June 16, 2025

本の審査員をした(正直な)感想

 私が所属しているアメリカ社会学会には「セクション」というものがあり、毎年、セクションごとに選挙があったり、学会のセッションもセクションがオーガナイズしています。

セクションの一つの機能が顕彰、つまり論文や著作を審査して、優れたものにアワードをあげるというものです。私も、人口社会学セクションなどで院生論文賞をもらったことがあります。

今年はアメリカ社会学会のとあるセクションのブックアワードの審査をしていました。結論からいうと、単著を書いたことがない自分が審査する資格はないなと思ったのですが、素人なりにどういう本が面白かったのか、少し書いておこうと思います。

コンテクストをいうと、私が審査を担当したセクションは「アジア」というざっくりしたもので、何かしらアジアに関わる著作であれば、提出資格がありました(アジア系アメリカ人に関する著作は別のアワードが用意されているので、国や社会としての「アジア」が範疇です)。

テーマではなく地域で定義されているセクションなので、提出された本も千差万別と言った感じでした。具体的にどういう本が提出されたのかは書けませんが、アジアに関する、英語で2023年から今年にかけて出版された本が対象です。社会学者ではない人が書いた本も結構あり、個人的には審査に困りました。結果的に、「社会学的な示唆(果たしてそんなものが本当に定義できるのかは置いておくとして)」がないものは、審査から外す、あるいは審査されても評価は低くなりました。

この辺りは足切りラインなので、本題は社会学者の書いた本をどう審査するかです。セクションの性格も関わってくるので、少々真面目に書きます。

基本的に、社会学の著作は一つの社会を対象にしたものが多いです。例えば中国の社会運動、など。そのため、ほぼ必然的に「アジア」という大きな括りをしているセクションと、地域的な境界が一致しなくなります。言って終えば、中国研究者ではないけどアジアセクションにいる一社会学者として、私は「中国以外のアジアにおける社会運動に対してどういう示唆があるのか」を考えました。もちろん、アジアという括りを外して、社会運動研究全般への示唆を基準にしてもいいのですが、そうすると社会学者の専門家ではない自分が本当にそんな視点で審査できるのか、という問題が生じてしまいますので、今回は「アジア」一般への示唆を考慮しました。

そういう視点で著作を読むと、驚くほど多くの研究が「一般」的な示唆、あるいは他の社会と「比較」して何が言えるのか、という点について、検討が足りないことに気づきます。もちろん、こういう論点はないものねだりというか、本人たちは(例えば)中国の社会運動において重要とされている問題を、それこそ10年以上かけて検討してきた集大成を出しているわけなので、そういう著作を目の前にして「日本の社会運動に対して何が言えるの?」というツッコミはいじわるな気がします。しかし、繰り返すように中国の社会運動の専門家ではない私からすると、そういう視点で読まざる得ないわけです。著作の評価と賞に値するものかというのはイコールではないので、個人的にはいろんな視点から審査されても良いと思います。

提出された著作は、どれも前者の視点で見れば一流あるいは超一流の成果だと思いますが、「超一流」の著作は、やはり他の社会にも通じる論点を意図的あるいは非意図的に書かれていることが常でした。繰り返すようにこれはないものねだりなのですが、著作を並べてみると、違いに愕然とすらします。

May 27, 2025

トロントでの学会

 先日まで、カナダのトロントで開かれた日本研究の学会(というには小さいワークショップ)に参加してきました。トロント大学日本研究所の主催です。旅費を補助してもらい、ありがたかったです。

オーガナイザーが政治学者ということもあり、参加者の8割くらいが政治学者でした。私が現在所属しているウェザーヘッド国際問題研究所も、政治学者が中心的な役割を占めており、この一年は、体感としては今までで一番、政治学の人と接触した気がします。 

政治学者は自分の守備領域をしっかり意識している人が多い気がします。例えば、自分はcomparativistでpolitical representationを日本を事例にやってる、みたいな。

