一年ぶりに新宿の炊き出しに行った。
NPO法人「もやい」の中心メンバーである稲葉剛さんが主導して18年前から始まった「新宿連絡会」の活動の一環。毎週日曜、夜7時から路上生活をしている方に炊き出しを行っている。
川人ゼミは毎夏学期、労働パートのフィールドワークの一つとして、炊き出しに参加させてもらっている。
あくまでボランティアなので、何度も来なくては行けないという強制力はない。しかし、来る度に発見があり、自分を見つめなおす定点観測の機会にもなっているため、折りをみて参加することにしている。1年の頃から、だいたい10回目になるかならないかと言ったところだろう。
本日の感想の前に、簡単に流れを追っていこう。
まず、ボランティアは6時半に新宿西口を徒歩で10分ほどかけていった中央公園の広場に集合する。高田馬場の事務所で炊いたご飯と簡単なおかずが運ばれているので、混ぜて、発泡スチロールの器に盛って、プラスチックの桶に並べて、準備完了。
7時になると、一斉に配給開始、とはならない。ボランティアの人のかけ声で一度に8人ずつ、順番にご飯をもらう。8列に並んだ路上生活者の数は時期によっても変動するが、多いときは500人、少ないときでも300人に上る。
普段ぱらぱらとしか見ない路上生活者が100人単位でいると、まずその様子に驚かざるを得ない。日本の、しかも都心のど真ん中に、配給を待つこれだけの人がいる。厳しい現実を目の当たりにする場面だ。
配給自体は1時間もしないうちに終わる。おかわりを含めて700食は用意しているとのことなので、通常はボランティアの人にも食事が振る舞われる。食事が済み、片付けが終わると、今度はパトロールが始まる。
新宿を4つのグループにわけ、就寝するかしないかの人たちに、新宿連絡会のチラシを渡す。その際に、健康状態を伺うと、たまに風邪薬や胃腸薬を求めてくる人がいる。各班に薬箱を持った人がいるので、小分けにした薬の袋を渡す。こうしたパトロールをしていると、直後まで働いていたが職を失った人や来月からの生活保護給付までどのように食いつないでいけば分からない人を見かける。多くが連絡会の存在を知らないので、そのような瀬戸際にいる人にとっては、炊き出しを知らせる一枚のビラが非常に重要なものになる。
こうして、行政がカバーしきれない範囲を、連絡会は共助の形で担っている。
だいたいこんなところだろう。(僕自身は連絡会の常連ではないので、誤記があるかもしれない。)
炊き出しの当初は、世の中の格差を目の前にして、言葉にできない怒りが芽生えたこともあった。自分に何ができるのかと自問するときもあった。
現在はどうかというと、そうした感情が芽生えることはない。と聞くと、冷徹な人間になったのかと思われるかもしれない(実際、そうなっているのかもしれない。)
だからといって、何も感じない訳ではない。
言葉にはしにくいが、普段読んでいる文章が目の前と同じ光景に関連したものを表していたとしよう。その間には厳然たる差がある。当たり前に聞こえるかもしれないが、今回の炊き出しで感じたのは、文字がいかに現実を捨象しているのかということだ。
もちろん、新宿の炊き出しをそのまま描写した文章を読むことはないが、社会学というフィールドに身を置いていると、こうした現象に関連する記述に出会うことは多い。社会保障論、貧困問題、格差社会、差別。語弊があるかもしれないが、社会学が得意としてきたフィールドに非常に近いものがある。
だからこそ、社会学の記述が捨象している何かを強く感じる。薄暗い公園の空気、におい、炊き出しを受ける人のまなざし。パトロールで出会う、支援を必要としている人の声。そしてその場に身を置いている自分。
すべてを捨象して、論文は出来上がるのだなあという、しょうもないことを感じて、今日は終わった。
たまにこうした光景に出会わないと、論文ですべてが言える、とまではいかないがそれに近い思考になりかねない。フィールドワークの大切さを感じるとともに、再びこの場を訪れたいと思った次第である。
April 15, 2012
April 10, 2012
社会学理論演習ガイダンスにて
今日の三限は駒場で山本先生の「社会学理論演習」のガイダンスを受けてきた。
そこでの印象的な場面について少し。
受講生の中に、芸大を出てデザイナーとなり、大学院に入ってきた女性がいた。山本先生が社会学を学部生のときにどれくらい勉強したかをほかの院生に聞いているときに、彼女が口を開く。
「自殺についてのポスターをデザインしてくれと頼まれたときに、どのようにデザインすればいいかについて、社会学者は有益な答えを一度もくれない」
要旨としては、そういうことだったと思う。自殺を止めるべきなのか、止めるとしたらどのような層に訴えればいいのか。そうした疑問について、社会学者は何も答えてくれない。
こうした専門家への懐疑は、少なくない学生が感じたことがあるのではないだろうか。そして、時間が経つにつれて、社会科学者は解決策を提示するためにいるのではない、そう自分に言い聞かせてはいないだろうか。
自分はその口で、大学に入ったはじめの頃から社会学を志していたが、その理由は「いろんな領域をカバーしているから」であり、「社会問題について解決策を提示できるから」だった。
現在、社会学を専門とする学生になったけれど、このような気持ちを失わずにいるかと言われると、正直自信がない。むしろ、社会学とは(というか、おおよその社会科学は)「どうしてそうなったか」は説明できても「どうすればそうなるか」は説明することができない、そう思っている。当たり前だが、自然科学と異なって、社会科学が対象とする領域はことごとく前提条件が異なるからだ。
しかし、彼女の主張には「そんなのできないのが当たり前」とは言えない。それは、彼女の「学者は社会が直面する問題を解決するべき」という考えは、(大学生として)若いときに自分が感じていた疑問と全く同じだったからである。
