November 30, 2013

機能主義的階層論としてのデュルケム階級理論

今回はデュルケム理論を発展させたGruskyの階級概念を紹介します。デュルケムの階級理論というか、ほとんどGruskyのオリジナルなものですが。

 David B. Gruskyの階級論の議論にはデュルケム的な社会観がベースにある。『社会分業論』において、デュルケムは近代化とともに職業の専門分化が進むこと、及び出身など選択の余地のなかった機械的連帯から個人によって選択される有機的連来への転換を説いた。Gruskyはデュルケムの考えに従って、産業化が進展するなかで職業の分化が起こっていると主張する。Gruskyによれば、Goldthorpeのような階級図式はあくまで階層秩序を操作化した名目的nominalなものに過ぎないという。これに対して彼は、先の二項図式の他、属性ascriptionから業績attainmentとも呼ばれる近代化プロセスの中で、前近代的とされるゲマインシャフト的な集団として職業を捉えている。というのも、ポストフォーディズムにおける職業の専門分化は、生産に基盤をおいた連帯を弱体化させるのではなく、むしろよりローカルなものして強化する方向に働くからだ(Grusky and Sørensen 2001)。

 このようにGruskyは、それぞれの職業集団の中で利害や文化、政治的志向が共有されているという想定をしている。以前は職業上の地位や収入から測定した階級でも現実における階級意識と対応を持っていたのかもしれないが、現在においてそれはノミナルでしかないというのが、議論の出発点になっている。Gruskyの中では、職業が個人と社会を結ぶ価値を備えていて、労働者は自らの価値に合う職業を選ぶし、雇用者も職業の価値に見合うような労働者を雇うのだ。従って、職業単位で見たときに、彼らの階級意識や文化消費、ライフスタイルは似通ったものになる(Grusky and Weenden 2001)。

 ただし、こうした職業の性格はデュルケム的な機能主義だけによって定義されている訳ではないことに注意したい。Gruskyによれば、職業は機能主義的な見方から演繹的に分類されるのではなく、言説を用いた職業間の象徴闘争から定義されるという。例えば、眼科医ophthalmologyと検眼医optometristは目の手術に関して、それぞれ異なる利害や目論みをもっている。どちらの主張が通るかはどちらの言説が説得的に作用したかによる。しかし、それにもかかわらずGruskyは機能という観点から職業集団をとらえることの重要性を指摘する。職業の機能自体が言説として職業間の闘争に用いられるためだ(Grusky and Weeden 2002)。

 ここまでで、Gruskyの階級概念には理論的折衷が見られることに気づく。彼は機能主義的な理論をベースにしながらも、その分化の過程を職業間の言説を用いた闘争としている。この意味で彼の階級概念には紛争理論の影響も見られることが分かる。特に闘争を言説を用いた文化的なものとしている点で、彼の考えはブルデューに近い。ただし、この概念は「~~の職業集団には共通のアイデンティティがある」という主観的な側面に依拠している点を見逃してはならない。太郎丸(2005)がGrusky and Galescu(2005)に対して指摘したように、自分が想像している階層秩序が実際の秩序と対応を持っている訳では無いことは、こうした主観的な定義の危険性を示唆する。Goldthorpe階級理論とは、階級の主観・客観的測定という次元で大きな差異があることに注意したい。その一方で、文化闘争といった主観的側面を無視すると、Goldthorpeのような合理的選択理論に傾くこと、ゆえに階級が個人の選択への制約constraintsとしか見られなくなってしまうとGruskyが指摘している点は重要だ。

 GruskyはこのようなMicro Class Analysisの手法を用いて、WeedenとともにアメリカのGSSデータを使用した職業図式を作成している(Weeden and Grusky 2005)。最近ではSSMデータを用いて日本の階層秩序の趨勢をこの手法で分析している(Jonsson et al. 2008)。

[文献]

