Gilmore, S. (1988) Schools of Activity and Innovation, Sociological Quarterly 29(2), 203-19.
この論文では、芸術のイノベーションにおけるschools of activityの持つ役割について、コンサートを事例に議論している。まず筆者はこの問題に対する従来の議論が政治学的、心理学的な視点に偏っていたことを批判する。その上で、コンサートに携わる専門家はそれぞれschools of activityという実践の過程で維持されるconventionを持つと論じる。このような集合的な美的性向を演奏者たちはアイデンティティとしてもちながら音楽の実践を営んでいる。イノベーションに対する関心に影響を与えるconventionは質的に異なるというものではなく、程度の問題であるとする。コンサートの事例では、ホールごとに異なるsub-worlds(どのようなジャンルの音楽を得意とするか、イノベーションに対する姿勢)が異なり、これに対応する形で演奏者たちは仕事を得ていく。仕事を得られない場合はより小さなsub-worldをアイデンティティとして持ち、そのニッチさを強調する。さらに、コラボレーションを繰り返すことで演奏者たちはより狭いクリークと呼ばれる集団を形成するとされている。
Becker, H. (2006) ‘A Dialogue on the Ideas of “World” and “Field” with Alain Pessin’, Sociological Forum, 21:275–86.
これはベッカーと対話者のインタビューを論文にしている。テーマはベッカーのworldの理論とブルデューのfieldの理論の関係である。ベッカーによれば、ブルデューのfieldの理論は以下のようなものになる。filedとは比喩的な(そしてこれは物理学からの比喩だろうとしている)概念で、制限のある空間を指している。そこではesteemやrecognitionといった要素のみならず、金銭などの物質的なものも限定的に供給されている。そして、このfieldは様々なforceによって資源が支配されている。権力をもった人物はfieldに新しく参入してきたものに対して資源を与えることができる。
以上のようにまとめた上で、ベッカーは子の理論における人物が(規範に動かされるような、という意味で)血の通っていない(not flesh and blood people)に等しいとする。これに対して、ベッカーのworldは比喩的ながらもより記述的で、かつ人物は他の人物の行動を把握しながら行為をするという。この世界では、人々は外的な力に自動的に反応するようなことはしない。そこでは、権力のある人物がその行動を認めていないとしても、人々は自分と価値を共有する人を見つけることができる。このように、worldでは人々が同時に交渉し行為をしながら調和を見つけていくのだ。ただし、worldの鍵概念であるconventionに関しては、時に人々の行為を制限し不平等を招くforceとなり得ることを示唆している。
Smith, S. S. 2005. “‘Don’t Put My Name on It’: Social Capital Activation and Job‐Finding Assistance Among the Black Urban Poor.” American journal of sociology 111(1):1–57.
筆者によれば、地位達成の文脈におけるSCのactivation(SCを活性化させる要素、くらいか)は以下の個人、ダイアド、ネットワーク、そしてコミュニティの四つのレベルで概念化できる個人レベルはIndividual propertiesと表現され、Reputation(評判)とStatus(地位)が紹介される。Dyadic properties: strength of ties は交換関係の積み重ねの結果生まれた信頼(trust/trustworthiness)がSCの活性化に寄与すると定義される。次に、Network properties: social closureでは、互いに結びついているような密度の高いネットワークにおいてはコールマンが指摘したように規範が効果的に機能しやすく、不誠実な行動に対するサンクションが働きやすいことで信頼が醸成され、SCの活性化に寄与すると述べられる。最後に、Community properties: concentrated disadvantageについては、社会経済的に不利な人が集中している場合、そこではSCの活性化に寄与するような紐帯ができにくく、信頼感も醸成されにくいという報告がされている。
筆者は都市部の貧困黒人層105人を対象に以下のような問いを立ててインタビュー調査を行った。仕事の情報を持っている場合、どの程度彼らは自発的に情報を提供しようとするのか。及び、手助けをしようとする決断は上記の四つの要素にどの程度影響されるのかである。
まず、対象者が仕事の情報を持った時にそれを求職者に教える際に懸念を感じたという質問に対しては8割以上が求職者のモチベーションの低さ、貧しさ、犯罪の可能性などの懸念を表明している。そして、そうした懸念を持った場合と持たない場合では実際に援助に難色を示した割合が異なることが分かった。しかし、彼らは過去に家族や友人に仕事を紹介している、それでは、どういった条件の時にそれが可能になるのだろうか?
まず、個人的な属性(評判と地位)が問われる。少し驚くが求職者が雇用されているかという地位を考慮した人はほとんどいなかった。その一方で、評判を考慮して仕事を紹介するかを決めた事例は数多い。過去の職場での評判やゲットーにおける麻薬の使用などの職場以外の評判を考慮して仕事を紹介しなかった事例が紹介されている。また、女性は職場での、男性はプライベートでの評判が考慮に入れられる確率が高いなど、ジェンダー差が見られた。
より重要と考えられるのが、紹介者自身の評判である。彼らの多くが求職者に仕事を紹介したとしても、彼らが職場に表れないなどの不誠実な行動をとった場合に、仕事先に対する自分たちの評判が落ちることを懸念していた。また、雇用社が紹介者の評判にと紹介能力に疑いを持つ場合、そして紹介者自身が自身の能力に疑いを持つ場合、紹介するメリットが無くなると彼らはそれをやめてしまう。経済体に不安定な場合、紹介を担うことで貸しを作りその後のペイを期待する人もいるが、多くは求職者に仕事の情報を流しても「自分の名前はそこに書くな」(タイトルにもなっている)と警告する。
social closureに関しては、対象となった集団は互いが緊密に結びつきあっている訳ではない。そうなると、紹介者は求職者の情報を得る際に問題が生じるのではないかという疑問が生じるが、筆者によれば、このネットワークの欠如を彼らは求職者との個人的な会話で把握できるという。また、緊密性の欠如のために集団レベルでのサンクションも期待できない。最後に、concentrated disadvantageについては貧困の集中する地区の方がそれ以外の地区より求職者に対する情報提供に否定的になりやすく、これに対しては、前者の地区の人々は紹介をすることに恐怖感を抱いて消極的になっており、それは後者の地区に比べて紹介した人に裏切られて経験をしている人が多いことが示唆されている。この論文では以上のような紹介ネットワークの機能不全を大きな問題としている。また、こうしたマルチレベルな分析の重要性を説く。(最後の方適当ですみません)
February 24, 2014
February 23, 2014
ポピュラー音楽とイノベーション、diffusion and science network
Peterson, R. and Kern, R. (1996) Changing Highbrow Taste: From Snob to Omnivore, American Sociological Review 61(5), 900-907.
この論文では、アメリカの1982年と92年に行われた二つのクロスセクショナルの調査における音楽嗜好に関する質問を用いて、文化消費が地位と結びついた(highbrow/lowbrow)ものではなく、地位の高い人の中では文化的雑食(omnivore)が起こっていることを指摘する。回帰分析の結果、コーホート効果と時代効果の両方がその変化を説明する要因として考えられる。この背景には社会構造の変化は価値観の変化などが指摘されている。
Becker, H. (1995) The Power of Inertia, Qualitative Sociology 18 (3), 301-9.
筆者によれば社会組織の安定性に対する考え方は社会学の中で二分されていた。一つが安定性を自明視する見方で、これは機能主義につながる。もう一つが筆者が主張するもので、組織の安定性を自明視せず変化を構築主義的に見る見方である。このような見方に経って、筆者は音楽は日々変化しているとする。しかし、いくつかの事例を見ていくと、変化の中でも変わらないものの存在に気づく。筆者はそれをInertia(慣性)と呼ぶ。具体的にそれを構成するのは、採用することで音楽の制作をスムーズに促すようビルトインされているパッケージであるとされる(楽器やスケールなど)。さらに筆者は議論を進めて、コンサートが組み込まれている経済すらもパッケージだという(経済の論理はある程度のスキルを持った人が短時間のリハーサルで曲を演奏することを要求する、など)。これらが音楽の変わらない性質を作り上げるのだ。そして、新しさはこのような効率化されたパッケージに依拠する形で生まれる。
Savage, M. (2006) The Musical Field, Cultural Trends 15(2-3), 159-74.
この論文では、文化資本に関するイギリスの調査データを用いて、文化消費の変化をジャンル同士の関係に注目して考察している。記述的なデータの分析から、回答者は必ずしもそのジャンルの曲を詳しく知らないのに嫌いと回答している可能性もあるが、基本的にジャズやヘビメタのような「ポピュラー」な音楽が嫌いと回答され、クラシックやカントリーなどのジャンルが好きと支持を集める分断が確認される。(このジャンルと曲の嗜好が必ずしも一致していない可能性はジャンルと曲をブルデュー流の界に分けた上でその関係をネットワーク的に探索した分析でも示唆されている)
ロジスティクス回帰分析の結果、個人の属性の中でもエスニシティと年齢がジャンルや曲の嗜好に影響を与える最も強い要因として示唆されている。
Frith, S. (1987) Towards an Aesthetics of Popular Music, in Leppert, R. And McClary, S. (1987) Music and Society, Cambridge, Cambridge University Press, 133-49.
筆者によれば、従来の社会学的な分析は芸術の審美性について問うてこなかったという。これはポピュラー音楽に対する分析においては問題なかった。なぜなら、なぜロックンロールが流行したのかなどを説明することは、そこに何も審美性がないことを明らかにするものだったからだ。審美性を問わない分析では、技術や商業的な側面からの説明がなされたが、それでも私たちはポピュラー音楽においてさえも曲同士に好みを持ち、どちらがよい音楽かを考えてしまう。その上で、筆者はこうした審美性が社会的な力によって決定されていると主張する。何がすぐれたポピュラー音楽かの参照基準(Authenticity)は社会的に構築されるという立場を取った上で、筆者はポピュラー音楽の審美性について考察する。
筆者によれば、音楽を聞くという経験はplacing(配置)の経験に等しいという。具体的には、音楽を通じて私たちはアーティストやそのファンと感情の共感を得られる。これは、他の文化の形式でも見られるが、音楽の場合はその抽象性からその解釈に幅が生まれる。にもかかわらず、音楽は人々の集合的なアイデンティティの形成などの機能を持つとする。このような視点を持つことを筆者は審美性の理解としているようだ(正直意味不明だった。。。)
DeNora, T. (1986) How is Extra-Musical Meaning Possible? Sociological Theory 4, 84-94.
この論文では、音楽の外的な意味の可能性について検討している。はじめに筆者は音楽の意味論を巡る形式主義者と表現主義者の対立を紹介する。その上で、両者に共有されている言語に対する前提を批判する。前者は音楽を抽象的で無意味なものとする一方で、後者は音楽を言語に例えながら、それが外的な意味をつなげる性質を強調する。筆者によれば、表現主義者はこの音楽と外的意味の連続性を主張する際に、意味の客観性を前提にしているという。しかし、こうした言語に対して発話行為と意味が結びついているとする点で両者は同じ問題を抱えているという。筆者は意味をテクストに内在させる見方を否定し、テクストの意味は解釈という行為によって生成されるとする。その上で、筆者はリスナーがどのように音楽を理解しているかが問われなくてはいけないとする。(これも訳が分からない箇所が多かった。。。)
Valverde, M. 2006. “A New Entity in the History of Sexuality: the Respectable Same-Sex Couple.” Feminist studies 32(1):155–62.
