Upright, C. (2004) Social Capital and Cultural Participation, Poetics 32, 129-43.
この論文では、ソーシャルキャピタル(ネットワークの効果)と文化参加の関係について、特に夫婦関係に焦点を当てて検討をしている。筆者は三つの仮説を設定する。一つ目が芸術参加に対するパターンはmarital selectionに影響する。二つ目が芸術参加はネットワークの影響を受ける。また、配偶者の教育レベルと芸術への社会化の度合いが本人の文化参加に影響を与える。三つ目が芸術参加は主に妻によって決定され、夫はきっかけを与える(妻の教育レベルと芸術への社会化の度合いが高い夫は配偶者が参加する場合に限って自分も参加する。)分析の結果、配偶者の参加は配偶者の社会経済的な背景(教育達成と芸術に関する社会化)は本人の文化参加に影響し、これは配偶者の文化参加を統制しても残る(つまり、本人一人で芸術参加する確率も高める)。また、本人の文化参加に対して、妻が夫から受ける影響よりも、夫が妻から受ける影響がより強いことが分かった。
Kane, D. (2004) A Network Approach to the Puzzle of Women’s Cultural Participation, Poetics 32, 105-27.
この論文では、GSSのculture module及びnetwork moduleの質問を参考に、大学生を対象にオリジナルな調査を行い、ネットワークとジェンダーが文化参加に対して与える影響について検討されている。この論文では、一般的な文化参加に対してinteraction ritualという理論を加えることでそれを二つに分けている。interaction ritualによるとネットワークの密度は集合的な文化参加によって生まれる連帯の影響を受けるとされる。その上で、筆者は文化参加を通常みられるHigh cultureとその他に分ける区分に加え、スポーツ参加、コンサート、ダンスの三つを連帯を生む文化参加と定義してネットワークの密度と関係すると考える。分析の結果、前述の仮説は支持された。加えて、ネットワークの異質性はHigh cultureへの参加にポジティブな影響を与える。最後に、異質性の効果は男性よりも女性に対して大きいことが分かった。
Erikson, B. (1996) Culture, Class and Connections, American Journal of Sociology 102(1), 217-51.
この論文では、はじめにブルデューの階級論について検討する。経済資本と文化資本の二種類が二次元的に階級を構成すること、これがフィールドによって異なって分布していることが述べられる。その上で、筆者はブルデューがこのモデルでは三つ目の資本、すなわちソーシャルキャピタルについて言及していないことを指摘する。筆者はこの論文で、文化に影響するのは階級よりもネットワークであることを主張する。
次に、筆者はブルデューの地位と一致した文化の主張を否定する。先行研究より、社会的地位の高い人々であればhigh cultureを消費する傾向にはあるが、階級と文化の対応があるとまでは言えない。むしろ、地位の高い人ほど文化的雑食になっているとの知見から、重要なのはtasteよりもむしろ文化に対する知識であり、より多くの文化に対する理解があるかであるとする。
さらに、ブルデューは階級とフィールドの重要性について指摘するが、彼の調査からはフィールド内の闘争が見られないとする。そこで、筆者は企業というフィールドを選び、そこでの文化と階級、そしてネットワークの関係について検討する。その際に、文化のどの部分が触媒の階級構造の中で働くかを考えなくてはならない。これに対して、筆者はブルデューのdominationとcoodinationという概念からヒントを得る。dominationとは、高い階級は低い階級に比べて権力や権威を持つというシンプルな考えだが、筆者は企業内で文化資本を持つものが有利な立場に立つことを示唆する。その上で、企業内で効果を持つのはプライベートな高級文化よりも企業文化であるとする。次に、会社の支配者は様々なランクの人のやる気を出させなくてはならない。そして、これは階級を超えた共有された文化の必要性を示唆する。例えば、スポーツは全ての階級に対して共有される文化だが、これは同時に女性と海外で生まれた人をインフォーマルなネットワークから排除するという。
調査はトロント市内の警備会社(約半分が調査に協力)を対象に行われた。まず、階級ごとの文化を見ると、高い地位の人ほど高級紙やメインストリームの芸術に対する知識があるが、逆にesoteric(誰も知らないような)な文化については階級間に違いはなかった。ポピュラーなスポーツやチェーンのレストランは階級間に特に違いが見られない。以上から、経済資本が重要視されるフィールである企業においては、文化資本に対する知識は限定的なものだった。次に仕事中に置ける同僚との共通の話題(趣味)に関しては、芸術など高級文化を答えるものはほとんどおらず、仕事の話題についでいちばん人気だったのはスポーツであり、これに階級差は見られなかった。
次に、ネットワークの多様性と階級の関係が議論される。ネットワークの多様性はより文化差との関連を見出すために職業威信ではなくライトの階級論に準じた階級を知っているかどうかにされている。その結果、高い階級の人の方がより多くの友人との紐帯を結んでいることが分かった。最後に、仮説の通り、ネットワークの多様性が文化の耐用性に与える影響は階級よりも大きかった。
Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2005. “The Social Stratification of Theatre, Dance and Cinema Attendance.” Cultural Trends 14(3):193–212.
