にはedrinkである。疫学の課題を済ませられたのは思いの外良い進捗だった。
April 23, 2020
ちょっといいこと
昨日はコロナ関連で仮説を思いつき深夜までハッスルしていたので朝は眠かった。いつものように走って朝食を食べ、疫学の授業。今日は授業にトラブルがあり、先生の画面共有がうまくいかなかった。OSを更新したからかも、ということだった。なぜか私が指名され、スライドを代わりに共有して、先生が次、と言ったらポチッとクリックする変な役目を仰せつかった。いつ次のスライドにいくかを注意深く観察してないといけないので、先生の言葉には集中して聞いていたのだが、その代わり深く考えることができず、あまり質問はできなかった。
徐々に気づいてきたのだが、疫学の先生は私のことを買ってくれているかもしれない。最近コロナ関連で色々やり取りをしているのと、昔彼女が取り組んでいた日本における婚姻上の地位と健康の関連について再び研究を始めようとしているので、その話も授業以外の時間でしていたのだが、授業がオンラインになってから、不思議とコミュニケーションをよくとるようになった気がしている。
彼女はうちの研究所ではアクティブな研究者としては最年長だと思う。70才近いが、リタイアする気配を全く見せない、あと10年くらいはアクティブな気がしている。祖母の年齢とそこまで変わらないくらいの先生なわけだが、年齢を感じさせないくらいいつもエネルギッシュで、とにかくよく喋る。別に彼女に限らず、プリンストンの先生は、割とシニアになってからも自分でよく話す人が多い気はしているが。彼女とは夏にcovid-19関連のレビュー論文を書く話も上がっているので、今後も良いメンターとして指導を仰げればと思う。
徐々に気づいてきたのだが、疫学の先生は私のことを買ってくれているかもしれない。最近コロナ関連で色々やり取りをしているのと、昔彼女が取り組んでいた日本における婚姻上の地位と健康の関連について再び研究を始めようとしているので、その話も授業以外の時間でしていたのだが、授業がオンラインになってから、不思議とコミュニケーションをよくとるようになった気がしている。
彼女はうちの研究所ではアクティブな研究者としては最年長だと思う。70才近いが、リタイアする気配を全く見せない、あと10年くらいはアクティブな気がしている。祖母の年齢とそこまで変わらないくらいの先生なわけだが、年齢を感じさせないくらいいつもエネルギッシュで、とにかくよく喋る。別に彼女に限らず、プリンストンの先生は、割とシニアになってからも自分でよく話す人が多い気はしているが。彼女とは夏にcovid-19関連のレビュー論文を書く話も上がっているので、今後も良いメンターとして指導を仰げればと思う。
April 22, 2020
日本のコロナウイルスによる死亡率の少なさを説明する三つの仮説
検査数をわざと低くしているという話から死亡者がアンダーカウントされているまで色々と真の値を推測するのは難しいのですが、人口学的な観点から考えると、以下のようなストーリーがあります。
(1)日本のコロナウイルスによる人口全体で見た致死率はヨーロッパなどに比べて低い(指摘される外出抑制などが遅れた点を考慮すれば驚き)
(2)年齢別の致死率は似たパターン
(3)感染者の年齢分布が異なる(高齢の感染者が相対的に少ない)
以上より、日本の致死率の低さは、致死率の高い高齢者が相対的に感染していないからなのではないか、という人口学者が非常に好む人口分布の違いによる説明ができそうなのですが、その場合、なぜ高齢者の感染率が低いのかが気になります。検査が少ないとしても、検査が高齢者のみ際立って少ないとは考えにくいです。世代間同居の多さがイタリア北部における高齢者の感染、死亡に寄与している、グループホームなどにおける集団感染による死亡が多い、という指摘を踏まえて、当座の仮説は以下の三つです。
(1)世代間同居仮説:日本の方がイタリアやスペインよりも感染地域(主として都市部)における親子の世代間同居の割合が少なく、高齢者には単身ないし夫婦のみ世帯が多い。
(2)世代間交流仮説:家族以外で見ても、高齢者の生活圏は若年、壮年者とは断絶している。
(3)介護施設仮説:日本の方がイタリアやスペインよりも介護施設やグループホームを通じたクラスター感染が少ない
(3a)施設数:高齢者人口当たりの施設数は日本の方が少ない(これは国際比較データから確かそう)
(3b)衛生管理:日本の方がこういった施設の衛生管理が平時からしっかりしている+感染症が出た時の対策がしっかりしている(厚労省による新型インフルが出た時の福祉施設向けのガイドラインは非常に細かいです)
他に、日本の高齢者の感染率が低いことが真だと仮定した上で、それを説明するような(検証可能な)仮説はあるでしょうか?
