December 16, 2013

パリ一日目

 ロンドンからパリへの交通手段は当初TGVを考えていたが、やはり値が張るというのと、好奇心もあってバスを選んでみた。ガイドブックを見ても、特にバスについての説明を見つけることはできなかったので、普通の高速バスに、車内でのパスポートのチェックがあるくらいに思っていた。実際には、何点か予想していなかったことがあった。まず、バスが出発する駅でチェックインをする必要があった(これはオンラインチケットだったので、パスポートのチェックが必要だったから)。次に、ドーバーにつくと、一度バスから降ろされて空港と同じように出国審査を受けた。バスに乗り込んで出発かと思ったら再度降ろされた。ドーバー海峡はフェリーに乗って移動するというのだ。バスは車庫に、乗客は上のデッキに移動させられ、深夜1時に二持間の船旅となった。バスは7時半にパリに到着したが、前述のような事情があって、あまりよく寝れなかった。席も広いとは言えず隣の人と触れるには狭かったので、心地よかったとは言えない。それでも、フェリーで休むのは悪くなかったし(眠かったがビールを飲めた)、飛行機に飽きたらたまには利用してもいいかもしれない。

 到着したのはGallieniという駅で、そこから目的地までは地下鉄に乗る必要があった。ただ、朝早いこともあってヘルプデスクが空いておらず、特に地下鉄の乗り方を調べていた訳でもなかったので、どのチケットを買えばいいのかよく分からずにいた。券売機の前に立っていると、同じバスに乗っていた中年の男性もチケットを買おうとしていて、話しかけてみた。なんでも、ポルトガル人でマンチェスターで医者をしているらしい。彼の英語はなかなか聞き取りにくかったし、彼自身そんなに地下鉄事情に詳しくなかったのだが、二人で現地の人にどのチケットを買えばいいのか尋ねて、なんかと乗車できた。彼は別れ際に働いている病院と電話番号を教えてくれた。カッコいいおっちゃんだった。

 パリに到着した日は、2011年の京論壇で一緒だった北京大生と会う約束をしていた。彼は現在SciencePoでエネルギー外交を勉強しているらしい。約束は13時だったので、それまで待ち合わせ場所周辺をぶらついていた。サン・ジェルマン通りにはおしゃれな雑貨屋やブティックが立ち並んでいて、見ているだけで楽しくなった。パリの店の外観は綺麗なものが多いのだが、照明の使い方が上手いのかもしれない。朝食を済ませて、少し通りを外れたところに行っていると、La Bon Marcheという百貨店を見つけた。なんでも世界最古の百貨店らしく、wifiも利用できるかと思ってよってみた。家具や文房具コーナーをぶらぶらしてみたが、どれも高いのでろくなものは買えそうになかった。

 友人と落ち合うと、彼はレストランに案内してくれた。25€とこれ以上の食事代は今回の旅では払えないぐらいの値段だったが、味は良かった(彼は何故かエスカルゴを頼んだが、上手く取り出せないようでいた。。。)その後、ルーブルやパンテオン、ノートルダム大聖堂などを案内してもらって、別れた。彼は本当にホスピタリティ溢れる人で、明日の午後にテストが残っているにもかかわらず、明日の朝の観光にもつき合ってくれる予定。本当に感謝するばかりである。

December 8, 2013

Interpretivism and Generalisation in Qualitative Research

Williams, M. (2000) ‘Interpretivism and Generalisation’ Sociology, 34: 209-224.

 Interpretivismを「アクターの主観的参照枠組みに従って、彼らの意味と行動についての解釈をする社会学の戦略」と定義した筆者はこの戦略と一般化の関係について検討する。筆者はまず、一般化を志向しないフィールドワーカーの例としてギアツを挙げる。ギアツは厚い記述を通じて、当該社会の儀礼の象徴的意味を明らかにしようとしているが、具体的な事例からより広い社会的文脈における特徴を導きだしている点では、実際のところギアツも一般化を志向していると主張する。

