Bearman, P. S., J. Moody, and K. Stovel. 2004. “Chains of Affection: the Structure of Adolescent Romantic and Sexual Networks.” American journal of sociology 110(1):44–91.
この論文では、アメリカの中規模の高校に通学する生徒に18ヶ月に渡ってインタビュー調査を通じて、彼らのsexual networkを観察した。問いは、病気を広める性的なネットワークの構造がどのように生じるかという点にある。既存のSexual Transmitted Disease (STD)についての研究はエゴ・ネットワークやスノウボールサンプリングからのアプローチであり、これはローカルなネットワークの構造とその特徴を明らかにしてきたが、病気を広めるグローバルなネットワークの特徴については検討できないままであった。
最も単純な疫学的なモデルは、ランダムなネットワークを想定することだが、これは現実的ではない。そのため、STDには感染経路を理論化する三つのモデルが提唱されてきた。一つがCore Infection Networkである。これは文字通りネットワークの中心にいる人たちの性交渉によって病気が伝染していくというモデルである。中心と周縁が形成されるのは、セレクションの効果が働くためだ。しかし、このモデルは多くの文脈では当てはまらないことが分かっている。例えば、長距離バスの運転手がsex workersと性交渉をすることで感染が広まる場合、彼らは互いにつながっていない。このようなネットワークの密度が高くない場合の感染経路についてはinversed core infection networkというモデルが提唱されている。これはsex workerと買収客のように、役割が明確に分かれて、同じ役割のもの同士の間のネットワークがないことを想定している点で前者とは大きく異なっている。最後に、二つの全くつながりを持たないネットワークが、ブリッジ役となる人を通じてつながることで感染経路が広がるというBridge between disjoint populationのモデルがある。
しかし、この論文で観察されたネットワークは上記のいずれにも当てはまらないものだった。彼らはこれが樹脈の要に見えることからSpanning Treeと名付けている。このネットワークはノード同士の距離が他のどのモデルよりも長いと考えられる。redundancyとdensityも少ない。
この論文では、既存のモデルにおけるCoreの発想を批判している。観察されたデータには中心性の高いサークルはなかったからだ。その理由として、筆者らは少なくともこの高校においてはsecond partnershipを持つことが避けられるという社会規範があることを指摘する。これとホモフィリーの性質を組み合わせることでシミュレーションをした結果、観察されたネットワークに近いものが生み出された。パートナーを持つことが地位に関わる青年期の社会において、境界づけられた高校の中で彼らは互いに男女関係を監視している。大人の世界には見られないこの社会構造がネットワークを特徴付けていると結論づける。
May 17, 2014
The Quantitative Analysis of Large-Scale Data Sets and Rational Action Theory: For a Sociological Alliance(On Sociology 第6章)
彼が扱わない手法の検討をした前半とうってかわり、On Sociology vol1の後半は計量分析及び合理的選択理論の擁護をしている。特に、後者が社会学の問いを明らかにするために有効なツールになることが主張されている。これらを読んで感じたことを先に書いておくと、Gordthorpeは予想以上に計量分析と合理的選択理論の可能性について消極的であることに驚いた。特に、計量分析が往々にして変数主義に陥ってしまう点、及び合理的選択理論で全てが説明できると考えていない点は、自身の手法の限界について反省的になっていると思われる。それでも、これらの方法は彼にとって有効な道具なのだ。
まず、第6章の前半ではThe Quantitative Analysis of Large-Scale Data Sets(QDA, 大規模データの計量分析)が明らかにしようとしている問いへの答え方として、個人レベルに見せかけて実は変数間の関係を記述することでそれを説明しようとしているという点が批判される。この批判はAbbottのような計量分析を用いない社会学者だけでなく、ColemanやBoudonといった「内側」の人間からもされる。
Likewise, Boudon (1987: 61-62), taking the particular example of quantitative studies of social mobility and status attainment, has maintained that in these studies ‘the units of analysis are not individual but variables’. The influence of one variable to another — for example, of education on status attainment — is presented in some quantified form and then, typically, finding of this kind ‘will be considered final results’. In other words, no efforts is made to show how the statisticcal relations between variables derive from their ‘real’ causes, that is, the actions of individuals. (119)
