December 23, 2012
孤独なボウリングを読んで
ロバート.D . パットナムの「孤独なボウリング」の序章は以下のような調子で始まる.
「1920年, 女性が投票権を獲得して以来1960年までの間,大統領選挙の参加率は4年ごとに1.6%ずつの割合で上昇していたので,ある指導的な政治学者が後に述べたところでは,単純に直線を延長すれば1976年の米国建国200周年には投票率は70%近くに達し,さらに上昇を続けると期待するのも無理が無いように思われた.」
政治参加に加えて,社会的な信頼も上昇の一途をたどっていったのが60年代だった.
「大半の人は信頼できるという質問に賛成した人の割合は,第二次大戦中,戦後にすでに66%の高さに達していたが,1964年には77%の高みにまで上り詰めた」(12)
この時代は人種差別がなお強く,公共の場は男性で占められてはいたものの,米国人のコミュニティの参加,アイデンティティの共有と互酬性の感覚は最高潮に達していた.
「孤独なボウリング」のタイトルはこうした時代にあって社交の場として栄えたボウリングクラブに参加する人が減ったことを示しているが,この本の主題は反映を続けると思われたアメリカのコミュニティが70年代以降に衰退の一途を辿った背景を探り,解決策を提示することにある.
筆者が鍵概念として用いるのは「ソーシャルキャピタル」,日本語だと社会関係資本という定訳があるが,最近では言語のまま使われることが多くなったこの言葉は,コミュニティを基盤としたネットワークとそこから生じる互酬性と信頼性の規範を概念化したものだ.世俗的な表現で言えば「つながり」というやつだが,キャピタルという単語から連想されるように,パットナムはソーシャルキャピタルの「正の外部性」に注目している.すなわち,ソーシャルキャピタルを単につながりをたくさん持っているひとは昇進しやすいなどのような個人的な資本に帰するだけではなく,それが規範をもたらすことで集合的な側面を持つことを強調するのだ.具体的にどのような正の外部性をもたらすのかと言えば,効果について論じた17章「教育と児童福祉」18章「安全で生産的な諸地域」19章「経済的繁栄」20章「健康と幸福感」21章「民主主義」といったように,実に多岐に渡るのが分かる.パットナムは信頼は社会の潤滑油というように,信頼や互酬性の規範(互酬性というのは,こなれた表現だとお互いさま意識,お礼に対して返礼をすると行ったような交換関係の規範だ)がそのコミュニティの凝集性cohesionや連帯solidarityを強めることで経済に貢献するといったような話は,何となく分かるだろう.もちろん,経済的な側面だと,失職したときに知り合いから職の紹介があると行ったような,ネットワークが個人に対して発揮する機能もある.ただ,パットナムが強調するのはその集合的な側面だ.例えば,貨幣が流通していることには,鋳造する政府への信頼が無くてはならない.また,コミュニティになんらかの分断(例は良くないかもしれないが,例えば人種間の対立)があれば,その土地の経済は上手く回らないこともあるだろう.そういう風にして,同じようなこと,つまりソーシャルキャピタルがそのコミュニティや組織にあると,組織が回りやすくなったり効率が増すことが強調される.このように,パットナムのソーシャルキャピタル論はかなり公共政策に応用されやすい側面がある.実際,この本は国連にまでソーシャルキャピタルの調査をするインパクトを与えたと言われるし,日本でも翻訳された後になって政府が調査を開始している.特に,今後人口が減少していく社会の途上にある日本にとっては,ソーシャルキャピタルのような「掘り起こしがいのある」概念は政策に上手く利用されることになるだろう.その是非はともかくとして,パットナムが与えた影響はとても大きい.経済以外にも,ソーシャルキャピタルが高い地域は政治参加が盛んだとか(これは逆も然りで,因果関係については厳密に考える必要は無いだろう)人々の幸福感が増すとか,コールマンなんかはソーシャルキャピタルが高い学校は高いパフォーマンスを示すなどといってたりするようだ.
本書は,そうしたパフォーマンスの側面にも注目はしているが,どちらかというとどこから持ってきたんだという大量の統計を駆使して,いかなる軌跡でアメリカのコミュニティが衰退していったかを描いている.この第三部とアメリカ市民社会の変動を描いた第二部を合わせて相当なボリュームを占めているのだが,背景がこれまた議論を呼びかねないものになっている.実際のところはよく分からないのだが,パットナムのこの著書はパフォーマンスや解決策の部分が強調されたのか,背景についてはあまり言及がされていないようだ.第15章「市民参加を殺したものは何か?その総括」というタイトルの章では,それまでの背景要因の分析を総合して,「時間と金銭面のプレッシャー」「郊外化(スプロール化)」「電子的娯楽(テレビ)」「世代変化」である.最初の要因は,共働き家族の増加は彼らのコミュニティ参加を阻んでいるというもの,2番目は通勤時間の増加,さらに郊外化に伴い,家々が孤立したものになるという側面が指摘される.3番目は余暇時間がテレビに奪われたというもの,4番目の世代変化というものは要は市民参加が盛んだった世代がそうでない世代に移り変わったというもので,社会に参加している人自体が入れ替わったという説明になっている.重要なのが,なぜ昔の世代(1950年代に生まれ現在60-70歳代の人々らしい)は市民参加に熱心だったのか.パットナムは強調しないが,それは少なくない部分が「戦争」で説明されてしまいかねないからと思われる.
