August 26, 2014

The Age of Independence

Rosenfeld, Michael. 2009. The Age of Independence - Harvard University Press
http://www.hup.harvard.edu/catalog.php?isbn=9780674034907

地理的移動や大学進学に伴うindependent life stageの登場が、アメリカの若者のunion formationをいかに変えたかを歴史的に追いつつ、センサスから客観的なデータも出し、時折インタビューも混ぜており、とても面白かった。homosexualityが人間社会の起源から見られたものであれば、なぜgay rightsは90年代アメリカで認められるようになったのか、個人の権利の尊重であればなぜ100年前に起こらなかったのか、という問いの立て方は面白い。彼はそれを人口学的要因、つまり親から自立して生活するindependent life stageの登場と結びつける。同性愛に限らず、異なるエスニシティ間のunionもこれで説明している。ホモガミーのメカニズムを説明する枠組みとしてはKalmijnの選好、機会構造、第三者の介入の三つがあるが、ヘテロガミーや非伝統的な結婚を説明する理論らしい理論は社会的交換くらいしか知らない。Kalimijnの枠組みに無理矢理結びつけようとすると、independent life stageの登場は第三者の介入に分類されるのだろうか。ただし、自律性や寛容性の浸透というのはこの枠組みでは説明できない気もする。

この本を読んで、アメリカでも親の介入は結婚に対して、特に非伝統的な結婚に対しては強く働いていたことが分かった。さらに親の介入という視点を入れると、やはり配偶者選択の社会的な側面を考えるには結婚タイミングのような一時点ではなく、親の介入の仕方の多様なパターンにも注目しなければいけないと痛感した。日本では、見合い結婚と恋愛結婚の二項対立がしばしばいわれるが,実際には恋愛結婚に移行しても親の介入は残っていただろうし、見合い結婚が優勢だった時代に恋愛の要素がなかったというとそうではないだろう。このように考えると、配偶者選択を社会学的に分析する際にはUnionをプロセスとして理解する事が重要だと改めて思った。

August 18, 2014

移民家族の世代関係・文化伝達の理論

Schnell, Philipp. 2013. Transmission von Partnerpräferenzen bei muslimischen Familien in Österreich in Weiss, H., P. Schnell, and G. Ates. 2013. Zwischen Den Generationen. Springer VS.

Weiss et al. (2013)は欧州において移民のプロセスに対して世代関係がどのような影響を与えるかを検討している。その中で、Philipp Schnellがオーストリアにおけるムスリム系家族を対象に、子どもの配偶者選好に対する親と友人のネットワークの影響力を検討している。この章、そしてこの本に限らず、現在の西ヨーロッパでは、移民第二世代が同じ宗教・エスニシティを持つ人をパートナーとするかどうかが移民の社会統合の必要性が検討される中で重要なテーマになっている事が読み取れた。この論文もそれについて扱ったもので、トルコ出身のムスリム系移民を対象としている。計量分析の結果、親が宗教的に熱心である、調査対象となった移民第二世代の子どもの宗教心の自己評価が高い場合に、同じムスリムとのEndogamy(同族婚)を選好する事が分かった。その一方で、親の学歴が高い、また本人の友人ネットワークに占める非ムスリム系の割合が高いことはEndogamyを志向しない効果が示唆されていた。ネットワークの同質性(似た者同士が繋がりあうという意味で、この現象はHomophilyと呼ばれる)と配偶者選択の関係が指摘されているのが興味深い。当たり前のように聞こえるかもしれないが、ムスリム系のネットワークの中にいると同じムスリム系の人と結婚したいという志向を持つようになる。現実には、あるパートナーと結婚したいから,その人と似た境遇にある人と繋がりあうというのは考えにくく,親の学歴や自らの宗教心等を多変量解析によって統制していることも踏まえると、ネットワークが配偶者選択に与える影響は独立のものである事が分かる。また、Schnellの著作を検索したところ、彼は近くトルコ系移民第二世代がスウェーデン、オーストリア、フランスでどのような教育達成をしているかについての国際比較研究の本を出版する予定である事が分かった(Educational mobility of second-generation Turks. Cross-national perspectives. Amsterdam University Press.)。


Mchitarjan and Reisenzein (2013). The Importance of the Culture of Origin in Immigrant Families: Empirical Findings and their Explanation by the Theory of Cultural Transmission in Minorities. in Geisen at al.  Migration, Familie Und Gesellschaft. Springer VS.