異論、反論、サジェスチョン、edrinkのお誘い、何でもウェルカムです。
(1)日本のコロナウイルスによる人口全体で見た致死率はヨーロッパなどに比べて低い(指摘される外出抑制などが遅れた点を考慮すれば驚き)
(2)年齢別の致死率は似たパターン
(3)感染者の年齢分布が異なる(高齢の感染者が相対的に少ない)
以上より、日本の致死率の低さは、致死率の高い高齢者が相対的に感染していないからなのではないか、という人口学者が非常に好む人口分布の違いによる説明ができそうなのですが、その場合、なぜ高齢者の感染率が低いのかが気になります。検査が少ないとしても、検査が高齢者のみ際立って少ないとは考えにくいです。世代間同居の多さがイタリア北部における高齢者の感染、死亡に寄与している、グループホームなどにおける集団感染による死亡が多い、という指摘を踏まえて、当座の仮説は以下の三つです。
(1)世代間同居仮説:日本の方がイタリアやスペインよりも感染地域(主として都市部)における親子の世代間同居の割合が少なく、高齢者には単身ないし夫婦のみ世帯が多い。
(2)世代間交流仮説:家族以外で見ても、高齢者の生活圏は若年、壮年者とは断絶している。
(3)介護施設仮説:日本の方がイタリアやスペインよりも介護施設やグループホームを通じたクラスター感染が少ない
(3a)施設数:高齢者人口当たりの施設数は日本の方が少ない(これは国際比較データから確かそう)
(3b)衛生管理:日本の方がこういった施設の衛生管理が平時からしっかりしている+感染症が出た時の対策がしっかりしている(厚労省による新型インフルが出た時の福祉施設向けのガイドラインは非常に細かいです)
他に、日本の高齢者の感染率が低いことが真だと仮定した上で、それを説明するような(検証可能な)仮説はあるでしょうか?
異論、反論、サジェスチョン、edrinkのお誘い、何でもウェルカムです。
April 21, 2020
月曜日
うちの社会学部では先週から学部内のクローズドでコロキウムが再開して、教員が報告してくれています。今日の内容はコヴィドとセグリゲーションの関係に関する報告で非常に面白かった。コレクティブに研究することが難しい最中で、機会を作ろうとする動きは本当にありがたい。
April 18, 2020
WFH week 4
外出規制が敷かれてから早いもので1ヶ月である。つい先日、公共の場所で6ftを保てない場合にはマスクの着用を義務付ける政令が出たようで、それを知らずにマスクをせずにグロサリに行ったら白い目で見られた。自分以外の人間がマスクをしている世界というのも奇妙である。帰宅してキッチンペーパーで即席のマスクを作った。
この1週間は色々あった。日曜はなぜか日本の自治体におけるincome segregationの話について考えていたのだが、月曜に疫学の授業で乳がんのスクリーニングに関する報告をし(この報告を経て私は乳がんのスクリーニングの効果に対して懐疑的になった)、火曜に家族社会学の大学院セミナーで家族とジェンダーについて議論し、水曜の疫学の授業でマラリアとジカウイルスに関する講義、そのあとに2nd year paperの授業でゲノムと同類婚の論文の報告、木曜に疫学の先生から共同研究の提案があり夏に向けてcovid-19をめぐる社会的格差に関する研究のレビュー論文を書く約束をし、並行してマックスプランク人口学研究所のcovid-19データベース作成のために毎朝ツイッターで「埼玉 コロナ 死亡」みたいな検索をしたり自治体のホームページで報道発表が記事になっていないことに苛立ちながらデータベースを作り、Rのコードで整形したcsvを吐き、datavizをして年齢別のCFRをツイッターやFBに上げて考察してみたり、金曜は社会学理論の授業でバトラーなどのポスト構造主義フェミニズムを議論し、そのあと手作りマスクで外出してコーヒー豆のピックアップをし、社会学部で組織されたcovid-19リサーチグループの会合に出席し、夜には日本の共同研究者と職域分離とスキルの関係に関する論文のアイデア出しを行った。その間にピザの作り方を学び、意外とオーブンで簡単に作れることに感動しつつ、57度90分の低温調理で大量に生成したローストビーフを食べきるのに苦労してしまって冷蔵庫はこの文章のように煩雑になっている。朝に起きてランニングをして、シャワーを浴びてコーヒーを入れ、クリームチーズを塗ったベーグルを食べながら、twitterでコロナの死亡例を逐一メモしている稀有なアカウントに感謝しつつ、データベースをアップデートするのが日課になりつつあるが、こういう作業で朝から荒んだ心を癒すために、グロサリでイースター明けで安くなったテッポウユリを買ったので、土が乾いたら水をやっている(関係ないがテッポウユリは台湾、琉球原産らしくキリストと何も関係はなかった)、もうとにかくそんなことをしていたらいつの間にか金曜が終わろうとしている(というか既に終わっている)。明日はこの1週間がここまで忙しくなることは意図せずに日本の人とedrinkの予定を入れており(こちらは朝なのでワインの代わりにコーヒーを飲むことになる)、そのあとにハーバードの学生に日本語指導のボランティア、翌週の授業の課題文献のフォローと引き続き研究(学歴同類婚、income segregation, occuoational segregation, ゲノムと同類婚、婚姻上の地位別の健康格差、その他諸々)しながらコロナのデータベースを作り、日曜には最近考えているポッドキャストのミーティングの予定。キムチがなくなりそうなのでアジアスーパーに買い出しに行きたいが、これらの作業で時間が潰れそうなのでまた今後にするかもしれない。おわかりいただけると思うが、以上述べた出来事のほぼ全てが、家の中で生じているというコロナ時代の奇異。
社会学の計量的な分析は個人をindividualとして捉えがちだが、フーコーやバトラーなどのポスト構造主義の議論を踏まえると、我々がみているのは安定的なアイデンティティを持つ個人ではなく、常に揺れ動くアイデンティティを付されているsubjectであると考えたほうがいいだろうという示唆を得た。実際に行う研究に対して何か影響があるわけではないが、物事を批判的に見る際にはこのような視点は非常に大切だと思う。もちろん、日常的な感覚でもそういう視点は持てることは持てるわけだが(常識を疑え的な視点)、ポストモダン以前の時代にはその「当たり前を疑うという当たり前」がいうほど簡単ではなかったわけだし、そうした考えに知的な妥当性を与えた議論はきちんとフォローすべきだろう。人口学的なデータを扱っている限り、西洋主義的な自律的個人みたいな話は遠く棚の上に置いてひたすら「記述」しているわけだが(記述とはこうした哲学的な議論を避けられるので便利といえば便利である)、こうした作業は例外なく現れたデータを表面的に解釈する危険性とも隣り合わせなので、どのタイミングでもポストモダンの議論を思い出すことにデメリットはない。そうそう、ポッドキャストとアイデアは似ていますが、先日のUS soc PhD from Japan edrinkである先輩がオンラインセミナーの案を出してくれたので、inequality and demography in East Asiaという私の趣向を前面に出しすぎて私自身若干引いているbiweeklyのセミナーをやろうと思っていますので、興味がある人はご連絡ください。国際学会はこの一年すべからくキャンセルされると思うので、その代替ではありませんが、大学ベースではない研究会の機会を考えています。