 次に筆者は厳格な解釈主義者であるGuba and LincolnやTaylorが主張する一般化は統計的なそれに近いとする。この点から彼らは解釈と一般化が相容れないものと考えている。しかし、彼らのいう一般化は、他にも通じる同じ特徴をあぶり出すというギアツのそれとはその意味が異なるのだ。これが筆者の主張するmoderatum genelizationである。

 最後に、筆者はinterpretative researchにおける一般化の限界と可能性について言及する。あらゆる調査には明らかにする問いの対象範囲を決めるサンプリングが必要である。そして、サンプリングが一般化に深く関わることは言うまでもない。問題は、サンプリングは一般化のロジックの違いによって異なるにもかかわらず、解釈を通じた一般化を主張する研究がそれに気づいていないことだという。筆者はAnalytic Inductionと統計的一般化のロジックの違いをサンプリング方法の違いとともに説明する。前者の例として出てくるZnaniechi (1934)のAnalytic Inductionは別のところで述べたFinch and Mason (1993)のそれとはやや異なる。Finch and Mason (1993)では最初に量的調査をすることで仮説的な質問に一定の経験的妥当性を与えてから、量的調査のサンプルにインタビューをするという方式をとっているが、Analytic Inductionはもう少し素朴なものらしい。筆者によれば、Znaniechi (1934)ではある仮説を限られたサンプルで確かめ、仮説と一致しない回答をサンプルから見つけるまでこの作業を続けるという。つまり帰納的に仮説を立証しようとする方法だが、これはある現象が生じる必要条件について明らかにしても、現象が起こらない場合については何も言えない。つまり十分条件を見つけることができないという。これが統計的調査と大きく異なる点だ。

 さらに一般化を考える際に、サンプリングにはカテゴリについての問題がつきまとうという。これに関して、筆者は(a)カテゴリの存在論的位置と (b)互いに同義ではないカテゴリの二つから論じている。(a)は要するにカテゴリの種類によって一般化の可能性が制約されるというもので、例えば何かしら物理的なものへの解釈を通じた一般化は、それが共有されていれば一般化へのハードルは低くなるが、文化的(シンボリックなものなどだろうか)な特徴を通じた一般化はこれに比べて調査対象以外に範囲を広げることが難しいというものだ。(b)はアクターの解釈は一つに限られない以上、ある主張の妥当性を比較考量することが蒸す香椎というものだ。

 このような事情を反映して、interpretistは経験的な一般化よりも理論的な一般化を志向するという。これに関して、筆者はHammersley(1992)が挙げる三つの理論的推論を紹介する。Hammersleyはこれらいずれもinterpretismには不適切だと考えているようだが、筆者はその中で一つの事例が(ウェーバー的な意味の)理念型的なモデルの例証となるような場合、そこから導きだされた理論は普遍的な主張になることを指摘する。
このように、interpretismにおいては結果の解釈が重要視されるために、対象事例以外に主張を拡大することへの限界もあるが、ある集団や社会の特徴を理論的にモデル化する際には有効な手法だということが述べられている。これがModeratum generalizationである。

Payne, G and M. Williams. 2005. “Generalization in Qualitative Research.” Sociology 39(2):295–314.

 本論文では、先の論文の主張に依拠して、より質的調査の実践という視点、特にいかにしてmoderatum generalizationを意識的に生み出すかに重きを置いて議論している。

 筆者によれば、社会学における一般化の方法は概して統計的一般化とmoderatum generalizationの二つがあるという(これはやや強引なように思われるが)。そして、後者においては最近になるまで調査の質qualityを高める、つまり調査における主張の妥当性(=内的妥当性)を高めることで、読み手に信頼されること(外的信頼性)が重視されてきたという。しかし、筆者によれば、ここで目指されているものは追随する調査でも同じような結果が出ることであり、それは一般化の第一歩であっても、Williams(2000)が主張したような理論的一般化にはほど遠いという。

 次に、筆者はSociology第37巻(volume 37)に掲載された38本の論文を検討することを通じて、近年の質的調査の潮流を把握しようとする。うち14本は経験的なデータを欠いたもので、それらを除外した24本のうち7本は量的調査のデータだったため、質的調査をしている17本の論文を検討材料にしている。それらの特徴を箇条書きにすると以下のようになる。