つまり、学歴と職業達成の間に統計的に見て有為な関係が示唆されたとしても、それはStatistical Inferenceの域でそう推定されるだけであり、実際にどのようなメカニズムで両者が関係しているのかはブラックボックスのままである。両者の因果関係について個人レベルの因果関係を踏まえて説明をすることはCausal Inferenceと考えられるが、QDAができるのは因果を説明するための事実を提供することであり、理論的でよりsubstantiveなargumentが必要だというのだ。そして、Gordthorpeによれば、合理的選択理論(RAT)が現在提出されている唯一の理論的なツールだという。
RAT represents the only theoretical approach now on offer that has serious explanatory potential, at least at a macrosocial level. (124) (斜体は引用者による)
さらに、これに加えてRATがQDAにとってsiutableな理由が2つある。まずQDAのような大規模な社会調査では対象に対する「厚い記述」ができない。質問事項は制約される。しかし、RATは心理学的な認知や・現象学的な主体の意味などを必要としない(前者に関しては、必要にする場合もあると思われる)。RATの関心は、個人にとっての利益の計算から、ミクロとマクロをつなげることにあるからだ。次に、QDAにおける行為の記述(action narratives)は記述的(descriptive)にも説明的にもそれ単独ですべてを説明するべきではない。これは、計量分析の特徴は他の変数を統制した上である変数の影響力を測ることができる点にあり、決定論的な説明をとらないということを指していると思われる。そして、RATはマクロで見た時にサンプルに共通の規則性が見出すのに向いており、この点からも相性がいいとされる。
次に、両者の「同盟」がRAT側にも利益をもたらすことが主張される。RATの弱点として、その非現実性が指摘されてきた。これに対し、Gordthorpeは個人が完全に情報を把握している場合がないことも時として非合理な行動に出ることも認める。その上で、両者を組み合わせることによってRAT側も反論に応答しやすくなるとする。
主張には2つの前提がある。まず、合理性は個人レベルよりも集合レベルで見た時によく観察できるという点、次に、仮に集合レベルの行動が、全体的な規則性と個人間の小グループ間の差異の2つによるとする。このとき、例えグループ間で要因が異なろうとも、全体的な規則性が、それが例え弱くとも、観察できれば、それは集合レベルの行動にとって決定的であるという。従って、RATがQADによって確率的な規則性を認められれば、集合レベルの合理的行動の傾向を指摘できる。
しかし、近年RATに対しては別の批判が向けられている。すなわち、RATは理論の発展に関心を向ける一方で、経験的な研究への応用に乏しい点である。この区別は抽象的な理論構築のためにRATを用いるか、それとも経験的な研究における因果関係の同定に用いるかの区別である。そして、GordthorpeはこのRAT内における抽象化志向と経験的研究への応用という対立において、後者の側に立つ。抽象的な理論は経験的な知見による反証が不可能だからだ(hic Rhodus, hic salta!)。そして、RATの抽象化傾向を止め(とまではいわないが)、その本来の価値を取り戻すためにもQDAとの同盟が必要とする。
まず、第6章の前半ではThe Quantitative Analysis of Large-Scale Data Sets(QDA, 大規模データの計量分析)が明らかにしようとしている問いへの答え方として、個人レベルに見せかけて実は変数間の関係を記述することでそれを説明しようとしているという点が批判される。この批判はAbbottのような計量分析を用いない社会学者だけでなく、ColemanやBoudonといった「内側」の人間からもされる。
Likewise, Boudon (1987: 61-62), taking the particular example of quantitative studies of social mobility and status attainment, has maintained that in these studies ‘the units of analysis are not individual but variables’. The influence of one variable to another — for example, of education on status attainment — is presented in some quantified form and then, typically, finding of this kind ‘will be considered final results’. In other words, no efforts is made to show how the statisticcal relations between variables derive from their ‘real’ causes, that is, the actions of individuals. (119)
つまり、学歴と職業達成の間に統計的に見て有為な関係が示唆されたとしても、それはStatistical Inferenceの域でそう推定されるだけであり、実際にどのようなメカニズムで両者が関係しているのかはブラックボックスのままである。両者の因果関係について個人レベルの因果関係を踏まえて説明をすることはCausal Inferenceと考えられるが、QDAができるのは因果を説明するための事実を提供することであり、理論的でよりsubstantiveなargumentが必要だというのだ。そして、Gordthorpeによれば、合理的選択理論(RAT)が現在提出されている唯一の理論的なツールだという。