自分の場合でいうと、「社会人口学で結婚行動を日本を事例にみている」という感じでしょうか。とはいえ、結婚行動をみてても、先行要因として女性の教育や就業パターンにも注目したりしますし、政治学の方がサブフィールドのサブも境界線がはっきりしてる気がします。

日本研究の学会なので、今回は理論なしでスライドを作ったのですが、政治学の皆さんのスライドはきちんと理論から入っていて恥ずかしくなりました。分野外の人には、話がややこしくなるから除いたのですが、政治学の理論をわかりやすく説明している人の発表はすぐ内容が入ってきましたし、自分も、社会学にいない人にもわかるような理論の説明を心がけるべきだと思いました。また、理論を通じて日本という事例をより面白く見せることができるよう、心がけたいなと思いました(PhD一年目の学生みたいな感想)。

もう一つの洞察は、例えばrepresentation ではgenderはかなり蓄積しててもう新しい研究でなさそう、raceはまだ盛り上がってる、ageは最近ホットになりつつあるみたいに、参加者は自分の分野流行りもしっかり意識してる人が多くて、トップジャーナルちゃんと読まねば…と再びPhD一年目並みの感想を持ってしまいました。 

自分の場合、流行を意識しながら日本をみる、というアプローチではなく、日本をみることで流行っていない研究を流行らせたい、といったマインドで研究してる気がします。だからトップジャーナルには載らずに、カウント稼ぎみたいなことしかできていないのかもしれません。

まあ、自分のテイストは別として、理論への貢献がトップジャーナルへの必要条件だと思うので、日本を事例にする時は、自分はどのように理論に貢献しようとしているのだろうか,という点をまたしっかり考えたいです。

トロント大学キャンパス
トロント大学キャンパス


March 4, 2025

アカデミアは無償労働の玉手箱

 アカデミアは無償労働の玉手箱みたいなところがあり、サービスという名の下、金銭的対価のない仕事が大量に降ってくる業界です。私の元指導教員は、いつも誰かのテニュアレターを書いていました。シニアではない私もいっぱしの「サービス」はしていて、その最たる例は査読です。業界で定評のあるジャーナルであれば、投稿したことがなくとも基本的に断らずに査読するようにしていますが、最近は負担が増えてきたので、そろそろ断ろうかと思っています。

目に見える対価が発生しない業界なので、ビジネスライクになることが難しく、代わりにウェットな人間関係の中で互酬性の規範が発生しやすくなります。要するに、X先生には昔お世話になったので、その周りにいるYさんからのお願いは断らない、みたいな世界観です。

私も最低限は社会化されているので、村の掟には従います。したがって、知り合いの紹介によって生じる「仕事」は基本的に断らないようにしています(サービスはこの業界では仕事なので、知り合いの研究者からの依頼は「仕事」の一つです)。

人からの紹介に社会的な統制機能があることを知ってかはわかりませんが、先生の紹介で日本から学部生の方がわざわざボストンまで私を訪ねに来てくれる機会に、最近何度か恵まれました(正確には、私を訪ねにボストンまで来たわけは全くなく、ボストンまで来たついでに現地にいる人間として私に会いに来たという表現が適切)。

ご足労いただいたので、こちらも時間を作って会いますが、蓋を開けてみると聞かれるのは「どうやって英語を勉強されたのですか」「アメリカの博士課程に入るのは難しいですか」「そもそもなんで留学されたんですか」などです。

口が開いたまま答えに窮してしまうのは、私の心が狭いからなのでしょうか。やはり、ここは威勢の良い留学一年目の私に気分だけでも戻って、なにか気の利いたことを言えばよいのでしょうか。あるいはこれはアイスブレーク的な質問で、本質めいた質問はあとから来るのでしょうか。

個人的には、こういった質問は、大学を卒業してしばらく経った人に「大学に入るためにどうやって勉強したのですか」と聞くようなものだと思います。私もまだ若く見られていることに感謝すべきなのかもしれません。きっと私も若いときにはされた側からすれば「なんで今の私にそんなこと聞くの」と思われるような質問を数え切れないほどしたと思うので、因果応報なのかもしれませんが、これから一見して目的がわからない面会の連絡は断ったほうがいいのかもしれないなと思い始めました。