Geisen at al.  (2014)ではドイツとその周辺諸国における移民の家族について検討している。その中で興味深かったのは、Mchitarjan and Reisenzeinによる、移民家族における文化の伝達(kulturtransimission)の重要性を指摘した論文だった。この論文では、はじめに移民家族における文化の重要性を裏付ける知見を以下のようにまとめている。まず第一に、非移民の家族よりも移民の家族の方が、親から子への価値観や規範等の文化がスムーズに伝達されている。第二に、移民世代だけではなく第二世代以降についても自らのエスニシティをアイデンティティとして強く保持する、ないしは出生国とエスニシティの両方をアイデンティティとして持ち、出身文化のアイデンティティを持つことと生活満足度やストレスを持たない事が有為に関連している、第三に、こうした自身による認識以外に、親の出身国の文化を伴うアイデンティティは言語の使用、家庭内における宗教教育、そして配偶者の選好の形で現れるという。第四に、そうしたアイデンティティ形成については親の影響力が大きい事、第五に、そうした移民世代が出身文化を放棄し移民国の文化に同化することが統合にとっての必要条件ではない事(例えば、移民としてのアイデンティティを持っている事がフランスを祖国として認識する事の障害とはならない事例が紹介されている。)
このように先行研究をまとめた上で、筆者らはこうした知見を理論化しようとする。彼らによれば、これまでのそうした理論化は行われてきたが、特に第一、第二、そして第五の点に関しては驚くべき結果として解釈される事が多く、その理論からはしばしば逸脱した例として認識されてきた事を指摘する。特に、素朴な同化理論(移民してきたものは第二世代以降、移民国の文化に適応するという説)が批判されており、また出身文化と移民国の文化の両方を持つbiculturalなアイデンティティを持っていたとしても、なぜ出身文化を保持する傾向にあるのかについては同化理論に加えて、トランスナショナリズムの理論もこれに答えていないという。その上で筆者らはマイノリティだけではなくマジョリティをも視野にいれ両者の相互作用から教育による文化伝達の重要性を主張する。具体的には、公的・私的領域におけるマイノリティの教育活動とマジョリティの価値観を代表する教育政策をアクターとして考え、その二つが互いにそれぞれの文化を伝達しようとする動機に着目した理論を提示する。この理論の興味深いのは、文化伝達の動機を意識的なものではなく、対立する集団の文化に対する脅威や疑念によって生じるという複数の集団の相互作用の中に位置づけている点にある。そして、この理論が経験的な知見に最も整合的と主張する。ちなみにこの文化伝達の理論を提唱したのはブルデューらしい。

August 16, 2014

ケルンで出会った人

GESISではNuffieldのJuta Kawalerowiczさんにお世話になったのだが、彼女の英語がしっかりとしたブリティッシュだったので、イギリスで生まれたものだと思っていたら、ポーランドで生まれ、大学の時にイギリスに移ってきたらしい。当時はポーランドのメディアにも触れていたが、今では英語ばかりだという。そんな彼女の研究テーマはpolitical violenceというもので、最初聞いた時はよく分からなかったのだが、具体的には暴動や社会運動のことを指すようだ。

彼女の指導教官はMichael Biggsという人で、彼はハーバードでSkocpolのもとで博士号を取得している。いわばJutaは現代の政治社会学の巨頭の弟子の弟子にあたる。そんな彼女はBiggsと共著で、2011年にあったロンドン暴動の逮捕者がどのような地域の出身であるのかについての計量的な分析をしている。こうしたイギリスないしヨーロッパで政治的にホットなテーマを計量で分析するというのは、私の考えるNuffieldの十八番なのだが、家族なんかを研究しているとやはりテーマの社会的、政策的重要性に若干の羨望を感じてしまう。

Kawalerowicz and Biggs. 2014. Anarchy in the UK: Economic Deprivation, Social Disorganization, and Political Grievances in the London Riot of 2011