「われわれの抱える中心的問題を世代的観点から再定式化したことによって浮上した可能性に,国家的統合と愛国心という,1945年に最高潮に達した千字の時代精神が市民的傾向性を強化したというものがある.外的な衝突が内的な凝集性を増加させるというのは,社会学ではありふれた物言いである」
社会学者ウォーナーがある町における戦争の影響を調べた本で述べた以下の言葉を再引用すると「無意識の幸福感は…私心からではなく,今日長身を持って共同の事業に必死で何らかの協力を誰もが行った」かららしい.共通の目的に参加することは仲間意識と幸福感を高めるようだが,それが戦争への協力という文脈で強制的,かつ大規模に行われたことがその後の市民参加を高めたのだとすれば,「どうすればソーシャルキャピタルを高められるか」という問いを提出できなくなってしまう.一番手っ取り早いのは「戦争を起こすこと」だとしたら…
少年,青年期に身につけた価値観はそう簡単には失われない.戦中から戦後に生まれた世代は戦争によって培われた愛国心と市民意識を引き継いだのだろう.それはまぎれの無い事実だとしても,そうした世代と戦争の記憶を薄れた形でしか知らないこれからの世代の社会的な連帯を比較することは不可能なのではないか,そうした諦め声も聞こえてきそうだ.
パットナム自身は最終章でソーシャルキャピタルを高めるための10個の政策提言をしているが,その中にはもちろん「戦争を起こそう」とは書いていない.市民に政治参加などを促すような価値観を身につけることがコミュニティの持続や発展につながるのは分かるのだが,価値観に対するアプローチはパターナリスティックな側面を含むことは否定できないだろう.どれだけ正当性を持って政策を実行できるのか,パットナムは全ての政策提言について起源を2010年に求めているが,パットナムの主張はどれだけ通り,そしてアメリカ社会のソーシャルキャピタルの再興につながったのだろうか.
「日本のお金持ち妻研究?」
せちやまゼミの12月3日の課題文献は森剛志・小林淑恵による「日本のお金持ち妻研究」(東洋経済出版社,2008)だった.
この本は日本のお金持ち妻のイメージ(容姿端麗で専業主婦だったり,豪邸に住み優雅な生活をしていたり,ブランドものが大好きだったりなど,だいたいは芸能人のイメージを反映しているだけで,実態は違うというのが本書の趣旨である.)を日本の高額納税者(納税額3000万以上=年収1億以上の6000人,納税額1000万以上=年収3000万相当に無作為抽出で1000人)にアンケート用紙を配布し,その実態を調査することで,これらのイメージを修正しようとしている.
実態として浮かび上がってくることは,回答者である妻は自分のことを容姿端麗だとは思っていないとか,容姿端麗であるはずの職業の人はごく僅かで,大半が夫と同じ職場で知り合い結婚するかお見合いで出会う育ちの良い「深窓の令嬢」タイプの女性であること,またブランドものなどの消費はイメージ程されておらず,しっかりと家計を守る節約型の妻が多いことや,夫と同じ会社を経営するなどして3割が年収1000万以上,などである.
こうした事実を並べられて,なるほどお金持ち妻のイメージが変わりました!と言いたいところだったのだが,この本には致命的な欠点があった.それは調査の回収率だ.
上記の通り,億万長者6000人と準億万長者1000人の計7000人に調査票を配布しているようだが,回収率は118通で1.7%に過ぎず,有効回答数は108通だ.これだけ低い回収率の本を商業出版すること自体,非常に危険なのではないか,つまり本当に対象としている層を的確に捉えているかどうかは甚だ怪しい.ブランドものに消費を尽くすようなイメージ通りのお金持ち妻がアンケートに答えないことを予想するのは難しくない.このような決定的な欠陥を抱えているこの本だが,ネット上ではそれなりに評判を得ているようだ.
この本を紹介したブログ等も見ていくうちに,この本はほぼ確実に「玉の輿に乗るためには」「容姿より知性が重要だ」ということを言っている(だけの)本と解釈されているということが分かってきた.この本は「「お金持ちの妻」になるための視点」から書かれたものではないと冒頭で述べているにも関わらず,「現代版玉の輿に乗るのはどんな女性?」と帯で煽りを加えている.この本が学術的に見てどれだけの価値があるものなのかという議論だけでも話は尽きない(?) 気がするけれども,一般書として出版された以上,このような書籍がいかにして社会的現実を構築していくかという視点も無駄ではないように思われる.結論から言えば,レビューサイトやブログではこの本の「美貌の妻が見初められ玉の輿に乗る結婚というのは例外的だ」という点ばかりが強調されている.調査に回答した玉の輿妻の8割以上が50代以上であり,結婚のきっかけのうち見合いが45% を占めるようなサンプルから容姿がすぐれているということが含意されている「芸能人・タレント・モデル・スチュワーデス・コンパニオン」を「玉の輿に乗れそうな職業分類」として,それがわずか1.9%,さらにその中で自分のことを容姿は良かったと回答する人が全くいなかったことだけをもって成り立っているこの主張ばかりが世間に流布していることに恐怖感に似た感情を覚えるとともに,社会にとって都合の良い情報だけが声高に反復される状況に対して,社会学は何ができるのだろうかと,悩み明け暮れる夜を過ごした.
[Amazonレビュー]
レビュー2 ☆☆☆☆☆
超、俗っぽいテーマを、大学の先生が真面目に研究してるところが何とも・・・。
容姿端麗をどんな風に測るのかが参考になりました。美貌を磨くより知性を磨いた方が近道だそうです。
レビュー3 ☆☆☆☆
「お金持ち」=バブル的なイメージがありますが、現実のお金持ち妻の人生哲学とお金との関係をかいまみれました。もう衝動買いはしません。
そして「お金持ち妻」とは20~30代で中々お目にかかれない令嬢系か
モデル級と思っていましたが、そうでないことが良くわかり、子育ての参考になりました。
お金持ちを見つける方法ではないですが、こんな考え方や生活をすればお金持ちの妻として十分幸せを掴むに値する、と納得させられ内容でした。
婚活前に良いと思います。人生バイブルです。
レビュー④ ☆☆☆☆☆
ツボにはまれば隅から隅まで読み応えアリ。仕事を頑張って自分でお金持ちになるか、それともお金持ち夫人になるか・・っていう女性の悩みというかジレンマに、初めて明確な答えを与えてくれた名著だと思う。一番面白かったのは、離婚してお金持ちになった女性医師のお話し。佐藤愛子の本は色々読んでいたけど、紹介されていた「血脈」も読んでみたくなりました。
[この本を書評,紹介したwebページの記述]
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/10/post-845.html
このサイトは書籍の要点を以下の三つにまとめている.