Grusky, D. B., and G. Galescu. 2005. “Foundations of a Neo-Durkheimian Class Analysis.” Pp. 51–81 in Approaches to class analysis, edited by Erik Olin Wright. Cambridge: Cambridge University Press.
Grusky, D. B., and J. B. Sørensen. 2001. “Are There Big Social Classes?.” Pp. 183–92 in Social Stratification: Class, Race, and Gender in Sociological Perspective, edited by David B Grusky. Boulder, CO: Westview Press.
Grusky, D. B., and K. A. Weeden. 2001. “Decomposition Without Death: a Research Agenda for a New Class Analysis.” Acta Sociologica 44(3):203–18.
Grusky, D. B., and K. A. Weeden. 2002. “Class Analysis and the Heavy Weight of Convention.” Acta Sociologica 45(3):229–36.
Jonsson, J. O., D. Grusky, Y. Sato, S. Miwa, and M. Di Carlo. 2008. “Social Mobility in Japan: a New Approach to Modeling Trend in Mobility.”
Weeden, K. A., and D. B. Grusky. 2005. “The Case for a New Class Map.” American journal of sociology 111(1):141–212.
Weeden, K. A., and D. B. Grusky. 2009. “Is Inequality Becoming Less Organized?.” Stanford University the Center for the Study of Poverty and Inequality Working Paper 09-1.

November 29, 2013

多元主義的社会階層としてのウェーバー階級理論


2013年11月にChan and Goldthorpeの一連のプロジェクトを読みながら、ウェーバーの階級理論をごく簡単にまとめてみました。やたらアクセス数がよいので、恐らく、大学で社会階層論を学ばれている学生なんかがレポートのネタ捜しの結果、行き着いたのかもしれません。階層と階級の区分とか、ややこしいですよね。黎明期から近年まで、階層と階級の区分は社会的資源の分布を連続的に捉えるのか、質的な差異を強調するのか、また(特に日本では)マルクス主義は階級を使用する、といったような棲み分けがされていましたが、最近では両者を互換的に用いる人が大半です。


以下、役に立つ変わりませんが、ご活用ください。


  マックス・ウェーバーの階級理論の特徴はその多元的主義価値観にあるといっても過言ではない。ウェーバーの理論を継承した階層研究者は、はじめに労働市場と雇用関係によって形成される社会的な権力(power)と生活機会(life chance)に注目する。ウェーバー及び彼の理論の継承者は、こうして経済的に条件づけられ社会階層が威信や組織における権力を生み出すと考えた。結果としてウェーバー理論では階級(class)・地位(status)・党派(party)、以上の三つの側面から不平等が生じる過程を捉えている。注意すべきは、この三つの要素は相互に関係し合いながら独立に生じると考えられている点にある。例えば、複数の地位集団(status groups)は必ずしも社会階級(social classes)の秩序に依存する訳ではない。こうした視点は、資本家・労働者といった階級があらゆる不平等を形成する源泉と考えたマルクス主義的階級論とは対照的である(Pakulski 2005)。

  ウェーバーの枠組みを発展させた最大の功労者であるJohn H. Goldthorpeは以下のような社会階級の分け方を提示している。まず、労働市場における雇用関係から使用者(employer)と労働者(employee)、そして自営業者(self-employed workers)の3つの階級を想定することができる。このような雇用関係の地位に加えて、職業の種類を考慮に入れた結果、管理職、専門職、小規模経営者(農業者を含む)、自営業、技術職、技能職、被技能職に分類され、さらに管理・専門職に地位の上下を加えた9階級区分が成立する。さらに社会的地位に関しては、Laumann(1966, 1973)に従って、職業を単位とする地位順序を作成している(Chan and Goldthorpe 2004)。