・厳密な意味での解釈的な手法を採用している論文はない。
・ほぼすべてが複数の質的手法を使用しており、データの数は34、手法は11に上る。
・調査対象の範囲を超えた一般化が可能な理由について議論している論文は皆無だが、全てが何らかの一般化をしており、多くがmoderateなものになっている。



 その後、これら調査の中でエビデンスがどのように用いられているか、主張の構造はどうなっているのか、どのようにして調査の知見をmoderateにしているかが述べられる(省略)。

December 7, 2013

ノルウェーの養子とアメリカのゲイを事例に見るKinshipの変化と実践

Howell. S. (2004). ‘The Backpackers that Come to Stay: New Challenges to Norwegian Transnational Adoptive Families', in F. Bowie (ed.). Cross-Cultural Approaches to Adoption, London: Routledge.

 この論文でHowellはノルウェーにおける養子を迎える親を事例に、人類学における生物学的なKinshipとSchneiderによってそこから抜き出されたRelatednessの概念について検討している。

 Howellによれば、ノルウェーでは必要な際の中絶が合法化されており、シングルマザーに対する経済的な援助も多い。その代わりに、子どもを持たない親子はスティグマの対象になるという。中絶の合法化はノルウェー人の子を養子に迎えることを困難にさせ、その結果として、多くの子を持たない親が海外に養子を求めるようになったという。

 この論文では、以下の二点が主張されている。第一に、生物学的なKinshipは養子を家族として迎え入れる(KinningとHowellは名付ける)場合においても参照されるモデルになっている。第二に、養子を迎えた親は彼らとの関係を見せかけのものとは考えていない。

 これまで、養子はタブラ・ラサ、つまり養父母に迎えられるときには過去の経験を持たない真っ新な存在として考えられてきたという。しかし近年になって養子が背負うbackpackが認識されているという。このような認識の変化に伴い、養子を迎えるノルウェー人の親は子どもの過去の経験に関心を持つようになっている。

 この認識の変化と密接に結びついているのがnature-nurture、つまり子どもの成長には自然(遺伝)的要因が強いのか、それとも環境要因が強いのかという議論だ。Howellによれば、これまでは生物学的要因と環境的要因は3:7ぐらいに考えられてきた。環境要因の強さは養父母が利用するノルウェー政府運営のエージェントや影響力のある心理学者を通じて、彼らにも知られるようになる。その結果、子どもがノルウェーに着いてからでも十分にアイデンティティを形成できると考えられてきた(それでも養子がノルウェーに来る前の環境要因な注目されなかったという)。しかし、近年の研究成果によって、その比率は逆であることが指摘されたという。その結果、現代の西洋社会では人格やアイデンティティ言説の生物学化が生じている。一部の養父母が適応できなかった養子の例が報告されたのも手伝って、次第に生物学的な要因にも関心が向けられるようになる。

 養父母が養子との関係性Relatednessを構築するKinningとは以下のような過程を指す。Howellは養父母がその他の多くの親子に比べて「普通の家族生活」の再現に熱心だということを指摘する。生物学的な親子の間で当たり前とされているようなことでさえも、養子を迎える親にとっては子どもとのRelatednessを構築する重要な機会になる。Howellはこの過程をKinningと名付けている。Kinningの具体例としては、親にとって養子の「誕生」の場面である空港での出迎えで、彼らは子どもと自分たちの似ている点を探そうとすることなどが指摘されている。

 Kinningの過程で、養子が環境に適応などの問題を抱えることは少なくない。これに対して、生物学化されたアイデンティティ言説と子どもがノルウェーに着く前の環境要因(backback)言説は振り子のように前景化したり、背景に下がったりするこという。例えば、環境要因が重要視された従来では、養子が環境に適応できないのは親に責任にあるとされ、彼らは罪深さを感じていた。しかし、これに対しては「思春期に養子は他の子どもよりアイデンティティ形成上の困難を抱えやすくなる」という生物学化されたアイデンティティ言説の一つが前景化する。これは親の不安を緩和するレトリックになっているが、backpackの存在が認知された近年にあって、親自身はいまだに子どもたちの困難を完全に遺伝的要因には帰さず、ノルウェーに到着する前の環境要因に関心を向けるようになるという。