社会学の計量的な分析は個人をindividualとして捉えがちだが、フーコーやバトラーなどのポスト構造主義の議論を踏まえると、我々がみているのは安定的なアイデンティティを持つ個人ではなく、常に揺れ動くアイデンティティを付されているsubjectであると考えたほうがいいだろうという示唆を得た。実際に行う研究に対して何か影響があるわけではないが、物事を批判的に見る際にはこのような視点は非常に大切だと思う。もちろん、日常的な感覚でもそういう視点は持てることは持てるわけだが(常識を疑え的な視点)、ポストモダン以前の時代にはその「当たり前を疑うという当たり前」がいうほど簡単ではなかったわけだし、そうした考えに知的な妥当性を与えた議論はきちんとフォローすべきだろう。人口学的なデータを扱っている限り、西洋主義的な自律的個人みたいな話は遠く棚の上に置いてひたすら「記述」しているわけだが(記述とはこうした哲学的な議論を避けられるので便利といえば便利である)、こうした作業は例外なく現れたデータを表面的に解釈する危険性とも隣り合わせなので、どのタイミングでもポストモダンの議論を思い出すことにデメリットはない。そうそう、ポッドキャストとアイデアは似ていますが、先日のUS soc PhD from Japan edrinkである先輩がオンラインセミナーの案を出してくれたので、inequality and demography in East Asiaという私の趣向を前面に出しすぎて私自身若干引いているbiweeklyのセミナーをやろうと思っていますので、興味がある人はご連絡ください。国際学会はこの一年すべからくキャンセルされると思うので、その代替ではありませんが、大学ベースではない研究会の機会を考えています。
April 14, 2020
meritocracy
Sometimes I wonder to what extent the support for social mobility is related to a belief in meritocracy. Both sound similar but conceptually different.
In the OED triangle, the support for social mobility means that no direct association between O and D should exist while allowing an indirect path through E (E in this case refers to ability + efforts rather than educational attainment), or extreme ideas might assume no association between O and E as well.
In contrast, meritocracy (I guess) only considers E-D and O-D, not O-E-D. To paraphrase, their concern is about the rule of competition or rewards allocation, where the perfect meritocracy is achieved when merit (E) outweighs origin or ascription (O). The lack of interest in O-E means that they do not question the sources of abilities, while it is likely that these merits are influenced by origins.
Then my question is what genetic perspectives might bring to these frameworks. Earlier scholars like Lipset & Bendix or believers in meritocracy would say PGSs measure abilities while this may sound a bit counterintuitive to other strat scholars who are more likely to take care of where the abilities come from. The latter group would say genes also comprise origin.
Bringing the genetic perspective may help us to highlight these different responses to the meaning of ability, or E. This also suggests that the inclusion of genetic perspectives challenges the well-established dichotomy between ascription and achievement in stratification research, as we discussed earlier.
In the OED triangle, the support for social mobility means that no direct association between O and D should exist while allowing an indirect path through E (E in this case refers to ability + efforts rather than educational attainment), or extreme ideas might assume no association between O and E as well.