RAT represents the only theoretical approach now on offer that has serious explanatory potential, at least at a macrosocial level. (124) (斜体は引用者による)
さらに、これに加えてRATがQDAにとってsiutableな理由が2つある。まずQDAのような大規模な社会調査では対象に対する「厚い記述」ができない。質問事項は制約される。しかし、RATは心理学的な認知や・現象学的な主体の意味などを必要としない(前者に関しては、必要にする場合もあると思われる)。RATの関心は、個人にとっての利益の計算から、ミクロとマクロをつなげることにあるからだ。次に、QDAにおける行為の記述(action narratives)は記述的(descriptive)にも説明的にもそれ単独ですべてを説明するべきではない。これは、計量分析の特徴は他の変数を統制した上である変数の影響力を測ることができる点にあり、決定論的な説明をとらないということを指していると思われる。そして、RATはマクロで見た時にサンプルに共通の規則性が見出すのに向いており、この点からも相性がいいとされる。
次に、両者の「同盟」がRAT側にも利益をもたらすことが主張される。RATの弱点として、その非現実性が指摘されてきた。これに対し、Gordthorpeは個人が完全に情報を把握している場合がないことも時として非合理な行動に出ることも認める。その上で、両者を組み合わせることによってRAT側も反論に応答しやすくなるとする。
主張には2つの前提がある。まず、合理性は個人レベルよりも集合レベルで見た時によく観察できるという点、次に、仮に集合レベルの行動が、全体的な規則性と個人間の小グループ間の差異の2つによるとする。このとき、例えグループ間で要因が異なろうとも、全体的な規則性が、それが例え弱くとも、観察できれば、それは集合レベルの行動にとって決定的であるという。従って、RATがQADによって確率的な規則性を認められれば、集合レベルの合理的行動の傾向を指摘できる。
しかし、近年RATに対しては別の批判が向けられている。すなわち、RATは理論の発展に関心を向ける一方で、経験的な研究への応用に乏しい点である。この区別は抽象的な理論構築のためにRATを用いるか、それとも経験的な研究における因果関係の同定に用いるかの区別である。そして、GordthorpeはこのRAT内における抽象化志向と経験的研究への応用という対立において、後者の側に立つ。抽象的な理論は経験的な知見による反証が不可能だからだ(hic Rhodus, hic salta!)。そして、RATの抽象化傾向を止め(とまではいわないが)、その本来の価値を取り戻すためにもQDAとの同盟が必要とする。
May 16, 2014
Sociological Ethnography Today: Problems and Prospects (Goldthorpe, On Sociology vol1より)
このエッセイでは、Gordthorpeのエスノグラフィーに対する考え方が紹介されている。主張としては、エスノグラフィーもあくまで量的調査のpositivismを受け入れ、社会的プロセスの因果関係に対して検証可能な仮説生成を提供するべきだというものだ。エスノグラフィーの存在意義を否定してはいないが、それはあくまで量的な調査によって検証されなくてはならないとする点で、彼はポパーの反証主義的な立場に立っている。
まず、冒頭で、Gordthorpeは批判的合理主義の立場に立つことを表明する。
The argument that i wish to advance begins with the claim that the methods of inquiry that are used across the natural and the social sciences alike are informed by what might be referred to as a common logic of inference - a logic of relating evidence and argument. The application of this logic presupposes that a world exists independently of our ideas about it, and that, in engaging in scientific enquiry, we aim to obtain information, that extend beyond the data at hand, whether in a descriptive or an explanatory mode. (63)
Recognition of the logic of inference serves rather to ensure that, in the application of any particular method, as explicit an understanding as possible exists of the grounds on which inferences are made and conclusions may be subject to rational criticism. (64)
Gordthorpeはまず、近代国家黎明期における社会調査の発達の歴史を振り返る。フランス社会の労働者階級の生活を描いた Le Playの代表作 Les Ouvriers européens (1855)において、彼は社会ごと及び職業ごとに分類して57のモノグラフを完成させた。GordthorpeによればLa Play及び彼の支持者が依拠していたのは統計学の父と呼ばれるQueteletの「平均人」(l'homme moyen:社会で正規分布の中心に位置し平均的測定値を示す)のアイデアだったという。当時確率論は十分に発展していたから、人口統計から人間の身体的な特徴も自然現象と同じ正規分布に従うことを彼は明らかにした。そして、彼は分布の多様性を「誤差」として捉え、平均値に対して個々人の人間には決して還元することのできないイデア的な性格を与えた。この考えを敷衍すると、たった一個の事例でもそれが平均人に還元されない社会的な要因を持つという点で一般的な意義を持つことになる。