 このように、子どものbackpackへの関心は、「問題を抱える」養子を持つかどうかに関わらず、養父母を子どものoriginを確かめるためのトリップへと向かわせている。しかし、困難を抱える子どもの養父母とそうでない子どもの養父母とでは、トリップに参加する理由が異なるという。後者の親の場合、トリップはジグソーパズルのピースを埋めるように、親にとっては空白な子どもの経験を彼らの生まれた国や文化、周りの人々を通じて埋め合わせるものだが、前者の親の場合、それは子どもが困難を抱えることになった理由を説明するためのものだという。



Weston, K. (1995). ‘Forever is a Long Time: Romancing the Real in Gay Kinship Ideologies'. In S. J. Yanagisako and C. Delaney (eds.). Naturalizing Power: Essays

 この論文においてWestonはGay Kinshipの実践を事例に、西洋的なKinshipを支持するイデオロギーはどのように生じ、人々は日常のインタラクションの中でこのイデオロギーをどのように実践したのかという点から、Kinshipという概念を再構築しようとする。

 Westonによれば、従来Kinshipとは継続する紐帯ties that enduredと考えられてきたという。そこには、広がりと存続diffuse and enduringが構成要素となっていた。前者は、様々な目的のための情況に対し、親類relativesは交わり合うことが期待されているというものであり、後者は紐帯がそう簡単には壊れず持続するというものだ。前者を簡単に言うと、親類はたとえ報酬がもらえなくとも、Kinshipがあるからという理由で様々な手助けをするということになる。
 
 ここでは、親類とは「あなたのためにいる人」とされるが、非家族的な紐帯を持つ人とそのような関係であっても不思議はない。友人や恋人が、利他的な手助けをしたり、彼らとの関係が壊れないと考えるのはごく自然だろう。

 Westonによれば、これまでの社会科学がKinshipとその他の紐帯を区別する際に用いてきたのは、後者が自発的に成り立つという基準だったという。しかし、この区別は後者の紐帯を自発的なものと定義したために壊れやすいもの、従ってあくまで人工的な見せかけのKinshipだという理解を生んでしまったという(1)。

 これに対して、Schneiderは以下のような批判をした。すなわち、これまでの理解はKinshipを生物学的な血縁に還元するものだった。このような理解が成立したのは、西洋においてKinshipを生物学的なつながりに帰することを可能にした文化的構造があったからであり、それは社会ごとに異なる。Schneiderは、西洋的なKinshipは社会的つながりを生物学的なつながりによって分類しようとしたものにすぎないと論じた。

 しかし、この議論は人類学のこれまでの前提を揺るがしかねない提起をしていた。Schneiderの定義に従えば、どれもKinshipになりうるのであり、それは人類学がこれまで対象としてきた領域をも崩壊させることになるのだ。

 Westonはこの主張に対して一定の評価をしつつも、Schneiderの議論の中にはなぜ西洋社会(ここでは米国)でこのようなイデオロギーが支持されたのかという歴史的な視点が欠けているとする。WenstonはKinshipを支持するイデオロギーはどのように生じ、人々は日常のインタラクションの中でこのイデオロギーをどのように実践したのかという点から、Kinshipを再構築しようとする。

 フィールドワークを試みたサンフランシスコのベイエリアのゲイの事例から、Westonはまず1980年代に登場したgay kinship ideologyについて述べる。そこでは、Kinshipの生物学的血縁への還元が批判されるかわりに、継続したつながりとしてのfrinendshipがkinshipの構成要素となったという。それは以下の事情による。

 ゲイたちは、kin(血縁)のある親類に自分がゲイであることをカミングアウトする過程を経る。これは親類から家族であることを否定される可能性を含む、精神的に負荷のかかるものだ。そのカミングアウトの場面で、彼らは「お前はまだ私の息子だ」「あなたはまだ私の母だ」というような言葉を使う。重要なのは、このフレーズ自体が生物学的なKinshipの限界を示唆しているという点だ。カミングアウトの過程は、血縁さえも変わりうるものであることをゲイに認識させた。このように生物学的なKinshipが強固なものだと考えられなくなると、Kinshipという言葉で表されたゲイ同士の恋人関係も同じく不安定なものになる。そこで、その代わりにfriendshipがenduringを意味する言葉としてkinshipの「中」に入ってきたという。