この論文では、筆者が新しい形態の同性愛カップルとしたthe Respectable Same-Sex Couple(社会的に承認された、くらいか。ちなみに、respectabilityについてはLangstraat (2009)がthe actions or qualities demonstrating adherence to and excellence in the meeting of normative standards associated with specific social rolesと定義している)について議論している。筆者によれば、これは同性愛が禁じられていた時代のホモセクシャルとは大きく異なるという。社会的に認められた同性愛カップルは自らの性を強調することなくordinarinessを主張しているという。例えば、ウェディングではカップルはドレスを着ずにスーツで登場し、離婚の際も性的な問題ではなく金銭問題が法的な文書には載る。このように同性愛カップルの性的な部分を公的な文脈では消すことで彼らはノーマライズされていると主張されている。
Christakis, N. A., and J. H. Fowler. 2007. “The Spread of Obesity in a Large Social Network Over 32 Years.” New England journal of medicine 357(4):370–79.
この論文では、1971年から2003年までに定期的に行われた1万2000人への健康調査のパネルデータの分析から、肥満の発生をランダムに分布させたシュミレーションに比べてエゴが肥満の時につながっている人も肥満になる確率が高いことが分かった。例えばエゴのクラスター(コンポーネント?)の中に肥満の人が一人いると、エゴが肥満になる確率は50%程度上昇するなどが分かった。
Christakis, N. A., and J. H. Fowler. 2008. “The Collective Dynamics of Smoking in a Large Social Network.” New England journal of medicine 358(21):2249–58.
この論文では、上記のものと同じデータを用いて30年間のアメリカにおける喫煙行動の変化をネットワークに注目して分析している。分析の結果、以下のようなことが分かった。まず、1971年と2000年の間で喫煙者の数は大きく減っており、喫煙者はネットワークの周縁に位置しながら、他の喫煙者とつながりを持つようになっていることが分かった。その結果、年を経るごとに、喫煙者との紐帯が距離的に近くなればなるほど自分も喫煙者になる確率が上昇している。喫煙者の減少にもか関わらずの喫煙者クラスターのサイズはランダムネットワークよりも大きく、年を経てもある程度一定になっており、これは喫煙者同士がつながるようになったことを示唆している。また、喫煙者の中心性は大きく低下している。また、配偶者やきょうだい、友人、会社の同僚がたばこをやめた場合に喫煙リスクが減少することが分かった。さらに、友人については教育程度が高い場合に減少率が大きいことが分かった。
Coleman, J., E. Katz, and H. Menzel. 1957. “The Diffusion of an Innovation Among Physicians.” Sociometry 20(4):253–70.
この論文ではアメリカ四都市における医者の新しい薬の使用の拡散プロセスについて検討することで、ある時点間における使用の拡散プロセスに対して何が介入したのかを明らかにする。調査では、各医者のパーソナルネットワークが尋ねられ、新しい薬の仕様に授業があると思われる医者すべてを対象とした。この論文の前半では、新薬の導入に際して、医者の個人的な属性よりも彼らが埋め込まれている関係性の方が重要だとする知見を紹介している。例えば、よい医者と認められる基準に対する個人的な見解の違いは新薬の導入に対して時期に関わらず影響を与える。しかし、パーソナルな紐帯の中に医者が含まれているかどうかが新薬の導入に与える影響は新薬が開発されて時期が経つにつれて、紐帯の数が多い人の方が知る確率が大きく上昇する。また、ソシオメトリーを使った分析から、ネットワークは医者間の紐帯が強いグループに対して最初の数ヶ月間において効果を持ち、弱いグループには広範になってからしか影響を与えないことが示唆されている。さながら、強い紐帯の強さといったところか。再読。
Mercken, L., T. A. B. Snijders, C. Steglich, and H. de Vries. 2009. “Dynamics of adolescent friendship networks and smoking behavior.” Social Science & Medicine 69(10):1506–14.
ホモフィリーの理論を適用するまでもなく、喫煙者の友人もまた喫煙者であるというのはよく知られている。しかし、友達が吸っていると自分も吸うのか、それとも同じ喫煙行動をする人と友達になるのか、因果の関係を巡っては統一した見解が出てこなかった。それは端的に言って、分析にたえるようなパネルデータがなかったからである。そこで、この論文では、4時点にわたり6カ国7000人超の若者の喫煙行動とパーソナルな紐帯について尋ねたパネルデータを用いて分析をしている。このデータの特徴は多くのセレクションルートを質問に入れている点だ。例えば、同じ喫煙行動をする人と友達になることの方が経験的に正しかったとしても、それ以外に友人の間には多くの共通項がある(教育や性別によるホモフィリー)。こうした数多くのセレクション過程を統制した上で、喫煙行動の有意性が主張されなくてはならない。分析の結果、友人の喫煙行動が回答者の喫煙に影響する国は二つしかなく、多くの国ではセレクションによる影響が大きいことが分かった。
Valente, T. W., P. Gallaher, and M. Mouttapa. 2004. “Using Social Networks to Understand and Prevent Substance Use: a Transdisciplinary Perspective.” Substance Use & Misuse 39(10-12):1685–1712.
この論文ではsubstance use disorder(ある物質の継続的な使用によって生じる障害)とネットワークの関係について考察している。いわゆるアルコールや薬物使用を指していると考えられるが、これに関する雑誌に投稿された論文のため、イントロ的な内容になっている。ホモフィリー(the birds of a feather clock toghether)の紹介がされた後、そのメカニズムを説明する理論としてsocial learning theory(紐帯の有無に関わらず重要な他者の真似をする)とdifferential association theory(紐帯を持つ人の真似をする)が解説される。こうした見方は、他者に影響されて自分が物質を使用するという想定をしている点で同じだが、因果の方向は逆にもなり得る。つまり、物質を使用する/しない人を当の本人が選択している可能性である。これに対し、Theory of reasoned actionは個人は社会的に共有されている規範に従って行動すると仮定する(そして、この規範にも物質に対する理解からその使用を望ましいとするものまである)。最後に、これらの知見を活かして予防策を試験的に実施した研究が紹介される。
Valente, T. W. 1996. “Social Network Thresholds in the Diffusion of Innovations.” Social networks 18(1):69–89.
この論文では、集合行動とイノベーションの正否を説明するdiffusion networkのモデルとしてThreshhold modelを検討している。このモデルでは、個人は集団における当該の行動をしている割合に基づいて行動すると仮定する。このモデルには人々が他人の行動を観察しているのか、及びイノベーションの不透明性などに関する問題点を抱えている。この論文では、Coleman (1966)の知見を引用しながら、パーソナルネットワークの性質によって受容の過程も異なることを想定する。受容者は、受容するタイミングの標準偏差を境に四つのカテゴリに分けられる。異なる社会的属性に分かれた3カ国のデータの分析の結果、受容者のカテゴリはそうした属性と個人のネットワークに影響されることが確認されたほか、外的な影響とオピニオンリーダーがイノベーションの拡散に影響を与えることが述べられている(最後に点に関してはよく分からなかった)。ので再読
Lopes, P. (1992) Innovation and Diversity in the Popular Music Industry, 1969 to 1990, American Sociological Review 57(1), 56-71.
この論文では、音楽業界の会社の戦略がイノベーションと多様性にどのような影響を与えたのかをアメリカのビルボードのランキングデータを用いて考察している。論文における問いは(1)音楽業界の再寡占化が1970年代から80年代にかけて生じているのか(2)ポピュラー音楽制作のオープンシステム化は会社あたりレーベル数で分かるか(3)1969年から90年までにどのようなイノベーションや多様性の変化が生じたか、以上の三つである。イノベーションは年間チャートに登場した新人と有名アーティストの割合、多様性は年間チャートに登場したアーティスト数で求められる。
分析の結果、(1)については寡占化は確認され、時代ごとにその背景となる要因が説明されている。(2)については、会社数の減少の一方でレーベル数は60年代以降安定的に推移しており、これは少数の企業が複数の独立ないし内部のレーベルのプロデューサーとつながることでオープンなシステムを構築し、シェアの拡大を促すという企業戦略を可能にしたことを示唆しているという。(3)については、1982年まで寡占化と新人アーティストの減少が見られたが、その後は寡占の状況が続いているにもかかわらずアーティスト数は上昇していることが分かる。また、全アーティストではシングルで若干の減少、アルバムで大幅の上昇と、Peterson and Bergerが唱えたような、再寡占化が多様性とイノベーションの衰退を招くという主張を否定するものになっている。
Peterson, R. And Berger, D. (1971) Entrepreneurship in Organisations: Evidence from the Popular Music Industry, Administrative Science Quarterly 16(1), 97-106.
組織の周りの環境を錯乱要因と捉えると、官僚制や徒弟制的な(変化を想定しない)リーダーシップは不適切になる。そこで、この前提のもとでは、アントレプレナーシップを備えた戦略スタイルを持つリーダーシップが必要になる。筆者らはレコード産業を事例に、大規模な組織において市場の錯乱要因に対処するアントレプレナーシップ(ここではプロデューサー)が生まれる3つの場合について、組織内の条件と錯乱要因が小さい場合と大きい場合に分けて考察する。第一に組織内の条件であるが、組織はアントレプレナーが自分で組織を動かせる程度に小さく、緩く結びつきあっていなければならない。具体的には組織内の部署の分離とアントレプレナーが各部署をつなげる役割を持つこと、そしてアントレプレナーの決断の金銭的リスクを減らすことが言及される。次に錯乱要因の強弱だが、アメリカでは戦後の1955年までは少数のレコード会社による市場の寡占が続いていたため錯乱要因がなかったとされる。この時代はプロデューサーではなく会社によってスターが輩出されていた。しかし、それ以降ロック音楽の流行に伴って技術的・組織的な多様化が見られ錯乱要因が増加した。その結果、各社はイノベーションを起こせるプロデューサーを雇い、彼らに独立した権限を与えるようになったとされる。
Peterson, R. And Berger, D. (1996) Measuring Industry Concentration, Diversity and Innovation in Popular Music, American Sociological Review 61(1), 175-8.
彼らの1975年の論文に対する批判へのリプライをする形の回顧論文となっている。75年の論文で筆者らはイノベーションが大木花企業が支配する寡占的市場で起きやすいとしたシュンペーターの議論に対して、音楽産業を事例にして、多様な音楽を提供する企業同士による競争が起きている状況の方がイノベーションは起きやすいとした。ここでは、寡占や音楽の多様性に関する定義の問題が議論されている(音楽の多様性と楽譜で数えるのが適切なのかという議論は面白い)。
Denzin, N. (1970) Problems in Analysing Elements of Mass Culture: Notes on the Popular Song and Other Artistic Productions, American Journal of Sociology 75(6), 1035-1038.