とはいっても、向こうからしたら特にメリットのないインタビューをたくさんしているわけでもあるので、こういうのも何かしらの還元だと思って引き受けたほうがいいのかもしれません。年を取れば自然とこうした連絡はなくなると思いますが。

February 3, 2025

近況

 先週の話になりますが、所属するHarvard Academyにて自分の研究を報告してきました。

私のポストは、2年間好きなように研究していればいいだけの福祉みたいなポスドクなのですが、唯一仕事があり、それが在任期間中に一度、自分の研究についてプレゼンするというものです。

普通のプレゼンであれば別に困らないのですが、Harvard Academyの伝統で、なぜか報告ではスライドは使用不可、配っていいのは5ページまでのハンドアウトのみ。これは通称「サロンスタイル」と呼ばれていて、Harvard Academyの伝統になっています。サロンスタイルなので、本当にサロンのように、周りが私の話に耳を傾ける、というスタイルなのです。

この時点で学歴エリート気取りが過ぎますが、その前後もちょっと普通の研究報告とは異なります。まず、会場はハーバードの懇親会が開かれるような、高級なホール。さらにトークは6時から始まるのですが、5時半から受付が始まり、その間は「レセプション」があります。お酒や軽食をつまみながら、参加者が世間話をするんですね。

6時から30分話して、30分質疑応答なので、トーク自体はそこまでの量にはなりません。ただ、スライドなしは不安で、アメリカに戻ってから2週間、ろくに英語を話してなかったこともあり、ノンネイティブにはちときつかったのですが、なんとか終えました。

これで終了、と思いきや、その後に待っているのは「ディナー」。約30名弱の人が招待されているのですが、7−8人が一つのテーブルにアサインされて、フレンチっぽいコースメニューを食べます。学歴貴族、ここに極まれり。ネットワーキングの機会ですね。

というわけで、個人的には報告だけでいいじゃん、と思うのですが、ひとまず無事終わりました。ジョブディスクリプション的には、このプレゼンだけで2年間の待遇が与えられるので、本当に貴重なポスドクの機会をいただけたと思います。

私の方で4人までゲストを招待できたので、ハーバードでお世話になっている人を誘いました。ダメ元でクラウディア・ゴールディンさんに招待状を送ったら本当にいらしてしまい、緊張度マックス(自業自得ですが)。ハーバードのポスドクが決まってから、知り合い経由で日本の難関大進学のジェンダー差について知りたいということで、メールをくれて、そこで一度やり取りをしていました。対面でしっかり話したのは初めてで、それも含めて良い機会になりました。


ディナーで一緒だった人と記念撮影

January 16, 2025

今年の抱負

今年の抱負を、と考えていたらいつの間にか今年の1/24終わってました。抱負というか目標ですが

1. 仕事を得る
選んだのは自分なので文句は言えませんが、ポスドクの任期が切れる来年には露頭に迷う可能性がリアルにあるので、時折そのことが頭によぎると、怖くなります。基本的にアメリカで就活をして、香港ほか英語圏を見ていくことになると思いますが、日本帰国を視野に入れるかが一つの問題で、先日日本に一時帰国をして、もう少し外から日本を見ていたい気になりました。

(冗談みたいに聞こえますが真剣に考えている話として)アメリカでアカデミアの仕事が取れなかったら、豆腐レストランを始めたいと考えています。豆腐はサラダにも使えるし、メインでもいいし、デザートにもなるし、下手したら麺にもなるので、万能です。ベジタリアン、ビーガンの人でも食べられるので、都市部の高学歴層には絶対ウケると思っています。味のいい豆腐を作るのがボトルネックだと思うのですが、それさえクリアできれば寿司、ラーメンに続く日本食第3の波を起こせる気がします、豆腐です、豆腐。結局アメリカといってもどこでもいいというわけではなく、東海岸あるいは中西部の都市、はっきり言えばボストンに住み続けたいので、そこに特化するのであれば豆腐レストランもアリじゃない?と真面目に考えています。豆腐作りを甘く見るな、というオチかもしれませんが。