In contrast, meritocracy (I guess) only considers E-D and O-D, not O-E-D. To paraphrase, their concern is about the rule of competition or rewards allocation, where the perfect meritocracy is achieved when merit (E) outweighs origin or ascription (O). The lack of interest in O-E means that they do not question the sources of abilities, while it is likely that these merits are influenced by origins.
Then my question is what genetic perspectives might bring to these frameworks. Earlier scholars like Lipset & Bendix or believers in meritocracy would say PGSs measure abilities while this may sound a bit counterintuitive to other strat scholars who are more likely to take care of where the abilities come from. The latter group would say genes also comprise origin.
Bringing the genetic perspective may help us to highlight these different responses to the meaning of ability, or E. This also suggests that the inclusion of genetic perspectives challenges the well-established dichotomy between ascription and achievement in stratification research, as we discussed earlier.
April 7, 2020
家族人口学セミナー第3回:家族と不平等
今回の文献は家族と不平等ということで、すでにこれまでの回で家族の変化と格差の拡大が関連していることは言及があったわけだが、今回はよりその関係に焦点を当てている文献がアサインされた。唯一「あれ?」と思うのはLesthaeghe 2010だが、これはMcLanahan 2004が第二次人口転換に触れているため、そのバックグランド提供のためにアサインされたのだろう。
アサインされた文献はだいたい読んだことがあるものだったが、二つだけ未読のものがあり、授業の前にそれらについてメモ。
Lareau 2002では、ミドルクラスの家庭とワーキングクラスの家庭の育児戦略について質的インタビューを用いて検討している。ミドルクラスの家庭では、concerted cultivationと称される多くの習い事や課外活動を通じて、子どもの才能を意図的に伸ばすことに重点が置かれる一方で、ワーキングクラスの家庭では、子どものnatural growthが達成としてみなしている。言葉遣いでも両者には差があり、ミドルクラスの親では子どもに理性的に語りかけ、自律的な思考を促そうとしている一方で、ワーキングクラスの親は命令的に子どもにしつけをし、合理的な説明を欠くことが多い。
この論文を読んでいたら、ミドルクラスの家庭の記述で、親子一緒に毎日1時間ピアノのレッスンを推奨するスズキメソッドなるものが言及されていた。調べてみると、これは日本のスズキさんが世界に広めた音楽教育法、楽譜ではなく耳で、まるで言語を聞くかのように音を操ることを目的にした指導法らしい。レッスンのない日にも練習を課し、親のインテンシブな参加が必須のため、なかなか大変なようなのだが、このインテンシブさがミドルクラスの親にはウケているのかもしれない。
Lareauのconcerted cultivationは日本でも割と知られている概念だと思うが、同じくアサインされたJMFのdecade reviewでHaysのintensive motheringの概念とこの概念が比較されている。intensive motheringの方はpaid workをeschewするような、子どもの教育に時間を捧げることを正当化するような信念に焦点を当てる一方で、concerted cultivationは母親の就労よりも、親のparenting practiceの違い(育て方、育児戦略)に焦点を当てているようだが、suzuki methodのような習い事は確実に就労を抑制する気がした。
高学歴で自分もフルタイムで働けるような女性がintensive motheringに徹する場合には、パートタイムかステイホームになる気がするが、このようなキャリアではなく家族を選択した高学歴女性に対する一連の研究(opting out)の結果は、高学歴女性は子どもがいても就労継続をするようになっている、という知見だった記憶があるため、Lareauが対象にしたインテンシブな子育てをする女性というのは、もしかすると90年代から2000年代の残像なのかもしれない。もしそうではないとすれば、フルタイムかつ子どもの教育に対してコミットしようとしているミドルクラスの女性は、どのようにバランスをしながら子育てをしているのか、気になるところである(し、多分研究はたくさんあるだろう)。
さて、Cooper and Pugh 2020によるdecade reviewでは、様々な経済階層にいる家族に焦点を当てた10年間の研究の総括をしている。自分の関心のある部分について抜粋。