 ここにきて、gay familyという言葉にはゲイや異性愛者の友人、恋人や元恋人、さらには子どもまで含められるようになったという。これは、gay kinshipはモデルとなるものが無いため、結果的に従来のkinshipの概念に頼ってしまうことから生じた。つまり、彼らにとってもkinとnon-kinを分けるのはDiffuseとEnduringなのだ。

 しかし、これはゲイたちが従来のKinshipを概念をそのまま借りたことを意味する訳ではない。確かに、enduring solidaritiesを志向する点で、gay kinshipは従来の生物学的なkinshipと同じだ。だが、両者の間には大きな違いがある。Schneiderが指摘したような西洋的なKinship概念では、まず先に生物学的紐帯があり、そうである以上Kinshipは持続するものと考えられた。しかし、ゲイたちの論理は逆になっている。つまり、相互に助け合い、継続したつながりがKinshipなのだ。そして、friendshipとして継続した関係を築くことがKinshipを構成するのだ。

(1) これに関して、Westonは米国においてAuthenticityという概念がKinshipに関わらずジェンダーやエスニシティの社会的な議論の際には重要になってきたという。米国に限らず、日本においてもまず真なるものを措定して、現象に対してその基準に見合っているかという点から価値判断をすることは少なくないように思える。

December 1, 2013

再生産論に思う

Slater, David H., 2011, The “New Working class” of urban Japan, in Ishida Hiroshi and David Slater ed, Social Class in Contemporary Japan, London: Routeledge, 139-169.

舞台は武蔵野、そして中学校。テーマはなぜ労働者階級の子どもは底辺高校に進学するのか。

初めてこの論文を読んだのは2012年の8月。駒場の社会学理論演習でウィリスの文化再生産論について発表した時だった。

前年のTAセミナーでウィリスのハマータウンを読んでから、その説明は美しいと思ったし、共感もした。自分自身、少なからずあのようなコミュニティを見ながら思春期を過ごしたことも大きかったと思う。しかし、同時にハマータウンと僕が上京するまで過ごした田舎には大きな違いがあることにも気づいていた。ウィリスがレファレンスにした労働者階級の文化というものを、僕は田舎に見出すことができなかったのだ。

ハマータウンの考えに賛同しつつも、21世紀の日本において、ウィリスが足を踏み入れたようなコミュニティがあるのか、このズレを解消してくれるような文献を探していたときに、Slaterの論文に出会った。論文を掲載した本が駒場の新刊図書のコーナーにおいてあったのはラッキーだった。当時の僕だったら、わざわざ英語文献を検索するなんてことはしなかっただろうからだ。英語に対して抵抗感はあったが、論文のタイトルに惹かれてすぐコピーしたのを覚えている。その流れで、発表にも使った。

一年後、再び論文を読むことになった。今回は自発的に。階層論の論文を読むにつれ、ゴールドソープの合理的選択理論とブルデューの文化資本の対立を知り、なぜ階級間再生産が続くのか、この文脈でまたSlaterを読みたくなった。

彼がフィールドワーク先に選んだのは、武蔵野市内の公立中学校。生徒が特定の出身階層に偏っている訳ではない、東京と言っても西部であることを考えれば、他の地方都市にもあるような中学校だ。生徒は受験を通じて進学校から底辺校にまで進んでいく。Slaterが立てた問いはシンプルで、なぜ労働者階級の子どもは底辺校に進学し、中産階級の子どもは進学校に行くのか、である。

もっとも、日本に階級があるという前提で議論を進めることに対して疑問を持つ人がいることも確かだろう。これに関しては、Slaterは厳密な定義をしていないが、前者をリストラに合う可能性もあるサービス業やマニュアル職、後者を終身雇用のホワイトカラーと想定しているように思われる。同時に、彼らの職業とは別の文脈で、彼は中産階級的な文化、といった言葉を使用する。Slaterの中ではミドルクラスという言葉で親の階層と文化が一致して捉えられると考えられているのかもしれないが、そもそもそういう想定は妥当なのかという議論もあるだろう。しかし、大きな主張としては用語の使用は問題にならない。ここではひとまず便宜的な区分だと考えておこう。