2. 第二次人口転換の枠組みで東アジアの少子化を捉え直す
ここ最近は、もっぱら「日本の結婚」から「東アジアの少子化」に軸足を移しています。東アジアの少子化でもニッチなマーケットですが、人口学の大きな理論にチャレンジしようと思った時に、日本に当てはまることは東アジアにも当てはまるので、自分の研究の中では大風呂敷を広げることにしました。東アジアの少子化は、大きく分けて労働市場の変化と性別分業の二つが有力な説明だったのですが、どちらもstructuralな説明だということに昨年の後半くらいに気づきました。これに対して第二次人口転換は価値観変動に焦点を置いた説明で、東アジアの少子化を考える上ではフィットが悪いというのが定説なのですが、私の研究アジェンダでは、東アジアの少子化を理解する上で、価値観の役割を改めて俎上に上げることを目的にしています。このアジェンダに連なる論文がいくつかあり、そのうち一つはトップジャーナル向けです。関連して、少子化政策関連のサーベイ実験プロジェクトをいくつか走らせています。

夏以降には、「親密性」の概念に着目して、日英比較のインタビュー調査を始める予定です。ざっくりいうと、日本では友人のパートナーを知らなくても何も問題はないけど、欧米では友人のパートナーを知るのがノルム、そういった親密性をめぐる文化差があります。さらに都市部では日本や東アジアはシングルに対して非常に寛容なので、「一人で生きる」ことへのハードルが低いわけです。したがって、個人主義的な価値観が広まると、カップル文化が強い欧米ではパートナーはいるけど子どもを持たない人が増えるわけですが、カップル文化が強くない日本や東アジアでは、パートナーを持たないシングルが増えることで少子化になると考えています。この話はすでに山田昌弘先生が新書でエビデンスを出さずに長いこと議論されていましたので、私たちのプロジェクトはエビデンスを与える作業と言って差し支えないと思います。この「親密性をめぐる考えの日欧(米)比較」は、酒飲みトークとしては秀逸ですごく盛り上がるので、アカデミアの職が取れなかった豆腐レストランでこの話をすることにします。

もともとの関心だった「日本の結婚」の部分は、格差に焦点を置いて中公新書から「日本の家族格差」というタイトルで今年の出版を目指しています(5章構成で現在4章まで書きました)。

並行して同類婚の分析も細々続けていて、香港の同僚と進めているペーパーはトップジャーナルを狙っています。関連して日本の子育てにおける格差についても、この2年研究会をオンラインで組織していて、成果本を勁草書房から今年の後半に出す予定です。

3. 高校生の進路選択とジェンダーに関する本の出版契約を取り付ける
この数年、進学校の高校生にインタビューをしていました。関心があるのは男女の進路選択がなぜ、どのように分かれるのかです。共同研究の成果は今夏に大月書店から編著本で出る予定です。個人の研究としては、アメリカの大学出版会から出版契約をもらえたらいいなと思っています。インタビューの分析から、男女の進路選択の違いが、よくわかりました。従来だと、女性の方が浪人しない、親のバイアスがある、女性は偏差値より手に職、みたいな説明がなされてきて、それらは個別に重要な説明ですが、実際に進路を選択するかたりを見ていると、男性の進路選択は「偏差値が高ければ高いほどいい、自分で決めていいと思っている」モデルで、女性の進路選択は「偏差値も大事だけど、やりたいこと、将来の仕事、大学の魅力、家から通えるか、全て大切、そして周りにその選択を納得してもらいたい」モデルだと思います。男性の場合は「行くべき大学」の基準が均質的で、均質的なので男子はみな似たようなロジックで偏差値の高い大学を希望しがちですが、女子の場合は「いくべき大学」の基準が複層的で、単一の基準がないので、その選択が正当なものであることを周りから認めてもらうプロセスが加わります。だから親は介入しやすくなるし、女子の友達からきいの目で見られるような選択はしたくないように見えます。