  こうした不平等を生み出す要素が多元的だとする見方は、現在でもなお経験的研究に応用されている。近年注目が集まっている文化消費を例にして考えてみよう。階級が客観的な経済機会を意味しているのに対して、ウェーバーは地位が集団間を境界づける間主観的な差異(distinction)として機能していると考えた(Chan and Goldthorpe 2007a)。これに従って、Goldthorpeはライフスタイルや文化消費を地位と結びつけて議論している。彼はTak Wing Chanとの共同研究で、音楽、映像美術、新聞などの文化消費が階級ではなく地位と結びついていることを明らかにした(Tak Wing Chan and John H. Goldthorpe 2005, 2006, 2007b, 2007c)。

  もっとも、ウェーバーに忠実に従おうとすると、階級と地位の対比が問題となる。ウェーバー (1946)の古典的な定義では、経済的な資本から成立する階級(Class)以外に、所属する集団の利害に基づいた地位(Status)が社会階層を形成する要因とされてきた。この考えに基づくと、階級は経済的な資源であり、集団間の差異は程度的なものであるとされるが、地位は集団に対応するものであり、集団間の差異が威信的な文化によって強調されることになる。

[文献]

Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2004. “Is There a Status Order in Contemporary British Society?: Evidence From the Occupational Structure of Friendship.” European Sociological Review 20(5):383–401.
Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2005. “The Social Stratification of Theatre, Dance and Cinema Attendance.” Cultural Trends 14(3):193–212.
Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2006. “Social Stratification and Cultural Consumption: Music in England.” European Sociological Review 23(1):1–19.
Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2007a. “Class and Status: the Conceptual Distinction and Its Empirical Relevance.” American sociological review 72(4):512–32.
Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2007b. “Social Status and Newspaper Readership.” American journal of sociology 112(4):1095–1134.
Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2007c. “Social Stratification and Cultural Consumption: the Visual Arts in England.” Poetics 35(2-3):168–90.

Pakulski, J. 2005. “Foundations of a Post-Class Analysis.” , 152–79 in Approaches to class analysis, edited by Erik Olin Wright. Cambridge: Cambridge University Press.
Weber, Max. 1946 “Class, Status, Party” in Max Weber: Essays in Sociology. Oxford University Press. tlanslated by H. H. Gerth and C. Wright Mills. 180-195. (reprinted in Grusky D. Ed. 1994. Social Stratification. Westview. 113-121.)


November 22, 2013

職業威信



自分の中で、記者の地位ってそれなりに高い印象を持ったので、少し調べてみた。

記者はEGP図式ではⅡに、SSM8分類では専門に入ってる。ざっと見た感じ、全体の中では威信は比較的高めと見てよいだろう。だが後者では専門の中ではかなり低めにでている(95年時)。国際比較用のISCOの中では、むしろEGPのⅠの平均に近い。

SSM95年の威信スコアは長松奈美江さんの授業用ページから拝借(見やすい)
http://namie.boo.jp/pukiwiki.php?%BF%A6%B6%C8%B0%D2%BF%AE%A5%B9%A5%B3%A5%A2#gb269e14



Nakao & Treas (1994)はアメリカのGSSを使って測定をしている(東大のSSL-VPNから論文落としたのでリンクが貼れないので読みたい人は自分で落としてください。) でも、このデータとGanzeboomとでは同じ職業でも随分威信が違ってくる。やっぱり国の間で違いは大きいのだろうか。


SSM95年のデータだと、記者が幼稚園教諭よりも威信が低いというのは面白い。また、販売に分類されているフライトアテンダント(スチュワーデス)の威信が異常に高いのも面白い。

恐らく、私の周りの記者は朝○とか○経で働く人が多いからバイアスがあるものと思われる。記者と言っても全国紙の新聞記者以外に地方紙記者や雑誌記者もいる。こちらの方が、一般的な記者・編集者のイメージに近いのかもしれない。


また、フライトアテンダントは明らかにジェンダーバイアスが激しいので、男女別に測りなおす必要があるだろう。試験的なものは、脇田(2012)にあったと思う。


文献ごとに結果が異なる職業も多かったが、二次測定という点を除いてはそれぞれ測り方は違うだろうし、なかなか難しい。


家事サービス職業従事者とかも専門に入っているんだから、プロのお手伝いさんとかを調査側は想定しているのだろうが、実際のところ人々が想像するのは家事手伝い的なものなのか、相当低い。威信に対して専門能力を高く(低く)見積もる時に、測る側/測られる側のジェンダー差が大きそうだ。