・美貌を磨くよりも知性を磨いた方がお金持ちの妻になりやすい。
・多くの富裕層が収入より遙かに低い支出で生活している。
・投資と節税にポイントを置いた経済活動の具体例
http://youpouch.com/2012/08/30/79491/
そんな記者の疑問にずばりと答えてくれる『日本のお金持ち妻研究』(森剛志・小林淑恵著、東洋経済新聞社、2008)という書籍を発見しました。あわよくばお金持ちと結婚したいと思っている女性にとっては「お金持ち妻」の実態がわかるし、お金持ちになりたい男性は、どんな女性と結婚すれば良いかがわかる、優れた書籍だと感じましたので紹介します。でも、はっきり言えば、「お金持ちと結婚して、エステ三昧! ブランド品を買いまくって、子育てはシッターさんにお任せよ!」と思っている女性は、この本を読むと戦意喪失するかもね。
■容姿を見そめられて結婚した人はほとんどいない
もったいぶらずにさっさと結論を言いますね。この本によると、日本のお金持ち妻も、美女だからお金持ちと結婚できたと答える人はほとんどいないそうです。容姿を理由に結婚した人がいるかどうかを確認すべく、アンケートに結婚前の職業を聞いたところ、玉の輿に乗れそうな「芸能人・タレント・モデル・スチュワーデス・コンパニオンなど」という華やかな職業についていた人は、1.9%という結果でした。しかもこの1.9%の人に、結婚当時の容姿をアンケートで聞いたところ「容姿はよかった」と回答した人はいなかったのだそう。「玉の輿仮説」、「同類リッチ婚仮説」、「糟糠の妻仮説」のなかで、「玉の輿仮説」だけは、あっさりと崩れたのです。日本においても、容姿は武器にならないということが、検証されたわけです。
http://www.j-cast.com/2008/10/19028758.html?p=all
富裕層の妻に焦点を絞った「日本のお金持ち妻研究」(東洋経済新報社)にはこんなことが書かれている。
「美貌の妻が見初められ一躍玉の輿に乗る結婚というのは例外的だ」
お金持ちと結婚したいと思っている若い女性たちは、美貌を磨くよりも、まず知性を磨いた方が、はるかにお金持ちと結婚する近道で王道、というのだ。調査の職業分類には芸能人、タレント、モデル、スチュワーデスなど玉の輿に乗れそうなものもあったが、該当者は1.9%。しかも、1.9%の中で「容姿はよかった」と回答した人はゼロだったそうだ。
http://zenchuren.jugem.jp/?eid=106
おはようございます、仲人の舘です。
「日本のお金持ち妻研究」という本があります。
この本によると、美女だからお金持ちと結婚できたという女性はほとんどいないそうです。
結婚前は非常に仕事熱心だった女性が多いとのこと。
また、お金持ち妻に共通する特徴は「見栄っ張りではない」ということらしいです。
その他の紹介サイトでも,似たような記述が散見された.
http://plaza.rakuten.co.jp/sakuranomi/diary/200910110000/
http://yukizoudesu.blog44.fc2.com/blog-entry-16.html
http://shoiko.com/wp/2011/138.html
https://www.paburi.com/paburi/bin/product.asp?pfid=20234-120266323-001-001
Never Ending Journey, Chidorigafuchi National Cemetery for War Dead
日本にも無名戦士の墓がある,このことをご存知だろうか.
「先の大戦」における戦没者の慰霊施設というと,九段下の靖国神社を思い浮かべるかもしれない.もしくは,8月15日の終戦記念日に武道館でおこなわれる全国戦没者追悼式のことを考える人もいるだろう.どちらも,第二次大戦における戦死者を慰霊するための文化としてはなじみのあるものだろう.
こうした戦没者の追悼に関してよくなされる議論は,靖国神社をめぐる国内,国際的な反発だろう.詳細はここでは論じないが,日本の左派知識人からは宗教的な性格を帯びた靖国神社の代わりに,諸外国に見られるような国立の追悼施設を新たに作ることが主張される.
実際のところ,国立の戦没者追悼施設は日本に存在する.ついぞ最近まで私は知らなかったのだが,それは単なる無知だったのか,あまりにも靖国神社が報道されるがあまり注目することができなかったのかは分からない.この施設の名前は「国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑」という.施設を知ったきっかけは今学期に駒場で開講されている"The Politics of Memory",記憶の政治学という英語の授業だった.日本の戦争の記憶がどのように政治過程にのり,どのように表象され,一般の人にどのように認知されているか,AIKOM生を交えながら講義と議論で進められる授業では,後半に入って日本の戦争記憶施設について,学生がプレゼンをしている.
(ちなみに,しみず氏は集合的記憶の理論的精緻化に向けて黙々とこの授業に参加されております.)
その中で,私は上記の千鳥ヶ淵を担当することになった.調べた内容を簡単に報告したいと思う.
千鳥ヶ淵は靖国神社や武道館と同じ九段下の近くに位置している.20分もあれば,全ての施設を歩きで見学できるくらいお互い近くに位置している.管理者は環境省なのだが,設立者は当時の厚生省,今の厚生労働省だ.というのは,この施設に納める遺骨は海外で戦死した,本人の特定ができなかった戦没者で,厚生労働省が主体となってこれらの遺骨を収集する事業を進めているからだ.