この論文で筆者たちは、2001年にイングランド全国を対象とした(Arts council Englandにかわって)ONSが行った調査の二次分析を通じて、イギリスにおける文化と階級・地位(及び教育)の関係について議論している。特に、この論文ではタイトルの通り映画やダンスの消費を対象とする。筆者らは、ブルデューらが主張する階級と文化的嗜好が一致すると考えるHomology thesis及び、文化的嗜好と消費がどんな社会的な基礎を持たないようになるというIndividualization thesis、そしてあらゆる文化を嗜好する層と単独の(ポピュラー文化)を嗜好する層に分化するというunibore-omnivore thesisの三つを紹介する。
分析に入る前に、筆者らはウェーバーの理論に依拠して、経済的な不平等から構成される階級と間主観的な評価から構成される地位の二つを概念として採用する。分析を通じて、文化はブルデューが主張したような階級に左右されることはなく、地位との関連が見られることが分かった。地位以外にも、教育が文化的嗜好との関連を持つ。latent class analysisの結果、対象となった文化消費は二つのlatent class に分かれることが分かり、これはPetersonらが主張したunibore-omnivore thesisに対応する。具体的には、地位が高い人ほど文化的に雑食(omnivore)になる。uniboreは高級文化ではなくポピュラー文化を嗜好する。階級の効果やlatent classの数などで音楽とは若干結果が異なっているが、基本的には上記の理論を支持する結果となっている。
Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2007d. “The Social Stratification of Cultural Consumption: Some Policy Implications of a Research Project.” Cultural Trends 16(4):373–84.
一連の文化的嗜好と階級・地位の関係の調査を終えて、著者の二人がこの研究の政策的なimplicationについて議論している。(ちなみに、なぜこの調査を二次分析したか、その意義を序盤で書いているのがお手本なのでぜひ詠んでほしい。)論文は三つのパートに分かれている。はじめに、調査の結果文化はエリート対大衆というこれまで考えられてきた構図ではなくunibore-omnivore の対立だということ、次に、階級と地位は分析からは一致したランクの分布を示されず、階級が上層でも多くのunivoreが見られることが分かったことが報告される。最後に、文化的嗜好の分断は階級ではなく地位、及び教育程度によって左右されることが述べられる。最後に、こうした分析結果から二つの知見が紹介される。第一に、文化的嗜好以外にも、家の所有や休日の少し型など、より物質的なライフスタイルと地位の関連が考えられることが述べられる。第二に、仮に文化的嗜好を全般的に上昇させようと政府が考えるのあれば、地位と関連が考慮されるべきではないか、及び、地位レベルでの格差を本当に取り除けるのかを問うている。
Faulkner, D. 2004. Civil Renewal, Diversity and Social Capital in a Multi-Ethnic Britain.