と、多くの場面でお世話になったので宣伝しておく。余談になるが、GESISセミナーの終わりにパーティがあり、バンド演奏の途中でクラブ状態になった。そうした経験は初めてで若干遠目で見ていたのだが、Jutaから'is it unusual in Japan?'などと揶揄われてしまった。そんな彼女も含め、普段はまじめに勉強している人たちも踊りだしていて、こういうオンとオフの切り替えになれていないことを痛感すると同時に、平日も6時まで働いてパブに行く、であったり、特別なイベントの時には日常を忘れるという、日常と非日常が地続きになっている文化も良いなと思った。日本の院生だと、飲み会でしっぽり指導教官の愚痴を言って終わりそうなものだが、そんなの忘れて踊りふけるのも悪くない。いつかここであった人たちと、何よりJutaと再び会いたいと思うフランクフルトの夜。

メモ
Multiple ImputationとMTMMについての参照ページ
http://www.ssc.wisc.edu/sscc/pubs/stata_mi_decide.htm#AreMyDataMCARMARorMNAR
http://www.socialresearchmethods.net/kb/mtmmmat.php

August 15, 2014

GESIS感想(ドラフト)

私は8月11日から15日までの5日間、ドイツにて調査研究法に関するサマースクールを受講してきた。今回サマースクールで訪れたのはGESISという後述する調査研究法や社会調査に関するデータのアーカイブ機能を持った研究所である、DAADによる支援対象にもなっているライプニッツ研究所の一つである。GESISには複数の拠点があるが、今回はケルンのセンターに赴いて授業を履修した。サマースクール自体は8月の前半から下旬までの3週間をかけて開かれている.中心となるテーマはSurvey Methodology、日本語に訳すと調査研究法と呼ばれる分野である。ごく簡単に言ってしまえば、アンケート調査等をする時の質問紙の設計であったり,回答後のデータ処理の向上を目指している分野であるが、私はサマースクールに参加するまで(そして多くの日本人研究者がそうであると思われるように)この分野が社会学における社会調査法と等しいものだと思っていた。社会調査法とは、社会学的なテーマを実証するための調査をするときのプロセスや分析手法全般を指す。日本では、社会調査法を教える人は何かしら専門とするテーマを他に持っている事がほとんどであったため、調査に関する手法は社会学者が片手間にやっているものだと考えていた。しかし、調査研究法が目指すのは、端的に言うと質問紙調査の質の向上である。例えば、調査をするとどうしても生じざるを得ない無回答(これは回答者が欠落している場合 unit nonresponseと回答者が質問の一部を回答しない場合 item nonresponseがある)をどのように減らすことができるかを調査研究法は調査の前後の両方で検討している。前者に関してはサンプリングの段階からどのような調査方法(自記式なのか面接形式なのか、コンピューターの補助はいるか、ウェブにするかなど)、後者に関しては欠落したデータをどのように補充 imputationするかについて検討する。これはほんの一例であるが,こうした改善を通じて質問紙調査の質が向上するというとき,その質が具体的に何を指しているかというと,これはいかに真値から誤差が少ないデータを生み出せるかという点に集約されている。調査研究法の分野ではTotal Survey Error (TSE) というパラダイムが採用されている。これは、調査設計から分析までの全ての段階で生じうる誤差について検討し、できる限り誤差の少ない,すなわち真の値に近いデータを作成することに価値を置く。

 余談になるが、私は調査研究法の「真値から誤差の少ないデータ」といったときに、教科書が真値という言葉をある意味でナイーブに捉えている事に若干の驚きを持った。存在論的に言えば、この考えは世界の事象に対する実在論 realismの立場をとっていると考えられる。つまり、ある現象の原因に、客観的に同定できる形でその原因が存在しているという考えをとっている。この考えは、我々が日常的な発想で良くする推論の拠り所となっている。例えば、病気が発生した時に我々はその原因を医学的な知識を用いて推論するが、この場合私たちないし依拠している医学は原因が実在するという立場を取っている。これを社会現象に応用すると、人々の社会的態度を規定する原因も実在するという立場を取る事ができる。これが社会科学における実在論になるが、調査研究法のパラダイムではまさに実在論が前提されている。これは教科書には明確に書かれていないが、原因が実在すると考えなければ真値という言葉がつかえるわけがない。私がナイーブに用いている事に驚いたというのは、隣接する領域である社会学では、実在論的な考えは唯一の存在論的な認識ではないからである。社会学では社会的事実が構築されたものであるという構築主義 constructivismの立場を取る事が少なくない。詳細は割愛するが、社会学者は社会現象について考える時に、その現象について実在するか構築されたものとして認識するかの二通りの考えをする事が多いと思われる。実際には、実在論的な立場の人も構築主義的な立場の考えを暗黙のうちに考慮に入れた分析をしていると思われるが、調査研究法のパラダイムには、そうした構築主義的な視点が入る事はない。なぜならば原因には真値があるという非常に強固な実在論的な前提を保持しているからだ。確かに、この前提が無ければそもそも誤差を減らすという考えには至らないので仕方ない面もあるのだが、後述するように、本当に社会的な事象の原因が実在するかは安易にイエスとは言えない。調査研究法がこれほど強固な前提を主張しているという事は、ある程度社会学と距離をおいた分野であるという理由が考えられる。調査研究法には調査をする人々以外にも、質問がどのように認知されるかという心理学サイドの人々もおり、英語圏では社会学とは全く別の領域であると考えた方が良い。日本では明確に境界づけられていない調査研究法という分野がアメリカやヨーロッパでは独自の領域として認識されているのは、調査が盛んであるというインフラ的な側面の違いもあるだろうが、これ以外に私はアメリカにおいて社会心理学が社会学の一部である一方で日本では別のものと考えられているのと似たような対比を覚えた。調査研究法の場合は日本で同じと思われているので逆のケースだが、このような認識の転換からサマースクールは始まったと言える。