自分はなぜ彼女を主張を退けようとしているのか、自分で思ったことに疑問を感じる不思議な時間だった。
話は変わるが、最近、本郷での文学部生としての生活が始まり、駒場とは異なり先生が積極的に僕らに専門性を植え付けようとしていると感じることがある。専門性それ自体は必要なものであるし、ぜひとも身につけたい。(というか、そのために大学に来た)
けれども、不思議なことに、自分の欲しかった専門性を身につければ身につけるほど、社会学を志した動機から離れていく自分がいる。「いろんな領域をカバーしている」という魅力は「社会学概念の拡散」というマイナスなイメージに移り変わり、「社会問題を解決できる」という夢は、社会問題とは利害関係者によって構築された虚構にすぎないと主張により幻となる。
しかし、果たしてそれでいいのだろうか。(社説みたいで、なんか嫌だな)
手に垢のついた議論はさけたいが、関心を持つ領域の当事者には、彼女のように社会学に解決策を求める人もいる。自分も社会学にそのような役割を期待していた。しかし、相対主義的な立場に立つ社会学者にとっては、そのような主張はただのクレームになりかねない。つまり、社会学が社会的に要請されている役割は社会学者の問題意識とすれ違う場面があるのだ。
答えが簡単に出る訳ではないが、ひとまず社会学の役割は学者が考えるような側面に限らないと考えてみたい。やはり、当事者抜きの社会学はバベルの塔であり、「社会」の学にはなれない。かといって、それに浸るつもりもない。相対的な考え方は手法として有益なのだ。
自分がどちらにたつ、これは問題ではない。必要なのは、彼女のように社会学者に期待する人がいるということ、そうした期待を裏切らない範囲で、自分たちができることをうまく伝えていくこと。この両方にたった視点が必要なのだろう。
大学院を視野に社会学を勉強するものとして、「理論」を学ぶ前に冷や水を浴びせられたような気がしてよかった。目が覚めて、来週から演習に望む。
そこでの印象的な場面について少し。
受講生の中に、芸大を出てデザイナーとなり、大学院に入ってきた女性がいた。山本先生が社会学を学部生のときにどれくらい勉強したかをほかの院生に聞いているときに、彼女が口を開く。
「自殺についてのポスターをデザインしてくれと頼まれたときに、どのようにデザインすればいいかについて、社会学者は有益な答えを一度もくれない」
要旨としては、そういうことだったと思う。自殺を止めるべきなのか、止めるとしたらどのような層に訴えればいいのか。そうした疑問について、社会学者は何も答えてくれない。
こうした専門家への懐疑は、少なくない学生が感じたことがあるのではないだろうか。そして、時間が経つにつれて、社会科学者は解決策を提示するためにいるのではない、そう自分に言い聞かせてはいないだろうか。
自分はその口で、大学に入ったはじめの頃から社会学を志していたが、その理由は「いろんな領域をカバーしているから」であり、「社会問題について解決策を提示できるから」だった。
現在、社会学を専門とする学生になったけれど、このような気持ちを失わずにいるかと言われると、正直自信がない。むしろ、社会学とは(というか、おおよその社会科学は)「どうしてそうなったか」は説明できても「どうすればそうなるか」は説明することができない、そう思っている。当たり前だが、自然科学と異なって、社会科学が対象とする領域はことごとく前提条件が異なるからだ。
しかし、彼女の主張には「そんなのできないのが当たり前」とは言えない。それは、彼女の「学者は社会が直面する問題を解決するべき」という考えは、(大学生として)若いときに自分が感じていた疑問と全く同じだったからである。
自分はなぜ彼女を主張を退けようとしているのか、自分で思ったことに疑問を感じる不思議な時間だった。
話は変わるが、最近、本郷での文学部生としての生活が始まり、駒場とは異なり先生が積極的に僕らに専門性を植え付けようとしていると感じることがある。専門性それ自体は必要なものであるし、ぜひとも身につけたい。(というか、そのために大学に来た)
けれども、不思議なことに、自分の欲しかった専門性を身につければ身につけるほど、社会学を志した動機から離れていく自分がいる。「いろんな領域をカバーしている」という魅力は「社会学概念の拡散」というマイナスなイメージに移り変わり、「社会問題を解決できる」という夢は、社会問題とは利害関係者によって構築された虚構にすぎないと主張により幻となる。
しかし、果たしてそれでいいのだろうか。(社説みたいで、なんか嫌だな)
手に垢のついた議論はさけたいが、関心を持つ領域の当事者には、彼女のように社会学に解決策を求める人もいる。自分も社会学にそのような役割を期待していた。しかし、相対主義的な立場に立つ社会学者にとっては、そのような主張はただのクレームになりかねない。つまり、社会学が社会的に要請されている役割は社会学者の問題意識とすれ違う場面があるのだ。
答えが簡単に出る訳ではないが、ひとまず社会学の役割は学者が考えるような側面に限らないと考えてみたい。やはり、当事者抜きの社会学はバベルの塔であり、「社会」の学にはなれない。かといって、それに浸るつもりもない。相対的な考え方は手法として有益なのだ。
自分がどちらにたつ、これは問題ではない。必要なのは、彼女のように社会学者に期待する人がいるということ、そうした期待を裏切らない範囲で、自分たちができることをうまく伝えていくこと。この両方にたった視点が必要なのだろう。
大学院を視野に社会学を勉強するものとして、「理論」を学ぶ前に冷や水を浴びせられたような気がしてよかった。目が覚めて、来週から演習に望む。