つまり,施設が出来上がる前に遺骨収集事業が始まった訳だが,それはいつからだろうか.千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会という,民間ではあるが墓苑での祭事の主催や広報誌の作成を担っている財団法人がある.この団体のホームページ(http://boen.or.jp/index.htm)によれば,サンフランシスコ平和条約発行の1952年以降,海外での遺骨収集が可能になったことを背景にして,慰霊施設の建設が主張されるようになる.というのも,収集事業を始めてみたはいいものの,名前の特定できない,つまり無名戦士にならざるを得ない遺骨が大量に見つかると予想されたためだ.こうした事情から1953年12月に「無名戦没者の墓」に関する閣議決定がなされる.この閣議決定に関する詳細は首相官邸のホームページで確認できる厚生労働省作成の資料が参考になるだろう.(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo2_1.html)
この他に,奉仕会とは別の民間団体(政治家が混在しているのでどこまで民間化は断言できないが)として「全国戦争犠牲者援護会」と全国の市町村長に募金を呼びかける形で昭和27年(1952)という早い段階から慰霊施設の建設を訴えた「全日本無名戦没者合葬墓建設会」(総裁:吉田首相)などの議論の過程も奉仕会のページでは確認できる.一方で,首相官邸の資料では閣議決定の過程に絞って記述がなされている.後者を参考にすると,1954年から57年にかけて関係省庁を集めた旧厚生省主催の打合会議が開かれたようだ.ここでの決定事項を抜粋すると,以下のようになる.
1 主な出席者
衆議院(自由党、改進党及び日本社会党)
参議院(自由党、緑風会、日本社会党及び改進党)
日本遺族会 日本宗教連盟 海外戦没者慰霊委員会
全国戦争犠牲者援護会 全日本無名戦没者合葬墓建設会
日本英霊奉賛会 靖国神社 日本建築学会 日本造園学会
全国知事会 東京都 内閣官房 大蔵省 文部省 建設省 厚生省
2 主な合意内容
ア 「墓」の性格については
I. 遺骨を収納する納骨施設である
II. 収納するのは、遺族に引き渡すことができない遺骨である(全戦没者の象徴として一部の遺骨をまつるとする諸外国の「無名戦士の墓」とは異なる)
とされた。
イ 場所については、靖国神社境内等様々な意見があったが、現在地(宮内庁宿舎跡地)とされた。
以上からは,特定の宗教に依拠した施設ではないことや,諸外国の無名戦士の墓とは異なる性格を持つ施設であることが分かるだろう.これに前後する形で昭和31年の閣議決定で,建設場所が千鳥ヶ淵に決定されたことは合意内容と矛盾するように思われるが,その点に関して特に記述はない.奉仕会のページの方が政治家や厚生省の発言について細かく抜粋しているので,興味のある方はそちらを確認してほしい.(いつか,きっとしみず氏がまとめてくれるだろう.)
千鳥ヶ淵に建設された墓苑が竣工したのは1959年になる.同時に第一回の拝礼式も執り行われ,天皇皇后両陛下及び内閣総理大臣、各大臣、関係団体等が出席したようだ.第二回の拝礼式は6年後の1965年に行われている.それ以降は,厚生省/厚生労働省が遺族会や政府と協力しながら遺骨収集事業を行い,集められた遺骨がこの墓苑に拝礼式の日に納められる.終戦記念日に重ねられる訳ではなく,毎年5月の末にあるようだ.
それでは,調べてみて興味深かった点について紹介したい.
まず,遺骨が巡る旅路について.東南アジアや硫黄島を中心として遺骨は収集される(ちなみに,海外の戦場で命を落とした軍人軍属は210万人,民間人30万人と合わせると,240万人の日本人が海外で亡くなった.その中で千鳥ヶ淵に慰霊されているのは35万人前後であり,遺骨収集事業が終わる見込みは当分ないだろう.)
遺骨収集団が帰国すると向かうのは千鳥ヶ淵だ.帰国した収集団は戦没者遺骨引き渡し式に参加する.そこで厚生労働省へ遺骨が引き渡されるのだ.注目したいのは,引き渡しは千鳥ヶ淵で行われるが,安置されるのは厚労省内の施設においてなのである.そこで拝礼式まで数年の間遺骨は安置されるのだが,それは恐らく遺骨に何かしらの問題(例えば外国人の遺骨が混じっていた場合など)を考えてのことだろう.それでも,なぜ引き渡し式が千鳥ヶ淵で行われるのだろう.集合的記憶の考えに従えば,その場で儀礼的な実践をすることで戦争の記憶を想起するのだろうが,ここらへんの考察は某S氏に今後に期待する.
次に,なぜ千鳥ヶ淵戦没者墓苑は「できる限り全ての」遺骨を納めようとしているのだろう.海外の無名戦士(戦没者)の墓は,象徴として一部の遺骨を施設に納めている.ここになんらかの日本的な事情があるとすれば興味深い.