Fieldhouse, E., and D. Cutts. 2010. “Does Diversity Damage Social Capital? a Comparative Study of Neighbourhood Diversity and Social Capital in the US and Britain.” Canadian Journal of Political Science 43(2):289–318.
この論文では、米英のデータの比較を通じて、エスニシティ間における人種の多様性と信頼の関係の違いについて考察している。紛争仮説と接触仮説に加えて、筆者らは多様性は白人のSC(信頼と社会参加)醸成にマイナスに働く、及びマイノリティグループにおいてSCと多様性の交互作用が見られるという仮説を設定した。交互作用に関しては、信頼に関してはイギリスのデータからは概ね仮説を支持する結果が導かれた。ただしアメリカデータに関しても傾向としては白人においては信頼と多様性のネガティブな関係、そしてそれがマイノリティには当てはまらないことが分かっている。社会参加に関しては両国で白人ではなくマイノリティBlack britishにおける多様性とのネガティブな関係が見られるが、アメリカに関しては近隣レベルの変数を投入することで相殺され、交互作用の仮説はイギリスのデータで支持された。
Li, Y., M. Savage, and A. Warde. 2008. “Social Mobility and Social Capital in Contemporary Britain.” The British Journal of Sociology 59(3):391–411.
この論文では、civic engagementとインフォーマルなつながりが社会移動の過程とどのような関係にあるのかを分析している。インフォーマルなつながりはイギリスのデータでは初めてLinのposition generatorを用いて分析された。分析の結果、インフォーマルなつながりへのアクセスは社会移動の過程と密接な関係を持つこと、またcivic engagementは親と同じくサービスクラスだったものにおいて特に高い値を示すこと、社会移動の過程と二つのSCは信頼に影響を与えること、ブリッジングSCの欠如は低階層だけではなく、女性やマイノリティのグループにも見られることが分かった。社会移動の過程とは、親世代に比べて、上昇移動を果たしたもの、下降移動だったもの、変わらなかったものを指す。分析では、継続してワーキングクラスだったものに比べて、他の全ての信頼が高くなる傾向になり、解釈が難しいかもしれない。分析では、最後がサービスクラスとワーキングクラスの二つに分類されている。また、ブリッジングSCとしてはコンタクトの地位の平均や距離(幅)が用いられているが、これを見ても、女性がそうしたSCを持たないとは言えないような気がする。組織への参加は階級間でその種類が大きく異なるだろうし、このような調査は重要だろう。
Putnam, R. D. 2007. “E Pluribus Unum: Diversity and Community in the Twenty‐First Century the 2006 Johan Skytte Prize Lecture.” Scandinavian Political Studies 30(2):137–74.
パットナムは今度はエスニシティの多様性とSCの関係について言い出した!パットナムはボンディングとブリッジングの区別をこの分野に応用して、接触仮説からは多様性(正確には異なるバックグラウンドの人とのインタラクション)がin-groupとout-groupの区別が無くなるという想定が導け、紛争仮説からはin-group内のボンディングSCが醸成されるという想定が導かれる。パットナムによれば、先行研究の知見は紛争仮説を支持するものだが、これらの研究はout-groupに対する姿勢のみをたずね、in-groupへの姿勢はそれに反転するという暗黙の前提を置いていたとする。パットナムはconstrict theory、すなわちエスニシティの多様性はin-groupとout-group双方の信頼を衰退させるという仮説を提示し、実証データを用いてこれが支持できると論ずる。
パットナムの論文は、仮説レベルではコンタクトから信頼が形成されるとしているものの、分析のレベルでは、信頼と多様性のみの関係を扱っており、接触仮説の想定を無視していると言わざるを得ない。他にも、均質性の信頼に対するポジティブな効果は確認されているものの、これは教育の与える効果より小さく、変数の重要性に関する議論を省略しているため説得力に欠ける。また、エスニシティの多様性とcivic engamgementのネガティブな関係についても、先行研究同士で意見が対立する箇所を無視してるなど、色々と問題はある。
Stolle, D., S. Soroka, and R. Johnston. 2008. “When Does Diversity Erode Trust? Neighborhood Diversity, Interpersonal Trust and the Mediating Effect of Social Interactions.” Political Studies 56(1):57–75.