ざっと調べてみた限りの書誌情報


Ganzeboom, H., & Treiman, D. J. (1996). Internationally comparable measures of occupational status for the 1988 International Standard Classification of Occupations. Social Science Research, 25(3), 201–239. doi:10.1006/ssre.1996.0010
Nakao, K., & Treas, J. (1992). The 1989 socioeconomic index of occupations: Construction from the 1989 occupational prestige scores.
Nakao, K., & Treas, J. (1994). Updating Occupational Prestige and Socioeconomic Scores: How the New Measures Measure up. Sociological Methodology, 24, 1–72.
Treiman, D. J. (1977). Occupational prestige in comparative perspective. Academic Pr.
都築一治. (1998). 「職業評価の構造と職業威信スコア」.
塩谷芳也. (2010). 「職業的地位の構成イメージと地位志向」. 『理論と方法』doi:10.11218/ojjams.25.65
直井優・鈴木達三,1977,「職業の社会的評価の分析――職業威信スコアの検討」『現代社会学』4(2): 115-56.
脇田彩, (2012), 「職業威信スコアのジェンダー中立性: 男女別職業評価調査に基づく一考察」『ソシオロジ』57 (2)社会学研究会: 3-18.
及び長松奈美江氏ホームページ 「職業威信スコア」 http://namie.boo.jp/pukiwiki.php?%BF%A6%B6%C8%B0%D2%BF%AE%A5%B9%A5%B3%A5%A2

November 11, 2013

そつろん

ひとまず卒論は学校(進路)選択を親子の間の家族戦略という枠組みで考えて量的調査の二次分析とインタビューなどでやろうかなと考えています。
やっぱりCromptonの指摘で大事だと思うのは、いくらミドルクラス出身の子どもが労働者階級出身の子どもに比べて、大学に行く確率が高いとか、ミドルクラスに到達する可能性が高いとかいっても、その過程を無視するのはよくないということですね。それで、GoldthorpeのようなRATに行くのもいいと思うのですが、率直に言うとRATで卒論で面白いことが言える自信が全くないのと、何が面白いのかさっぱり分からないので(いや、RATで説明しようと考えたら面白いのでしょうが、現在はあり得る説明の一つくらいに考えています)やりたくないかなと。それよりはブルデューの理論や質的研究をした方が一般化は無理でも面白いことは言えると思います。

何に注目して家族戦略を分析するかですが、長男規範でも、都市・地方の比較でも、はたまた帰国子女でもいいです。一つか二つに絞ってそれぞれの章で比較したいかなと思います。

家族構造に着目すると自分の中で宣言しちゃったので、例えば出生率が減少したことが家族戦略にどう影響をもたらしたのかとか、二世代ではなく三世代関係の中で家族戦略を捉えられないのかとか、女性のフルタイム労働が云々とか言いたいですが。。。

November 6, 2013

水曜+論文のレビュー

今日は質的研究法(チュートリアル)→日本語の授業→ソシャネセミナー

リーディング明けの質的研究法のチュートリアルでは、三週連続で小さな課題が全員に課されている。今回は参与観察についての回だったので、事前に指定された条件のもと、参与観察し、フィールドノートをとり、その後にまとめたダイアリーをつけることが課題だった。

指定されたのは午前8時から午後5時のバス停。15分の参与観察が宿題だった。

僕は寮に一番近いバス停から一つ離れた午前8時過ぎのバス停を選んだ。単に知り合いに会うのが面倒くさい、というか、それだと課題にならない、また寮の近くのバス停だと学生が大半で多様性に欠けると考えたからだった。