Carey がAJS74号に投稿した論文に対する批判のコメントになっている。筆者によれば、Careyの論文には大衆文化としてのポピュラー音楽を分析する際に見られる4つの問題点があるという。最も根本的な問題が芸術作品を一種の社会的な事実として客体視してしまう点にあるという。次に、芸術をインタラクティブな創作物とした場合、それに対する解釈は人によって異なるという点、さらにある集団にとって重要な意味が芸術作品に表現されている訳ではないという点、最後にポピュラー文化の作品はごく限られた人によってのみ評価されているという点が指摘される。その上で、筆者は芸術をインタラクションの結果生じるものとして考える視点を提供し、作品の評価を決める際のアクター間の権力の違いに注目するべきと主張する。
Becker, H., (1974) ‘Art as collective action’, American Sociological Review, 39(6): 767-776.
はじめに、筆者は既存の社会学の研究が社会構造やシステムに言及しようとした時に、人々の集合的な行動に着目してこなかったことを批判する。その上で、集団においてある目的が達成されるためには、多くの場合、組織がいくつかのサブに分かれる分業形式になることを音楽産業の具体例を持って説明する。しかし、筆者は分業するサブの組織ごとに対立が生まれることを想定しており、さらにそもそも協力しないと目的が果たせないということはなく、目的が達成できるならばサブの組織が単独で行動することも可能だと考える。この点で筆者は機能主義に反対するが、それでも協調的な行動が起こることに対して、conventionの存在を指摘する。
芸術作品を生み出す人々は先行する規範や監修に対して合意をしており、そのために協力が起こると筆者は考える。さらに、これは制作者と受け手との関係にも応用できる。両者の間で作品に対する理解が共有されているのもconventionによるというだ。さらに、conventionがあることで制作者は形式的な部分に執着せずに制作に集中できるという。お金をかければより質の高いものはできるかもしれないが、convention(市場の論理も含むか)に従って作業したほうが効率的なのだ。このようにconventionを通じて人々が協力して行為をしている世界をベッカーはart worldと定義する。
Calero-Medina, C., and E. C. M. Noyons. 2008. “Combining Mapping and Citation Network Analysis for a Better Understanding of the Scientific Development: the Case of the Absorptive Capacity Field.” Journal of Informetrics 2(4):272–79.
この論文では、bibliometric mappingとcitation networkという二つの方法を組み合わせて、学術出版を通じた知識の移転と生成について議論している。なお、事例としてabsorptive capacityという概念を提唱した引用数の多い論文を採用している。bibliometric mappingとは、論文のキーワードの共起関係を見ることで当該論文と引用論文の関係の構造を把握できる。登場回数の多かった語のうち専門家による選別が行われ、83語のキーワードの共起関係がクラスター分析及びMDSにかけられ、論文ごとの関係が把握される。
次に、引用論文同士のネットワークが把握され、traversal weightsという値が測られて、ある論文同士のつながりがネットワークの中の他の論文とつながっているかどうかを基準にしたパス、さらに多くの論文に引用されているauthority,それらとつながるhubが形成された。分析を通じて、absorptive capacityの概念の発展に寄与した論文が特定できた。
Liberman, S., and K. B. Wolf. 1998. “Bonding Number in Scientific Disciplines.” Social networks 20(3):239–46.
この論文では、メキシコのある大学における人類学、バイオテクノロジー、数学、物理学の四分野の論文の出版数の変化と共著関係の変化の関連を考察している。対象となった1982年から1994年までに、物理学とバイオテクノロジーは出版数が増加している。にもかかわらず、出版の形式(共著かどうか)のパターンには変化が見られないという。これを確かめるため、筆者らはbonding numberという共著数を測るスコアを作成した。分析の結果、どの分野においてもスコアは一定で、出版数の増加との関係はないとされた。一見すると、共著関係はチームでの研究によりスキルの伝達などが行われることで生産性の増加に寄与する(共著数の増加と投稿数の増加は相関関係にある)と考えても良さそうだが、そうならない理由として、筆者らは「人間は自分の能力の限界に正直に働く」とする。要は、チーム作業というのは時間のかかるものらしく、共著にするから生産性が増えることはないだろうということらしい。。。
Peterson, R. And Berger, D. (1975) Cycles in Symbol Production: the Case of Popular Music, American Sociological Review 40(2), 158-73.
この論文では、音楽産業を事例に、寡占化がイノベーションと多様性を損なわせるかどうかが検討されている。データはアメリカのビルボード社のランキングが1948年から1973年までの26年分が使用された。論文では寡占状況によって5つの時代区分がされているが、ここでは外観のみにとどめる。まず、48年から55年までは4社によるシェアが75%以上を占めていた寡占期であったが、この背景には各社によるvertical integrationと呼ばれる、ラジオ局や映画会社を所有して曲の宣伝に務めたことが挙げられている。しかし、曲の均質性が生じて利益はそこまで出なかった。続いて、56年から59年にかけては、ロックンロールブームに乗って独立系の会社が台頭した競争の時代となった。その結果、4社のシェアは低下したが、これ以外にもテレビの登場に各社がラジオの衰退を予測し、ラジオ局の番組内容が宣伝をやめたことも要因として指摘されている。独立系の台頭により多様性が生まれ、レコード産業の総利益も上昇した。59年から63年は旧来の四社が衰退する一方で独立系が伸張した結果、上位4社のシェアは低下したものの上位8社のシェアは安定的に維持された期間だった。64年から69年にかけてはかつての4社の派遣はほとんど失われた形にあったが入れ替わった上位4社のシェアは伸長し全体の利益も上昇していった一方、新人歌手が減少していった。最後に、73年までの期間は寡占化の傾向がより強まり、1957年以降では最も上位4社のシェアが大きくなった。以上の分析の結果、従来の仮説とは異なり、寡占化に逆行する形で多様性が失われること、及びこの寡占化の進行は競争によって生じていることが分かった。
この論文では、アメリカの1982年と92年に行われた二つのクロスセクショナルの調査における音楽嗜好に関する質問を用いて、文化消費が地位と結びついた(highbrow/lowbrow)ものではなく、地位の高い人の中では文化的雑食(omnivore)が起こっていることを指摘する。回帰分析の結果、コーホート効果と時代効果の両方がその変化を説明する要因として考えられる。この背景には社会構造の変化は価値観の変化などが指摘されている。
Becker, H. (1995) The Power of Inertia, Qualitative Sociology 18 (3), 301-9.
筆者によれば社会組織の安定性に対する考え方は社会学の中で二分されていた。一つが安定性を自明視する見方で、これは機能主義につながる。もう一つが筆者が主張するもので、組織の安定性を自明視せず変化を構築主義的に見る見方である。このような見方に経って、筆者は音楽は日々変化しているとする。しかし、いくつかの事例を見ていくと、変化の中でも変わらないものの存在に気づく。筆者はそれをInertia(慣性)と呼ぶ。具体的にそれを構成するのは、採用することで音楽の制作をスムーズに促すようビルトインされているパッケージであるとされる(楽器やスケールなど)。さらに筆者は議論を進めて、コンサートが組み込まれている経済すらもパッケージだという(経済の論理はある程度のスキルを持った人が短時間のリハーサルで曲を演奏することを要求する、など)。これらが音楽の変わらない性質を作り上げるのだ。そして、新しさはこのような効率化されたパッケージに依拠する形で生まれる。
Savage, M. (2006) The Musical Field, Cultural Trends 15(2-3), 159-74.
この論文では、文化資本に関するイギリスの調査データを用いて、文化消費の変化をジャンル同士の関係に注目して考察している。記述的なデータの分析から、回答者は必ずしもそのジャンルの曲を詳しく知らないのに嫌いと回答している可能性もあるが、基本的にジャズやヘビメタのような「ポピュラー」な音楽が嫌いと回答され、クラシックやカントリーなどのジャンルが好きと支持を集める分断が確認される。(このジャンルと曲の嗜好が必ずしも一致していない可能性はジャンルと曲をブルデュー流の界に分けた上でその関係をネットワーク的に探索した分析でも示唆されている)
ロジスティクス回帰分析の結果、個人の属性の中でもエスニシティと年齢がジャンルや曲の嗜好に影響を与える最も強い要因として示唆されている。
Frith, S. (1987) Towards an Aesthetics of Popular Music, in Leppert, R. And McClary, S. (1987) Music and Society, Cambridge, Cambridge University Press, 133-49.
筆者によれば、従来の社会学的な分析は芸術の審美性について問うてこなかったという。これはポピュラー音楽に対する分析においては問題なかった。なぜなら、なぜロックンロールが流行したのかなどを説明することは、そこに何も審美性がないことを明らかにするものだったからだ。審美性を問わない分析では、技術や商業的な側面からの説明がなされたが、それでも私たちはポピュラー音楽においてさえも曲同士に好みを持ち、どちらがよい音楽かを考えてしまう。その上で、筆者はこうした審美性が社会的な力によって決定されていると主張する。何がすぐれたポピュラー音楽かの参照基準(Authenticity)は社会的に構築されるという立場を取った上で、筆者はポピュラー音楽の審美性について考察する。
筆者によれば、音楽を聞くという経験はplacing(配置)の経験に等しいという。具体的には、音楽を通じて私たちはアーティストやそのファンと感情の共感を得られる。これは、他の文化の形式でも見られるが、音楽の場合はその抽象性からその解釈に幅が生まれる。にもかかわらず、音楽は人々の集合的なアイデンティティの形成などの機能を持つとする。このような視点を持つことを筆者は審美性の理解としているようだ(正直意味不明だった。。。)
DeNora, T. (1986) How is Extra-Musical Meaning Possible? Sociological Theory 4, 84-94.
この論文では、音楽の外的な意味の可能性について検討している。はじめに筆者は音楽の意味論を巡る形式主義者と表現主義者の対立を紹介する。その上で、両者に共有されている言語に対する前提を批判する。前者は音楽を抽象的で無意味なものとする一方で、後者は音楽を言語に例えながら、それが外的な意味をつなげる性質を強調する。筆者によれば、表現主義者はこの音楽と外的意味の連続性を主張する際に、意味の客観性を前提にしているという。しかし、こうした言語に対して発話行為と意味が結びついているとする点で両者は同じ問題を抱えているという。筆者は意味をテクストに内在させる見方を否定し、テクストの意味は解釈という行為によって生成されるとする。その上で、筆者はリスナーがどのように音楽を理解しているかが問われなくてはいけないとする。(これも訳が分からない箇所が多かった。。。)
Valverde, M. 2006. “A New Entity in the History of Sexuality: the Respectable Same-Sex Couple.” Feminist studies 32(1):155–62.
この論文では、筆者が新しい形態の同性愛カップルとしたthe Respectable Same-Sex Couple(社会的に承認された、くらいか。ちなみに、respectabilityについてはLangstraat (2009)がthe actions or qualities demonstrating adherence to and excellence in the meeting of normative standards associated with specific social rolesと定義している)について議論している。筆者によれば、これは同性愛が禁じられていた時代のホモセクシャルとは大きく異なるという。社会的に認められた同性愛カップルは自らの性を強調することなくordinarinessを主張しているという。例えば、ウェディングではカップルはドレスを着ずにスーツで登場し、離婚の際も性的な問題ではなく金銭問題が法的な文書には載る。このように同性愛カップルの性的な部分を公的な文脈では消すことで彼らはノーマライズされていると主張されている。
Christakis, N. A., and J. H. Fowler. 2007. “The Spread of Obesity in a Large Social Network Over 32 Years.” New England journal of medicine 357(4):370–79.