そうして高校生に話を聞くうちに、入試制度の話に首を突っ込むことになり、現在は入試制度とジェンダーの関係、あるいは入試制度それ自体により注目した研究をを走らせています。雑誌の世界に関連する話を書いたあと、岩波新書の編集者の方から連絡をもらって、入試制度と公平性に関する新書を書くことになり、それも来年以降に始めたいと思っています。

並行して、手に職希望で表されるような女性に典型的な進路選択の要因と帰結、男女の専攻や職域の分離の趨勢、あるいはそもそも職業希望ってどういう意味?みたいな論文を共著で進めています。

4. アメリカにおけるアジア系の社会人口学的分析を進める
ひょんなことからこの領域に足を踏み入れてしまったのですが、アジア系はアメリカでは非常に教育達成が高く、政治的なセンシティブさをはらみながらモデルマイノリティと呼ばれたりしています。私の関心は、その背景にある家族の安定性で、要するにアジア系の人はその他の人種エスニシティの人に比べて離婚しないのです。現在進めているプロジェクトは、それがなぜかを明らかにしたいと考えています。ポテンシャルには、これもトップジャーナルを狙えるものが一つあります。今年はその論文を投稿するのと、あとはもう少し移民のコンテクストでアメリカのアジア系を理解したいと考えていて、具体的にはアジアにいるアジア系とアメリカにいるアジア系の家族形成パターンを比較したいと思っています。

結局いろいろ進めているのですが、トップジャーナルを狙えそうな論文が3本あり、それを優先的に進めつつ共著の論文や日本語の新書と編著本2冊の執筆、あとは職探しをする予定です。

January 14, 2025

小さな世界の二人の巨匠

 アメリカの社会学において、日本という対象はニッチである。その中でも少子化に絞ると、さらにニッチになる。もちろん、人口学では、日本を含む東アジアの少子化はホットなトピックである。

アメリカで日本の少子化の専門家をしてる巨匠は、私の認識では2人いる。一人はハーバードにいて、最近リタイアした。もう一人はプリンストンにいて、私の師匠である。

いま、友人でもう一人の巨匠を指導教員に持った人と論文を書いている。特集論文で、彼が日韓比較をしたいということで、連絡してきてくれた。

彼との共著で学ぶことはたくさんあるのだが、その一つに、巨匠たちが注目してたポイントの違いを感じることができたということがある。

ざっくりいうと、私の指導教員は少子化を考える上で結婚の役割を強調する。日本を含む東アジアの少子化は、基本的に結婚の遅れと減少がカギになるというのが、彼の考えである。この主張は全くもって正しい。例外は中国だろうが、中国は最近発展してきた国であり、その他の東アジア(日本、韓国、台湾、および香港やシンガポールも広義の東アジアである)は、どれも経済的に高所得である。これらの国では、結婚が重要と考える。

一方で、もう一人の巨匠の方は、結婚よりも(追加)出生自体に注目する。具体的には、職場環境が夫婦の分業にどのように影響するのか、あるいは分業を通じて、労働市場の変数が夫婦の追加出生力にどのように影響するのか、そういったことに関心がある。

東アジアでは結婚せずに子どもを持つ人が少なく、結婚は出生の前提条件である。したがって、結婚を飛ばして出生に向かうのは必ずしも首肯しない時はある。その意味で、私も師匠の考えに影響されているのかもしれない。

ともあれ、ひとまず巨匠同士のニュアンスの違いはそこにあるのだと改めて思った。そういうニュアンスの違いは話してたりして感じていたことではあったけれど、今は共著の形で論文に違いが現れているのが面白いところである。

プリンストンの巨匠は、結婚を見れば少子化はだいたいわかると考える。これに対して、ハーバードの巨匠は結婚だけではわからない少子化の要因に着目している。両方間違っていない、見てるポイントの違いである。そうした視点の違いは、弟子に受け継がれている。