無意識に大学に向かうバスが通る停留所を選んだが、仮に同じバス停の違う方向を選んでいたら、学生以外の人がきたかもしれない。また、夕方に行っていたら、大学(市内)行きのバスに乗る人はどういう人がいたのだろうか。

僕はほとんど人にしか注目してなかったのだが、チュートリアルで先生に「もっと状況の描写から入ってもいいかもね」という趣旨のコメントをもらった。確かに、なぜ人にしか目がいかなかったのだろう。そりゃ、バス停だから人に注目するのは当たり前のような気もするが、周りの風景を観察するのも構わない。恐らく、自分がいつも通る道を選んだので、その辺りに関しては注意を払わなかったのだと思う。

15分間、冷たい石のベンチに座ってノートを取る、バスに乗り込んだのは8人くらいで、全員学生に見える若者だった。逆にバスから降りる人は2人だけ、一人は労働者っぽい服装をした30代くらいの人、もう一人はスカーフをした女性と彼女の(と思われる)子ども。当たり前だが、乗る人降りる人で特徴は全然違う。年齢、性別、エスニシティ云々。

水曜のチュートリアルは正直言って退屈だ。チューターの先生の教え方は下手ではないけど、教科書的すぎる嫌いがある。授業で習ったことの復習がメインで,それを生徒が答えられるような誘導尋問をたまにしたりする。ただ、面白い説明をするときもあるし、なにより授業外で話していて楽しいので好きな先生ではある。

生徒の方が問題で、5人の少人数の割にモチベーションが低い。2人がイギリス人、1人が中国からの交換留学生、2人が日本人で、僕と都内某私立大の人。アジア系が半分以上で、英語ができる訳ではないので、2人のイギリス人ばかり話すかと思ったが、期待は裏切られる。

まず、彼らは出席しない。

2人とも、5回のチュートリアルで2回ずつ欠席している。ちなみに、男性の方は「先週休んだのは調子が悪かったからだ」と前回も今日も弁明した、前回は風邪で今回は腹痛らしい。

休むのは仕方ないとして、文献も読んでこないのでまた驚く。今回は女性の方は読んできたが、男性の方が読んでこなかった、たった10ページそこらの短い論文なのに。ちなみにこの男性は授業も腹痛で休んだらしい。体調が回復するのを祈っている(いやみではない)。

最初はモチベーションの低さに驚いたが、段々どの国の大学の学生もこんなもんだろうなくらいに納得してきた。5人のチュートリアルだから、誰が文献を読んでないかなんてすぐに分かるが、東大のゼミもそんなもんだろうと思う。別に厳格になる必要もないし、学生はそれくらいが普通と考えた方がいいだろう。

5人中、課題をやってきたのは僕と中国人の2人だけだった。中国人の方は、バス停じゃなく自分の好きな場所を選んできてた。まあ、そんなもんだろう。授業も文献もパスした男性が一番発言していた(大半は先生の説明に対して条件反射的に聞く感じで、彼はやはり授業に出た方がいいと思う)のも、そんなもんだろう。繰り返すとモチベーションは皆低いが、そんなもんだ。


そうはいっても、先の先生の指摘は有り難いし、文献は面白いので、面白いと発言して帰るくらいでチュートリアルは満足しようという結論になっている。


1時半からの日本語の授業では、とうとう動詞の活用を教えてしまった。使っている日本語の教科書では、「行く」「書く」のような五段活用の動詞をu-verbsと言っている。また、「見る」のような上一段、「食べる」のような下一段は会わせてru-verbsと言っている。上一段と下一段は変化の仕方の規則性は同じなので一緒にしてもいいと思うが、いかんせん活用を教えない。出てきたら、覚えろという感じの書き方。例えば「行きます」の場合は、ますが動詞なので行くは連用形に変化させる。だけど、教科書ではますがつくと-iに帰るとしか書いてない。一対一で覚えろということだ。
会話が例文として載っているので「〜ます」「〜ません」が多用されるが、同じ否定の形として「書かない」「食べない」がある。生徒に説明するときは「ない」の時はu-verbs-aに、ru-verbs-i-eになると説明していたが、否定表現の時は未然形になると説明した方が後々のためになると思い、授業の直前に棚にあった新明快国語辞典の活用表をコピーして配布した。その他「する」「くる」の特殊活用も教えて今日は終了、生徒は少し難しそうな顔をしていたが、丁寧にノートを取ってくれた。なによりこっちの方が効率的だと思うので、覚えてくれると願っている。