この論文では、1971年から2003年までに定期的に行われた1万2000人への健康調査のパネルデータの分析から、肥満の発生をランダムに分布させたシュミレーションに比べてエゴが肥満の時につながっている人も肥満になる確率が高いことが分かった。例えばエゴのクラスター(コンポーネント?)の中に肥満の人が一人いると、エゴが肥満になる確率は50%程度上昇するなどが分かった。
Christakis, N. A., and J. H. Fowler. 2008. “The Collective Dynamics of Smoking in a Large Social Network.” New England journal of medicine 358(21):2249–58.
この論文では、上記のものと同じデータを用いて30年間のアメリカにおける喫煙行動の変化をネットワークに注目して分析している。分析の結果、以下のようなことが分かった。まず、1971年と2000年の間で喫煙者の数は大きく減っており、喫煙者はネットワークの周縁に位置しながら、他の喫煙者とつながりを持つようになっていることが分かった。その結果、年を経るごとに、喫煙者との紐帯が距離的に近くなればなるほど自分も喫煙者になる確率が上昇している。喫煙者の減少にもか関わらずの喫煙者クラスターのサイズはランダムネットワークよりも大きく、年を経てもある程度一定になっており、これは喫煙者同士がつながるようになったことを示唆している。また、喫煙者の中心性は大きく低下している。また、配偶者やきょうだい、友人、会社の同僚がたばこをやめた場合に喫煙リスクが減少することが分かった。さらに、友人については教育程度が高い場合に減少率が大きいことが分かった。
Coleman, J., E. Katz, and H. Menzel. 1957. “The Diffusion of an Innovation Among Physicians.” Sociometry 20(4):253–70.
この論文ではアメリカ四都市における医者の新しい薬の使用の拡散プロセスについて検討することで、ある時点間における使用の拡散プロセスに対して何が介入したのかを明らかにする。調査では、各医者のパーソナルネットワークが尋ねられ、新しい薬の仕様に授業があると思われる医者すべてを対象とした。この論文の前半では、新薬の導入に際して、医者の個人的な属性よりも彼らが埋め込まれている関係性の方が重要だとする知見を紹介している。例えば、よい医者と認められる基準に対する個人的な見解の違いは新薬の導入に対して時期に関わらず影響を与える。しかし、パーソナルな紐帯の中に医者が含まれているかどうかが新薬の導入に与える影響は新薬が開発されて時期が経つにつれて、紐帯の数が多い人の方が知る確率が大きく上昇する。また、ソシオメトリーを使った分析から、ネットワークは医者間の紐帯が強いグループに対して最初の数ヶ月間において効果を持ち、弱いグループには広範になってからしか影響を与えないことが示唆されている。さながら、強い紐帯の強さといったところか。再読。
Mercken, L., T. A. B. Snijders, C. Steglich, and H. de Vries. 2009. “Dynamics of adolescent friendship networks and smoking behavior.” Social Science & Medicine 69(10):1506–14.
ホモフィリーの理論を適用するまでもなく、喫煙者の友人もまた喫煙者であるというのはよく知られている。しかし、友達が吸っていると自分も吸うのか、それとも同じ喫煙行動をする人と友達になるのか、因果の関係を巡っては統一した見解が出てこなかった。それは端的に言って、分析にたえるようなパネルデータがなかったからである。そこで、この論文では、4時点にわたり6カ国7000人超の若者の喫煙行動とパーソナルな紐帯について尋ねたパネルデータを用いて分析をしている。このデータの特徴は多くのセレクションルートを質問に入れている点だ。例えば、同じ喫煙行動をする人と友達になることの方が経験的に正しかったとしても、それ以外に友人の間には多くの共通項がある(教育や性別によるホモフィリー)。こうした数多くのセレクション過程を統制した上で、喫煙行動の有意性が主張されなくてはならない。分析の結果、友人の喫煙行動が回答者の喫煙に影響する国は二つしかなく、多くの国ではセレクションによる影響が大きいことが分かった。
Valente, T. W., P. Gallaher, and M. Mouttapa. 2004. “Using Social Networks to Understand and Prevent Substance Use: a Transdisciplinary Perspective.” Substance Use & Misuse 39(10-12):1685–1712.
この論文ではsubstance use disorder(ある物質の継続的な使用によって生じる障害)とネットワークの関係について考察している。いわゆるアルコールや薬物使用を指していると考えられるが、これに関する雑誌に投稿された論文のため、イントロ的な内容になっている。ホモフィリー(the birds of a feather clock toghether)の紹介がされた後、そのメカニズムを説明する理論としてsocial learning theory(紐帯の有無に関わらず重要な他者の真似をする)とdifferential association theory(紐帯を持つ人の真似をする)が解説される。こうした見方は、他者に影響されて自分が物質を使用するという想定をしている点で同じだが、因果の方向は逆にもなり得る。つまり、物質を使用する/しない人を当の本人が選択している可能性である。これに対し、Theory of reasoned actionは個人は社会的に共有されている規範に従って行動すると仮定する(そして、この規範にも物質に対する理解からその使用を望ましいとするものまである)。最後に、これらの知見を活かして予防策を試験的に実施した研究が紹介される。
Valente, T. W. 1996. “Social Network Thresholds in the Diffusion of Innovations.” Social networks 18(1):69–89.
この論文では、集合行動とイノベーションの正否を説明するdiffusion networkのモデルとしてThreshhold modelを検討している。このモデルでは、個人は集団における当該の行動をしている割合に基づいて行動すると仮定する。このモデルには人々が他人の行動を観察しているのか、及びイノベーションの不透明性などに関する問題点を抱えている。この論文では、Coleman (1966)の知見を引用しながら、パーソナルネットワークの性質によって受容の過程も異なることを想定する。受容者は、受容するタイミングの標準偏差を境に四つのカテゴリに分けられる。異なる社会的属性に分かれた3カ国のデータの分析の結果、受容者のカテゴリはそうした属性と個人のネットワークに影響されることが確認されたほか、外的な影響とオピニオンリーダーがイノベーションの拡散に影響を与えることが述べられている(最後に点に関してはよく分からなかった)。ので再読
Lopes, P. (1992) Innovation and Diversity in the Popular Music Industry, 1969 to 1990, American Sociological Review 57(1), 56-71.
この論文では、音楽業界の会社の戦略がイノベーションと多様性にどのような影響を与えたのかをアメリカのビルボードのランキングデータを用いて考察している。論文における問いは(1)音楽業界の再寡占化が1970年代から80年代にかけて生じているのか(2)ポピュラー音楽制作のオープンシステム化は会社あたりレーベル数で分かるか(3)1969年から90年までにどのようなイノベーションや多様性の変化が生じたか、以上の三つである。イノベーションは年間チャートに登場した新人と有名アーティストの割合、多様性は年間チャートに登場したアーティスト数で求められる。
分析の結果、(1)については寡占化は確認され、時代ごとにその背景となる要因が説明されている。(2)については、会社数の減少の一方でレーベル数は60年代以降安定的に推移しており、これは少数の企業が複数の独立ないし内部のレーベルのプロデューサーとつながることでオープンなシステムを構築し、シェアの拡大を促すという企業戦略を可能にしたことを示唆しているという。(3)については、1982年まで寡占化と新人アーティストの減少が見られたが、その後は寡占の状況が続いているにもかかわらずアーティスト数は上昇していることが分かる。また、全アーティストではシングルで若干の減少、アルバムで大幅の上昇と、Peterson and Bergerが唱えたような、再寡占化が多様性とイノベーションの衰退を招くという主張を否定するものになっている。
Peterson, R. And Berger, D. (1971) Entrepreneurship in Organisations: Evidence from the Popular Music Industry, Administrative Science Quarterly 16(1), 97-106.
組織の周りの環境を錯乱要因と捉えると、官僚制や徒弟制的な(変化を想定しない)リーダーシップは不適切になる。そこで、この前提のもとでは、アントレプレナーシップを備えた戦略スタイルを持つリーダーシップが必要になる。筆者らはレコード産業を事例に、大規模な組織において市場の錯乱要因に対処するアントレプレナーシップ(ここではプロデューサー)が生まれる3つの場合について、組織内の条件と錯乱要因が小さい場合と大きい場合に分けて考察する。第一に組織内の条件であるが、組織はアントレプレナーが自分で組織を動かせる程度に小さく、緩く結びつきあっていなければならない。具体的には組織内の部署の分離とアントレプレナーが各部署をつなげる役割を持つこと、そしてアントレプレナーの決断の金銭的リスクを減らすことが言及される。次に錯乱要因の強弱だが、アメリカでは戦後の1955年までは少数のレコード会社による市場の寡占が続いていたため錯乱要因がなかったとされる。この時代はプロデューサーではなく会社によってスターが輩出されていた。しかし、それ以降ロック音楽の流行に伴って技術的・組織的な多様化が見られ錯乱要因が増加した。その結果、各社はイノベーションを起こせるプロデューサーを雇い、彼らに独立した権限を与えるようになったとされる。
Peterson, R. And Berger, D. (1996) Measuring Industry Concentration, Diversity and Innovation in Popular Music, American Sociological Review 61(1), 175-8.
彼らの1975年の論文に対する批判へのリプライをする形の回顧論文となっている。75年の論文で筆者らはイノベーションが大木花企業が支配する寡占的市場で起きやすいとしたシュンペーターの議論に対して、音楽産業を事例にして、多様な音楽を提供する企業同士による競争が起きている状況の方がイノベーションは起きやすいとした。ここでは、寡占や音楽の多様性に関する定義の問題が議論されている(音楽の多様性と楽譜で数えるのが適切なのかという議論は面白い)。
Denzin, N. (1970) Problems in Analysing Elements of Mass Culture: Notes on the Popular Song and Other Artistic Productions, American Journal of Sociology 75(6), 1035-1038.
Carey がAJS74号に投稿した論文に対する批判のコメントになっている。筆者によれば、Careyの論文には大衆文化としてのポピュラー音楽を分析する際に見られる4つの問題点があるという。最も根本的な問題が芸術作品を一種の社会的な事実として客体視してしまう点にあるという。次に、芸術をインタラクティブな創作物とした場合、それに対する解釈は人によって異なるという点、さらにある集団にとって重要な意味が芸術作品に表現されている訳ではないという点、最後にポピュラー文化の作品はごく限られた人によってのみ評価されているという点が指摘される。その上で、筆者は芸術をインタラクションの結果生じるものとして考える視点を提供し、作品の評価を決める際のアクター間の権力の違いに注目するべきと主張する。
Becker, H., (1974) ‘Art as collective action’, American Sociological Review, 39(6): 767-776.