しかし、Queteletの「平均人」のアイデアはその後支持されなくなっていった。かわりにGaltonの統計学が支持を集めるようになってきた。Galtonの功績は、算術平均ではなく誤差や偏差に注目をした。彼の思想的な部分については割愛するが、両者の考えの違いを分かりやすい例で表すとすると格差の議論が当てはまるだろう(東大後期2006年の試験問題を参照)。Queteletのような「平均人」のアイデアからすると、いくら格差が拡大(サンプルの誤差が拡大)したところで、平均が変わらなければ多様性の変化には注目が向けられない。その一方で、偏差に関心を持ったGaltonからすれば、格差の拡大は社会の多様性が変化していることを捉える重要な指標となる。多様性への注目は、必然的に代表性のあるサンプリングの発達を促した。そして、エスノグラフィーにはそのような進歩はなかったとする。
以上のような歴史の変遷を概観した上で、Gordthorpeはエスノグラフィーにおける対象内の差異と対象間の差異の2つに関して、議論をしている。まず、対象内の差異についてGordthorpeは代表性を欠く以上、エスノグラフィーは対象内の差異について以下のような問題を抱えるという。
Since anything approaching total coverage will rarely be feasible, just who should be observed and questioned and, in turn, have their patterns of meaningful action and their understanding of the life-world of the locale recorded and, ultimately, analysed?
この、対象となるコミュニティや組織において、誰に注目するかについてはエスノグラフィーは満足のいく回答を今出せていないと批判する。例えば、統計的なサンプル抽出に基づく推論以外の方法を提起する考え、つまり質的分析のverisimilitude(真実らしさ)は読者の側に委ねられているという主張は主観的であり代表性を満たすものではない。さらに、Strauss and Corbinの理論的サンプリングについても理論が観察を支配するのみで、非代表的なサンプルからのバイアスは避けられないとする。
対象間の差異についても、エスノグラフィーの研究者たちは読み手の認識と調和していることを一般化の条件としてあげるという見方が紹介され,これも先ほどと同様の批判を受ける。次に、エスノグラフィーの対象間の一般化に対して、統計的な推論(statistical inference)とは異なる因果的な推論(causal inference)をすることでこれを克服しようとする考えに対しては、エスノグラファーがが結局は事実と離れた理論から考えて十分かどうかという基準でしかそれを判断できないと批判される。
最後に、Gordthorpeはエスノグラフィーがもつ一方で量的調査では削られてしまう分析対象のコンテクスト性について考察する。質的研究者の研究は対象における要因間の社会的プロセスが実際にどのように生じているかを明らかにする。しかし、GordthorpeはこれもHedstromらのCausal Mechanismの研究の一つに過ぎないと論じる。その上で、彼はエスノグラフィーは経験的なテストに耐えられる仮説を提供することで量的調査の補助として役に立つとする。すなわち、読み手の解釈や理論的な飽和といったデータそのものに重きを置けない視点を拒否した上で、Mixed Methodsのように質的調査を量的調査のサポートとして使う可能性を提起している。つまり、社会的プロセスの仮説生成のための一つとしてならば、エスノグラフィーは役に立つというのだ。
まず、冒頭で、Gordthorpeは批判的合理主義の立場に立つことを表明する。
The argument that i wish to advance begins with the claim that the methods of inquiry that are used across the natural and the social sciences alike are informed by what might be referred to as a common logic of inference - a logic of relating evidence and argument. The application of this logic presupposes that a world exists independently of our ideas about it, and that, in engaging in scientific enquiry, we aim to obtain information, that extend beyond the data at hand, whether in a descriptive or an explanatory mode. (63)
Recognition of the logic of inference serves rather to ensure that, in the application of any particular method, as explicit an understanding as possible exists of the grounds on which inferences are made and conclusions may be subject to rational criticism. (64)