最後のソシャネ、発表については省略するが、今日は嬉しい出会いがあった。東アジア系の女性がいたので声をかけてみたら、中国人だった。こっちの社会学部の修士一年という。学部は中国と言ったので、大学を聞いてみると精華大学だった。なんでも、本人は当初国内の大学院に進学するつもりだったが、マンチェスター大学が中国の市場変化についての社会学的研究プログラムの学生を募集していたので、試しに応募してみたところ受かったのでこちらにきたという。確かに、英語も僕にとっては懐かしい中国人訛りがあって、そこまで流暢ではなかったが、試しに受けて通るんなら自分も出してみたいものだ。なにより、精華の出身ならすぐ英語は上達するだろうし(セミナーを録音していたので、家でまた聞いて勉強するんだろう)、頭もめちゃくちゃいいんだろう。

こっちの中国人の正規学部生と話すと、中国の一流大学には入れないので、海外の大学で箔を付ける、と(明言はしないが)ほのめかす人が多い。こっちが北京大生とのプログラムで5回程中国に行ったと言うと、「北京大生と自分は違うよ」みたいな反応がくる。彼らにとって北京大生は雲の上の存在なのかもしれない。交換留学の学生も、聞いたことの無いような大学ばかりで、就職で有利になるように、とか、英語が学部の授業では勉強できないから、みたいな理由が多そう。というか、なぜ来たのか聞いてみるとそういう反応がくる。もちろん理系に関してはこっちの工学部や医学部の方が優秀とも言えるだろうから、一概には言えないと思うが、文系に関しては、そういう事情なのだろう。なので、精華大学のような一流校の人とあえるのはそれだけで驚きだった。

片言の中国語と北京に5回言ったというと彼女は驚いて、すぐ仲良くなった。Ph.Dまで考えているようなので、長い付き合いになると嬉しい。


そんなところで。

今日のチュートリアルで読んだ文献です。面白かったので記憶をたよりに時々見返して書きました。

Li, J. (2008) Ethical Challenges in Participant Observation: a Reflection on Ethnographic Fieldwork, The Qualitative Report 13(1), 111-115.


この論文ではカナダの女性ギャンブラーが集うカジノにフィールドワークをした著者の方法論に関する反省が述べられている。ギャンブル自体が相当にインフォーマルな上に、女性がギャンブルにはまることは社会規範としては男性よりも厳しい視線がなげかけられるため、これは相当にセンシティブな問題になる。
はじめ、執筆者は、Covertと表現される、カジノに一ギャンブラーとして参与しながら女性ギャンブラーたちを観察する。彼女たちは若い執筆者の将来を案じて「ギャンブルは依存性が高いからやめた方がいい」と勧める。そのような配慮を半ば裏切る形で、実は調査で来ている、話を聞かせてくれないかと尋ねると、彼女たちは二度と執筆者と話さない。
この「裏切り」(倫理的ジレンマ)に対して心理的負担を感じた執筆者は、CovertからOvert、最初から調査の目的を明らかにして参与する道を選ぶ。しかし、カジノへのバスの中で調査協力の依頼のアナウンスををしたところ、あるギャンブラーが「例え院ビューに応じても、私たちはプライベートが公になることをためらい嘘をつくだろう」と諭した。ギャンブルをする自分に負い目を感じている人たちにとって、その話をするのは心理的に負担が大きいのだ。
この論文の面白いところは、センシティブな問題に対して、調査者・被調査者ともに心理的負担を抱えていることを指摘している点だ。もちろん、負担の様相は異なる。前者は、インフォーマルな問題に対してとる適切な方法は何かと考える中で悩む。後者はプライベートについて語ることに負い目を感じている。
このように、両者にとって負担の大きい問題に対して、執筆者はどのような方法をとることを選んだのだろうか?最終的に、執筆者はギャンブラーと交わらずに参与するという道を選ぶ。これには以下のような利点があった。まず、執筆者自身の心理的負担を取り除くことができた。次に、女性ギャンブラーとしてインサイダーとして参与しながらも、あくまで他のギャンブラーの行動をアウトサイダーとして観察するのに十分な心理的余裕を得たのだった。
この論文の理論的含意は何だろうか。まず、この事例からエスノグラフィのための方法にも一長一短あることが分かる。次に、方法論は調査の過程で柔軟に変える必要があることが示唆されている。