はじめに、筆者は既存の社会学の研究が社会構造やシステムに言及しようとした時に、人々の集合的な行動に着目してこなかったことを批判する。その上で、集団においてある目的が達成されるためには、多くの場合、組織がいくつかのサブに分かれる分業形式になることを音楽産業の具体例を持って説明する。しかし、筆者は分業するサブの組織ごとに対立が生まれることを想定しており、さらにそもそも協力しないと目的が果たせないということはなく、目的が達成できるならばサブの組織が単独で行動することも可能だと考える。この点で筆者は機能主義に反対するが、それでも協調的な行動が起こることに対して、conventionの存在を指摘する。
芸術作品を生み出す人々は先行する規範や監修に対して合意をしており、そのために協力が起こると筆者は考える。さらに、これは制作者と受け手との関係にも応用できる。両者の間で作品に対する理解が共有されているのもconventionによるというだ。さらに、conventionがあることで制作者は形式的な部分に執着せずに制作に集中できるという。お金をかければより質の高いものはできるかもしれないが、convention(市場の論理も含むか)に従って作業したほうが効率的なのだ。このようにconventionを通じて人々が協力して行為をしている世界をベッカーはart worldと定義する。
Calero-Medina, C., and E. C. M. Noyons. 2008. “Combining Mapping and Citation Network Analysis for a Better Understanding of the Scientific Development: the Case of the Absorptive Capacity Field.” Journal of Informetrics 2(4):272–79.
この論文では、bibliometric mappingとcitation networkという二つの方法を組み合わせて、学術出版を通じた知識の移転と生成について議論している。なお、事例としてabsorptive capacityという概念を提唱した引用数の多い論文を採用している。bibliometric mappingとは、論文のキーワードの共起関係を見ることで当該論文と引用論文の関係の構造を把握できる。登場回数の多かった語のうち専門家による選別が行われ、83語のキーワードの共起関係がクラスター分析及びMDSにかけられ、論文ごとの関係が把握される。
次に、引用論文同士のネットワークが把握され、traversal weightsという値が測られて、ある論文同士のつながりがネットワークの中の他の論文とつながっているかどうかを基準にしたパス、さらに多くの論文に引用されているauthority,それらとつながるhubが形成された。分析を通じて、absorptive capacityの概念の発展に寄与した論文が特定できた。
Liberman, S., and K. B. Wolf. 1998. “Bonding Number in Scientific Disciplines.” Social networks 20(3):239–46.
この論文では、メキシコのある大学における人類学、バイオテクノロジー、数学、物理学の四分野の論文の出版数の変化と共著関係の変化の関連を考察している。対象となった1982年から1994年までに、物理学とバイオテクノロジーは出版数が増加している。にもかかわらず、出版の形式(共著かどうか)のパターンには変化が見られないという。これを確かめるため、筆者らはbonding numberという共著数を測るスコアを作成した。分析の結果、どの分野においてもスコアは一定で、出版数の増加との関係はないとされた。一見すると、共著関係はチームでの研究によりスキルの伝達などが行われることで生産性の増加に寄与する(共著数の増加と投稿数の増加は相関関係にある)と考えても良さそうだが、そうならない理由として、筆者らは「人間は自分の能力の限界に正直に働く」とする。要は、チーム作業というのは時間のかかるものらしく、共著にするから生産性が増えることはないだろうということらしい。。。
Peterson, R. And Berger, D. (1975) Cycles in Symbol Production: the Case of Popular Music, American Sociological Review 40(2), 158-73.
この論文では、音楽産業を事例に、寡占化がイノベーションと多様性を損なわせるかどうかが検討されている。データはアメリカのビルボード社のランキングが1948年から1973年までの26年分が使用された。論文では寡占状況によって5つの時代区分がされているが、ここでは外観のみにとどめる。まず、48年から55年までは4社によるシェアが75%以上を占めていた寡占期であったが、この背景には各社によるvertical integrationと呼ばれる、ラジオ局や映画会社を所有して曲の宣伝に務めたことが挙げられている。しかし、曲の均質性が生じて利益はそこまで出なかった。続いて、56年から59年にかけては、ロックンロールブームに乗って独立系の会社が台頭した競争の時代となった。その結果、4社のシェアは低下したが、これ以外にもテレビの登場に各社がラジオの衰退を予測し、ラジオ局の番組内容が宣伝をやめたことも要因として指摘されている。独立系の台頭により多様性が生まれ、レコード産業の総利益も上昇した。59年から63年は旧来の四社が衰退する一方で独立系が伸張した結果、上位4社のシェアは低下したものの上位8社のシェアは安定的に維持された期間だった。64年から69年にかけてはかつての4社の派遣はほとんど失われた形にあったが入れ替わった上位4社のシェアは伸長し全体の利益も上昇していった一方、新人歌手が減少していった。最後に、73年までの期間は寡占化の傾向がより強まり、1957年以降では最も上位4社のシェアが大きくなった。以上の分析の結果、従来の仮説とは異なり、寡占化に逆行する形で多様性が失われること、及びこの寡占化の進行は競争によって生じていることが分かった。
February 17, 2014
Beyond Social Capital: Spatial Dynamics of Collective Efficacy for Children
Letki, N. 2008. “Does Diversity Erode Social Cohesion? Social Capital and Race in British Neighbourhoods.” Political Studies 56(1):99–126.
Rosenberg, M. 1956. “Misanthropy and Political Ideology.” American sociological review 21(6):690–95.
Sampson, R. J., J. D. Morenoff, and F. Earls. 1999. “Beyond Social Capital: Spatial Dynamics of Collective Efficacy for Children.” American sociological review 633–60.
February 16, 2014
エスニシティと(への)信頼、信頼のコーホート効果
Gesthuizen, M., T. van der Meer, and P. Scheepers. 2009. “Ethnic Diversity and Social Capital in Europe: Tests of Putnam's Thesis in European Countries.” Scandinavian Political Studies 32(2):121–42.
この論文では、パットナムがエスニシティの多様性がソーシャルキャピタルを衰退させるとした仮説(異質性が増すと、集団内のSCは形成されても集団間のSCは形成されないという紛争理論に近い観点)をEurobarometerのデータを用いて検証している。パットナムの議論は移民が増加するという時間的な側面を省略しているため、この論文では通時的な移民の流入も仮説に加えている。この他、先行研究の知見から、経済的な不平等、社会保障、民主主義の歴史とSCの関係について仮説を立てている。分析の結果、エスニシティの指標はSCに対してネガティブな影響を持たず、その代わりに経済的な不平等と民主主義の歴史が各国のSCの違いを説明する要因と分かった。個人的には、経済的な不平等と福祉国家の指標は互いに独立ではないような気がするのだが。。。また、SCは複数の要素が別々に検討されているので、仮説の支持・棄却にいまいち納得のいかない節がある。。。
Boyas, J., and T. L. Sharpe. 2010. “Racial and Ethnic Determinants of Interracial and Ethnic Trust.” Journal of Human Behavior in the Social Environment 20(5):618–36.
Robinson, R. V., and E. F. Jackson. 2001. “Is Trust in Others Declining in America? an Age–Period–Cohort Analysis.” Social Science Research 30(1):117–45.
主観的幸福、トクヴィル、ソーシャルキャピタルの見えざる手
Lin, N. 2000. “Inequality in Social Capital.” Contemporary Sociology 29(6):785–95.
エスニシティの議論のあとに、リンは今後このテーマにおけるアジェンダを紹介している。まず、ジェンダー間、エスニシティ間で資本の不足がリターンの違いを生み出すかについての精緻な議論が求められることが指摘される。次に、そもそも異なる集団によって資本の量や質が本当に異なるのか、及びリターンの違いはどのような資本の蓄積の違いによってもたらされているか、そして不利な集団はいかにして困難を克服するのかが問われなくてはならないとする。最後に、資源が豊かな集団に属している人ほどインフォーマルなつながりを用いて仕事を得ない、つまり積極的に探さずに仕事を得ている現象(リンはソーシャルキャピタルの見えざる手と名付けている)についての解明が待たれるとする(これは不利な集団程インフォーマルなつながりが重要になるという知見につながる)。
Newton, K. 1997. “Social Capital and Democracy.” American Behavioral Scientist 40(5):575–86.
Helliwell, J. F., and R. D. Putnam. 2004. “The Social Context of Well-Being.” Philosophical Transactions of the Royal Society B: Biological Sciences 359(1449):1435–46.
この論文では、World Value Surveyとアメリカ、カナダの複数時点のデータを用いてソーシャルキャピタルが主観的幸福に与える影響について考察がされている。規模が大きすぎるので発見されたことがうまくまとまらない感じを受けたが、基本的にはソーシャルキャピタルは教育や年齢、性別などを統制しても主観的幸福感にプラスの影響を与えるようだ。結婚しているか、家族がいるか、友人との接触、信頼のほか、組織への参加は個人レベルでも集団レベル(国や地域単位での参加率)でも個人の主観的幸福にプラスの影響を与えている。直接効果以外にも、健康状態を介しての効果も確認されている。
どちらかというと議論における仮定を巡る何点の指摘の方が興味深い。SCと主観的幸福感の因果性に関しては以下の四つの懸念材料があるという。一つ目に因果が見かけ上の創刊に過ぎない可能性、二つ目に個人レベルと集団レベルの効果の区別の必要性、三つ目に幸せな人がSCを形成しやすいのではないかという逆の因果、及び主観的な幸福感や人生への満足感は本人が楽天的な性格かどうかに依拠する(それが調査では測ることのできないという意味で?)セレクションバイアスの問題、そして最後に結婚や病気といったイベントが幸福感に短期的な影響しか与えないというhedonic treadmillの問題が挙げられている。
今回の論文はSC論を積極的に批判している
Miller, A. S., and T. Mitamura. 2003. “Are Surveys on Trust Trustworthy?.” Social Psychology Quarterly 66(1):62–70.
Li, Y., A. pickles, and M. Savage. 2005. “Social Capital and Social Trust in Britain.” European Sociological Review 21(2):109–23.
Stolle, D., and M. HOOGHE. 2005. “Conflicting Approaches to the Study of Social Capital.” Ethical perspectives 10(1):22–45.
この論文では、ソーシャルキャピタルを巡る複数のアプローチに関して、既存の議論を整理し、新たな論点を提示している。従来の文脈では、SCはパットナム流の集合財を形成する側面を重視する見方とコールマン流の個人の資本としてSCを考える見方に対立していると考えられてきた。しかし、この論文では、両者の違いは排他的なものではないとする。なぜならば、両者とも、SCが個人のインタラクションから生じるネットワークや規範であることを認めており、違いは何に注目するかという従属変数のレベルに過ぎないからだ。SCの経験的研究に従事する場合、SCがどのように生まれるかという視点の方がより重要だとしている。そこでは、SCが個人のインタラクションというミクロな過程で生まれるという見方と、マクロな制度的文脈で生まれるという二つの考えの違いが重要になる。既存の研究はミクロな側面に注目を集めた研究に集中していたが、今後は政治・経済の制度がどのようにSCを生み出すのかについての考察を加える必要が説かれている。
February 14, 2014
パーソナルライフの社会学(単身女性、レズビアンカップルのドナー選択、シビルパートナーシップ)
Shipman, B., and C. Smart. 2007. “'It“S Made a Huge Difference”: Recognition, Rights and the Personal Significance of Civil Partnership.” Sociological Research Online 12(1).