 私はIntroduction to Survey Designという調査設計に関する入門講座を履修した。確かに内容は非常にベーシックで学部生でも十分ついていけるレベルのものであったが、それは同時にfundamentalである。先の存在論的な認識についてもそうであるし、この授業を通じてTSEフレームワークに準拠した調査設計における誤差の検討法について概観する事ができた。概観というと個別のトピックの仔細には触れずに軽く見渡すというニュアンスになるが、概観する事を通じて、ここのトピックが全体図の中で持つ機能を確認できるのであり、これは個別的な議論(そして社会調査に置ける分析は往々にして断片的な知識に基づいたものであることが多いように思われる)に終始して、それらが全体の中でどのような位置づけになっているのかについて関心を持たないでいる状態とは大きく異なるし、概観できてこそ各要素間の関係が見えてくる事を痛感した。

 初日はサンプリングについて、二日目は測定誤差について、三日目から四日目にかけて質問紙の設計や集計後の重み付けと補充について、最終日に改めて測定誤差について学んだ。初めは調査における妥当性と信頼性という非常に基本的な地点からスタートしたが、TSEフレームワークに則って、各プロセスで生じうる誤差について、それが生じるのはどうしてか,それをどうやって小さくできるかについてが主なレクチャーの対象となった。先の例では無回答に夜データの欠落を用いたが、ここでもこれを例にしてどのようにして誤差が減るか、それをどのように減らす事ができるのかについて考えてみたい。回答しない人と回答する人に分かれるという事が、求めたい真値を探り当てる可能性をどのように減らすのか。対象者の欠落に関しては、ある特定の特徴や条件を持った人は調査から漏れやすいという事態が考えられる。例えば、世帯を単位とした調査では、かなりの確率で家を持っていない人は対象から外れるだろう。電話調査にすれば電話を持っていない人が欠落すると考えられる。明らかにしたい問いによって、対象となるサンプルは定義されるべきだが、それに至る手段が与える影響によって、バイアスのかかったデータが生じてしまう可能性があるのだ。なぜならば、欠落した人々は何らかの社会的な特徴を持っており、それが全体で見た時に現象感の関係に少なくない影響を与えるからである。例えば、ウェブ調査によって対象とするサンプルから低学歴の人が排除されるのは容易に想像できるが、そこで明らかになるのは学歴のバイアスがかかったサンプルに置ける回答分布である。そして、確率的な抽出をしていない場合には、統計的な一般化をする事もできない。したがって、明らかにした糸井に届かなくなってしまう。次に、特定の質問の欠落を考えてみたい。仮にこの欠落が完全にランダムに生じているようであれば、欠落自体は問題にはならない。しかし、多くの場合、質問と回答者の社会的な特徴は関係しており、それによって質問項目の分布に誤差が生じてしまうのだ。例えば、女性が回答しない傾向にある問いやあるエスニシティに分類される人が回答しない傾向にある問いが想定されるとき、これは社会的な属性と質問の欠落が関係していることになる。このように、欠落がランダムに生じない場合、回答に誤差が生じてしまうし、さらに言えば、欠落を無視して(古典的な社会統計では欠落のあるデータは除外されていた)分析をしても、欠落した回答者の属性の影響を見逃している事になる。そこで用いられるのが、データの補充 imputationである。詳細は割愛するが、様々な補充の方法を用いて、できる限り真値に近いデータを再現する事が目指される。