背景としては、よく知られているようにアメリカでは経済格差が拡大しており、特に労組の衰退やマクロ経済の変化によって、労働市場の構造的な変容が起こり、非大卒層の相対所得が減少すらしているという、稀有な国である(日本は日本で、賃金がほとんど増加していない稀有な国ではあるが)。学歴による賃金格差が拡大するに伴って、学歴が個人や世帯における格差を決定づける主要因になりつつある。低学歴層は賃金が低いだけではなく、経済的なショックに対するリスクにも晒されている。例えば2008年の経済危機が健康や富の損失に与える影響は、大卒よりも低学歴層において大きかったことが指摘されている。さらに、経済格差は世帯全体よりも子どもがいる世帯に限定した方がよりはっきりと現れる傾向にあり、これらが格差の再生産に対して持つ示唆は小さくない。
こうした学歴による差がより顕著になる中で、家族形成も学歴差を拡大させながら、その多様性を増しているというのが、前回までにフォローしたfamily complexityの議論である。具体的には高学歴層では結婚タイミングは遅いものの最終的な結婚確率は高く、離婚も少なく、婚外出生も少ない一方で、低学歴層では結婚確率が低く、離婚と婚外出生が多い。シングルマザーになる確率も高い。同棲経験はどの学歴でも増えているが、低学歴層の方が異なる相手との同棲を繰り返すような不安定なライフコースを歩みがちになる。これが子どものウェルビーイングに与える影響を鋭く指摘したのがMcLanahanのdiverging destiniesであることは広く知られている。こうした研究群では、学歴によって家族形成が分化しているが、それとは別に家族構造の変化(ひとり親の増加)もこうした格差が子ども世代において顕在化することに貢献していると考えてきた。しかし、近年の研究では、こうした家族構造よりも稼ぎ手の数といった側面の方が格差を規定する要因であることが指摘されているという。家族構造がどれだけ独自の寄与を持っているかは、今後も議論が続くかもしれない。
このレビューでは、家族形成と格差に関する新たなメカニズムも提示されている。その一つが仕事の質(job quality)である。これは、単に仕事によって発生する賃金だけではなく、就労環境の不規則さや労組の有無といった質的な側面のことを指す。例えば、Schneider & Harknett 2019では仕事のスケジュールが定期的に不規則に移り変わる労働者の場合、そうでない労働者よりも心理的なストレスが高くなる傾向にあることを指摘する。これは仕事と家庭のバランスの困難にも直結するため、今後の研究では、例えばこうした不安定な就労環境にいることと家族関係の解消や家族形成の困難に関連があるかが問われてくるだろう。日本では非正規雇用に就く男性は正規雇用に就く男性よりも顕著に結婚しにくいといった知見はさほど新しいものではないが、10年レビューに掲載されるあたり、職業の質的な側面が家族形成に与える影響は、アメリカでは比較的新しい視点と言える。こうした就労環境の不確定性は医者や管理職といった専門的な職業でも存在するため、収入の分布とは異なる次元で、労働環境の不確定性が家族形成に与える影響は検討に値するだろう。
こうした仕事の質は、どちらかというと労働者がコントロールできない範囲で仕事のスケジュールが負担になる、というところに焦点があったが、関連するが異なる概念としてinstability(不安定性)がある(さらにいうと、insecurityも関連する概念としてあるようだ)。これは一時点の所得よりも所得の時間的なばらつきの大きさを指している。所得が予測不能に変わることは、将来考えているライフコースの実現を難しくする。こうした所得変動の頻度は時代とともに増えている傾向にあるという。親がこうした不安定な就業環境にいることが子どもの発達に影響することは容易に想像がつくが、参照されている研究は、所得の減少と親の教育的関与の減少といったもので、これも次の10年の課題かもしれない。
以上までは格差という独立変数側に力点を置いた説明が続いたが、レビューでは従属変数側である家族形成の様々な側面についても議論されている。その一つが子育て(parenting)である。アメリカでは、親が子どもと過ごす時間が増えており、研究者の注目を集めている。さらにここでも学歴差は拡大していて、その背景としては低学歴層の家庭では父の不在が増加していることが指摘されている。単なる時間だけではなく、どのような子育てをするかという質的な側面にも階層差が確認されている。high SESの家庭の方が、両親揃って子どもといたり、読み聞かせといったstimulating activitiesに時間を使う傾向にある。さらに、習い事といった活動に対してかける費用にも階層差がある。もうなんでも階層差があるわけだ。こうした階層差を伴った子育てに対する概念として、先ほど紹介したconcerted cultivationやintensive parentingがあるわけだが、両者の概念には差異があることが上述の通り指摘されている。特にintensive parentingのイデオロギーは近年、high SESの家庭からlow SESの家庭にも広がっているという指摘があり、これと子育ての階層差が拡大しているというパターンは一見すると両立しにくいように見えるが、先ほどの比較のように、intensive motheringはどれだけ子どもに対してdedicateするかを指している一方、 concerted cultivationが親の回想戦略を反映しているとすれば、これらの二つの現象は両立するかもしれない、という示唆をこのレビューでは提示しているのだろうか。ちなみに、子どもと過ごす時間が子どもの学業達成などに与える影響についてはnullもあり(Milkie, Nomaguchi, and Denny 2015)、parentingが格差の形成にどれだけインパクトを持つかについてはクリアではないという。この辺りは、parentingの操作化も含めて、少し闇が深そうな気がした。