CPの導入過程に関しては、EUレベルでの人権政策が与えた影響が指摘されている。CPは従来の結婚制度に対して何も変更を加えずに、同性愛カップルに法的な地位を与えるものとして機能しているが、CPにも家族が国家の基本制度として「安定」することが目的にあることが明記されている。この二本立て的な結果を招いた要因としては、結婚制度に価値を置く宗教団体による干渉など複数の主張を持つロビイング団体の存在が指摘されている。インタビュー調査から、CPやそれ以前の制度による承認を経る理由として、法的な地位の承認に価値を置いたり責任を明確にするといったもののほか、公的な議論に表れない承認が培った愛を示す、家族から承認してもらうきっかけを得る、公的な声明による地位を得るなどの理由が見られた。
Macvarish, J. 2006. “What Is‘ the Problem’of Singleness?.” Sociological Research Online 11(3).
Nordqvist, P. 2010. “Out of Sight, Out of Mind: Family Resemblances in Lesbian Donor Conception.” Sociology 44(6):1128–44.
この論文ではレズビアンのカップルが男性ドナーの精子を利用して子どもを設ける際にどのような実践を行っているかを検討している。従来の研究では、カップルは妊娠する女性とパートナー、そしてドナー自身の身体的な特徴を比べて、なるべく自分たちの子どもでもおかしくないように目の色や肌の色が似ているドナーを選ぶことが指摘されていた。今回の論文で対象になったカップルも全体的に同様の傾向が見られた。生物学的な特徴の類似を家族の指標としている点で、レズビアンのカップルたちは既存の伝統的な家族(生物学的なつながりを前提とした家族)の規範を利用して関係の構築をはかっている。これ以外に、似ている特徴を持つドナーとのマッチングの過程はカップルにとってどのような意味を持っているのだろうか。マッチングの過程で精子を提供するドナーは子どもとの生物学的つながりから、子どもと似ていることが彼が家族の一部を構成する可能性をもたらす。これはカップルにとっては特に妊娠した女性やパートナーと子どもが似ていない場合に脅威だとされている。反対に、周りの人々に勘ぐられない程度の違いであれば、ドナーはカップルの視界から消え、忘れ去られることを指摘している。マッチングの際の身体的特徴はドナーを子どもと関係する人物と見なすか、それとも関係ない人として排除するかというプロセスも含んでいるのだ。
February 11, 2014
論文が長くなるとまとめが短くなる現象論文
Skocpol, T. (1996) ‘Unravelling from above.’ American Prospect, 25:20-25.
アメリカ市民社会についての歴史研究で著名なスコッチポルによるパットナムの孤独なボウリング評。彼女自身はパットナムの主張に概ね賛同しているようだ。ただし、歴史的な分析からパットナムがエリートのassocialtional lifeからの撤退と市民団体の性格の変化について検討を加えている。スコッチポルによれば、歴史的に市民社会の発展に寄与してきたのは高学歴のアッパーミドル階級であったが、彼らが市民参加から撤退してしまったことが指摘されている。また、市民団体についてのトクヴィル的なロマン主義が指摘されている。これは、そうした団体が常に政府に先行して存在し、自発的に発生するものであるという考えだが、現在のPTAやボランティア団体はエリートによる上からつくられたものであることが指摘されている。その上で、現在市民参加から撤退したエリート層が相対的に不利な市民こそ社会的紐帯の再構築をするべきだという主張をすることに警鐘を鳴らしている。
Putnam, R. (1993a) ‘The prosperous community: social capital and economic growth’, American Prospect, Spring, Vol. 13, pp: 35-42.
パットナムによるSC論だが、SCと経済発展の関係について焦点を絞っている。パットナムは大規模な制度変更で同時に誕生したイタリアの地方政府のパフォーマンスを比較した。彼によれば、制度の違いもなく、豊かさも直接的な影響を与えていない。そして、市民参加の伝統が強く残る都市の政府においては、そうでない政府よりも政策のパフォーマンスがすぐれていたことを指摘する。すなわち、経済発展をしたからcivicな文化ができるのではなく、civicな文化だからこそ経済発展をするのだという。彼が提唱するSCはよく知られているようにネットワーク、互酬性の規範、信頼だが、どの要素もコミュニティにおける経済発展に関わることが指摘されている。
続いて、SCと経済発展の関係について、東アジアの事例やグラノベッターの弱い紐帯の事例が紹介される。また、アメリカの階級や人種による分離の事例を紹介し、こうした社会問題となっているコミュニティこそSCが不足していると主張する。このように考えると、人的資本や経済資本だけでなく、ソーシャルキャピタルを組み合わせることで、コミュニティの活力は増すはずだと論じられている。SCの重要性はマイノリティに限らず教育にも応用できることも指摘されている。最後に、今後はどのような市民参加が、そのようなSCが公共的な問題にとって重要なのかが分析されなくてはならないことが指摘される。
Paxton, P. 1999. “Is Social Capital Declining in the United States? a Multiple Indicator Assessment.” American journal of sociology 105(1):88–127.
この論文では、既存のSCの議論の混迷をまとめ、SCとして自発的結社と信頼の二つを定義し、これらがアメリカ社会において本当に衰退しているのかを検討した論文。SCの理論的再検討の部分は非常に聖地なので参考になる。例えば、先行研究を整理してSCの二つの側面として客観的に確認できる紐帯と、そこに付帯する信頼などの主観的な側面、さらに両者を個人レベルと集団レベルに分ける枠組みは説得的だった。分析の結果としては、SCの全体的な衰退は見られずパットナムの主張が退けられているが、個別に見ていくと、自発的結社と集団レベルの信頼は衰退していないが、個人レベルの信頼の低下が確認されている。
February 10, 2014
Social Capital in Britain and its critique イギリスのソーシャルキャピタル
Grenier, P., and K. Wright. 2006. “Social Capital in Britain.” Policy Studies 27(1):27–53.
この論文では、パットナムの孤独なボウリングの知見を受けて、彼の主張がイギリスでも通じるかどうかを検証した初めての試みとなっている。筆者はまず、SCを醸成する最も重要な社会参加として組織への参加を挙げ、種類別に分けた後で1950年代から90年代までの会員数について検討する。伝統的な女性団体については会員数の減少が見られるものの、その他の団体ではむしろ登録数が増加していること、及び性別、教育、階級そして年齢別に見た個人あたりの組織参加数を見ても1959年に比べどの階層においても平均スコアが上昇している(ただし、階級間の平均スコアの格差は拡大している)ことから、現代にイギリスにおいても市民参加は衰えておらず、むしろより多くの人が参加していることが示唆されている。次に、インフォーマルな社会参加に関しても、人々は屋外でのレジャーを楽しんでおり、テレビ視聴の増加もラジオのそれの減少に取って代わっているだけだとしている。社会参加を調査ごとのコーホート別に見てみても、違う年に生まれた同コーホート間を比較した結果、教育程度を統制しても個人辺りの平均会員数は上昇している。
このように、社会参加に関しては一貫してどの世代でも上昇しているという知見が紹介されているが、パットナムがあげたSCのもう一つの要素である信頼に関しては全体的に減少傾向が見られている。特に、中産階級と比べた時の労働者階級における信頼の低下が著しい(ただし、中産に比べた上流階級の低下も同じ程度であるが指摘はされていない)。
以降、社会参加は上昇しつつも信頼は低下するという問題についての説明が見られる(ただし、計量分析などはしていない)。伝統的な見方としては、福祉国家化、女性の労働市場への進出、テレビの普及などがあるが、こうした理由は退けられている。代わりに、社会参加の上昇に関しては、教育の大衆化を中心とする制度の変化、イギリスの階級構造の変化(中産階級の増加)、そして政府の政策の変化が挙げられている。次に信頼の低下に関しては、都市化、サッチャリズムによる個人主義の浸透が挙げられている。最後に、政治との関連で、等量率の上昇は社会参加との関連があることが示唆され、さらにSCの分配的な側面の重要性が指摘され、政策提言がなされている。 memo:the distributive dimentions of social capital
Grenier, P., and K. Wright. 2006. “Social Capital in Britain.” Policy Studies 27(1):27–53.
この論文では、Hall (1999)によって提起されたイギリスにおける社会参加の増大と信頼の低下というパラドックスをeplore(なので、問題をさらに拡大していると言ってもよい笑)している。Hallの論文からはいくつかの疑問が提起され、BHPSなどのデータを用いて検証がなされている。まず、社会参加の増加に関しては、階級に始まり、人種間、性別間により格差が増大していること、及び組織へ参加することの意味が変容した可能性(参加しても、昔とは異なりアクティブに参加せず名前を連ねるだけ、ただしこれはパットナムも指摘していたはずだ)が示唆されている。ボランティアに関しても、その動員手法がよりプロフェッショナルなものになったことなどが指摘されている。すなわち、組織への参加やボランティアの前提が昔と比べて変わった可能性があるのだ。インフォーマルな社交に関しても、Hallの分析には仕事を持っていない老人や学生、主婦などが分析に入っていないこと、女性に関しては家事労働の負担という側面を蒸していることが指摘される。信頼に関しては、Hallの主張ほど信頼が低下していないこと、及び低下は他の国と同程度ということが指摘されている。
次に、Hallが挙げた以外のSCとして職場の関係とオンライン上の紐帯が挙げられている(この辺りになってくると、特に分析的な論文を下降としている訳ではないことに気づく)。最後に、SCの変化に関する説明の検討として、政策、社会的な価値観、労働の変化、不平等が挙げられている。特に、価値観に関しては、European Value Surveyの知見から、個人主義的価値観と連続すると考えられる相対主義的な価値観が減少し、代わりに絶対主義的な価値観が支持されてきていること、労働に関しては、労働市場の柔軟化によって職場における満足度が変化することと信頼の低下の議論が結びつけられる必要が主張されている。最後に、収入とSCとの関連から不平等の拡大がSCにどのような影響を与えるかの検討が待たれるとしている。
Li, Y., and M. Savage. 2003. “Social Capital and Social Exclusion in England and Wales (1972-1999).” British Journal of Sociology 54(4):497–526.