この論文では、エスニシティの多様性がコミュニティの結束(Community cohesion)に与える影響を米加のデータを用いて検証している。このトピックを巡っては、集団内で自分と異なるバックグラウンドを持つ他者と交流(インタラクション)することで集団外にもその効果が波及するという接触仮説と近隣環境において人種の多様性が増すことが信頼の低下を招くというコンテクスト仮説が対立する形で存在している。このような矛盾した仮説が生じる訳は、既存のデータでは都市レベルでのコンテクスト効果しか測れず、地区レベルでのコンテクスト効果、及びインタラクションの側面を見逃しているという説明が存在する。この論文ではセンサスデータを用いて地区レベルの多様性を測ることに成功している。
分析の結果、米加両方のデータで回答者がマイノリティの場合に信頼が低くなること、及び対象者の周りの人種の多様性は両国、特にカナダのデータで信頼に対してネガティブに働くこと、カナダのみにおいてインタラクションがポジティブな効果を持つことが分かった。個人レベルのネットワークを調査したアメリカデータの分析(対象はマジョリティのみ)から、地区レベルでの多様性は個人のネットワークに置ける多様性の変数を投入することで有意ではなくなる。また、近隣の多様性と近隣との会話が交互作用を持つことが分かり、インタラクションを持たない人は、近隣の人種の多様性は信頼に対してマイナスに働く一方、近隣の人と話す人にとっては人種の多様性はマイナスには働かないことが分かった。このように、接触仮説の有意性を説く論文と考えられる。
Uslaner, E. M. 2011. “Trust, Diversity, and Segregation in the United States and the United Kingdom1.” Comparative Sociology 10(2):221–47.
この論文では、エスニシティの多様性ではなく、居住の分離segregationが一般的信頼を低下させるものだと主張する。筆者はsegregationがin goroupの信頼を高めてout groupの信頼を低めると主張する点で、紛争仮に近い考えを持っていると思われる。筆者はアメリカのデータと、これに比べればsegregationが起こっていないと考えられるイギリスのデータを用いて比較分析をする。プロビット回帰に交互作用項を投入しているため解釈が難しい(上に、交互作用効果を図にしていないため理解が難しい)が、筆者によれば、多様性は全回答者をサンプルにした場合及び、白人の時に信頼に対してマイナスに働く。さらに、segregationと多様性には交互作用が確認され、多様性があり統合されているとに比べ、ただ統合されている都市に置ける信頼は低くなることが分かった。ただし、対象を全回答者ではなく特定のエスニシティにした時に効果は消え、さらに交互作用項同士の多重共線性もあるためだとされる(じゃあ載せるなと言いたくなるが。。。)また、どのエスニシティに関しても、友人ネットワークと多様性の交互作用が確認され、統合されている地区でたような友人関係を築くことは信頼の醸成に寄与することが分かった。これらの結論を持って、多様性ではなくsegregationの重要性を訴えているが、分かりにくいところも多く理解に苦しむ。。。
Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2006. “Social Stratification and Cultural Consumption: Music in England.” European Sociological Review 23(1):1–19.
この論文では、イギリスにおける文化消費の事例として音楽を対象に分析を試みている。分析の結果は彼らの一連の研究と同じく、omnivore thesisを支持するものであるが、結論部では特にhomogolgy thesisを否定するものとして、文化的エリートが潜在クラス分析から見出されなかったこと、およびunivoreの文化志向を持っているものの社会的地位が高かったことが述べられている。
Portes, A., & Vickstrom, E. 2011. Diversity, social capital, and cohesion. Annual Review of Sociology, 37, 461-479.