こうやってまとめてみると、レビューではさも研究があるように読める部分も、実は意外と研究がないことに気づく。これは私の経験則なのだが、10年レビューであげられるトピックは萌芽期を終えてこれからホットになるトピックであることも多いので、このレビューであげられた論点は、今後10年さらに掘り起こされることが予想される。
文献
アサインされた文献はだいたい読んだことがあるものだったが、二つだけ未読のものがあり、授業の前にそれらについてメモ。
Lareau 2002では、ミドルクラスの家庭とワーキングクラスの家庭の育児戦略について質的インタビューを用いて検討している。ミドルクラスの家庭では、concerted cultivationと称される多くの習い事や課外活動を通じて、子どもの才能を意図的に伸ばすことに重点が置かれる一方で、ワーキングクラスの家庭では、子どものnatural growthが達成としてみなしている。言葉遣いでも両者には差があり、ミドルクラスの親では子どもに理性的に語りかけ、自律的な思考を促そうとしている一方で、ワーキングクラスの親は命令的に子どもにしつけをし、合理的な説明を欠くことが多い。
この論文を読んでいたら、ミドルクラスの家庭の記述で、親子一緒に毎日1時間ピアノのレッスンを推奨するスズキメソッドなるものが言及されていた。調べてみると、これは日本のスズキさんが世界に広めた音楽教育法、楽譜ではなく耳で、まるで言語を聞くかのように音を操ることを目的にした指導法らしい。レッスンのない日にも練習を課し、親のインテンシブな参加が必須のため、なかなか大変なようなのだが、このインテンシブさがミドルクラスの親にはウケているのかもしれない。
Lareauのconcerted cultivationは日本でも割と知られている概念だと思うが、同じくアサインされたJMFのdecade reviewでHaysのintensive motheringの概念とこの概念が比較されている。intensive motheringの方はpaid workをeschewするような、子どもの教育に時間を捧げることを正当化するような信念に焦点を当てる一方で、concerted cultivationは母親の就労よりも、親のparenting practiceの違い(育て方、育児戦略)に焦点を当てているようだが、suzuki methodのような習い事は確実に就労を抑制する気がした。
高学歴で自分もフルタイムで働けるような女性がintensive motheringに徹する場合には、パートタイムかステイホームになる気がするが、このようなキャリアではなく家族を選択した高学歴女性に対する一連の研究(opting out)の結果は、高学歴女性は子どもがいても就労継続をするようになっている、という知見だった記憶があるため、Lareauが対象にしたインテンシブな子育てをする女性というのは、もしかすると90年代から2000年代の残像なのかもしれない。もしそうではないとすれば、フルタイムかつ子どもの教育に対してコミットしようとしているミドルクラスの女性は、どのようにバランスをしながら子育てをしているのか、気になるところである(し、多分研究はたくさんあるだろう)。
さて、Cooper and Pugh 2020によるdecade reviewでは、様々な経済階層にいる家族に焦点を当てた10年間の研究の総括をしている。自分の関心のある部分について抜粋。
背景としては、よく知られているようにアメリカでは経済格差が拡大しており、特に労組の衰退やマクロ経済の変化によって、労働市場の構造的な変容が起こり、非大卒層の相対所得が減少すらしているという、稀有な国である(日本は日本で、賃金がほとんど増加していない稀有な国ではあるが)。学歴による賃金格差が拡大するに伴って、学歴が個人や世帯における格差を決定づける主要因になりつつある。低学歴層は賃金が低いだけではなく、経済的なショックに対するリスクにも晒されている。例えば2008年の経済危機が健康や富の損失に与える影響は、大卒よりも低学歴層において大きかったことが指摘されている。さらに、経済格差は世帯全体よりも子どもがいる世帯に限定した方がよりはっきりと現れる傾向にあり、これらが格差の再生産に対して持つ示唆は小さくない。
こうした学歴による差がより顕著になる中で、家族形成も学歴差を拡大させながら、その多様性を増しているというのが、前回までにフォローしたfamily complexityの議論である。具体的には高学歴層では結婚タイミングは遅いものの最終的な結婚確率は高く、離婚も少なく、婚外出生も少ない一方で、低学歴層では結婚確率が低く、離婚と婚外出生が多い。シングルマザーになる確率も高い。同棲経験はどの学歴でも増えているが、低学歴層の方が異なる相手との同棲を繰り返すような不安定なライフコースを歩みがちになる。これが子どものウェルビーイングに与える影響を鋭く指摘したのがMcLanahanのdiverging destiniesであることは広く知られている。こうした研究群では、学歴によって家族形成が分化しているが、それとは別に家族構造の変化(ひとり親の増加)もこうした格差が子ども世代において顕在化することに貢献していると考えてきた。しかし、近年の研究では、こうした家族構造よりも稼ぎ手の数といった側面の方が格差を規定する要因であることが指摘されているという。家族構造がどれだけ独自の寄与を持っているかは、今後も議論が続くかもしれない。