Gordthorpeはまず、近代国家黎明期における社会調査の発達の歴史を振り返る。フランス社会の労働者階級の生活を描いた Le Playの代表作 Les Ouvriers européens (1855)において、彼は社会ごと及び職業ごとに分類して57のモノグラフを完成させた。GordthorpeによればLa Play及び彼の支持者が依拠していたのは統計学の父と呼ばれるQueteletの「平均人」(l'homme moyen:社会で正規分布の中心に位置し平均的測定値を示す)のアイデアだったという。当時確率論は十分に発展していたから、人口統計から人間の身体的な特徴も自然現象と同じ正規分布に従うことを彼は明らかにした。そして、彼は分布の多様性を「誤差」として捉え、平均値に対して個々人の人間には決して還元することのできないイデア的な性格を与えた。この考えを敷衍すると、たった一個の事例でもそれが平均人に還元されない社会的な要因を持つという点で一般的な意義を持つことになる。
しかし、Queteletの「平均人」のアイデアはその後支持されなくなっていった。かわりにGaltonの統計学が支持を集めるようになってきた。Galtonの功績は、算術平均ではなく誤差や偏差に注目をした。彼の思想的な部分については割愛するが、両者の考えの違いを分かりやすい例で表すとすると格差の議論が当てはまるだろう(東大後期2006年の試験問題を参照)。Queteletのような「平均人」のアイデアからすると、いくら格差が拡大(サンプルの誤差が拡大)したところで、平均が変わらなければ多様性の変化には注目が向けられない。その一方で、偏差に関心を持ったGaltonからすれば、格差の拡大は社会の多様性が変化していることを捉える重要な指標となる。多様性への注目は、必然的に代表性のあるサンプリングの発達を促した。そして、エスノグラフィーにはそのような進歩はなかったとする。
以上のような歴史の変遷を概観した上で、Gordthorpeはエスノグラフィーにおける対象内の差異と対象間の差異の2つに関して、議論をしている。まず、対象内の差異についてGordthorpeは代表性を欠く以上、エスノグラフィーは対象内の差異について以下のような問題を抱えるという。
Since anything approaching total coverage will rarely be feasible, just who should be observed and questioned and, in turn, have their patterns of meaningful action and their understanding of the life-world of the locale recorded and, ultimately, analysed?
この、対象となるコミュニティや組織において、誰に注目するかについてはエスノグラフィーは満足のいく回答を今出せていないと批判する。例えば、統計的なサンプル抽出に基づく推論以外の方法を提起する考え、つまり質的分析のverisimilitude(真実らしさ)は読者の側に委ねられているという主張は主観的であり代表性を満たすものではない。さらに、Strauss and Corbinの理論的サンプリングについても理論が観察を支配するのみで、非代表的なサンプルからのバイアスは避けられないとする。
対象間の差異についても、エスノグラフィーの研究者たちは読み手の認識と調和していることを一般化の条件としてあげるという見方が紹介され,これも先ほどと同様の批判を受ける。次に、エスノグラフィーの対象間の一般化に対して、統計的な推論(statistical inference)とは異なる因果的な推論(causal inference)をすることでこれを克服しようとする考えに対しては、エスノグラファーがが結局は事実と離れた理論から考えて十分かどうかという基準でしかそれを判断できないと批判される。
最後に、Gordthorpeはエスノグラフィーがもつ一方で量的調査では削られてしまう分析対象のコンテクスト性について考察する。質的研究者の研究は対象における要因間の社会的プロセスが実際にどのように生じているかを明らかにする。しかし、GordthorpeはこれもHedstromらのCausal Mechanismの研究の一つに過ぎないと論じる。その上で、彼はエスノグラフィーは経験的なテストに耐えられる仮説を提供することで量的調査の補助として役に立つとする。すなわち、読み手の解釈や理論的な飽和といったデータそのものに重きを置けない視点を拒否した上で、Mixed Methodsのように質的調査を量的調査のサポートとして使う可能性を提起している。つまり、社会的プロセスの仮説生成のための一つとしてならば、エスノグラフィーは役に立つというのだ。
May 15, 2014
Le temps tranquille (ゴールドソープについて)
John GoldthorpeのOn Sociology (2006)は彼の社会学観を表した二巻本となっている。当初、彼はイギリスの社会移動に関心を持っていたが(さらにその以前は「豊かな労働者」のテーゼに関心を持っていた)、日本を含めた産業諸国の社会移動の国際比較についての本 The Constant FluxをRobert Eriksonと執筆してからは、もっぱら合理的選択理論を用いて階級間の不平等がなぜ再生産されるかを論じている。この本は社会学の方法論についての彼なりの考えと、それを踏まえた上での合理的選択理論の優位性を訴えている。