この論文では、パットナムが主張したエスニシティの多様性とSCのネガティブな関係について因果的な問題から出発して批判的な検討をしている。まず、SCとその結果とパットナムが主張している5つの変数の関係が検討され、それらの一部が見せかけの相関であることが示唆される。統制変数を設けた分析から、テストスコア、貧困率、一人親の世帯率に対してSCは効果を持たず、経済的不平等のみが因果的に見せかせではないことが示唆されている。特に、貧困率のような問題に対してはSCではなく経済的不平等のような構造的な変数の方が影響力を持つという主張は説得的だ。次に、州レベルのSCを従属変数にした分析から、経済的不平等は有意な値を示さず、その代わりに大学生の比率がプラスに、黒人の割合がマイナスに、スカンジナビア系移民の割合がプラスに働くことが分かった。特に最後の箇所は移民という歴史的な変遷の詳細を見ていくとasociational lifeの度合いに違いがあることを示唆している。次に、ポルテスらはパットナムのエスニシティの多様性とSCの関係について、経験的な証拠に乏しいこと、さらに多様性ではなく、コミュニティの構造的な不平等やsegregationがSCに影響を与えていると見るべきだとする。最後に、ポルテスらは、デュルケムの有機的連帯、機械的連帯の違いとコミュニタリアニズムの有無から4つのセルを作り出し、パットナムらが理想とするコミュニタリア二スティックな社会は、デュルケムが機械的連帯の概念で説明したような、均質的で誰もがお互いを見知っているような伝統社会に近いことを示唆する。筆者らは分業と個人主義が進んだとしても、それらをまとめあげるようなinstitutionが存在する社会では有機的連帯が成り立つことを主張し、パットナムの主張を相対化している。移民の増加がもたらす影響を否定的に見たパットナムらのイデオロギー性を批判する重要な論文。
Laurence, J. (2013). Reconciling the contact and threat hypotheses: does ethnic diversity strengthen or weaken community inter-ethnic relations?. Ethnic and Racial Studies, (ahead-of-print), 1-22.
この論文では、エスニシティの多様性が人種間への態度を悪化させるという主張に対して提出された接触仮説と紛争仮説の検討を行っている。筆者は分析から、多様性の増加は二つの仮説が想定した事態をともに起こす可能性を示唆する。たしかに、多様性の増加は人種の違いを尊重するか、異なるバックグラウンドのものと上手く遣って行けるかなどの意見に対してネガティブに働き、コミュニティ内の非白人の比率が上がるにつれその効果も大きくなるがが、これは異なるエスニシティとつながりを持たないものだけであるという。個人のコンタクトがコミュニティの多様性がもたらすネガティブな側面を減少させるが、コミュニティが構造的な不平等にさらされている場合、両者の差は大きくなる。構造的な不平等がないコミュニティの場合、非白人の割合が増加してもコンタクトの有無が持つ違いは大きくないが、不平等がある場合には、脅威仮説が成立することが示唆されている。
Laurence, J. (2013). “Hunkering Down or Hunkering Away?” The Effect of Community Ethnic Diversity on Residents' Social Networks. Journal of Elections, Public Opinion & Parties, 23(3), 255-278.
この論文では、コミュニティにおけるエスニシティの多様性がSCにネガティブな影響を与えるというパットナムのHunkering down仮説に対して、批判的な検討を加えている。筆者は、これまでの先行研究がattitudinalなSCに限った、しかもそれが近隣に対するものに限っていたことを批判する。その上で、分析では社会ネットワークという行動的な側面を追加し、(1)多様性の増加は社会的ネットワークにも影響を与えるか(2)多様性の増加は社会ネットワーク全体か、それとも近隣のネットワークを衰退させるか、以上の二つを検討している。分析の結果、多様性は近隣レベルでの信頼とネットワークを衰退させるが、個人のネットワーク全体には影響を及ぼさない。人種が多様なコミュニティに住むものはネットワークのサイズは均質的なコミュニティと変わらないが、近隣を中心としたネットワークを持たないということだ。ただし、これは個人の移動する能力に依存していることが示唆され、多様性のある地域にいる高齢者は広範なネットワークを構築しづらいことが指摘される。