このレビューでは、家族形成と格差に関する新たなメカニズムも提示されている。その一つが仕事の質(job quality)である。これは、単に仕事によって発生する賃金だけではなく、就労環境の不規則さや労組の有無といった質的な側面のことを指す。例えば、Schneider & Harknett 2019では仕事のスケジュールが定期的に不規則に移り変わる労働者の場合、そうでない労働者よりも心理的なストレスが高くなる傾向にあることを指摘する。これは仕事と家庭のバランスの困難にも直結するため、今後の研究では、例えばこうした不安定な就労環境にいることと家族関係の解消や家族形成の困難に関連があるかが問われてくるだろう。日本では非正規雇用に就く男性は正規雇用に就く男性よりも顕著に結婚しにくいといった知見はさほど新しいものではないが、10年レビューに掲載されるあたり、職業の質的な側面が家族形成に与える影響は、アメリカでは比較的新しい視点と言える。こうした就労環境の不確定性は医者や管理職といった専門的な職業でも存在するため、収入の分布とは異なる次元で、労働環境の不確定性が家族形成に与える影響は検討に値するだろう。
こうした仕事の質は、どちらかというと労働者がコントロールできない範囲で仕事のスケジュールが負担になる、というところに焦点があったが、関連するが異なる概念としてinstability(不安定性)がある(さらにいうと、insecurityも関連する概念としてあるようだ)。これは一時点の所得よりも所得の時間的なばらつきの大きさを指している。所得が予測不能に変わることは、将来考えているライフコースの実現を難しくする。こうした所得変動の頻度は時代とともに増えている傾向にあるという。親がこうした不安定な就業環境にいることが子どもの発達に影響することは容易に想像がつくが、参照されている研究は、所得の減少と親の教育的関与の減少といったもので、これも次の10年の課題かもしれない。
以上までは格差という独立変数側に力点を置いた説明が続いたが、レビューでは従属変数側である家族形成の様々な側面についても議論されている。その一つが子育て(parenting)である。アメリカでは、親が子どもと過ごす時間が増えており、研究者の注目を集めている。さらにここでも学歴差は拡大していて、その背景としては低学歴層の家庭では父の不在が増加していることが指摘されている。単なる時間だけではなく、どのような子育てをするかという質的な側面にも階層差が確認されている。high SESの家庭の方が、両親揃って子どもといたり、読み聞かせといったstimulating activitiesに時間を使う傾向にある。さらに、習い事といった活動に対してかける費用にも階層差がある。もうなんでも階層差があるわけだ。こうした階層差を伴った子育てに対する概念として、先ほど紹介したconcerted cultivationやintensive parentingがあるわけだが、両者の概念には差異があることが上述の通り指摘されている。特にintensive parentingのイデオロギーは近年、high SESの家庭からlow SESの家庭にも広がっているという指摘があり、これと子育ての階層差が拡大しているというパターンは一見すると両立しにくいように見えるが、先ほどの比較のように、intensive motheringはどれだけ子どもに対してdedicateするかを指している一方、 concerted cultivationが親の回想戦略を反映しているとすれば、これらの二つの現象は両立するかもしれない、という示唆をこのレビューでは提示しているのだろうか。ちなみに、子どもと過ごす時間が子どもの学業達成などに与える影響についてはnullもあり(Milkie, Nomaguchi, and Denny 2015)、parentingが格差の形成にどれだけインパクトを持つかについてはクリアではないという。この辺りは、parentingの操作化も含めて、少し闇が深そうな気がした。
こうやってまとめてみると、レビューではさも研究があるように読める部分も、実は意外と研究がないことに気づく。これは私の経験則なのだが、10年レビューであげられるトピックは萌芽期を終えてこれからホットになるトピックであることも多いので、このレビューであげられた論点は、今後10年さらに掘り起こされることが予想される。
文献
Cooper, Marianne, and Allison J. Pugh. 2020. “Families Across the Income Spectrum: A Decade in Review.” Journal of Marriage and Family 82(1):272–99.
Lareau, Annette. 2002. “Invisible Inequality: Social Class and Childrearing in Black Families and White Families.” American Sociological Review 67(5):747.
Lesthaeghe, Ron. 2010. “The Unfolding Story of the Second Demographic Transition.” Population and Development Review 36(2):211–51.
McLanahan, Sara. 2004. “Diverging Destinies: How Children Are Faring Under the Second Demographic Transition.” Demography 41(4):607–27.
Schwartz, Christine R. 2010. “Earnings Inequality and the Changing Association between Spouses’ Earnings.” American Journal of Sociology 115(5):1524–57.
Western, Bruce, Deirdre Bloome, and Christine Percheski. 2008. “Inequality among American Families with Children, 1975 to 2005.” American Sociological Review 73(6):903–20.