この論文では、イギリスにおけるSCの検討として、社会参加を例に分析している。筆者らによれば、既存のSC論(ここでは社会参加)の議論には経験的に妥当性の基準を満たしていないものが多かった。例えば、ブリッジングとボンディングという紐帯の性格を測るためには、個人のネットワークの密度を詳細に調べなくてはいけないが、大規模な社会調査においてはほとんどなされてこなかった。このような問題を踏まえて、筆者らは、SCの排他性exclusiveについて、階級間による分断があるかに焦点を絞った分析をしている。
分析でははじめに、組織別にサービス階級と労働者階級の比率が表されており、大きくサービス階級がドミナントなcivicとワーキングクラスが主なlabourの二つのタイプが発見されている。このような分類をしたのだから当たり前と言えば当たり前だが、labourな社会参加をしているとワーキングクラスであると認識する確率が上昇することになる。こうした分断は教育程度でも同じように見られている。従属変数をタイプを区別せず組織への参加としたときに、その他の社会的属性を統制しても女性は男性よりも社会参加の傾向が低いこと、サービス階級であれば社会参加の程度が増える傾向にあること、またジェンダーと階級の相互作用が確認されている。分析の結論としては、教育程度よりも階級が社会参加に関しては影響力が強いことが指摘されている。
次に、社会参加の形態を先のタイプに訳で、両方ともに参加している場合、片方に参加している場合、どちらにも参加していない場合の4通りに分け、最後を除いた多項ロジット分析をしても両方とlabourの時にジェンダーと階級の相互作用が確認されており、これは女性よりも男性の方が多く雇用されており、さらに女性が雇用されている場合でも労働組合の少ないサービス階級の場合が多いという理由が推測されている。また、逆にcivicにおいては男女差が確認されず、この形態の社会参加が労働形態に拘束されないものであることが分かった。最後に、階級構造の変化によって、中産階級のSCは増加し、労働者のそれは維持された結果、両階級の格差が拡大しているというHallによる主張を確認するため、男性サンプルに限定して(1972年の調査が男性サンプルのみだったため)、時系列的な影響の変化を見ている。分析の結果、パットナムが主張したような社会参加の全体的な減少は確認されず(とはいっても、その他を統制した上で1972年よりも1999年の方が参加を低める結果になっている)、Hallが主張したような中産階級の社会参加の増大と労働者階級のそれの維持ではなく、労働者階級の社会参加の大きな低下と、それと比べれば穏当なサービス階級の影響力の低下(ただし有意ではない)ことが指摘されている。
この論文では、パットナムの孤独なボウリングの知見を受けて、彼の主張がイギリスでも通じるかどうかを検証した初めての試みとなっている。筆者はまず、SCを醸成する最も重要な社会参加として組織への参加を挙げ、種類別に分けた後で1950年代から90年代までの会員数について検討する。伝統的な女性団体については会員数の減少が見られるものの、その他の団体ではむしろ登録数が増加していること、及び性別、教育、階級そして年齢別に見た個人あたりの組織参加数を見ても1959年に比べどの階層においても平均スコアが上昇している(ただし、階級間の平均スコアの格差は拡大している)ことから、現代にイギリスにおいても市民参加は衰えておらず、むしろより多くの人が参加していることが示唆されている。次に、インフォーマルな社会参加に関しても、人々は屋外でのレジャーを楽しんでおり、テレビ視聴の増加もラジオのそれの減少に取って代わっているだけだとしている。社会参加を調査ごとのコーホート別に見てみても、違う年に生まれた同コーホート間を比較した結果、教育程度を統制しても個人辺りの平均会員数は上昇している。
このように、社会参加に関しては一貫してどの世代でも上昇しているという知見が紹介されているが、パットナムがあげたSCのもう一つの要素である信頼に関しては全体的に減少傾向が見られている。特に、中産階級と比べた時の労働者階級における信頼の低下が著しい(ただし、中産に比べた上流階級の低下も同じ程度であるが指摘はされていない)。
以降、社会参加は上昇しつつも信頼は低下するという問題についての説明が見られる(ただし、計量分析などはしていない)。伝統的な見方としては、福祉国家化、女性の労働市場への進出、テレビの普及などがあるが、こうした理由は退けられている。代わりに、社会参加の上昇に関しては、教育の大衆化を中心とする制度の変化、イギリスの階級構造の変化(中産階級の増加)、そして政府の政策の変化が挙げられている。次に信頼の低下に関しては、都市化、サッチャリズムによる個人主義の浸透が挙げられている。最後に、政治との関連で、等量率の上昇は社会参加との関連があることが示唆され、さらにSCの分配的な側面の重要性が指摘され、政策提言がなされている。 memo:the distributive dimentions of social capital
Grenier, P., and K. Wright. 2006. “Social Capital in Britain.” Policy Studies 27(1):27–53.
この論文では、Hall (1999)によって提起されたイギリスにおける社会参加の増大と信頼の低下というパラドックスをeplore(なので、問題をさらに拡大していると言ってもよい笑)している。Hallの論文からはいくつかの疑問が提起され、BHPSなどのデータを用いて検証がなされている。まず、社会参加の増加に関しては、階級に始まり、人種間、性別間により格差が増大していること、及び組織へ参加することの意味が変容した可能性(参加しても、昔とは異なりアクティブに参加せず名前を連ねるだけ、ただしこれはパットナムも指摘していたはずだ)が示唆されている。ボランティアに関しても、その動員手法がよりプロフェッショナルなものになったことなどが指摘されている。すなわち、組織への参加やボランティアの前提が昔と比べて変わった可能性があるのだ。インフォーマルな社交に関しても、Hallの分析には仕事を持っていない老人や学生、主婦などが分析に入っていないこと、女性に関しては家事労働の負担という側面を蒸していることが指摘される。信頼に関しては、Hallの主張ほど信頼が低下していないこと、及び低下は他の国と同程度ということが指摘されている。
次に、Hallが挙げた以外のSCとして職場の関係とオンライン上の紐帯が挙げられている(この辺りになってくると、特に分析的な論文を下降としている訳ではないことに気づく)。最後に、SCの変化に関する説明の検討として、政策、社会的な価値観、労働の変化、不平等が挙げられている。特に、価値観に関しては、European Value Surveyの知見から、個人主義的価値観と連続すると考えられる相対主義的な価値観が減少し、代わりに絶対主義的な価値観が支持されてきていること、労働に関しては、労働市場の柔軟化によって職場における満足度が変化することと信頼の低下の議論が結びつけられる必要が主張されている。最後に、収入とSCとの関連から不平等の拡大がSCにどのような影響を与えるかの検討が待たれるとしている。
Li, Y., and M. Savage. 2003. “Social Capital and Social Exclusion in England and Wales (1972-1999).” British Journal of Sociology 54(4):497–526.
この論文では、イギリスにおけるSCの検討として、社会参加を例に分析している。筆者らによれば、既存のSC論(ここでは社会参加)の議論には経験的に妥当性の基準を満たしていないものが多かった。例えば、ブリッジングとボンディングという紐帯の性格を測るためには、個人のネットワークの密度を詳細に調べなくてはいけないが、大規模な社会調査においてはほとんどなされてこなかった。このような問題を踏まえて、筆者らは、SCの排他性exclusiveについて、階級間による分断があるかに焦点を絞った分析をしている。
分析でははじめに、組織別にサービス階級と労働者階級の比率が表されており、大きくサービス階級がドミナントなcivicとワーキングクラスが主なlabourの二つのタイプが発見されている。このような分類をしたのだから当たり前と言えば当たり前だが、labourな社会参加をしているとワーキングクラスであると認識する確率が上昇することになる。こうした分断は教育程度でも同じように見られている。従属変数をタイプを区別せず組織への参加としたときに、その他の社会的属性を統制しても女性は男性よりも社会参加の傾向が低いこと、サービス階級であれば社会参加の程度が増える傾向にあること、またジェンダーと階級の相互作用が確認されている。分析の結論としては、教育程度よりも階級が社会参加に関しては影響力が強いことが指摘されている。
次に、社会参加の形態を先のタイプに訳で、両方ともに参加している場合、片方に参加している場合、どちらにも参加していない場合の4通りに分け、最後を除いた多項ロジット分析をしても両方とlabourの時にジェンダーと階級の相互作用が確認されており、これは女性よりも男性の方が多く雇用されており、さらに女性が雇用されている場合でも労働組合の少ないサービス階級の場合が多いという理由が推測されている。また、逆にcivicにおいては男女差が確認されず、この形態の社会参加が労働形態に拘束されないものであることが分かった。最後に、階級構造の変化によって、中産階級のSCは増加し、労働者のそれは維持された結果、両階級の格差が拡大しているというHallによる主張を確認するため、男性サンプルに限定して(1972年の調査が男性サンプルのみだったため)、時系列的な影響の変化を見ている。分析の結果、パットナムが主張したような社会参加の全体的な減少は確認されず(とはいっても、その他を統制した上で1972年よりも1999年の方が参加を低める結果になっている)、Hallが主張したような中産階級の社会参加の増大と労働者階級のそれの維持ではなく、労働者階級の社会参加の大きな低下と、それと比べれば穏当なサービス階級の影響力の低下(ただし有意ではない)ことが指摘されている。
February 9, 2014
パットナム、Potes、ソーシャルキャピタル
Bourdieu, P. 2008. “15 the Forms of Capital.” Readings in economic sociology 4:280.
この論文ではブルデューによる文化資本とソーシャルキャピタルについての解説がなされている。資本を蓄積された労働であり、客観的・主観的に刻み込まれるものである。資本を用いて人は自分にとって利益を導く社会的な力を使用できる。ブルデューによれば、資本には経済学的な意味でのそれ以外にも、文化資本とソーシャルキャピタルがあり、ここで解説している。経済資本とは直接金銭に還元できるような、所有権として制度化されているような資本である。文化資本はその形態によって複数に分かれる。まず、身体化された文化資本がある。これは一定期間をかけて意図を持たずとも蓄積するものとされ、いわゆるハビトゥスを指す。これは経済資本と異なりあからさまに利益へと転換されるかが分からないため、象徴的な資本として機能し、資本が不平等に分布している界において利益を巡る闘争があるとする。次に、物質化された文化資本がある。これは絵画や本などのように物質として存在するため、他の物質や金銭と移し替えることが可能だ。また、経済資本によって生産手段を得たことと、その使用方法を理解して利益を生み出すことは異なる。この場合、後者は文化資本と考えられるようだ。最後に、制度化された文化資本がある。これは、教育制度を通じて何らかの資格を得ることと考えられているようだ(この点に関しては、高等教育の拡大が資格の価値にどのような影響を与えたのかが気になる)。また、制度化された資格として文化資本と経済資本との間の交換関係を媒介するともされている。
次に、ソーシャルキャピタルがもう一つの資本として紹介される。これはある集団とのネットワークを構築することで、メンバーシップの承認などを得られる資源を指している。このネットワークは物質的ないし象徴的な資本の交換によって相互承認がされることで維持されているという。このように、資本それぞれには特徴があるものの、三者は相互に関係をしており、経済資本を中心に他の資本へと移転するというのが、ブルデューの主張の重要な点だと思われる。
Portes, A. 2000. “Social Capital: Its Origins and Applications in Modern Sociology.” Annual Review of Sociology 1–24.
Brehm, J., and W. Rahn. 1997. “Individual-Level Evidence for the Causes and Consequences of Social Capital.” American journal of political science 999–1023.
この論文では、パットナムの議論を受けて、GSSデータを使用して市民参加、相互の信頼、そして政府への信頼、この三つの因果関係について検討している。ゲーム理論における囚人のジレンマを引用しながら、個人レベルの行為と信頼の関係について仮説を作っている点など勉強になる点も多かった(たとえば、パットナムは組織への参加がインタラクションや他者への信頼を醸成するなど、集団レベルでの説明に終始していたという)。また、トクヴィル仮説と称して、アソシエーションへ積極的に参加すると中央集権的な政府に対して反抗するようになるという仮説を示していて、アメリカらしい考えのように感じた。分析の結果、市民参加と相互の信頼は相関関係にあること、この方向性は参加による信頼の醸成の方が強いことが分かった。また、変数を統制しても相互の信頼が政府の信頼を醸成することが分かった。
February 8, 2014
さぼってたので一度にまとめました論文
Scherger, S., and M. Savage. 2010. “Cultural Transmission, Educational Attainment and Social Mobility.” The Sociological Review 58(3):406–28.