November 15, 2012
文献リスト(暫定)
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飛田雄一, 1980, 「サンフランシスコ平和条約と在日朝鮮人」, 在日朝鮮人史研究, 在日朝鮮人運動史研究会 , 1-11
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社会学特殊講義(佐藤健二)
尾高邦雄, 1952, 「産業における人間関係の科学」, 『社会学評論』, 2-12
松島静雄, 1952, 「経営と従業員の態度」, 『社会学評論』, 45-56
中野卓, 1952, 「労働組合における人間関係」, 『社会学評論』, 57-69
真鍋一史, 2012, 「社会科学はデータ・アーカイブに何を求めているか」, 『社会と調査』, 16-23
松本康, 2012, 「立教大学データアーカイブRUDAの始動」, 『社会と調査』, 24-30
武田尚子, 2012, 「イギリスにおける質的調査データのアーカイブと二次分析」, 『社会と調査』, 24-37
宇田哲雄, 2008, 「町工場」, 三田村佳子・宮本八惠子・宇田哲雄編著, 『日本の民俗 11: 物づくりと技』, 吉川弘文館, 187-285
日本社会論(Saaler, Sven)
Saaler, Sven, 2005, "Politics, Memory, and Public Opinion"
社会学勉強会
Putnam, Robert D., 2000, Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community, Simon & Schuster (=2006, 柴内康文訳『孤独なボウリング――米国コミュニティの崩壊と再生』, 柏書房)
イギリス地域特殊講義(Mills, Anthony)
樽本英樹, 2011, 「共同性の解体過程としてのグローバル化」, 学術の動向, 42-46
樽本英樹, 2002, 「「人種暴動」の国際社会学・序説」, 現代社会学研究(15), 83-96
樽本英樹, 1996, 「エスニック・デュアリズムの存続と変容」, 社会学評論 47 (2・33), 186-199
Winder, Robert , 2005, Bloody Foreigners, Little, Brown
Kureishi, Hanif, 2005, The Word and the Bomb, Faber and Faber
政治学外書講読
Adam, Przeworski, 2004, Institutions Matter?, Government and Opposition, 527-540
Bachrach, Peter and Morton S. Baratz, 1962, Two Faces of Power, The American Political Science Review 56(4), 947-952
白波瀬ゼミ
Swift, Adam, 2006, Political Philosophy: A Beginner’s Guide for Students and Politicians, London: Polity Press. 2nd ed.
Granovetter, Mark S., 1973, The Strength of Weak Ties, American Journal of Sociology 78(6), 1360-1380
ジェンダー論演習
藤目ゆき, 1997, 『性の歴史学』, 不二出版
伊藤悟, 2000, 『同性愛が分かる本』, 明石書店
上川あや, 2007, 『変えてゆく勇気―「性同一性障害」の私から』, 岩波新書
日本性教育協会, 2007, 『「若者の性」白書: 第6回青少年の性行動全国調査報告』, 小学館
井上章一, 1999, 『愛の空間』, 角川書店
ゼミ論
野沢信司, 1995, 「パーソナルネットワークのなかの夫婦関係」, 松本康編 『膨張するネットワーク』, 勁草書房, 175-233
Knoke, David and Song Young, 2008, Social Network Analysis Second Edition, London: SAGE
厚生労働省, 2012, 『平成24年度 厚生労働白書』
松田茂樹, 2008, 『何が育児を支えるのか』, 勁草書房
安田雪, 1997, 『ネットワーク分析』, 新曜社
Fischer, Claude S., 1982, To Dwell among Friends: Personal Networks in Town and City, University Of Chicago Press (=2002, 松本康 前田尚子訳, 『友人のあいだで暮らす北カリフォルニアのパーソナル・ネットワーク』, 未來社 )
天童睦子・高橋均, 2011, 「子育てする父親の主体化ー父親向け育児・教育雑誌に見る育児戦略と言説ー」, 家族社会学研究 23(2), 65-76
實川慎子・砂上史子, 2012, 「就労する母親の「ママ友」関係の形成と展開」, 千葉大学教育学部紀要 60, 183-190
立山徳子, 2010, 「都市度別にみた世帯内ネットワークと子育て 都心・郊外・村落間の比較検討」, 家族社会学研究, 22(1), 77-88
元森絵里子, 2003, 「「自主保育」の意味と現在ーしんぽれん調査報告ー」, 相関社会科学 13, 57-63
岩間 暁子,2008, 『女性の就業と家族のゆくえ : 格差社会のなかの変容』東京大学出版会
篠塚英子・永瀬伸子,2008,『少子化とエコノミー パネル調査で描く東アジア』 作品社
由井義通編著, 2012, 『女性就業と生活空間』, 明石書店
本田ゼミ
Goffman, Erving, 1959, The Presentation of Self in Everyday Life, University of Edinburgh Social Sciences Research Centre, Anchor Books edition (=1974, 石黒毅訳『行為と演技――日常生活における自己呈示』, 誠信書房)
伊藤亜人, 1993, 「東アジアの社会と儒教」, 溝口雄三編『交錯するアジア』, 東京大学出版会, 53-76
聶莉莉, 1994, 「中国農民社会における儒教の影響の実態─東北地方の実地調査に基づいて─」,国立民族学博物館研究報告 19(1), 61-94
イ・ヒャンジン, 2008, 『韓流の社会学 ファンダム,家族,異文化交流』,岩波書店,107-164
Gray, Jonathan Gray, Cornel Sandvoss, and C. Lee Harrington eds., Fandom: Identities and Communities in a Mediated World, New York University Press, 1-16
藤原法子, 2008 , 『トランスローカル・コミュニティ』, ハーベスト社
Mintz, Steven, 2006 Huck's RaftA History of American Childhood, Harvard University Press
September 9, 2012
ゼミ合宿を終えて part1
9月8日と9日の二日間に渡り,所属しているゼミの合宿に参加してきた.
合宿会場となった河口湖近くのホテルには新宿発の高速バスで向かう.渋滞でやや遅れたものの,バス以外の手段でアクセスした人も合流して,予定通りの時間にホテルに到着することができた.
駅の写真.
到着後すぐに演習室へ向かいゼミが始まる.今回は3,4年生のゼミ論及び卒論の構想が発表される.
初日は8人、二日目は5人.一人持ち時間は30分で,15分の報告と15分の議論,というルールを守った人は半分にも満たなかったが(´・ω・`),ほぼ予定通りで進めることができた.
今回の合宿で特徴的だったのは,発表がパワポ形式になったこと.作る際は先行研究のまとめをパワポにする難しさに四苦八苦したが,発表を聞いている側からすると,パワポの方が分かりやすかった.少なくとも,議論が錯綜しないように一直線で構想を作ることができた人にとっては最適だったと思う.
報告→議論の流れは夏学期も徹底されていたけれども,個人的には慣れるまで時間がかかっていた.当初は先生がすぐコメントをして,それが全体の8割を占める.残りの時間で,数名の生徒が簡単にコメントするという形式に適応することができなかった.それは単に自分がコメントしたいというエゴが先行していたと今になって思うのだが,小綺麗に言えばどの発表にも真剣にコメントしたいという意図だったので,苦しむ時期は短くなかった.