November 1, 2013

BBC Philharmonic with Nobuyuki Tujii

寮の友達に誘われて、コンサートに行ってきました。

BBC Philharmonicのコラボレーションシリーズのようで、今回は辻井伸行さんがはるばるマンチェスターに来てくれました。

素晴らしかったです、辻井さんはショパンを演奏してくれました。

感想を書くと、中学校以来クラシックコンサートはおろかクラシック自体ろくに聞いてない自分のぼろが出そうなのでやめときますが、辻井さんのピアノに向ける指先が見られる席に座れて本当によかったです。右利きなのだろうか、どちらかというと右手を大きく使って演奏しているように見えたのですが、彼にしか表現できない世界観に観客と他の演奏者たちが吸い込まれていて、会場が一つになっている感じがしました。彼の演奏している姿はしばらく頭に焼き付いたままになりそうです。

生まれて初めてスタンディングオベーションをしました。こういうのも、なかなかいいもんですね。

限界を露呈する前に(笑)やめておきましょう。学生はで座れるので、今後も暇があれば通い詰めてもいいかもしれません。大人でも一番安くて10£で座れるので、なかなか良心的なのではないでしょうか。


いや、例えばコンサートを通じて感じた社会学的なコメント(爆笑)もできるような気がしますが、うわっつらで終わるのでやめておきましょう。一つ気になった点を挙げるとしたら、どうしたら「いい音楽」ができるんでしょうかね。例えば、僕の高校の同期はクラシック好きが高じて学部は物理を専攻していたのに大学院で音響工学に専門を変えたらしいのですが、確かに音響設備だけで聞こえ方は様変わりすると思うので、そういうのは質の高いコンサートのために必要だと思います。一方で、音それ自体の研究をしている人もいる、というか駒場時代それを専門にしている人の授業をオムニバスで受けた記憶があるのですが、どういうリズム、音が人に心地よく聞こえるか、みたいなのも多分重要だと思います。重要というのは、彼らの研究成果は質の高いコンサートのために必要だろうというくらいの意味です。

心理面に注意を向けると、今日のコンサートで右となりに座っていたご老人が途中で寝だしたのですが、たまに聞こえてくる寝息はコンサートに聞き入る注意力を邪魔します。これはいい音楽には不適切だろうと思います。ですが、隣に人がいないとそれでいいかというと、少し違う気もする。隣に人がいなかったら空虚感を感じて逆に集中できないかもしれない。人はどういう心理状態だと心地よく音楽を聴く事ができて、そのためにはどういう条件が必要になってくるのかとかも重要そうです。

他にも照明の明るさや、休憩時間の長さ、演奏者との距離感(距離や空間的配置は圧迫感以外にも聞こえ方に影響しそうです。)、休憩時にサーブされるドリンク、トイレ、チケットの格、もしかすると移動手段や終了後の感想を言い合える友達の存在も「いいコンサートだった」と言えるかどうかの判断基準になりそうです(基準自体が人によって違うのであれですが)。