私個人としては、彼を単独で読むことはイギリスにおいて彼がどのように評価されているかという文脈を排除してしまうことになるので、あまりいい考えだとは思わない。Affluent Worker はまだしも、中期の代表作 Social Mobility and Class Structure in Modern Britain (1987)はMarshall at al. Social Class in Modern Britain (1989)と比べて読まねばならないだろうし、他にも彼のメリトクラシーの議論についてはSaundersの論文と比較しなければならないし、女性の階級的な地位についてはHeathらの反論も重要である。合理的選択理論に傾斜してからは、彼が依拠していると考えられるBoudonやHedströmのAnalytical Sociologyの議論枠組み、彼に異を唱えるDevineやAtkinson, Savageらのブルデュー派の議論が比較として不可欠になってくると思われる。順番が前後するが、Pakulski and Watersによるいわゆる「階級の死」の主張がGoldthorpeの議論に向けられたものであることは間違いない。彼が同僚のChanと取り組んでいる階級と文化消費の関係についても、アメリカのPeterson, Bryson及びイギリスのWardeやBennetの議論が下敷きになっている。また、彼の階級分析を他の理論と比べる時、それは経済的な資源に基礎を置いたネオ・ヴェーバリアン的なものになるが、階級分析の理論的立場としては他に neo-Marxist (Wright), neo-Durkheimian (Grusky) Bourdieu’s Class Analysis (Weiningerなど), Rent-based class analysis (Sørensen)などがある(詳しくはWright編集のApproaches to Class Analysisが詳しい。無料で入手可能。)
良くも悪くも、Goldthorpeは論争好きで、自分の言ったことを曲げずに通そうとするあまり、結果として以前と一貫しない主張をすることも少なくない。その分、非常に多くの好敵手が生まれることになり、結果としてイギリスの社会学が豊かになった側面もあるように思われる(例えばSavageらのGBCSはGoldthorpeへの強烈なアンチテーゼになっている)。しかし、それは必ずしも彼が現在のイギリスで評価されているということを意味しない。なぜかと言えば、イギリスでは彼の合理性に重きを置いた抽象的な理論は忌避されている。そのような前提を踏まえた上で、On Sociologyにある論文を読む方がよいだろう。
前置きが長くなったが、この本の各章は半分程度が既に雑誌に掲載されたものを若干修正して再掲されている。特に第一巻は2章から9章までのうち6章分が既出の論文なので、買う必要はないだろう。書き下ろしが多い第二巻は買ってもいいかもしれない。以下、リンクと引用数(google scholar)付きで載せておく。
Vol. 1
Ch.2
Goldthorpe, J. H. (1991). The uses of history in sociology: reflections on some recent tendencies. British Journal of Sociology, 211-230.
http://www.jstor.org/stable/590368?__redirected
引用数 187
Ch.3
Goldthorpe, J. H. (1997). Current issues in comparative macrosociology: A debate on methodological issues. Comparative social research, 16, 1-26.
http://poli.haifa.ac.il/~levi/res/pitfallg.rtf
引用数 248
Ch.4
書き下ろし
Ch.5
Goldthorpe, J. H. (2002). Globalisation and social class. West European Politics, 25(3), 1-28.
http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/.U3UEHtw_Jj0
引用数 127
Ch.6
Goldtborpe, J. H. (1996). The quantitative analysis of large-scale data-sets and rational action theory: for a sociological alliance. European Sociological Review, 12(2), 109-126.
http://esr.oxfordjournals.org/content/12/2/109.short
引用数 125
Ch.7
Goldthorpe, J. H. (1998). Rational action theory for sociology. The British Journal of Sociology, 49(2), 167-192.
http://www.jstor.org/stable/591308
引用数 226
Ch.8
書き下ろし
Ch.9
Goldthorpe, J. H. (2001). Causation, statistics, and sociology. European Sociological Review, 17(1), 1-20.
http://esr.oxfordjournals.org/content/17/1/1.short
引用数 191
Vol.2
Ch.2
Goldthorpe, J. H. (1996). Class analysis and the reorientation of class theory: the case of persisting differentials in educational attainment. British Journal of Sociology, 481-505.
http://www.jstor.org/stable/591365
引用数 581
Ch.3
Breen, R., & Goldthorpe, J. H. (1997). Explaining educational differentials towards a formal rational action theory. Rationality and society, 9(3), 275-305.