最終的に,個人的に先生と話し合った結果,時間を厳守した上で生徒が始めにコメントし,先生はその後という形式に落ち着く.これが自分にはしっくり来て,今回の合宿では二ヶ月ぶりのゼミだったのにも関わらず,最初から違和感なくとけ込めることができた.
構想発表を聞いての感想は最後にするとして,初日のゼミが終わると夕食へと向かう.会場はホテルと合宿地の中間みたいな施設で,学生や団体客が多かった.条例で20時以降に外で騒ぐことが禁止されていたため花火ができなかったのは想定外だったが,それ以外は本当に楽しい時間を過ごすことができた.
なんか,事実を羅列している無味乾燥な文章にしか見えないのだが,当の本人は合宿の出来事を思い出しながらウキウキ(`・ω・´)って感じで書いているのです.
夕食の一枚.これなら特定されないだろうからいいだろうか。。。
9時過ぎからコンパになる.なぜこのゼミが楽しいかと言う理由にもなるのだが,個々の学生のパーソナリティが面白いということ以外に,先生と生徒の距離が非常に近いことが考えられる.(なんでこんなえらそうな書き方なんだろう...
発表でも先生は本当に真剣にコメントしてくれる.自分でも要求している水準は高いと言っていた.ゼミが始まった4月は何を言っているのか意味が分からないところもあったが,今回の合宿では先生の発言に込められる要求水準はかなり高いことがよく分かった.どうして分かるかという話は置いておいて,「そのテーマ面白いねガンバって」では済まされないのは参加した人はみんな感じたと思う.ただ,こうすればいいよ,という隣に寄り添う形のコメントでもない.表現として最もしっくり来るのは,対等な関係から自分の意見を言う,というところだろうか.そのやり方は自分の研究方針と合わないとか,その領域ではこんな研究がされているとか,本当に対等な目線で指導してくれる.先生本人は教授職に就いた直後は「先生」と呼ばれることに違和感を感じていたらしいが,その考え方は発言からもよく分かる.変な上下関係が嫌いなのだろう.そのかわり,コメントの水準は学生に理解可能な範囲で非常に高い水準になっている.
このように,教授は教育者というよりかは,研究者としての視点からコメントをしてくれる.感じ方は人それぞれだと思うが,自分も変な上下関係に固執するよりも,もっと柔軟な関係を築いた方がお互いのためになると考えているので,好感を持っている.
コンパも24時まで参加してくださった.学生の話にも積極的に入ってくれて,まあ,これは単におしゃべりが好きなんだろうと思う(笑)
普段から偉そうにしていることから生じる不利益は感じているのだが,つまりコンパももっと本音を話せれば良かったのだが,そんな年でもない,そんな関係でもないとか色々逃げてしまう.自分の意見といいつつ評論家っぽいねとか,もっとはっきりいいなよという指摘は本当に正しいと思うのだが,あんまりそういう形でコミュニケーションできる人ではなくなりました,残念.同輩はそんな自分を受け入れてくれるので大好きです.
二日目に5人が発表して,観光する間もなくバスに乗る.きつきつのスケジュールだったが,その分密度の濃い充実した合宿となりました.めでたしめでたし.項を改めて,個人的な反省については著したいと思います.
September 5, 2012
『貨幣の哲学』第二章レジュメ
第一回研究会 2012年9月5日 於 総合図書館演習室
Simmel, Georg, 1858-1918, et al. 1989. Philosophie Des Geldes / Georg
Simmel ; Herausgegeben Von David P. Frisby Und Klaus Christian Köhnke .
Frankfurt am Main: Suhrkamp. (=Simmel Georg, 1858-1918・居安 正(1928-),1999, 『貨幣の哲学 / ジンメル [著] ; 居安正訳』白水社.)第二章 貨幣の実体価値(110-201)
一
■貨幣の固有価値と価値の測定 110-113
貨幣の機能:価値の測定と交換と表示
この機能を果たすために,貨幣は実体として価値を持つのか,それとも単なる記号や象徴なのか.(110)
貨幣が諸価値物と比較されうる→貨幣は価値質を欠くことができない(111)
but, 貨幣の実体価値でさえ,機能価値に他ならない(157)
事物同士に質的な同等性がなくとも,その間に恒常的な関係が成立していれば,規定は可能(112)
総商品量aと総貨幣量bのある商品における対応関係が分かれば,貨幣そのものが価値であるか否かとは無関係に対象の価値を測定できる(113)
■測定の問題 113-118
測定の相対性(113) 貨幣一般と商品一般を直ちに対応させる傾向=素朴に表現された等価(114)
商品nと貨幣単位a(個)の等式(115)=暫定的で粗雑で図式的(114)
価値同士の同等化は等式ではなく比例(116)
■有効な貨幣の量 118-123
露国の貨幣使用の例→貨幣在高の容積がどれほどでも,貨幣の職務をなす限り「貨幣」のままである(118)
商品と貨幣の回転率の差による不均衡(商品の流通速度の方が遅いことから生じる不均衡?)(118-119)