 しかし、話を聞いていると、調査は誤差を減らすための労が非常に多い事に気づかされる。特に、データが集まる前の段階の誤差の修正は非常に重要な課題なのだが、そこには常に資金と時間の制約の問題がつきまとう。これは調査方法の選定や調査員や回答者へのインセンティブという要素と密接に関わる。これに加えて、質問ごとのスケーリングやワーディングによっても回答傾向は異なる。さらに言えば、回答者が同じ質問に対して常に同じ答えをするとは限らない。性別や年齢といった質問への回答に誤差はないが、回顧的な質問、例えばこの一週間に何度飲み物を飲んだかなどについては、回答者が常に同じ回答をするとは言えない。自分が作成した質問のロールプレイで気づいたのだが、強い意見を持っている事項に関しては1度目と2度目の回答に違いはないが、確固とした意見を持たない場合には、その間に違いが生じる事が多い。例えば、ドイツの人にイギリスやアメリカの評価を聞けば安定した回答が得られるが、アジアの発展途上国に対する評価を聞いても、曖昧な回答に終わってしまい、誤差が生じる事が分かった。このように考えていくと、本当に真値があるのか,そもそも真値があるという前提で調査を設計する事にどれだけの意義があるのかについて疑問を持たざるを得なくなってくる。


 まとめると、調査設計の授業は、調査設計のタイミングごとに生じる誤差について逐一検討するという非常にプラクティカルな意味で有益な機会となったが(そして、そうした側面がこの授業の目的でもあった)、想定外の産物としてこのようなリアリズムに対する疑念を生じさせてくれた。自分が将来的にどのような立場を取るのかは定かではないが、ある意味でとても極端な立場の考えの一端に触れられた事は無駄ではなかったと思っている。

August 3, 2014

雑感と論文まとめ(Diverging DestiniesとWorld Society Theory)

日々卒論の方向性が変わっていくのが辛い。ひとまず、大体70年代以降の家族変動と近年の格差・不平等の拡大の議論を絡めて(後者については、それが広がっているかどうかの検討も含めて、できれば)、配偶者選択に着目して分析、みたいな感じにしようかと考えている。私の昔から(と言っても二年くらいだけど)のスタンスは、家族内部の要因に着目した階層論をやっていく、というところだったので、巡り巡ってまた戻ってきたらしい。最近思うのですが、日本みたいにほとんど学歴でしか同類婚が起こらない社会は他の社会に比べて原因を推論しやすいとも言えるし,同時に同じくらいやりにくいとも言える。前者は、アメリカの人種や宗教、イギリスの階級みたいな変数が無いので、大体変化の要因を教育に持っていくことができる(逆に、バラエティがない)。後者は、学歴は戦後の高学歴化によって学歴の意味も分布も世代によって大きく異なるので、これを踏まえないといけない点にある。つまり、昔の大卒と今の大卒は、社会的なステータスも随分違うでしょう,という話。

留学するまでは自分がどういうアプローチか、全体の中で位置づけることができなかったが、今思うと、それはバリバリのquantitativeでrational choiceの立場だった(なお、両者の関係についてはGoldthorpeのOn Sociology参照)。だがしかし、マンチェスターでネットワーク分析とクロスリーに出会ってから、前者に対してはqualitativeからの、後者にはindividualism批判からの問題意識を持つようになった。できるだけ、この煮え切らない思いを維持したまま、かつ論文にはその煮え切らなさを上手く昇華する形で、進んでいきたいのだが(バランスがいいと言えばAnnette Lareauみたいなのが理想だが、形にならない事例は数えきれないほどある)。そうやって、他にも日々、制度は大事だ,規範は大事だと右往左往しているのですが、なんとか早めに書き上げたいものです。