January 6, 2025

socialization as a colonizing process

 セミナートークで偶然香港に居合わせたところ、ホストの先生に声をかけられて某学会の国際化ワークショップに出席。いわゆる「国際」学会での経験をシェアするもので、最初は学会報告までの準備といった話からスタートしたのですが、どうしてか途中から学会発表云々の話を飛び越えて、なぜ権力関係を孕む共著ばかり書いているのかと問いただされる、スパイシーな経験をしました。

という話は置いておくとして、こういった「国際化」系イベント学会で念頭に置かれるのは、アメリカに基盤を置く学会と、各国のnational associationを束ねるような「世界」学会の二種類があるように思います。

私は個人的に学会はそれぞれ固有の楽しみ方があると思っています。それぞれの学会で、得られるものが微妙に違うので、そのあたりを意識しながら、参加する学会を選ぶことも大切なのではないかと考えています。もちろん、学会の雰囲気は行ってみないとわからないので、最初は味見気分で参加して、合う合わないを考えます。

そして、どうして楽しみ方に多様性が出るか考えると、各学会に固有の文化や規範があるからだと思うのです。例えばASAはセクション活動が盛んなので、ASAという傘の中に小さなミニ学会がたくさんあるイメージです。それぞれのセクションに文化があり、各参加者が複数のセクションに所属し、ネットワーキングをしながら、ASAという巨大な生態系を構成しています。これに対してセクション文化がないPAAには、ASAのような「ムラ社会」感はなく、よくも悪くもさっぱりしていてビジネスライクです。ムラで集まって会合をする時間の代わりに、クオリティの高い発表が並びます。

これに対して、私はいわゆる本物の国際学会、つまり「世界」系学会は、文化が薄いと思います。ISAの定期的な大会も、毎年開かれるものでもないので、参加者もレギュラーの人はどうしても少なくなり、様々なRCの寄せ集めみたいになりがちです。

「濃い」文化を持つ学会のほうが、合わないものも多いですが、合う学会に出会えることも多いです。これは言い換えると、自分にとってフィットの良い学会が、万人に好かれるわけではないということを意味していると思います。

そういう目線で、こういった国際化系イベントを見ると、結局言えるのは薄味の「国際学会出てみましょう」といった話になりがちです。それは極めて表層的なわけです。そして、その結果としてISAの年次イベントに行ったとしても、薄い文化の学会から得られるのは薄い経験になりがちだと思います。

であればもちろん、こういったイベントでも濃い文化の学会が持つ文化や規範について話してもいいわけです。そういったローカルルールを知っておくと、アブストだったりも通しやすくなるかもしれません。しかし、それは固有の話になりすぎるきらいがあるのと、中身について踏み込んでいくと、どうしても人間臭い話になり、それは時として植民地的でもあるわけです。

例えば、ASAについての「実情」を話すと、どうしてもアメリカ中心的な学会運営に触れざるを得なくなります。それを棚上げにして「ASAで口頭報告を通すにはどうすればいいか」という話をしても、薄口にならざるを得ません。ですが、実情を話すとアメリカ社会学会=国際学会というぼんやりとした想定が妄想であることに気づかざるを得ないわけです。

実際のところ、各国のXX社会学会は多かれ少なかれ自国を中心においた社会学が展開されていると思いますが、そういった点についてdebunking mythをしていくと、結局のところ何が「国際学会」なのか、そんなものは一体あるのかという問題にならざるを得ません。もちろん、ISAは「国際」学会ではありますが、ISAには学会をユニークにするような文化が弱いのです。

アメリカ社会学会のノルムを話しすぎると、相手をcolonizationの渦の中に取り込むことになってしまい、ノルムに全く触れないと表層的な「国際学会に行ってみよう」トークになり、中身がなくなると同時に、ある種の嘘を言ってしまうことになります。ASAは極端ですが、ASAと同種の問題はPAAにも当てはまります。そもそも、毎年アメリカとカナダでしか開かれない学会が国際学会であるわけがないのです。