Lin, N., W. M. Ensel, and J. C. Vaughn. 1981. “Social Resources and Strength of Ties: Structural Factors in Occupational Status Attainment.” American sociological review 393–405.
Dumais, S. A. 2002. “Cultural Capital, Gender, and School Success: the Role of Habitus.” Sociology of Education 44–68.
Stolle, D. 1998. “Bowling Together, Bowling Alone: the Development of Generalized Trust in Voluntary Associations.” Political Psychology 497–525.
Fairlie, R. W. 2005. “An Extension of the Blinder-Oaxaca Decomposition Technique to Logit and Probit Models.” Journal of economic and social measurement 30(4):305–16.
Jamieson, L. (1999) ‘Intimacy Transformed? A critical look at the ‘pure relationship’,
Sociology, 33 (3): 477-494
Farr, J. 2004. “Social Capital: a Conceptual History.” Political Theory 32(1):6–33.
Goldthorpe, J. H. 2007. “‘Cultural Capital’: Some Critical Observations.” Sociologica I(2):1–23.
Savage, M., A. Warde, and F. Devine. 2007. “Comment on John Goldthorpe/3.” Sociologica 1(2):1–6.
Durlauf, S. N. 2002. “Bowling Alone: a Review Essay.” Journal of Economic Behavior & Organization 47(3):259–73.
Stolle, D., and T. R. Rochon. 1998a. “Are All Associations Alike?: Member Diversity, Associational Type, and the Creation of Social Capital.” American Behavioral Scientist 42(1):47–65.
この論文では、自発的結社(アソシエーション)に加入することが、集団内の信頼を高めるという研究結果をもとに、こうした団体への参加が一般的な信頼などのソーシャルキャピタルを醸成するかを、団体の多様性に注目して考察している。例えば、市民団体と労働組合に入るのとでは、一般的信頼の形成にどのような違いが見られるか、などが考察の対象となっている。データは、アメリカ、ドイツ、そしてスウェーデンの団体のメンバーと非メンバーを対象に12のソーシャルキャピタルの指標について分析する形で行われた。分析の結果、団体のメンバーになることは非メンバーよりも多くのソーシャルキャピタルを醸成することが分かった。また、団体間によっても、ばらつきが大きいことが分かった。さらに、団体の性格の違いも一般的な信頼や政治的な信頼などで異なる分布を見せた。特に、文化系の団体への参加は多くのソーシャルキャピタルの醸成と関係していることが分かった。さらに、団体内の多様性も考慮され、均質的な団体は多様な団体に比べ、一般的信頼やメンバー間の互酬性などが高くならない傾向が見られた。
February 4, 2014
まだまだ頑張るなんちゃら論文
Levin, I. (2004). Living apart together: A new family form. Current sociology, 52(2), 223-240.
DiMaggio, P. 1982. “Cultural Capital and School Success: the Impact of Status Culture Participation on the Grades of US High School Students.” American sociological review 189–201.
Sullivan, A. 2001. “Cultural Capital and Educational Attainment.” Sociology 35(4):893–912.
分析の結果、親の文化資本が子どもの文化資本の分布をもっともよく説明していること、芸術館や映画館へ行くことといったフォーマルな文化活動は子どもの語彙と知識には影響を与えなかったが、読書やテレビ視聴(これらは頻度ではなく本や番組の種類をhighかlowに分けている、このようなアドホックな定義が適切かは議論になるだろう。)が影響を与えていることが分かった。また、GCSEに関しても同様の傾向が言えたが、親の階級の直接的な影響が大きく残ることが分かった。
February 3, 2014
今週も頑張ろうソシャキャピ論文
De Graaf, P. M. 1986. “The Impact of Financial and Cultural Resources on Educational Attainment in the Netherlands.” Sociology of Education 237–46.
De Graaf, N. D., P. M. de Graaf, and G. Kraaykamp. 2000. “Parental Cultural Capital and Educational Attainment in the Netherlands: a Refinement of the Cultural Capital Perspective.” Sociology of Education 92–111.
Coleman, J. S. 1988. “Social Capital in the Creation of Human Capital.” American journal of sociology S95–S120.
感想としては、Colemanは義務obligationと規範normをあまり区別して用いていないのではないかという疑問を持った。また、人的資本に移るまでColemanはソーシャルキャピタルの定義を試みているが、あまり整理されていない感を受けた。これはPortesも指摘している通りだ。同様に、ソーシャルキャピタルが人的資本を生み出す過程に注目している点でColemanとブルデューの共通点を見出すことができるが、彼がブルデューについて言及していない点もPortesによって指摘されている。
February 2, 2014
ASR激むずだったソシャネ論文(38/107)
この論文では、就職とソーシャルネットワークの関係について、因果性の観点から検討している。グラノベッターによる弱い紐帯の研究以降、単に個人的な紐帯を利用して就職する人がどれだけいるのかという点以外にも、こうした就職がフォーマルな就職機関を通じたものより有利かどうかが検討されてきた。特に、人々の紐帯から資源を得るという視点を提供したソーシャルキャピタル(SC)の知見から、職業上の地位が高い人とつながっている場合に本人も利益を得ることが指摘されている。しかし、homophilyの考えを踏まえると、本人が良い条件の就職先を見つけることとその人のネットワークもまた良い条件の職業についている人で囲まれていることは因果性を持たないかもしれない。ネットワークはランダムには形成されないからだ。
次に、バイアスはないが個人属性の依存を考えた分析では、先行研究と同じモデルで検討したが、回答者とコンタクトが同様の職業の場合のサンプルを除くとコンタクトと賃金の関係は有意ではなくなったとしている。最後に、内生性バイアスを考慮したモデルでも因果性を確認することはできず、homophilyによる影響が示唆されている。(最後の部分に関しては再読)
この論文では、アメリカの大規模な女性看護士への調査データ(NHS)を用いて、ソーシャルネットワークとソーシャルサポートが乳がんを中心とする病にどのような影響を与えるかが分析されている。データに用いられたのは、都合4回のパネル調査に協力したサンプルのうち、ネットワークについての質問がされる前に乳がんの症状が診察されたものと、質問が終わった後に診察されたものである。
分析の結果、以下のようなことが分かった。まず、confidant(配偶者)がいるかどうかは乳がんやそれ以外の病に対して影響を与えないが、親友や親戚、子どもを持っていない人は志望リスクが高まることが分かった。特に、親友を持たない場合は乳がん以外の病による志望リスクが高まる。ただし、コンタクトの頻度のリスクとの関係はより弱いものである。また、ネットワークを持たずに孤立した女性の方が結合されている女性よりも志望リスクが高まることも分かった。配偶者の有無が志望リスクに関係しないことは、女性にとっては配偶者ではなく友人や子どもなどがソーシャルサポートの提供者であるという知見と整合的である。
Langlie, J. K. 1977. “Social Networks, Health Beliefs, and Preventive Health Behavior.” Journal of Health and Social Behavior 244–60.
Kawachi, I., and L. F. Berkman. 2001. “Social Ties and Mental Health.” Journal of Urban health 78(3):458–67.
はじめに、CohenとWillsによって提案されたメカニズムが紹介される。これは有名なネットワークがメンタルヘルスに与える二つの効果を述べているもので、一つが紐帯をつくることによって精神状態が向上したり、所属する集団から規範的な影響を受けるなどといった主効果、もう一つがサポート資源を持つという認識がもたらすストレスへの肯定的評価と実際に提供されたサポートによってストレスが軽減するというバッファ効果である。
このようなメカニズムは多くの研究者の支持を得て、ネットワークはそれ自体としてメンタルヘルスに影響を与える因果があると考えられているが、ネットワークはすべての人に均等に分配されている訳ではない。ジェンダーやライフコース、社会経済的な地位によって異なることが次で指摘される。
第三に、社会学において発展しているソーシャルキャピタルの知見が紹介され、従来の研究ではego-centricによる手法が中心だったが、こうした一次的な紐帯はその外の社会構造的な部分の影響を受けるというNan Linらの指摘をふまえ、今後はよりsocio metricな調査がされる必要があるとしてしている。最後に、これらの知見を活かしてメンタルヘルスの改善をしようとするinterventionの研究が紹介されている。
February 1, 2014
割と早く終わったソシャネ論文(34/107)
Havassy, B. E., S. M. Hall, and D. A. Wasserman. 1991. “Social Support and Relapse: Commonalities Among Alcoholics, Opiate Users, and Cigarette Smokers.” Addictive Behaviors 16(5):235–46.
この論文では、アルコール中毒者、アヘン使用者、喫煙者のうち薬物使用の中断を目的とした治療を終えたものを対象として、彼らの依存の再発とソーシャルサポートの関係について検討している。サポートとしては一般的なものと治療に対する特定のものが用いられ、前者にはstrucutral support(恋人や友人の存在)とfunctional support(感情的、手段的、及びな必要もないのに助けてストレスを与えるnegativeなサポートの三つ)が、後者にはabstinence(自制)を助ける、より直接的なサポートと周りに薬物を使用する知り合いがいるかというdrug specific structural supportを尋ねている。この他、インタビューで対象者のsocio-demographicな情報を聞き取られた。依存の再発は自己申告ではなく尿検査などの手法がとられた。分析の結果、strucutral supportは再発の防止に効果があったものの、周りに薬物を使用する友人がいることは影響しなかった。また、functional supportは効果はなく、abstinenceに関してはサポートを得ていない場合の再発のリスクが高まることが分かった。最後の議論の部分で、strucutral supportが効果を持ったことに対する解釈がいくつか提示されている。
Hammer, M. 1983. “‘Core’and “Extended”social Networks in Relation to Health and Illness.” Social Science & Medicine 17(7):405–11.
Achat, H. et al. 1998. “Social Networks, Stress and Health-Related Quality of Life.” Quality of life research 7(8):735–50.
Chase, I. D. 1991. “Vacancy Chains.” Annual Review of Sociology 133–54.
ホワイトが発見したVacancy Chainsについてのレビュー論文。Vacancy Chainsとは、ある集団に新しいVacancy(空き)が生じることによって発生する連続した動きのことを指す。例えば新しい家が建てられたり、新しい車ができるという意味でVacancyが生まれることもあるし、社長のポストにいた人が退職して玉突き的に下のポストの人が上に異動することもVacancy Chainsである。実際に観測されたデータを比較するための予測データはマルコフ連鎖のモデルを用いて求められている。このモデルはembedded, first-order Markov chains with absorbing statesと定義される。embeddedとはモデルにおいて時間を考慮しないということであり、first-orderとは現在の位置によってのみ次の位置が決まると仮定するということであり、absorbing statesとはchainがいつか収束することを指している。モデルにおいては、vacanciesはattributesを用いて分けられた複数のstrata(states)の間を動くとされる。この論文では、Vacancy Chainssシステムに見られる特徴を紹介した後、この理論が社会変動が移動にどのような影響をもたらすのかといった点や、集団間による機会の均等についての検討、ミクロ経済学との接合を目指す試みといった観点から用いられているとする。