別にする必要もないと思いますが、例えばコンサートの満足度調査をするときに、これらの要素はdivideされて、多くは線形的(多分1-5とかの尺度で)に考えられるのでしょうが、まあそういう訳にも行かないだろうなと思います。


何がいいたいかというと、質的研究者が量的研究者の考え方を批判する気持ちも分かるということですかね、世の中の事象は複雑で、何を構成要素と見なすか(存在論的)、どのように構成されていると見なすか(認識論的)に多様な考えがある中で、統計的検定で何が言えるんだ(大意)みたいなことを質の人は言う訳ですが、ふと「いい音楽」とは何かと考えてみると、まあ答えは出ないだろうと思います。社会学が注目するところとしては、他にはフューチャーされてる演奏者が日本人かどうかで、日本人とその他で満足度はどう変わるかとかもありそうですね。まあめんどくさそうだし、手を付ける必要も感じません。


演奏とは別に、痛感したのはプロってすごいなあという当たり前のことでした。
プロって、失敗が許されないからプロなんだと(もしかすると今日のコンサートでもプロから見れば失敗したところがあったのかもしれません)。


これも当たり前ですが、コンサートはライブなのでなおのこと失敗が許されない。もちろん、だからといってドラマや映画が失敗してもいいから楽だとは思ってませんが、緊張感は相当なものだろうと察します。評価をする客が目の前にいて、怖くないんでしょうか。
そんな緊張感の中で最高のものを提供するというのは素晴らしくやりがいのあることで、これを生業にできている人は、職業にできるだけの技術の高さはもちろんのことその精神面からも尊敬します。


翻って、学術研究はどうかというと、論文を評価の単位とされたときに、コンサートをする演奏者とは置かれているプレッシャーが大きく違う事に気づかされます。
恐らく、BBC Philharmonicの人たちは一流の腕前に甘んずる事無く、本番のために何度も真剣に練習を重ねていると思うのですが、じゃあ自分が同じくらいの努力を一本の論文に書けているかというと、自信がなくなる。論文でなくてもいいから、毎日それくらいの気持ちで論文を読んでいるか、絶対に読んでない(たまに寝てるし、たいてい段落を読み飛ばす)。「真剣に」研究するというのが何を指すのかは釈然としませんが、少なくとも失敗が許されない本番に向けて努力しているのと同じだけ、もしくはそれ以上の努力を僕はしていない、これは間違いない事実で、いつ発表しろと言われてもいいくらいには毎日心がけてないと駄目なんだと思いました。(思うのと実行に移すのは違うと思いますが)

とはいえ、「練習大変じゃないですか」と聞いて「楽しいので苦しくないですよ」みたいな返事が返ってきそうな気もする。
そういう返事には謙遜も含まれていると思うのだが、同時にそれも然りとも思う。
恐らく、好きじゃなければ音楽なんて続けてないと思うし、同時に嫌いになるくらい練習してなければ生き残っていけない世界でもあるだろう。

学問も同じ事が言えるような気がする。僕は社会学が大好きだが、好きなだけではいい研究はできない、努力は必要だ。だけど、好きじゃなければ努力も続かない。
ひとまず学べた事は、彼らが本番で直面する緊張感みたいなもののひとかけらでも、僕は共有した方がいいということだ。仮にそれで飯を食ってくとすればなおさらだ。


あとは、楽団って社会調査のグループに似ていると思ったのですが、これは見りゃ分かる事なので、今日はこんなもんにしときます。ほんと、プロはすごい。プロになろうとするのであれば、彼らから学ぶ事は多いだろう。同じような理由で、スポーツ選手の考えや苦労を知るのも好きです。ナンバーとかたまに見ます。スポナビのコラムは勉強になります。

例えば、自分の書いた論文を一字一句読みなおして、この表現で正しいか、他にもっといい論じ方はないか、図表は理解の助けになっているかとか、そういう職人気質に近い気配りは「いい論文」の構成要素かもしれません。


さいごにコンサート会場の外観