冒頭で労働者階級の母親が子どもには無事高校を卒業して仕事についてくれればよいと言及している。こうした階級間の子どもに対する学歴期待の差を抽象的な次元に落とし込んで再生産を説明しようとしたのがGoldthorpeだが、ブルデュー的な考えをするSlaterの論文では、もう一つ重要な要素、すなわち文化が絡んでくる。

Slaterは階級間の高校進学先の差を説明するのに、学校での集団生活における文化の変化に対応できるかが階級間で異なるという論法をとっている。大雑把に思われるかもしれないが、彼は二つの学校文化を提示している。

第一が道徳的な共同体moral communityという文化だ。これはある集合的な目標に対して生徒が貢献することを求める秩序を指している。さらに、この秩序のもとでの人間関係はウェット、つまり情に満ちたものだという。この秩序では、個人の利害を追求するのではなく、集団の目標に向けて時として遠慮をすることさえも奨励されるのだ。例えば学校の運動会や合唱コンクールといったイベントに対しては、クラス単位で参加することが普通だろう。クラス単位での目標達成に個人が貢献するという秩序は日本の多くの学校に見出されると思われる。(ちなみに、この秩序は日本の多くの中産階級的なコミュニティで見られるものらしく、Slaterによれば選別の過程だけでなく社会に出てからもこの秩序に対応できるかどうかが重要だという。対応できないものが村八分にされるという指摘までなら分かるが、果たして中産階級的なのかは意見が分かれるだろう)

こうした秩序を通じた社会化のプロセスは次第に第二の文化に移り変わっていく。小学校と中学校の前半までは先の秩序なのだが、受験期に入ると偏差値の基づいて個人が選別される能力主義的な文化が表れてくる。これは別に小学校のときに成績が考慮に入れられなかったといっている訳ではない。学校内のコミュニケーションの論理が集団主義的なものから個人主義的なものに転換するのだ。それまで、集合的な目標に対して滅私奉公するのが理想だったとすれば、受験期には良い成績を取ることが学校内で評価される基準になるのだ。

この秩序の変化に対して、中産階級出身の子どもは、難関校の入試を突破するためには学校の教育が不十分で、塾に通うことが必要を感じ受験体制に入る。逆に労働者階級出身の子どもはこの秩序の変化に対応できない。例えば、先生がテストの成績を重視するようになっても、労働者階級出身の子どもは理屈が理解できないという。結果として、中産階級出身で進学校に進んだ子どもが中学時代を振り返るときは、塾と学校のバランスをとっていたという証言がくるが、労働者階級出身で底辺校に進学した子どもは先生との関係をネガティブに捉えていることが述べられている。明言はされていないが、階級間でなぜ対応できるかに違いがあるかは、親の考えが大きいように思われる。

高校進学時点でかなりの機会格差に条件づけられてしまうため、ここから「逆転」することは困難なように思われる。公立教育が中心の地域の場合、公立中学からどの高校に進学するかが決定的に重要になってくるのは言うまでもない。進学プロセスの分岐点ともいうべきタイミングで、階級間でなぜ異なる行動が見られるのかを説明した点でこの論文は評価できるだろう。

しかし、文化の変化で分岐を説明するのは危険に思われる。例えば、階級間で中学入学時点で学力差が既についていたと考えるのは可能だろう。また、秩序を編成する論理となっている文化を媒介項にしつつも、その対応が階級間で異なるというのは、階級決定論に誤解される危険性もある。例えば、労働者階級の出身なのに進学校に進んだ子どもの例などを用いて、より詳細な分析をすることが求められるだろう。

とはいえ、この論文はこれまで階層間による異なる社会化のプロセスの研究に乏しかった日本の教育社会学の中では評価されるべきだろう。これとは別だが、自分自身これに近い環境で育ってきたので、この説明は的を得ていると強く感じる。