http://rss.sagepub.com/content/9/3/275.short (確か東大のアカウントからだと落とせなかったはず。)
引用数 1135
Ch.4-9
書き下ろし
私個人としては、彼を単独で読むことはイギリスにおいて彼がどのように評価されているかという文脈を排除してしまうことになるので、あまりいい考えだとは思わない。Affluent Worker はまだしも、中期の代表作 Social Mobility and Class Structure in Modern Britain (1987)はMarshall at al. Social Class in Modern Britain (1989)と比べて読まねばならないだろうし、他にも彼のメリトクラシーの議論についてはSaundersの論文と比較しなければならないし、女性の階級的な地位についてはHeathらの反論も重要である。合理的選択理論に傾斜してからは、彼が依拠していると考えられるBoudonやHedströmのAnalytical Sociologyの議論枠組み、彼に異を唱えるDevineやAtkinson, Savageらのブルデュー派の議論が比較として不可欠になってくると思われる。順番が前後するが、Pakulski and Watersによるいわゆる「階級の死」の主張がGoldthorpeの議論に向けられたものであることは間違いない。彼が同僚のChanと取り組んでいる階級と文化消費の関係についても、アメリカのPeterson, Bryson及びイギリスのWardeやBennetの議論が下敷きになっている。また、彼の階級分析を他の理論と比べる時、それは経済的な資源に基礎を置いたネオ・ヴェーバリアン的なものになるが、階級分析の理論的立場としては他に neo-Marxist (Wright), neo-Durkheimian (Grusky) Bourdieu’s Class Analysis (Weiningerなど), Rent-based class analysis (Sørensen)などがある(詳しくはWright編集のApproaches to Class Analysisが詳しい。無料で入手可能。)
良くも悪くも、Goldthorpeは論争好きで、自分の言ったことを曲げずに通そうとするあまり、結果として以前と一貫しない主張をすることも少なくない。その分、非常に多くの好敵手が生まれることになり、結果としてイギリスの社会学が豊かになった側面もあるように思われる(例えばSavageらのGBCSはGoldthorpeへの強烈なアンチテーゼになっている)。しかし、それは必ずしも彼が現在のイギリスで評価されているということを意味しない。なぜかと言えば、イギリスでは彼の合理性に重きを置いた抽象的な理論は忌避されている。そのような前提を踏まえた上で、On Sociologyにある論文を読む方がよいだろう。
前置きが長くなったが、この本の各章は半分程度が既に雑誌に掲載されたものを若干修正して再掲されている。特に第一巻は2章から9章までのうち6章分が既出の論文なので、買う必要はないだろう。書き下ろしが多い第二巻は買ってもいいかもしれない。以下、リンクと引用数(google scholar)付きで載せておく。
Vol. 1
Ch.2
Goldthorpe, J. H. (1991). The uses of history in sociology: reflections on some recent tendencies. British Journal of Sociology, 211-230.
http://www.jstor.org/stable/590368?__redirected
引用数 187
Ch.3
Goldthorpe, J. H. (1997). Current issues in comparative macrosociology: A debate on methodological issues. Comparative social research, 16, 1-26.
http://poli.haifa.ac.il/~levi/res/pitfallg.rtf
引用数 248
Ch.4
書き下ろし
Ch.5
Goldthorpe, J. H. (2002). Globalisation and social class. West European Politics, 25(3), 1-28.
http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/.U3UEHtw_Jj0
引用数 127
Ch.6
Goldtborpe, J. H. (1996). The quantitative analysis of large-scale data-sets and rational action theory: for a sociological alliance. European Sociological Review, 12(2), 109-126.
http://esr.oxfordjournals.org/content/12/2/109.short
引用数 125
Ch.7
Goldthorpe, J. H. (1998). Rational action theory for sociology. The British Journal of Sociology, 49(2), 167-192.
http://www.jstor.org/stable/591308
引用数 226
Ch.8
書き下ろし
Ch.9
Goldthorpe, J. H. (2001). Causation, statistics, and sociology. European Sociological Review, 17(1), 1-20.
http://esr.oxfordjournals.org/content/17/1/1.short
引用数 191
Vol.2
Ch.2
Goldthorpe, J. H. (1996). Class analysis and the reorientation of class theory: the case of persisting differentials in educational attainment. British Journal of Sociology, 481-505.
http://www.jstor.org/stable/591365
引用数 581
Ch.3
Breen, R., & Goldthorpe, J. H. (1997). Explaining educational differentials towards a formal rational action theory. Rationality and society, 9(3), 275-305.
http://rss.sagepub.com/content/9/3/275.short (確か東大のアカウントからだと落とせなかったはず。)
引用数 1135
Ch.4-9
書き下ろし