に対する説明→①商品は「可能的」説 ②価値演算において貨幣の価値が果たす役割は少ない(119)
→ある期間における処分された貨幣量と売買された商品量は同等であるといえる(120)[1]
価格は「適切」か?→客体と貨幣一般の相互関係という公理は証明できない(規範的にならざるを得ない)→ペシミズムの例,販売客体と貨幣価格もこの部類に入る?→でも経済的な宇宙を形成しているので商品の価格は「適切」(121-122)[2]
■貨幣は固有の価値を持っているのか?[3] 123-128
価値測定の機能に貨幣の固有価値は強制されない
無価値なものによる価値系列の完成は,個人の発達した知性と集団の安定した組織を必要とする(124)
貨幣がその素材から見て直接に価値があると感じられなければ交換手段として使用されなかった(125)
しかし,紙幣や様々な信用の形式と金属貨幣の交替replacementにより,貨幣の性格に反作用が生じる→貨幣の機能価値は実体価値を凌駕する(126)
(具体例は省略)
■純粋に象徴的な貨幣の性格の発展 128-136
人類の最も大きな進歩の一つ:二つの量が第三の量quantityに関係し,この二つの関係relationsが等しいかどうかによって,二つの量の関係proportionを確定させたこと(128-129)
現代の経済における移行の始まり=重商主義
→転換点としての洞察:産業と市場の振興のためには,実体的な価値形態(としての貨幣)ではなく,労働の直接の生産物が必要である.(130)
貨幣の文化傾向への順応(131)
文化の特徴:関心を持つ対象への直接的な関係,象徴の媒介の存在(131) 象徴の文化社会学的な解説は省略
低い生活段階では力の浪費に終わった象徴主義も, より高度の段階では事物を支配する合目的性に寄与する(133)
現実の質的な規定を量的に還元→貨幣の可能性は「精神的な偉業」(134)
第二次的な象徴が可能になるのは,細かな事柄の介入を必要としないほどに精神が独立するときのみ(135-136)
「象徴はその領域の決定的な実在との実質的な関係をますます失い,たんなるmerely象徴となる」(136)
二
■貨幣実体の非貨幣的な使用という否定 136-141
貨幣の独断的な価値の拒否から貨幣の無価値という独断に陥る危険(137)
貨幣の価値がその実体の価値において成立する=実体の価値があるのは,この実体がまさに貨幣の価値ではない質や力の中にある.(137[4])
客体のもつ機能可能性を排除してはじめて貨幣としての機能が実現される(138)
とはいえ,貨幣素材の貨幣としての価値は,その機能のために素材が放棄する利用可能性に規定される(140)
■単なる象徴としての貨幣に対する第一の意見141-146
貨幣がなくとも価値物に到達できるのでは?(前提:貨幣は貨幣機能以外に固有の価値を持たない)(141)
→貨幣独特の価値=交換機能を明らかにする.「要するに貨幣は,人間と人間との関係の,彼らの相互依存の,一方の欲望の満足をつねに相互に他方に依存させる相対性の,表現と手段である」(142)
■単なる象徴としての貨幣に対する第二の意見 146-149
貨幣の交換機能と測定機能も貨幣の量の限界=希少性と結びつく(146)
希少性による①「悪循環」と②「信頼」(149)→貨幣の象徴性に疑問符をつける
①貨幣量の分母増加に対する分子の適応の遅さ,増加に制限のある貨幣実体と紙幣発行の不一致による混乱(147)
②貴金属の貨幣製造に対する限界性が人々の信頼を集める (147)
■貨幣の供給149-153
無制限な貨幣増加の有害さは,貨幣増加そのものではなく,配分の仕方に起因する
貨幣増加は個人の文化内容を増加させたとしても,他方で個人の相互関係は変わらない(150)
このような結果は貨幣増加それ自体ではなく,配分の仕方による作用であるから(150), 貨幣増加がそれまで存在していた比率で諸価値を高めるという考えは誤っている.(151)
■現実と純粋な概念153-157
貨幣は,事物の価値側面を純粋な抽象において表現しない場合にその職務をもっともよく果たす(153)
貨幣の機能性の追求の結果,貨幣の実体としての価値が放棄されることを長々と説明してくれている(´・ω・`)
それでも,貨幣の実質価値が交換機能の拠り所である限り,前者は常に存在しなくてはいけない(156)
三
■実体から機能へ至る貨幣の発展の歴史158-159
他の客体との相互作用によってのみ貨幣は価値あるものに「なる」,実体価値でさえ機能価値である(158)
中世:実体>作用,近代:作用としての実体,信用経済:実体の排除(159)
■社会的相互作用と個々の構造への結晶化159-163/貨幣政策163-165
外的関係と内的関係の齟齬,一般的な経済状態と貨幣経済という形式の不適合(160)
貨幣実体の解消を準備するもの:社会的相互作用の安定性と信頼性,経済圏の堅固さ(161)
貨幣の経済的エネルギーを高める貸付=知的な相互作用は安定した精巧な社会制度のもとでのみ可能(162)
→貨幣の性質はますます純粋に現れ,貨幣形式の外面にまで影響を及ぼす(162)
※貨幣政策については省略する.