April 6, 2020
豆腐の味噌漬け
冷蔵庫に豆腐と味噌があったので…
豆腐が二丁あったので、以下のレシピに従ってふた通りの味噌漬けを作ってみました。
参考レシピ(1)https://cookpad.com/recipe/2997456
参考レシピ(2)https://www.aco-mom.com/family/toufu-misoduke.php
cookpadのレシピはレンジで水抜きするところから比較的お手軽で、時短にフォーカスしている一方、主婦A子の方は、水抜きに数時間、味噌漬けに数日を要求するハードコア味噌漬けといった感じです。
豆腐が二丁あったので、以下のレシピに従ってふた通りの味噌漬けを作ってみました。
参考レシピ(1)https://cookpad.com/recipe/2997456
参考レシピ(2)https://www.aco-mom.com/family/toufu-misoduke.php
cookpadのレシピはレンジで水抜きするところから比較的お手軽で、時短にフォーカスしている一方、主婦A子の方は、水抜きに数時間、味噌漬けに数日を要求するハードコア味噌漬けといった感じです。
April 5, 2020
WFH week 3
早いものでWFHも3週目が終わった。今週は以下のように疫学の中間試験あり、家族社会学セミナーのリードありで、非常に忙しく、全てが終わった木曜日には疲れ果ててしまって記憶がない。金曜日もほとんど記憶がなく(少し研究はした)、今日は頭痛であまり記憶がなかった…午後からようやく体力が回復してきた感がある。これらが全て自宅で済ませられるようになったというのは革命的で、私はその点についてはポジティブに評価している。意外とオンラインでもできるし、むしろオンラインの方がメリットが多い部分もある。この意見は多数派ではないようだが、私はWFHを非常に気に入っている。もちろん、人によってWFHの状況は異なり、私は最もプリビレッジを持っているグループに入っている(家族もおらず、NYには近いが感染の拡大が非常に深刻ではなく、大学のサポートも十分で、一応オフィスもまだ入ることができる)。私がWFHに満足しているのも、こうした条件があるからなのは強調しないといけない。
Mar 29: Empirical progress report due
Mar 30: Epi midterm + precept
Mar 31: Family discussion lead
Apr 1: Empirical progress report + epi class + family/inequality working group
Apr 2: Theory seminar
Apr 6: Family report 1 due (not started yet as of April 5..)
金曜日には学部時代の同期で東海岸にいる数名とedrinkをした。久々にバカをやった感じがして、懐かしい気分に浸ることになった。大学院からの友人とは、もうちょっとフォーマルに仲が良くなるというか、一応常識めいたものを身につけてから知り合うので、一線は超えなかったりする。本当にしょうもないことで笑える仲というのは、この歳になると実は貴重なのかもしれない。しょうもなさすぎてこんなところにさえ書くのがはばかられる内容だった。でもそういうのが実は楽しいし、気分転換になる。一応定期的に金曜はedrinkを入れたいと思っていて、来週はUS Soc PhD from Japan edrinkを開催予定。
土曜日にはグロサリに行った。普段は徒歩3分のアメリカンなグロサリに行くので十分なのだが、主食の麺が切れつつあったのでjunction近くのkorean groceryまで。昔は友達とライドシェアしていっていたのだが、このご時世なので一人で自転車で行くことにした。意外とこれが楽しく、途中途中で綺麗に咲く桜を目にしながら片道30分ほどのサイクリングができた。NJは全米でも一番桜の植樹数が多いらしく、日本人のイメージではDCが一番というイメージが先行するが、地理的にはNJの方が広いので、さもありなんかもしれない。グロサリで買うのは麺(そうめん、うどん)、キムチ、調味料(今回は酒とみりん)などだが、今回は一応食べたくなった時用のために少量だが錦も買った。その他大根、インスタントラーメンなど。
帰り道の草原が印象的だったので寄り道して一枚。広大な景色を見ていると、コロナウィルスによる大狂騒の中にいる世界から脱出したような気分になってしばらくのんびりしてしまった。
Mar 29: Empirical progress report due
Mar 30: Epi midterm + precept
Mar 31: Family discussion lead
Apr 1: Empirical progress report + epi class + family/inequality working group
Apr 2: Theory seminar
Apr 6: Family report 1 due (not started yet as of April 5..)
金曜日には学部時代の同期で東海岸にいる数名とedrinkをした。久々にバカをやった感じがして、懐かしい気分に浸ることになった。大学院からの友人とは、もうちょっとフォーマルに仲が良くなるというか、一応常識めいたものを身につけてから知り合うので、一線は超えなかったりする。本当にしょうもないことで笑える仲というのは、この歳になると実は貴重なのかもしれない。しょうもなさすぎてこんなところにさえ書くのがはばかられる内容だった。でもそういうのが実は楽しいし、気分転換になる。一応定期的に金曜はedrinkを入れたいと思っていて、来週はUS Soc PhD from Japan edrinkを開催予定。
土曜日にはグロサリに行った。普段は徒歩3分のアメリカンなグロサリに行くので十分なのだが、主食の麺が切れつつあったのでjunction近くのkorean groceryまで。昔は友達とライドシェアしていっていたのだが、このご時世なので一人で自転車で行くことにした。意外とこれが楽しく、途中途中で綺麗に咲く桜を目にしながら片道30分ほどのサイクリングができた。NJは全米でも一番桜の植樹数が多いらしく、日本人のイメージではDCが一番というイメージが先行するが、地理的にはNJの方が広いので、さもありなんかもしれない。グロサリで買うのは麺(そうめん、うどん)、キムチ、調味料(今回は酒とみりん)などだが、今回は一応食べたくなった時用のために少量だが錦も買った。その他大根、インスタントラーメンなど。
帰り道の草原が印象的だったので寄り道して一枚。広大な景色を見ていると、コロナウィルスによる大狂騒の中にいる世界から脱出したような気分になってしばらくのんびりしてしまった。