例えば、小中学校の学級委員のような役職に就く子どもは、やはり集団の利益を考えて滅私奉公をしているように見えた。もちろんミーハーな気持ちもあったかもしれないが、責任感は小さくなかっただろう。それを常に傍目で見ていた自分はあまり居心地が良くなかった(なぜなら、そういう子どもの方が人気があるから)。そういう子は成績もとるのだが受験結果としては進学校とはいえないところに進むことが多かった。これは、個人主義的な文化への転換に対応できなかったようにも見えるのだ。もっとも、親の出身階層など分かるのは一部の子どもに限られていたので、何ともいえない。塾の経営者の子どもが不良になったケースもあるので、階級間という議論には慎重にならざるを得ない。しかし、学校文化の変化に対応できるかできないかは重要だと思われる。

自分はSlaterの区分であれば労働者階級の出身になると思うが、受験の流れには乗っていけた。中学校に入って最初のテストで芳しくない成績をとってしまい、親に自転車で15分くらい行ったところにある月3000円の塾を薦められた。お金に余裕は無かったので、親としては3千円で子どもを塾に行かせることができる安心感を得たかったのかもしれない。確かに、塾に入って以降、成績は上がったが、本人(つまり僕)としてはそれは塾に行ったからではなく、最初のテストはたまたま悪かっただけという認識でいた。それを何度いっても母は「塾に行ったからだ」と言い張ったので、子どもながらに塾というのは親を安心させるためにあるものなのだと感じていた。
なので、特別月謝の高い塾に行くことは親の安心感をこれ以上向上させることにはならないし、僕も高い塾に行くせいでお小遣いを減らされるのも嫌だったので、その塾に通い続けることにした。塾の先生とも相性は良かったので、新しいコミュニティができた感じだった。できたばかりの小さな塾で、偏差値40-45の子が55の高校に入りたくて、もしくは単に友達が通っているからという理由で来ている人ばかりだった。第一志望の高校に合格したときには、うちの塾で初めてだと驚かれたくらいのところだったのだが、僕としては変に競争主義にならない環境を気に入っていたので、母の指摘が必ずしも外れているとは思わない。

僕には母同士が姉妹のいとこがいるが、その叔母もうちの母と同じような境遇だった。彼女は運動神経がよくて、学級委員もできた、典型的な人気者だった。小学校の成績も良くて最初は僕より期待されていたのだが、中学校に入るとヤンキーグループに入ってしまい、受験もなんとなく過ごして結局短大を卒業して現在はサービス業についている。いとこの方がまじめで成績も良かったのに、受験の結果は大きく違うことに、僕は度々いとこに「もったいないよ」と言っていた。
どこで差がついたのかと考えると、やはり親の教育方針だったように思う。恥ずかしながら、両家には方針と言えるほどの考えも無かったのだが、小さいながらも大きく違うのは、うちの母は学をつけることの大切さを知っていたのだった。二人姉妹そろって離婚を経験し、互いに家も近いので祖母も交えて、子ども二人、計五人でよくご飯を食べていた(祖父は交通事故で母が14歳のときに亡くなっている。遺族年金は微々たるもので、うちの家計の寂しさはこういうところにも起因する)。その後、二人とも再婚した。再婚のタイミングは姉、つまりうちの母親の方が早かったが、回顧すると母は一度リストラにあった義父にDVめいたことをされていたし、僕が12歳のときに乳がんにかかるなど、うちの家庭が決して順調だった訳ではない。(エクスキューズとしては、現在は夫婦仲良く、がんも再発せず、おまけに弟もできて仲良く過ごしている。息子は浪人したものの、東大に通っている。)
母は僕の進路に介入しない代わりに(自由にやれと何度も言われた、これは今では本当に感謝している)、「借金をするな」と「警察の世話になるな」及び「学はつけろ」と言っていた記憶がある。正確には自分から積極的に学をつけろとは言わなかったものの、東大を志望してからもできる限り支援はすると言ってくれたので、本人としてはそうした子どもの意欲には肯定的だったように思う。

最後の方は随分と自分語りが多くなってしまったが、こうした思いを喚起させてくれる論文も悪くないではないか(