■社会的相互作用と交換関係:貨幣の機能 165-172
貨幣の社会学的性格:純粋な形式としての個人間の相互作用(165)
「交換の機能,個人の間の直接的な交互作用は貨幣とともに独立に存在する構成体へと結晶化する」(166)
交換は社会化であり,その存続は諸個人の総計を社会的な集団の一つとする,社会はこれらの関係の総計(166)
貨幣は人々の交換の間の化身,純粋な機能の実体化である(168)
金属貨幣の信用前提:①貨幣の品位の吟味は例外的 ②受け取られた貨幣は同じ価値として支出される(170)
→人間の相互の信頼がなければ社会は崩壊する(170-171)
■経済圏の性格と貨幣にとってのその重要性 172-177
抽象的に見れば,貨幣の継続的利用可能性の保証は全く存在しない(172)
それでも,保証は総体の支配者が金属片の刻印あるいは紙切れへの捺印によって引き受けるもの(173)
貨幣は通用すべき件が広ければ広い程,通貨の価値は高くなくてはならない[5](173)
商業空間の拡張は交換手段の実体価値を全く除去,つまり振替と手形発送による決済へと導く(175)
国家一般への支払い能力への信頼という中央集権化の中で,ある人の財産は貨幣により評価されることで,個人としての信用を持つことができる.価値の背後は客観的な規定でなく国家or個別人格のみが保証人となる(177)
■貨幣の一般的な機能的性格への移行 177-185
貨幣鋳造の歴史と経済圏の拡大についての説明が長いので省略(*≧ω≦)ノ<※*・:*:`♪:*:。*・☆*
君主による鋳貨改悪は貨幣の金属価値に対する貨幣価値を明らかにする(182)
「貨幣は無価値であればあるほど,ますます価値多きものになる」(183)
■実体としての貨幣の重大さの減少185-201
貨幣と金属の結合が安定性を保証したとしても,実体の条件からくる同様は避けられず,実体は排除される(186)
実際の支払いに使われない貨幣,特に観念的な尺度が価値評価に用いられる時,貨幣の実在性は否定される(187)
実体的な固定性から代理物としての貨幣が発展すると,価値は流動性するようになる(188-189)
価値の流通が促進すると,貨幣の実体と機能の関係も発展する.(189)
一方が他方を活発にする(189), 信用が正貨を無用にする(190)は矛盾しない
取引増大による貨幣実体の増加に代わり貨幣流通速度が増すと,実体としての貨幣は極僅かでもよい(190-191)
事物の価値は貨幣に圧縮され,貨幣価値の中で無差別に構成する諸部分は実際には存在しない統一体となる(192)
これと並行して,個性の解放と大国家への拡大が生じる.(194)
貨幣流通速度の上昇に伴う個々の価値低下と全体価値の上昇は分業体制を思い出させる(196)
最後に,再び貨幣の実体から交換機能への発展過程を「無価値化」と解釈する見方に注意を喚起している(197)
近代の自然主義的精神を批判しつつ,社会の普遍的かつ非抽象的な性格を述べる(200-201)
【コメント】
・
ジンメルの信頼論について
第二章においても,ところどころで信頼についての記述が見られる.レジュメを確認する限り,最初に登場するのは146-からの貨幣の象徴性に対する否定的見解のところである.ここでは,信頼は貨幣の希少性と結びついていることにより貨幣自体に固有の価値があることを示唆している.(147-149) 次に登場するのが159-で述べられている,実体としての貨幣を消滅させる意味での相互作用としての信頼性である.安定的な経済圏においては,相互作用に信頼が生まれ,それは実体としての貨幣を必要としない.170-では二種類の信頼が確認できる.ともに金属貨幣に関係する信頼で,一つは貨幣を発行する政府や価値を確定する人々への信頼であり,もう一つは価値が継続することに対する経済圏への信頼である.こうした「二重の信頼」が貨幣流通を成り立たせると言ってよいだろう.177-は前者の信頼について述べていると思われる.
以上より,貨幣を巡る信頼は三つに分けることができる.一つは貨幣の希少性としての金属貨幣への信頼である.これ自体は実体貨幣が流通している経済圏においてのみ言及できる限定的なものだろう.二つ目は,貨幣を「もっぱら通用するもの」としての貨幣たらんとさせる政府や人々への信頼である.三つ目は,そのようにして成立した経済圏自体への信頼と言えよう.
三上(2008)はジンメルの信頼論を整理しているが(下記参照),そこで述べられている信頼は上記の二点目と三点目であり,貨幣の希少性自体に対する信頼は抜け落ちている.逆に言えば,貨幣自体に対する信頼は一時点的なものであり,高度な貨幣経済を成り立たせる他の信頼に比べれば二次的なのかもしれない.しかし,現代においては紙幣や電子マネーを中心とした貨幣経済が成立している一方で金塊の需要は一定程度あるように思われる.恐らく,貨幣経済が破綻した後でも価値を持つと考えるのであろうから,貨幣自体に信頼を置いているのだろう.ジンメルの信頼論には知識と無知の間にある「信頼Vertrauen」とそうした二項対立の彼方にある「信仰Glaube」に分けられる.(三上, 2008, 6)この区分によれば,貨幣自体への信頼は信仰と言えるだろう.
【参考文献】
Simmel, Georg, 1858-1918, David P. (David Patrick) Frisby 1944-, and Tom
Bottomore. 2004. The Philosophy of Money / Georg Simmel ; Edited by David
Frisby ; Translated by Tom Bottomore and David Frisby from a First Draft by
Kaethe Mengelberg . London ; New York, N.Y.: Routledge.
Kamolnick, Paul. 2001. "Simmel's Legacy for Contemporary Value
Theory: A Critical Assessment." Sociological Theory 19 (1):65.
岡沢 憲一郎,2004, 『ゲオルク・ジンメルの思索 : 社会学と哲学』文化書房博文社.
早川 洋行・菅野 仁,2008, 『ジンメル社会学を学ぶ人のために』世界思想社.
三上 剛史,2008, 「信頼論の構造と変容 : ジンメル、ギデンズ、ルーマン : リスクと信頼と監視」『国際文化学研究 : 神戸大学国際文化学部紀要』31: 1*-23*.
土井 文博,2003, 「G.ジンメルの形式社会学とE.ゴフマンの社会学 : 儀礼行為分析のための方法論的模索」『社会関係研究』9(2): 165.
川口 慎二・Kawaguchi Shinji・カワグチ シンジ,2007, 「「貨幣の二重の役割」について:ジンメル『貨幣の哲学』の根本問題」『広島経済大学創立四十周年記念論文集』: 1-25.
[3] 123ページ2段落目で「これまでの推論の全体は,貨幣が現実に価値であるか否かの問題にはけっしてふれず」と書いてあるが,122ページ末にきちんと「貨幣価格はいかなる価値をまったく必要とせず」と書いてるやんけと思ったが,貨幣価値を必要とするかの議論と実際に貨幣に価値があるかどうかの議論は違うことを書いてて思った.
[4] 日本語訳が不明瞭なので,当該箇所の英訳を記載する.If it is clamed that the value of money
consists in the value of its material, this means that its value is embodied in
the qualities or powers of the substance which are not those of money.
(137=163)