P.S. 最近以下のようなことを考えている。職縁結婚の衰退みたいなの「だけ」が「仮に」なかったとしたら、恐らく現在ほど未婚化は進んでいなかったと推測できる(もちろん、職縁の衰退は労働市場の変化とも関係しているので、それはバブル不況が無かったらというたらればまで含むため、現実には起こりえないだろう)。つまり、経済不況は起こるものの、出会いの機会の減少は訪れない。この状況下で結婚するカップルが生まれたとして、配偶者選択のパターンや結果はどのようになるのだろうかと考えてみると、アメリカのように学歴に基づく格差が拡大したのではないかと推測する。日本では、機会構造の変化によって強制的に結婚市場から排除された人が多かったことによって、高学歴カップルと非高学歴カップルの間の格差の拡大が実は少なくすんだのではないかと。もし、未婚率が80年代と変わらなかった場合、子を持つ世帯間の格差はもっと広がっていたかもしれない。つまり、配偶者選択や家族の不平等を考える時に、未婚者の存在をどのように捉えるかということなのだと思います。

以下論文二つ

McLanahan, S. 2004. “Diverging Destinies: How Children Are Faring Under the Second Demographic Transition.” Demography 41(4):607–27.

この論文では、アメリカにおける第二次人口転換以後の家族変動が資源の二極化を生み、様々な格差を拡大させることになっていると主張する。筆者は独立変数として女性の学歴を採用し、これをLow, Middle, Highの三つに分類している.学歴ごとの平均結婚年齢、雇用率、シングルマザーの割合、諸今後10年間の離婚確率、父親の育児参加、世帯収入をプロットしており、そこから70年代以降学歴間の格差が増大していることが指摘される。例えば、平均結婚年齢は高学歴の女性ほど遅くなるが、例学歴の人とのギャップがこの40年で拡大している(ちなみに、平均結婚年齢は高いほど離婚しにくく,子育てにも積極的になる傾向があることから格差の指標として用いられている)。シングルマザーについても、1970年ではhigh educationの人では10%、low educationの人では20%強だったものが1990年代になる頃には前者が変わらず10%なのに対して、後者では45%にも上っている。このように学歴の高い女性の間では子どもにとっての資源は維持ないし増大し,学歴の低い女性の子どもにとっては不利に拡大している。筆者はこうしたトレンドの変化の要因としてフェミニズムの考えの浸透、出生コントロール技術の発展、労働市場の機会の変化、そして福祉政策の変化をあげている。そして、こうした格差の拡大に対して政府は手を打つべきであることを主張している。

Frank, D. J., A. Hironaka, and E. Schofer. 2000. “The Nation-State and the Natural Environment Over the Twentieth Century.” American sociological review 96–116.

この論文では国民国家内における環境保護政策の進展の背景として、従来語られてきたような各国の国内要因ではなく、グローバルな要因を提示している。筆者らは国立公園の数や各国における環境省や環境保護法の設立が戦後になって急速に増加していることを指摘する。従来、これらの増加の要因は国内原因、例えば環境汚染への注目などによって説明されてきた。しかし、制度学派のMeyerの考えを受け継ぐ筆者らは、先進国を中心に見られるこのトレンドの変化に対して、各国がグローバルな環境保護のレジームに吸収されていったという仮説を提示する。

Our argument begins from the premise that blueprints for the nation-state are drawn in
world society (Meyer, Boli, et al.1997).This means that rule-like definitions establishing what the nation-state is, what it can do, and how it can relate to other entities are organized and established globally. This has always been true to some extent, but it has become increasingly so with the proliferation of international organizations, treaties, and other forms of globalization (Anderson 1991; Robertson 1992; Ruggie 1993; Smith, Chatfield, and Pagnucco 1997)…. These blueprints include the growing number of action plans produced by international environmental governmental and nongovernmental organizations, the in- creasing variety of recommendations made by international policy experts, and the expanding set of guidelines issued by natural scientists (Caldwell1990;McCormick 1989). The proliferation of protective blueprints by no means eradicates destructive ones, many of which are associated with global capitalism (O'Connor 1998; Schnaiberg and Gould 1994). Nevertheless, an elaborate and consequential global environmental regime has emerged (Levy, Keohane, and Haas 1993; Zurn 1998). (以上本文より引用 p.100)

その上で、筆者らは独立変数として国内における環境保護のグローバルな制度下(国連の環境保護業務につくスタッフ数等)、環境保護系を除いた国際期間等への加盟、国内における環境団体・自然科学団体の数を用いる。従属変数には国定公園の数、国際環境保護団体の会合の数、環境保護系の国際機関への加盟、環境評価法の制定、環境省の設置を用いる。人口と鉄鋼産業を統制変数とした上で、筆者らはこうしたグローバル社会への国民国家の編入過程が環境保護政策の導入に影響したことを指摘する。